2 ゾーラにて
拾った枝を突き上げていたら、ヒンヤリヤンマが止まったのでそのまま歩いていた。
「ミファー元気かなぁ」
アデヤ村からゾーラの里へ向かう商隊の護衛、その最後尾に俺とゼルダの二人は着いている。すでにラルート大橋を越えて、もうゾーラの里は目と鼻の先。この里へ来るのは一年ぶりのことだった。
「リンク、ミファー様って呼ばなきゃダメよ」
「ミファーがミファーでいいって言ったんだよ」
「それでもだめ。ミファー様はゾーラ族のお姫様なんだから、失礼なこと言わないの。分かった?」
商隊の先頭と中央に口入れ屋で会った若い護衛士が二人、しんがりの護衛に父さんが着いていた。
さらにその後ろ、離れた位置に俺とゼルダはついていた。その方が勝手に喋っていられるし、晩ご飯と薪を拾うのは俺とゼルダの仕事。時々二人で隊列を離れて山へ入ることもあった。
「最近ゼルダ口うるさい」
「リンクが失礼なことを言うからです」
「あとお兄ちゃんって呼べよ」
「私の方が背高いですし、歳だってさほど違いません」
七歳の時、俺はゼルダよりもだいぶお兄ちゃんのつもりでいたけれど、実際のところゼルダとはほとんど同い年だった。たぶん半年ぐらいしか違わない。おかげで俺は十四歳になったのに、十三歳のゼルダの方が背丈が少し高い。ちょっと悔しい。
でも剣は俺の方が上手い。弓も。でもゼルダも父さんに弓を習っていて、普通の女の子とは比べ物にならない腕前。今日もアオバサギを簡単に二羽仕留めて来た。晩ご飯は何かの包み焼きだと思う。
「二人とも、少し口を噤め」
少し先を行く父さんの低い声に顔を見合わせる。
「「はーい」」
故郷のハテノ村を逃げ出して七年。俺とゼルダは父さんに連れられて、世界中を旅していた。
父さんはあの日から騎士ではなくなり、放浪する傭兵になった。戦いがあれば赴いて剣を振るい、金を貰う。戦いがないときはもっぱらこうして商隊の護衛をして日銭を稼ぐ。あまり余裕のある生活とは言えない。
どうしてこんな生活になったのか、詳しい理由は話してくれなかったし、聞かなかった。ただ少なくとも、まっとうなことではないのだという察しはついた。その原因がゼルダにあることは分かっていたし、俺も聞こうとは思わなかった。そんなことを聞いて家族の和を崩すよりも、今の三人家族の形が崩れないことの方が俺にとっては大事だった。
あれからハテノ村へは一度も帰っていない。だから母さんと下の妹が本当にどうなったのかは知らない。知らない方がいいことも、世の中にはあるんだろうと思うことにしておいた。
「あー! リンリンとゼルゼルじゃんー!」
青く光る水の都、ゾーラの里の玄関口で赤いヒレが大きく揺れている。
「コダー! やっほー!」
「こんにちはコダー!」
ゾーラの里に入るとすぐに顔見知りのコダーに見つかった。またあとで遊ぼうと約束をして、ともかく商隊が中へ入るのを手伝う。
案外、こうして世界中をめぐる旅は面白かった。色んな種族に友達が出来たし、不思議なものもたくさん見た。ずっと父さんと一緒だから剣の稽古も毎日のようにつけてもらえたし、俺だって大人に混ざって護衛の役をちゃんとこなせるから時々お駄賃も貰える。ゼルダもずっと隣に居てくれる。
辛い生活だけれど、案外気に入っていた。悲しいこともたくさんあったけど、悪くないなと思っている。
里に入ってすぐ、樽や木箱を幌馬車から降ろしてよろず屋の中に運び入れた。
荷運びの手伝いは、本当は護衛の仕事ではない。でも何度も護衛している商隊だったので、互いに勝手が分かっている。そして荷運びまで手伝うとお駄賃を貰えることも俺たち二人は心得ていた。
「お手伝いと毎日ご飯の狩りをありがとうね。お前さんたちが護衛についてくれると飯が美味くて楽しいよ。ほら手を出してごらん」
「ありがとうございます」
「ありがとう!」
商隊の隊長を務めるおじいさんはもう何度も付き添っているから、俺とゼルダのことを良く知って可愛がってくれていた。手の平に青いルピーを一つずつ。どうしよう、飴でも買おうかなと横目に見ると、ゼルダはしっかりと自分のお財布にしまい込んでいた。
「なんか欲しい物あるの?」
「うん」
お兄ちゃんが買ってあげようか、と思ったけれど言わない。言ったら怒られそうな気がした。
結局、俺も貰った五ルピーをボロボロの自分の財布に入れておいた。
「晩飯までには帰ってこい。それまでは遊びに行ってきていいぞ」
父さんの声に二人で顔を見合わせた。
護衛の仕事はゾーラの里までということで、この先はまだ決まっていない。だとしたらもしかしたら数日間、里で遊べるかもしれない。
旅をしながら暮らすのは楽しいけれど、友達になった人とすぐに分かれなきゃいけないのが結構辛かったりする。
走って行ったのはセラの滝だった。
「あ、リンリンとゼルゼル来たよ」
「二人とも久しぶり! また背伸びたゾラ?」
「白い雲! 澄み渡る青!」
「スババ、もう合言葉なんていいゾラ……」
リトバンとコダーとスババとジョアダ。一年ぶりの面々はみんな変わりなかった。むしろ変わったのは俺とゼルダの方。
みんなはゾーラ族だから成長が遅い、俺とゼルダはハイリア人だから成長が早い。ただそれだけのことなのだが、気が付けば俺たち二人はちびっ子スババ団の全員よりはるかに背が高くなっていた。
「また滝登りの練習付き合ってよ」
「リンク、ハイリア人は滝登りできないゾラよ」
「そんなのやってみなきゃ分からないって。背も高くなったし、できるかもしれない」
ジョアダが呆れ顔をしていたけれど、俺はスババに負けたままなのが嫌だった。一年ぶりの挑戦。着ているものをあっという間に脱ぎ捨てて、ゾーラの里の下を流れる川に飛び込んだ。
冷たくて気持ちいい感覚が全身を突き抜けていく。
上から流れ落ちる滝に向かってスババを真似て垂直に泳ごうとしたが、やっぱりどうしても滝登りだけはできない。悔しくて水をペッと吐き出して、少し長くなった髪をかき上げた。そろそろ切らなきゃいけなと髪をまとめて絞る。
そんな俺たちの泳ぐところを、ゼルダは岸辺で一人、つまらなさそうにしゃがんで頬杖をついていた。
「ゼルダも泳げばいいのに」
「やめておきます」
昔はゼルダも一緒になって泳いでいた。でもいつからか、ゼルダは泳がなくなった。髪を染めているのが落ちやすくなるからかもしれない。
俺はいつか、ゼルダの髪が全部金に戻ってくれたらなと今でも思っている。でもゼルダはあれから定期的に髪を染め直し、俺と同じくすんだ稲穂色の髪を肩までに切りそろえたままだった。
「リンク、ゼルダ、ここだったのね」
するりと優雅に水をかき分けて、赤いヒレが見えた。
「ミファー!」
「二人とも、久しぶり」
「お久しぶりです、ミファー様」
銀細工を日の光にキラキラさせて、ミファーは笑っていた。
後で会いに行こうと思っていたのだが、どうやら向こうから来てくれたらしい。今日はその後ろに、シド王子の姿はなかった。
「ねぇ、リンク、ゼルダ。ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」
なんだろう。ミファーはゾーラの里のお姫さまで、歳も少し上だから逆に教わることが多かった。物の名前、槍の稽古、それにミファーは癒しの力の遣い手だったから怪我をしていると手当もしてくれるお姉さんみたいな人。ところが背丈は同じぐらいになっていた。
川から上がって体を干して、服を着直して。ミファーに手招きされてついて行ったのは里の東側の橋の上。ミファーの指さすルト台地の向こう側に何かが見えた。
「最近ね、ハイリア人の技師たちが来て、厄災に対抗するための古代遺物というものを掘り出しているんですって。リンクもゼルダもハイリア人でしょう? だから遺物ってどんなものなのか知ってるかなと思って」
旅をしながら、もちろん厄災復活の話はいろんなところで聞いていた。
ハイラル王家が先頭に立って、各地で『古代遺物』を掘り出して厄災復活に備えている。同時に兵士募集も行っていて、大幅な戦力増強を行っているのだが、当然のように父さんはそこには手を上げない。でもまさか、ゾーラの里のこんな近くで古代遺物を掘り出しているとは思っていなかった。
黒っぽいぬるりとした岩壁の向こう側に見える何か。それは何かの先端の形をしていて、ちょっと禍々しくも見えた。
「古代遺物とは、一万年前に古代シーカー族が作り出したものです。ハイリア人はもちろんのこと、現在のシーカー族でも作り方は不明だと聞きました」
すらすらと、まるで何かを暗唱するかのように口を開いたのはゼルダだった。
翡翠色の瞳は遥か先の遺物の先端を見て輝いている。そういえばゼルダはこういうものに目がない。
「それってプルアたちに教わったの?」
「リンクはあまり興味ないですものね」
「うん、プルアとロベリーの言ってること、よく分からない」
旅ばかりとはいえ、比較的長く腰を落ち着けることが多いのはシーカー族の隠れ里であるカカリコ村。
カカリコ村の村長の孫娘のインパとプルア、それから幼馴染のロベリーたちからゼルダは確かに何か色々な手ほどきを受けていた。対する俺はよく分からないことが多くて話を聞いていないことが多い。
「じゃあゼルダは古代遺物、見たことあるのね?」
「ごめんなさいミファー様。私も話に聞いたことがあるだけで良くは分からないんです。それに古代遺物と言っても大小様々だから、あれほど大きいとなると神獣と呼ばれる物じゃないかしら」
ゼルダは目を輝かせて、ミファーは少し恐々と、山の向こう側から飛び出した突起の影を眺めていた。
俺にはその趣味が良く分からないまま、二人を眺める。あんなののどこがいいんだろう。そんなことよりも滝登りの方がずっとすごいことだと思うのに。
何ならこんな遠くじゃなくって、もっと近くに寄ってみればいいのに。
と、そうだっと手を打った。
「そうだよ。そんなに気になるなら、もっと近くで見ればいいんじゃない?」
距離から言えば、おそらく発掘されている場所は東の貯水湖のどこかだろう。だったら雷獣山かタルタル台地へ行けば、その全貌が見えるはず。
別にこんな端っこから、ちょびっと見るだけで我慢しなくたっていい。
「雷獣山かタルタル台地に登って、その古代遺物とかいうの、見てみようよ。あそこなら晩ご飯までに戻って来られる」
その方がここでああだこうだ言っているより、よっぽど楽しい気がした。でもミファーは首を横に振る。
「だめよリンク。ライネルがいるから子供だけで雷獣山には近づいちゃいけないって約束でしょ」
「ミファーはもう大人でしょ? それに俺たちだってもう剣も弓も、大人と同じぐらい使える」
ね、とゼルダの方へ向き直ると、ゼルダは難しい顔で腕組みをしていた。
眉間にしわを寄せて、たぶん古代遺物を見てみたいのと、約束を破らないのとの間で揺れ動いている。
「ゼルダも行きたいよね?」
「…………どう、でしょう」
「見たくないの? 遺物」
「もちろん見たいです」
「だよね、こんな機会滅多にないよ」
「………………そう、そうですよ、ね」
よし。多数決、勝った。
二対一で行くことに決定。
こうして俺とゼルダは剣と弓を取りに行き、ミファーも槍を持って里の東側に集合。ミファーに滝登りで引っ張り上げてもらいながら、山の上の方へ登っていった。雷獣山はさすがにライネルがいるのでこっそり北側を通り、東側のタルタル台地へ。
貯水湖を望める場所まで来て息を飲む。
建物よりも巨大な動物の形をしたものが、貯水湖の壁際に立っていた。辺りを補強の柱で支えられて、どうやら水の中から引き上げられている途中のようだ。
「わぁー、すごい!」
「素晴らしいです……!」
ミファーもゼルダも目を丸くして、二人とも大興奮の様子だった。
それはなんだかよく分からないが、四足の動物を模した形をしていた。長い鼻と大きな耳のついた生き物、でもそんな形の生き物を俺は知らない。
横目でちらりと見たが、物知りなゼルダでも知らない動物のようだった。
ミファーはそれを「丸くてかわいい」と言って、ゼルダはひたすらに「すごい技術です」と言う。俺にはよく分からなかった。あんなもの、どうやって誰が動かすんだろう。何人もの人が張り付いて作業しているみたいだったが、遠目なこともあって本当に米粒みたいに見えた。
それによくよく考えると、あんな巨大な物を動かさなければ倒せない『厄災』って何なんだろう。そっちの方が気になった。
しばらく眺めた後、日が暮れる前に山を下り始める。早く帰らないと父さんとの約束の時間に間に合わない。晩ご飯前には戻って、もちろん雷獣山に近づいたことも内緒にしておかなければならない。
「二人とも早く!」
声を掛けながら急ぐ山道で、運の悪いことに小雨が降りだした。足元が滑りやすくなり、ついてないなぁと思いながら、駆け足で来たのと同じ道を辿り、里へと急ぐ。
やけに風がざわざわしていて、コログの姿も見ないなぁとは思っていた。でも急いで帰る方に気を取られていて全然そいつの気配に気が付かなかった。
「リンク……!」
ゼルダの悲鳴にも似た声に全身の毛が逆立つ。雨に紛れた生々しい獣の匂い。
赤い鬣、白いねじ曲がった角、緑色に反射する目。黒い体躯は馬のようだが遥かに強靭で、俺よりもずっと大きい。
雷獣山の主。魔物の頂点に位置するライネルが丁度、山を下りてきているところだった。
その巨体と視線が合ったのは、馬五頭分と離れていないぐらいの距離。なんだってそんな距離になるまで気が付かなかったのかと言えば、互いに雨に気を取られていたから。ライネルも俺たちも、双方が雨の落ちてくる空を見て、ざわつく空気に首を傾げていた。
だから最初の動作は同じ、互いに後ろに跳ねて距離を取る。初撃を放つ機を逸して対峙する形になった。
「二人とも、逃げ、て……」
目の前の恐ろしい気配を睨みつけながら声を絞り出す。背負った旅人の剣を抜いた。大きく息を吐き出しながら眉間に意識を集中させる。恐怖に負けて視線を逸らした瞬間にやられる。
リザルフォスもモリブリンも、俺はタイマンで討ち取ったことがあった。ボコブリンなら十対一でも負けない。でも俺はまだ、ライネルとだけは剣を交えたことがなかった。
大人の父さんでも、商隊の通る道にライネルがいたらそこだけは迂回する。狩ろうと思わない限りは手を出さない、それほどの相手。それが今、目の前で背負った長大な剣を抜いた。
「リンクを置いていけません!」
俺の後ろから二人の気配が動かなかった。
「逃げてって、言ってる」
「私も戦う!」
ゼルダが弓をつがえる音、ミファーが槍を構える音がした。
三対一。
でも全員、大人未満。
でも、やらなきゃやられる。
「……ッ」
生唾を飲み込んで、最初に動いたのは俺だった。
ライネルの剣を持つとは逆の左側へ回り込む、どうしたって四足で動くやつはそこが死角になる。だから足を狙って機動力を断つ。それから背面を取ってどうにか攻撃を加えて行けば勝てるはずだ。
と、頭で考えた次の瞬間、さっきまで随分と遠くにあったはずの白い角が目の前にあった。頭をぐっと下げて突進、手で防御する暇はもちろん、息を飲む間さえなく、気づけば体が宙に浮いていた。
視界が回って平衡感覚を失い、喉のあたりで息が詰まる。
「リンク!」
ミファーの慌てた声と弓の弦が弾かれる音、一拍おいて、地面に叩きつけられる衝撃があって、口から空気と一緒に胃の中身が飛び出した。
「広いところへ!」
ゼルダの放った矢は盾に弾かれたが、ライネルは的確に自分を射た犯人を追う。弓を放ったのと同時にライネルの横を素通りして、ゼルダは雷獣山のてっぺんにある開けた土地に走り込んでいった。
その後ろを、まるで糸に引かれるように黒い巨体が追いかけていく。
「ゼルダ、待って!」
口の中の酸っぱい物を吐き捨てて、俺はその背をミファーと共に追った。
背丈よりも大きな岩の影から、ゼルダは引き撃ちで牽制しながら距離を置こうとしていた。でもことごとく放つ矢は盾と剣に防がれ、次第に崖の縁へ追い詰められていく。
「こっちを向け!」
俺も背負っていた弓をつがえ、完全に背後を取った状態でライネルの背に向けて矢を放つ。それは的確に背の真ん中を穿って、ようやく凶悪な意識がこちらへ向いた。
「来いよ」
また剣を構え、今度は自分からは動かない。同じ轍を踏んでたまるかと、柄を握った手に力を込めて待った。
巨体と共に鉄の塊みたいに幅の広い剣が迫る。刃が空を切り裂く音が目の前に迫り、刹那だけ時が止まったように見えた。どうすれば避けられるのか、見えた。後ろへ体を捻って、片足で着地してから体勢を整えてからわき腹を狙えばいい。
見えるけれども体が上手くついて行かない。ぎりっと奥歯を噛んで、寸前のところで避けるだけ。悔しい、もっと体が動けば攻撃ができるのに。
そう思った瞬間、岩陰から飛び出したミファーの槍が、俺とは反対側の真横からライネルの横腹を穿った。オオオオオンと耳をつんざく叫び声が雨の中にこだまする。
その一瞬があった。
息を止め、濡れた地面に両手両足を着いてライネルの刃が届きづらい足元から見上げる形になる。その位置から背に駆け上って赤い鬣を鷲掴みにした。
「どんな生き物でも首をやられれば死ぬ。首は急所だ、覚えておけ」
父さんの言葉が耳の奥に蘇った。
ライネルもどれだけ強かろうと生き物。ならば狙うは首、でもそこはごわごわと立派な鬣が生えて刃の通りを邪魔する。
「リンク! もうだめ!」
ライネルのわき腹から槍を引き抜きながら、ミファーが後退したのが見えた。
そうなると取り付いているのは自分一人。ライネルは自分の背に足をかけて鬣を掴む俺を、簡単に宙に投げ飛ばした。
それだけならばまだしも、二度目はないとばかりに吠え、雷を纏った矢をつがえる。
バリバリと音を立てる電気の矢、それが空中で体勢が変えられない俺に向かって的確に照準を合わせる。避けられない。あんなものを食らったら腹に穴が開く。
腹に穴が開いて戦い続けられるか? できない。
ならば腕か足を犠牲にしなければならない。ならば腕だ、左腕を犠牲にしよう。足と右手は戦うのにまだ必要だから、まだしも左腕ならば、ゼルダを守るのに必須じゃない。
宙に浮かされたその一瞬にぐるりと頭の中を巡った考えが正しかったのかは分からない。でも俺は自然と左手を前に突き出して放たれる電気の矢を待ち構えた。
来るなら来い、ただでやられてたまるか。
ところが電気の矢が放たれる前に、パァンと音がしてライネルの方がのけ反った。
「リンク! 早く!」
ゼルダが遥か遠くから射かけた矢が、的確にライネルの額を捕らえていた。
またその瞬間、時が止まって見える。狙えば血が噴き出す、そこが見えた。
「やああぁぁぁぁッ!!」
着地と同時に正面下から、のけ反るライネルの喉目掛けて一閃。どす黒い血が、噴水のように噴き出した。
「やった」という感触は正直あまりなかった。まだ動き出すのではないか、踏み込みが足りないのではないか、二人が危ない目にあうのではないかと思うと全身の力を抜くことができない。
はあはあと焼けるような息が喉の奥から出てくる。空気が薄すぎて、血が上って燃えるような頭を冷やすのに足りない。
雨と一緒に真正面から浴びた血は、臭くて生暖かくて、酷い感触だった。
「おおーい!」
遠くから声が聞こえる。
誰の声だろうかと振り向いて、俺はそこで意識を失った。
目が覚めるとそこはゾーラの里の宿屋、サカナのねやだった。ほの暗い天井、たぷんたぷんの気持ちいいベッドの上で、柔らかくて暖かいものがライネルにどつかれた腹に当たっている。
「……ミファー?」
「気が付いた? 大丈夫?」
癒しの手が俺の腹の傷に触れていた。あったかい。
心配そうなミファーの顔が、俺を覗き込んでいた。無事だったんだとほっとする。
「ミファー様、意識が戻ったのならば、もう大丈夫です」
でもミファーの手は、父さんの冷たい声と共に去っていった。
起き上がった瞬間、ライネルばりの拳が頬に飛んでくる。ベッドから吹っ飛んで落ちた。口の中が真っ赤になって、鉄の味が覆い尽くす。
「言い訳があれば聞く」
「……ありません」
俺は父さんの顔を見るのも怖くて、そのまま冷たい床に正座して視線を床に落とした。父さんの背後、扉の向こう側にゼルダの姿があって、今にも泣きそうな顔でこっちを見ていた。それでゼルダも無事だったと分かって、またホッとする。
「子供だけで雷獣山へ行ってはならないと、あれほど言っておいたはずだ。しかもミファー様とゼルダまで連れて、二人まで危険な目に合わせるとはどういうつもりだ」
「ごめんなさい」
下手に言い訳をすれば倍ほど怒られるのは経験上分かっていたし、それにこればかりは自分が悪い自覚があった。古代遺物を見に行こうと言い出したのは俺だし、渋るミファーを引っ張ったのも、悩むゼルダを焚きつけたのも俺。
でも、背後のゼルダはぶんぶんと首を横に振った。
「父さん、私も行きたいって言いました! 悪いのはリンクだけじゃありません!」
「ゼルダは黙っていなさい」
「でも!」
「ゼルダッ」
ゼルダの翡翠色の瞳が赤くなっていたので、すでに怒られたあとなんだろう。それでも俺のことを庇いにくるんだから、なんだか情けなくなった。
正直なことを言うと、ライネルぐらい一人でどうにかなると思っていた。出会わなければ大丈夫、出会わないようにこちらが回避することはもちろん可能。そうまでして、それでも出会ってしまったとしても、俺は一人でゼルダとミファーを守れると心のどこかで驕りがあった。
それぐらいに、十四歳の俺はその時点で、すでに子供の実力ではなかった。ここ一年以上は父さん以外の大人にも引き分けこそすれ、負けていない。
でも結果はライネルに惨敗。二人の加勢が無かったら多分最初の突進と突き上げのあと、あの太い足に内臓を砕かれて死んでいただろう。
「いいかリンク。お前は確か子供にしては強い、大人の兵士と同じぐらいの力量はある。だが経験が圧倒的に足りないことを知れ」
父さんは、俺の考えを全てお見通しだった。
足りないものは、経験。
その言葉が痛んだ傷に染み入って、じくじくと痛みが増していった。
「……はい」
「ともかく、無事でよかった」
ようやく肩の力を抜いた父さんの気配に顔を上げると、まだ渋い顔があった。でもぽんと大きな手に肩を叩かれる。
「よく二人を守った」
勢いよく頭を横に振る。
ちがう。俺は守れなかった。
俺が二人に助けてもらったんだ。
欠けるぐらい奥歯を噛み締めて、こぼれそうになる嗚咽を噛み殺す。悔しかった。もっと強くなりたいと思った。
気づけばゼルダが隣にいて、真っ白くなるぐらい握っていた俺の拳を温めてくれていた。こんな情けない俺でも、ゼルダが無事だったことだけが本当に幸いで。それだけが今、俺が心許されること。溢れた涙が見えないようにゼルダを抱きしめた。
その晩はミファーの取り計らいで、サカナのねやで至高のウォーターベッドを借りて寝ころぶ。前々から寝てみたかっただけに飛び跳ねたい気分はあったけれど、さすがに傷が痛むのでやめておく。調子に乗ったらまた怒られそうだったし。
「リンクの傷が治ったら、一度カカリコ村に戻ろう」
父さんは剣の手入れをしながらぼそりと呟いた。夜光石の青い光に、なんだか顔の影がいつもより濃く見えた。
静かなゾーラの里、水のさらさらと流れる音と風がゆるかな夏の気配を運んでくる。なのにどこか冷えた物々しさを覚える。
「最近、村に居ることが多いですね」
そう、ゼルダの言う通り。半年、一年と村に帰らないことが多い旅だったのが、ここのところは二、三か月に一度はカカリコ村に帰っていた。
もちろん村に俺たちの家があるわけではなく、村長のところにお世話になっているので『帰る』という表現が正しいのかどうかは微妙なところ。でも一番長く世話になる場所なので、どうしてもカカリコ村がもう一つの故郷という感じがしている。
「村長と少し話があってな」
父さんは背を向けたままだったが、わずかに声色が固くなった。
何かあるんだろうなと思って、二人で顔を見合わせる。こういう時、詮索は無用だというのが俺たち家族の暗黙の了解だった。
父さんが何か子供に言えないことを抱えているのは、はるか昔から知っている。いつかそれを教えてもらえるとも、もちろん期待している。でもまだそれを受け取るには俺にはきっと歳が足らない。
「ねえ、父さん」
「なんだ」
ライネルとやり合った興奮がまだ腹の中にわだかまっているのを言い訳に、いつもは聞いてはならない質問を口にしようと決めた。今日ならば、それを聞いても辛うじて許される気がして口を開く。
「どうして父さんは騎士を辞めたの」
小さい頃は父さんと同じ騎士になりたかった。
でも父さんは騎士ではなくなってしまった。だから大人になるというのが、騎士になることと同義だった俺の夢はもう叶わないし、どうやって俺は大人になればいいのか分からなくなってしまっていた。
十七で成人したら?
父さんに剣で勝てるようになったら?
ライネルが一人で倒せるようになったら?
どうしたら一人前の男として認めてもらえるんだろうか。その時には、俺も父さんと秘密を共有できるようになるんだろうか。
でも父さんはこちらに体を向けてまっすぐに、俺を睨むぐらい突き刺さる視線を寄越した。
「わたくしは」
いつも父さんは俺たちに対しては「父さんは」という。
でもこの時だけは違った。
「騎士を辞めたつもりはない。我が忠誠は、未だ捧げた方のものだ」
隣でゼルダが俯いた。
決して、父さんが忠誠を誓った相手がゼルダではないことは確かだ。でも何か関係があるのは分かっている。
俺だけが何も知らずにいる。
羨ましいなと思った。
「俺も、いつか騎士になれる?」
農夫の子は農夫になる。商人の子は商人に、兵士の子は兵士に、そして騎士の子は騎士に。それがこの世の常であることはすでに知っていた。よほどのことがない限り、覆らない法則。
だとしたら俺にはまだ騎士になれる可能性が残っている思っていいんだろうか。だが父さんは、まだ鋭い視線で俺の目を射抜くように見つめていた。
「騎士になるというのは、どなたかに忠誠を誓うことだ。お前はどなたかをお守りするつもりがあるのか」
問われても、俺には忠誠を捧げる相手というのが全く思い当たらなかった。いや、守りたい相手がいないわけではない。守りたい相手、それはすでに隣にいた。
七つの頃から、ずっとそれは変わりがない。ゼルダ、もう誰に大事な家族を奪われたくはない。それだけが俺の大事な、唯一の守りたいもの。
でも忠誠を捧げる相手と、守りたい相手の区別が、まだよく分かっていなかった。
「俺はゼルダを守りたい。それだと騎士になれない?」
ようやくそこで父さんが、ふっと笑みを漏らした。
同時にゼルダがこっちを見て、大きく目を見開いていた。
「ならば、いつかなれるだろう」
その言葉の意味を知る時が、もうすぐそこへ近づいていた。でもその時の俺は「だったらもっと強くなろう」と、そのことばかりが頭を占めていた。