バレンタインの媚薬

「チョコレートは媚薬として信じられていたんだ」

 そこから先、世界史の授業は一切耳に入ってこなかった。

 確か15世紀、大航海時代の話だった。スペイン、コンキスタドール、エルナン・コルテス。色々なカタカナの固有名詞が並び、アメリカ大陸に当時あったアステカ帝国を征服したのだという。

 でもそんな授業は右の耳から入って左の耳へと抜けていく。私の頭の中には全く残っていなかった。

 チョコレートは媚薬。

 終業を知らせる鐘の音が鳴り響く中、私の頭の中はいかにしてチョコを作るかでいっぱいになっていた。

 おりしも今日は2月13日。

 バレンタインの前日である。

 何を隠そう私には、ずっとずっと好きな人がいた。お隣のお兄さんだ。

 小学生の頃から3つ年上のお隣のお兄さんが大好きだった。優しくてカッコよくて、何より同学年の男子よりも大人だった。

 同じ高校に進みたくて必死に勉強した。でも私が入学するころにはお兄さんは大学生。1年も一緒の高校に通えないまま、現在私は高校2年。お兄さんは大学の2年生になっていた。

 だからこそのチョコレートだ。

 いや、もちろんチョコレートは食べたことがある。でもまさか誰かを好きになったことなどないし、バレンタインだって友チョコばっかりだから好きになる相手でもなかった。

 つまり含まれる媚薬成分は恐らく微量なのだろう。あるいは市販のチョコレートは機械で作っているから媚薬成分が働かなくなっているのかもしれない。

 うんそうだ、そうに違いない。

 だったら媚薬たっぷりのチョコを、我が手で作るまでだ。

 ぐっと財布を握りしめ、私は今日の朝まではまるで作る気が無かった製菓用品の売り場に立っていた。

 正直に言うと、私はあまり料理をする方ではない。友チョコは美味しとは思うけど、市販品の方が無難だと思ってしまう。私が作れるのはせいぜい、溶かして形を作り替えることぐらい。

 それでも作ろうと思うのならば、材料を混ぜ込むのも最低限がいい。下手にオリジナリティーを出そうと分量を変えると失敗するのも目に見えている。

 だから学校帰りの電車の中で、お料理初心者でも作れそうなチョコの動画を必死で探した。溶かして少し混ぜて固めるだけの、あとできるだけ火を使わない、それから上品で大人っぽく見えるチョコの作り方。

 見つけたのは生チョコだった。

 あんなに美味しいのに、どうやら生チョコとは溶かしたチョコに生クリームとラム酒を入れて固めるだけらしい。

 なんだ、意外と簡単じゃないのと私は家の近くのスーパーで材料を買い物カゴに放り込んだ。

 そして意気揚々とレジへ向かう。早く帰って作りたかった。

「あなた、高校生よね? これはお酒だから買えないよ」

「お菓子作りに必要なんですけど……」

「駄目なものは駄目なのよ、ごめんね」

 夕方の込み合うレジで、私はオバちゃんに阻止されていた。

 確かに動画の説明欄には『ラム酒』と書かれていて、それ以外の代用品は見つからない。どうしようかと肩を落とす。

 そこへ鶴の一声があった。

「あらアンタどうしたの?」

「お母さん……?!」

「お母さんが一緒なら買えるわ。よかったわねぇ」

 まさかまさかの、母が夕ご飯の買い物をしていた。

 母の買い物カゴの方へラム酒の瓶を突っ込み、私はチョコレートと生クリーム、それからココアパウダーを買う。

「チョコ作らないんじゃなかったの?」

「事情が変わったの。晩ご飯の後、台所貸して」

「いいけど、少しお父さんの分も残してあげてよ」

 げぇっと思ったけれど、母にはラム酒を買ってもらった恩義がある。断ることはできない。その足で近くの百均へ行き、綺麗な箱と模様付きのクッキングシートを見繕った。

 晩ご飯を掻き込む勢いで食べて、その日の食器の片付けも自ら志願。手早く台所を確保すると、腕まくりをして人生で初めてのチョコづくりを開始した。

 まずは板チョコを粗く刻み、耐熱ボールに入れる。

 本当はクーベルチュールチョコレートという聞き覚えのないチョコが欲しかった。しかし地元スーパーにはさすがになかったので、板チョコで妥協。一応板チョコでも代用可能だと書かれていたのでそこは抜かりなく。

 耐熱ボウルに入れたチョコを電子レンジにかけて、取り出しては溶け具合を確認する。

「湯煎で溶かすんじゃないの?」

「私にそんな難しそうなこと出来ると思う?」

「我が娘ながら、自分のことがよく分かってるねぇ」

 せわしなく電子レンジの中を覗く私の様子を、母は面白そうに眺めていた。どうやら今夜はずっと私の様子を観察しているらしい。

「で、誰にあげるの?」

「ないしょ」

「はいはい」

 私の母の良いところは、娘のプライバシーまでズカズカと侵略してこないところだと思う。好きな子が出来たとか、友達は何人だとか、そういうことは「ないしょ」と言えば「はいはい」と言ってにっこり笑ってくれた。

「お母さん生クリーム取って」

「自分でやりなさい」

 でも代わりに、見ていても絶対に手伝ってはくれない。たぶん致命的なミスをしても指摘してくれないだろう。

 我が家は基本、放任主義なのだ。

 でも今はそれが何よりもの救いだった。だって私はいま媚薬を作っているのだ、そんなの知られるわけにはいかない。

「で、ここラム酒を……」

「ははーん、なるほど。そういうチョコなのね」

 訳知り顔の母を横目に茶色くて四角い瓶の蓋を開けた。甘い香りがふわりと舞い上がり、目を丸くする。なるほどこれは大人の香りだ。子供が食べていい香りじゃない。

 それが逆になんとも嬉しい。

「ええっと、ラム酒は……」

 ボウルの上に構えた大匙の上に、瓶をゆっくり傾ける。ところが瓶はゴポっと音を立てた。

 瞬間、大匙よりもはるかに多いラム酒がボウルの中に零れ落ちる。

 「あ」と声を立てた時にはすでに遅く、もう取り返しがつかないほど大量のラム酒がボウルの中に入っていた。

 母がケタケタと笑い声をあげる。

「入れ過ぎちゃったわねぇ」

「大丈夫かな、コレ……」

 作り直す材料はない。仕方がないので平たいバットに流し込み、空気を抜いて冷蔵庫へ。

 切るのと箱に詰めるのは明日の朝、でもお隣に届けるのは夕方でいい。

 次の日の朝、少し早起きをして冷蔵庫を覗くと、生チョコは見事に固まっていた。初めて作ったにしてはまあまあ上手にできたのではないだろうか。

 洗った定規を当てて均等に正方形に。1回切るごとに包丁は拭いて、火で温め直した。

 おかげさまで切り分けたチョコはばっちり綺麗。最後にココアパウダーを掛けて箱詰めしたらまるで売り物みたいだった。

 こうして私は14日という日を、ずっと友チョコばかり貰いながら、自分のチョコは作るのを失敗した振りをし続けた。一方的に貰うばかりで悪いとは思いながらも、早く帰って生チョコをお兄さんに持っていきたい気持ちばかりが急いていた。

 委員会を放り出し、走る勢いで買えると、その日は早上がりだったのかすでに父が帰宅していた。

 それで思い出す、そういえば父にもチョコをあげなければならないのだった。

「お父さん、生チョコ食べる?」

「お、バレンタインか」

 分かってるくせに父は嬉しそうに驚いたふりをして、ぱくりと正方形の茶色の媚薬を食べた。別に父に媚薬は効かなくていい。そう、どうせ媚薬なんて些細なもののはずだから。

 それよりも味見と毒見だ。朝は忙しくてあんまり味見が出来なかったので、本当にうまくできたかよく分からない。

 チョコに生クリームとラム酒を混ぜて固め直しただけなので、そう不味い物が出来るとも思えないのだが。

 ところが期待に反し、父は一つ食べる間に苦笑いをした。

「美味しいよ。でも随分と酒が利いているな」

 ああやっぱり。たっぷり零れて入ってしまったラム酒がやはり多すぎたらしい。

「不味い?」

「いいや、大人の味だ。父さんは好きだが、高校生にはまだちょっと早いかな」

 その言葉を聞いて安心した。

 だってあげるのはお兄さん、大学生だ。もう20歳になる。だから問題ないはず。

「ちょっとお隣さんに行ってくる」

「晩ご飯までには帰っておいで」

 大事に包んだ箱を持っていくと、お兄さんはいつもの笑顔で私の生チョコを受け取ってくれた。その場で蓋を開いて、わぁと喜んでくれる。

「ありがとう、チョコなんか自分で買ってしか食べないから嬉しいよ」

 お世辞でもそう言ってもらえたのが嬉しかった。さらにはぱくりと一つ、その場で頬張ってくれた。

 どうだ媚薬は。どれほどの効き目があるのだろう。期待と達観が背中合わせで私を攻め立てる。

 ドキドキしながら様子を観察していると、まさかまさか、お兄さんの頬がほんのりと赤くなってくる。

 本当に、本当にチョコレートは媚薬だったんだ。しかもすぐに効果が表れて、どんどん頬が赤くなる。これは昔のヨーロッパで媚薬だからと貴族しか食べられなかったのもうなずける。

「あの……」

 まさかここまでの効果があるとは思っていなかったので私は慌てていた。このまま告白されてしまったらどうしよう。答えはもちろんYESだけど、でもでも何て答えたら。

 オロオロしている間にお兄さんは首をゆるゆると振って、とろんとした目で私の顔を覗き込んだ。

「もしかしてこのチョコ、お酒入ってた?」

「え、うん……」

「まじかぁ。俺、お酒弱いんだ……」

 我が家の父と母はお酒にはめっぽう強かった。私もその血を引いているからか、試しに食べた生チョコでは全く何も感じなかった。

 一方のお兄さんは1個食べただけなのに顔を真っ赤にして玄関に座り込んでしまう。

「ごめんなさい……」

「いいよいいよ、知らなかったんだよね。でも俺すぐに眠たくなっちゃうんだよなぁ」

 耳までほんのり赤くしてお兄さんは笑っていた。頬はチークを乗せたみたいに赤くなって、いつもはキリッとしている眉が八の字に下がる。

 見慣れない甘い顔を見た瞬間、いつもカッコイイと思っていた感情がひっくり返った。お兄さんが、かわいい。

「あの、ごめんなさい!」

「俺の方も食べられなくてごめんね」

 パタンと閉じたドアから慌てて離れる。

 心臓が音を立てて鳴り響いていた。

 チョコレートが媚薬なんて嘘だ。作った側に効くなんて冗談じゃない。

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