4 勇気の泉
私とリンクは成人しない子供二人だけで旅をするにあたり、護衛業の傍ら旅の行商を営む兄妹に扮することにした。扱うものは何が良いかと相談した結果、カカリコ村の特産品であるゴーゴーニンジンとヨロイカボチャが妥当であろうとして互いの荷物に積む。
通常、のんびりとロバを曳く行商が多い中で、馬で荷を運ぶ私たちは少し奇特にみられることはあった。しかし本業が護衛なのだと言えば大抵の人は納得する。
「んじゃあそのうち機会があったら護衛を頼むかな」
「いいよ、美味いメシ食べさせてもらったからまけてあげる」
魔物退治のお礼にと昼ご飯をご馳走してくれた旅人に笑って見せるリンク。その体つきを見れば、ただの行商ではないと気が付く人は多い。何しろ一年弱、一人で護衛業をやっていたので、以前とは見違えるほど逞しくなっていた。
代わりと言ってはなんだが、亡くなった養父の世話をずっとしていた私は少々腕が鈍った気がする。鍛錬を欠かした覚えはないのだが、やはり一日ずっと歩いていた頃に比べれば二の腕や腰回りがわずかに太ましくなっている。
さらに追い打ちをかけるように、久方ぶりの馬での長距離移動で腹筋が痛くなり、落ちた筋力に愕然とした。
「もう少しちゃんと鍛錬をしておくべきでした」
「普通の女の子よりはずっと強いけどね」
「そうはいっても長距離での移動が堪えるのでは問題です。雨が降る前にハイラル宿場町につけるといいのですが」
「あの雨雲とどっちが早いか勝負だな」
遠くに黒雲を見ながら、双子山の間を抜けて一路西へ。フィローネ樹海へ向かうにはハイリア大橋を渡って南へ向かうのだが、その前に宿場町で一泊する予定だった。
ハイラル平原の南に位置するハイラル宿場町が平原でも有数に賑わっているのは、南北を繋ぐ要所であるハイリア大橋のたもとにあるからだ。ウオトリー村から海産物や樹海の珍しい果物を中央ハイラルへ持ち込む人もいれば、私たちのように樹海の奥にある勇気の泉へわざわざお参りに行く者もいる。
その宿場町に着いたのは夕方近くで、今にも泣きだしそうな空を見上げながら宿に駆け込む。直後、音を立てて雨が降り出したのでほっと一息ついた。ここより南は雨や雷が多い。足元に気を付けなければ。
アデヤ村に近いからか、狭苦しい宿の食堂で出されたのは大盛りのアデヤ鍋だった。カニの出汁がたっぷり染み出したスープに何種類も魚が入っていて美味しい。舌鼓を打っていると、隣から同じような身なりをした護衛業らしい若い男に話しかけられた。
「お前さんたち二人旅かい」
「兄弟で護衛業の傍ら行商してるんだよ」
「その歳でか、大変だなぁ。次はどこへ行くんだ?」
「ウオトリー村まで。カボチャとニンジンを売って、魚でも仕入れてこようかと思って」
軽やかに偽りを言うリンクの隣で、私はひんやりと嘘を噛み締める。ウオトリー村まで足を延ばすというのは真実だ、でないと積んだ荷が腐ってしまう。
でもその前に勇気の泉に立ち寄る。そこで祈りを捧げ、亡くなったお母様の言伝を完遂することが本来の目的。
「南か。だったら検問やってるから気を付けな」
「検問?」
剣呑な言葉に食事をする手を止める。ここから北へ、ハイラル城へ向かうのには確かに軍の演習場などがあって検められることもある。しかし南にはさほど気にするものはなかったはずだ。
どうやら南から来たらしいその若い男は、同じように出されたアデヤ鍋を食べながら首を傾げる。
「理由はよく分からないが、ハイリア大橋の南側で軍が検問を敷いているんだ。と言っても少し荷を検められるだけだし、正規のハイラル軍じゃなくてゲルドの女どもがなんだけどな」
不穏な気配に思わずリンクと目線を交わす。
ただでさえ、ここから南には軍事的には重要な拠点も無い。にもかかわらず検問、しかもゲルド族がその任に当たるというのは非常に妙な気がした。
「へぇ、情報ありがとう」
「最初はびっくりするかもしれないけど、最近じゃ色んな所で検問を行っているからなぁ」
「そうなのですか?」
「厄災への対策だろうって話だ。厄災信奉者ってのが暗躍しているらしい。ま、俺たちみたいな一般庶民にはあんまり関係のないことさ」
その晩、雨は降り続いた。朝方には止んだが足元はぬかるんでいて、馬を急かすと泥はねが酷いのでゆっくりとハイリア大橋を渡る。その最中、リンクはぐるりと視線を空に巡らせて何かを眺めていた。
こういう時の彼は、常人には見えない何かを見ているのだと、もうこの時は知っていた。時折、私の兄代わりの人はそうして誰にも見えない誰かを見つけては、耳を傾けたり話をしていることがあった。
実はお母様も精霊の声を聴いた。だからリンクの横顔にとても懐かしいものを覚え、同時に羨ましい。私もお母様のようであったら、リンクと同じ視線で物事を見られたのではないかと濡れた石畳に視線を落とした。
「本当だ、検問してる」
ハイリア大橋を渡ってすぐ、旅人の列ができているところで馬から降りた。
簡易とはいえ関が作られて、聞いていた通りゲルド族の女兵士たちが槍を片手に立ちふさがる。本来、砂漠の民であるゲルド族がこんな緑の深い土地にいるのはやはり奇妙、場違いな感じがした。
護衛で何度かゲルド砂漠にも行って、私だけゲルドの街に遊びに入ったこともある。ゲルド族の子と交流を持つこともあったので、彼女たちが砂漠という土地柄に誇りをもって生きていることも知っている。だからこその違和感。
「ゲルド族の人が珍しいね」
順番を待つ間、ゲルド族の女兵士に話しかけたリンクはギロリと睨まれた。彼女たちは口元が見えないようにしているので表情は明らかではなかったが、雨雲でも出てきそうな深いため息を吐く。
「本当に。ハイラル王も人使いの荒さときたら並大抵ではないぞ」
「なんかあったの?」
「ハイラル王から各地で旅人の荷を検めるようにとお達しがあってな。しかし族長のウルボザ様にまで検問の任に当たれとは、まったく何を考えているのか」
秘かにではあったが、ハッと息を飲む。
ウルボザ。
その名前に聞き覚えがあった。ゲルド族の長と言えば、お母様の友人だった方だ。
幼い折に、何度か城でお会いした記憶がある。曲刀と雷の遣い手、砂漠の女傑、はっきりと顔を思い出せないが、しかし王女であった私を確実に見知っている。
もちろん当時とは髪の色も違う、日焼けもしているし、着ているものも全く違う。でも間近で見られたら、ごまかしがきくかどうか分からない。ウルボザ本人が私を見ればバレてしまうかもしれない。
思わず手綱を握る手に力が入る。
でも関の目の前で逃げたら、それこそ怪しまれてしまう。かといってリンクに声で伝えることもできない。まさかこんなに早々にハンドサインを使う羽目になるとは思わなかった。
「そういえば以前、旅をしている時、ゲルドの方にも行きましたよね」
リンクの腰のあたりをトントンと拳で叩いて注意を引いた。ん、と振り向いた青い瞳が捕らえられる範囲でこっそりと空いた左手を体の真横に掲げ、女兵士からは見えないよう隠しして親指を折る。
「ゲルドの街の中って綺麗で、私もう一度行ってみたいです」
「いいよな、俺は男だから入れない」
「その通りだヴォーイ、もしお前たち二人が来たらヴァーイの方だけ歓迎しよう」
クククと笑う女兵士と会話を続けながら、ゆっくりと四本の指を折る。リンクはちゃんと私のサインを見つけて、小さく頷いた。
でもどうしたらいいのかは分からない。ともかく助けが必要な事態だと言うことだけ伝わったのだが、何ら解決のないまま「入れ」と簡易の関の中へ通される。どうやったら無事にここを抜けられるだろうと頭の中で考えを巡らせる、まさにその最中。
私は頭からすっころんだ。
「きゃわっ」
「あ、ごめん!」
足元にはリンクの足、目の前はぬかるんだ泥。気が付いた時には私は顔を泥だらけにして、呆然としていた。
「おいヴォーイ! そんなんじゃヴァーイに嫌われるぞ」
「うわ、ごめん。検問通ったらちゃんと洗おう……」
目に泥が入りそうで半ば顔をしかめながら私はリンクに手を引かれて中に入った。途端、関の中に詰めていたゲルド人たちは大笑い。頭から泥をかぶった娘が来たら、それはもちろんそうだろう。
「まったく、何てヴォーイだい」
「荷を検めたらすぐにヴァーイを綺麗にしてやりな」
「ヴァーイがかわいそうだ、さっさと終わらせてやろう」
監視の目が緩む。笑われるのは恥ずかしかったが、確かにこれは好都合だった。赤髪の彼女らは私たちの荷物の中にあるカボチャとニンジンを見て、私たちが今は行商をしている兄妹であると聞いて納得する。
「俺は護衛もやってるんだけどね」
「だったらすっ転ばせるんじゃないよ」
「雨上がりだから足元がぬかるんでたんだ。悪いことした」
こんな笑い話で通してもらえるならば、この際どれだけ笑われても構わない。私はしゅんと肩を落とした振りをして、早く終わらないかなと待つ。
ところが、彼女たちの笑い声を叱る声が後ろの建物から出て来た。
「ちょっとあんたたち、仕事はしっかりやりな」
一目見て、ウルボザその人だと記憶がよみがえる。
他のゲルド族の女兵士よりも少し小柄にもかかわらず、見る者を威圧するようなオーラがある。見事な赤い髪を頭の高いところでひとくくりに、戦闘状況ではないにもかかわらず盾と曲刀を腰から外す気配はない。
まさしく強者の貫禄が漂う。
「はっ申し訳ありません、ウルボザ様」
「まったく、陛下から直々に指示された仕事なんだからね。例え不満があったとしても、手を抜いたらいけないよ」
この人に会いたくなかったための策であったはずが、よもやおびき寄せることになってしまうとは思ってもみなかった。このままいけばすんなり通れそうだと安心していただけに、一瞬で緊張が再来して口の中がカラカラになる。
泥を被って顔をしかめた私、しかも直接会うのは実に八年ぶりのことだ。それでも昔の私をよく見知った人に会うというのは初めてのことで、鳩尾がぎゅっと掴まれるような切迫したものを感じる。
「ねえ、もう俺たちは行っていいかな」
それでもリンクはまるで動じず、目の前の女傑とその部下たちに対して好意的な態度を崩さなかった。兵士たちは「ああ、構わんぞ」と手を振るので、よかったと大きく息を吐き出して歩き出す。
ところがジメジメとした空気にぴりっと電気が通った。
「ちょっと待ちな」
声は、ウルボザ。
なんとも、切れのある声だった。
「はい?」
でも足を止めて振り返るリンクは、飄々と雰囲気を変えない。私もできる限り平静を装い、口に泥が入るのを嫌がって閉口している振りをする。
でも砂漠の女傑はツカツカと私たちの前へきて鋭い視線を突き刺した。さして大柄でもないはずなのに、迫力に飲まれそうになる。
「名前は?」
「リンク」
「ちがう、妹の方だ」
ゼルダと名乗りそうになり息を飲む。
これは、素直に名乗ってはならない。
何か別の名前を、誰か、知り合いの名前を使わせてもらわないと危ない。ミファー? いえ、だめ、ミファー様の名前は有名過ぎる。ミファー様はゾーラ族のお姫様なんだから、そんなのバレるに決まっている、ゾーラ族、ゾーラの里、川、水、滝、滝登り、みんなで遊んだ、どこで? ハッと閃く。
セラの滝。
「セラです」
ゾーラの里のみんなと遊ぶとき、自然と集まって泳ぐのがセラの滝だった。セラというのは名前としても自然だし、ありふれている。大丈夫、これならば納得してくれるはず。
「セラ、か」
泥だらけの顔をむずがゆそうに擦る振りをして、私はウルボザから顔をそらす。それに本気で泥を落としたいというのもあった。口に入ってじゃりじゃりと音がする。
「あの、何か?」
「いや人違いだ。行ってよい」
「ありがとうございます」
一礼して私は少し先を行くリンクの背を追った。どうやら上手くごまかせたらしい。
早くこの場から去りたい。泥も落としたいし、あの視線から逃れたい。
「ところで」
去り際、もうあと一歩で関の外に出られるというところ。
リンクはもう先に抜けて私を待っている。そのギリギリのところで声が背中に突き刺さった。
「あんたたち、どこから来たんだい?」
ごくりと唾を飲み込む音が耳に響く。
ウルボザの声は軽やかではあったが、古い記憶から何かを思い出すような、遠くへと響く声だった。
「カカリコ村」
「……そうかい。行っていいよ」
いま一度頭を下げて、私たちは逃げるように去る。
早く目の届かないところへ逃れたい、早く二人きりになって安心したい。その一心で私は足を動かし続けた。
ゲルド族の検問を通り抜けると、リンクは足を止めて私の手から手綱を取る。綺麗な水の流れのある場所で顔を洗った。
「ごめんねゼルダ、転ばしたりして」
「いいえ、助かりました。あのウルボザというゲルド族の方、多分私のことを知っています」
「やっぱりそうか。ごまかせてよかった」
ほっとする傍ら、帰りはどうしようと頭を抱える。
幼いころから旅をしていたので、ハイラルの地図はほとんど頭に入っている。この先ウオトリー村まではほぼ一本道で、それより先は海。戻るしか道はない。
「帰りの対策も必要ですね」
「それもあるけど、まずは勇気の泉へ行くことを考えよう」
「あ、はい、そうですね。レイクサイド馬宿に馬を預けて徒歩で行くしかないでしょうか」
「だろうなぁ」
あたりを見回す。どこを見ても濃い緑がうっそうと茂る。心もとなく続くこの道以外、フィローネ樹海には馬の歩ける場所はない。
一旦はゾナウ遺跡群を通り抜けてさらに南下して馬宿へ。本来であれば一泊して馬を預けて泉へ行く予定だったのだが、予定を変更することで意見が一致した。
「どこに誰の目があるか分からないから、疲れたかもしれないけどこのまま泉へ向かおう」
「大丈夫です、急ぎましょう」
インパ様からは祈りの際に着用するようにと純白の衣装と金の装飾品を預かっていた。巫女のための衣装らしい。こんなに目立つものを身に付けて祈るところを誰かに目撃でもされれば、何事かと怪しまれること間違いない。
まさか樹海の奥深くまで先ほどのゲルド族の兵士たちが入り込んでくることはないだろう。それでも勇気の泉へは時折参拝者もいることだし、用心に越したことはない。
馬と荷物の大半を馬宿に預ける。レイクサイド馬宿の方も勇気の泉に赴く人が少なくないためか、荷物を預けること自体は怪しまれることはなかった。
「でも今から行ったら夜になっちまうよ?」
「うん、でも今日がいいんだ。亡くなった父さんの命日だから」
「そうかい、気を付けて行ってきな」
またリンクに嘘をつかせてしまった。申し訳ないと思うのだが、それ以外にやりようがないので黙って従う。自分一人で全部できればいいのにと俯くと、昔よりもだいぶ固くなった彼の手が私の頭を撫でた。
「大丈夫、行くよ」
たぶん、何を考えているのか顔に出ていたんだろう。さらにそれが罪悪感に拍車をかける。
「ごめんなさい」
「謝らないで、俺がやりたくてやってるんだから」
本当に?と問いかけようとしたが、反射的に言葉が引っ込んだ。きっとどう問いかけてもリンクは無理にでも笑って「うん」と答えるに違いない。そのように尊敬する実の父に言いつけられたのだから、あの時の彼に拒否権などなかった。
二人だけで旅に出てから改めて思い知ったのは、私という一個人を生かすためだけにリンクの人生を決めてしまっているということだった。
騎士であった育ての父は、私のお母様に忠誠を誓い、私を守ることを自らの意志で選択した人だった。それにちゃんと大人で、甘えて大丈夫と言えば聞こえは悪いが、身を守ってくれるには適任だったと言えよう。
でもリンクは違う。
どれだけ腕が立つと言っても、私とは歳もほとんど違わない。そのうえ、本当の事情だって察する以上には知らない。おそらくインパ様も養父も、私の身の上を彼に詳しくは伝えていない。リンクがまだ大人ではないからことも大きいが、知らない方が私の兄として自然に振舞えると考えてのことだろう。
そしてリンク自身も、聞いてはならないことだと線引きし、黙って兄の振りを続けて私を守ってくれている。
「泉の周りに着替える場所あるかな?」
「木陰に入って着替えます、……あ、覗かないでくださいね?」
「そんなことしないよ、ロベリーじゃあるまいし」
「でもお風呂は一緒になって覗きましたよね?」
「もう覗かないってば」
ふざけて揶揄する声にも気分を悪くする素振りすらせず、二ッと笑って見せる。この人はずっとこうして、私の兄として傍で守ってくれるつもりなのだ。それに報いるものが、すでに足りないことに心が痛む。私は何も差し出せる物がない。
だから彼の恩に報いるためにも、ちゃんと成果を出さなければと思いを新たにした。それ以外に今の私に出来ることなどない。
うっそうと茂る草木をかき分け、ぬかるむ足元に気を付けながら、リンクは私の方を何度もうかがう。もちろんちゃんと付いてきているかということもあったが、それ以上に今から行う儀式について気になるようだった。
「お祈りってどうやるのか知ってるの?」
「ええ、たぶん、なんとなく」
「なんとなく……?」
「私も記憶があいまいで、ちょっと不安です」
お母様からの言伝である各泉で祈るようにというのは、封印の力を宿すための方法だというのは想像に難くない。代々王家の姫君が口伝で伝える聖なる力のことだから、いくら信頼に厚いシーカー族の長であっても明言は避けたのだろう。
厄災復活の予言と、お母様が暗殺される寸前に私が逃がされたことを考慮しても、これは私がこの身に力を宿して厄災を封じよという遺言であると考えて間違いない。そのために今日まで私は生かされたということ。
「流石にこの時間だと誰もいませんね」
たどり着いたカズリュー川の源流で、私は不穏な夜空を見上げた。薄い雲が飛ぶように駆けていく。ぐずぐずしていては、またいつ雨が降ってくるか分からないような天気だ。
木立の間に入って荷物から純白の巫女服を取り出す。幼いころの記憶の中でお母様が儀式の際に着用されていたものと瓜二つだった。ただし大きさはもちろん私の体に合わせてあつらえてあって、ベルトには懐かしい王家の紋章がしっかりと刻まれていた。
「お待たせしました」
髪を解いておろし、慣れないサンダルで崩れかけの遺跡を歩く。いつもブーツを履いているだけに、下草の多いこんな場所でサンダルというのは危ないなと考えがよぎった。
その瞬間、嫌な予感は的中する。
柔らかな裾が飛び出した枝に引っかかり、気を取られた瞬間に足が滑る。
「あっ」
「ゼルダ!」
痛みを覚悟していたはずなのに、ふっと体が浮く。体を抱きかかえられたと分かったときには目の前にくすんだ稲穂色の髪があって、大きく見開いた青い瞳に私が映っていた。
「あ、えっと、……ごめん」
慌てて手を離し、距離を置くリンク。星明りの下で、見間違えが無ければわずかに顔が赤くなっていた。
「いえ、私の方こそごめんなさい。歩きづらくて、このサンダル……」
生温い風に頬を撫でられて、私の頬も火照っているのを感じる。いったい何を考えているのだろう。これから行うのは神聖な儀式だというのに。
全部、慣れないこのサンダルのせい。
余計な考えをぎゅっと堪えて、遺跡の中の女神像へ足を向ける。そんな私に向かって、リンクは手を差し伸べた。
「転ばないようにね」
まるで騎士のようだと思った。
脳裏に浮かぶのは、在りし日のお母様の手をとる育ての父の姿。
お母様はいづくへ行くにも帯同する騎士の姿があった。段差ではもちろん手を引かれ、長いドレスの裾が歩くのを邪魔しないように静々と歩かれた。
子供ながら、その姿にあこがれていた。でも私はまだ幼く、お母様のように丈の長いドレスを身に付ける機会はない。公式の場に出ることすらない年齢だった。
でも大人になったら、大人にならずともそういう年齢になったら。いずれ私も私だけの騎士に手を引いてもらって階段を降りる日が来るのだろうかと、心を躍らせていた。もちろん、そんな日は来なかったのだが。
ところが、まるで私が想像していたことをどこかで盗み見たかのように、リンクは私に向かって手を差し伸べる。流れ者の傭兵の息子とは思えない、初めてなのにどこか懐かしいその手を私はとった。
「ありがとう」
「なんか、女神様みたいだね」
確かにハイラル王家は女神ハイリアの血を祖とするので、リンクの感想は的外れではない。でも女神みたいというのはさすがに恐れ多い。
「人では女神にはなれませんよ」
だとしても。
私はこの人の身に、力を宿さねばならない。
いずれ復活するという厄災を封じるため、ひいてはリンクの人生を早く私から解放してあげるためにも、力が必要なのだ。
暗い蛇の口の形をしたゾナウ遺跡を抜けて、女神像に向かい合う。丸みを帯びた像は星明りにどこか輝いて見えた。
リンクの手を離れ、足が水面に触れると冷たい刺激が全身を駆け抜けた。得てして湧き水とは地中の深いところから湧くので水温が低い。それにしてもフィローネ樹海の蒸し暑い空気を忘れるような水温は、さながら私を試しているかのような冷たさだった。
「大丈夫? やめておく?」
「いえ、やるしかありません」
本来は泉に足を踏み入れることは許されない。参拝者は泉の縁から女神像に向かって祈りを捧げる。
しかし記憶の中でお母様が祈る姿は、たしかに泉の中にあった。あれはつまり、女神の一番近くに寄って許される者だという意味なのだろう。だから私も泉の中央へ進み、手を組む。誰よりも近い場所で力を授けてくださいと祈りを捧げる。
「俺はここに居ていいのかな」
振り向くと、リンクが泉のきわのところで、少しきまりが悪そうにしている。
一瞬、一人にしてもらおうかとも思ったが、でもなんだか心細くて。
「一緒に居てもらえますか?」
「ゼルダがそういうならここにいる」
でも彼は背を向けた。カツンと鞘の鐺が地面を叩く音がする。
互いに背を向けて、わずかな呼吸の音を頼りに寄り添う。
正直言って、まだ大人になり切れない年齢の私たち二人で、全ての泉を回りきれるかどうかは不安がある。心細い。
でもやるしかない。ならば私はリンクに背を預けて女神に祈りを捧げる。どうか私たちを守ってください。どうか無事にお勤めを果たせるように導いてください。
ところが、どれほど真摯に祈りを捧げても、特別なことが怒る気配はなかった。しかも祈りを妨げるように雨が降ってくる。
「終わりにしない?」
「でもこれで本当にいいのでしょうか」
お母様が祈りを捧げる際、なにか光り輝くものを見た気がしていた。それが何だったのかはよく分からない。ただ幼心にそんな感じだったというだけ。
雨が降り出してもしばらくは無理を言ってその場に留まらせてもらったが、やはり私の身にはこれと言って変化は訪れなかった。
「三つの泉を回れってことは、三つ全部回ったら何かが起こるのかもしれないよ」
「そうだといいのですが……」
遠雷が聞こえたのを機に、さすがに泉から上がった。体が冷え切っていて、震える指先をまたリンクが手を引いて外へと連れ出してくれる。
体を拭いて着替えをして髪を結い直し、ただのゼルダに戻ると無性にほっとした。
「雨が止んでから戻ろう」
遺跡の天井があるところで火を焚いて肩を寄せ合う。私はもうずいぶんと王女のゼルダから外れた存在になっていて、こうしてただのゼルダになっている時の方が自分である気がしていた。
でも巫女の服を着ると途端にぴりっと引き締まって、自分でも知らない自分になっていく。それが少しだけ怖い。
「ともかく次は力の泉、アッカレだ。ウオトリー村からどうにかしてアッカレ地方へ抜けよう」
「そう、ですね……」
冷たい泉に長時間使っていたせいなのか、急に強い眠気に襲われる。全身から力が抜けて眠りに落ちそうになるのをどうにか堪えていると、リンクが私の頭そっと押して自分の肩に乗せられた。
「少し寝てていいよ。雨が上がったら起こすから」
「……ごめん、なさい…………」
「おやすみ、ゼルダ」
心地よい。ずっとこんな風に穏やかな日々であればいいのに。
でもそれは望みようのない未来であることだと理解していた。私が力を宿すということは、王女としての立場を取り戻すことに等しい。暗殺の危険から逃された私は、正当な姫巫女として自分の身を守れるようになったら城へ戻り、厄災に立ち向かわなければならない。私はそういう星の元に生まれついている。
だからリンクとこうして、ただのゼルダとして穏やかな日々を過ごすことは望めない。二人っきりの世界に引きこもっては、己の生かされた意味すら失うことになる。そんなことでは亡くなられたお母様に申し訳がたたない。
この身体はハイラルを救うために絶対に必要なもの。
でも私は時々、そんなことはどうでもいいと全部放り出したくなる。
『力なんて要らないから、このまま一緒に眠らせて』
夢見心地によぎった戯言がどれだけ本心だったのかは分からない。次に目覚めた時には、すっかりとそのことは忘れてしまっていた。