「頭痛に効く薬はありませんか」
彼が青い顔で店に入ってきた瞬間、脳天に雷のようなものが落ちました。
でも私には、それが恋だと、その時はまだ分かりませんでした。
この小さな港町で薬と言えば、うちの薬屋しかありません。代々魔女が営む薬屋で、藪医者にかかるより魔女薬の方がよく効くと言われていました。
私はその薬屋の跡取り娘エイア。師匠であり、薬屋の店主であるお婆様の元で修行をしている見習い魔女です。
見習いと言っても、街のお偉方が食べ過ぎた時の胃薬も、門番さんたちが飲みすぎた時の薬も、あるいは港町なのになぜか船酔いする水先人さんの酔い止めも、全部私が作っていました。何なら雨乞いも風を吹かせる魔法も出来ます。見習いとは名ばかりで、実は私ほとんど一人前です。
「あの、頭痛の薬を……」
「あ、はい! 少々お待ちください!」
慌ててカウンターの奥に引っ込み、熱くなる頬を叩きました。
淡い栗色の髪に、薄く玻璃のような瞳、肌は見たこともないぐらい白く輝いています。こんなに綺麗な男性を見るのは初めてでした。
でも見惚れて薬の配合を間違えてはなりません。
慎重にオバケ柳の樹皮と狼ナスビの粉を混ぜ合わせ、茉莉花の蜜で丸薬にまとめます。間違いなく調合してお渡しし、お代を受け取りました。
それから数日後のこと、市場を歩いていたらいきなり肩を叩かれました。振り向くと、先日のあの男性が立っていたのです。
「薬屋さんの娘さんだよね」
「あなたは先日の、頭痛のお客様」
丁寧にお辞儀をしつつ顔色を窺うと、顔色は良いようでした。おそらく薬が効いたのでしょう。
ところが、胸を撫で下ろした途端に、ドキドキと心臓がうるさいぐらいに文句を言い始めました。どうしたことか、胸が痛いぐらいに高鳴るのです。
「この間はどうもありがとう。薬のお礼がしたいと思っていたんだ」
「薬屋として当たり前のことをしただけです!」
フードを目深にかぶり直し、私は市場を駆け抜けました。
よく考えれば逃げる必要もなく、家の場所も知られています。でも走らずにはいられませんでした。それぐらい酷く動揺してしまっていたのです。
「それはきっと恋だわ」
教えてくれたのは街一番のお金持ちのお嬢様でした。
「恋?」
「ご結婚されたお姉さまがお義兄さまと初めてお会いしたとき、雷が落ちたかのようだったっておっしゃっていたもの」
お嬢様は幼いころから立つことがままならず、週に一度はお薬を届けている方です。歳が近いせいもあって、薬を届けた後は小一時間おしゃべりの相手をしていました。
「エイア、その方のことを調べるのよ」
「なぜですか?」
「だってあなた、運命の方の名前も知らないのでしょう?」
お嬢様に言われて私はハッとしました。
確かにあの人の顔や声は知っていましたが、名前も住んでいる場所も知りません。本当に何も知らないのです。
「グズグズなどしないで、すぐにでも帰って調べるのよ」
「すぐにですか!?」
「何を言っているのエイア、ここは港町よ。もし寄港した船に乗ってきた旅人だったらどうするの? 旅立ったらもう一生会えないかもしれないじゃない」
確かにここは小さくとも港町。日にいくつもの船が出入りし、積み下ろしがされるのは荷だけでなく人も同様です。
「この足が言うことさえ聞けば、あなたの代わりにその方のことを調べ尽くしておくのに!」
このままでは車いすのお嬢様が、自ら坂だらけの街へ繰り出しかねない勢いだったので、私は早めに家に戻りました。それから猛然と仕事を片付け、いつもよりも早く店を閉めると再び家を出ました。
お婆様は渋い顔で笑っていました。
「肌の白くて、淡い栗色の髪で、薄い玻璃のような瞳の方、知らない?」
「知ってるけど、エイアがまさかねぇ」
苦笑したのは酒場で給女をしている友達でした。友達と言うよりは姉のような人で、母を早くに亡くした私にとっては、お婆様に聞けないことも聞ける人です。
彼女は港の荒くれ男たちに酒を注ぎながら頷きます。
「北の山間の街から来た、パリスのことだろう」
「旅人じゃないのね?」
「大きな仕事を任されて、引っ越して来たって言ってたよ。ほら」
言うや否や、まさかの本人が酒場の入り口に立っていました。ほの暗い酒場の灯りでも分かるぐらい綺麗な人です。思わず頬に朱が上るのが分かって顔を伏せました。
「パリス、アンタに客だ」
「僕に?」
「魔女の薬屋のエイアだ。アタシの妹分だから泣かせたら承知しないからね」
ああ、なんでこんな時まで私は冴えない紺色のフードなのだろうと悔やみました。こんな黒装束、魔女らしい服ですが、まったくもって可愛くありません。
でもおずおずと顔を上げると、パリスの目は輝いていました。
「この間は怖がらせてしまったかと思ったんだ」
「あの時はごめんなさい」
「いいよ、お礼をさせて欲しい。良ければ食事なんかどうだい?」
それからは夢のようでした。
お嬢様に言われた通り、私の頭の中はぱちぱちと電気が飛び散って全く落ち着きません。こんなに胸が高鳴るのは、初めて薬を一人で作らせてもらった時以来です。
フワフワした気持ちのまま帰宅すると、お婆様は腕組みをして私を見ていました。でも何も言われませんでした。
以来、私はパリスと会っては少し食事をするようになりました。場所はいつもお姉さんの酒場です。
そこでたくさんのことを聞きました。
彼は遠い北の国の生まれで、だから髪も肌も淡雪のようなのだそうです。日差しの強いこの港町ではすぐに赤くなって痛いと嘆いていたので、私は一番いい日焼け止めの薬を融通してあげました。
彼は私の6歳ほど上で、今は商会の親方の言いつけで1年ほどこの港町で仕事をする予定なのだとか。遠く故郷の話をする彼を見るたびに、可哀そうだと思う気持ちと、ずっとこの街に居て欲しい気持ちが綱引きをしていました。
本当に、どうしたら彼はずっと私の傍に居てくれるのでしょう。
「で、惚れ薬の調合書を家探ししてたってわけかい」
「……ごめんなさい」
お婆様のお部屋の開けてはならない戸棚を覗き見ていた時、運悪く帰宅したお婆様に見つかってしまいました。正座です。
「まぁエイアの歳ぐらいなら惚れ薬を作りたくなる気持ちも分からんではない」
「じゃあ」
「でも、それはならないよ」
「どうして? 私だってもう一人前の魔女だもの、配合を間違えたりはしないわ」
最近はお店のほとんどの薬を調合しているのは私です。お婆様が魔女会議でいない間の店番だって完璧でした。晴れも雨も自由自在です。
なのにお婆様ときたら近所に聞こえるぐらい大笑い。流石の私もきょとんとしました。ついにはお婆様のしわくちゃな手が、私の頭を子供みたいに撫でるのです。
「いいかいエイア、正真正銘の惚れ薬なんてもんは無いんだ。効果があっても一時的、薬が切れたら薬を使われたという気持ちだけが残って、逆に嫌われるような物しか魔女でも作れないのさ」
「でもじゃあ教えて、恋は、どうしたらいいの?」
そうだねぇとお婆様は目を細めました。
「恋に効く薬はないが、恋に効く病ならばある」
「病?」
「パリスが傘を持たずにお店に来た時、すぐに雨乞いをしてごらん。おまえ、雨乞いは得意だったね?」
「そんなことをしたら風邪をひいてしまうわ」
「それでいいのさ、恋に効く病ってのは風邪ぐらい簡単なものでいいんだ」
意味が分かりませんでした。
でも老練な魔女であるお婆様が言うことです。何か仕掛けがあるのだと思って、ある晴れた日にパリスと会った直後、土砂降りの雨を降らせました。
もちろん次の日、酒場に彼の姿はありません。お姉さんがパリスは酷い風邪をひいたと教えてくれて、住所の書かれた紙をくれました。
「お見舞いに行ってやんな」
「いいのかしら」
「魔女の薬は何にでもよく効くからね」
私は作ったばかりの風邪薬とリンゴを持って、書かれた住所へ急ぎました。でも辿り着いたのは物騒な路地裏のとても奥まった場所でした。あのパリスが住んでいる場所とは到底思えないのですが、住所は間違いなくここなのです。
恐々呼び鈴を鳴らすと、中からはガラガラ声が聞こえました。
「エイアです、大丈夫ですか?」
「鍵は開いてるよ」
薄い扉を開けると、暗い室内の奥で布団を被った影がありました。
「大丈夫? 酷い風邪だって」
と、駆け寄ろうとして私は思わず顔をしかめました。
薄暗い家の中は大量の酒瓶が転がり、脱ぎ散らかした服も散乱しています。それに酷い匂いでした。
「ごめん、あの雨にやられてね」
彼は酷くやつれて、無精ひげを生やし、一瞬誰だか分からないぐらいでした。あれほど身綺麗だったはずのパリスがこんなになってしまうなんて。
申し訳ない気持ちで籠の中の薬に手を伸ばそうとした時でした。
「来てくれたのが薬屋の魔女でよかった。助かったよ」
瞬間、色々なものがぱちんと切れました。
この人にとって、私は私だからよかったのではなく、薬屋の娘だからよかったのです。便利な薬の仕入先ぐらいにしか思っていなかったのでしょう。
よくよく部屋を見回してみれば、女物の化粧品も転がっていました。なんだ、パリスが良い顔をしていた人はたくさんいたようです。
だから私は彼の目の前で薬瓶を振って見せました。
「おいくらで買っていただけます?」
「病人の僕に売りつけるのかい?」
「私はとても優しいので、どんな人にも平等に薬を売るのが信条なの」
結局、パリスはもう一枚も銀貨を持っていませんでした。
なのでリンゴだけ置いて帰りました。それ以来、彼を見かけたことはありません。
「恋は治ったかい?」
お婆様が意地悪く微笑みます。
「ええ、魔女の薬はとても恋にとてもよく効く病でした」
こうして私の初恋はめでたく完治と相成ったのでした。
了