あとがきと言い訳+α - 2/2

 彼は実に多種多様な呼ばれ方をする。

 

「退魔の騎士殿」

「近衛騎士様」

「英傑殿」

 

 呼ぶ側にしてみればそれだけ彼が様々な地位や役割を持つことを意味しており、わざと嫌味ったらしい呼び方のひとつでもしてやりたくなるわけだ。だが呼ばれる彼にとっては、呼称など正直どうでもいい物だった。つまるところ、誰が呼ばれているのかが分かればよい。

 元々そういうことについてはさっぱりとした性格だったので、呼び方など些細なことと思って気にしてこなかった。

 ところが最近、彼に少々厄介な呼ばれ方が加わった。

 

けいは湿原の駐屯地へ配備する人員についてどうお考えになる?」

 

 先日の婚約式と同時に、平民だったリンクに与えられたのは爵位による呼び名だった。

 さすがに国を救った退魔の騎士と言えど、王女の夫君になる人物が無位無官は許されない。厄災との戦で各地を治める貴族の席が数多く空いたこともあり、彼が故郷の東ハテールを手中に収めることにはどこからも異論が出なかった。

 当然と言えば当然のこと。それはいい。

 

「アッカレ側にお任せした方が良いのでは。あそこはゾーラとの玄関口です、ゾーラとの事情に明るいアッカレの騎士に任せた方が心象がよいかと思います」

「なるほど、ならば卿の言う通りにしよう」

 

 適当に話を流しながら、軍議の最中にため息を隠す。

 つい昨日まで『騎士殿サー』だったはずが、ある日突然『卿』と呼ばれて度肝を抜かれた。まさか爵位の方で自分が呼ばれたとは思えず一瞬反応が遅れると、周囲の者はにんまりと笑う。

 

「いやはや、姫殿下のご婚約者殿ゆえ」

 

 ただ好いた相手が一国の王女だったが故の結果なのだが、リンクにとっては何とも歯がゆい呼び名になってしまっていた。二人の婚約が単なる論功行賞の結果ではないことを知っている者ほど、戯れにリンクを『婚約者殿』と呼ぶ。

 事実、二人の婚約を推し進めたのはもっぱら姫の方だ。彼自身は望んではならないと一時は身を引こうとさえしていたのだが、断固として姫が手を離さなかった。

 そんな事情もあったために、無礼だと怒ることではないと彼も分かっている。だが軽微な茶化しも度重なればそれなりの疲労になった。

 我知らず大きくため息を吐いたところを、ゼルダに見咎められる事態になった。

 

「大丈夫ですか?」

 

 ご機嫌伺いと称してゼルダの顔を見に行くことすら仕事のひとつになったリンクは、その日も彼女の私室でお茶の相手をしていた。

 三時、ゼルダが何に代えても死守してきたおやつ時だ。

 私室への入室が許可され、侍女たちもあまり強く目を光らせているわけではない。日の当たるテラスで二人向き合って、こっくりと甘いハチミツリンゴを食べる手が止まった。

 

「申し訳ありません、つい気が緩んでいたようです」

「ずっと気が張り詰めていては、いくらリンクでも疲れ切ってしまいます」

「いいえ、ゼルダ様の前でため息を吐くなんて失礼なことをしました」

 

 こんなことで怒るようなゼルダではないと分かっていて、それでもリンクはぺこりと頭を下げた。むしろその時、顔を見られたくなくて伏せた。

 確かに彼女と会っている時は心が穏やかになる。二人きりの時のゼルダは、リンクのことを名前以外で呼ぶことは無い。あの透き通る声で名を呼ばれるのが何よりも嬉しくて心地よい。

 一方で、気付くと今は何時なんどきだろうかと考えてしまう悪い癖がついていた。

 

――ゼルダ様のところへ逃げ込むな。

 

 気を抜くと楽な方へ流れようとする弱い自分に気が付いた時、彼の中で己を叱咤する鬼教官模範たれが鞭を振るい始めた。

 困ったことがあればもちろん彼女に相談はする、そういう約束をした。だがそれとこれとは別問題。己の心の弱さが原因だと、リンクはぐいっと前を向く。

 

「大丈夫です」

「無理をしないでくださいね。いきなり立場が変わったのだから、疲れるのは当たり前です」

「剣を抜いた時も、何の前触れもなく突然でしたから。ご心配には及びません」

 

 彼なりに、努めて明るく前向きな返事をしたつもりだった。

 だがゼルダは薄い不安の膜で、その華やかなかんばせを曇らせていた。

 それからしばらく経ったある日、昼を過ぎた辺りにふらりとインパが訪ねてきた。今日も今日とて忙しいはずの執政補佐官だが、何が楽しいのか満面の笑みだ。非常に怪しい。

 

「今日は少し早く来てほしいと言伝を頼まれました」

「お部屋に?」

 

 大きく頷くインパを前にして、リンクは真顔で首を傾げる。

 

「なぜです?」

「少し変わった趣向があるのだとか。行けば分かりますよ」

 

 彼女は何事か知っているようだが教えるつもりはなさそうだ。こういう時のニヤニヤ顔だけは、インパとプルアが確かに姉妹なのだと実感する。

 インパが黙っていることに少し苛立ちはするが、ゼルダが何か仕掛けを凝らしている方にリンクは惹かれた。こういう時にゼルダが考えることは、貴族子女の金にものを言わせた道楽とは一味違うことが多い。

 一体なんだろうと心躍るのを抑え、言われた通り少し早く部屋を訪れた。

 ところがいつも声を掛ける侍女の姿がない。

 

「あ、え……?」

 

 堂々と訪ねることが許されているとはいえ、立ち入りそのものはやはり侍女の導きが無ければ難しい。いつもならば歳のいった老練な侍女が待ち構えているはずなのだが、その姿はなかった。

 早めに訪ね過ぎたのかと一瞬思ったが、インパを通して『早めに』と言ってきたのは当のゼルダ本人だ。間違いではないはず。

 どうしたものかと廊下で辺りを見回していると、リンクの耳に飛び込んできたのは声だった。女性たちの明るい話し声、しかも若い。

 聞き覚えのある声に振り向くと、ゼルダの私室から遥かに遠い廊下を金の髪が横切っていくのが見えた。

 

「姫様?」

 

 一瞬のことだったが、曲がり角の向こうに消えたのは青いドレスの裾だった。隣を歩いていたのは数人の女性のうち、白くて髪も見えたので恐らくインパも一緒。

 姿は見えないが、女性達の楽しそうな声が廊下の向こう側からなおも響いていた。

 

「あれ?」

 

 リンクは慌ててゼルダの去った方向へ歩き始める。

 彼女はこの時間、通常ならばまだ執務室にいることが多い。だが執務室は彼女の私室の階下にあって、今歩いて行った方向とはまるで逆方向だ。

 走るほどの距離ではないが大股で急ぎ足に侍女を追い越し、角を曲がり、危うくぶつかりそうになった下女たちが顔を伏せた真横を通り抜ける。城の中はどこへ行っても人が多い。その人の隙間を縫うようにして、リンクは紺の近衛の衣を翻す。

 だが、追いついたと思った令嬢たちのドレスの中に青い衣は、一片たりとも見当たらなかった。

 

「おや、どうしたんですか? そんなに慌てて」

「いや、姫様がこちらにいらしたかと……」

「姫様? いいえ、こちらは大臣のお嬢様方です。ちょうどそこでお会いしたので、階下の大臣殿のお部屋までご一緒するところですが」

 

 アーモンド色をしたインパが目を丸くする。確かに彼女の隣にいたのは、青とは似ても似つかない淡い桜色のドレスを着たご令嬢だった。髪の色も金ではなく濃い胡桃色をしていて、王家のロイヤルブルーなどどこにもいない。

 

「あれ……?」

「一体何を見間違えてるんです?」

「確かにこちらに……いえ、申し訳ない」

「姫様ならお部屋にいらっしゃるはずです。と言うか、ほらあそこにいらっしゃるではありませんか」

 

 眉をひそめたインパが指をさした先、ガラス窓を二枚ほど隔てた向こう側に金の髪の揺れるのが見えた。位置的には先ほどリンクが居たあたりだ。

 

「あ、あれ?」

「何をボヤッとしてるんですか! 今日は早めにお尋ねするようにと伝えましたよね?」

 

 困惑する背中をインパに乱暴に叩かれる。

 確かにこちらへインパと共に歩いてきたと思ったのだが、どうやらリンクの見間違えだったらしい。

 失礼する、と一礼して慌てて踵を返す。令嬢とインパのくすくす笑いを背に受けながら、リンクは今歩いてきた廊下を戻り始めた。

 

「確かに姫様だと思ったんだけどな?」

 

 首を傾げながら軍靴を鳴らし、ゼルダが歩いていった方向へ駆け足になった。

 角を曲がって長い廊下を進み、突き当りで左右を見る。右も左も、どちらも人はいたが青いドレスも金の髪も見当たらない。流石に見間違えた時とは違い、インパの指差した先にいたのは間違いなくゼルダの横顔だった。

 

「階段を下りたのか」

 

 左右どちらにもそれらしい姿がないのを二度にわたって確認すると、リンクは一段飛ばしで階段を降り始める。

 ゼルダの金の髪は稀なものだ。高位貴族の中にも指折り数えるほどしか、同じ髪色を持っている人物はいないほど珍しい。それゆえハイラル城で腰まで伸びた長い金の髪と言えば、ゼルダ姫と言う暗黙の了解が城にはあった。誰も間違うことは無いし、誰も真似できない輝きだ。

 加えて自分の婚約者の後ろ姿を見誤るなど、なんだか妙な気分だとリンクは肩を落とす。

 

「俺、疲れてんのかな」

 

 階段が折よく無人だったのをよいことに、呟いた自身の言葉が身に染みた。

 確かに彼にして珍しく、疲れていることに自覚的だった。もちろん肉体的な疲労ではなく気疲れの方。最近輪をかけて気を抜く暇が無いからだった。

 爵位を与えられて以来、さすがに近衛騎士の寮に留まるのは難だと周囲から圧を掛けられて、城下にもらった屋敷に移った。だが大きい家の手入れには人が必要になる。今まで自分の世話は自分でやってきた彼にとっては、身支度一つに使用人が付きそう事態に困惑しっぱなしだった。

 だが品位のためだと諭されれば、なるほどそういうものだと納得するしかない。自宅のくせに帰っても何となく気の休まらず、広くて柔らかいベッドは寝心地自体は極上だが落ち着かない。

 しかしこのまま無事にゼルダの伴侶になれば、今の比ではない生活が待っている。

 

「慣れないといけないんだけどなぁ」

 

 カリカリと頭を掻きながら階下に降りると、上階と同じく構造の長い廊下が続いていた。だがその直線的な廊下のどちらにも、青と金のコントラストは見当たらない。

 追いかけ始めてから時間はさほど経ってはいないし、ドレス姿のゼルダに比べて確実に彼の方が歩みは速い。なのに見当たらない。

 

「と言うことは、外か」

 

 廊下を右に進んですぐのところに、城の中庭へと出る扉があった。

 一般的な貴族の令嬢なら付き人に手を引かれて静々と降りるような階段付きだが、何となればゼルダは一人で歩いて行ってしまうのを当のお付きだった彼は重々把握している。

 

「いやしかし、お付きの騎士は何をしているんだ」

 

 文句を言いながら重たい扉を押し開けて、日差しの元へ踏み出した。

 初夏の陽気にすでにリンゴの花は散り、誰が手入れをしているのか青い子房が膨らみ始めている。その木の下では山盛りの洗濯籠を持った洗濯女が、働きアリの様に忙しなく歩き回っていた。

 城は貴族や騎士などにとっては職場に過ぎないが、王族や王族に仕える者にとっては城が自宅だ。いずれリンクにとってもここが家となる。多くの人に囲まれる生活から度々逃げ出して温室で羽を伸ばすゼルダを思い出し、むず痒い思いにぶるりと体を震わせて再び中庭を歩き始めた。

 

「すまない、姫様がこちらへいらっしゃらなかったか?」

 

 すぐそばを通りかかった掃除婦を捕まえて、適当に声を掛けた。掃除婦はまず近衛兵の服を見て、次にリンクの背の剣を見て変な声を出しながら顔を伏せる。

 

「向こうへ歩いていかれました!」

 

 掃除婦に礼を言って歩き出しながら、リンクは再び首を傾げた。指さした先は訓練場へと繋がる小道だった。

 騎士である彼ならばともかく、騎士の訓練場などと言う場所はあまり姫君が訪ねる場所ではない。だが掃除婦は別に嘘をついていた様子はないので、間違いはないだろう。

 

「訓練場に用? もしやインパが言っていた趣向とやらの打ち合わせかな」

 

 今日は何か仕掛けがあると言うのはずっと引っかかっていた。ゼルダに会わないことにはどうしようもないと思って彼女を追いかけていたリンクだったが、ここへ来てはたと立ち止まる。

 ゼルダの不可解な動きはもしかして、その趣向とやらの準備ではないだろうか?

 

「ってことは追いつかない方がいい……? いや、でも来てほしいって言われたし」

 

 早めに来てほしいと言伝たのは他ならぬゼルダだ。

 再びゆっくりと歩き出すと遠目に青い衣が見つけた。やはり彼女が前方を歩いている。

 追いつくのを少しためらいそうになったが一本道だ、どう足掻いても訓練場で追いつくことができる。それにいまさら引き返して部屋へ向かうのも気が引けた。

 そのまま小道をたどり、下女が数人がかりで長い赤絨毯をパタパタ叩く横を素通りし、エイッヤァッと威勢の良い掛け声が聞こえる訓練場の戸口に立った。

 訓練場の中には幾人もの騎士が木剣を振るっている音が鳴り響いている。さて、そんな場所で顔を合わせて何といえばよいか。ただでさえ「姫様を追いかけてきた」などと言ったら、先輩騎士たちにかわれそうな状況だ。

 ところが扉の前で悩むリンクが取っ手に手を掛ける前に、扉の方が勢いよく開いた。

 

「お? 珍しいなこんな時間に」

「あれ、先輩?」

 

 同じ近衛の服の襟元を緩めた背の高い騎士が立っていた。灰茶の髪の隙間から、緑がかった灰色の目がリンクのことを見下ろしている。

 寮で元同室だった先輩近衛騎士が、不思議そうな顔をして立っていた。

 

「先輩こそ珍しいですね、訓練場に来てるなんて」

「この間の事件でだいぶ引っ張りだこにされたからな、憂さ晴らしを兼ねて運動しに来たところだ。で、リンク、お前こそ何の用だ。この時間はだいたい姫様のところだろう」

「その姫様を追いかけてここに来たんですよ」

 

 知っている間柄とはいえ、何となく苛立って言葉尻が強くなる。

 一方の先輩騎士は至極真面目な顔をしてリンクの顔を覗き込んでいた。

 

「お前何言ってんだ?」

「何言ってるって、だから姫様がこちらへ……」

「じゃああそこの歩廊を歩いているのはどこの誰だよ」

 

 先輩が指さすのに釣られて振り返る。そこには確かに背を追いかけていたはずのゼルダの姿があった。

 建物の二階の上部、塔と塔とを結ぶ歩廊の上を、金の髪が優雅に風に舞いながら遠ざかっていくではないか。

 

「え、ええ?」

「お前大丈夫か? ちゃんと寝られてるのか?」

「さすがに寝てますよ!」

 

 思わず目を擦り何度も瞬きしながら見上げたが、やはり見紛うことなくゼルダの姿だった。

 だがあの歩廊へ上がるには、建物の内部に入って階段を上がり、さらにもう一つ塔の螺旋階段を上がらなければたどり着けない。しかも建物へ入る一番近い入り口は、先ほどリンクが押し開けた重たい扉がある場所だ。

 

「すれ違った? どこで……?」

 

 まるで狐につままれたままリンクは走り出す。普通の人ならば混乱で体が固まってしまうところ、それでも走り出せるのだから大したものだ。後ろから先輩の「がんばれよー」という気の抜けた応援が聞こえていた。

 まさかドレス姿のまま壁をよじ登ったわけではないだろうし、そもそもゼルダは何とはなしに後ろ姿だけをわざとチラつかせながら歩いているようにも見えた。捕まえられるようで捕まえられない、あと一歩と言うところでサラリとかわされる。

 

「もし抜け道があるとしたらお手上げだけど、でもなんでこんなことするんだろう」

 

 それだけが追いかけるリンクにはさっぱり見当がつかなかった。

 どうにか姿を見られずにすれ違う術があったとして、ではなぜゼルダがそんなことをしているのか? と言うのが問題だ。すでに私室の近くと訓練場での二回、見事に行方をくらまされている。二度もこんなことが続けば、彼女が意図的にやっているのは明らかだった。

 

「もしかしてこれが趣向ってやつ?」

 

 まるで鬼ごっこ。逃げる鬼は随分と可愛らしいものだが、追いつこうにも不思議と追いつけない。これまでお付きの騎士として傍にいられたのは、彼女なりの『置いても良い』という判断だったことを今更ながらに理解して、リンクはひっそりと臍を噛んだ。

 本気で逃げ出したゼルダをハイラル城で追いつくのがこれほど難しいとは。

 

「でもそっちは行き止まりだ」

 

 螺旋階段を上り切り、西の塔へ。研究室へと続く歩廊をヒールが叩く音が聞こえた。

 どうやらゼルダは鬼ごっこを終わりにするつもりらしく、進んで西の塔の研究室へと姿を消す。当然、研究室には扉は一つ、他に出口は無い。

 中では一体どんな顔をした彼女が待っているのだろうか。笑っているのか、怒っているのか、この鬼ごっこの意味が分からないリンクには彼女の表情が上手く想像ができなかった。

 だから直接聞いてみるつもりでドアを押し開ける。

 

「姫様?」

 

 誰もいなかった。

 山積みになった資料の類と読み途中の本、香ばしい匂いがする乾燥試料と短い影を落とした羽ペン。

 でもそれだけ。

 人の姿はない。

 

「は……? いや、まて……?」

 

 研究室の内と外とを何度も見返す。だがそこにいるのはリンクただ一人だった。

 彼はその青い目で、確かに研究室にゼルダが入っていくのは見ていた。次こそ逃げられないようにと、ちゃんと彼女が研究室の扉を閉じるところまでちゃんと確認していた。

 にもかかわらず小さな研究室の中には誰もいない。

 まさかそんなはずはないと目を凝らしても、霧のように消えてしまったのか姿形どころか影もない。流石のリンクもこればかりは仰天して、しばらくその場で停止してしまった。

 本当に夢でも見たんだろうかと、頬をつねろうかと手が動く。

 その瞬間、コツンと軽い音がして正面の窓からドングリが一つ落ちてきた。コンコンコロリとドングリは跳ねて転がって彼の足元まで落ちて来る。

 それを拾いながら息を大きく吐き出した。

 

「なんだ、そういうことか」

 

 ドングリを握りしめて研究室の中へと踏み込む。どうやら幻の姫君の正体が見えた気がした。

 

「おい、コロ……」

「リンク!」

 

 グ、と言い終わる前に、背後を取られる。

 まさか自分が、と目を剥いたがもう遅い。ガバっと音を立てて飛びついてきたゼルダに押し倒されながら、寸でのところで体をひねる。なんとか彼女を抱き止めながら尻もちをついた。

 

「ゼルダ様?!」

「できました! リンクの背後、とれました!」

「え、ええぇ?」

 

 リンクの頭の中は大混乱だ。

 確かに研究室に入っていったゼルダだが、どうして背後から抱き付いて来るのか意味が分からない。一体どこに隠れていたのか、その前になんでこんなことになったのか、聞きたいことがたくさんあり過ぎて喉の奥で大渋滞を引き起こす。

 むぐぐと言葉が出かかったが、それもインパの高笑いにかき消された。

 

「大成功ですね姫様! 絶対にコログの仕業だと思って、怒鳴ろうと思ったでしょう!」

 

 正面の開いた窓から飛び込んできたのは、先ほど廊下で会ったインパだ。手の中にはまだ数個のドングリを持っていて、満面の笑みで尻もちをついたリンクを見ていた。

 

「騙したんですね……」

「リンクが姫様の言うことをちゃんと聞かないからですよ」

「一体なんのことですか」

「だってリンク、貴方相当疲れていますよね?」

 

 反論しようとするリンクに構わず、尻もちをついた拍子にずれていた近衛の制帽にゼルダは手を伸ばした。ひょいと制帽を取り上げると得意げに一本指でくるくると回して見せる。

 

「私の後ろ姿をずっと追いかけているつもりで、何度も見失ったでしょう?」

「あれは隠し扉とか、そういう」

「そんなものはありません。廊下でぶつかりそうになって顔を伏せた下女も、掃除婦たちが叩いている赤絨毯の背後も、そしてこの研究室の扉の陰も、リンクが見逃しただけです」

 

 ふふんと笑って見せたゼルダは、随分と自慢げに見えた。その顔を食い入るように見ながら、ええっとリンクは目を見開く。

 思わず口元に手をやってこの数分間に亘る追いかけっこを思い出してみたが、確かに最初ゼルダを見つけたと思った曲がり角ではぶつかりそうになった下女もいたし、訓練場へと続く小道では脇で絨毯を叩いていた。

 確かにそれはそうだが。

 

「いえ、それでも俺がただ疲れているだけで姫様の気配を見落とすなんて、まさか……」

 

 疲れと言っても単純な疲労の度合いだけならば、戦場を駆けていた時の方が疲労困憊していた。気の張り方が問題だと言われればそれまでだが、それでも戦場でゼルダのことを見失ったことも無い。

 それに人が多いとはいえ城でのゼルダは特別な存在だ。その気配は他の者たちとは一線を画すものがある。そんな人を見失うなんて、まさかそんな間抜けたことを自分がするなんて、とリンクは絶句してしまった。

 だがゼルダは「ちがうちがう」と首を横に振る。

 

「もちろん疲労だけで貴方が私を見失うはずはありません。摂取したのは、姫しずかを使ったしのび山菜焼きです!」

「しのび山菜や……え?」

「しのび山菜焼きです!」

 

 聞き慣れない料理の名前に、リンクは尻もちをついたまま言葉を反復する。

 そんな料理あっただろうか、あった気もするがあまり作った経験はない。というより今の話が正しければ、ゼルダはあれだけ大事に育てていたはずの姫しずかを食べたことになるのだが。

 彼女はようやくリンクの上から立ち上がって、不思議な顔をして冷たい床に座っている状態の彼に手を差し伸べた。

 

「実はシズカホタルを使ったしのび薬よりも、姫しずかを使ったしのび山菜焼きの方が、ずっと静穏効果が高いことが判明したのです!」

「は、はぁ……?」

「毎回リンクに会いに行くときに服用していたしのび薬では、どうしてもあなたに気配がバレてしまってずっと悔しかったのです。だから何としても静穏効果が高い薬を作ってリンクの背後を取りたかったのですが、薬よりも料理の方が効果が高いなんて本当に盲点でした!」

 

 目をキラキラと輝かせ、聞いてもいないのにぺらぺらと。

 それでも楽しそうにしているゼルダを見て、ここまで彼女を追いかけながら心の中でわだかまっていた物がふわりと消えていくようだった。何のことは無い、今日の姫君が催した一風変わった趣向とはこの鬼ごっこのことだったのだ。

 しかも目一杯してやられたリンクは、多少気恥ずかしくなる。さすがのゼルダの手腕に「お見事です」と苦笑するしかなかった。

 だが二人の背後で、余ったドングリをポイポイと窓の外に投げ捨てていたインパが、今度は首を傾げていた。

 

「でも姫様、栽培が可能になったとはいえ、あの姫しずかを食べる気になりましたね。そっちの方がまさかまさかですよ」

「俺もそれは思いました。まさかゼルダ様が姫しずかを食べてしまわれるなんて」

 

 姫しずかと言えば絶滅危惧種、他所のどこにでもまだ完全な育成は試みられていない。城の温室の一角が姫しずかの花園の様になっているが、ゼルダが大切に一粒ずつ種から育ててきたものだ。どうにか種を手に入れようとした貧乏貴族が盗みに入って以来、温室の出入り口には警備兵が常駐するようになったぐらいにまだ珍しい。

 そんな植物を、大事に育てていたゼルダ当人がまさか食べるなんて、誰も思っても見なかったことだった。

 

「姫しずかの効能を教えたのは私だよ。昔、サハスーラ平原にまだたくさん生えていた頃には、よく摘んで食べていたものさ」

 

 ゆわりと陽炎のような人影が研究室の戸口に立つ。

 だいぶ小さなその人の頭髪は真っ白だった。

 

「あなたは、姫様が軟禁されていた時の世話役の?!」

 

 ゼルダがダリアの毒殺疑惑を掛けられて部屋に軟禁されていた際、侍女の代わりに世話をしていた老女だった。あの時と変わらず、オルドラの角の様に鋭利な赤い瞳がぎらぎらとしている。

 元から得体のしれない雰囲気の老女だったが、ふと次の瞬間持っていた杖の先でゴンとインパの頭を叩いた。

 

「いたぁっ! なっ、なんでいきなり殴るんですか!」

「見た目に騙されよって、愚か者め! ローム陛下が、殺人容疑とは言え姫様の世話役に何の伝もない老婆を付けると思うたか!」

「ハイィ?!」

 

 インパが涙目で頭を抱えている隙に、老女は目の前でめりめりと顔の皮を剥ぐ。いや、正確には本来の顔の上に貼りつけた、別の老女の顔をはぎ取った。

 その顔を見てインパがヒィと悲鳴を上げた。

 

「お、お、おっお婆様?!」

「瞳も髪色も変えとらんのに、なぜ気付かんのじゃ!」

「え、だってお婆様はカカリコ村で……」

「リンク殿は気の張り過ぎじゃが、そなたは気を抜きすぎじゃ!」

 

 ポコンといい音がして、もう一度したたかに老婆の杖がインパの頭を打ち据えた。シーカー族の孫娘と祖母の壮絶なやり取りを、リンクとゼルダはただ口を噤んで見守るばかり。

 泣いて頭を抱えながら逃げ出そうとしたインパだったが、祖母にむんずと髪の結び目をひっつかまれ、もんどりを打ってあおむけに転がった。

 

「姫様、大変申し訳ありませんが孫娘に少々休暇を頂けますでしょうか。カカリコ村で今一度、根性を叩き直してやらねばなりません」

「姫様、だめです、お願い、忙しいからダメって言ってぇ……!」

 

 インパの悲痛な叫びと裏腹に、ゼルダはにこりと頷いた。それだけ老婆の勢いが凄まじく、また姫しずかの効能を教えてもらっただけの見返りだったのかもしれない。

 悲鳴を上げながらずるずると連れ去られるインパを見送って、リンクは呆然と研究室に残された。その手を横から握られてようやくハッとすると、ゼルダの翡翠色の瞳が心配そうに見上げていた。

 

「ねぇリンク、ずっと疲れが取れていないでしょう?」

「それは……」

 

 この期に及んで、いいえ、とはさすがに堪えられずに言い淀む。

 何もなければ彼も強がることはできただろう。だが実際に姫君に出し抜かれたとあれば騎士の名折れ、もう虚勢を張ることもできない。

 だがこんなことで気疲れしている場合でないのもまた事実だった。彼はいずれ、自分の立場というものに慣れなければならない。

 何と答えたら安心させられるか、言葉に詰まったリンクの頬にすっと手が伸びた。ゼルダは指先で、硬く強張った顔を揉み押すように確かめる。

 

「私と二人きりの時はあくびをしても、ため息をついてもいいんですよ」

「そんな失礼なこと」

「していいのです、だって私も貴方の傍でだけ羽を伸ばしているんですから。だからリンクも私の傍でだけは緊張を解くようにしてください。でないと身が持ちませんよ」

 

 生まれてからずっと大勢の者たちに囲まれた暮らしを強いられ、しかも無才と蔑まれながらこの城で暮らさねばならなかったゼルダの言葉は相応の重みがあった。耳ざとい彼女ならば、リンクが日ごろどんな風に呼ばれ、どんな人たちからどんな目で見られているかも全て知っているのだろう。

 かといってその全てにとやかく口を出すことも無く、疲弊して潰れる前にはちゃんと手を差し伸べてくれる。言うことを聞けとは何のことか、ようやく腑に落ちてリンクは目を伏せた。

 

「ご心配おかけして申し訳ありません」

「いいえ、分かってくれればいいの。私も騙してごめんなさいね、リンク」

 

 歩廊に誰もいなくなったのを確かめると、ゼルダは研究室の扉を閉めた。そして室内に戻ると、いつの間か運び込まれていたソファーに座る。

 

「今日は研究室で少しのんびりしましょう? そのためにソファーをね、運び込んだんです」

 

 にこり微笑むと、彼女は座ったままぽんぽんと膝を叩いた。

 ちゃんと座るところは二人分あるはずなのに、ゼルダが示したのはふっくらとした太ももの方。

 意図を察して、それでも理解するのがはばかられ、リンクは半歩下がる。気付けば耳が先まで熱くなっていた。

 

「あの……それは……」

「いわゆる膝枕と言うやつですね!」

「これはさすがに」

「命令です、今日ぐらいは言うことを聞きなさい。さぁ、さぁ!」

 

 当然、姫君は近衛の制帽を返してくれはしなかった。しっかりと自分の頭に帽子を乗せて、可愛らしく首を傾げて待っている。たぶん申し出を断ることは不可能で、彼としても彼女の申し出を無下にすることはできなかった。

 おずおずとゼルダの隣に腰を下ろし、そのまま体を横たえる。リンクの頭を支えたのは、得も言われぬ柔らかさだった。

 

「どうですか?!」

「やわらか、いです……」

 

 リンクの口の中で、それ以上の語彙はあっという間に蒸発してしまった。

 無性にいい匂いがして、心の臓は飛び出そうになる。こんなに煩い鼓動を聞いたのは生まれて初めてで、逆に緊張するのを隠してリンクは言葉をぐっと飲み込む。

 

「少し寝てくださいね。半時もしたら起こしてあげますから」

 

 まさかそんな不調法するわけにもいかないので、リンクは寝た振りをしようと瞼を閉じた。目を閉じて、息をゆっくり整える。それだけでも体は十分に休まるし、ゼルダを騙せるはずだった。

 だが気が付けば日はとっぷりと暮れて、当のゼルダまでソファーで眠りこけていたとは誰に予想できただろう?

 夕闇に紛れて慌てて戻る二人の姿をカラコロと誰かが笑う。

 仲睦まじい王女夫妻が祝福されるまで、わずかにあと一年の出来事であった。