「あ、起きた?」
次に瞼を持ち上げた時、俺は固い寝台の上にいた。
板を張っただけの長椅子に敷布を被せただけで、お世辞にもふかふかとは言い難い。それでもさっぱりと乾いた布は心地よく、上掛けは乾草のような香りがして安心した。
ずっと体力を蝕んでいた濡れた服は脱がされて、別の服を着せられている。なんだか家に帰ってきたみたいだと思って再び瞼が落ちそうになったが、ひりつくほど乾いた喉からゲホゲホと咳が出て完全に目が覚めた。
体が痛い。大小さまざまな傷が体の至るところあり、特に頭にはきつく包帯が巻かれていた。ただ、それよりも痛いのが体の中だった。
身体の内側から自分自身を溶かそうとするみたい、内臓がキリキリと痛んだ。咄嗟に右手で服の上から胃を抑える。声を殺して歯を食いしばるも、歯の隙間からは唾液の一滴すら出てこない。
そうこうしているうちに、声の彼女が近づいて来て木椀を差し出した。中身は白く濁った何かだった。
「重湯ならどうかな」
口元に宛がわれた椀からは、得も言われぬ良い香りがした。
食べ物の匂い。頭がそう判断する前に、俺は重たい腕を持ち上げて椀を煽った。水より重たい液体が、口に落ちて来る。それが舌先に触れた瞬間、全身に刺激が走った。
これは、食べ物だ。
そう分かるや否や、咀嚼もせずに身体の方が勝手に飲み込もうとする。頭ではゆっくり落ち着いてと分っていても、喉も舌も言うことを聞かない。
「あぐっ、はふぁっ、ぁぐはふっ……んっ、んんっ」
「そんな急ぐとむせちゃうヨ」
笑われた瞬間、案の定むせた。咄嗟に口を押さえたが、鼻から口からぼたぼたと重湯が零れる。それすらもったいなくて滴るものを舐めとる。意地汚いなんてことはすっかり忘れていた。
ただひたすら飢えていた。お腹が空いた、喉が渇いた。そればかりが俺の中で叫び声をあげていて、他のことは気にする余裕がなかった。
重湯を飲み切り、水を貰い、それすら一瞬で胃に流し込むと、次いで彼女はようやく固形のお粥をくれた。「匙を出すから待って」と言われても待ちきれず、椀を持ち上げてかふかふ言いながら口に流し込む。
「もう、待ってって言ったのに」
重湯と違って冷ましてないから見事に口のなか、上顎を火傷したが気にも留めない。塩気のない粥がこんなにおいしいと思う日は初めてだ。
「おかわり食べる?」
「んっ」
申し訳ないほどベタベタに汚した椀を、彼女は嫌な顔一つせず受け取ってくれた。青い瞳の女性だった。耳がとがっているから、たぶんハイリア人だろう。肌の白い、妙に存在が希薄な女性だった。
その彼女が湯気立つ粥の椀をもう一度俺に手渡す。さっきよりも大盛りだった。
「ゆっくり食べないと、体がびっくりするからネ」
「あぃ、が、と」
「どういたしまして」
にこりと笑った顔に見覚えはないが、敵意も感じられない。ここまで食べておいてなんだが、害する気なら俺が寝ている間にいくらでもどうにでもできたはずだ。だから大丈夫な人だと思った。
次第に頭がはっきりしてくるような感覚と、対照的に未だに靄がかかったような頭の片隅と、妙な感覚に揺られながら匙を握る。でも次の瞬間、また口を押さえた。
胃の腑がひっくり返る。
先ほどむせたのとは違い、自分でも分かるほど胃がぎゅうっと縮こまった。ぐいっと胃の中身がせり上がってきて、中身そのまま逆流してくる。ゴボッゴボッと嫌な音を立てて、せっかく食べたものがまた出て行ってしまう。口の中が酸っぱくて、鼻がツンとして、苦しくて涙目になる。
前かがみになって吐いた俺の背を、彼女はとんとんと優しく叩いてくれた。
「ああほら、やっぱりびっくりしちゃった」
「ごっごべんっ、だざい……」
「次はもっとゆっくりよく噛んで食べなヨ」
「っん、ぐ……」
吐いたものも、汚した服も椀も、彼女が全て綺麗にしてくれた。
ただ、服は替えがあまりないと言って、渡されたのは簡素な貫頭衣だった。紐で腰を縛る形の、縫製があまりしっかりしていないものだった。今時、僻地の農村でもこんな服を着ている人見たことないなぁ、とぼんやり考える。
下着も干したと言われたので、股の辺りが頼りなかったが仕方がない。俺が汚したのだし、俺が雨に濡れていたのだ。なんでこうなったのかは、分からないけど。
衣服を換え、椀を換え、顔もすっかり綺麗にしてもらってから、もう一度粥を貰った。今度こそゆっくりと噛み締めて食べる。ぬるくなっていたが、十分に美味しかった。
彼女は頬杖をついて、何が面白いのか俺が粥を食べている姿をじっと見ていた。
「ところでアナタの名前は?」
ふと、匙が止まった。
名前。
生まれた時に最初に親からもらうものだ。他の者と区別するための記号のようなもので、たぶんハイリア人なら誰でも持っているものだ。
そういった『名前』に関する情報はあった。ただ。
「名前、……わかんない」
自分の名前が思い出せなかった。
彼女は表情を変えず、「そっかぁ」と呟いた。