秋とはいえ、フィローネの暑苦しい風に頬を撫でられると、じんわりと汗がにじむ。勇気の泉に姫様が入られてから、すでに二時が経過していた。それでもまだ、背中で感じる気配には動きが無い。
崩れて木々の苗床となった石造りの遺跡たちは、多雨林のざわめく声を吸い込んでしまう。俺は遺跡の入り口から少し離れたところ石の地面に、カツンとマスターソードの鏢を打ち付けた。自分の秘かな苛立ちもまた、崩れた遺跡が吸い込んでくれたらいいのにと溜息を甘んじて飲む。
温暖なフィローネの気候とはいえ、長時間に及ぶ泉での修行は体を芯から冷やしてしまう。早く泉から上がっていただきたい、しかし修行を中断などさせられるはずもなく。相も変わらず、自分は無力なものだと曇天を見上げた時だった。
「リンク」
声が。
「はい?」
真後ろに。
「ひめ……さま?」
全く気配がしなかった。なのに姫様が、ゼルダ様が俺の真後ろに立っていた。
そのまま軽やかに姫様の素足が一つ、トンと石の地面を蹴る。ふわりと体が遠ざかる。飛び退るように姫様の姿が、蛇を模した泉の入り口の遺跡の中に吸い込まれていく。
「姫様!」
一瞬、妖精のようだと見呆けてしまった。慌てて頭を振って、鞘を鷲掴んで走る。なんだ? どういうことだ? 何が起こっている?
苔むした暗い通路で姫様はほほ笑まれて、手招きされていた。
「いかがなさいましたか」
声に出して様子を見ながらも、自分の目に映るこれが姫様ではない気がした。ずっと泉に浸かっていたはずなのに白い巫女服の裾は乾いていて、足元は礫ばかりなのにサンダルを履かれていない。得体のしれない物が化けているのだろうかと柄に手をやる。
でもふわりと漂う甘い香りも、透き通るお声もお姿も、よく知るハイラル王家のただ一人の王女その人だった。
こいつは一体。
「誰だ……?」
決して悪しき気配はしなかった。にもかかわらず剣を抜こうとしたのは、自分には頼るべき力がそれだけしかなかったから。鞘走る手を抑えられず、半ばまで抜いた時、姫様の形をしたその気配は、もう一度ほほ笑んだ。
「リンク、鬼ごっこをしましょう」
「おに、ごっこ……?」
何をおっしゃるのか問おうと口を開きかけたのだが、ぐっと視野が歪んで俺は問うべき相手を見失った。
次の瞬間、ハイラル城の暗い廊下に居た。
「え……?」
ぽかんと辺りを見回す。先ほどまで確かにフィローネに居たはずだ。ところが、今感じられるのは城の中の雑然とした空気。下働きの者たちがたくさんの洗濯物をもって行きかう、城の中でもだいぶ下層の廊下だった。
汗と雨とを吸った湿っぽい英傑の服ではなく、さっぱりと乾いた近衛兵の服に袖を通して、俺は通路のど真ん中に立ち尽くしている。下働きたちは俺の姿には目もくれず、忙しそうに行きかっていた。
「これは、幻覚……?」
だとしたらあれは精霊か妖精か、あるいは化け物の類かもしれない。ならば姫様の形で現れたことを後悔させてやらねば。
その者の姿は、ぐねぐねと曲がる廊下の向こうの方にあった。
「リンク、こちらです」
今度はロイヤルブルーのドレス姿の姫様だった。
見たこともない柔らかな笑顔で身を翻すと、下働きの間を縫うように走り去っていく。
「すまない退いてくれ、急いでるんだ!」
なんだこれ。なんだろう、これは確かに鬼ごっこだ。逃げる人を追いかける遊び。子供の遊び。
そんなもの付き合おうという気はないのに、逃げる姫様の姿をした何者かを追ううちに意図せず相手の要求を飲んでいる。相手の術中にはまったようで嫌な気分だ。
俺の方など見向きもしない下働きたちをかき分けて、暗い廊下を駆け抜けていく姫様の後ろ姿を追う。等間隔に灯された頼りない松明の灯りの廊下に、金の御髪が揺らめいて逃げていく。コツコツとヒールの音がするので決して逃げるのが速い訳ではないのに、まるで追い付ける気がしなかった。
城勤めとはいえ、下々が寝起きする城の最下部の廊下のことなど、姫様はご存じないはず。それなのに逃げるその人は勝手知ったる庭のように逃げていく。
早く捕まえて正体を暴かなければと焦りが募り、つい下女を強く押し退けてしまった。大量のシーツが暗い廊下に崩れ落ちる。
「あぁ、すまない!」
こんな時に、一体何をやっているんだ俺は。
慌ててシーツをかき集めて下女の籠に押し込んでやる。
「やはりあなたは優しいですね」
顔を上げた下女は、稀な翡翠色の瞳を温かくきらめかせていた。姫様だった。
もはやこれが尋常ではないと認めざるを得ない。
先ほどまでドレス姿で通路の奥へ逃げていたはずの姫様が、一瞬のうちに下女姿になって俺の目の前で使用済みシーツがこんもり入った籠を抱えている。
これは夢か幻か、あるいはそういったものを見せる魔物の仕業か。それにしたって、相手を捕まえてみないことには分からない。
腕を取ろうと手を伸ばす。相手は眼前に居るのだからそんな難しいことではない。ところが俺の手は虚しく空を掻いた。
「もう一度初めから」
逃したと思った次の瞬間、またしても視界が歪む。
「くっ……」
ぐわりと揺すぶられる頭を押さえて瞬きをする。やはり周囲は別の場所に切り替わっていた。
石畳を叩く多くの足音、楽隊の音楽に合わせて踊る楽しげな声、店先で客を呼び込み、道の左右に立ち並ぶ露店からのいい匂い、遠く城の方で上がる花火の音と路地裏の犬の喧嘩。
城下の青屋根の上を泳ぐ旗は萌黄色をしている。つまりこれは。
「……春の祭りだ」
さっきまで秋だったのに。
ここまでくれば、これが現実ではないことぐらい予想が付く。かといって夢にしては不思議と存在がしっかりとしていた。いつも着ているハイリアの服、袖がほつれそうだから繕わなければと思っていたところだった。そんな些末なところまで、現実に即してくるなんてただ者ではない。
「リンク! 早くしないとダンスが、花火が、終わってしまいますよ!」
今度の姫様は、すっかり町娘の姿をしていた。
胸の大きく開いたブラウスに袖なしの胴衣、それから浅葱色のロングスカート。前掛けエプロンのリボン結びは腰の左になっていて、堂々と未婚であることを主張されている。
これが俺の想像の産物だったとしても、そのお姿を誰かに見せるのは気が引けた。実際にあれが誰だったとしても、走り去る後ろ姿を見れば自然と手に力が入る。
「捕まえなければ」
悪戯好きの精霊か、幻を見せる魔物か、何者でもいい。捕まえれば分かる。
祭りに高揚する人をかき分け、シニヨンにまとめた金の髪を追いかけた。楽隊の音楽に合わせて姫様をした何者かは、時折楽しそうにターンをしながら走り抜けていく。まるで春風のようだった。
噴水の広場を駆け抜け、辻を曲がり、古びた石垣を乗り越えて。およそ姫様らしからぬ体さばきなのに、どうしてだか俺はその人が姫様に見えて仕方がない。
途中で何度も目を擦り、目を細め、全速力で彼女の曲がった角を覗き込む。そこはちょうど袋小路になっていた。
「観念してください」
それが誰であったとしても、よく見知ったお姿にきつい言葉を投げかけることには躊躇があった。早く捕まえて現実に戻らなければ、フィローネで本物の姫様がお待ちのはずだから。
今度こそ手首を握り、捕まえた。でもその偽物の姫様は、幾分申し訳なさそうに首を横に振る。
「ごめんなさいリンク、何度も付き合わせてしまって」
決して、本当に誓って、悪い気配は微塵も感じられない。かといってコログのような精霊の気配でもなかった。温かい血の通った女性の細い手首を俺は掴んでいる。
本当に存在している手ごたえはあるのに、まるで現実味がない姫様は長いまつ毛を震わせた。
「でもまだなのです」
「まだ?」
「まだ続くんです」
思わず、その顔に引き込まれてしまった。
まだ。まだ鬼ごっこがしたいのか、この方は。
こんな姫様は見たことが無い。でもだったら、俺は何度でもお相手しましょうと手を緩める。
「全て終わるまでお付き合いいたします」
「ごめんなさいリンク」
緩めた手から姫様の腕が逃げていく。覚悟をして一度強く目をつぶり、目を開ける。懐かしい故郷のハテノ村だった。どうしてこんな場所へと考えるよりも早く、坂を上っていく後ろ姿が見えた。
「リンク! 早くプルアのところへ行きましょう!」
待ってください、と追いかけようとして、姫様の長かった御髪が肩口まででバッサリと切られていることに息を飲んだ。いつ切られたのだろう。いやこれは現実ではない、何者かが見せている幻だ。
でも坂をずんずんと上がっていく後ろ姿に少なからず衝撃を受けた。何かがあったのだろう。慌てて慣れた坂道を駆け上がっていく。でもいくら足を動かしても、坂道を飛ぶように駆けていく姫様には追いつけない。
とうとう坂を上り切ったところまで俺は追いつけなかった。たぶん現実ではないから追いつけないのだろうが、これでは鬼ごっこにならない。鬼失格だ。
「申し訳ありません」
「いいえ。私は……、私が、いつも貴方を苦境に送り込んでしまうから」
シーカー族のマークが入った見知らぬ建物の前で、髪の短い姫様は振り向いた。知っているはずの人なのに、随分と遠くに見えた。
「だからまだなのです」
「まだ……」
息を整えながらゆっくりと瞬きをすると、次の場面は随分と目線が低かった。自分の手を開いたり握ったりして、随分とその手が柔らかなことに驚く。
「今度は子供?」
周りを見回しても人影はない城の裏手。水路を挟んだ向こう側に小さな排水口があって、それで分かった。姿は見えないけれど、あの向こう側に捕まえるべき人がいるのが分かった。
排水溝をくぐり抜けて、中庭の見張りの兵たちの目を掻い潜り、忍び込んだ先で姫様は小窓から城の中を伺っていた。子供の姿の俺と同じで、姫様も幼い姿だった。真剣そのものの後ろ姿に、なんだか少しだけ顔が綻んでしまう。これでは捕まえるのは容易い。
「姫様」
まるで俺に気が付いていなかったのか、ハッと振り向いた姫様は目も口も丸くしていた。
その瞳は青かった。
「あなたは、夢のお告げにあった森からの使者……?」
この方は俺の知る姫様ではない。でも姫様と同じ気配、とても懐かしい気がした。
「鬼ごっこは続きますか?」
中庭には花が咲いて、安穏とした空気が陽光に温められている。しかしガラス窓一枚隔てた城の中は、どことなく冷たく緊張している。嫌な気配だ。
「ごめんなさい、まだ続きます」
青い瞳の幼い姫様は口惜しそうにうつむく。でも俺は、姫様が続けるのだと言えばどこまでもお供する気でいた。これが本当の姫様ではなかったとしても、恐らくこれは何かの啓示なのだ。
「大丈夫です、必ず探しに参ります」
瞬きをして次の場面に映ると、今度は暗い螺旋階段だった。先ほどよりもさらに視線が低い。それどころか手足全部が階段に付いている、つまり四つん這い。
『なんだ、こ……声が出ない』
可笑しい。なんだろうこの違和感は、と思って松明にできた自分の影を見て驚いた。尖った耳と尻尾がある。
『犬? いや、狼か?』
左の前足に鎖で繋がれた名残があった。金属音を揺らしながら、暗い螺旋階段の廊下で匂いを嗅ぐ。すぐに上にいらっしゃると分かった。
四肢を動かして前に進む奇妙な感覚に首を傾げながら昇っていく。すぐに白いドレスの裾が見えた。
『姫様』
その姫様もまた、俺の知る姫様ではなかった。レイピアを片手に、悲痛な面持ちは俺の方を向かない。長い栗毛を揺らしながら姫様はで塔の上へと昇っていく。俺はひたすらその後ろ姿を追いかける。
無性に、お助けせねばという気持ちは湧くのに、狼の姿ではどうすればよいのか分からなかった。せめて剣が持てる動物ならばよかったのに、なぜ狼なのだろう。
塔の最上部の小部屋で、ようやく振り向いた姫様は沈んだ青い瞳で俺を見ていた。今にも泣き崩れそうだった。
声の出ないまま、目線で問いかける。
『鬼ごっこは続きますか?』
「ごめんなさいリンク、まだなの」
固い毛並みを姫様の細腕がかき抱く。これではどちらが鬼だか分からないなと小さく唸って瞼を閉じた。
頬に強い風を受けて目を開ける。次は空の上に浮かぶ島にいた。
「リンクー! はやくはやく!」
長い金の髪を揺らしながら姫様が大きく手を振っていた。行かなきゃ、と思って走り出した途端、姫様は桟橋からふわりと身を投げた。
「姫様!」
どうして笑顔で身投げなど、と目を見張ったがすぐさま意味を知る。青い巨大な鳥の背に乗った姫様が風に髪をなびかせてひらりと舞い上がった。
「散歩に行くんでしょう?」
俺の頭の上をぐるりと一周回って、姫様は天高く舞う。俺も付いて行かなければと思って、同じように桟橋から冷たい空気に身を投げた。
どうするんだっけ。……何かを呼ぶのだ、確か。
曖昧な感覚のまま馬を呼ぶみたいに指笛を鳴らすと、巨大な赤い鳥が俺を足元からすくい上げる。胴に巻いた手綱代わりのベルトを掴むと、赤い鳥は翼を畳んで急降下しながら姫様の青い鳥を追いかけた。
今度は本当に鬼ごっこだった。
走るのと違い、空は広い。くるりくるりと青い鳥を操って姫様は縦横無尽に逃げ回る。俺はその尾羽の描く軌跡を追いかけて、慣れない手つきで赤い鳥を操った。楽しかった。久々に大笑いした。
「鬼ごっこはまだ続きますか?」
青い鳥の尾羽に触れ、問いかける。もうだいぶ逃げ回ったと思うのだが、姫様は顔だけ振り向いて首を横に振った。
ドッと音がして、姫様の進行方向に黒い竜巻が立ち上る。
「姫様!」
「ごめんなさい、リンク」
姫様は、青い鳥から転げ落ちて竜巻に巻き込まれていく。くそっと舌打ちをしたくなるのを堪えて、赤い鳥の背を蹴って飛び降りた。絶対に捕まえてみせる。
ところが伸ばす手は、虚しく風しか掴まなかった。暗い空の底の方に、姫様の姿が小さく消えていく。
また追い付けなかった。
まだ続く。一体いつまで続くんだろう。
ゆっくりと空から舞い降りて瞼を開けた時、目の前に広がっていたのはフィローネの樹海だった。暑苦しい空気に、こめかみから汗が滴る。
「姫様」
白い衣が暗い木々の間に消えていく。
「姫様!」
今度こそ現実か、それとも未だに幻なのか、もはや判断する材料はない。ただ俺は姫様の鬼ごっこに、今度こそ追いつきたかった。我武者羅に木々をかき分けて、飛沫を上げながら森の中を走る。
「姫様ッ」
終着点はやはり勇気の泉の入り口だった。割れ落ちた遺跡の柱の高いところ座り、姫様は優雅にほほ笑まれていた。
「もう捕まえてもよろしいですか」
瞳は俺の知っている翡翠色をしている。でも面影はどことなく違った。どの姫様とも違う、それでいてこれはゼルダ様であると分かる。頼りない陽炎のよう。
頼りなく風に揺れる素足を持って、さて、どうするべきかと固まった。
「リンク、ごめんなさい」
その方は悔いをいっぱいに浮かべて俺を見ていた。
でも姫様が謝られることなど一切ない。もしあるとすれば、それは俺を頼らなかった時だ。
「構いません。俺はそのために在るのだから」
持ち上げた白い足の冷たさに、わずかに逡巡する。しかし確信を持って、すべらかな足の甲に顔を近づけた。姫様であれば、すでに自分の主なのだから構うものか。頭がぼうっと熱く煮えたぎっていた。
「リンク!」
「はい」
「リンク……!!」
あと少し、ほんのあと指一つ分で唇が触れるところで、目が覚めた。悲鳴にも似た姫様の声に意識が引き戻される。
確かに俺は姫様の右足を持っていた。
でも場所は泉の外に張った天幕の中。姫様は簡易椅子に腰かけられていて、俺は桶に汲んだ綺麗な水で姫様の足を洗っているところだった。
本来、主人の足を洗うのは下仕えの中でもかなり身分の低い者が行うことだ。だが森の奥深くまで下仕えを共に連れ歩くことが出来ないので、姫様の身繕いの出来る限りは俺がすることになっている。決して騎士の身分の者が行う仕事ではないが、それ自体に疑問を抱いたことはない。
だが目の前の焦った主の顔を見れば、職務からは逸脱したことをしているのは明白だった。
「リンク、それはなりません」
未だに俺は、自分の顔の吐息のかかる距離に姫様の足を持ち上げていた。危なくもう一息で、触れる位置にあった。
「足への口付けの意味を知らない貴方ではないでしょう」
足の甲への口付けは隷属、爪先は崇拝、足の裏へは忠誠。
知っていた。知っていて、俺は白昼夢の中で、あの姫様の形をした何者かの足の甲に口付けをしようと無意識に体を動かしていたのだ。ゾッとする。目が覚めて良かった、姫様の声が俺を引き戻してくれた。
――あれは、女神の気まぐれ、か……?
一連のことを思い出して冷や汗が噴き出して戦慄したが、同時にふつふつと怒りも湧いてくる。そこまでして勇者の決心を確かめたいのかと腹が立った。
女神に隷属する気はさらさらない。もし主として上に立たれるとすれば、この方以外には何人たりとも許すつもりはなかった。女神と言えども認めたくない。
だからこそ、今、血の通った本物の姫様の足から手を離したくはなかった。
「お許しを頂けますか」
「なりません」
「なぜですか」
「隣に立って欲しいの。ひれ伏してほしいのではなく」
その答えが返ってくるのは十分に予想していた。姫様のお気持ちに気が付かないわけではない。傍に居て欲しいと望まれればそのように振舞う。しかし内心では、恐れ多いことには固辞したいと身をよじりたくなる衝動を抑えていたし、尚も姫様の望みどおりに動く体は最早自分の意思とは別のところから操られているのかとさえ思うこともある。
それでも俺は、自分の全てが、己で決めたことであって欲しいと願う。
「俺がここにいるのは役割に縛られているからではありません」
「何を、言って……?」
「でも女神との鬼ごっこはまだ続くのです。だからせめて今生だけは、自分が姫様の物であると憶える機会をください」
上辺ではいくらでも女神を讃えよう、だが心まで明け渡すつもりはない。
答えを待たず、足の甲に一つ口付けを落とす。「駄目です!」と慌てた足が藻掻くが、せっかく掴んだ。離すつもりはない。
雨の跳ね返りと泉の底の砂泥で、未だ洗われていない右足は泥と枯葉が張り付いていた。だが、それが良かった。まだしも人らしいその足が、俺は好きだった。
「女神のしもべになりたいわけではないのです。お許しください」
柔らかな足の甲に額を寄せる。甘い土と水の香りがした。
了