3 兄と妹
カカリコ村へと続く細く長い切通しも、夏の色に染まっていた。緑が一番濃くなる季節。俺は少しだけ大人になったつもりで父さんの背を追い、ゼルダと並んで村へと戻った。
「おっ、チェッキー! おかえりん」
「おかえりです!」
村の入り口の方に姿が見えたのはインパとプルア。
村長の二人の孫がわざわざ箒をもって何をしているのかと思えば、掃除。たぶんだけど、なんか怒られた罰なんだろうなと予想する。村長のインパ様は、孫のインパと同じ名前だけど村長が代々同じ名前を継ぐらしい、ヨボヨボなのにすっごい怖いばあちゃんだから誰も逆らえない。
「村長は」
「おばあ様なら、次はロベリーに説教垂れてるわヨ」
箒に寄りかかりながらプルアは肩をすくめた。
やっぱりな、と苦笑いしながら俺とゼルダはこっそり顔を見合わせる。インパ様が不機嫌な時は近づかない方が身のためだ。挨拶をしたらすぐに逃げ出した方がいい。
「インパとプルアは何で怒られたの?」
「髪染めたらおばあ様カンカンに怒ってさぁ。別によくない? 可愛いと思うんだケド」
確かに、二カ月見ない間にプルアは全て白かった頭を、前髪だけ赤く染めていた。目尻にも赤く線を入れるようになって、なんか、少しだけ大人っぽく見えた。しょぼくれているインパの方は全然変わらなかったけど。
「私はプルアを止めなかったと、ただの巻き添えです……」
「怒られるって分かってるならインパも染めればよかったのに~。額の文様と同じ青とかカワイイと思うヨ」
「嫌ですよ!」
なんのかんのと、相変わらず仲のいい姉妹だなと思う。二人の横を通り抜けて穏やかなカカリコ村の中へ。まずは旅の無事を報告しに女神像に手を合わせる。それから村長の家の階段を上り始めたところで、上からぐったりした人影が降りてきていた。
立ち上がった前髪に謎のゴーグル、手には壊された何かを持っている。前とまた恰好が変わっているが、一目見て怒られたあとのロベリーだと分かった。
「おう、おかえり……今、インパ様はベリーアングリーであるよ……」
「ただいまロベリー、今度は何やったの」
「私のクレイジーな発明を老人は理解できないらしい。せっかくの発明がブレイクされてしまったのだ……」
何かの残骸を抱きながら、よろよろとロベリーは長い階段を下りて行った。
そのすれ違いざまに。
「あとでシークレットな話がある」
と、俺の肩を叩いてロベリーは去っていった。なんだろう。
観音開きの扉を開いて「戻りました」と三人で頭を下げる。三枚重ねた座布団の上でお茶を飲んでいる小柄な姿があった。
額には何でも見透かすような赤いシーカーマークが目を開いて、ゆうに百歳を超えているらしいというのに、一向に衰えない鋭い眼光が俺たちを見据えている。俺はインパ様がちょっと苦手だった。
「無事でなによりだよ。ゾーラの里は変わりなかったかい」
「ドレファン王もご息災でした」
「ならばよかった。他に変わったことは」
「ございません。道中も穏やかでした」
父さんだけ座布団をすすめられ、俺とゼルダはその後ろ、板の間に正座する。いつもこう。
だが、インパ様の突き刺すような視線が、ぎゅるりと俺の方に向いた。
「それにしては、坊主が何かやらかしたのかい。腹のあたりを庇ってるね」
ぎょっとした。
ライネルに突き上げられた場所はもうほとんど治っていて、走るぐらいはどうということはない。ただ体を捻ったりするとまだ少しだけ痛む。まさかそれを一瞬で見抜かれるとは。
「リンクが、雷獣山のライネルとやり合いまして」
父さんの言葉に、俺もロベリーと同じ説教かなと唇を噛んだ。
父さんの説教は怖い。でもインパ様の説教の怖さは種類が違う、なんかねちっこい怖さがある。
「ほう……その歳でか」
ところがインパ様は目を細めただけで、怒らなかった。それどころか口の端がやんわり上がって、面白そうに頷く。
怒られると思っていただけに、一瞬身構えた。
インパ様は立ち上がって俺の前へきて、腹を見せろと言う。仕方がないのでベルトを外して服の裾を手繰り、お腹を見せた。しわくちゃの手がぬっと伸びて、指の腹でまだ痛い場所を的確に押さえる。
「イテテテテ」
「なるほど、随分と手酷くやられたようだが。まぁ生きて帰って来たってことは、運か実力か。どちらかはあったってことだろうね」
「いたいぃぃ……」
「情けない声出すんじゃないよ。……ふむ。ゼルダ、後でわしのところへおいで。リンクの腹につける薬の煎じ方を教えてやろう」
「本当ですか? ありがとうございます!」
げっそりする俺の横で、ゼルダは瞳を輝かせていた。
事あるごとに、ゼルダはインパ様から薬の知識を教えてもらっている。孫のインパやプルアよりも、ゼルダの方がよっぽどいい薬師になると村人たちは言うぐらい。ゼルダはインパ様の弟子の一人だった。
ゼルダは嬉しそうにしていて、つまりこの後俺はゼルダの薬の実験台にされる。大抵は大丈夫だが、時々カエルを混ぜたりして効果の怪しい薬を自分で作ったりするので、それだけはやめてと言っている。でも未だに色の怪しい薬を作ったりする。今回はインパ様の目があるからバッタもカエルも入らない……と願いたい。
「まぁまずは旅の汚れを落としてからじゃ。傷の手当をする者は身綺麗にせねばならん。インパとプルアの掃除もそろそろ終わるだろうから、一緒に身を清めておいで」
カカリコ村はシーカー族の隠れ里で、シーカー族は基本的に女性の方が強い。前にちらりと聞いた話では女系だとかで、村長も代々女の人が務めている。
そういう意味で、村では基本的に女の人の方が何だかんだと強い。
「んじゃあ先にお風呂入ろっかー」
桶と手ぬぐいと着替えをもって迎えに来たインパとプルアは、そそくさとゼルダを連れてお風呂へ行ってしまった。あの三人がお風呂に入ると大体長湯でなかなか出てこない。
多分俺が風呂に入れるのは残り湯。またか、と思ったけれどいつものことなので、父さんと一緒に荷解きをしたり、使わせてもらう部屋の掃除をしたりと忙しくしていた。
それが一息ついたころ、にゅっと顔を出した人が居た。ロベリーだ。
「リンク、カモン」
「何しに行くの?」
「シークレットな話だと言っただろう」
父さんも構わない、と手を振ってくれたので、俺は渋々ロベリーの後をついて行った。大体こういう時は碌な目に合わないのだが、それにしたって怒られたばかりのロベリーはやけに得意げで鼻歌交じりで怪しい。
嫌な予感を抱えながらついて行く途中、あれっと首を傾げる。
見たことのないシーカー族の子供がいた。
そいつはシーカー族特有の白い髪を頭の高いところで結って、赤いかんざしを二本差しにしている。背格好は俺と同じぐらい。シーカー族の白と赤の前合わせの服だが、ひざ下に紐を結わえて、あれは長い旅をする際の疲れないようにする工夫だ。
「あいつ、誰?」
カカリコ村には俺やゼルダを含めて何人か子供がいたが、一度もそいつは見たことがなかった。
向こうも俺の視線に気が付いて琥珀色の瞳をこちらへ向ける。ほっそりとした狐みたいな優雅な顔。ツンと澄まして鋭い視線のまま、でも次の瞬間、口だけでフッと馬鹿にしたみたいに笑った。一目で嫌な奴だと思った。
「あれは宮廷詩人の弟子だ」
「宮廷、詩人? の、弟子?」
「各地の伝承を集めて詩にしたためて王家に献上するために、ハイラル各地をトリップをしているシーカー族の御仁がいるんだ。それが弟子を連れて久々に帰って来ている。ユーは初めて会うか?」
「……うん」
インパとロベリーが俺たちのちょっと上、プルアがだいぶ上だから、あの弟子が同い年なら一緒に遊べるかと思ったのに。その弟子は一瞬で顔を背けてしまった。人を馬鹿にしたような、気に食わない奴だ。
遊んでやらない、ゼルダにも言っておこうと決める。
ロベリーは俺を連れてまず自分の家へ行き、箱に入った何かを持った。大事そうに箱を抱えて裏の山へ登っていく。こんなところに何があるのだろうかと首を傾げていると、開けた崖の端で箱を開いた。
「なに、これ?」
中から出て来たのは二本の筒がくっついた形をしていた。筒の両端にはガラスがはまっていて、両手に持って覗く物だとは分かった。
「ふっふっふっ……これこそミーの今世紀最大の発明、ファインドグラス・セカンド!」
「ファインドグラス?」
「遠くのものをビッグに見せてくれる、魔法の筒とでも言おうか」
いつも通りの謎のポーズで取り出したファインドグラスとやらを、ロベリーは慎重に俺の方に渡した。
形からしてココだろうという場所を覗くと、なるほど、これはすごい。
裏山の遥か上から、カカリコ村の中央を歩く人の顔まで見える。しかも向こうはこちらの存在に気が付いてもいない。
「すごいなこれ。戦う時にすごい便利だ。先に相手を見つけられる」
「ユーは戦うことばかりだな、リンク」
「そういう目的じゃないの?」
ちっちっちっと指を振って、ロベリーは俺が持つファインドグラスの先をある家の軒先に向けた。
お風呂が見えた。
「ひえっ」
「ビーケアフル!! ファーストはインパ様に壊されたんだから、落とさないでくれ!」
と、言われましても。
外からは目隠しの衝立があって見えないはずのインパ様の家の裏手にあるお風呂が、丁度良い角度で中が見えてしまっている。もちろん今お風呂に入っているのはインパとプルアとゼルダの三人で。
「見えるだろ?」
「見えるけどさ……」
「しかも、バレない」
そりゃそうだ。
どれだけインパが気配を察知するのが上手いとしても、さすがにこの距離では気が付くはずもない。声が届く距離でもない。
三人が互いに洗いっこしているのが見えて、ああ、俺、こんなのバレたら殺されるなと思う。でもロベリーの言う通り目が離せない。
「ミーもこの間知った、ここが覗きのベストポイントだ」
「これはインパ様が怒るわけだよ」
「一番おっぱいが大きいのはプルアだ。さらにこれだと……」
といってロベリーは、もう一個別のファインドグラスを手渡す。
視野は狭くなるものの、グッと倍率が上がって、インパのお尻にある痣まで見えた。
「うっわ……インパのお尻の痣まで見える」
「セカンドだろう。ミーも発見したときは興奮した」
「うわぁ……うっわぁ……」
うわぁうわぁという、意味のない感嘆の声ばかりで、でも実は俺はゼルダから目が離せなかった。ふわふわと頭が熱い。
以前はよく川で泳いだり、布団で遊んだりすることもあった。でも最近そういう相手をゼルダはしてくれない。だから俺もあんまり誘ったりしないようにしていた。
その理由を分からないではなかったが、こうして見れば明らかに意識してしまう。ゼルダの胸が、インパとプルアに比べたら控えめだけど、ふっくらとしていた。やわらかそうな白い餅が二つ、許されるならかぶりつきたくなる。ずっと見ていたくなった。
「ちょ、ロベリーはいつも見てるんだろ」
そんな俺の足元をこちょこちょと邪魔する手があって、振り払おうと足を動かすと「ワッツ?」と別の方から声がした。
「あれ、ロベリーじゃないのか」
足元に小枝をふりふり、緑色の葉っぱのお面を被ったやつが俺の足を突いていた。コログだ。
そのコログのお面代わりの葉っぱは、虫にでも齧られたのか少しだけ欠けていた。
「邪魔するなよ」
『覗いたらダメですヨ!』
「またコログか、リンク?」
「うん、覗くなって怒られた」
コログは俺にしか見えない。ゼルダにも父さんにも、インパ様にも見えない。おそらく精霊の類だからだろうとインパ様には言われていた。同じものを見られないというのはどこか寂しい気持ちもあったが、バレた相手がコログなのが幸いだった。
別にコログに怒られたとしても、他の誰にバレるわけでもない。シッシッと手を振ると、コログはちょっと怒った顔で葉っぱをくるくるさせて飛んで行ってしまった。
邪魔者がいなくなったのを良いことに、もう一度ファインドグラスを覗く。その視野へ入ってくるものの姿があった。ゆっくりと、お風呂の外の目隠しに近づくのは詩人の弟子。
「あの弟子、風呂の目隠しに近づいてるよ。ほら」
倍率が高い方のファインドグラスを渡すと、ロベリーも首を傾げる。
俺は目を細めて、米粒みたいな弟子の姿を眺めていた。もちろん目は良い方だ。星も相当小さいものまで見える。しかしファインドグラスは別格だ、全然世界が違って見える。
感心していた最中、突然、ロベリーが持っていたファインドグラスを取り落としそうになった。
「シット! バレた、撤退だリンク!」
「バレた? なんでこの距離でばれるんだ?」
「アイドンノー! しかし明らかにインパの視線がこっちに向いた!」
ファインドグラスを箱に詰め直すと、慌てて山を駆け下りる。でももう遅かった。
「のぞいたんですねぇ……?!」
インパのクナイの射程圏内。顔を真っ赤に怒るインパが小手首を返すと、切っ先鋭い刃物が飛んでくる。カッと背後で音がして、近くの木にクナイが刺さった。
「クレイジーだ!」
「クレイジーはあんたの頭ヨ、ロベリー!」
もう一本、死角から投げてくるのはプルア。才能がないから隠密はやらないと言っていた割に、ちゃんと的確に狙ってくるのだから分が悪い。ロベリーの首根っこ捕まえて避けけさせるのは俺、完全にロベリーは戦力外。
あっけなく、俺とロベリーは二人に捕まって、インパ様にこってり絞られた。ロベリーのファインドグラスはセカンドまでインパ様に粉々に砕かれ、設計図は取り上げられていた。
「お風呂覗くなんて信じられません……」
ゼルダにまで白い目で見られながら薬を塗られた。
黒ずんだ緑色の、草をドロドロに磨り潰したやつ。後ろめたさもあって、中に何が入っていても文句は言えないなとそっぽを向いた。
「ロベリーに騙されたんだ」
「でもリンクも覗いてたんでしょ?」
「……ちょっとだけ」
うそ、すごく見てた。
「だったら同罪です」
「……はい、ごめんなさい」
心なしか、薬を塗りつける指がぐりぐりと、痛いところをわざと押している気がした。青臭い匂いも結構すごい。うっと鼻を摘まもうとすると、ゼルダに「動かないで」と怒られた。
塗りつけた薬の上から包帯を巻かれ、ひんやりする感触に腹をさすりながら夕涼みに出る。もうそろそろ夕方、どこの家からも美味しそうな匂いが漂ってくる。
今日の晩ご飯は何だろう。怒られたあとだから、一品減らされるかもしれない。あーあ、とため息を吐いたところで、女神像の前に例の詩人の弟子がいた。
「やぁ、覗き魔君」
そいつはまた狐みたいにニンマリと笑って俺のことを見ていた。気配がやけに鋭い。シーカー族というだけあって、インパほどではないが、どうやら護身術の類は身に付けているのだろう。
ただ、おそらくだが俺の相手ではない。でも油断はできない。
「なんだよ」
「女性のお風呂を覗くなんて、どういう趣味かと思ってさ」
「うるさいな、ロベリーに騙されたんだ」
「おやぁ? 精霊はその様には言っていなかったけど?」
ふと見れば、弟子の肩にコログが乗っていた。緑色の葉っぱが少しだけ欠けている。覗きをしている時に俺を諫めに来たから追い払ったやつだ。
カラカラと音を立て、ぷんすこ怒っているコログ。言葉はないが何か言いたげだった。
「君を止めたのに邪険にされたと言って僕のところに教えてくれたんだ。だからお嬢さんたちに知らせた」
バレたのはこいつのせいだったのか。どうして目視で確認できない距離なのに、覗いている場所までバレたのか不思議だったのだが、全部コイツのせいだったとは。腹が立つ。
ではなく。
「お前、コログが見えてるのか……?」
「コログ? 精霊のことか?」
旅先でも色々な人にあって来た。でも生まれてこの方、誰ひとりとして、コログが見えている人はいなかった。
声がする、ここにいるよ、と言っても「君は特別なんだろうね」とどこか曖昧に笑われる。ゼルダですら「どんなの?」と首を傾げる。
だから俺だけ目が可笑しいのかと思うこともあった。
それが、気に食わないこいつだけが見えている、だと?
「なあ、お前、俺と同じで見えてるのか? 知ってるのか?」
思わず間を詰めて肩を乱暴に揺さぶった。
見えているのだとしたら、初めてだ。生まれて初めて同じ視界を共有できる相手。嫌な奴だけど、こいつには友達になって欲しいと、素直に思った。
でも弟子は心底嫌そうな顔をして、俺の腕を乱暴に振り払う。整った顔でぎゅっと睨みつけられた。
「触れるな。精霊の姿が見るくせに、その忠告を無視する奴なんか知るか! しかも覗きのような低俗な真似をするなんて、お前恥ずかしくないのか!」
「あ、いや、それはえっと……」
「それに僕は見えていない、聞こえているだけだ」
カラコロカラコロ。
コログのいる場所は音がする。
コログが俺を呼んでいる声なのかと思っていたが、どうやら違うらしい。この弟子には、コログは見る者ではなく、聞く者。喋るぐらいはできるんだろうか。
だから俺が追い払ったコログは弟子のところへ行って、俺たちが覗きをしているのを告げ口したんだ。コログは確かに人を見る目を持っている。
「あいつらの声が聞こえるのか」
「精霊の言葉を聞くから私は詩人の弟子なのだ。それをお前は、姿まで見える癖に」
鮮烈な夕日を背負って、その弟子は睨む。まるで汚いものでも見るみたいに、俺をねめつけた。
「クズだな」
悔しいけどぐうの音も出ない。
弟子は勝ち誇った顔で俺の横を素通りし、そのまま宿へ入っていく。思っていた通り、その日の晩ご飯は一品少なかった。でも何も言う気にはなれなかった。
そんなことがあってから数日後のこと。
なんだか気分がすっきりしなくて、気持ちの良い朝なのに布団の中でもやもやと惰眠をむさぼっていた。起きられないわけではない、でも自分で起きていきたくない。誰かに起こしてほしい。うだうだしていたらゼルダが起こしに来てくれて、早く服を着替えるようにと文句を言われた。
カカリコ村に居る間はいつも、俺もゼルダも目立たないようにシーカー族の服を借りている。
紺のインナーに赤白の上着、髪も結った上からおけさ笠を被れば完成。ぱっと見はシーカー族の子供に見えるし、髪の色も顔も、大人の目の高さからは見えづらい。カカリコ村に居る時は大抵この格好だった。
適当に着つけて、笠は後回しだが、ゼルダの後ろにくっついて階下に降りてゆく。すでにインパ様以外が長い食卓に居て、俺が最後だった。
「ようやく寝坊助が起きてきましたね」
「おはよインパ、朝ご飯なに?」
プルアとゼルダに挟まれる位置で、お祈りに行ったインパ様を待つ。目の前には炊き立ての白いご飯とみそ汁とおかず、それから梅干しに漬物が並んでいた。
カカリコ村に居る時は白いご飯をたくさん食べられるのが嬉しい。今日のおかずには珍しくマックスサーモンの焼いたのがあって、おいしそうだなぁ早く食べたいなぁと穴が開くほど見つめていた。
ところが隣ではゼルダが「はぁ」とため息を吐く。
「ゼルダ?」
すこし顔色が悪い。お腹のあたりをさすって、きゅっと口をつぐんでいる。
「体調悪いの?」
「少しだるい感じが……」
風邪かなと思っておでこに手をやってみたが、そういうわけでもなさそうだった。
そのうちに朝のお祈りから帰って来たインパ様が上座に座って、ようやく朝ご飯になる。いただきますと同時に駆け出す勢いで俺はパクパク食べ始めたが、やっぱりゼルダは食欲がない。おかげでマックスサーモンを半分くれた。心配ではあるものの、申し訳ないが嬉しい。
「リンク、父さんのも食べるか」
「父さんのも? いいの?」
なんとその日はゼルダどころか、父さんまで半分くれた。何か徳の高いことでもしたっけかと首を傾げる。もちろん思い当たる節はない。
でも貰えるなら喜んで食べる。ありがたくお皿に乗せてもらい、皮も骨もパリパリと咀嚼しているとインパに「よく骨まで食べられますね」と飽きられた。
結局、人の倍ぐらい食べていた俺が最後まで取り残され、ゼルダは首を傾げながら席を立つ。
「すいません。少し、横になってきます」
だいぶ体調悪そうで、心配だなと思って見上げ、その瞬間サッと血の気が引いた。
「ゼルダ、血が」
太もものあたり、衣の白いところが赤く染まっていた。
え、と振り向いてゼルダも顔を歪める。拭った手に着いた赤いもの、それを見て怖そうに眉をひそめた。
「怪我したの? 大丈夫?」
これはマックスサーモンどころの話じゃない。怪我をしていたから体調悪そうだったんだと、俺は素直に考えた。
「怪我の手当しないと」
そりゃだるいの当たり前だ、血が出てるんなら誰だってだるくもなる。怪我は良くする方だから血が流れた後のだるさはよく知っていた。
早く手当してあげなきゃ。でもこんなに血が出るなんて痛くないんだろうか、それよりもどこを怪我したんだろう。ぐるぐるとそんなことを考えながら伸ばした手を、プルアがバシっと叩いた。
「おバカ」
そのまま首根っこ掴まれて俺はずるずると外に連れていかれた。口には食べかけのマックスサーモンが入ったまま。
「何すんだよプルア!」
「いいから、ちょっとこっちに来なさい」
プルアに引きずり出されながら閉じかけた観音開きの向こうに見えたのは、インパ様が孫のインパと一緒に、不安そうにおろおろするゼルダを奥の部屋に連れて行くところだった。父さんは見守っていたが、何も言わずに座っていただけ。
いったい何が起こったっていうんだ。
「放せよプルア!」
「ほんっと、あんたデリカシーがないわネ」
村長の家の階段下、道祖神の前にポンと放り出されて、ようやく俺は口の中のマックスサーモンを全部飲み込んだ。味噌汁ぐらい持ってくればよかった、口の中がぱさぱさだ。
それにしたって、ゼルダが血を流して痛がっているのに、なんで俺が馬鹿呼ばわりされて外に連れ出されなきゃならないんだ。
と、言いかけてプルアの真面目に怒っているような顔が目に入る。
「あんた、もしかして全然分かってない?」
「はぁ?」
「あのねぇ、女の子は月に一回、お腹から血が出て痛くなるもんなの」
なんだそれ。そんなの、大変じゃんか。
幸い、まだ村の中央でも人が行きかう時間ではなく、道祖神の周りには俺とプルアの二人しかいない。でもカラコロ音がしたので、コログがいる。
イライラとして、足元にあった石をコログのいそうな方向に向かって投げた。「イテッ」と声がして、逃げていく気配がした。
「でもそんなところ、男のあんたに見られたくないわけヨ。だから大騒ぎすんなってこと、分かった?」
そんなもん分かるか、と言いたかったが、年上のプルアの言葉には妙に説得力があった。
父さんが何も言わず、インパ様とインパがゼルダを奥へ連れて行った理由。それから俺が一人、こうしてプルアに連行されているわけ。分からないでもない、この間、風呂覗きをしたわけだし。
「……血が出ると痛いのか」
「個人差はあるけど、たいてい痛いわヨ」
「どうしたら痛くなくなる? 薬ある?」
「薬がないわけではないけど、手っ取り早いのは温めることかな?」
「じゃあポカポカ草の実取ってくる」
たしかラネール参道の方へ行けば生えていた気がする。記憶を辿って村の奥へ向かおうとしたら、プルアが後ろから俺の首に腕を掛けて緩く羽交い絞めにした。
しかも、ふにっと背中に柔らかい感触をわざとらしく当ててくる。ムッとした。
「プルア、おっぱい当たってる」
「わざと当ててんの。嬉しい?」
「……やめろよ」
「ね、ほらそう言うこと。ゼルダのことが大事なら、兄弟とはいえちゃんと距離とらないとネ」
最後にゴツンと頭のてっぺんを叩かれて解放された。
どんな顔をしてゼルダと顔を合わせたらいいのか分からなくて、その日の午前中は止めろと言われたのを無視してラネール参道の方へ足を延ばした。でも残念ながらポカポカ草は見つからなかった。
それでも減る腹に苛立ちながらお昼ごろ戻ると、ゼルダの顔色は朝よりはよくなっていた。でも食べるお昼の量はやっぱり少なくて、午後もあんまり元気がない。
「ゼルダ」
食後に窓辺に頬杖をついているところへ声を掛けても、ぼんやりと外を眺めたまま。
「……大丈夫?」
「うん、大丈夫だから、ちょっと一人にしてもらっていいですか」
情けない、不甲斐ない。なんだか色んな感情がぐちゃぐちゃになって、勢い飛び出して山の中へ駈け込んだ。
護衛の時に使う長剣ではなく短剣と弓を持って、それだけでも十分に狩りができる。むしゃくしゃして飛び立つ寸前のナミバトを射抜いて、羽を雑に毟ると丸焼きにして齧った。少し生焼けで、滴る血が口の周りにべっとりとつく。ゼルダの流した血を思い出して、頭までカァっと熱くなると、そのまま川に飛び込んだ。
「なんで、兄弟なんだよ」
こんな時、俺はゼルダの横に居てあげられない。
同じ性別でもなければ、本当の兄弟でもない、かといって他人にもなれない。何をしてあげられるわけでもない。
気が付いてはいた。
時々、ゼルダは一人になりたがっている。
それはかなり前から、そうだった。たぶん本当の家族を思い出しているとか、そういう類のことなんだろうと思っていた。俺はそれに気が付いていて、でも自分なら横に居てもいい、兄貴なんだからと勝手に言い聞かせていた。むしろ本当の家族のことなんか忘れるぐらい、俺と家族になって欲しいと思って。
でも何かが違う、かみ合わない。少なくとも俺は今、ゼルダの横にいちゃいけない。
それが無性に腹立たしかった。
「ちくしょう……!」
いつの間にか山の中は真っ暗で、疲れた体を草の上にごろりとやったら、真上に月が見えていた。今日は随分と細い月だった。
白い、狐目みたいな。
脳裏に詩人の弟子のあざ笑った顔が思い浮かんだ。
「くそ!」
手に当たる草をむしって放り投げたら、風の具合でそのまま自分の顔に戻ってくる。うわっと腕で払うその瞬間、甘い香りして儚く光る青いものが目に飛び込んできた。
「あ、姫しずか」
乱暴に毟った草のなかに、月夜に輝く花が一輪。珍しい花を、俺は無残にも摘み取ってしまっていた。
意図したつもりはなかった、というよりも咲いているなんて気が付かなかった。でもそれはゼルダの好きな花だったから、今それを毟った俺の手はとても罪深く見える。
「……戻ろ」
毟り取ってしまった姫しずかを手に、夜の山を下った。とうの昔に村は静まり返り、どの家も戸締りをして寝ている時間帯。
でも俺が飛び出していったのを知っていて、誰かが窓の一つに少しだけ隙間を開けていてくれた。たぶんプルアだと思う。いつかお菓子をプルアに一つ譲ろう。
靴の泥を落として、静かに窓から入り込んで息をひそめて部屋に戻る。すでに父さんもゼルダも寝ていて、ありがたいことに俺の布団も敷いてあった。
「……おかえり」
布団の中から小声があって、うっすらと翡翠色の瞳がこちらを見ている。
「寝られないの?」
「うーん。まだちょっと」
本当に、俺って無力だなと思って。しょうがないので、持っていた姫しずかを枕元に置いた。
「ごめん、ポカポカ草見つからなかったんだ」
「それで姫しずか?」
「……うん」
本当は取ってくるつもりがなかった。でも、ゼルダが喜ぶのなら何でもよかった。
ちょっと笑って、ゼルダは瞼を閉じた。ちゃんと寝られるといい、痛いのも明日にはなくなるといい。そう願いながら俺も寝た。
翌日になったらゼルダはだいぶ元気になっていた。おかずはもちろんくれなくて、俺があげた姫しずかは押し花にするんだとか。ほっとして、昨日の腹立たしいのはどうにか収まった。
またお腹が痛くなったらどこかで花でも摘んできてやろう。姫しずかはさすがになかなか見つからないけれど、他のでもいい。月に一回、花探しにいこうかなとぼんやり考えていた。
「リンク、父さんの分も食べるか」
元気になったゼルダはおかずをくれなかったが、その日も父さんはおかずをくれた。
今朝は卵焼き。インパが作ったやつでちょっと形がいびつだった。父さんはその卵焼きをくれた。
「いいの?」
「ああ、お前が食べておけ」
ポンと俺の大盛りご飯の上に乗っかる卵焼き。
なんだろ。なんなんだろう。何かおかしい。でも貰ったからには食べないと。
ひっかかりを覚えたまま口を動かし、少し不安げに父さんの顔を見上げる。難しい顔をしていた。
「朝食を食べたら二人に話がある」
はい、と口いっぱいの卵焼きを飲み込む前に頷いた。
片づけをして、インパとプルアが外に出て行って、残ったのは俺とゼルダと父さんとインパ様。
珍しく座布団を進められて、俺たち二人は顔を見合わせる。インパ様の前で子供が座布団に座らされることはまずない。大人になるか、あるいはお祝いのときか、どちらか。なんなら今日はお祝いごとはないはずだ。
「よく聞け」
静まり返った部屋の中。俺たち二人を見る父さんの視線は寂しそうだった。
「インパ様に診ていただいたが、わたくしの命はあともって一年だそうだ」
ひゅっと喉が鳴って締まる。
胃の奥で、今朝食べた卵焼きがごろごろと動き回る気配がした。気を抜けば逆流してきそうなそれを、奥歯を噛み締めて飲み込む。出て来るなと全力で命じれば胃袋は収まったが、言葉は出てこなかった。
「どういう意味ですか?!」
ゼルダが座布団から身を乗り出す。
父さんは胃のあたりを押さえた。
「このあたりに悪いものができていて、もう長くはないらしい」
「そんな……」
隣で崩れ落ちる音がした。
父さんは淡々と、そしてインパ様も何も言わず、聞こえるのはゼルダの噛み殺した嗚咽だけ。俺は、何を言えば、あるいはどんな顔をしてこの場に居ればいいのか分からなかった。
父さん、死ぬのか。
父さんまで死ぬのか。
でも頭のどこかで妙に、父さんが死ぬことを納得していた。
泣き叫んだとしても、インパ様の見立ても父さんの寿命も変わらない。母さんと下の妹が死んだときのように、怒りをぶつける相手がいるわけでもない。
護衛の任務をしていれば分かるが、死は誰にでも平等だった。さっきまで隣を歩いていた若い護衛の男が、次の瞬間リザルフォスの放った矢で頭を射抜かれて絶命する、そんなのは日常茶飯事。
だからどんなに強い父さんであってもいずれは死ぬ。それは常々言い聞かされて来た。死ぬこと自体は驚くこともないし、病ならば足掻けないことも分かっている。
ただ、思っていたよりも早かった。
もう少し長く一緒にいて、稽古をつけてもらえるものと思っていた。せめて俺が成人して、ちゃんと大人として認めてもらえるようになるまでは居てくれるものと考えていた。
「私が死んだ後のこと、二人に伝えておかねばならない」
父さんは、決して「父さんは」と言わなかった。騎士である時の父さんに限って「わたくしは」という。知っている、ゾーラの里でそれを聞いた。
だから俺は今、父さんと話しているわけではないのだと理解する。
俺は、一人の騎士と話をしているんだ。
分かった瞬間に、腹の底から震えが起こった。
「……俺は、どう、すればいいんですか」
震える手を隠したくても正座しているのではどうしようもない。膝の上でそれとバレないように固く握りこぶしを作る。
唾をのみ込みながら見上げた先で、苛烈なまでの騎士の視線を受け止める。
「リンク、何としてもゼルダを守れ」
強い言葉だった。
それはおそらく父さんが、騎士として忠誠を誓った相手との約束なのだろう。それを俺は引き継ぐ。父さんは騎士だが、俺は未だ流浪する傭兵の息子。その俺が役割を担うのだ。
誇らしいが、同時に恐ろしい。
でも俺はゼルダを守りたいと常々思っていたし、父さんと肩を並べるためならば少しぐらい背伸びをしたい。
だから否やはない。
「はい」
「頼んだ」
続いて、父さんはゼルダの方を向いた。
でもゼルダは涙こそ流していないものの、項垂れていた。そこへ掛ける父さんの声は、柔らかく、同時にいつもの声質とはだいぶ異なっていた。
「ゼルダ」
「……」
柔らかさの中に一本芯が通る声。例えるならば、敬愛する誰かに呼びかけるような、本当かは分からないが、そんな声色に聞こえた。
「ゼルダ様」
「…………はい」
そう、呼ばれて。ゼルダは顔を上げた。
唇をきつく噛んで、でも泣いてはいない。真っ直ぐに父さんの方を見た横顔は、まるで知らない人だった。子供ですらなかった。
「お母上より御身を託され、今日までお守り申し上げたが、どうやら時間が足らぬようです。申し訳ありませんが、私の役目を息子に引き継ぎます。よろしいでしょうか」
「……はい」
まるでお姫様のようだと思った。
すらりと伸びた背も、前を見据えた綺麗な瞳も、どこをとっても市井の人のそれではない。このハイラルの、誰とは知らぬ尊い方。今俺の隣に居る人は、俺の知っている、俺と兄弟のゼルダではない、まるで別人だった。
「最後までお守りできないこと、伏してお詫び申し上げる」
「いいえ、私の方こそ、……ありがとうございます」
父さんが騎士として仕えていた方が亡くなった王妃様だと知っていた。亡くなった母さんが王妃様の侍女をしていたのも俺にとっては誇りだった。
お母上、御身、ゼルダ様。六歳、うちの子供になる、金の髪の、女の子。
全ての情報を足していけば、学のない俺にも答えが分かった。でも正解を言うわけにはいかない、なぜならゼルダは身分を隠さなければならない人だから。それが十分に分かる年齢だった。
この方が俺の守るべき人なのだと、ただそれだけを確信する。
「月の道が通じたのち各地の泉を回り、祈りを捧げるようにとお母上からの言伝じゃ」
「インパ様……わかりました」
重い口を開いたインパ様はゼルダと俺とを交互に見ていた。
つまり、俺はこれから父さんの代わりにゼルダを守って、ハイラル中を旅してまわれと言う意味だ。
大丈夫、できる。そのために、父さんは俺たちを連れて世界中を傭兵として回っていたんだ。旅をするのは十分に慣れていた。大丈夫成し遂げられると、力強くうなずく。
「やり方はご本人が理解しておられると聞き及んでおります。我ら一族は残念ながら表立って動くこと叶わぬ立場。なれど本懐を成し遂げられるまで陰ながらお守り致します」
「感謝します」
礼は述べてもゼルダは頭を下げない。つまりそうする必要のない人。
その視線が俺の方へ向いた。睨んでいるわけでもないのに、受け止めるのに胆力の必要な瞳だった。
思い出すのは出会ったばかりで、俺の母さんと妹が死んだのが自分のせいだと認めた時のゼルダ。何が起こっても誰のせいにもしない強い人、一人の時のゼルダはきっとこうだったんだと分かり、俺はようやく彼女の隣に居る辛さを知るに至る。
「リンク、どうか、おねがいします」
「はい」
「……みなさん、ごめんなさい」
最後の最後に礼を述べて顔を伏せ、次に顔を上げたら、もうゼルダはいつものゼルダに戻っていた。見知らぬゼルダ様はもういない。そこに居たのは俺の妹。
幻だったのかと頬をつねりたくなる衝動を抑えて、奥歯に力を込めた。
俺は、どっちを守ればいいのか少し不安になる。妹のゼルダなのか、それとも見知らぬゼルダなのか。
どちらにしろ大事な人なのは間違いない。今の俺が理解できるのはそこまで。いろんなことを考えるにはあまりにも余裕が足らず、様々に枝葉を伸ばそうとする思考に蓋をした。
父さんの余命を知ってから、俺は一人で仕事に出るようになった。話を聞いた時点で、父さんの体はもはや護衛の仕事ができる状態ではなくなっていたため、食い扶持は俺が稼ぐしかない。
食べる量がどんどん減って、時に血を吐き、長く床に臥せることが多くなる。父さんの世話はもっぱら薬の心得のあるゼルダの役割になった。
それを良いことに、俺は一人で村を出て護衛や魔物の討伐の仕事を請け負うようにしていた。外で経験を積むことが、剣の技量をさらに強固なものとする。それにいずれ二人で旅立つための金は入り用だから。
……などと、言い訳はいくらでもできた。そうやってゼルダと一緒にいる時間を短くしようとした。
「もう次のお仕事に行っちゃうんですか?」
ごめんと言いながら、少し寂しそうにするゼルダと父さんを置いていく。
最初はどうして一緒に居たくないのか分からなかった。あれほどくっついて離れたくなかったゼルダと、今はあんまり顔を合わせていたくない。妹のゼルダとも、尊い身分のゼルダ様とも、どちらの顔も見たくなかった。
カカリコ村を離れて一人の時間が長くなるにつれて自分の心を覗く機会が多くなり、本当の理由が見えてくる。
妹のゼルダと一緒にいるのなら家族として傍にいることになる。尊いゼルダ様と一緒にいるのなら臣下としての立場が適当だ。その二者択一は、それ以外の方法では俺がゼルダの傍にいることができないという意味でもある。
どちらか選べと言われても、不思議とどちらも選びたくない欲求に駆られていた。
異なる選択肢が俺にはないことを直感で気づき、そこに折り合いをつけるための時間が欲しかった。いずれ嫌というほど一緒に居なければならないのだから、今だけでも心を整理する時間が欲しかった。
「リンク、数日は村にいてくれませんか?」
秋になって、でも例年に比べてまだ暑い日々が続いていた頃。
リトの村の方へ十日間の護衛の仕事を終えて帰ってきたら、ゼルダはなんだかソワソワしていた。共用の財布にルピーを入れて、はたと考える。
実は一日かそこらでまた出かけるつもりでいた。秋口はどこの農家も手が欲しいから稼ぎ時。しかし珍しくゼルダははっきりと、俺に居て欲しいと態度で示していた。
ここしばらくは父さんの容体は安定しているので、死に目に会えとかそういう話ではなさそう。
「なんかあるの?」
「明後日、秋祭りなんです」
「あ、なるほど」
去年までこの時期は三人で農家の手伝いをしていた。珍しく子供でも確実に稼ぎがとれる繁忙期なので、あまりカカリコ村に居座っていたことはない。
小さい頃はお祭りがあるから村に居たいと言ったけど、父さんは三人分の食い扶持を稼ぐ方が大事だからと祭りの時には村に居なかった。それが不満だったのが遥か昔のように感じる。
「んじゃあ明後日までいるよ」
「ありがとうございます! 一緒にお祭り行こうと思って、リンクの分も作ったんですよ」
そう言って、長びつから取り出したのはあまり見たことのない形をした服だった。
「インパ様に教えてもらいながら作ったんです。浴衣っていうんですって」
「ゆかた?」
紺地に大きな矢羽根模様の、どうやって着るんだか分からない服を一揃え見せてもらった。首を傾げる。
「これを、着るの?」
「お祭りのときは皆さんこういうのを着るらしいんです」
「へぇ、そうなんだ」
「自分の分も作ったんです。二人分縫うの大変だったんですよ」
言う割に、その時は見せてくれなかった。
だからお祭りの当日に、浴衣を着つけたゼルダを見て、自分の顔が熱くなるのを隠すの必死になる。かわいかった。
白地に青い姫しずかの模様が入って、同じ青い帯を締めていた。髪も結っているのにいつものおけさ笠がないので、うなじがすらりと見える。正直、目の毒でしかない。
「どうですか?」
「うん、いいとおもう……」
ようやく出た言葉だったのに、プルアに後ろから背中をどつかれた。うるさいなと睨んだが、にんまりと笑われて俺は負けた。
父さんに一声かけてから、「じゃあ行きましょ」とゼルダに手を引かれる。インパ様の家を飛び出すと、村はいつもと違って大賑わいだった。
秋の祭りは収穫に感謝するお祭り、他の村々もこうやってお祝いをする。他の村の祭りに混ざったことはあったが、この浴衣というのは初めてだった。おそらくカカリコ村だけ、シーカー族の伝統的なものなのだろう。やけに腰を締めた帯から下がスースーするし、かかとのない突っ掛けの履物も落ち着かない。
村の真ん中あたりに大小いくつもの屋台がいくつも出ていて、祭りに合わせて戻って来た人達が様々なものを売っていた。たいていは食べ物、でも中には雑貨や宝飾品を扱っているところもあった。その中に混じって、ロベリーが小さく露店を開いていた。
「ロベリーも何か売ってるの?」
「研究のためにはルピーがニードなのだ……」
箱がいくつか並んでいて、ネジやらバネやらが入っている。手に取ってみて見たものの、なんだかよく分からない。こんなもの誰が欲しがるのか首を傾げる。予想通り、欲しがる人がほとんどいないのか、あまり売れている様子はなかった。
でもゼルダは目を輝かせていて、需要があるところにはあるんだなぁと苦笑いする。
「これ、もしかして遺物の部品ですか?」
「さすがゼルダ、ザッツライトだ。こっそりと持ち出してきた」
「なんとっ……じゃあ、これください」
そう言ってゼルダはネジを一本買う。
鈍色に光るネジをほの暗い提灯の灯りにかざして、ふふっと笑った。
「よかったね?」
「はい!」
それのどこがいいんだか、俺にはよく分からなかったけど嬉しそうだからいいってことにしておいた。次第に弱っていく父さんの世話で、最近あまり笑っているところ見なかったし、寂しそうにするのを分かっていて一人で仕事に出ていたから。ネジ一本で笑ってくれるなら、俺がルピー出せばよかったと思うぐらい。
そのあとすぐにゼルダは俺の手を引いて歩き出す。
「あの、買いたいものがあるんですが、いいですか?」
構わないよとついて行った先は、宝飾品の露店だった。
ゲルドの方から帰って来たシーカー族の人が開いている。小物から大ぶりな宝石のついたネックレスみたいなものまで、夕闇にキラキラ光っていて、一目見て女の子が好きそうだなと分かった。
「ごめん、俺そんなにルピーないや……」
家族の共用の財布にはそれなりに入っている。でも、俺の小遣いはほとんどない。そのほとんどが、仕事で出た先の食費に消えていた。何を食べてもすぐに腹がすくので、けっこう見境なく色々と食べている。
ところがゼルダはこちらを見もせずに首を振った。
「大丈夫です、私が買います」
そう言われるとなんだかやるせないんだが。
でも確かに、ゼルダが見ているのは自分用の物ではなさそうだった。覗いているのは味気ない髪留め。
何から削り出したのかは分からないが、少なくとも宝石ではなかった。鉱物だろうとは思うのだが。
「これを下さい」
しばらく迷ってから選んだのは青い髪留めだった。
「はい、これどうぞ」
買ってすぐに俺の手のひらに乗せたそれは、どう見ても女物ではない。
声が出せないまま、しばらくびっくりしてかたまって、そのあとようやく首を傾げた。
「俺に?」
「だって髪を切るの、すぐに不精するでしょう」
言ってすぐに手のひら取り上げると、俺の体をぐるりと反転させる。無造作に伸びかけた俺の髪を掴んで髪留めを付けた。なんというか、ちょうどいい。
確かに激しく動き回ると髪がバサバサして、また切らないとなぁと思っていたところだった。
「ありがとう……」
「お金を貯めていた甲斐がありました。瞳と同じ色ですよ」
そういえば、お駄賃が貰えるとゼルダはそのほとんどをお財布に入れて使わなかった。逆に俺は何か買ったりしてほとんど無くなっていた。このために、ずっと貯めていたのかと思うと恥ずかしい。
俺の財布は軽いまま懐でぺったんこになっている。
「仕方がねぇなぁ。兄ちゃんは、いくらあるんだい」
俺が視線を落としたことに気が付いたのか、露店のおじさんはからからと笑っていた。
これだけある、とボロボロの財布を見せると、「おまけしてやるよ」とゼルダが買ってくれた髪留めとは値段は全く違ったが、同じ色の青い髪留めを売ってくれた。ずっと安物。でもゼルダはよろこんで前髪につけてくれた。
「おふたりさん、恋人かい?」
おじさんはニヤッと笑いながら腕組みをする。
ゼルダは笑って、俺は眉をひそめた。
「そう見えますか?」
「兄と妹だよ」
カカリコ村の村人とはいえ、俺とゼルダが血の繋がりのない兄弟ということを知っている人はほとんどいない。だから言われても、強く咎めることはできない。けど嫌な気分になった。
意識せずにいることが難しいからこそ、外での仕事を増やして会わないようにしていた。いずれ二人で旅に出るときに、俺は兄貴にならなきゃいけない。そうじゃなければ俺はゼルダと口すら利ける身分じゃない。それが頭で分かって、心が上手く制御できない。
「兄妹か。でもお似合いに見えるよ」
「……そんなんじゃない」
さっきまでの楽しかった気分が一気にしぼんで、ゼルダを置き去りに人混みの中をむちゃくちゃに歩いた。誰もみんな家族だの恋人だのと歩き回っていて、俺は一人。なんだかむなしくなって、やっぱりロベリーのところへ戻ってくる。
「どうしたリンク」
「つまんねーから戻って来た」
「ならばヘルプミーだ」
と言われても、買っていく人もいないロベリーの露店にただ座っているだけ。
しばらく人の流れを眺めていた。
「その髪飾り、マッチしている」
「ああうん、ゼルダが買ってくれたんだ……」
いいだろ、と見せてから、やっぱり気まずくて膝を抱えて顔を伏せる。
上手い具合にいつもやっている兄貴の顔ができていない。こんなことなら、外の仕事に出ておけばよかった。でも居て欲しいとお願いされてしまうと絶対に断れない。
雑踏に踏みつぶされる蟻みたいな気分。
「なぁロベリー」
ロベリーは俺とゼルダに血の繋がりがないことを知っている、数少ない人だった。
「血がつながっていない妹のことが好きって、俺、頭おかしいのかな」
きっとみんな、お祭りに夢中で聞いていやしない。
構うもんかと思って隣の、父さんより自分に歳の近いロベリーに問いかける。そういう相談をする相手が、確かにあまりいない。どう考えてもインパ様やプルアやインパに相談できることではない。
ロベリーは笑わずにいてくれた気がした。ゴーグルで見えないのだがそんな感じがする。
「ベリーディフィカルトな問題だが、セーフではないか」
「そうかなぁ」
「だがプロブレムはいつだって起こるものだ。ほら、大事なシスターが誰かに捕まっているぞ」
言われて顔を向けた先、浴衣の裾の姫しずかが揺れる。ゼルダに近づいていたのは詩人の弟子だった。あいつ、まだカカリコ村に居たのか。
なんだか親しそうに話をしていて、カッと頭に血が上った。
「ごめん店番終わり」
「ノープロブレムだ。グッドラック」
俺は人混みをかき分けて、ゼルダと弟子のところへ行くと無言でゼルダの手を持った。
「俺の妹に手ぇ出すな」
「おや、覗き魔君ではありませんか」
「失せろ」
だいぶ低くて冷えた声が出て、周りの人どころかゼルダまでぎょっとさせてしまう。
最近こうして、相手を脅す声が出せるようになった。声変りが終わりつつあるからだと思う。どうしたって護衛の仕事は見た目も幾分か判断材料にされる。十四の子供は腕だけではまず雇ってもらえない。そのため視線、声、態度、気配は大切な武器だ。
だからと言ってこんなところでそれを使う気はなかったのだが、とっさに止まらなかった。俺のゼルダに、あのいけ好かない弟子が話しかけていることが気に食わない。
「ねえ、どこいくの?」
慌てるゼルダの手を引いて、俺は一切無視して歩いた。勝手に足が山の方へ向かった。祠のある方へ、人の波から離れてようやく立ち止まる。
すっかり日が落ちて、上から見下ろしたカカリコ村は提灯の灯りが点々と灯る幻想的な風景に変わっていた。
お囃子とにぎやかな声が遠い。人の目はもうない、そして俺のイライラはそろそろ限界。
「ゼルダ」
駄目なんだけど。
本当は駄目だと分かっているけれど。
もう俺の熱は我慢がならない。
「今だけ、好きになってもいい?」
それを許してくれるなら、この後どれだけでも兄貴でいるし、ひざまずいて臣下になれと言われればそうする。そのために自分の身を犠牲する覚悟もある。
だから今だけ、俺は兄貴と臣下以外の理由でゼルダの傍に居たい。違う理由で寄り添うのは、今この一瞬だけでいい。
びっくりした翡翠の瞳が、でもにっこりと笑った。
「はい、喜んで」
だから気が付いたらゼルダの頬を包んで、キスをしていた。こんなの間違ってるし駄目だと分かっているけれど、今日はお祭りだから、誰も見ていないこの高台でだけ許してほしい。
「ごめん、明日からはちゃんと兄貴に戻る」
「戻っちゃうんですか」
「戻るよ、こんなの今日だけ」
二人で顔を見合わせてこっそり笑った。日が落ちているこんな暗い場所、それこそロベリーの壊されたファインドグラスがなければ気が付く人もいない。
誰も見ていないりんごの木の下で、俺はずっと前から好きだった女の子にキスをした。
ふわふわの唇を何度もついばんで、気が付いたら少し舐めていた。でもゼルダの方も俺の唇を食んで、在所なさげな翡翠色の瞳に金の睫毛がかかった。髪は染められても睫毛は染められないから、こうして近づくとゼルダの本当の色を思い出す。
俺は七歳の時からずっと、こうしたかった。
「妹が好きって俺、変なのかなぁ」
「だとしたら私も変なのかも」
顔を合わせたくなかったのが嘘みたいに嬉しい。互いに可笑しな二人だったらいいなと思って、おでこをくっつけた。顔が熱いぐらいの火照っていて、ゼルダも耳の先まで赤い。でも夕闇だから誰も気が付かないと言うことにしておいた。
ポンポンと音がして、花火が上がり始めたのを機に、どちらからともなく指を絡めてまたキスをする。頭がとろけておかしくなるぐらい、お腹の底の方が熱くてぞわぞわした。
こうして俺は秋のお祭りの日に、ずっとくすぶっていた初恋を終わらせた。ようやく覚悟を決めることができた。
その後、父さんは次の春を待たずに旅立った。
俺たちが見守るなか、眠るように息を引き取った。最後の言葉は「しっかりやれ」だった。
俺は少しだけ泣いて、ゼルダはそれなりに泣いていた。でも親を失ったにしてはお互いに薄い反応だと自分でも苦笑する。インパの方がずっと悲しんでいたぐらいだ。
生き死にの多い傭兵稼業だったこともあるだろうし、二人ともすでに十分な覚悟していたと言うこともある。しかしそれ以上に俺もゼルダも、自分たちの前に立ちはだかる成すべきことが大きすぎた。
あれからゼルダの出自を一度として問いかけたことはない。ただ漠然と高貴の人というのだけは分かっていて、それを伏せたまま兄の振りをし続ける。それがゼルダを守るのに一番良い隠れ蓑の形なのだと理解していた。
最後に、父さんの青い耳飾りを形見に貰うことにした。ブツリと音がして開けた穴から、子供のころの楽しい思い出が流れていった。
「そうだ、助けてほしいときのハンドサイン決めておこう」
「そうですね、この先何があるか分かりませんし」
父さんが亡くなった後ほどなくして、まずは二人だけでフィローネへ旅立つことにした。
ゼルダのお母さんの言葉によれば、このハイラルにある女神を讃える三か所の泉を回る必要があるらしい。ただしカカリコ村から一番近い知恵の泉のあるラネール山は十七になるまで入山が認められない。
ならば次に近いところということで、まずはフィローネ樹海にある勇気の泉へ向かうことにした。
「簡単で、でもバレにくいハンドサインでなければなりませんね。忘れづらいのがいいし」
「手を上げて、親指を握ってから四本指を握り込むっていうのは?」
「分かりました、それでいきましょう!」
馬上で互いにハンドサインを確認する。
これが使われることが無いに越したことはない。でも何か起こる、そのために俺がゼルダについている。
絶対に、誰にも指一本触れさせるものかと腹に力を込めた。
「行こう」
「はい!」
馬首を巡らせ向かうは南。カカリコ橋を渡って、まずは密林の奥地を目指す。
ゼルダは十四歳になったばかりで、俺が十五歳になる年の春のことだった。