6 落人の休息
俺は、逃げた。逃げて逃げて逃げて、逃げた。
ゲルドの女たちにゼルダの身柄を抑えられた瞬間に、勝ち筋が見えなくなった。一度立て直さなければどうにもならないことを理解し、しかし退くと言うことに恐怖が走った。ゼルダを置いて逃げ出すことに恐れが膨らんだ。
守るべき人を置いて逃げることは何よりもの背反行為であり、生きる価値なしと烙印を押されるに等しい。その烙印を押すのが自分であることに頭を打ち砕かれた。
「くそっちがう、助けに行くんだ」
言い聞かせなければ、膝が笑うのを止められなかった。それでもなお、襲い来る刃をかいくぐりながら切り返す。
逃げる隙を作ってくれたのは、誰でもないゼルダ。しかも逃げ出したのは俺だけ。
父さんの死期が迫っている話をされた時、インパ様に「ゼルダ様」と呼ばれて顔を上げた、あの時のゼルダ様になっていた。
妹じゃない、俺の知らないゼルダ様だった。
「くそ、くそ」
息が切れても走り続けた。俺はゼルダ様に救われた。そうでもしなければ、ウルボザというゲルドの族長には、あのままではどうにもできる見込みがなかった。
只の剣の技量だけならばおそらく負けはしないし、雷の力に追い詰められても引き分けるぐらいには勝機があった。一撃は重たいし、押し引きが恐ろしいほど上手い。だが負けはしない。
ただ、部下を使った物量作戦、それから目的が俺を殺すことではなくゼルダを捕らえることだという点において、俺は負けた。多対一の基本は戦わないことだが、力の泉の地理的形状に選択肢を封じられた。泉に足を踏み入れた時点で、俺の負けは決まっていた。
「くそがっ!」
ゲルドの女兵士たちに追われ、無茶苦茶に走り回った。今でこそ怖くはないがライネルにも遭遇し、相手にしている暇なく慌てて迂回したりと、ともかく方向を見失い逃げまどった。
ずっと使っていた剣は途中で折れて使い物にならなくなり、盾も燃え尽きた。今、手にしているのは魔物から奪ったリザルブーメラン。でもそろそろこれも折れる。
気付けばだいぶ熱く、高く、デスマウンテンの山の方へ追いやれていた。
「熱い……」
汗の滴っていた辺りを手の甲で拭ったが、もうそろそろ汗も出て来なくなる。体が渇き始めていた。
いつの間にかゲルドの女兵たちは追うのを諦めたらしいが、今度は火吹きリザルフォスに追いかけまわされていた。一匹一匹は大したことはない。ただ息を吐く間もなく襲撃され、岩オクタに遠くから狙撃され、岩陰に身をひそめようとすればマクロックやファイアチュチュが起き出してくる。気の抜ける時がなく、一昼夜以上もの間、俺は黒いオルディンの山間を逃げまどって体中に大小数えきれないほどの傷を負っていた。幸いだったのは傷跡が膿まずにすぐ乾くことぐらい。
まさかこんな熱い場所へ逃げ込むとは想定していなかったので、耐熱装備も薬も一切ない。慌ててヒケシトカゲを捕まえて耐熱効果を含む黒い鱗を削いで口に含んだ。渋くて不味い、でも体に火がついて死ぬよりはマシ。初めて知る敗残の兵の気持ちは、固くて不味いヒケシトカゲの鱗だった。
「ちくしょう!」
悔しかったし、あの場で死んでしまえたらいっそ楽だったとさえ脳裏によぎる。でも死ねなかった。
どうにかしてゼルダを奪還してやろうと、ウルボザたちがハイラル城へ帰還するルートを考える。必ずアッカレ砦を通るだろうから、襲撃するならばアッカレ地方とオルディン地方の分かれ道であるトモエ峠だ。
だが俺には荷物はおろか、追いつくための馬すらない。しかもどうやら見当違いの方向へ逃げてしまったらしく、宵闇に赤い溶岩流の照り返しが見えた。
熱と喉の渇きで疲労がピークに達する。
煎じて薬にしていないヒケシトカゲの鱗では効果も薄く、じりじりと炙られ、いずれ焼かれて死ぬ。水分が一切ない土地で、時折見かけるオルディンダチョウを捕らえては血をすすって水分を取ったが全く足りない。
「くっそ……くっそぉ……」
ついに膝が固い溶岩の地面を打った。
俺だって生きているんだから、いつかはどこかで死ぬんだろうなとは思っていた。
でもそのいつかがこんなところだとは思わなかった。ゼルダと何の関係もない場所で、一人無駄に死んでいくなんて、思ってもみなかった。
悔しかった。
「ゼルダ……」
もう唾液の一滴すら出てこない血だらけの口で名前を呼ぶ。
もっと大事だと伝えておけばよかった。大事な妹を守れるだけの力が欲しかった。あるいはもっと早く生まれていればちゃんと守れたかもしれないのに。どうして俺はゼルダとほとんど同い年で生まれて来ちゃったんだろう?
でも時機に考える力も無くなり、容赦のない熱に体の中心が蝕まれていく。焼けるに任せて俺は意識を手放した。
「お、目ぇ覚めたか」
いやむしろ、そのドラ声で起きた。
重たい瞼を持ち上げさせたのは、聞き覚えのない声。目の前には低い岩の天井、暗い家の中には熱がこもっていたが、それでも逃げ回っていた時よりもかなり涼しい。肌にべとつく感覚を覚え、どうやら燃えずの薬を塗ってくれたのだと分かった。
「おっと、まだ動かねぇ方がいいぞ。体中傷だらけで、生きてるのがやっとって感じだったからな」
起き上がろうとして全身の痛みで断念し首だけで声の主を探す。俺を助けてくれたのはゴロン族の人だった。髭と髪の区別なく真っ白い毛を顔一周に生やして、なんだかケーキみたい顔だなぁと思った。
どこかで見覚えがある気がして記憶を探るが、まだ頭の中がぼんやりとしていて思い出せない。
「ここ……どこ……?」
「ここはゴロンシティだ。おめぇこそ、なんであんなところにいた?」
「追われ……」
ハッとして一気に体中に血が巡った。反動で起き上がり、痛みに顔を引きつらせながらもベッドから足を降ろす。
こんなところで寝ている場合じゃない。ここがゴロンシティなら山を下ればアッカレとの境界だ。ちょうどいい場所に連れてきてもらえた上に、傷の手当と燃えずの薬まで縫ってもらえた。
急いで山を下れば、まだゼルダに追いつけるかもしれない。昔、父さんと一緒に護衛できた時の記憶を素早く思い出して、最短距離を割り出す。
「ありがとう、俺いかなきゃ」
「おいおい、やめとけって」
「助けに、いかな……うわっ」
一歩足を踏み出した途端、踏ん張りがきかずにバタっと倒れた。
体に力が全く入らない。
まるで自分の体じゃないみたいに言うことを聞いてくれなかった。
「んだこれ……」
「十日間も寝込んでたんだからあたりめぇだろう」
「十日?!」
体を巡った血が音を立てて引いて行った。
もうどう考えても追いつかない。
当然、ゼルダはウルボザに連れられてハイラル城へ戻っただろう。そうなったら俺にはもはや手の届きようがない。
一瞬忍び込むかということが頭をよぎるも、一度だけ遠景に見た城はあまりにも大きく、そこから人間一人を連れ出すことがどれだけ難しいかは想像に難くない。
「なんか訳ありなのは分かったが、とりあえず体を治せ、な?」
ゴロンのその人は、俺の体を易々とベッドに戻した。
なんだか体自体はずいぶんと軽くなった気がする、筋肉が落ちたと言うか。その一方で自分が感じる四肢は重たくなり、手足に鉛でも流し込まれたみたいだった。
ようやっとの思いで、右手で目元を覆う。真っ暗な世界がぐらぐらと揺れた。
「水飲んでおけな。それから燃えずの薬はたんまりあるから、やばいと思ったらすぐに塗るんだぞ」
声も出すことが億劫になりコクンと頷くと、ドスドスと歩く音が遠ざかりその人は去っていった。完全に気配が無くなってから思わず涙がこぼしたが、幸いなことにゴロンシティの中ですら温度が高すぎてすぐに蒸発していった。
俺を助けてくれたのは、ゴロン族のダルケルという人だった。
揃いも揃って腕っぷしの強いゴロン族の中でも特に秀でた豪傑で、一族をまとめる立場にあるらしい。道理で見覚えがあるわけだった。護衛で立ち寄った際に、おそらく遠目にでも見たことがあったのだろう。
一方でダルケルの方は俺のことなど一切見知った覚えがないらしかった。それはそれで逆にありがたい。今や俺は完全にハイラル中のお尋ね者だ。
「そんなんで顔隠してて平気か? 頭にも傷あったろ?」
「これでいい」
「そうか、まぁいいけどよ」
あいまいに答えて、ダルケルの好意に甘えさせてもらって耐火の石鎧一式を借りる。丁度顔が見えづらくなるし髪色が見えないので、街の中を歩き回る時はずっとその恰好をしていた。
ゲルド族と山中の魔物たちに追われて負った傷は、数こそ多いものの致命傷はなかったので治りは問題がなかった。倒れた原因のほとんどはデスマウンテンの熱だ。目が覚めてから五日もすれば完全に動けるようになり、痛みも後遺症もない。たぶんゴロン温泉に通ったのも傷に良かったんだと思う。
動き出してすぐに鍛錬を始めると、面白がってダルケルが石打ちをもって現れた。
「少し相手してくれるか」
「俺の方こそお願いする」
ところが俺の体躯にあった剣は無かった。目に入ったのはダルケルが持っているのと同じ石打ち。分厚い金属で作られた石打ちは両手で持ち上げるのにギリギリだった。これは不用意に振り回すと体の方が持っていかれてしまう。
「もっと軽い方がいいんじゃねぇか?」
「とりあえずはこれでいい」
萎えた体でどこまでできるかは分からなかったが、ともかく両手で振上げて何度か素振りしてみた。刃のない作りの剣だけに、膂力が物を言う。ダルケルはさすがに片手でひょいと持ち上げて、ぐるぐると肩を回していた。
試しに何度か打ち合ってみたが、案の定衰えた体では最初は全くダルケルに歯が立たなかった。一振りのもと、体が吹き飛ばされる。だがダルケルの方は感心して髭をごしごしとやっていた。
「よくその体で石打ちが振り回せるな。それだけでも大したもんだ」
「大抵の得物なら使えるけど、これは重たい」
「だろうなぁ。なんかちょうどいいモンを見繕ってやる」
「ありがと」
体を動かすこと自体は嫌いになっていなかったのでその日から、暇さえあれば俺はダルケルと鍛錬をすることになった。
すると段々と動けるようになってくるので、衰えた体が戻りつつあるのだと分かった。
また、ダルケルは怪我をしているならよく食えといって、食べ物をたくさんくれた。ロース岩を出された時はどうしようかと思ったが、齧ったら案外いけた。むしろ周りのゴロン族が、ハイリア人はそういうものは食べないゴロとダルケルに教えていた。おおらかな種族だなと思って俺は礼を言って食べた。
誰も何も聞かなかった。
傷だらけで倒れていた訳ありのハイリア人を、中央の憲兵に突き出そうという考えがまずない。倒れていたから助けた、それ以上のことは何もない。
俺の内心はその時、ぐっちゃぐちゃだったから、聞かれないことが正直ありがたかった。涙が出ないと言うだけで、頭の中はずっと吐き気でいっぱいだった。
「なあリンク、ちょいと知恵を貸してくれねぇか」
悶々と考え続けていた日、俺はダルケルにダルマー湖の北側に連れていかれた。珍しく石打ちではなく、巨岩砕きというダルケル専用の武器を背負っていることからして、どうやら魔物の討伐なのだとは分かった。
流れ出た溶岩流が大きな突起を形作る。その間を抜けたところ、溶岩の中に巨大な何かの塊が見えた。
「あれなんだが」
目を細める。なんだアレはと思わず眉をひそめた。
溶岩の池の中に何か巨大な塊が浮かんでいた。カレーの具みたいだと一瞬思ってから、だとしたら他にご飯を盛る場所が無くなるぐらいデカいなぁと思った。
「マグロックなんだ」
「あれが? デカすぎる」
「そう、デカすぎるからメガマグロックと他の奴らは呼んでいる」
「アレを倒すのか?」
「近づかなきゃ悪さはしねーんだが、しかしお前みたいに知らずに近寄るやつもいるしなぁ」
ダルケルは困り顔でぼりぼりと頭を掻いていた。
最近は面倒で燃えずの薬は塗っていない。石兜の隙間から見上げると、小さい目がこちらを見た。
「言ってなかったか。お前、あのあたりで倒れてたんだ」
「……そう、だったんだ」
あたりを見回してもあまり覚えが無かった。もちろんどこをどうやって逃げたのかも分かっていなかったので当然と言えば当然。ただ、ダルケルがこのメガマグロックの様子を見に来なければ俺は確実にここでの野垂れ死にしていたわけだ。
だとすれば、ダルケルの手伝いをすることは、もちろんやぶさかではない。
「アレを倒せばいいの?」
「ああ、だがバカでかいうえに、溶岩の中に沈んでいるんじゃあなぁ。さすがの俺でも手が出せなくてよ」
「氷の矢は? 矢があるなら俺ができる」
「そんなもんはねぇ」
だとすると、使えるのはダルケルの馬鹿力と俺が借りている片手剣、それから弓ぐらいなものか。
しばらくうーんと考える。
使える手は多くない。ただ二人いるのならできることはいくつかある。
「じゃあ俺がアレをおびき出すから、ダルケルは出て来たところで足を狙ってみてよ」
「おびき出すってリンク、そんなことできんのか」
「急所を狙って射かければさすがに怒って出て来るだろう」
崖の上から滑り降りて、俺は巨大な溶岩の塊の前に立った。照り返しでむせ返るほど熱い。
おもむろに矢をつがえて適当にまずは当てた。
ゴゴンと音がして、巨体が持ち上がる。普通のマグロックは当然見たことがあったが、こいつはそれの数倍の大きさがあった。
ぶるぶると体を震わせてまとわりつく溶岩を落とし、メガマグロックのどこにあるのか分からない目が俺を捕らえる。照準を俺に合わせ腕をぐるりと振るい、溶岩弾が飛んできた。横っ飛びでそれを避け、体の真上にある弱点の鉱石を射る。キンと高音がして、メガマグロックの体がドンと溶岩の中に倒れた。
「おお、当たった!」
「まだ」
続けざまに三射、同じく鉱石の部分を狙う。寸分の狂いなくぴったりと黒い鉱石の部分に当てて様子を見る。
「よくあんなちっこいもんに当てられるな」
「あれぐらいなら当てられる。……それより、出てこない」
「だなァ」
溶岩の池の中から立ち上がったメガマグロックは、もう一度俺たちに照準を合わせて溶岩弾の腕を投げ飛ばしてきた。ただその場から一歩も動こうとはしない。
これでは倒せない。
ちまちまと急所を狙って行ってもいいが、それでは日が暮れる。さて、どうしたものかと首をひねったところで自分の装備一式を見た。
「もう一回あいつの体を転がしたら、俺を投げ飛ばしてくれる?」
「はぁ?」
「あれの上に投げてくれたら倒してくる」
「おおい、おまえそんなこと」
「ゴロンシティで作られた耐火装備だから大丈夫だろ」
返事も待たず、起き上がって次の腕を作ろうとしているメガマグロックの急所目掛けて矢を射る。同じく高い金属音がして、ドーンと巨体が溶岩の飛沫を上げて倒れた。
「早く!」
「ええい、こうなったらリンク任せだ、頼んだぞ!」
ぶっとくて丸い手が俺の腰のベルトを掴んで力いっぱい放り投げる。ふわっと宙に浮いた瞬間、久方ぶりの戦場の気配を見た。血が沸く。
同時に、ウルボザに負けた時の記憶が脳裏によみがえった。
初めての決定的な敗北。
あんなのはもうごめんだ。俺はもう負けられない。
ギリっと奥歯を噛み締めて、ちょうどいい具合にメガマグロックの上に張り付いた。さて、ここからは時間との勝負。こいつが気絶から立ち上がって俺を振り落とす前に勝負をつけなきゃいけない。
こんなんだったら石打ちを背負ってくるべきだったと後悔しながら、いわゆる幅広の片手剣を振るった。キンキンと金属同士の当たる音がして、黒い急所がどんどん削れていく。この調子ならどうにか目を覚ます前に倒せるだろう。
不安そうなダルケルの視線をよそに、俺はひたすら目の前の黒い鉱物に剣を打ち付ける。もうすぐ終わる。これでようやく一つ、ダルケルに礼ができる。
と思った矢先、剣が根元から折れた。
「げっ、やっば」
カランと軽い音と共に、折れた剣先が溶岩の池の中に落ちていった。もう回収すら不可能。手元にあるのは背負った弓だけで、他には武器になる物は何もない。
しかも間の悪いことに、もぞもぞと足元のメガマグロックが目を覚まし始めていた。揺れる熱い足元に、慌ててバランスをとる。
もう時間がない、しかし倒していないので元の場所に戻るのも難しい。
このまま振り落とされたら下は溶岩の湖だ、落ちたら死ぬ。どうする、どうすればいい。熱い空気を吸って吐いて、一瞬の間にいくつもの動きを想定する。
完全に暴れ出す前に一か八か、ダルケルのいる方に飛び降りようかと身をかがめた。
ところが。
「おおい! これを使え!」
と、ぶん投げられたのは巨岩砕き。
「ちょ! おいっ」
ぐるんぐるんと回りながら、その凶器は俺目掛けて飛んできた。というか、当たればメガマグロックではなく俺が死ぬ。そうでなくともアレを避けたら、どのみち武器が無くなる。
なんてものを投げるんだ、ダルケルは!
舌打ちをしながら目を凝らすと、急に視野がゆっくりに見えた。集中している時、世界が止まってみるような感覚に陥る。それと同じことが起こり、横回転で飛んでくる巨岩砕きの持ち手の向きが見えた。
「ッとっとと……」
ぱしっと小気味好い音で巨岩砕きの柄を掴み、ただあまりの重さにそのまま体を引っ張られる。
あぶねっと呟きながら、そのまま体を捻ると自分を中心に剣がぐるんぐるんと回った。そのまま軸をブラさないように、勢いを殺さないように、剣先をずらしていく。
回転切りとでもいうんだろうか、なんか違う気もするけど。
ダルケルが投げた剣の勢いをそのままに、巨岩砕きを何度も何度もメガマグロックの急所にぶち当てる。
あまりの衝撃に足元のメガマグロックはごろごろと暴れ出して、足元がおぼつかなくなるが、ここで押し負けたら溶岩に振り落とされるだけ。まだ完全には戻っていない筋力を総動員して踏ん張った。
「でいやぁぁぁっ!!」
ガツンと重たい一撃が最後に入り、黒い鉱石の塊が吹っ飛んだ。
途端に足元のメガマグロックから力が抜け、まるでからくり人形の糸が切れたみたいに大人しくなる。ゴトンと音がして、溶岩の湖の中にその体を沈めた。
それを確認し、はぁと息を吐き出す。
肩に担ぎ上げた巨岩砕きは、石打ちとは比べ物にならないほど重たかった。
「やったじゃねぇか!」
飛び降りてダルケルの元へ行くと大喜びで、ばんばんと大きな手が俺の背を叩く。痛い。でも嬉しかった。久々に勝った。よかった。
「でもこんな危ない物投げるなよ」
「わりぃわりぃ。いやぁ、でも助かった! ありがとうよ」
「俺の方こそ世話になってるから」
こちらこそありがとう、と言いかけて巨体を見上げると、ダルケルは感慨深げに腕組みをして頷く。
「よし! リンクを俺の相棒にしよう!」
「どうしてそうなる?」
「気に入ったからだ!」
「……あ、ありがとう?」
戸惑いはしたが、悪い気はしなかった。でも心のどこかでは、俺はそんな大層な人間じゃないという気持ちが消えなかった。
メガマグロックを打ち倒した噂はすぐにゴロンシティでも広まって、もちろん広めたのはダルケルなので話に尾ひれがついて大変なことになった。ついでにダルケルが俺のことを『相棒』と呼ぶようになったので、他のゴロン族からも一目を置かれるようになった。なんだかむず痒かった。
でもずっと心の中はくすぶっている。
人目のないところでは、どうしてもムッとしたまま俯いていた。
ゴロンシティの入り口の門の上は振り返ると眺めがいい。気さくなゴロン族は何かと陽気に声を掛けてくれるのだが、どうしても一人になりたいときは門の上に立って山を見ていた。
火を噴く山。俺はどうしてこんなところに一人で居るんだろうかと、ぼーっとまとまらない頭に考えを巡らせる。
「どうした相棒」
夕暮れ時、そろそろメシだぞと、よくダルケルは呼びに来てくれた。今日もそんな調子かと思ったのだが、なんだか様子が違った。
「いや、考えごと」
「おめぇ、ずっと考えごとしてるよな」
「……バレてた?」
「気楽が性分のゴロン族だが、始終眉間にしわ寄せてるハイリア人がいればそれぐらいは察するってもんだ」
門の上に胡坐をかいて山を眺めていた俺に倣うようにして、ダルケルもどっかりと隣に胡坐をかく。二人して、夕日と溶岩の二つの火に燃え盛る山を眺めた。
無言がこれほど穏やかだと感じられる相手が、ダルケルで良かった。
「話してみる気はねぇか?」
「うーん……」
聞かないと言うだけで、まぁ気にはするんだろう。おおらかだからと言って、気遣わないというわけではない。むしろゴロン族の人々は温かかった。
どう考えても込み入った事情を抱えている俺を向かい入れてくれて、しかも何度か訪れているハイリア人の兵隊たちの目から隠してくれている。分かっていて俺をかくまっていてくれたんだ。
だとしたら俺はもうそろそろここを出なければならないのかもしれない。
と言っても、どこへ。
もう、守るべき人も奪われたというのに。
「俺、ある人の護衛をしていた」
「うむ」
「でも襲ってきた連中に負けて、しかも守るべきその当人に助けられて、俺だけ逃げ出した」
「それであんな山の中で倒れてたのか」
「うん」
口に出してみると、案外普通だった。
俺は負けて、逃げ出した。負け犬だった。
今頃ゼルダは辛い思いをしているかもしれないし、命の危険にさらされているのかもしれない。それなのに俺には何もできなくて、さらに突き詰めれば俺は自分の手で、ゼルダを守ることを放棄しかけていた。手の届かない物を守ることなど不可能だと言い訳をする。
もうできることは何もない。申し訳ないのと当時に、どうしてまだ命があるのか疑問でしかない。
俺がゼルダを守れなくなる時とは、つまり俺が死ぬ時ではなかったのだろうか。そのための護衛ではなかったんだろうか。
だからダルケルの言葉は驚き以外の何物でもなかった。
「そりゃぁ辛かったなぁ」
辛いって、俺が? どうして俺が? ゼルダの方じゃなくて?
言葉にしようとしても、頭に雷が落ちたみたいにちかちかして説明が出来なくなった。俺は辛いと感じてはならないはずだ。辛いのは守ってもらえなかったゼルダの方、俺は全然辛くない、むしろ不甲斐ない。
はずなのに。
「戦士が本懐を遂げられねぇのに生き残っちまうってのはつれぇことだ」
ダルケルの言葉は俺の背を押した。
押されて、ようやくどばどばと涙が出て来た。
そうか、俺辛かったのか。辛いと思ってよかったのか。
「俺、おれは弱い、弱かったから負けたんだ」
「相性ってやつもあるだろう? 俺も犬は苦手だしよぉ」
「でも負けちゃならなかった、しかも逃げるなんて弱虫がすることだった」
「だったら今から強くなりゃいい。それこそ勇者にでもなんにでもなっちまえ」
にかっと笑ったダルケルの顔がまぶしく見えた。大きくて硬い手がバンバンと容赦なく背を叩く。こいつの相棒で良かったなとこの時ようやく思えた。
「しかもその話だと、守らなきゃならない人ってのは、まだ生きてるんだろ?」
「生きてるのは間違いない」
そうだ。僻地のゴロンシティとはいえ、王城の姫君が逝去されたという話が届かない訳はない。まだゼルダは生きているし、幸いなことに俺も五体満足。
目が覚めてからずっと靄が掛かっていたようにだるかった頭の中が、すっきりと晴れていた。
「俺、行かなきゃ」
「ひとまずメシ食ってからにしろ!」
そのまま出て行こうとしたら止められて、しっかりと装備を準備するまで待てと言われた。義理と人情に厚いダルケルとしては、相棒を着の身着のままで見送るわけにはいかないのだという。
だったらと次いでとばかりに、俺は観光で来る人々にハイラルの事情を聴いて回った。今まで気にしない振りをしていたが、本当は街の外の様子が気になった。この後はどうせお尋ね者として顔を隠していかなければならないのだから、情報はたくさんあった方がいい。
「え、お姫様が戻られたの?」
「ゴロンシティにはまだ話が伝わって無かったのね。丁度ひと月ぐらい前だったかな。八年前に亡くなったって言われていたハイラル王家の姫君が見つかって、ハイラル城に戻られたのよ! 城下はもうお祭り騒ぎ、おかげで宝石が入り用でこうして買い付けに来てるってわけ」
ゲルド族の宝石卸はホクホクしながら大量のルビーやらサファイアを手に取っていた。彼女自身に恨みはないが、ゲルド族というだけでなんとなく嫌な気分になって背を向ける。
でも各地を歩き回る行商人たちの噂話は重要だ。
「ねぇ、他になんか面白い話ないの。俺ずっとここにいるからハイラル城行ったことないんだ」
「あら、それならいい話があるわよ」
ほう?と首を傾げる。
話をしながらそのゲルド族は、今度はダイヤモンドの原石を手に取って、小さいルーペを当てて中を覗き込んでいた。
「なんでも、厄災討伐のために兵員を増強するんですって。そのために色んな種族から兵隊さん募集しているらしいの」
「そんなの前からだろ」
「それがね、どうも近々大規模な掃討作戦があるらしくて、お給料もいいんだってさ。あんたも行ってみたら?」
へぇーと生返事をする。
兵員募集自体はかなり前からだったが、亡くなった父さんは兵員募集にだけは乗らなかった。もちろんゼルダを連れていることと、顔を知られている可能性があってのことだろう。
逆に俺は面が割れているのはゲルド族だけだから、兵員募集に潜り込むのは可能だ。正面から堂々と乗り込めそうだなぁと相槌を打つ。
「あとね、ここだけの話、王家は勇者を探してるんだってよ」
「勇者?」
そういえばダルケルもそんなことを言っていたなと思い出す。
何なら勇者にでもなんでもなっちまえ、と。
あの時はそれどころじゃなくて聞き流していたが、こうも話題が被ると気になってくる。勇者と言えばあれだ、伝説の剣を抜いて姫巫女と共に厄災を封じる役割を持つ人だ。おとぎ話で読んだことがある。
「なんでも、その戻られた姫君ってのが厄災に対抗するための姫巫女様らしくてね。ほら、ちょっと前にって言っても、あんたぐらいの歳じゃあ生まれてすぐかもしれないけど、えらい占い師が厄災復活を予言したでしょ? その姫巫女様が戻って来たから、次は勇者が現れるんじゃないのかって意味で、兵員を募集しているみたいなのよ」
「つまり、大量に集めた誰かの中に、勇者っぽい人が居ないのか探すってこと?」
「混ざってたらラッキーって感じじゃないのかしらね」
宝石卸のその人は、大量の宝石を買い付けてその日のうちに山を下りて行った。あれがそのうち、ゼルダの身を飾る宝飾品になるのかもしれない。
金銀細工に赤や青の宝石をはめ込んだネックレスやティアラ。綺麗だとは思う、でもそれをつけているゼルダの想像が出来なかった。そんなものをつけなくてもあの金の髪と翡翠色の瞳さえあれば十分だと思う。お祭りで買ってあげたヘアピン、ずっと気にいって付けてたけど、あれですら本当は要らないと思っていた。
そう言えば城に戻ったら髪の色も戻されるんだろうか。ずっと俺の妹の振りをするために染め続けていたゼルダの髪は、くすんだ麦穂色で痛んでしまっていた。あれが綺麗なつやつやの金の髪に戻るのならば、それはちょっとだけいい話のような気もする。
「……って何考えてんだろ」
ブツクサと文句を言って、俺はダルケルの家に向かって歩いた。
その道すがら、先ほど聞いた話を反芻する。
「兵員募集に紛れ込めば、城の中に入り込める……が、連れ出すのが問題か」
ダルケルが俺に十分な装備を揃えてくれるとは言っていたが、正直並大抵の装備では足りないだろう。何しろあのウルボザが控えているわけだし、他にも強い騎士がごまんと詰めているはずだ。
だからこそ、あの言葉が気になった。
「勇者ねぇ……」
勇者なんてものは正直おとぎ話か何かだと思っている。
小さいころから厄災復活の話は聞かされて育った。しかし、ただの一人が立ち向かって勝てる相手なら、軍が勝てない道理が分からない。多対一がどれほど無力なのかは、身をもって知っている。勇者なんてのは、おそらく言葉の綾か何かだ。
ただし退魔の剣にだけは興味があった。
伝説の剣と名高い、剣士ならば一度は耳にしたことがある。今はどこに眠っているのか分からず、誰も見たことが無いという。
勇者などというものはどうでもいいが、俺は退魔の剣が欲しいと思った。ともかく武器としてこの上ないそれを手に入れたいと疼いた。
「ダルケル」
「どうした」
「悪いんだけど、得物は自分で探すよ」
「どうした急に」
「その方がいい気がした」
「急だなぁ。まぁでも相棒がそういうんならそれでもいいがよォ」
せっかく俺用に打ってくれていた剣を辞すと、代わりに騎士の剣を用立ててくれた。王家に収めるうちの一本らしいが、そんなものをくすねて良いのかと聞くと「最近は受注が多いから気にするな」とのこと。
やはり兵員増強は本当らしい。
「んで、どこを目指すんだ?」
「俺、退魔の剣を探そうと思う」
ぽつりと、本当は誰にも言うつもりが無かったのだが、うずうずしていてつい言葉が出てしまった。ダルケルは一瞬怪訝そうにして、でも笑うことなく真面目な顔で首を傾げる。
「相棒は勇者にでもなるつもりか?」
「いや、勇者はいいや。俺は厄災とかそういうのはどうでもいい。本物の勇者が現れたらそいつに剣を返す、それまで借りる」
「でも抜いやつが勇者だろう」
「それでも俺は勇者じゃなくていい、剣の力が借りたいだけ」
「相棒はやっぱり変な奴だなぁ」
ガハハと快活に笑ってダルケルは送り出してくれた。
またいつか会いに来ると言うと、だったら美味い岩を土産に頼むと言われた。ゴンっと拳を突き合わせる。なんだかんだ言って、俺はダルケルの相棒という立場が気に入っていた。
背を預けられる対等の存在が、初めてだったからかもしれない。でもまた一人になる。少しだけ寂しい思いと、それから早くいきたいと急く思いを綯い交ぜにしながら「ありがとう」と手を振った。
こうして俺は一カ月半ほど世話になったゴロンシティを出て、再び放浪の身となった。どこへ行こうかなと首を傾げ、とりあえず道なりにデスマウンテンを降りていった。