少年編
1 プロローグ 彼女が家族になった日
蒼白になったお母様と、なぜかかしづくお父様のお姿。
異様な光景を目にしたのは、許しが無ければ侍女すら立ち入れない奥の部屋でのこと。こっそりと垣間見る罪悪感に、私は必死に口を押えてバレないように息をひそめていた。
どうしてハイラルの王であるお父様が、王妃であるお母様に頭を下げられているのかしら。不思議には思ったものの、幼い私には理由はよく分からなかった。その日はなぜか城の中が騒然としていて、なんだか嫌な感じがするわと思っていたのを覚えている。でも六歳、幼い姫君には誰も詳しいことは教えてくれなかった。
次ぐ日には変なざわつきは無くなり、いつも通り城に戻った。むしろ普通を装うようにと努力を強いられている感覚に、すっかり疲れてしまっていた。
だからその夜、真っ暗闇の中で起こされた私は、さすがの眠気にほとんど目が開けられなかった。ほぼ寝ながら侍女に着替えさせられ、抱きかかえられてお母様の寝室へ向かう。ところがお母様の寝室に着く頃にはすっかり目が冴えてしまい、何が始まるのか、真夜中ということも手伝って逆にワクワクしている始末。
でもお母様の顔を見た途端、決して楽しいことが始まるわけではないと分かった。あまりにも張りつめた怖い顔をされていた。
「姫様をお連れしました」
「ご苦労でした、誰にも見つかっていませんね」
「手抜かりはございません」
いつになく厳しい口調、固く握られた手、こわばった顔。全てが私へ向き、むしろ悪いことが始まるのだと理解する。肩へ手が置かれ、お母様の指が蒼白になるほどぎゅっと掴まれた。
「よく聞きなさいゼルダ。貴女は今夜、この城を出ます。今日この日より、この者を父と思い、生きるのです。よいですね」
そうして私の手を取り、預けた先はお母様の近衛騎士だった。
顔はよく見知っている。大柄でひげ面の騎士だ。他にも騎士は居たが、どうしてもこの人だけは怖く、近寄りがたいと前々から思っていた。よりにもよってその騎士が私の手を取る。その人はいつもお母様の傍に居る際の近衛兵の服は着ておらず、黒い外套姿がより一層恐ろしく目に映った。
いやいやと首を横に振って手を放したが、お母様は再度私の手を握ってはくださらなかった。
「どうして? お母様は? 何があるのですか?」
「理由は話せません、でも、その時が来ればおのずと分かります。ゼルダ、それまで必ず生きるのです。必ずですよ」
お母様の優しい手が私の頬を撫で、離れていく。言われずともこれが今生の別れなのだと察した。そうでもなければ、いつも優しく微笑まれるお母様が、こんな苦渋に満ちた顔で私を見るはずがない。揺れる蝋燭の灯りに、不安が心の内側を削っていく。
でも同時に、これは私への試練なのだと感じた。王家に生まれた者として、受け入れなければならないことなのだとも、悟ってしまった。
「はい……ッ」
いつ、いかなる時も毅然とし、頭を垂れることなく前を向くように。それが王家の姫のあるべき姿、そう教えてくださったのは私の大好きなお母様。
だからこそあの時、六歳にして私は前だけを見て生きることを心に誓った。
「わたしはだいじょうぶです。だから、いつかお母様、また、いつか……」
鼻の奥がツンと詰まって、それ以上声に出せば涙が出るのが分かって口を閉じた。絶対に泣くまい、盛り上がる涙が零れる前に袖で拭いてぎゅっと唇を噛む。
もう二度と会えない。幼いなりに直感がそう告げていた。
お母様は私の体を抱きしめて「ごめんなさい」とつぶやく。
「祈りは、大切な者を思うことこそが力になると、ゆめゆめ忘れてはなりませんよ」
「……はいっ」
大丈夫、私とお母様はいつもお祈りで結ばれているから。王家の母娘として、私とお母様はいつも女神さまに見守っていただいている。大丈夫、わたしは、どこへいってもお母様と一緒だから。
できる限り気丈な振りをして大きく頷いた。お母様に体が押され、ふわりと宙に浮く。騎士が私を抱っこしていた。
「では王妃様、あとは手筈通りに」
「このような辛い役目を頼んだこと、申し訳なく思います。恨むならば、どうかわたくしを」
強面の騎士に抱っこされて、遥か高いところからお母様の顔を見守る。でも、騎士は固い表情のまま首を横に振った。
「私は貴女様に忠誠を誓った身。このような大事なお役目を頂き、感謝こそすれ恨みなどいたしません」
「でも貴方の家族をも巻き込んでしまいました」
「妻は、貴女様の侍女であったことを誇りに思っております。息子も娘も、きっとゼルダ様のよい兄弟となりましょう。もう何もおっしゃらないでください」
「ごめんなさい、……ゼルダを、娘を頼みます」
あのお母様の青い瞳から、一筋の涙が零れたのが見えた。その瞬間、騎士は一礼して走り出す。もう声も手も届かない、私は後背を断たれたのだ。
騎士は城の暗い廊下を音無く風のように駆け抜けたかと思うと、何の変哲もない曲がり角で足を止めて石の壁を押す。ぐっと力を込めた先には隙間が空いて、中からはかび臭い空気が舞い上がった。
「地下通路を通ります。キースが居るかもしれませんが、どうかお声を立てぬように。必ずお守り申し上げますゆえ」
言われて、無言で首を縦に振る。しがみつく手に力が入ると、大きな手が背をぽんぽんと叩いてくれた。
灯りの無い通路の下は水たまりになっているようで、ばしゃばしゃと水をかき分ける音が響く。確かにキイキイと甲高いキースの声もしたが、幸いなことにぶつかってくることはなかった。
長く、暗い通路を出て、月明かりの元へ出る。ハイラル城が月夜に黒々と大きな影を落とした。這い出た場所はハイラル大聖堂の敷地、そこでようやく草の生えた地面に降ろされる。
「よく辛抱なされた」
怖いと思っていたひげ面は相変わらず怖かったが、騎士は大きな手で頭を撫でてくれた。お母様とお父様以外に頭を撫でられるというのは、実は初めての経験で、少しびっくりしてしまう。
でもこれからは、これが普通になる。何せこの人が私のお父様になるのだから。
「これから、どこへ行くのですか……お父様」
お母様は、これからはこの騎士を父と思うようにとおっしゃった。ならばこの人をお父様と呼ぶべきなのだろう。
私のお父様はあの白いおひげのあの方だけだと思っていたのだが、もはやそうとは呼べないらしい。喉がぎゅっとして苦しかったが、どうにかその騎士を父と呼ぶことに成功した。
だがその人は少し考え込んだ後、膝を折って小さな私と目線を合わせてくれた。
「ゼルダ様、私のことはどうか『父さん』とお呼びください」
「とうさん……?」
「市井の者は自分の父親のことをそのように呼びます。私も失礼ながら、今より貴女様のことをゼルダと呼び捨てにいたします。お許しください」
しばらく考えた。
この人を「お父様」と呼ばなくていいことは、つまりあのお髭のお父様はやはりお父様のままで良いのだろう。「お父様」と「父さん」。別々の人であってもよいのだと少しだけ気持ちが楽になった。
手を繋ぎ、大きく頷く。
「はい、父さん」
「よし、では行こうか。ゼルダ」
六歳になったばかり、春の夜。
騎士は私の父となった。そして私は王家の姫から、ただのゼルダに。
夜が明けるまで父さんの駆る馬に揺られ、遥か遠い村へと向かう。その道中、馬宿で行商人たちの噂話を耳にした。
ハイラル城の王妃様が何者かに暗殺され、お姫様も巻き添えの火事でお亡くなりになったんだとか。
『おうひさまがあんさつされて、おひめさまもまきぞえでなくなった』
お母様が亡くなり、私も死んだことになっていると理解するまでに、しばらくの時間がかかった。