5 力の泉
雨が上がりの明け方、密林をかき分けてレイクサイド馬宿に戻る最中に、あまりの寒さに私は震えが止まらなくなった。体の芯からの寒気で歯の根も合わないのに、喉の奥はひりつくほど熱い。
熱が出た、と気が付いた時には、震えで立つのもままならない状態になっていた。馬宿まで目と鼻の先というところで膝をつく。慌てたリンクが私を背負い、そのまま馬宿に駆け込んだ。
「ごめんおじさん、妹が熱出した! お金は後で払うから寝かせて!」
「奥のベッド使え! 入り用なものがあったら遠慮なく言えよ、坊主」
リンクと馬宿のおじさんのやり取りが遠い。熱くて寒くて朦朧とする頭が、闇の底へと落ち込んでいく。悪夢が姿を現すまでに時間はかからなかった。
『ゼルダ』
燃え盛る炎に取り囲まれて私は名を呼ばれる。声の主は重く暗く、歳をとった男のように聞こえた。聞き覚えはないはずなのに、どこか懐かしさがある。声のする方向から恐ろしいものが来る気がした。逃げたいのに炎に囲まれて逃げられない。泣きながら彼の名を呼んだ。
助けて、助けてリンク。
でも夢にリンクは現れなかった。どうして、いつもそばにいてくれると言ったのに、どうして大事な時に居てくれないの。
見えない手に全身を捕まれる感覚があり、声のする方へ動かない体が引きずられていく。嫌だ、あの恐ろしい声の方には行きたくない。泣きわめきながら無茶苦茶に振るう腕が、誰かに押さえられた。
だめ、いや、こわい……!
「ゼルダ!」
現実に私を引き戻したのは、正真正銘リンクの声だった。心配そうな顔が間近にある。
私の体は馬宿のベッドの上にあって、怖い声も無ければ炎の壁も無い。恐ろしいものは何もない。熱でかすんだ目から涙が零れ落ちた。
「ゆ、め……?」
「水が冷たかったからきっと熱が出たんだよ」
温くなった手ぬぐいが頬のあたりにずり落ちていて、背中には気持ち悪くなるほど汗をかいていた。喉がまだ張り付いていて上手く息ができないし、節々が痛くて手足もだるい。頭が金づちで叩かれているようにガンガンと響いた。
そんな私の額に手をやって、リンクはうーんと首をひねる。
「まだ熱高いね。馬宿のおじさんにはちゃんと話は通してあるから、しっかり治るまで休ませてもらおう」
「ごめんなさい……」
「気にしなくていいよ。初めての二人旅だから緊張したんだろ」
手ぬぐいを桶の水ですすいで絞り、もう一度額へ乗せられた。しっとり汗ばんだ頭を温かい手の平が撫でていく。その手の実態があることに安心して、再び瞼を閉じた。次のまどろみに炎の光景は出てこなかった。
それから二日間、馬宿の方の世話にもなりつつ私は風邪を治すことに専念した。城の外に出てすぐの頃はよく熱を出したが、最近はだいぶ体も強くなったと思っていただけに情けない。こんなことでは先が思いやられるとため息が漏れた。
熱が下がり、体調が戻ったところですぐに道を西へと向かった。細い谷間を抜けてウオトリー村へ。ヨロイカボチャはまだしも、ゴーゴーニンジンは早くしないと萎びてしまう。ギリギリのところで村に着くと、珍しい野菜だと喜んでもらえて、両方ともあっという間にはけていった。
そのうえで宿屋で二人、額を寄せ合って簡素な地図を覗き込む。
問題はこの先、どうするかということだ。
「このまま東へ戻っては、おそらくまた検問に引っかかります」
「だがこれ以上西側には海しかない」
「海を渡りますか?」
ウオトリー村は南に開いた小さな入江になっているが、西に広がるチャガラ浜の向こう側はハテール海だ。穏やかな海を北側へ漕ぎ出せばハテノ村の南側に着く。距離もそう遠くはない。ただし馬を連れていけない。
「うーん……」
唸るリンクの顔は曇っていた。たどり着くのがハテノ村の南だから、渋っているのだろうと思った。私のせいで家から焼き出され、私のせいで実の母と妹を亡くした地。
あれ以来、養父でさえハテノ村には近寄らなかった。足が付くと言うこともあろうが、リンクの心情を慮ってのことだろう。
でも今の私たちには他に道がなく、逃げ場もない。
「足を無くすのは痛い。しかし行商として魚を買い込むなら、早くしないと腐るから馬は売れない」
「……だとしたら行商の振りを諦めるか、山を越えるしか」
「山か。そういえば昔、ハテノ村からウオトリー村に行こうとしたことあったな?」
「結構距離ありますよ?」
「そりゃぁ、けっこう無謀な子供だったからね」
見開いた目でまじまじと顔を覗くと、リンクは苦笑いしていた。
確かに彼ならば歩いて魚を買いに行こう!などと言い出しかねない。まるでその手があったかと膝を打って、すぐさま宿屋の女将に山越えのルートを聞きに行った。
答えは「あるさ~」とのこと。
どうやらあまり使われていない山道があるらしい。しかし現在は途中にボコブリンが集落を作っていて、危なくて誰も通れなくなっていると言う。
「つまり魔物を排除したら、山の北側に抜けられるってこと?」
「あの魔物をどうにかしてくれるんなら、村から報酬出してあげるさ~」
「ほんと? その約束、忘れないでね」
病み上がりの私に休むように言って、リンクは「ちょっと行って来る」と言ってさっさと出かけてしまった。私にだって弓のたしなみがあるのだし、一人よりも二人の方が安全だから手伝うと言ったのだが、きっぱりと断られてしまった。
「病み上がりなんだから、ゼルダは休んでて。ボコブリンぐらい俺一人でどうとでもなる」
遠回しに足手まといと言われているような気になった。本人にその気がなかったとしても、熱を出して足を引っ張る私にはどうしても。
剣はまだしも、少し前まで弓は私の方がわずかに命中率は良かった。でもいつの間にか、似たり寄ったりだったはずの力量に随分と差が開いていた。ここ一年ぐらいのことで、まじまじと差を感じることが増えている。
当たり前と言えば当たり前。身長はさほど変わらないが、私は女の細腕なのに対して、リンクはもうずいぶんと体格が良くなってきている。しかも大人を凌駕するほど強い。
「どうしてこんなに違うんでしょう……」
ボフンと音を立てて宿屋のベッドに倒れ込んだ。熱が下がっても、確かにまだだるい。ひ弱な自分にどんどん嫌気がさして、浜辺を散歩しようという気も起らなかった。
もちろん幼いころに比べれば、随分と色々なことができるようになっている。姫として城にいたのでは、おそらく刃物の扱いすら覚えられなかったに違いない。それを考えれば雲泥の差。でも最終的にはリンクに守ってもらわないと、どうしようもない。
私が悶々と考え事をしていた半日の間に、魔物の集落を片付けたリンクは意気揚々と帰ってきた。まず先に私の体調を確認して、村の人から報酬をちゃっかり要求。さらにカボチャとニンジンの代金と合わせて魚を仕入れる。
ただ生の魚はそのままではさすがに持ち運びに耐えられないので、余計にルピーを渡して干物にしてもらった。
「お前さんたちまた仕入れに来るかい? こんなに買い取ってくれるんならお前さんたち用に獲ってきてやるさ~」
「売れ行き次第かな」
「だったら文句なしに売れるさ~。なんたってウオトリー村の魚は一番美味いからね」
胸を張るよろず屋の店主だったが、申し訳ないがおそらく次はないだろうと苦笑いをする。何しろこの村はハイラルの南の端で逃げ場がない。明確な罪人ではないにしろ、追われる立場である私としては、あまり入り込みたくない立地だ。
出来上がった干物を油紙で包み、馬の背に括り付ける。小雨にフードを被って村を出ると、すぐさま街道を外れて北上して山と山の狭間に入り込んだ。二つの山に挟まれた道らしい道のない高原を北へ進む。
その途中、破壊された魔物の集落らしきものを見て目を丸くした。
「これ、リンクがやったんですか?」
「半分はあいつらが持ってた爆薬に火が付いたからだけど、すぐに別のが住みついたら意味がないかなと思って全部壊しておいた」
元は段差のある大きな集落だったのだろう。それが今は焼け焦げ、無残な有様だった。その光景自体を惨いとか酷いとか思ったわけではない。
これを単独で、しかも往復半日足らずでやったと言うことに驚きが隠せない。
「確かに、私が行ったのでは足手まといでしたね……ようやく理解した気がします」
「あ、いや。そういうわけではないけど」
ばつが悪そうに頭を掻いて視線を逸らすリンクは年相応に見える。むしろ小柄なこともあって、年下にみられることもある。
その彼が、これをやった。
並大抵の力量ではない、大抵の大人も敵わない。リンクは強すぎる。外見と力量がまるで合わない彼が私の身を守る。
このいびつを生み出している根幹は一体どこにあるというんだろう。私自身には心当たりがなかった。
「おばさんの言う通りだ、よかった。抜けられた」
不安を黙したまま山間の狭い道を抜けると、ウオトリー村の人の言う通り、開けた場所へ出た。景色が変わり、海から山へ。
遠くにラネールの白い山体が見え、東ハテールに足を踏み入れた空気を感じる。
リンクにとっては懐かしい故郷、私にとっては最初の贖罪の地。自然と馬の足を緩め、西に目をやった。遠くに村の入り口で軍旗が靡くのが見える。
あの村に根を張っていた彼を、私は無理に引っこ抜いて自分の身を守るのに使っている。いたたまれない気持ちを口にすることもできず、先に動き出した彼の後ろを馬の足に任せて進んだ。
旅慣れた私の栗毛の馬は、大人しくリンクの乗る同じ栗毛の兄弟馬を追う。何の指示もないのに同じ方へ足を運んでくれる。この子たちのようにリンクと私も本当の兄妹だったら、もっと別の生き方があったのかもしれない。
どれだけでも溢れてくる『もしかしたら』を飲み込み押し黙って馬を進めていると、いつの間にかリンクは肩を並べる位置にいた。
「大丈夫?」
「ええ、はい、大丈夫です」
規則正しいつまおとを聞きながら夕日の差し込む方向へ、でも進むにつれてやはり罪悪感が膨れ、つい手綱をひいて足を止め、振り向いてしまった。
もうだいぶ西へきて、少し開けた断崖の上。余計にハテノ村の全景が良く見えた。
狭い斜面に段々になって肩を寄せ合う家々。風に揺れる旗、ラネール山に守られた小さく、穏やかな世界。あれがリンクの生きるべき場所だった。
もうこの後、リンクがハテノ村へ戻れる日は来られないんじゃないだろうか、いまハテノ村に行けば知り合いがまだいるんじゃないかしら。
「ハテノ村へ、行ってみませんか?」
小さくだが、言葉が零れ落ちた。
耳に届かない振りをして無視することもできたに違いない。でも私の声を無視せず拾い上げたリンクは、しばらく考え、でも首を横に振る。
「いや、あそこにはもう何もない」
ああ、やっぱりなと思った。
ここで私が謝れば、きっと彼は「気にするな」と言う。無理に笑って、寂しそうに首を横に振って、それで元気な振りをする。懐かしい風に吹かれるリンクは、決して後ろを振り向くことはない。
でも私が無理矢理にでも命じれば、あるいは聞き入れてくれるかもしれない。
無理を言ってでもハテノ村に行って、お別れをすればきっとそれは叶う。私の人生に巻き込まれただけのリンクを、元の道に戻すことができる。
一方で冷静に考えれば、彼が居ない状態で事の遂行は難しいのも理解できる。一人で三つの泉を巡ることができるのか、厄災と対峙する力が得られるのかと問われれば、否と答えるしかない。
だから彼の人生を解放してあげられる機会を私は見逃した。リンク自身もそれを望んでいないと言い訳を付け加え、言葉を選ぶ。
「……分かりました」
「お、ここ、鍋があるよ。ちょうどいいからメシ食ってくか」
私の方がハテノ村の見える場所に留まりたいと思ったのか、リンクの声はあっけらかんとしてた。
りんごの木の下に置かれた誰の物とも分からぬ古い料理鍋があった。最初は洗って使おうかと覗き込んだのだが、分厚く枯葉が積もっていたので諦める。仕方がないので売り物の干物を二つ引っ張り出して炙った。曰く、「売る前に味見が必要だ」として。
齧ると塩気がじわりと口の中に広がり、ウオトリー村の潮騒の音が聞こえる。目の前には山が、口の中には海が、なんだか不思議な気分。リンクは骨までボリボリと咀嚼して、私はちまちまち身の部分を剥ぎ取って食べる。先に食べ終わった彼はぼーっと村の遠景を眺めていた。
「あのさ、最初に会った時に約束した。家族をなくしたくないから居なくならないでって、あれ覚えてる?」
ツルギダイの皮のぱりっとしたところを噛み締めながら、私は首を縦に振った。
「もちろんです」
「あの約束があって、だから俺は今、納得している。ゼルダが気にすることは何もないんだ」
どうっと一陣の風が吹いた。
青い瞳が遠くハテノ村を見つめる。その横顔からは、確かな感情を拾い上げることはできなかった。
「全部ゼルダのせいだったのかもしれない。でもゼルダを守ろうと思うのは、それとはまた別。俺がやりたいからやってるんだ」
そんなことを、こんな場所で言うなんてずるい。
私の兄代わりの人は、不思議と生まれながらに騎士なのだと思った。本能がすべきと思うことに、理屈を求めない。どれだけ不条理であったとしても飲み込むつもりでいる。なんて理不尽な心強さ。反面、私は何て弱いんだろう。
干物の塩気よりもしょっぱい涙がぼろっと一粒零れた。
目尻を擦っているとリンクは「変なこと言ってごめんな」と私の頭を叩く。それからおもむろに立ち上がって遠くへ走って行った。
「リンク?」
「しょんべん!」
んもう、無神経!と、思わず叫びかけた。
そういうところは年相応かそれ以下なのに、どうしてだか妙なところで大人びる。時々見せる顔とあまりにも落差が大きくて、捉えどころがなかった。
そんな彼が、しばらくして首を傾げて戻って来る。
「なんか変な物があるんだけど、食べ終わったらちょっと来てくれる?」
干物を食べ終わった指をぺろりと舐めながら後ろをついていった。崖の縁の隙間に、なにか地の黒いものに這いまわる文様が刻まれたものが見える。
辺りは暗くなって見えづらかったが、一目見て古代遺物であろうというのは分かった。しかも非常に大きい。私が見たことがあるのはネジやバネといった小さなものばかりで、唯一見たことがある大型の構造物はゾーラの里にあった神獣だけだ。
ただ文様の太さから考えるに、神獣と同程度の大きさかもしれない。どうやらそれが、地中に埋まっている。
「古代遺物だとは思いますが、これは随分と大きいですよ」
「これってプルアとかロベリーとかに教えたほうがいいのかな」
「そうですね、カカリコ村に戻ったら教えてあげましょう」
そのまま一晩、リンゴの木の下で野営をして、朝日と共にハテノ砦へ向かった。ハテノ砦はハテール地方への玄関口であるが、いかんせん田舎ということ、またカカリコ村に近いと言うことで私たちの顔を見知っている兵も多い。
どうしてハテノ砦を通らなかったのにハテノの方から戻ってくるんだと聞かれて、ウオトリー村から魚が腐る前に山を越えて来たと答えたら大いに笑われた。ただそれだけ。
ゲルド族の検問の時のようなぎすぎすした感じは全くない。おかげですんなりと通してもらえ、一目散にカカリコ村に戻る。
ところが村にはインパ、プルア、ロベリーの姿はなかった。
「あの三人は王家からお声がかりがあって、正式に王立古代研究所に行ったよ」
「古代、研究所……?」
里に残っていた村長のインパ様は渋い顔でお茶をすすっていた。
「北ハイラル平原に王がお造りになった古代シーカー遺物の研究施設さ。以前から出入りはしていたからいずれはと思っていたが、まさかこんなに早くに、しかも若いのが全員召し出されるとはな」
よく見れば、カカリコ村には出発前に大勢いたはずの人が見当たらない。残されたのは年老いた者か子供ばかりで、随分と閑散としてしまっていた。私たちが旅立ってすぐハイラル城から正式に使者が来て、多くのシーカー族が招集されたのだという。
わずかな間の入れ違いで、お別れさえ言えなかった。
道祖神の周りには雑草が生え始め、インパが毎日手入れをしていたはずのお皿には、水が溜まってボウフラが湧いていた。
「とはいえ。俺たちにとっての目下最大の問題は、カカリコ村の人数が減ったせいで仕入れた魚がさばけないってことだよな」
「どうしましょう。腐らせるわけにはいきませんし」
大量の干物と睨めっこしてリンクと私はため息を吐く。ウオトリー村で仕入れた干物のうち、村で売りさばけたのは半分ほど。
ハイラル王に人員を招聘されたカカリコ村では、そもそも食べてくれる人が減っていた。日持ちするようにと干したとはいえ、慌てて北側のコポンガ村と南の双子馬宿に売りに行って、残りは自分たちで消費するのでしばらく魚ばかりになった。
「どうインパ様、美味しいでしょ?」
「うむ、味は良い。孫たちにも食べさせてやりたかったのう」
インパ様の御屋敷で頂くお食事が、まさか三人にまで減るとは思わなかった。以前はインパとプルア、亡くなった養父と共に囲んでいた長机が寂しく余っている。
食事の支度自体は、インパ様の世話役が他の家々から交代で来ていて滞りはない。ただ、人手の足りなくなったカカリコ村では、畑やコッコの世話で手一杯になっていた。
「まさか急にこんなに人が駆り出されるなんてね」
「ほんと、思いもよりませんでした」
手すきなら畑仕事を手伝えと言われ、帰って早々、ヨロイカボチャ畑の草むしりをさせられながら肩を落とす。数日は休息をとるつもりだったので問題はないが、なんだか異様な感じがした。
昼間は遊びまわっている子供までもが家事手伝いに精を出さねばならず、のんびりとしていた空気は一変してしまっていた。
「元々、シーカー族はハイラル王家に仕えている一族だからな。その時が来ればお役目のために馳せ参じると言い交してあったんだ」
「それにしたって急ですよね?」
「厄災復活の関係で何か動きがあったのかもしれないなぁ」
のんびりとした口調だったが、ヨロイカボチャを育てている翁は不安そうにしていた。
厄災の復活。
それはまだ私が城に居た頃から、大きな問題として取り上げられていた。お母様は来たる厄災の復活に備え、お力を十分に振るえるように準備をされていた気がする。それがあの泉での祈り、……だったように記憶していた。
実はそのあたりの記憶が、とても曖昧だった。
というのも、当時の私はまだ六歳。両親はもちろん、家臣たちも次代の姫巫女である私を戦力外として物々しい雰囲気からは遠ざけていた。いずれ関わる日が来るであろうことは理解していたが、あの時はまだ子供でいることを許されていた。
でもお母様が暗殺の危機を察知したことで、私の立場は一変した
子供であろうとなかろうと、私は厄災復活に際して必須の存在になってしまった。もはやその事実はどう足掻いても覆らない。
「そういえば南で検問敷いていたのがゲルド族だったよ」
「最近は各種族に対して、各地で旅人を検めるようにとお達しが出てるからだな」
「だから変なところにゲルド族がいたのか。厄災信奉者の対策って言ってる人が居たけど」
「あながち間違いではない、おそらくイーガ団のことだろう。元が同胞とはいえ、王家への恨みのためにハイラルを沈めようだなんて正気の沙汰とは思えんよ」
翁は曲がった腰を伸ばして大きくため息を吐いた。
うっすらと話に聞くイーガ団という厄災信奉者たちの存在が、おそらくお母様の命を奪ったのだろう。しかも私を逃したと言うことは、城の内部に入り込まれている。今の無力な私が城に戻るのは、自ら進んで蜘蛛の巣にかかりに行くようなものだ。
だから力を得なければならない。そして厄災を封じ、リンクを自由にする。私の目標は明確だった。
そこで私は早めに村を出ようとリンクに提案した。老人と子供ばかりが残された村の中で、一番年上になってしまっていた私たちは比較的目立っているのも気がかりだった。早くアッカレ地方の力の泉へ赴き、己の務めを果たしたい。
「ただ、問題はアッカレ砦だ」
「そうなんですよね……」
額を突き合わせて睨めっこするのが、干物から地図に変わった。
ハテノ砦はただの関所。旅人が通るのを監視しているだけの穏やかな砦なのだが、アッカレ砦は違う。あそこは軍事要塞だ。
外海から来る夷狄を打ち払うために作られた堅牢な城、下手をしたらハイラル城よりも堅牢かもしれない。そのため検問は厳しく、怪しいと思われたら何をされるか分からない。
しかもアッカレ砦よりも先に村はなく、行商という言い訳は難しい。行商の行き交うことが少ない地方ゆえに、同じく護衛を必要とされることも稀。そもそもアッカレは閑散としていて、あまり人が立ち入らない土地なのだ。
「いっそのこと、ゾーラの里の北側の山を越える?」
「しかしそれで万が一にも見つかったら言い訳がつきません」
「だとしたらやっぱりアッカレ砦をどうにか正面から堂々と超えなきゃいけないんだ」
うんうんと唸る私たち二人。そこへカラカラ音の出る木札が投げ込まれた。
「これを持っておいき」
面倒くさそうに腰をポンポン叩きながら、しかし足音一つ立てないインパ様が戸口に立っていた。木札にはシーカー族の印が描かれていて、それが二人分。裏を見ればインパ様の名前があった。
「シーカー族の隠密がもつ証じゃよ。それがあれば砦は何も聞かれずに通してもらえる」
「俺たちシーカー族に見えないけど?」
「逆じゃ、たわけ。シーカー族が変装したハイリア人として通ればよい」
なるほどそのための身分証。さすが隠密の一族、ハイラル各地での活動のために、ちゃんと策を用意してあったのだ。それを私たちがこっそり利用しても、村長であるインパ様の指図であればバレる確率も低い。
「これ、最初っからもらっておけば南へ行くのも楽だったんじゃ……?」
「無くても通れるならばそんな危ない物は渡さん。良いか、シーカー族と偽るのであれば、それなりの覚悟をせぇ」
王家の裏を知る一族の長らしい、重みのある言葉だった。
ありがたくそれをお借りし、私たちは再び旅立つ。今度は北に向けて。とはいえ途中まではゾーラの里やゴロンシティへ行く人と同じ道を辿る。道中のんびりと各地の話を聞いた。
ゾーラの里やゴロンシティでは巨大な神獣と呼ばれる古代遺物が発掘されたとのこと。
ハイラル城の北では、迷いの森が魔物で荒れ始めたこと。
南へ行った人からはゲルド族が昨今、厄災信奉者たちと一戦交えたこと。
はたまた北ではリト族の戦士たちがハイラル王の御前で弓術大会を行ったこと。
どこもかしこも、きな臭い話ばかりだった。
「最近はめっきり魔物も増えたしなぁ。厄災復活ってのはやっぱり本当なのかね」
そう呟いた旅人とはゴロンシティへと続く山道の二股のところで分かれた。左へ行けばデスマウンテン、右へ行けばアッカレ砦という分かれ道。
「アッカレに用事なんて珍しいね」
「あっちに住んでいる知り合いがいるんだ」
「奇特な知り合いもいたもんだね。じゃあ道中気を付けてな」
「ありがとう。そっちも燃えずの薬ちゃんと飲んで気を付けてね」
「あれは塗るもんだぞ?」
「飲んでも効くよ」
「そんなやつは初めてだ……」
笑って別れたが、もちろんそんな知り合いはいない。だが行かねばならない以上、嘘をついてでも歩を進める。軍のために整備された石畳の街道を進んだ。
たどり着いたアッカレ砦はまるで山だった。
高くそびえたつ要塞が黒々と影を落とす。砲門がいくつもこちらを向いて、不用意な動きをすれば、すぐさま命が無くなるだろう。辺り一帯は物騒な気配に包まれていた。
アッカレ地方へと向かうアッカレ大橋は強大な要塞の脇にある。橋に近づくにつれて正規のハイラル兵たちの鋭い視線が、すでにこちらへ向いていることに気が付いた。
私たち以外に旅人の姿がほとんどいないのでとても目立つし、男女の若い二人組。他の人たちには、私たち二人はどのように目に映っているのだろう。不謹慎だけど、ちょっとだけ別の意味でドキドキした。
「止まれ、荷を検める」
橋の手前で止められ、下馬して鈍色に輝く鎧の兵士について行った。通された拠点の内部は、ぴりぴりと空気が張りつめていた。
積んだ荷の奥底深くまで確かめられ、私の着替えなども容赦なく覗かれた。ただ、巫女の服だけは見つからなかった。あまりにも目立つ品なので、鞄の底を二重にしておいたのが功を奏した。
「して、目的は?」
必ず聞かれるその問いに、すかさず懐に入れていた木札を見せた。カラコロとなる。
「我々は御用を賜っておりまして」
この文句を正確に言うようにと、インパ様からの指示だった。
案の定、隊長の赤い房飾りをつけた兵士の顔色が変わり、突き出した木札をもぎ取る。裏書きを確かめられ、丁重に返された。
「お勤めご苦労。通ってよい」
「ありがとうございます」
なんて訓練の行き届いた兵士たちなのだろうかと感心する。
訓練が行き届いているからこそ、私たちは偽りで通り抜けることができる。ありがたい反面、職務に実直なだけの彼らには申し訳ない。顔を伏せて隠した。
「お役目しっかり果たされますよう」
ひっそりと伝えられた言葉に体が強張った。この先で私たちは何らかの任務を遂行すると、この人たちは信じているのだ。騙しているのだ。
偽りで全身を固めてでも、私は泉に行って祈りを捧げなければならない。
でも不意に、どうしてなんだろうという疑問がふと頭の中に浮かんだ。どうして各地に女神像はあるのに泉で祈るのかしら。祈ると何が起こるんだろう。
そもそも祈りって、何なのかしら?
初めて思い浮かんだ懐疑的な何か。それを捉えようとしたのだが、鮮やかな紅色をした木々の立ち並ぶ風景を見た瞬間、消えてしまった。
「抜けられてよかった」
「正直拍子抜けでしたね」
馬の足並みに任せ、赤い葉が舞うアッカレ地方に入った。なだらかな大地に特有の赤い木々がまばらに彩りを添える不思議な風景。からりと晴れた青空に赤い色が良く映えた。
海も近いし気候も良いのに、不便なこともあってあまり人が住み着かない。なんだかもったいない土地だなと思った。
「力の泉はオルドーラ盆地の奥だったよね」
「不思議な岩が立ち並んでいる、あそこでしょう」
馬を並べて見下ろした先、一段低くなった場所に盆地というには極端なほど陥没した場所があった。丸い岩が立ち並び、まるで迷路のようになっている。その奥に力の泉はあるという。
上から地形を確認し、迷子にならないようにあらかじめルートを確認する。泉へ通じる入り口は、誰が整備しのか綺麗なアーチの形をした通路になっていた。
「着替えられる場所あるかな」
誰もいない静かな通路に足音がこだまする。奥に見えた静かな泉、ここで私はまた祈りを捧げる。
誰に?
もちろんそれは女神だが。では女神に一体何を願えばいいのだろうかと、また疑問が首をもたげた。通路を抜けて開けた場所へ出る。その奥に大きな女神像が立っていた。
その像を見上げた瞬間。
「伏せて!」
リンクの鋭い声が薄い思考を切り裂いた。
足元近くで矢が跳ねる。
「なんですか?!」
「ゲルド族だ……!」
力の泉は周囲を一段高く崖がぐるりと一周めぐっている中にある。泉の水が滝になって落ちてくるその上段に、弓をつがえた大勢のゲルド族の女兵士たちがこちらを狙っていた。
赤い髪と褐色の肌、アッカレには似合わない風体。
「あんたたち、フィローネ樹海で検問を通った兄弟、リンクとセラ、だったかい?」
取って返そうと振り向いたそこにいたのは、ウルボザその人だった。
他のゲルド族に比べると小柄だが、気迫のほどは見間違えようがない。同じく槍を持った配下を引き連れて道を塞ぐ。大ぶりの耳飾りを揺らし、視線を突き刺した先は私ではなくリンクだった。
慌てて二人で礼を取る。視線を合わせないように、顔を見られないように、気取られないように頭を下げる。
「はい、我々は御用を賜っておりまして」
リンクはインパ様から伝えられたとおりの文言を繰り返し、懐から木札を取り出して見せる。
端々からの情報を合わせて考えれば、ゲルド族がハイラル王から正式に各地の検問を仕切っていることは間違いない。そのためにも族長であるウルボザが、シーカー族の隠密の証を知らないわけがない。
幸いにも私はまだ巫女服を着ていなかったし、力の泉に足を踏み入れただけで何もしていない。私が王女のゼルダであることの証拠は何もない。どうか何かの勘違いだと思って欲しいと願う。
でも木札は切って落とされた。
「やはり知恵の泉の次は力の泉か。賢しい真似をするんじゃないよ!」
ひゅんと空を切る鋭利な音がして、次の瞬間、火花が散った。
戦士の命のやり取りに開始の合図はない。剣がかみ合えば、すでに斬り合いが始まっているのだ。
いつの間にか背負っていた剣を抜いたリンクと、ウルボザの鋭利な刃が嚙み合ってギリギリと音を立てていた。
「あんただね、私の友人の娘をかどわかしたのは! そっちの娘がゼルダ姫だろう?!」
朗々たる一声と共に、私はゲルドの女兵士たちに取り囲まれた。
思わず背負っていた弓を構え、リンクに背を預けて矢をつがえた。だがむやみにゲルドの兵士に向けて矢じりを向けることができない。
私は人を傷つけることだけはならないと養父からきつく言われていた。
リンクはよい、ゼルダを守るためだから堂々と剣を抜け。しかしゼルダは駄目だ、お前は人に刃を向けてはならない。それが養父の言いつけだった。
私の身の上を知る養父は、王女である私に直に人殺しをさせたくないのか、どうしても魔物や獣を狩るのは良いが人だけはならないと許してくれなかった。だからつがえた矢じりは震え、上手く相手に照準を合わせられない。
それにゲルド族の女兵士たちは、私だけならば傷つけるつもりなどないのも明らかだった。向けられた槍の穂先は低く下げられて、じりじりと距離を図っているだけ。無理に踏み込んでくる気配はない。
「退いてください! お母様を知っていらっしゃるのであれば、なおのこと私を捕らえるのは止めてください!」
「やっぱりあんたが、あの御ひい様なんだね?!」
御ひい様。その呼び方、確かに記憶があった。
芯の強そうな、でも優しい朗らかな声。穏やかな春、東屋で、在りし日のお母様に連れられて、お会いした。お膝に乗せてもらった。お綺麗で強くて、憧れた。
あの時会ったあの女性が、ウルボザに間違いない。
声が呼び水となり、蓋をしていた城での記憶がどんどん蘇ってくる。お母様のことまで涙と一緒にあふれ出てくる。
「ウルボザ……?」
「そうだ、私だよ、御ひい様。あんたをどれだけ探したか!」
「……お母様の、お友達の……」
「力を宿したあの人が、娘のあんたを守れなかったとは到底思えなかったんだ。誰かが連れ出したのだとは思っていた。そうでなければ、六歳とはいえ骸が焼けて見つからないなんて、そんなバカなことがあってたまるものか!」
私を見るウルボザの瞳はとても優しかった。本気でこの人はゼルダ姫である私を、あの城を抜け出た夜からずっと探してくれていたのだ。
でも同時に、私と背中合わせに剣を抜くリンクへ向ける視線は敵意に満ちていた。リンク自身、あるいは誰かに命じられたリンクが私を奪ったと考えたのだろう。
「あんただね、私の可愛い御ひい様を、今まで隠していたのは」
「待ってくださいウルボザ!」
「行方不明になって何年だと思う? 八年さ、この八年間ずっと探し続けて来たんだ。さぁ御ひい様をこちらに渡しな、坊や」
聞く耳持たず、ウルボザの曲刀が再び閃いた。
直刀とは異なる緩やかな軌道を描いて振るわれた刃は、いっそ優美ですらあった。その曲線をリンクは難なく受け止め、高い金属音で押し返す。まさか女傑と名高い自分たちの族長の一撃を、この小柄少年が易々と跳ね返されるとは思っていなかったゲルドの女兵士たちはどよめいた。
喧騒を割り、この場にたった一人の男が低い声を出す。
「俺はこの方をお守りするようにと言い遣った。だから誰であろうと、ゼルダが嫌がるのならば敵とみなす」
「一国の姫君を守るには、随分と幼い騎士殿だね!」
黒地のスカートが蝶の羽ばたきのように舞った。ぐるんと振るわれる曲刀が鋭利な弧を描いて白い軌跡を残す。その間に金属の打ち合う音が何合か響き、目にも止まらぬ速さで二人の剣が互いに触れ合い、弾くのを繰り返す。戦場は泉の中にまで広がり、派手な水しぶきが上がった。
その最中、ウルボザの渾身の一撃を、リンクは盾ではじき返した。
たたらを踏んだところへ小柄な体が一気に迫り、容赦のない切っ先が刺し込まれようとした。崩れた体勢で、あっと見開いたウルボザの瞳。
だが刃を繰り出す寸前のところでリンクは後ろ飛び退いた。
「……ッ」
一拍遅れて、数本の矢が彼のいた場所に突き刺さる。
もう一度、私と背中合わせになり、リンクは止めていた息を大きく吐き出した。私も彼も、びっしょりと嫌な汗をかいていた。
「なんて坊やだい……これは本気を出さなければならないか」
ウルボザの声がにわかに鋭さを増し、相対するリンクの殺気も膨れ上がる。
どうにかして二人を止めなければならない。双方私のために戦ってくれている、本来敵同士ではない。ただ事情が込み入り過ぎている。
言葉を探しているうちに、もう一度リンクとウルボザの剣が火花を散らし始めた。
力だけならばウルボザの方が強い。ただ反応速度はリンクが上回る。二人の戦いはあまりにも練度が高すぎて、加勢しようにも私もゲルドの兵たちも手出しができなかった。辛うじて目では追えるのだが、まったく腕がついて行かない。出せるのは声だけ。
「二人とも誤解なんです、お願い退いて!」
「騙されちゃいけないよ御ひい様」
「俺に構わず逃げろ!」
どちらも正しい。
どちらも私のため。
どうすればいい、どうすれば誤解を解ける?
頭が空回りするなか、目の前の女兵士への牽制が一瞬だけ疎かになった。その間隙を狙い撃ちした槍の穂先が、私の構えた弓の弦が弾いて切る。ぱちんと音がして、丸腰になった。途端、たくさんの手が迫り、私をもみくちゃにする。
「やめて、離してっ」
「ゼルダに触るな!」
「よそ見するんじゃないよ!」
今度はリンクの体が吹き飛ばされる番だった。
先ほどとは逆、ウルボザの盾がリンクの剣を弾く。だが体格がまるで違うので、リンクは踏みとどまれずに後方に大きく弾き飛ばされた。足場の悪い泉の中で大きな水柱が上がる。
「リンク!」
目を見張るも、ただ転がされる彼ではない。吹き飛ばされると同時に受け身を取り、反転するとすぐさま水飛沫を上げてもう一度切りかかる。
彼の突進を待ち受けるウルボザは、ところが左手の盾を宙へ放り投げた。
緑の縁取りに金細工が映え、色とりどりの石が嵌められている丸い盾。それが直上へと投げられる。アッカレの朗らかな陽光をきらきらと反射した。
誰もがその盾に目を奪われた。もちろんリンクでさえも。
すっきりと晴れた青い空に舞い上がった盾と、パチンと鳴る指の音。
蒼穹に雷光が走った。
「逃げて!」
轟音と共に泉に雷が落ちる。
そう、砂漠の女傑は曲刀と雷の遣い手。彼女と戦うとはすなわち、天災の一つと戦うということ。常人ではおよそ抗いようのない力を持つウルボザに、果たしてリンクはかろうじて立っていた。しかしどう見ても満身創痍。
手足の末端が黒く焦げているのに、泉の水が髪の先からぽたぽたと滴り落ちる。
「私は大丈夫ですから、リンクは逃げてください!」
「ッ……駄目だ」
顔をゆがめ、肩で息をして、切れた口から血を吐き出す。こんなリンクは見たことが無かった。最近はどんな相手にも後れを取らず、飄々と相手をなぎ倒してきた。それがどうしたことか、体の至る所から血を流して立つのも精一杯。
ただし、それでも剣先だけは下げなかった。戦う意思はまだ残っている、けれど体が追い付かないでいる。捕らえられた私と、未だ剣を構えるウルボザとを交互に見て、苦し気な息を吐きながらも考えを巡らせている顔をしていた。
あれは止めなければ、戦い続けて死んでしまう顔だと直感した。
「かしこくもハイラルの姫君の前だ、斬らずにおいてやる。……そいつを生かして捕らえろ」
私を手中に収めたゲルド族の兵士たちは、今度こそ槍の先をリンクに向ける。前には槍とウルボザが、後ろからは多くの矢じりが、彼を取り囲む。逃げ場はない。
止めなければ、私がこの場で一番の台風の目なのだから、止めなければ……!
「やめてください」
場の空気が一瞬にして凍った。でも自分の口から出た声に、一番びっくりしたのは私自身。
腹の底から湧き出る、人をあしらう時に使う声。お母様がここぞという時に使われた、他者に何かを強いるときに発する声。それが自然と私の中から零れ出た。
あのウルボザでさえ、一瞬ひるんだ顔で私の方を見やった。申し訳ないが、その顔を真正面から睨む。
これ以上、リンクに手を出さないで。
その人を傷つけたら許さない。
わずかにできた一瞬の隙に、リンクは身をひるがえして泉の周囲の岩壁を登って弓兵を蹴散らす。
「ゼルダ……!」
絶望の滲む顔がこちらを見て、あの青い瞳が歪んだ。
でもそれでいい。あなたは逃げて、そして自由になってくださいと頷く。
「私は大丈夫ですっ」
遠目にも分かるほど、リンクの顔がはっきりと歪んだ。ぎりっと音がするほど奥歯を噛み締めて、彼は泉の外へと逃げていった。慌てて追う兵士たち。
しかし、ひとたび逃げると決めたリンクに、果たして彼女たちは追いつけるかどうか。
やれるものならばやってみろと肩を怒らせて、私を抑える手を振り払った。仮にも『ゼルダ』の護衛を務めていた彼が、そう易々とは落とせないことを思い知るがいい。
「彼のことは見逃してください」
「御ひい様、あんた……」
自分の言葉が、お願いなどという生温いものではないことは自覚があった。忘れていた人に命じるという感覚が蘇る。
そうだ、私は六歳の時点ですでに人の上に立つ者だった。その感覚は倍以上生きたとしても抜けきることはない。
「城には戻ります、抵抗もしません。だからリンクをもう追わないでください」
「……分かったよ」
「すいませんウルボザ、長らく苦労をかけました」
誰もが皆、正しいと思って行動している。女神に誓って、誰も悪いなんて思っていない。
この場には、きっと悪意などというものは存在しなかった。
ぶつかり合ったのは互いの正しいという気持ち。けれど力の泉の女神像は静かに見下ろすだけで、誰にも何も正解を与えなかった。
「あいつは、御ひい様の一体何だったんだい?」
八年。それが私の逃避行の年数。
姫であった私が死んでいた年数。
ただのゼルダとして生きた年数。
リンクと私が兄妹として穏やかに暮らしていた年数だった。
「大事な家族で、兄でした」
十四歳、私は兄であった人と分かれ、一人心細いままハイラル城へ戻ることになった。こうして私は、再びゼルダ姫として生きることを余儀なくされたのである。