16 エピローグ 俺が家族になった日
誰に起こされなくとも、幼い頃から自分で起きることができた。でも本当は起こしてもらう方が好き。優しく肩を叩いかれて、耳元に声が響くのが聞きたいから、わざと寝た振りをしていたい。
ところがその時ばかりは、起こしてくれる人もいないし、なぜだかうまく起きられなかった。
夢のない青い波間に揺蕩う。何度も浮上しようとしたが、意識が眠りの狭間に落ち込んでしまう。起きたいのに起きられない。
それはまだ、起きるべき状態ではないと諭されているかのようでもあった。
――早く起きたい。
口に出したつもり言葉は、こぽりと泡になって自分の直上へゆらゆら浮かび上がっていく。うっすら開けた目で、恨みがましく泡を見た。
あんな風に俺も外に出たい。だってここは温かいけど寒い。生ぬるい液体の中、俺は一人で眠っている。隣に彼女がいない。一緒に寝たい。寂しい、悲しい。
だから早く起きたい。
伸ばした手がようやく覚醒に届いたのは、かなり経ってからのことだった。
ゲホゲホと咽ながら肺に溜まった液体を吐き出す。辺りを見回すと、薄暗い小部屋の壁は、一面がシーカー族の模様が刻まれていた。
「遺物の中、か……?」
頭がすっきりとしている割に、体は随分と重たい。だが痛みがあるわけではない。下穿き姿の自分の体を見回すと、あれほどひどく穿たれた腹の傷は綺麗に塞がっていた。代わりにげっそりと筋肉が落ちている。
腹に残った白く引き攣れた傷跡を見て、治療のためにここに運び込まれたのだと理解する。腹に瀕死の傷を負って、厄災を討ち倒して、てっきり俺は死んだとばかり思っていた。
ところがどうやら女神はわずかにお目こぼしを許しくれたらしい。
シーカーストーンが台座にはまっているのを見て、ここが祠の内部だと確信を持つ。以前、シーカータワーを起動させたのと同じ要領でシーカーストーンを外すと扉が開いて、ふわりと柔らかな空気が入ってくる。俺が回復したときのためなのか、準備されていた服は真新しく、通路も綺麗に掃き清められているので一瞬どこだか分からなかった。
遺物の外に出て気が付く。
「時の神殿の裏だ、ここ……」
ゼルダが時の神殿に行幸で渡った際、神殿の下男の振りをしていた本物のローム王は、昼飯を食いっぱぐれた俺にりんごをくれた。あの時、王が何やら調べていると言っていた祠だ。
崖のふちに立ち、遥かに遠くハイラル平原を見渡す。変わらずのどかな風が吹いているが、田畑が随分と増えていた。それからハイラル城のシルエットが少し違うようにも見える。
もしかしたら寝ている間に、随分と様変わりしているのかもしれない。
「行かなきゃ」
慌てて歩き出すも、気分は軽い。
なんだ、死ななかったじゃないか。俺はあんな状態になっても生きることを許された。また彼女の傍に居ることが出来る。悲しい顔をさせるのはもう御免だし、もう互いの関係は知られているから、堅苦しく他人行儀にする必要もない。だって厄災は俺とゼルダで封じたのだから、もう憂いはない。
よかった。
自分を何かに縛り付けることなく、ゼルダの傍に侍ることが出来る。それが何よりうれしい。
早く彼女に会いたくて、坂道を走り出した足は止まらない。思ったよりも筋力が衰えていた。こんなんじゃ姫付きの騎士なんて大層なことは言えないぞと一人苦笑いをしていると、坂を上がってくる神殿の下男らしき若い男と鉢合わせした。
「えっ、えッ?! あの、もしかして英傑様ですか!」
「あ、えっと……うーん……?」
英傑様と呼ばれる感覚がよくわからなかった。でも少し考えてから「たぶんそうです」と答える。すると下男は驚いて腰を抜かし、持っていた箒を取り落す。
ダルケルもミファーも、ウルボザもリーバルも、それぞれの一族から選ばれた英傑だった。勇者はハイリア人の中から同様に選ばれた者だから、俺のことを英傑と呼ぶのはおそらくは間違いない。あまり大それた呼び方はして欲しくなかったが、この調子ならばすぐにでも彼女に会いに行けるかもしれない。
驚きに腰を抜かした下男に手を貸し、神殿まで歩いて行くと奥の間にすぐさま通された。ガーディアンに破壊された神殿はすでに綺麗に復旧されていて、見たこともないぐらい綺麗なガラスが窓枠にははまっていた。七色のガラスなんて、王城でも見たことが無い。
随分と様々なことが進んでいるように感じられた。用意されていた服も随分と布の質が良くて肌触りが良かったし、まずはどうぞと出された食事はとんでもなく美味しい。食器や調度品も王城で見ていたのと同じぐらい質の良いものばかり。
「随分平和になったんだなぁ」
民草の間にはとても高い技術があると、常々ゼルダは言っていた。彼らに保護し、出資する者がいれば、さらに国は栄えるだろうと。
賢い彼女の治世が平和な御代であれば、ハイラルはさらに発展する。浅学な俺でも想像できていたが、ちんけな予想を遥かに超える発展ぶりだった。神殿に祈りに来る人々の顔は明るく、行き交う人々も穏やか。
本当に、厄災を封じて良かったと改めて思う。
きっとゼルダも喜んでいるに違いない。だからこそ早く会いたい。
なのに下男から伝えられた行先は意外な場所だった。
「カカリコ村へお越しいただくようにとのことです」
「カカリコ村?」
「お車を用意いたしましたので、こちらへどうぞ」
どうしてハイラル城じゃないんだろうと首をかしげながら、台地から長い階段を下って門前へ行った。全面が石畳で舗装された綺麗な街道が東西に延びる。そこに馬に引かれていない馬車があった。
いや、馬に引かれていない時点で馬車というのは可笑しい。でもそれ以外に俺には表現する言葉が無かった。
扉が開くと、中には確かに馬車と同じで座席がある。車輪は太く作られていて前後左右に四輪。御者の代わりに運転手がいて、丸い舵輪のようなものを持っていた。
「あの、これは一体、何ですか……?」
「あぁ、そうか英傑様はご存じありませんでしたか。これは車という乗り物です」
「くるま?」
「英傑様がお休みになっている間に、シーカー族の偉い博士がお作りになった新しい乗り物ですね」
走り出した車という乗り物は随分と速かった。馬より速いし揺れないし、覆いが付いているから雨でも濡れずに済む。すごい。あっという間に景色が後ろへ流れていく。
こんなのを作るシーカー族の博士は、一人しか思い当たる人がいない。
「もしかして、これ作ったシーカー族の博士ってロベリーですか?」
「さすが、ご存じでしたか」
ハハハと笑った運転手の髪は白い。彼もまたシーカー族なのだが、まったく見覚えのない横顔だった。だいたい四十ぐらいか。
この年齢ぐらいのシーカー族ならば、大抵は戦線に駆り出されて、俺とはどこかですれ違っているはず。ところが彼は俺を見て「はじめまして」と言った。
「ロベリー様が古代エネルギーで様々なものをお作りになって、我々の生活は随分と楽になりました」
「ロベリーらしいと言えば、らしいですね」
「ええ、本当に。これも全てあなたと姫巫女様がハイラルを平和にしてくださったおかげだと、幼いころから寝物語に聞きいておりました。力を顕現させた姫巫女様と退魔の剣を携えた勇者の話、この国の子供たちはみんな母や祖母からその話を聞いて育ちますよ」
朗らかに語った男の言葉に、違和感が牙を剥く。
姫巫女とはゼルダであり、勇者とは俺のことだろう。それを寝物語に子供が母親や祖母から聞かされるのはまだ分かった。
でもそれを優に四十は過ぎているであろう男が懐かしそうにしゃべる。その違和感。
「まさか本物の英傑様にお会いできる日が訪れるとは思ってもみませんでした」
彼は嬉しそうに語った。
駆け抜けていく風景の中、目の端に映った宿場町には、そういえばハイラル軍の旗が無かった。
「待って、ちょっと待ってくれ」
ずきずきと痛むこめかみを抑える。
何かが可笑しい。
「寝物語? ちょっと、あなたは何歳なんです……?」
「今年で四十四になりますが」
「ですよ、ね。じゃあなんで、え……?」
急に頭の中がぐしゃぐしゃと音を立ててこじれていく。
どうして俺とゼルダが厄災を封じた話がそれほど前になる。分からない、何がどうなっている。
「どうして俺は、ハイラル城へ通されない?」
「インパ様がカカリコ村へお連れするようにとの指示でしたし」
それに、と続けた言葉が俺にとどめを刺す。
「ハイラル城は、今は議員の集う議事堂として使われておりますので、英傑様をお迎えするにはあまり適した場所ではないかと……」
「どういう、意味ですかそれ……?」
後部座席から身を乗り出して運転手の肩を掴む。運転手が悲鳴を上げるまで、俺は力加減が制御できずに彼の肩を潰しかねないほど握っていた。車が道端に止まる。
「どういう意味、ハイラル城が議事堂? 城には誰かいるでしょう、陛下か、あるいは姫様だって……」
「いえ、いませんよ? いや、だって、今は共和制です、王政はもうとうの昔に途絶えました」
「途絶えた……?」
「王政時代のあなたの処遇は、当時を知るシーカー族の古参の方々が対応すると決まっております。城にはあなたをお迎えする準備はないはずです」
待て、待て待て待て待て。
まってくれ。まって、まって、まって、まって。わからない。
王政じゃないってどういうことだ。理解ができない。生唾を飲み込み、カラカラ音が鳴りそうな頭を振る。
ローム王が正統なハイラル王として玉座に戻ったのではないのか。あるいはそれから何年か経っていたとしても、ゼルダが女王として即位したのではないのか。
この平和な世の中は彼女が作り上げたものではないのか。
「ゼルダは……?」
気が付かないうちに、絞り出した声が涙に濡れる。
「共和制に移行させたのは誰ですか」
「最後の女王陛下のゼルダ様ですよ」
「じゃあ、ゼルダは……? 彼女はどうしたっていうんですか」
思えば、こんな車みたいな大層な技術も、七色に輝く均一な窓ガラスも、ピカピカに磨かれた食器も、そんな短時間で発展させられる技術ではない。流石のロベリーだって、いくら平和になったからと言っても数年でこんな乗り物作れやしないだろう。
だったら今はいつだ?
俺は一体、何年寝ていた?
「女王陛下は三十年以上前に亡くなられましたよ。すでに王家は断絶しています」
言葉が耳の奥に届いた途端、ぐっと胃の中の物がせり上がってきた。慌てて車から飛び出す。ごぼごぼと音を立てて、食べたものが出てきた。
亡くなられた? 誰が、ゼルダが、三重年以上前に?
嫌だ、嫌だ、なんで、違う。
ゼルダが、すでに、死んだあと? 今はいつだ? なんで彼女が死んでいる。
意味が分からない、分かりたくもない。そんなはずはないと頭を乱暴に振る。
そんな長期間、ハイリア人である自分が生きられるはずがないのだ。そもそも、俺が生きていることの方が可笑しい。これはきっと夢だ。ゼルダが死んだなんてきっと嘘。あるいはこれは俺が見ている質の悪い夢。
俺はまだきっと、あの寒い祠の中で体を横たえて寝ているに違いない。
でも夢と思いたい現実はなおも続く。カカリコ村へ着くや否や飛び出すと、白い髪の琥珀色の娘が俺を待っていた。その姿形を見て、ホッとする。
「なんだ、インパ。いるじゃないか……」
インパが変わらぬ姿でいるのなら、ゼルダが亡くなったなんて嘘だ。あの運転手、あとでしばいてやると駆け出す。
ところがインパは、俺の顔を見るなりオロオロして挙動不審になる。
「おおおお待ちして、おり、おりましたッ! リン、リン、あのっえっと、ううっ……言葉がうまく……」
耳の先まで真っ赤にした彼女は、両手で顔を覆ってしまう。インパってこんなに恥ずかしがりやだったっけ。なんか、違う。
顔を覆った手を無理やりはがして愕然とした。
額のシーカーマークの入れ墨が赤。インパは青のはずだ。
「インパじゃ、ない……?」
「わたくしはパ…、パ……パヤパヤ……じゃなくてっ、パーヤと申します……!」
違うインパじゃない、誰だ。
その娘の手を乱暴に放り投げ、村長の家の階段を駆け上がる。見知った観音開きの扉を乱暴に押し開けると、中央には座布団を何枚も重ねた上に老インパが座っていた。大きな笠だって見覚えがある。
でも、違う。
ああ、違う。違うと分かってしまった。
「インパ……?」
「……やっと目覚めおったか」
額のシーカーマークは青。
俺の知っている老インパの額の入れ墨は赤だった。見た目もそっくり、年のころだってほとんど一緒。なのに入れ墨の色が違う。入れ墨の色は一生変わることはない。
「久しいのう、リンク」
老インパは俺のことを小僧と呼ぶ。ならば目の前のこのインパは。
本当に、あのインパが、この目の前の老婆なのだとすれば。
聞いてはいけない。インパから答えを聞いたら、これが悪夢だと否定できなくなってしまう。でも、頭が本当のことを知らずにはいられない。
「インパ、俺は、何年寝ていた……?」
すがるように三枚重ねになった座布団に手を掛ける。違うと言ってくれ、何かの間違いだと言ってほしい。
でもインパはまっすぐ俺のことを見るばかりで返事はなかった。その小さくなった体に掴みかかる。
本当に。
俺は、一体何年寝ていた。ゼルダは本当に死んだのか。
頭が沸騰する。
「どうして! どうして俺を殺してくれなかった!!」
掠れた声で意味のない悲鳴を上げ、板の間をぶっ叩いた。
あの時。
黄昏のハイラル平原で、俺は死んだはずだった。死んで、来世でまたゼルダに会いたいと願った。決して彼女の居ない時代を生きたいとは願わなかった。
自分の口からただの叫び声が出ていることに気が付いたのは、インパの小さな手が背中に当たってから。
なんで?と顔を上げると、小さくなった彼女は大きな嘆息を吐いた。
「百年じゃ。姫様が、それを望まれたがゆえに」
「ゼルダが……?」
「生きよと、お命じになられたのじゃ」
嘘だ。俺一人だけを生かすなんて、そんな酷いことをゼルダがするわけがない。違う、絶対にどこかにゼルダはいるはずだ。だって勇者と姫巫女は対だろう。俺が生きているのならば、姫巫女だって生きていなきゃ可笑しい。
「嘘だろ……嘘だと言ってくれよ」
何ならもう一度厄災を討伐しろと言われても構わない。だからお願いだから、俺だけを取り残さないでくれ。
思わず走り出たカカリコ村は、もちろん見覚えのある風景ではあったが、少しずつどこかが違っていた。苔むした茅葺屋根、赤い鳴子、村を走り回るコッコ、どれも見たことはあるのに少しずつ違う。
あるいは、俺一人だけが百年前のまま、取り残されている。
「どうして、俺だけ生きているんだ」
「リンク様……」
「なんで……俺だけ……」
慌てふためくパーヤの手に縋って無様に泣き続けた。
悲しいという感情が一体何なのか分からないぐらい泣き叫んだ。脱水で涙が出なくなるぐらい泣いてから、気が付くと夜半に一人。インパの家の柱に背を持たれて、うとうとしていた。
そのそばに小柄な影が立つ。
「随分と年食ったね、インパ」
「記憶はどうじゃ。万が一にも百年の時を眠れば、記憶が無くなるかもしれないとプルアは抜かしておったが」
探りを入れる頭の中ははっきりとしていて、俺の中では厄災を討ち倒したのは昨日の夕方みたいなもんだった。大仕事を終えて疲れたから寝て、起きたら百年経っていた。
俺の知る人は皆息絶えて、わずかに寿命の長い知り合いだけがしわしわになって生きている。俺ばかりが百年前と変わらない姿形を保っている。
気が狂いそうになる。
「記憶が無くなった方がマシだ」
「そう申すな。姫様が生かしてくれた命ぞ」
「俺だけ生きてどうする」
厄災は封じられた。
姫巫女は寿命で亡くなった。
なのに勇者だけが生きている。
なんて滑稽な状況だ。俺は善の意味でも悪の意味でも、対となる存在を失った。だとすれば生きている意味がない。
なのに腕も足も動く。痛みもなければ強ばることもない。治ってしまったこの体が憎い。いっそあの青い寝床の中で、回復に失敗してどろどろに腐って死ねたらよかったのに。
あるいは意識のない怨念にでもなっていればよかったのか。意思を取り戻した厄災の悲しい顔が思い出される。奴も今の俺と同じように、忘れられないものを抱いて苦しんでいた。でも俺には殺してくれる対がもういない、自らの手で封じてしまった。
ふと、怪我をして動けなかったとき、夢に現れた本物の勇者だった俺を思い出した。
あいつは確か『百年と記憶』を失ったと答えた。つまり俺は、あいつのアドバイスに従ったがゆえに片方は失わずに済んだというわけだ。でもそれはあまりにも酷い。両方とも失った方がまだ救いがあった。
「ねぇインパ、ゼルダのお墓はどこにあるの」
せめて彼女の最期の場所へ行きたい。
そのあとのことは考えられないけれど、ともかく彼女が本当に死んだという確証が欲しい。そうでもしないと、俺はまだ彼女が死んだことが信じられずに、ずっと面影を探し求めて世界を徘徊しそうだった。
お墓に行くのなら何か持っていきたい。花束かな。花束にするなら何いいかなと考えて、すぐに姫しずかが思い至った。
「ハテノ村じゃ」
「ハテノ? なんであそこ」
「姫様が、あそこが良いと申された」
そっか、と立ち上がり、夜の間のうちに小さいながら姫しずかの花束を作る。サハスーラ平原は見違えるほど姫しずかの花畑になっていた。昔はあまり見かける花ではなかったのに、随分と様変わりしたものだ。
翌朝、馬を借りようとしたらパーヤが持ってきたのは、馬の形を模した二輪の乗り物だった。デザインを見てみるに、これも多分ロベリー作な気がする。
「ロベリーがバイクとやらの試作品を送りつけてきよったが、危なくてちゃんと乗り回せる奴がおらん。じゃが、そなたなら乗れるじゃろ?」
そんな馬鹿なことあるかと思って跨ってみたが、少しばかり練習したらなんとか乗ることが出来た。パーヤや門番の二人は目を丸くして褒めてくれたが、インパは俺の身体能力を知っているのであまりとやかくは言わない。
「そうじゃ、ハテノ村へ行ったらプルアによろしく頼む」
「プルアはハテノに住んでるの?」
「古代エネルギー溜りが発見されてな、研究所をやっておる。最近音沙汰が無いのでちと心配じゃ。様子を見に行ってくれぬか」
プルアもきっとしわしわのおばあちゃんかと思うと頭が痛くなった。この分ではロベリーもしわしわのジジイだろう。一緒に風呂覗きをしていたはずなのに。
俺ばっかり若いまま死ぬこともできない。
ゼルダに生かされた命をそのまま無下にすることはできない。だが昨晩あまりにも多く泣きすぎて、もう涙は出てこなかった。
「じゃあこれ、借りるね」
「返さんでよい。どうせ乗れる輩は多くない、そなたが乗っておればロベリーも喜ぶであろう」
ありがとうと頷いてカカリコ村を出た。確かに馬よりも揺れないし速い。
だからと言ってハテノ村へ行く以外に使うつもりはなかった。たどり着いて、そのあとのことが考えられない。
ただ向かい風に髪をなびかせながら、彼女が死んだことを確認しに行くその道中。心は空っぽだった。
やはり今生ではゼルダとは一緒に生きられない決まりでもあったに違いない。女神がそれを許さなかった。ならば俺のこの治ってしまった体は、この後一体どうしたらいい。
坂を上り切り、だいぶ様子の変わった故郷の入り口。辛うじて門の形にだけは少し見覚えがあった。百年前、ハテノ砦が陥落を免れたがゆえに、ハテノ村はガーディアンの侵攻を受けずに済んだ。おかげで村は見違えるほど栄えている。綺麗に舗装された石畳、左右には見覚えがあるような店も軒を連ねる。道行く人も多く、纏う衣の色も鮮やかだ。
バイクを降りて歩き始め、さてと首をかしげる。
ゼルダのお墓はどこだろう。地図でもないものかと村の中央に見えた掲示板の方へ歩こうとしたら、後ろから突然肩を叩かれた。
びっくりして振り返ると、勢い禿げかけた男が鼻歌交じりに立っている。
「なれないハテノ村でお困りのご様子。仕方がないですな、この私が案内役を買って出ましょう」
と。頼んでもいないのに、その村人はにこやかに俺のフードの中を覗き込んでいた。
びっくりして硬直しつつ、でもこれは渡りに船だと思った。
「ハテノ村に亡くなったハイラル王家の女王様のお墓があると伺ったのですが、場所を教えてもらえませんか」
バイクで通ってきたハテノ村までの道は全て石畳で舗装されていて、こんな僻地の街道まできれいに整備されていることに驚いた。それほど国の端々まで行き届いた事業を成し遂げたゼルダ女王ならば、きっと民にも慕われていたはず。その女王の墓ともなれば、参拝客が絶えないだろう。
ところが村人は腕組みをしてぐいっと大仰に首を傾げた。
「はて、そのようなものはありませんが?」
「え?」
「どなたに聞かれましたか」
「カカリコ村の……シーカー族の人に……」
あれ?っとこちらも首をかしげる。
インパは確かにハテノ村にゼルダのお墓があると言っていた。パーヤも曖昧にだが頷いていた。そう、パーヤはなんだかずっと物言いたげだった。
ありゃ。嘘を吐かれた? 一体どうして。
「亡くなった女王陛下のお墓は、時の神殿にあるはずですよ」
「そう……ですか」
「まぁシーカー族の方なら、あの丘の上にも住んでいらっしゃいますけどね」
「……あ」
インパはなんだって俺にプルアに会いに行かせるために嘘を吐いたのだろう。最初からプルアの顔を見に行けと素直に言えばよいものを。
村人にお礼を言って村の中を抜け、坂道をまたバイクで上っていく。小高い丘の上には百年前にはなかった家があって、立て看板には『ハテノ古代研究所』の文字があった。扉をノックすると中から「いらっしゃーい!」と甲高い声があった。
扉を開いてびっくり。
「……え?」
「チェッキー!」
「えッ……は?!」
「インパから話は聞いてるわヨ! 久しぶり、リンクぅ」
確かに見た目はプルアだ。忘れもしない、宮廷詩人と殴り合いになった満身創痍の俺を、さらに追加で殴ったプルアだ。
でも目の前の彼女はどう見ても子供の姿をしていた。
「まだ状況飲み込めないって感じ? インパの奴に掴みかかったんだって? さすがに百二十歳の老人相手に止めなさいヨ~。仮にもアンタは勇者だったんだからサ」
「え、いや、え? は? プルア?」
「そうよ、プルアよ。どう? 可愛いでしょ? ちぇきちぇき!」
くるりと椅子の上で回って見せたプルア。
待って。百年経って知り合いが死んでいるか、しわしわになっているはずなのに、どうしてプルアは子供になってるの。
思わずその場にしゃがみこんで頭を抱える。意味が分からない。
どうしてこの人はいつも変な方向に俺を驚かせる。さっきまでの感傷的な気持ちを、一時でも忘れるぐらいの衝撃があった。
「はぁ……? どういうこと?」
「実験に失敗というか、ある意味大成功というか、まぁ端的に言えば」
「端的に言えば?」
「アンチエイジングが完成してアタシは若返ったってワケ!」
「そんな、バカな」
「馬鹿じゃありませーん! 天才です! チェッキー!」
ほら御覧なさいとばかりに、プルアはもっちりしたほっぺたを見せつける。確かに化粧などで化かした類ではない、紛れもない子供のほっぺた。突き出して見せるので思わず指先でツンツンしたら、なぜか怒られた。
そういえば、シーカータワーの最初の発掘作業の際に前泊したカカリコ村で、若返りの秘法がどうのと話をしていた気がする。あれが本気で完成したらしい。
嘘だろと頭を抱えたまま唸っていると、苦笑いをしていたシーカー族の男性が椅子をすすめてくれた。シモンさんと言って、プルアの助手をしている人だった。
「で、気分はどう?」
久方ぶりのプルアは子供に戻っていたが、老婆でない分だけ話をするのは気楽だった。自分だけ若いままかと思ったら、プルアは輪をかけて若くなっているのだから変な感じ。
「最悪。生きている意味が分からない」
「ホント、アンタってそういうところあるわよネ。距離感測れない感じ」
「そういえば昔怒られたっけ、少しは離れろって」
「どうやら記憶は確かのようネ。なるほどローム陛下が分析を進めていた甲斐はあった、と……メモメモ」
どういうことだろうと不思議に思って、のっそりと目線を向ける。書付けから顔を上げたプルアは、子供らしからぬ鋭い目つきで俺の顔を見ていた。見た目は子供だが、やっぱり中身はあのプルアだ。
「アタシたちが駆け付けた時、もうアンタの心臓は止まってた。でもローム陛下が時の神殿の裏手にある回生の祠に入れろって言ったの。あそこならばまだ間に合うかもしれないって」
「そういえば、あの祠のことを、調べてるって……」
「どうやら姫様のお母上が亡くなる前に、陛下に調べを進めた方がいいって進言していたらしくてネ。姫様のお母上には多少なりとも予知的な能力があったみたい」
なるほどなと腑に落ちることがあった。
どうしてゼルダだけが、近衛騎士であった俺の父によって事前に逃がされたのか。あるいは亡くなった王妃様がどうして一緒に逃げなかったのか、実は不思議だった。
ハイラル王家の姫巫女は代々何らかの力を受け継ぐとは言われていたが、具体的にどのような力なのか明言はされていない。もしそれが予知的なものだったのだとすれば、確かにゼルダだけが逃がされたことにも、またローム王に対して回生の祠を調べるようにと言い含めたのも得心が行く。
「ただ単に百年回生の祠に放り込んだとしたら、たぶんアンタ記憶全部失くしてたワ。アタシたちは他の遺物の解析で手いっぱいで、まさかあの祠にあそこまでの傷を癒す力があるなんて思ってもなかったわけだし」
プルアは俺の顔を見て、決して「よかったわネ」とは言わなかった。正直なことを言えば、全部記憶が無くなった方がよかった。
まったくローム王と王妃様は随分と余計なことをしてくれたものだ。回生の祠に放り込めば俺が生き永らえることも、あるいは記憶を失わずに済むことも、全部分かっててやった。なんて余計なことをしてくれたんだ。
またジワリと目の端に涙が浮かんでくる。プルアに見られたら馬鹿にされそうで慌てて擦り上げたが、遅い。
「アンタ、インパに担がれたね」
「やっぱりそういうことか」
ゼルダの墓はハテノにはない。インパはわざわざ嘘をついて、俺をプルアのところへ寄越した。
理由はおそらく、俺が自死を選ばないようにするため。
一人でも多くの知り合いに会わせて、ゼルダを失った穴を少しでも埋めようとさせてくれているのだろう。この分だと次はロベリーのところへ行けと言われるのかもしれないし、あるいは長命なゾーラ族であるミファーならばまだ生きているかもしれない。
生きている知り合いに全て会ってしまったら、次は他の英傑の子孫に会いに行けとか言われるのかもしれない。そうまでして俺に用事を言いつけなければ、勝手に死ぬと思われている。
陳腐な手段を鼻で笑った。
「舐められたもんだ。ゼルダに生かされた命を、俺が勝手に死ねるわけがないのに」
妙な間があって、プルアは「……だーよネ」と肩をすくめる。
何が辛いって、生かされたから死ねないということだ。これが仮に勝手に生き延びていたのだとしたら、俺は間違いなくゼルダの墓前で自分の喉を掻き斬っていた。ところが回生の祠を言い出したのはローム王かもしれないが、おそらく願ったのはゼルダだ。
彼女に生きろと言われた。ならばこの命、自ら絶てるはずがない。
「生きる意味がないのに生きるのって、辛い」
「ほんっと、馬鹿正直ネェ……」
伏せた頭をおざなりにポンポンと叩かれる。
そのままポツリポツリと、俺が寝ている間に起ったことを順序立てて、プルアは話をしてくれた。
俺が回生の眠りについてから、ハイラル城の玉座には本物のローム陛下が戻って、ハイラルを治めたらしい。
ただ陛下は長年の潜伏生活が祟ったのか、十年と経たずに亡くなり、ゼルダは三十手前にして女王として即位。その後、穏やかな治世を布いたが、彼女自らが願って王政が終わったという。それが、ゼルダがおよそ五十歳ぐらいの時だった。
統治の権限は民に譲られ、現在は市民が選ぶ議員たちが多数決で国を治める形をとっているのだとか。同時に身分が無くなり、貴族制も廃止されたという。
なんだか信じられない世の中だ。
「厄災が初動で集まってたほとんどの貴族を殺しちゃってたから、反発が少なかったってことも大きかったんだケド。でも何より、アンタと一緒に市井に交じって生活していたあの子の目には、民草のしたたかさが輝いて映ったんだろうネ」
「ああ、それは言ってた」
ガーディアンから逃げ惑うクロチェリー平原で、本来ならば俺はゼルダだけを連れて最短距離でカカリコ村に逃げ込みたかった。それを良しとしなかった彼女の意思は、最後にはこうして国の形まで変えてしまった。
「治める者がいなくても、民は生きていける。だから王族や貴族は居なくなってもかまわないが、民がいなくなったら国は亡びるって。こういう意味だったんだな」
やっぱりすごい。ゼルダは、すごい人だ。
俺なんかとは全然違う。俺は剣を持って、誰かを危険から守ることしかできない。でもゼルダは誰かの生活を根本から変えて、危険そのものを無くし、幸せにするだけの力があった。
本当はそれを隣で見ていたかった。けれど、もはや叶わない夢。
「で、亡くなったのが三十五年前。八十二歳、ハイリア人としては大往生だった」
退位してからも民のために奔走した女王は、国の人間すべてが平民となってからも『女王』として民からとても慕われたらしい。
そんな話を聞いて、やっぱり俺は死ぬことは許されないんだなと思った。
俺はたぶん、ゼルダが作った平和な世の中をこの目で見届けなければ。そのために百年後まで生かされた。俺が死ぬのはゼルダの作り上げた平和な国をちゃんと確認してからで、成り行きを携えて初めて彼女の元へ向かうことが許される。
そう、思うことでならば、まだ生きていても良いと思えた。
「ありがとうプルア、ちょっとマシになった」
「みたいネ。……でも、アンタ、やっぱりおバカだわ」
どういう意味だよと睨もうとしたとき。こんにちわ、と研究所の扉が開く。
見覚えのある人影が立っていた。
「え……?」
「だから言ったじゃない、インパに担がれたネって」
「は……?」
金の髪は肩口に切りそろえられていたが、何度も覗き込んだ翡翠色の瞳が輝きは見間違えようがない。ハテノ村の人たちが着ているのと同じ、丈が短めのワンピースと動きやすそうなブーツ。その青い色がひらりと揺れ動く。十五の俺が贈ったあの安い青い髪留めをまだつけていた。
まごうことなく、彼女だった。ただ、年齢は記憶にあるよりもだいぶ上。たぶん三十歳は過ぎている。
だとしても、生きてる。
死んだはずでは?
生きてる。
なんで? 寿命だったのでは?
誰もが亡くなったと口をそろえていた。
口をぽっかり空けたのに、声が出てこない。椅子から腰が浮きあがったまま、一歩が踏み出せない。
呆けた俺の顔を見て、その人は可愛らしく首をかしげて見せた。
「プルアのお知り合いの方ですか?」
「ゼ、ルダ……?」
「あら、えっと、どちら様でしょう……? どこでお会いしましたっけ?」
彼女は驚いて目を見開いていた。その姿に、混乱に拍車がかかる。
こんなの、双子でもない限り不可能なほど似ている。インパと孫のパーヤを見間違えるよりも似ている。絶対に本人だ。なのに俺のことを知らない。どういうことだ。
声が出ないまま立ち尽くしていると、プルアが俺の服を引っ張った。
「姫様は生きてるわヨ。……ただし、記憶はない」
「記憶が、ない……?」
急に現実に引っ張られた頭が、渋い顔をするプルアの方へ向く。小さい体で腕組みをして、俺の方を睨んでいた。
「アタシが若返っている時点で、どうして姫様も若返るって考えないわけ?」
「え、でも、亡くなったって」
「公式の記録ではネ。だって元王族だったっていうだけで、特別扱いできるわけないじゃん?」
プルアが何を言っているのか分からないまま、戸口で固まっているゼルダの方へ一歩近づく。彼女は俺のことを頭から足のつま先まで見て、わずかに怯えていた。
それもそうだろう。見も知らない男が自分の名前を呼び、涙を流しながら近づいてきたら不審者以外の何物でもない。でも彼女は怯えながらも、戸口で俺がたどり着くのを待ってくれていた。
「落ち着いて聞きなさい。姫様はアンタを待つために若返る選択をしたの。でも三十五年前、あの時はまだアンチエイジングの出力の制御がうまくできてなかった。だからその、ちょっと若返り過ぎちゃったのヨ……」
つまり彼女は。
俺を待つために。
震える手を伸ばしても、彼女になかなか届かない。そもそも、この人に触れて良いのかもわからない。
それでも俺は、彼女を抱きしめたかった。
「ギリギリ早産の赤子ぐらいまで一回若返ったの。だから記憶はほとんど保持できなかった」
「プルア、その話は他言してはならないと!」
「いいのヨ、こいつは聞く権利がある。だってあなたの待ち人だもの」
ハッとした顔が俺を見て、何事か口を開こうとする。でも答えを待たず、俺は彼女を抱きしめた。
やっぱり花の香りがする。涙でべしょべしょになった顔を彼女の肩口に埋めてゼルダと名を呼ぶと、困惑しながらも彼女は「はい」と答えた。
「リンク、なのですね?」
「ごめん、知らないのに気持ち悪いよな、ごめん」
「いいえ大丈夫です。幼くなる以前に書いた手記がありますから。あなたのことはたくさん書かれていました。それに時々、記憶が蘇ることもあるんです」
いつも生きるのに必死で前ばかりを見ていたゼルダが、ふんわりと笑って俺のことを見ていた。別の人生を歩み始めた彼女は、もう以前のような必死さはない。
穏やかな笑顔が嬉しい。そうやって生きている彼女に会えて、嬉しい。
「あンのしわしわババァ……」
「アンタ、どんだけインパに恨まれるようなことしたのヨ。というか、なんでいつもこういう損な役目はアタシなのヨ!」
プルアにはケラケラ笑われた。
あれだけ昨晩泣き叫んで枯れたはずなのに、緊張が解けるとまた嗚咽があふれ出た。生きていた。ゼルダがこの時代に生きていた。それだけでもう十分なぐらい幸せだった。
しばらくひきつけを起こしたみたいに泣いていたら、プルアにうるさい邪魔だと邪険にされ、研究所から追い出される。研究所の外に放り出された俺とゼルダは顔を見合わせた。申し訳ないぐらい、何を話していいのか全然分からなくて言葉に詰まる。
ゼルダは俺のことをあまり覚えていないようだったし、俺も新しく人生を歩んでいる年上のゼルダにどんな話をしたらよいのか分からなかった。
何しろ俺にとっては、厄災討伐は昨晩のことのようなもの。でも彼女にとっては記憶に無い前世みたいなものだった。隔たりが大きすぎて、まるで別人のよう。でも本人。
「ともかく、私の家へ来ませんか?」
「家、あるの?」
「もちろん。プルアのところへは通いです」
ゆっくりとハテノ村を見下ろしながら、バイクを転がして並んで歩いた。俺の知っているハテノ村ではない、活気に満ち溢れている村。村の中を歩けば、道行く人はゼルダに気さくに声をかける。彼女の方も近所の人と何気ない会話をする。
なんだか信じられないものを目の当たりにしている。
これは夢なんじゃないだろうかと思って、こっそり頬をつねったらそれなりに痛い。夢じゃないらしい。
「それロベリーのバイクですよね。子供たちが手を出すと危ないので、家の裏に停めておいてもらえますか」
「裏ね。あぁ、りんごの木、まだあったんだ」
どんな偶然なのか、ゼルダが居を構えていた場所は、燃えた生家があった場所だった。家の外観はまるで違ったが、池とりんごの木、それからなぜだか家の大雑把な間取りは変わらない。
りんごの木は随分と太く大きくなっていて、幹の洞に焦げた跡を見つけた。やはりあれが現実だったのだと思い知る。
俺は百年前、ここで暮らしていた。まだ七歳になったばかりで、母と生まれたばかりの妹、休暇のたびに城から帰ってくる父の四人暮らしだった。
そして父に連れられたゼルダと出会い、彼女は俺の妹になった。
全部が懐かしい。
「リンクー?」
「あぁ、いくよ」
妹だったはずの彼女は、俺が寝ている間に世間的には一度亡くなり、第二の人生を歩み始めて三十五年。百年間の間、時が進まなかった俺よりも十七歳も年上になってしまっていた。
インパにお墓があると嘘を吐かれたと言ったら、それは酷いですねと苦笑する。墓前に備えようと思って作った姫しずかの花束を渡したら、ゼルダは「まぁ」と目を輝かせた。
「こんな花束にするほど咲く場所があるのですか? 増えてきたとはいえ、まだまだ数が少ないんですよ」
「そうなの? ごめん、知らなくてたくさん摘んじゃった」
「いずれは群生地ができるはずだと、手記に書いてあったのでたぶん大丈夫です。今度、生えている場所を教えてください」
花瓶に生けている間、俺はその手記を見せてもらった。
生真面目な文字が、彼女が忘れてはならないことを全て書き記してあった。俺の見た目、性格、あるいは嗜好。どんな会話をしたのか、あるいは絶対に忘れてはならない家族であること。
よしんば忘れたとしてもこれを見て思い出すようにと、最後にきっちり書かれていた。
「以前の私が書いたこと、全部リンクのことばかりなんです。だから今日会ったとき、本当は最初にリンクかなって思いました。でもちょっとだけ自信が無くって、……インパならすぐに知らせてくれるとも思っていたし、まさかあなたが突然現れるなんて」
「みんな亡くなったっていうから、まさか生きて会えるとは、正直思わなかった」
「私も、リンクに会えて、本当に嬉しいです。でもまだちょっと変な感じですね」
ほほ笑んだ彼女が出してくれたのは、ホットミルクだった。はちみつがちょっと多めに入った、俺が好きなやつ。こういう些細なところまで覚えて、あるいは思い出してくれようとしている。
嬉しい。とても嬉しい。
でも、その思いにわずかに影が差す。
「私、色々なことを忘れてしまいました。でも幼いころからあなたのことを聞くとなんだか切なくなって、会った記憶がないのにずっと胸のこの辺りに引っかかって寂しくて、悲しくて……」
胸のあたりを指し示した手は、俺の知る姫君のたおやかな手ではなかった。村娘として生きる、働き者の手。綺麗だとは思ったが俺の知る手ではない。
「でもようやく会えました。書いてあった通り、思ってた通りの人でした」
華やいだ顔にどう返したらいいのか、言葉が躓いた。
昔の彼女は、兄である俺をどう見て、何思って書き記したのだろう。あるいは今の彼女の目に、俺はどう映っているんだろう。
正直、聞くのは怖かった。でも聞いておかなければ、自分がとんでもない間違いをしでかす気がしてならなかった。
再び会えて嬉しい。でもこの再会は、本当に正解か?
彼女は俺に何を見ている。俺は彼女を、ゼルダとして見ていいのだろうか。思うことと思われることは、決して等価でない。それは互いに見たいものが違うという意味でもある。
「俺のこと、どんな奴だと、思ってた……?」
「とても強い人だって書かれていました。剣を持たせたら誰にも負けないし、必ず守ってくれる兄だったと。今は、剣はありませんけど、でも一緒にいると不思議と安心します。ずっと私、あなたの隣に居たかったんです」
それを聞いて、目を伏せた。手記を返した彼女は、満面の笑みだった。
本当に気持ちよく笑うようになった。あの頃じゃ考えられない。
彼女は確かにゼルダだが、でも俺の知るゼルダではないのだ。
「ありがとう、顔が見られてよかった」
「リンク?」
「行くよ」
席を立って戸口へ急ぐ。これ以上彼女の顔をまともに見ていられる気がしない。あるいは彼女の目に俺を映しておいてはならない気がしてならなかった。
「え、ちょっと、どこへ行くんですか」
「分からないけど、ごめん、もう行く」
彼女は新しい人生を歩き出している。しかも三十五年も前に。
そこにひょっこり百年前から繰り越された残り火みたいな奴が現れていいはずがない。今の彼女の隣にいてはならない、彼女とは生きると時間がやはり違う。
一緒には生きられない。乱暴に扉を開けて外へ飛び出した。後ろから慌てた足音が付いてくる。
「リンク、待ってください!」
「俺は、あなたに昔のゼルダを押し付けたくない」
「押し付けて構いません! むしろ押し付けて、私に思い出させて!」
「それが嫌なんだ、ようやく笑うようになったのに。俺が知っているゼルダはいつも悲しそうだった」
思い出す。
俺たちには大事な人を思う猶予なんか与えられて来なかった。俺が知っているゼルダはいつもどこか悲しそうだった。いつも生きるのに必死で、白くなるほど手を握りしめて前ばかり見ていた。
もうそんな風になって欲しくない。
それに。
「それに俺はもう、あなたの騎士でもなければ、兄でもなく、勇者ですらない」
ゼルダが俺を忘れていたのが悲しくないと言えば嘘になる。忘れないように書き留めておいてくれた文字が恋しい。でも何よりも、彼女の人生に俺の居る理由が無いのが悔しい。
何を以って俺はゼルダの隣に居ればいい? その理由が一切見つからない。
もはや世の中は騎士を必要としないほど穏やかだ。カカリコ村からハテノ村までの道中、一匹たりとも魔物を見かけなかった。
並べば身長こそ変わらないが、ゼルダはすでに自分より遥か年上の大人の女性になっていて、俺は兄貴ですらない。
そして俺がもはや勇者ではないように、ゼルダは姫巫女ではない。俺たちは対ではない。
騎士でもなく、兄でもなく、勇者でもない。俺にはもうゼルダの隣にいる理由が無い。
顔を伏せ、フードを目深に被り、足早に家の裏手へ急ぐ。バイクに乗りさえすれば、彼女にはもう追いかける術はない。
「でも家族でしょう!」
「違うと言っている」
前に立ちふさがれても、顔が見られなかった。
早く立ち去りたい、俺の知っているゼルダが残した痕跡の方を辿り、どこかひっそりと消える場所を探そう。
ところが彼女は一考に許してくれる気配はなかった。大きく腕を広げて、バイクの前に立ちふさがる。
「いいえ、あなたは私の家族です! そのように以前の私が書き記しています!」
「そう、家族だったのは以前のあなただ。今の君じゃない」
「そんなこと」
「もう血の繋がらない兄はもう必要ないはずだ。実際もう、兄貴って年齢ですらない」
十七歳差なんて、よくて年の離れた弟、下手したら年若い時にできた息子だ。
彼女のことを守るなんて大それたことも言えないし、そもそも守る脅威すらない。ゼルダと自分が脅威を全て消し去って、彼女が平和な世の中にしてしまった。
それに百年の間に萎えた体では、守ることすらできない。まるで無力、情けない。
ところがボロボロになった顔が彼女の手に包まれて、グイっと押し上げられた。翡翠の瞳が本気で怒った色をして、泣き零す直前の俺の顔を睨みつける。
「誰も兄弟としてあなたに居て欲しいなんて言ってません!」
もうっと声を荒げたゼルダは、そのまままくしたてる。
驚いて目を見張ったまま、俺は硬直するしかなかった。思わず涙が引っ込む。
「どうして私の気持ちを確かめずにいつもいつも先に行ってしまうの? たった半年の差なのに一方的にお兄ちゃんになって、次に騎士として現れたと思ったら知らない振りを続けて、やっと会えたと思ったのに今度は勝手に家族じゃないって。なんですか、何様のつもりですか?!」
その記憶は、書かれていたものなのか、それとも思い出したものなのか。
でも声の必死さに、彼女にとってはどちらも同じほどの価値があるのだと分かった。記憶も記録も、俺に関することは彼女にとっては大事なもの。
俺がゼルダのことを大事なぐらい、彼女にとっても大切なもの。
「それにあなたが勇者じゃないなら、私だってもう姫巫女じゃありません。封印の力だってとうの昔に潰えました」
ほらっと出された手の甲には、確かに聖三角はない。
「だとしても俺は百年前の亡霊だ」
「それがなんですか! 大層な御託を並べて、私と共にいるのがそんなに恐ろしいですか?!」
そう、たぶん俺は、怖い。
声に出さなかったが、きっとゼルダには俺の心の声が聞こえたと思う。
昔のゼルダを思い出して彼女に押し付けてしまうのが怖い。彼女が以前と違う顔を見せた瞬間に、違うと思ってしまいそうな自分が怖い。そんな俺に幻滅するゼルダを見るのが怖い。
結局俺は、ゼルダと居たくないのではなくて、彼女と一緒にいる自分が恐ろしい。
でも彼女はわなわなと肩を震わせ、怒りに打ち震えている。まるで逃げ出すなとばかりの気迫だった。
その彼女が「あっ」と大きく目を見張る。
「そうです、いま思い出しました! 私に居なくなってはならないと約束させたのはリンクでしたよね?!」
「その、約束……」
「やっぱりそう、約束したのはリンクです! 誰と約束したのかずっと忘れていました……確か家の裏手の、そう、エボニ山の上! あそこで私に言いました、あの約束をそちらから破るのですか?!」
ああもう。
なんでこんな間の悪い時に思い出すんだ。
確かに俺が約束させた。
『許さない代わりに、ずっと俺の傍に居て』
『ゼルダはいなくならないって約束して』
今思い出しても顔から火が出そうになる。
幼心に、もう家族は失くしたくないと願った俺の、言葉の限界だった。
「私、新しい人生を歩み始めてからもずっと、あなたを待ってたんです。どんなに素敵な人だろうって、ずっとリンクが迎えに来てくれるのを待ってました。だから約束通り、駄目って言われても、もう絶対居なくなりません」
それはまるで、生まれながらに恋でもしているかのような告白。そこまで言われたら、もう逃げることなど許されまい。当の昔に勇者じゃなくなった俺だが、どうやら少しばかり勇気を出さなきゃならないらしい。
フードを剥いで、息を吐き出してわずかに体に力を籠める。人目がないのを良いことに、ゆっくりと抱き寄せて、こつんと額を合わせた。
「初めて会う俺でいいのか?」
「まだ言います?」
「あなたが思っているよりも俺は弱いから、幻滅させるかもしれない」
「んもう……朴念仁と言われたこと、ありません?」
自分で言ったことの方は覚えていないのか。可笑しくて、口角が思わず上がった。
「……あるよ」
「やっぱり! その人とは馬が合いそうです」
俺の腕の中で、耳まで真っ赤にしたゼルダがプイっと顔をそむけた。でも怒っていても可愛い顔が見たくて、顎を優しく持ってこちらを向ける。抵抗はなかった。
誰が俺に朴念仁と言ったのか、覚えていなくてもいい。何ならいずれ思い出させてあげようと思う。
誰も見ていないりんごの木の下で、俺はずっと前から好きだった女の子に二度目のキスをした。そうやって俺とゼルダは再び家族になった。俺が十八歳でゼルダが三十五歳。りんごの花が仄かに香る初夏の頃のことだった。
故郷のハテノ村でいっしょに暮らし始めるのは、もう少し先の話。
落花流水
落ちた花が水に従って流れる意で、ゆく春の景色。
転じて、物事の衰えゆくことのたとえ。時がむなしく過ぎ去るたとえ。別離のたとえ。
また、男女の気持ちが互いに通じ合い、相思相愛の状態にあること。
了