幸せをもてなす人
彼と最初に会ったときのことはもちろん覚えているよ。
珍しいバイクに乗っている若者が村の入り口できょろきょろしていたから、道案内をしてあげようと思ったんだ。もちろん最終的にはうちの店で買い物をと思ったんだがね。
ところが彼ときたら、ハイラル王家最後の女王陛下のお墓はどこだと聞くわけだよ。ハイラル東部一のハテノ村とはいえ、もさすがにそんな大層なものはない。だが彼の目は本気だった。
どうやらシーカー族の知り合いがいるようだったから、丘の上のプルアばあさんのところを教えてあげたよ。そうしたらため息を吐きながらバイクに乗っていった。
で、気が付いたら村はずれのゼルダさんの家に転がり込んでいたってわけだ。
最初の頃は酷く思いつめた顔をしていたが、彼女と暮らし始めてからは随分と穏やかに笑っていることが増えたかな。まぁ訳ありなんだろうが、悪い青年ではないと思うよ。
大きくて柔らかなゼルダのおっぱいに顔を埋めて寝た振りをする。ほっそりとした指が俺の硬い髪をゆっくりと撫でた。気持ちのいい朝、本当に幸せ。
「起きて、リンク」
嫌だ。まだ寝ていたい。俺はまだ極上のふわふわを堪能していたい。
「リンク、起きてますよね?」
「……寝てます」
「ちょっと」
「ぐぅ」
「駄目です、起きないと遅刻しちゃいます」
ガバっと布団を剥がれて、俺は思わず体を固くする。ラネールから吹き下ろす冷たい風のおかげで、ハテノ村は夏場でも朝はひんやりとする。反射的にゼルダ温かい体を抱き込んだ。
「あとごふん……」
「おはようございます、ご飯にしましょ」
頬をぺちぺち叩かれるとどうしようもない。無情にも、俺の大好きな柔らかおっぱいは逃げて行った。あーあと髪をかき上げながら起き出す。大体これが毎朝の恒例行事だった。
ゼルダの家に転がり込んでから1か月。慣れない100年後の生活は驚きの連続だった。
大体から井戸から水をくむ必要が無い。蛇口というものをひねれば、どの家でもきれいな水が出てくるのを知った時には、驚いて少なくとも3歩は飛び退いた。おかげさまで家々に個別の風呂まである、なんて贅沢なんだろう。
しかも厠まで水で処理できるようになっていると知った日には、もうどうしていいのか分からなかった。回生の祠を出てすぐ、時の神殿で厠に行って流し損ねたのを思い出して、忘れる努力をしたのは記憶に新しい。
古代エネルギーを使った街灯が夜道を明るく照らしていた時には、もうランタンなんか必要ないと思った。ハイラル城下町(今でも城下町と呼ばれているそうだ)へ行けば、食べ物を冷やして保管する装置が、一般家庭にすらあるという。
厄災への備えに使っていた人的資源を、全て生活発展に向けた亡きゼルダ女王の政策の結果、100年間でハイラルの生活水準は飛躍的に向上していた。こうして生活してみて改めて思う。戦が無いというのはすごいことだ。
「じゃあ、お洗濯とお掃除お願いします」
「うん、あとでお弁当持っていくね」
手早く朝ごはんを済ませて支度をすると、ゼルダは丘の上にあるプルアの研究所に出勤していった。背伸びをして洗い物を始める。俺のやることと言えば大体掃除洗濯料理、主に家事全般。
と言っても、昔と違って井戸に冷たい水を汲みに行かなくてもいいので随分と楽だ。騎士の従卒として日の出前から雑務をこなしていた頃を思い出して、技術の進歩ってすごいなぁとため息を吐く。
掃除洗濯が終われば、ゼルダと自分のお弁当を作る。お弁当を届けて一緒に食べたら、ハテノ村の誰かから頼まれごとでもされていない限り、何もすることが無かったので鍛錬をしたり、遊びに来た子供がいたら遊んであげたり。
彼女が仕事に行かないときは一緒にエキスパの森へ行ってシカ狩りなんかもするけれど、食料は基本的には採らない、買ってくる生活。ものすごく平和で、そして暇だった。
「アラ、今日も甲斐甲斐しいワね」
「こんにちはサクラダさん」
ぺこりと頭を下げる相手は近所のサクラダ工務店のサクラダさん。ピンクのねじり鉢巻きを今日もびしっと決めて、見た目はちょっとアレな人だけどすごい腕のいい大工さんだ。
俺がゼルダの家に転がり込んですぐの頃、俺の顔を見るなり「ピンときたワ」と言って、なぜか勝手に真新しいダブルベッドを運び込んできた。一体何をどう察されたのかは知りたくないが、おかげさまで俺は毎晩のようにゼルダの柔らかい体を広いベッドで思う存分抱いている。ありがとうございますサクラダさん、足を向けては寝られない。
ゼルダも俺と生活するようになってから、ぽつぽつと昔のことを思い出すようになっていた。プルアによれば、ゼルダの記憶喪失は記憶そのものが失われたのではなく、記憶を頭の中で再生するためのきっかけが失われたようなものらしい。だから記憶を引き出すきっかけである俺本人が目の前にいることで、思い出せる記憶がどんどん増えていくだろうとのことだった。
悲しいことを思い出させるのは嫌だったけれど、ゼルダは大丈夫と言ってくれた。元の彼女を押し付けることになりやしないかと不安だったけれど、彼女は昔の記憶と今の経験をうまく擦り合わせていた。時々、昔の楽しかったことを2人で思い返して共有できるのがとても嬉しかった。
だからと言って、この生活は駄目だと分かっている。
「仕事……しないとな」
今順調なのは良い、昔を懐かしんで共有できるのもいい。でも生きていくのは明日なのだ。
ところが、ちょうどよく俺にできる仕事がなかなか見つからなかった。1か月の間にできるようになったことはと言えば、家事炊事ぐらい。
体を動かす仕事が良かったのでサクラダさんに雇ってもらえないか聞いたら、社是に則って駄目と断られた。社是ってなんだ。ひどい。
近所のアマリリさんやナギコさんが俺のことをヒモだと噂していることも、「働かない男はナシかな」と牧場のトコユさんが呟いたことも、宿屋に滞在している自称冒険家のワターゲンさんが胡散臭い冒険家仲間に引き込もうと躍起になっていることも。
全部知っている。
全部知っていはいるのだが、でもこんな俺ができるちょうどいい仕事が無かった。
「本当に、随分と寝坊し過ぎた」
染物の東風屋さんの前を通りながら、以前よりも増えた色の種類に目が奪われる。店先には夏用の薄布がいくつも掛かって、虹みたいになっていた。
何しろ常識が100年の間にまるで変ってしまっている。騎士などという生き物がすでに絶滅危惧種であると同時に、魔物が減ったせいで護衛業の仕事もほぼ無くなっていた。
剣の技術はどちらかと言えば競技的になりつつあり、軍縮が進んで軍には俺が新たに入り込む隙間はない。そもそもゼルダの傍を離れたくないので軍には入りたくなかったし、彼女からも危ないことはもうやめてほしいと言われていた。
回生の眠りから目覚めてまだ数か月。いまだ新しい世の中の常識が身につかないままで、結局俺はゼルダの家に転がり込んでただ家事を担当するだけになっていた。彼女を養いたいとまで厚顔なことは言わないが、せめてゼルダにぶら下がって生きていたくない。でも彼女は「もう少しのんびりしていいですよ」と甘やかす。
確かにプルアの研究所は珍しい薬などを取り扱うので実入りがよく、彼女の給金だけで俺たち2人が暮らしていくのには十分だ。真面目な性格は生まれ直してからも相変わらずで、あの歳ですでに家を持っているのに、さらに十分な蓄えがある。本当に、やっぱり変わらずそういうところは堅実すぎる。子供の頃の、互いの財布の太り具合を思い出して、ため息が漏れた。
「リンクは長いこと眠っていたんですから、もう少し世の中にのんびり体を慣らしてからにすればいいんですよ」
「とてもとても正論なんだけど……」
「それとも私とのんびり暮らすのは嫌ですか?」
まさか。嫌なわけがない。ぶんぶんと首を横に振った。
2人分のお弁当を持って研究所に行って、晴れた日はぼんやりと空を見上げながらお昼を食べる。こんな幸せなこと、以前は想像もできなかった。でも全然しっくりこない。
俺、こんな事してたら、そのうち頭からキノコが生えくる。
「俺にもできる仕事、なんかないかなぁ……」
泰平な青い空に白い雲がぽっかりと浮かぶ様を眺めながら呟く。
ゼルダと暮らし始めてから1か月。それがほとんど毎日のことになっていた。