森のまにまに - 3/5

 

「キノコ採り行くよー」

「あ、ちょっとまって」

 

 俺は麦わら色の髪を無造作に麻縄で括り、背負子を背負い直して彼女の元へと駆けていく。

 その人は結局、俺のことを『アナタ』と呼び、自分のことは『アタシ』と呼んだ。俺も彼女のことは『あなた』と呼び、自分のことは『俺』 と呼んだ。

 名前が思い出せないのは頭を強く打ったせいかしらと、彼女は俺の頭の包帯を指す。それから俺が名前を思い出せないのなら、自分もいまは名無しでいいわと彼女は言った。

 彼女の住まいはうっそうとした森の奥まったところにある。ねじくれた巨木に結ばれた庵に二人きり。他には誰もいないので、名前が無くとも困ることはなかった。

 

「ねぇ」

「なあに?」

 

 これで事足りてしまう。

 案外、名前というのは三人以上いなければ無用の長物なのかもしれない。

 

「これはゴーゴーダケ、食べられるヨ」

「こんなのが?」

「意外とおいしいし、足が速くなるの」

 

 紫色のいびつな形が見るからに毒っぽいのに食べられるらしい。もぎ取ってじいっと観察したあと、俺は背負子にぽいとゴーゴーダケと投げ込んだ。今日の晩ご飯はなんだろうなとワクワクしながら、他にも食べられるキノコが無いか辺りを見回す。

 彼女は色々なことを教えてくれた。

 最初は食べられる物、食べては駄目な物を教わった。次いで焚き木にしてよい木、悪い木、種々のハーブとその効果、たまごのある巣の見つけ方と獲ってもよい数、鳥や魚の獲り方、括り罠の作り方や獲った獣の捌き方、森での天気の読み方や、厄介な虫の避け方。薬草の種類や獣道の辿り方、さらに狼に狙われたときの対処方法まで、彼女が教えてくれたのは森で生きていくための知恵だった。

 こういったことを、もしかしたら以前の俺は知っていたのかもしれない。だが今の俺は知らないことばかりで、どうやら名前と一緒に様々なことを忘れてしまっていた。

 

「食べられる物を忘れちゃったから、アナタは飢えて倒れてたんだろうネ」

「こんなに食べ物が豊富なんだもんなぁ」

 

 知識を持って見回せば、彼女が住まう森はとても豊かだった。

 少し歩けば小さいながらも野生のリンゴやイチゴが実をつけていたし、小川には魚も豊富だ。鳥や獣も肥えたもの多い。食べられるかどうかは別として、太い木のウロや岩陰には大抵キノコが生えていた。

 飢えとはあまりにもかけ離れた世界で、一人泥水を啜って餓死寸前だったのかと思うと、我ながら可笑しかった。

 

「今日はキノコオムレツにでもしようかな」

「バターあるの?」

「バターは知ってるんだ?」

「……そういえば、知ってる」

 

 バター、確かヤギのミルクから作られたものだった気がする。

 でも森にはヤギがいない。ウシもいない。そもそもミルクがないし、ミルクを売ってくれる行商人が来ない。何しろ森には道らしい道が無いので人通りは皆無、いま俺たちが辿っているのも獣道だった。

 旅人と会わないのは当然のことながら、遠くに人家の煙が見えたこともない。たぶん彼女の庵の四方見える範囲には、他に人は住んでいないのだと思う。

 彼女はふぅんと意味ありげに頷いて、あるかなしかの獣道を庵の方へと戻り始めた。木の葉の先を透いた日差しが、亜麻色の長い髪に反射して心なしか新緑色見える。若葉色に染め抜きした服の裾が頼りなく風に揺れる。

 まるで森に溶け込んで消えてしまいそうで、見失わないように慌てて後を追った。

 

「バターはないけど、松の実からとった油があるよ」

「ハイラルボックリの?」

「森の恵みに感謝ね」

 

 たしなめる彼女は、まるで姉のように見えた。年の頃が少しばかり上に見えるからかもしれないが、実を言うと彼女の年齢はよく分からなかった。

 少女のようにコロコロと笑うこともあれば、物思いにふける横顔に差し込む影が老婆のように濃いこともある。料理をしながら陽気に鼻歌を歌い出したかと思うと、カラコロと風車の回る音のようなものを聞いて虚空を睨むこともある。

 妙なところはあるが、彼女はいい人だった。

 

「ほら、松の実の油でも十分に美味しいでしょ?」

「うん、美味しい」

 

 俺が見つけてきたトリのたまごと、二人で採ったゴーゴーダケが見事なキノコオムレツに化けた。他に木の実を炒めたものと、小さくて酸っぱいリンゴをはちみつと一緒にくたくたに煮たものが食卓に並ぶ。とても美味しいし、よしんば味が微妙でも一度極限まで飢えた俺にとっては口に出来るものは何でもご馳走だった。

 それに穏やかなのが良かった。

 雨風がしのげる場所があり、硬いけれども寝床がある。お腹は満たされて大きな悩みも無く、マモノの姿も見かけない。不安になるほど安穏とした日々に、ついうっかりすると名前を忘れた記憶喪失であることも忘れてしまいそうになる。

 いわゆるこれが『幸せ』というやつなのだろうと思った。

 

「明日、何しよっか」

「起きたら考えればいいわヨ」

「そうだね、そうしよう」

 

 だから、バターの方が美味しかった気がする、とは口が裂けても言えなかった。バターを食べていた頃の自分が一体何者だったのかも、耳たぶに空いた耳飾りの跡がいくら待っても塞がらない理由も、俺には分からない。

 乾草の香りがする上掛けを頭から被ると、眠気の方が勝ってどうしようもなかった。