ハイラル城内に激震が走ったのは、リンクの休み明けの日だった。
私はもちろん目を丸くして硬直した。真面目なインパはもちろんのこと、いつも年若い彼を見てはキャーキャー騒ぐ若い侍女たち、果ては年かさの侍女長までもが皆口をぽかんと丸く開けて固まった。
「お迎えに上がりましたゼルダ様」
「えっと……リンク……?」
「はい」
「その、髪は」
どうしたのですか、と問おうと思ったのだが、上手く言葉が紡げない。
秋の麦畑のような黄金色の髪が、きっちりと三つ編みにされていた。しかもあのトレードマークのごときもみあげだけ。
一度見て目をそらして首を傾げ、もう一度見て顔を背けて息を整え、三度目にしてようやく真正面から見ることが出来たが長くは続けられなかった。体ごと反転させて思わず腕組みをしてしまった。
どうしてリンクは、もみあげだけ三つ編みにしているのでしょう……?!
さて、彼。リンク。
姫付きの近衛騎士であり、退魔の剣を抜いた騎士でもある彼の人柄について、出会ってから変わらず抱いている印象は至極真面目であるということだった。これほど真面目な人は見たことがない。誠実と愚直が服を着ているような青年だった。
その彼が、まさかもみあげだけを三つ編みにするなどと、まさかまさかの事態。私は夢でも見ているのじゃないかしらと軽く手の甲をつねってみたが、しっかりと痛い。今日は雪が降るか、槍が降るか、あるいは厄災が復活するなんてことが起りやしないかと不安になった。それほどの非常事態。
ところが本人は素知らぬ顔で、いつもの涼やかな表情を一切崩すことがない。まるで「生まれた時から私はこの髪型でした」とでも言わんばかりだった。
「その髪は、どうしたのですか?」
助け船を出してくれたのは、年かさの侍女長だった。その声でようやく私は彼の方を振り向いた。とはいえ、侍女長も表立っては平静を取り戻した振りはしているが、表情筋のそこかしこに力が入っていて、いつも気にしているシワが数割増しになっている。
「これについては少々込み入った事情がございまして……ただ、上手く説明することが出来ないので、今日一日のみ申し訳ありませんがこのままでよろしいでしょうか」
伏し目がちにだが、滔々の述べたことから、当人がいつもと違うことをしている自覚はあるらしい。どうしましょう、と目配せをする侍女長に対して私はコクリと頷く。
「職務に差支えが無ければ許します」
「ありがとう存じます」
深々と頭を下げた顔の横でぷらぷらと揺れる三つ編み。吹き出しそうになるのをぐっとこらえる。
だいたいから真面目一辺倒の彼が「説明できない」というのだから、恐らく本当に説明できないのだと思う。それをとやかく言っても仕方がない。
しかしながら今日は大変な一日になりそうだわと思っていたところ、「恐れながら」と珍しくリンクの方から言葉が続いた。
「本日、可笑しなことを見聞きしても、原因は全てこの三つ編みと同様ですので、あまり深く追求しないでいただければ幸いです」
「分かりました。では、そのように」
当然のように答えてみたものの、その日の彼は天変地異そのものだった。本当に厄災が復活するのではないかと思うほど、いつもの彼ではなかった。
まず、リンクはあるところで城壁を登り始める。私に一声かけてからではあったが、前触れなくよいしょっと、近衛兵のあの格好のまま。また三つ編みが揺れる。
もちろん彼にそれだけの能力があることは分かっていたけれども、なぜ城内で? しかも城壁を? ロッククライミング?
「何を、して、いるのです……?」
「この上にある石を見てこいと指示がありまして、申し訳ありません」
城壁の上で何かを掴む動作をしたリンクは、息一つ乱さずに戻ってくる。城壁を登る際に外した白い手袋を着ける。その横顔を覗き込みながら、青い瞳がきょろきょろと辺りを見回しているので何かが居るらしいというのは分かった。
「精霊の類ですか?」
彼には常人には見えない人ならざるモノが見えているとは聞いていた。だから今日リンクが可笑しなことになっているのは、彼らが何か悪戯をしているのかしらと推測した。ところがリンクは首を縦に振ろうとして、途中で横に振る角度を変える。
「コログも居ますが、そうでない者もいて、それが説明付かないのです」
「まぁ」
いつも明快な受け答えをする彼にしては、随分と曖昧な答え。そんな不思議なこともあるのですねと、私もまた首を傾げた。
次に彼が奇行に走ったのは図書室でのことだった。
きょろきょろと辺りを見回し、ある方向を見てムッとしたかと思うと、手近な棚から私でも読まないような分厚く大きな技術書を数冊引っ張り出してくる。勤務中に一緒に読書、悪くはないけれどもあなたが上からお叱りを受けるのでは、と言おうとした次の瞬間、信じられないことが始まる。
「リンク。本を積み木代わりにしてはなりません……」
「重々承知しています。……が、コログにここをどうしても通らせたいと言う者がいるのです」
眉間に深い皺を寄せて彼が作ったのは三冊の本からなる門だった。一体誰がこんなところを通るというの、小人でもいるわけでもあるまいし。
と思った瞬間、触れてもいないのにバタタと音を立てて本でできた門が崩れた。分厚く、本の重みだけで直立するような革の装丁の本が三冊いっぺんに、だ。
「……え?」
「体格的に無理だと言ったのですが、今日ばかりは我儘を聞かなければならない約束なのです……姫様、大変申し訳ありません」
本に痛みが無いのを確認してから、彼は技術書を元の本棚に戻しに行った。
その後ろ姿、やはり三つ編みが揺れる。どういうこと? どうしてもみあげを三つ編みにしているときは誰かの我儘を聞いてあげなくてはならないの? そもそも、今その門を通ったのはコログだとして、我儘を言ったのは誰……?
言葉に出せない疑問が、沸騰した湯水のようにボコボコと湧いてくる。
さらに極めつけは、長くまっすぐな廊下に着た途端、かけっこを始めたのだ。……もちろん一人で。
「申し訳ありません姫様、ここでかけっこをしたいと、言っておりまして」
「だ、誰が?!」
「誰とはちょっと、申し上げることが出来ないのですが……」
リンク自身も相当困った顔をしていた。説明がつかないのだろう。だって赤い絨毯の長い廊下のどこを見渡しても、私とリンク以外いない。私は当然のようにかけっこなんて申し出ていないし、丈の長いドレスでそんなことはできない。
なのに、気付くと彼は横をちらりと見ながら走り始める体制に入る。一人で「よーい、どん」と声をかけて、ダッと音がするぐらい勢いつけて廊下の向こう側まで走って行ってしまった。
ぽかん。
もうここまで来ると、分からないのを通り越して腹が立ってくる。一体誰のどんな我儘を聞き入れているのか、説明ができないリンクを怒りたくなってくる。八つ当たりに近い。
なんで! どうして私の騎士が、私以外の誰かの言うことを聞いているの?
思わず握りこんだ手がぷるぷるを震えてくる。無性に、リンクを誰か知らない人に盗られた気分になった。
慌てた様子で戻ってくるリンクが、またちらりと自分のすぐ横、誰もいないはずのところに目配せをする。その仕草、私ではない何者かを気遣うそれを見た瞬間、ぷちんと堪忍袋の緒が切れた。
「もういいですッ! ついて来ないでください!」
「申し訳ありません、姫様! ですが城内でも……」
「では行く先は薔薇園にします! 入り口にでも立っていてください、中まで着いてきたら本気で怒りますからねっ」
すでに一度ゲルドで襲われた身ゆえに、彼の心配することは十分理解できる。とはいえ、彼を我儘に付き合わせる謎の存在を、私だけが感知できずにいるのも癪に障る。おそらく向こうからは私は見えているのだろうから。きっと笑っているに違いない。
自分でも頭から蒸気が出ているわと思いながら薔薇園の奥にあるベンチに腰掛けて、ふーっと大きく溜息を吐き出した。人目はもちろんないし、リンクもついてきた様子はない。カッカしていた頭がわずかに冷えた、と思った。
「ここ、きれいね!」
女の子が立っていた。
慌てて居ずまいを正す。まさか姫である私の気の抜けた姿を、誰とも知らぬ子供に見られるわけにはいかない。
いえ、子供……?
「貴女は、誰ですか……?」
身なりはそれなりに整ってはいたが、貴族らしくはなかった。裾や襟に刺繡の入ったワンピースを着ていて、その模様がリンクの着ていた私服に入っていた刺繍と似ている気がする。
それよりも何よりもその子、恐らく年齢は七、八歳と言ったところか。その女の子は私と同じ金の髪をしていた。この髪色は相当に珍しいものだ、一般庶民ではまず見られない高貴の色とされている。貴族でも数えるほどしかいない。しかもその子の目は透き通るほど真っ青だった。
一瞬だけ、リンクの瞳のようだと見惚れてしまった。
ところが女の子は、子供特有の満面の笑みでこう言ったのだ。
「わたしのおとうさま、やさしいでしょ?」
「おとう……え?」
「でもコログちゃんたちもみーんなゆってるの。わらえばいいのにねーって」
見れば、葉っぱのお面のようなものを付けた見知らぬ生き物を彼女は抱きかかえていた。あれが、リンクの話によく出てくる森の精霊コログ?
思わず立ち上がり歩み寄る。私にもついに力の訪うときが来たのかと、胸が高鳴った。
でも近寄ってみて、女の子の右手の甲に光る印を見て愕然とした。三つの正三角形を連ねた印は、まさか絵筆で描いたものではない。淡く光るそれは私がずっとずっと欲しかったもの。
「貴女それを一体どこで……!」
「えへへ、いいでしょ! おかあさまからいただいたの!」
掴みかかった腕は女の子の体をすり抜けて空を掻く。あっと声を出してよろめいたところに、ふわりと支える大きな手があった。
「申し訳ありません、あの者が中へ入ると言って聞かなかったもので。お叱りは受けます、ただ悪戯をしないかが心配で、その……」
ばつの悪そうなリンクがいた。当然のように、もみあげは三つ編みのまま。
だとすれば、さっきの女の子が今日一日リンクを遊びに付き合わせた正体。あるいは、かのじょのおとうさま……?
道理で、彼が逆らえないはずだった。
王家に使える騎士であれば、あの手の甲の印を見せられれば言うなりになるしかない。でも、それにしたって、リンクがお父さまって。
彼にはまだ妻子はない。この性格からして隠し子なんているわけもないし、よしんば隠し子が居たとしてもあんな歳の子なわけがない。リンク以外には見えず、搔き消えた女の子が本当に存在していたなんて私も思わない。非科学的すぎる。
だとして、あの子は一体何だったのかしら。
この時私は、ほんのりと気になった『あの女の子のお母様が誰なのか』という疑問については蓋をすることにした。今それを考えると頭が爆発してしまいそうだったので、ぱっと立ち上がり表情を隠す。
後ろでは所在なさげにする彼の気配があった。
「理由は何となく理解しました」
「大変申し訳ありませんでした」
「いいえ、あのような子が一日まとわりついていたのでは、あなたもさぞ大変だったでしょう」
でも。
それでも、あの少女にばかりかまけていたのはやはり面白くない。
「リンク、あなたは私の騎士ですね?」
「はい」
「理由は分かっても、私以外のお嬢さんにあなたが振り回されているのはやはり面白くありません」
「説明が出来ず、大変ご不快な思いをさせてしまいました。申し訳ございません」
ようやく振り向いて顔を合わせると、リンクは苦虫を嚙み潰したような顔でひざまずいて頭を垂れた。だいぶ反省しているようだが、恐らくまた見当違いの反省をしているに違いない。
分かっていて、私はその硬そうな髪から青い髪飾りを抜き取った。
「あ……」
「罰として、私にも三つ編みをさせなさい」
「……え」
またぶらんと顔の脇で三つ編みにされたもみあげが揺れた。
そのまま私室にリンクを連れ戻り、目を丸くする侍女たちを尻目に鏡台の前に座らせる。目を白黒させる彼の姿はなかなか見られないので、よく見ておかねば。なにせ今日一日、私ではない女の子の方に労力を割いていた罰なのだから。
「この三つ編みも解きますよ」
「じ、自分で」
「いいえ、罰です。私にやらせなさい」
「……ハイ?」
しゅんと項垂れたのを見て、麻縄で適当にくくっただけの三つ編みを二本解く。それを後ろの髪に合わせて櫛で梳くのは面白かった。
おくれ毛が出ないように念入りに髪を後ろへもってくる指が、彼の頬に当たった瞬間ぴくっと背筋が伸びた。あら、意外とリンクもくすぐったがりなこともあるんですね。
「それにしても、あの子は一体誰だったのでしょうね」
「幽霊かなにかだとは思うのですが、よく分かりません」
何となく見当はつく。でも分からないと思っていた方がいい。互いにあの女の子の正体についてはそれ以上詮索しなかった。
「今日いっぱいは解いてはなりませんよ」
「仰せのままに」
誰かの髪で遊ぶなんて、幼い頃以来で楽しかった。三つ編みの最後、何で留めようかしらと見回して、リンクがいつもつけている髪留めが目に留まる。でも今日はそれを返す気にはならなかった。だって罰ですから。
代わりに隣にあった水色のリボンを手に取る。その瞬間、またリンクが驚く顔が見えた。こうなった可愛らしくリボン結びにでもしてあげましょう。
「髪留めは明日お返しいたしますね」
にっこり笑うと、彼はわずかにしょげた顔をしていた。