森のまにまに - 4/5

 

 唐突に料理をしようと思った。

 少しばかり風が冷たくなってきてからのことだ。

 

「なんか、こう、美味しいもの」

 

 何とも漠然とした、阿保みたいな目標だ。しかし俺は彼女をちょっぴり驚かせたいなどと考えってしまった。

 彼女はいま一人で括り罠を見に行っている。俺は焚き木拾いから一足先に帰ってきたところだった。

 冬に向けて色んなものを蓄えたいからと、最近は別々のところへ出かけることも多くなっていた。それぐらい俺は彼女から森のことを教えてもらい、一人で出歩くことも出来るようになっていた。

 

「ドングリ、……ある。きび砂糖……、ないけどはちみつでいいか。小麦は昨日草刈したからある。バター……が、ない。うーん」

 

 お菓子と言えばバターだろう。確かに松の実の油も香りは良いのだが、お菓子向きではない。

 と言って、他には猪肉からとった脂しかない。こっちは論外だ。

 

「まぁ、しょうがないか」

 

 大きな木のボウルの中にばさばさと材料を入れて、しゃもじで混ぜる。何となく生地が緩いが大体こんな感じだった気がする。

 記憶の全てが無くなったわけでもないし、記憶が部分的に戻ったりすることもあった。そういった漠然とした記憶を頼りに生地をかき混ぜた。

 ぐるぐると混ぜながら竈の火を調整して、生地を流し込む型に油を塗る。いつも彼女が手際よく料理するのを真似て、いくつものことをいっぺんにやってみた。それがいけなかった。

 ゴンっと重たい音がして、丸いボウルが落っこちる。不安定な場所に置いてしまったらしい。

 

「あっ……!」

 

 せめて生地だけは守りたいと腕を伸ばしたが、今一歩足らず。

 緩い生地の半分ぐらいが宙を舞い、ねっとりと弧を描いて俺の頭にぶっかかった。くそ、甘い。

 

「ちっくしょー」

 

 子供みたいな言い草が咄嗟に口から零れてしまい、それも相まって情けなさが倍ぐらいになった。残っていた生地を型に流し込み、しょぼしょぼしながら竈に入れる。これじゃケーキが焼けてもぺちゃんこだ。残念過ぎる。

 焼き時間も半分ぐらいだろうと見積もって、ため息を吐きながら腰帯を解いた。ぼたぼたと垂れてくる緩い生地をこれ以上零さないよう、貫頭衣を頭から抜きがてら拭う。

 

「洗うしかないなぁ」

 

 夏を過ぎた風は肌には冷たい。小走りで外に出て、貯めておいた雨水で服を洗った。甘いはちみつの香りがしなくなるまで洗いって物干しに引っかけると、俺は素っ裸で家の中に飛び込んだ。さすがに寒い。

 上掛けをぐるっと体に巻き付けて、箪笥を開ける。彼女はいつもこの辺りから服を出してくれる。替え一つぐらいならあるだろうと思っていた。あるいは寝巻でもいい。

 俺が着られる大きさの、何でもいいから服はないだろうか。

 そう思って探していた指に触れたのが、あまりにも青く、肌馴染みの良い生地だったので驚いた。

 

「なんだ、これ?」

 

 随分としっかりとした縫製で、彼女や俺がいつも着ている布よりもずっと艶やかで柔らかさがあった。裾、袖、襟にそれぞれ模様が染め抜かれていて、一目見て立派な仕立ての服だと分かった。

 そして、見覚えがあった。

 しばらく俺は服を持ち上げて考えたのち、おもむろに自分の身体に宛がう。疑う余地も無く、これは俺のためにあつらえたものだ。

 でも彼女とここに住み始めてから、この服は一度も袖を通したことがない。綺麗に洗濯され、丁寧に畳まれていたことからも、決してぞんざいな扱いを受けていた様子はない。ただ、箪笥の奥の方に隠されていた感は否めなかった。

 だとしたら何のために?

 

「何やってるの……?」

 

 足音が近づいて来ていたのは少し前から気付いていた。

 戸を開け、彼女が帰ってくる。それが分かっていても俺はただ茫然と、自分の失くしたものに思いを馳せて固まっていただけだ。

 

「ねぇ、これ、俺が着てた服だよね?」

 

 自分の身体に宛がった青い衣を彼女に見せる。よくよく見れば、箪笥の奥にはさらに男物のズボンもシャツも、あるいは帷子や籠手なんて物騒なものまでしまい込んであった。

 あれは全部、俺のものだ。

 俺が忘れていた、俺の頭から不思議と今まですっぽ抜けていた物たちだ。

 

「使わないものは仕舞っておいて」

 

 いつにも増してそっけない声が耳に刺さった。

 触れるなと言わんばかりの声を投げつけ、彼女は俺に背を向けて台所に立つ。手にはすでにすっかり皮を剥かれたウサギが一羽握られていた。

 ウサギなんて、盾でしか見たことがない。そう、ウサギは大昔に滅びた生き物だ。そのように教えられた。

 その知識は一体誰に教わった?

 つうっと背筋を冷たいものが流れ落ちて行った。

 

「これ、俺が最初に着てた服でしょ。思い出すきっかけになるかもしれないのに、何で今まで出してくれなかったの?」

 

 詰め寄るも答えはない。それが腹立たしくて、俺は握りしめていた青い服を着た。他の服も引っ張り出して、次々と身に着ける。物々しい装備品は悲しいほど体にしっくりと馴染んで、逆に今まで着せられていた物がまさしく借りものだったことを思い知らされた。

 今まで着せられていたあれらは、森で暮らすために彼女があつらえてくれた、例えるならば毛皮のようなものだった。たぶん草木で萌葱に染めたあの荒々しい布が、森の目を欺いてくれていた。そうでもなければ今頃は、森に飲まれて骨になっていたに違いない。

 でもひとたび気付いてしまうと、再び身に着ける気にはなれなかった。

 いつの日か彼女が森の中に溶け込んでしまいそうになるのを見たように、自分も森に溶けてしまいそうだったから、それは出来なかった。

 

「俺の荷物は? 剣とか盾とか、……そうだポーチもあった。空っぽだったけど、なんかあったよね? 他にも俺の荷物あったんじゃないの?」

「……また、出て行っちゃうの?」

 

 ウサギはすでに捌き終えた彼女は、たっぷりと間をおいてから振り向いた。寂しそうな顔だ。遥かに遠い昔、どこかで会った誰かに似ている気がした。

 でも俺は今でもまだ、自分の名前すら分からない。

 名も知らぬ他人の空似を詮索するほどの余裕はなかった。

 

「分んない。でも思い出したい」

「思い出したら、アナタはきっと森を出て行くヨ」

「だから俺の荷物隠したの? なんでだよ! 俺が名前思い出せなくて困ってるの、分かってたでしょ?!」

 

 裏返るほど、声を荒げたのは初めてだった。

 

「俺、どうしてここに居るの? ねぇ、何で何にも教えてくれないの? 俺本当はどこに行かなきゃいけなかったんだろ。なんか、たぶんなんかすごく、すっごく大事なことをしなきゃいけなかったのに、もう忘れちゃいけないって、ずっとそう思ってたのに……」

 

 ぐしゃぐしゃと髪を掻きまわす。

 名前は何だったか、どこへ行く途中だったのか、何が目的だったのか。頭を打って記憶が無くなったと言うのは本当だろう。ではどうして頭を打ったのかは未だに謎だ。崖から落ちでもしたのだろうか。

 ただただ、知りたい、思い出したい、自分が何であったのか、己の本分がどうであったのか。

 乱暴に頭を叩いても、すでに傷は癒えて痛みは感じなくなっていた。

 

「森は怖いところヨ。迷ったら最後、死ぬまで出られないもの……それでも出ていくの?」

 

 悲し気に微笑んだ彼女は、台所の床板を外した。俺が驚いているあいだに、たくさん並べた保存用の壺の一つを持ち出す。中から青い鞘の剣と盾、弓と矢筒、ポーチにブーツ、画面付きの石板みたいなものを取り出し、彼女はテーブルの上に並べた。

 どれも見覚えが無いと言うことは、名前と一緒に忘れた物なのだろう。ところが指は勝手に動いて剣帯を緩め、流れるように剣を背負った。

 

「そう……、やっぱり行っちゃうのね」

 

 盾と弓を背負い、矢筒を下げ、例の石板は腰に下げるとしっくりとした。ブーツに足を突っ込んでトントンとかかとを入れると、革の折れ目がちゃんと足の指の付け根に来る。

 まだよく思い出せない。でも身体は覚えている。

 

「いいえ、分かってた。アナタはいつか森を出て行っちゃうって」

 

 最後に彼女はポケットから青く光る何かを取り出した。

 それは耳飾りと髪留めで、これで身支度が終わりだと分かった。これで全部、名前以外は全て取り戻したことになる。後は自力でどうにかするしかない。

 家の中にはそろそろ甘い匂いが漂い始めていた。

 

「ケーキ、ごめん。途中で半分零しちゃった」

「ありがとう、大事に食べるワ。……森の外へは、妖精がきっと道案内をしてくれるから」

「うん」

 

 それ以上の言葉は見つからなかった。

 彼女は命の恩人で、名前を忘れた俺が森に飲まれぬように守ってくれた人だ。でも森でずっと暮らすことは、たぶん俺には無理なこと。どれだけここが安心する家だったとしても、森は俺の故郷ではないから出ていくしかない。

 理由は特にない。そういうものなのだと思うしかなかった。

 

「さよなら」

「思い出したら、帰ってきてネ」

 

 冗談だろうとも思ったけれど、彼女の目があまりにも優しくて思わず顔をそむける。出ていく足に迷いが現れぬよう、逃げ出す勢いで庵の扉を押し開けると黒い木立にぼうっと光がひとつ舞っていた。妖精だ。

 そういえば不思議とこの森では妖精を見たことはなかった。あとコログの姿も見た覚えがない。これだけ豊かな森なのに、変だと思うことすら忘れていた。

 妖精は俺に気付くと、ものすごい勢いで飛び始める。逃げているようにも見えたが、 彼女の言葉を信じて妖精の後を追った。見失わないよう、必死で走る。こんなに走ったのは久々だ、どうにも体が鈍っている。肩で息をして、肩に食い込む剣帯が痛い。

 駄目だ、もう一度鍛え直さないと駄目だこりゃ。

 そう思った時、夕闇に沈み始めた木々の隙間に橙色の光が見えた。

 枝葉を掻き分けるようにして明るい平原に飛び出た途端、そこがハイラル平原だと閃いた。呆然と辺りを見回し、黄昏に染まる平原を歩く。妖精は天高く舞い上がり、橙色に染まる空へと消えていった。ここまでくれば、もう追う必要もない。

 しばらく歩くと、遠目に黒々とした怨念を背負った城が見えた。それがなんであるか、自分が何をすべきか、誰であったか。あるいは誰を探していたのだったか。

 どうしてそれらを忘れていたのか不思議なほど、霞がかった頭が晴れていく。

 

「……あぁ、そうだ。行かなきゃ」

 

 俺はそれまでの森での出来事を振り切って、城へ向かって走り出した。