流水の兄騎士と落花の妹姫 - 18/19

15 因縁のいつの日か

 体中が痛い。

 痛いってことは死んでないんだろう。だったら動けよといくら念じても、あおむけに転がっている俺の体は動かなかった。

 幼いころから怪我には事欠かなかったので、これがどういう状態なのかは何となくわかった。死にかけってやつ。まだ死んでない、でも生きてもいない。暗闇の中に一人取り残され、うめき声も出せずに自分の呼吸音を聞いていた。

 ひゅうひゅうとただ息をする体は浮上も沈降もせず、意識の狭間を揺蕩う。その途方もなく無駄な時間に現れたのは、俺とそっくりな男だった。

「やっぱり、ずいぶん手酷くやられてるな」

 どこからともなく現れたそいつは、寝転がったまま動けない俺の隣に胡坐をかいた。苦笑する声も顔も、背格好も見た目の全てが同じだったが、そいつが身に着けていたのは王家の青だったことには驚いた。

 どうして俺と同じ顔をした男が、英傑のみが許された青い衣を纏っているのか。分からない。分かりたくもない。

「辛いだろうから無理に口を開かなくていい」

 俺の額に手を当ててくる。子供じゃあるまいし、気持ち悪いと思ったのだが、残念ながら体は動かない。目いっぱい嫌な顔をしたが、あてがわれた手は随分と温かかった。

 睨みつけるようにまじまじと顔を覗き込むと、奴の背に見たことのある青い柄が見えた。退魔の剣を背負っている。

 やっぱり、こいつは正しく勇者になった俺なんだと分かって、腹立たしくなった。

 どこかで何か間違いを起こしていなければ、俺もこいつみたいにちゃんとゼルダの傍に居られたのかもしれない。勇者として、英傑として。

 こいつはそれができて、俺にはできなかった。俺は姫巫女の隣にいる資格をずっと得られないまま必死で足掻いてきた。結果がこれだ。悔しくて涙が溢れそうになって、慌てて喉に力を込めて目の前の完璧な自分を睨む。

 ところがそいつは、くしゃりと顔を歪めた。

「そんなに睨むな。考えていることは大体分かるが、俺だって無事じゃなかったんだから」

 わざわざ一度額にあてがっていた手を外して、服をめくって腹を見せる。今の俺と同じか、あるいはそれ以上の傷が治った痕があった。

 どうやら退魔の剣を握っていても、あるいは勇者と認められてゼルダの傍に居たとしても、酷い傷を負って倒れるのは決定事項らしい。それを伝えに来たのか、あるいは剣のない俺はもうこれ以上は無理だとでも言いに来たのか、飄々として表情からはあまり意図が掴めなかった。

 俺ってこんな顔をしていたんだ。知らなかった。

 だから再度額に手を当て始めるそいつに向かって「何しに来た」とばかりに睨み続ける。するとそいつはそれまでの柔らかい雰囲気をそぎ落とし、青い目がスッと鋭利になった。

「お前、一人で何でもできると思うなよ。そうじゃないと大事なものを失くすぞって、一応脅しておこうと思ってな」

 俺の額からそいつの手が去る。奴は顔を上げて天を見上げた。

 視線の先、暗い空間の真上、ずっと高いところに光が見えた。あの光がここまで届いたら、きっと目が覚める。まだ動くことが許されるのかと、光を待ちわびた。

 目覚めたらまだたくさんやることがある。ちゃんと体、動くかなと、手の先と足の先に意識を集中すると、小さく動かすことができた。四肢が動くのならば剣を振るうことぐらいはできるだろう。

 だが、ようやく体が動き始めるのと共に、きっとこいつは俺の意識の外へと出ていってしまう。このまま珍しい客人を帰すのは少し惜しい気がした。

「なぁ」

 痛む肺の奥の方から声を絞り出す。

 天の輝きに顔を向けていたもう一人の俺が、びっくりした顔で俺を見下ろしていた。

「そっちは、何を失ったんだ?」

 大事なものって何だろう。俺にとっての大事なものはゼルダだが、こいつもきっとそれは同じこと。こいつが俺と同じ存在ならば、ゼルダを失ってもなお正気でいられるとは思わない。

 だからこいつはきっと、ゼルダを守る代わりに別の物を犠牲にしたはずだ。傷跡の数がそれを物語る。

 目覚めの光が近づくにつれて、やつの気配は希薄になっていく。

 最後に寂しそうに笑って、もう一人の俺は言葉を残した。

「百年と記憶を失った。大事にしろよ」

「あぁ、ありがとう」

 今思えば、本来の自分が本当の意味で何を失ったのか、その時は理解していなかった。

 今の俺はゼルダの安否を確認したい一心で、重たい瞼を押し上げる。暗い天井にまたがる太い木の梁が見えたのに、ぼんやりした頭ではどこに寝かされているのか分からなかった。

「リンク?! 気が付きましたか! おばあ様、リンクが、リンクが目を覚ましました!!」

 インパだ。耳につんざくような声に顔をしかめようとしたが、首のあたりがビキビキと痛んだ。

 喉がひりついて声が出なくて、闇の中に寝転がっていた時よりもはるかに体が痛む。思ったよりも酷い、痛みの具合からしてあばらと左腕も折れていそう。

 それよりもここはどこだろう、インパがいるということはカカリコ村だろうか。ならば戦線はどうなったのか、俺を助けてくれたあの人は、ゼルダは。

 一気に色々なことを思い出して、こめかみのあたりがぎゅっと掴まれたように痛んだ。

「ゆっくり飲んでください。生きている方が不思議な程の怪我なんですから」

 頭を少し起こされて、口にあてがわれた湯飲みからは、生の草みたいな匂いが立ち上る。小さいころ苦手だった薬湯が、今はすんなりと喉の奥へ入っていく。体が水分を欲していて、あまりの飲む勢いに飲み込むのが追いつかずに咽たほど。

 その段になってようやく眼球を動かして周りの様子を見る余力ができた。暗い部屋には所狭しと怪我人が寝かされて、部屋はうめき声で淀んでいた。自力で起き上がれる者から、俺のように体を起こすことがままならない者まで、怪我の程度は様々。

 だがいくら探しても金の髪が見つからない。

 あれほど分かりやすい人なんてめったにいないはずなのに、ずっと目を離さないようにしてきた彼女の姿が見当たらない。

 どこへ行った。ゼルダが、いない。

「ぜるだ、は?」

 咽ながら薬湯を飲み切ると、頭がまたぼんやりとする。体がこの調子では、しばらく寝ないとどうにもならない。申し訳ないがもう少し寝たい。

 でもその前に、ゼルダに一目会いたい。

「落ち着いて聞いてくださいリンク」

 インパに支えられながら寝かされる。

「姫様はいま、行方不明です」

 ひゅうっと音を立てて喉が締まった。息ができなくなり藻掻くように手を伸ばす。痛いぐらいに見開いた目に映るのは、インパの泣きそうな顔だった。

 なぜゼルダが行方不明になっている。カカリコ村の方へと向かうガーディアンは全て足止めしていたし、意識を失う前に俺の体に触れていたのは間違いなく彼女だった。俺を運んだのもゼルダのはず。

 なぜその当人が行方不明になるんだ、意味が分からない。

「無事に村へはたどり着きました。でもそのあと忽然と、いなくなってしまったんです」

「な、ぜ……?」

「分かりません……、ローム陛下がラネールの知恵の泉にもう一度禊をしに行くようにとお命じになって、巫女装束にお着替えされたところまでは一緒でした。でも、そのあと気が付いたらお姿が見えなくなっていて……!」

 俺の傍らで、インパの顔がみるみる崩れていく。

「私のせいです。私が姫様を、ゼルダのことを責めるようなことを言ったから、だから一人でどこかに……」

 濁る言葉尻まで聞き終わる前に、布団に爪を立てて体を起こした。背骨とその周りの筋肉がよじれて悲鳴を上げる。でもそんなの関係ない、動けと命じれば俺の体はまだ動く。

「リンク、駄目です、起き上がっては!」

「いかな、きゃ」

 どこへ?

 自分でもよく分からない。でも無為に寝転がっている気にはなれなかった。

 思った通り添木で固定された左手は、感覚はあるが動かない。だが足は両方とも無事だったし右腕も動く。節々は熱をもって痛んだが、這いつくばれば前へ進めた。

「どれだけ体がボロボロか分かっているんですか!」

「うるさ、い、どけ……ッ!」

「煩いとは何事ですか! あなたの世話をしていたのは私ですよ?!」

 喚くインパを押しのけ、怪我人たちの隙間を縫って、戸口の明るいのを目指した。探しに行かなければならない。ゼルダには俺が、兄である俺が傍についててやらなきゃと手を伸ばす。

 その右手の甲をしわしわの足が容赦なく踏みつけた。

「ぃっあぁぁ……ッ」

「芋虫か小僧!」

「おばあ様、おやめください! 仮にも怪我人です!」

「こやつの頑健さは子供のころからよく知っとるわ、意識が戻ればこの程度で死ぬ輩でもあるまい。それよりインパ、ちゃんと見張っておれと申したであろうっ。死なれては困るのじゃからな!」

 傷をまともに踏みつけられた右手を抱え込んで、冷たい床板の上に丸くなる。このしわしわババァめ、と思って横目に睨みつけると、その額の赤いシーカーマークがぐにゃりと歪む。

 なんだこれ、と目に違和感を覚えたころにはもう遅い。先ほどまで辛うじて言うことを聞いていた体から、力がずるずると抜けていく。呂律さえ怪しくなる。

「くす、り……?」

「ようやく効いてきたか。常人であればコロリと落ちる量の眠り薬を混ぜてやったのに、まったくどこまでも手の焼ける小僧だよ」

「くそ、ばばぁ……」

「なんとでもお言い。お前さんには死なれたら困るんじゃ。ちゃんと治るまで無茶の一つでもしてごごらん、百叩きにしてやるからね」

 治すんだか叩くんだか、どっちかにしろよババァと睨む目に力が入らなくて、もう再び深い眠りに落ちていく。次に目が覚めた時には、絶対に薬なんか飲んでやるものかと心に決めて。

 ところが次に目が覚めた時には手足を拘束され、口には手ぬぐいで猿轡を咬ませられていた。板の間の布団にいたはずなのに、今は寝台のある個室に移されて、その上に帯を使って折れた左腕以外を寝台の柱に固定されている。試しに引っ張ってみたが、もちろん外れなかった。

 ぎろりと視線を頭の方にやるとインパがいて、すいませんと顔をそむけられた。

「こうでもしないとリンクは這ってでも出て行ってしまうから、抑え込めと」

 分かっているなら外せよと、動く右手を差し伸べたがインパは首を横に振るう。途端、煮える腹の底から怒りが溢れて、無茶苦茶に手足を動かした。括りつけられた寝台の柱が軋み、帯がぎちぎちと音を立てる。口に嚙まされた手ぬぐいの隙間から、飲み込めなかった唾液があふれ出す。

 あれからどれぐらい寝ていたのか、不安と焦りが体を押し動かした。

「止めてください! 酷い怪我なんですよ?!」

 構うものか。どうせ傷だらけならば、さらに一つ二つ傷が増えたところで変わりはしない。

 嚙み千切らんばかりに猿轡に歯を立てて、右腕に力を籠める。寝台の柱が折れるか、それとも俺の骨が折れるか、どっちが速いか勝負してやると思ったとき、がらりと引き戸が開いた。

「全く、うるさいと思えば。起きよったか」

 老インパの疲れ切った顔を睨む。外せと眉間に力を込めたが、老婆の小柄な体がスッと横に動いた。

 背後に大きな人影を見る。

 王家の紋章で飾り立てられた立派な甲冑を着て、威風堂々と入ってきた大柄な男。いつぞや時の神殿で会ったときの、大らかな空気は一切ない。そして、見目形こそハイラル平原で遭遇した厄災と同じだが、確実にこちらが本物だと分かった。大きく違うの顔に伸びた白い傷跡。

 これがゼルダの実の父、ローム王だ。

「話がしたい。猿轡を解いてやれ」

 重々しい声にインパが俺の口から手ぬぐいを外す。

 何と怒鳴ってやろうかと思ったのだが、ぼうっとした頭では考える暇はなく、俺はただその老人を睨んでいた。

「まさかあの時あった少年が勇者であったとはな。気分はどうじゃ」

 インパが持ってきた小さな椅子にどっかりと腰かけて、目の前に王の顔が来る。覗き込んだ目の色はゼルダと同じ翡翠の色をしていて、なるほど親子だと思った。だが似ていない。王からは死臭がした。

「手足をほどけ。ゼルダを探しに行かせろ」

「おぬしは退魔の剣を抜いた勇者ではないのか。勇者はハイラルを救う者ではないのか?」

「剣は抜いた。でもハイラルなんかどうでもいい、ゼルダはどこだ」

 他の怪我人よりも大事に手当てを受けているのは、退魔の剣を抜いたからだというのは血の足らない頭でもすぐに分かった。仮に剣が無くとも、俺は切り札として扱われる。

 それが心底嫌だった。

「俺が守りたいのはゼルダであって、ハイラルじゃない」

「これが勇者とは聞いて呆れる」

「何とでも言え。それともあの言葉は嘘だったのか?」

 ん?と真っ白な眉を片方だけ押し上げた顔を見て、この人は自分の言葉を忘れているらしいと気が付いた。

 でも俺は忘れもしない。ゼルダ姫の時の神殿への行幸の際、昼飯を食いっぱぐれた俺に、老人は早生のりんごをくれた。二つだけと言いながら、腹が減っているだろうと二つくれた。その老人から「姫君を助けてやれ」と頼まれた。

 言われなくともそうするつもりだったが、見知らぬ人とはいえ励まされれば嬉しかった。ゼルダのことを、こうも思ってくれている民がいるんだと、その時は言葉の意味を深く考えなかった。

 だが、あれが実の父親の言葉であれば全く意味は違う。

「あんたはあの時、目の前の従卒がゼルダの傍に侍る可能性を察して、『姫君を助けてやれ』と言ったんだ。それなのに今、実の娘が居ないのにどうしてそんな冷静になっていられる?」

「王たる者、国の大事に娘ばかりにかまけてはおれん」

「だったらあんたの代わりに俺が探してきてやる。だからこの戒めを解け!」

 乱暴に右腕を振るうと寝台の柱が嫌な音を立ててはじけ飛んだ。ヒィっとインパの小さな悲鳴が上がるも、無視して体を起こす。自由になった両手で足元の帯につかみかかった。これさえ解けばもう走り出せる。

 体の方はどれぐらい寝込んでいたのか、だいぶ楽になっていた。骨の折れたのだけはどうしようもないが、ここまで治りが速い理由は夢の中に思い当たる節があったので小さく感謝する。

「自ら姿をくらます者に割く余力など、我々にはないのだぞ」

「溺れる者の声は小さいから、常に耳を傾けて見守れと言ったのはあんただ。そんなことも忘れたのか。それにゼルダは逃げたりしない、いなくなったのには必ず理由があるはずだ」

 体の向きを変えてローム王の脇に立ったが、体の軸はふらついた。足も上がらず、左足を引きずるようにしか歩くことができない。

 くそっと舌打ちしながら、小部屋の戸口で小さく委縮しているインパの脇差に手を伸ばして勝手に抜いた。

「ごめん、借りる」

 刀剣の類ならばなら何でもいい。槍でも、斧でも構わない。ともかく武器を、包帯だらけの体の上に纏った衣服の上の帯に挟み込む。

 押し込められていたのは、やはりカカリコ村の村長の家の奥で、体を半分引きずりながら出ていくと数人の騎士がぎょっとした顔をしていた。

「おぬし、どうしてそこまでしてゼルダを助けようとする?」

 長い下り階段を見下ろす戸口のところで、ローム王の声が追いかけてきた。

 鬱陶しい。腹から声を出すのも億劫だったが、答えないわけにもいかない。欄干に体を預け、深く息を吐き出しながら振り向く。厳めしい顔つきを崩さない大柄なその人をねめつけた。

「弱いからだよ」

 認めるのは嫌だったが、でも紛れもない事実だ。

 もちろん万全の体調で対等の条件で試合をすれば、たいていの相手には勝てる自信はあった。しかしながら現実はそうもいかず、実際これまでに三度殺されかけてる。ウルボザと、イーガ団と、それからガーディアンたち。多勢に無勢ともなれば、俺一人では勝てないこともある。そのたび、毎回のようにゼルダに助けられて生きながらえてきた。

 事実として、俺は弱い。

「三度も死に損なえば、自分には多くの物が守れないことぐらい嫌でも分かる。だったら俺は一番大事なものだけは死んでも守りたい。それだけだ」

 階段が、長くて遠い。でもここを下らなければ村の外には行けないのだからと一歩踏み出すと、平衡を保てなくなり前のめりに体が崩れ落ちた。

 頭と折れた左腕だけは守らないとと、咄嗟に体を丸めて衝撃に備える。しかしいくら待っても衝撃はなく、気が付けばローム王の大きな手が俺の体を支えていた。

 驚いて見やると、今までの厳めしい顔つきから一転、渋く心配そうな顔がある。

「おぬしの剣は探せておる。それまで待てぬのか」

 あそこまで文句を言っておいて悪いとは思いつつも、やっぱり王と言えども人の親なのだと思った。娘のことが心配なのに、大勢の民の手前、姿を消した娘を心配するそぶりすらできない。

 親子そろって王族というのは難儀な生き物だと思いつつ、首を横に振った。

「行かせてくれ」

 国の頂点の人に対して随分と横暴だと思ったけれど、死にぞこないは何も怖くないのが身軽でいい。肩を借りながらずるずると階段を下る。途中、ローム王はインパに申し付けて馬を引き出すように言ってくれた。

 今代の勇者は外れですいませんと謝ると、気にするなと苦笑する。やっぱりりんごを二つくれたあの老人だった。

 ようやく地面に足をつけて、引き出された馬の鐙に足を掛ける。いつもは何も考えずにできていた動作が、今は呼吸を整えなければできない。大きく息を吐き出して地面を蹴って、一気に体を上げようとした。

「そんな体でどこに行くって?」

 一瞬、声の主が誰なのか分からなかった。

 乗馬する手を緩め振り返ると、そこには琥珀色の瞳の男が一人、俺のことを睨みつけている。シーカー族特有の白い長い髪は煤で汚れて灰色に染まり、元は優美であっただろう衣もぼろぼろに。

 荷物一つ背負って逃げて来たらしいシーカー族の男を見て、こいつ誰だ、と首を傾げそうになってから、ゼルダの傍に侍っていた姿を思い出した。

「お前、宮廷詩人の……」

「姫様のためにと思って必死の思いで戻ってくれば、貴様というやつは。急いては事を仕損じるという言葉を知らんのか愚か者め」

 何を言っているんだかよく分からず首をかしげる。ぽっと現れたこいつに、どうしてここまで罵られなきゃならない。別の意味で腹が立って、今はそれどころじゃないと逆に睨み返した。

「お前の相手をする暇はない」

「貴様のような怪我人が動き回って何ができる」

 確かに弱いことは認めよう。

 だが、シーカー族の内でも専門の隠密ですらないこいつに、そこまで言われる筋合いはない。

 大体からなんで詩人ごときに俺のやることを遮られなきゃならない。お前が口出ししていいことじゃない、と無視しようと顔を背けるそこへ追い打ちをかけるように声が届く。

「逃げるのか? 姫様があれほど心痛められていたときに、ずっと他人の振りをしてきたくせに、今さら兄貴面をして助けに行くのか?」

 かぁっと頭に血が上った。

 他人の振りをしていた時の苦い思いが脳裏に呼び起こされる。ゼルダとの関係を認めたら、忠実な騎士を続けることができなくなるのを俺は何よりも恐れた。自分の甘えを許す弱い自分から目を背けていた、それをこいつは知っている。

 うまく言い返せずにただ睨むままいると、大股で俺に詰め寄って衣の襟を掴んだ。

 やめてくださいとインパの声があって、何事だと傍らのローム王も眉を顰める。ところが宮廷詩人は周りのことなど、もはや見えていなかった。ただひたすらに憎い相手の俺に食って掛かる。

「いったいどんな偽善者だ。だったら僕が姫様を探してきてやるから、貴様はねんねでもしてろ」

「黙れ」

「今の貴様では僕にすら勝てないくせに!」

 ゴリッと体の奥の方に音が届いて、左の頬に痛みを覚える。奴の拳が顔にめり込んでいた。インパの制止する声が耳に届いたものの、反射的に俺も拳を振り上げる。

 腹立たしい。どうしてこんな奴に、こんなことを言われなきゃならない。

 拳は綺麗に奴の顔に入った。思い切りやれば詩人の体が後ろへ吹き飛ぶはず、ところが上手く力が入らない。

 たたらを踏んで、鼻血を擦り上げたやつがニィっと歯を見せて笑う。そのままお返しとばかりに俺の頬を同じように一発殴りつける。ここで俺が尻もちを着いたら、奴の言う通り負けだ。それがあまりにも悔しくて、死ぬ気で足を踏ん張る。

 体勢を立て直してもう一発、お返しにさらにもう一発。無駄な殴り合いが続く。傷だらけの体にさらに傷を増やしていく。アホらしいと思いつつ、引くに引けない。

 インパの止める声も、止めよというローム王の声も全部聞こえない振りをした。

 なぜだかこいつに負けるのだけは嫌だ。絶対に嫌だ。

 あらんかぎりで振り上げた腕。それがパシッと止められた。

「あんたたち馬鹿?! インパも! 殴ってでもいいからこいつらを止めなさいヨ!」

 ハイラル平原で別れたプルアが、本気で馬鹿を見ているように俺たち二人の間に入り込んだ。その隙を縫って、がむしゃらに奴の腹のあたりを蹴飛ばすと、詩人は無様に尻もちをつく。ざまぁ見やがれと思って見下ろせば、インパが慌てて倒れこんだ宮廷詩人の体をかばっていた。

 傷だらけでもどうやら俺の方がまだ勝っている。でもあれほどコケにされては、もう一発ぐらい殴らせろと拳に力が入った。

「放せよプルア!」

「馬鹿だとは思ってたけど、これほど馬鹿だとは思わなかったワ」

 フーフーと口から熱い息を吐き出しながら奴を睨んだ。

 幼いころ、カカリコ村で出会ったときから、いけ好かない奴だとは思っていた。何かにつけてゼルダにちょっかいは出すし、俺のことを馬鹿にしたように振舞うし。果ては王宮にまで上がって、俺よりも先にゼルダの傍に侍っていた。

 どうして奴が俺のことを睨んでくる筋合いがある。気に食わない、気に食わない、圧倒的に気に食わない。どうして詩人ごとき男がゼルダの傍に居るのが許される。

 でも奴は俺の倍以上も悔しそうに顔を歪めていた。

「どうしてこんな奴が勇者なんだよ!」

 くそっと地面を殴った詩人の手が、背負っていた包みを肩から外す。

 包みの中から取り出して、俺の足元に投げつけられたのは青い鞘の剣だった。

「姫様はいつだってお前のことばかり! 僕だって精霊の声が聞こえるといくら言っても、リンクリンクリンクリンクってなぁ、なんで僕じゃなくてお前なんだよ!」

 嘘だろと思って拾い上げた退魔の剣は、あの時と同じでひたりと手に吸い付いた。

「お前が勇者だっていうんなら、ちゃんと姫様を救えよ! なんでそんなぼろぼろになってんだよ! 僕はねぇ、こんなしょうもないやつに負けたなんて思いたくないんだ、こんな風呂覗きをやってたような馬鹿にさぁ……」

 わぁっと泣き崩れた宮廷詩人の包みの中から、小さなコログが一匹顔を出す。葉っぱがボロボロになったそいつは、いつだったかまどろみの中で必死に俺を呼んでいたやつだった。

 思わず膝をついて手を差し伸べる。疲れ切った顔をして、コログはコロコロと小さく音を立てた。

「どうして……、コログが」

「禍々しいヒトが森に飛んできて、剣を投げ捨てていきましタ」

「お前やっぱり馬鹿だろ? どうして退魔の剣が城みたいな人目につく場所にあると思ってたんだ? 精霊たちがお前を呼んでいたのに、ずっと無視してきただろ? だから僕のところへ来たんだ」

「何度もお知らせしようとしたのでスが、ゆうしゃサマ大変そうだったカラ……」

 ものすごく腑に落ちて、思わず詩人の目の前にへたり込んだ。

 取り上げられた退魔の剣は、なぜかずっと王城のどこかにあると思い込んでいた。取り上げたのが王だと思っていた人だったからかもしれない。だが、よくよく考えてみたら、探されるような場所にわざわざ置いておくわけがない。

 だとしたら俺が絶対に探さない場所、且つ常人には探せない場所に捨てに行けばいい。コログの森は俺にとっては剣を見つけた場所だから、もう一回探しに行こうとは思っていなかった。他人の手で森に戻されるなんて思ってもみなかったし、隠密とはいえシーカー族が入り込める場所でもない。

 だからこそ、宮廷詩人だけが剣の在処にたどり着けた。

「そっか、お前、コログの声だけは聞こえるんだった」

「ハイラル平原で民を先導している姫様とお前を尻目に、俺は安全な道を一人で逃げたよ。でも途中で精霊に呼ばれた声にだけは逆らえなかった。唯一お前と対等に並ぶものだったから」

 奴は、音だけを頼りに森を歩いて行ったのだという。カラカラコロコロ導く音の方向を正しく聞くために、目隠しまでして何度も根に躓きながら暗い森を歩いた。それでようやく辿り着いた靄の中に、埋もれた青い鞘を見つけた。

 実に三年ぶり。立ち上がってゆっくりと抜き出す刀身は、あの時と同じで淡い青の光を帯びていた。

「おかえり」

 やっぱりこいつは俺の半身だ。体から変に強張った力が抜けていく。剣の青く澄んでいるのを見て、インパやローム王からも言葉なき感嘆の声が漏れ出た。やっぱり見る人が見れば、それと分かるものだったのだ。でも幼い日、俺にはそれが分からなくて隠そうと必死になった。

 額に刀身を当てれば、耳の奥で声がする。

 と安心しきったところを見計らって、ガツンと後ろから頭を殴られて膝を折った。

「インパ、この馬鹿の手当てをしてやって!」

「プルア、ちょっとっ!」

「それからこっちが本物の陛下ネ?! 情報共有をするから準備してください! あとゾーラからミファー様がどうしても来るっていうから、インパ、場所の準備!」

「プルア、俺、そんな……!」

 剣を鞘に戻しながら立ち上がろうとして、またよろめく。切れた口からは血が溢れて、また小さく地面に血だまりを作っていた。

 それを見るなり、またプルアの鉄拳が頭の上に落ちてくる。本当に、昔からそういうところだけはこの人は変わらない。なんだかんだ言って俺は、色んな意味でプルアには逆らえない。

「今殴り合ったので怪我が増えたでショ! しかも手掛かりなしでどこに行くつもりだったのヨ」

「えっと、あっちの方」

 何となくの勘でハイラル平原の方を指さした。ゼルダは城の方にいる気がしていた。理由はないが、責任感の強いゼルダなら城へ向かう気がする。城へ赴いて、よく分からないけど、厄災を自分一人でどうにかしようする動く気がした。

 ところがプルアは一瞬驚いた顔をしてから、大げさにはぁーとため息を吐いた。

「アンタの真に恐ろしいところは、その勘が当たるってことヨ……」

 腰に手を当てて俺を見下ろしながら、プルアは手に握った黒いものを振った。

 詩人を助け起こしながらインパが、あー!と大声で指をさす。

「それ! 姫様が持っていたシーカーストーンじゃないですか?!」

「そうヨ、私の記憶が正しければ、ハイラル平原の時点ではウルボザ様の手にあったはずよネ? ウルボザ様が無事であれば姫様の手に戻っただろうし、ご無事じゃなければどこかの神獣の中にあるはずのこれが、どうしてハイラル平原に落ちているのヨ?」

 分からない……と口ごもると、でしょうネとにんまり笑われた。

「アンタにはちゃんと行くべき場所を教えてあげるから、まずはミファー様の手当てを受けなさい。なんでも一人でやろうとしない、分かったわネ?」

「あ……」

 ふいに、暗闇の中でもう一人の自分に諭された言葉が蘇った。思えば俺は、ゼルダを自分一人で守ろうとして、これまで何度も失敗してきた。失敗から学ばないのは、確かに馬鹿と言われてもしょうがない。

「返事は!」

「……分かった」

「なんでこういう説教じみた損な役目ばっかり私なのヨ!」

 行ってヨシと言われて、立ち上がろうとしたらよろめいて尻もちをついて笑われた。なんだか、ローム王や俺を縛り付けていた老インパに対して怒って出て行こうとしていた時より、ずっと心が軽くなった。

 ちょうど西の防衛線から戻ってきたダルケルに呆れ顔で担ぎ上げられて、もう一度寝台に放り込まれる。散々なぐらいリーバルにも嫌味を言われても、不思議ともう大人しくミファーを待とうという気分になっていた。あれほど焦っていた気持ちが静かに落ち着く。

 手がかりがあって、自分の手の中に解決できそうな力があるというだけで、待つことが楽になる。戻ってきた青い鞘に耳を当てながら剣の声を聴いた。

「不思議なもんだな……」

 全部あいつの言う通りだ。一人じゃ何も出来ない。仕方がないのでもう一回ぐらいは、老インパの苦い薬湯を飲んでやった。

 でもどんなに落ち着いても、傍にゼルダがいないのが寂しい。我慢はできるが焦燥だけは募る。あるいは逆に、俺がゼルダの横だと安心していたのかもしれないと気が付いた。自分の隣が空だと寒々しいのが嫌で、早く会いたいこみ上げる衝動を何度も飲み込む。

 全部終わったら、子供の頃みたいに戻れたらいいのにとふと思って、寝台の上で横になった。何も考えずに同じ布団で子犬みたいに団子になって寝ていたあの頃。ゼルダはすでに秘めた決意があったのだろうが、俺には役目も立場も何もなかった。

 あの頃に戻りたい。柔らかな額を擦り合わせて、何も考えずに眠りたい。そんなあり得もしないことを考えていたら、知らない間に眠っていた。

 暖かいものが腕に触れているの感じて目を開けると、赤いひれがまず目に入る。ミファーが折れた左腕に癒しの手を添えていた。

「あ、ごめん、起きちゃった?」

「んや……、大丈夫。ありがとう。……ミファーは?」

 大丈夫とは言い難いのは分かっていた。俺と同じで巻き付けた包帯に血が滲んでいる。それを圧してでもゾーラの里からカカリコ村に来てくれたのはありがたかったが、同時に申し訳なかった。

 ところが声に出さなかったはずなのに、ミファーは見透かしたように少し笑う。

「大丈夫、気にしないで。私、リンクに伝えなきゃいけないことがあったから来たの。本当は姫様に伝えたいんだけど、今の私じゃ無理だから。伝言をお願いしたくて」

「伝言?」

「ラネールから降りて来た時に言いかけたこと、途切れたままだったの覚えてる?」

 あの時、聞き耳だけは立てていた。

 雪に濡れた巫女服の着替えを準備していたミファーは、とても迷いながら言葉を選んでいた。一つ一つ、間違いのない様に伝えようとしていた言葉は、厄災が復活した衝撃でかき消されてしまった。

 あの続きを、あの時のゼルダが聞いていたら何かが変わったのだろうか。その言葉を、俺が代わりに伝えて意味があるのか、分からないまま頷いて耳を傾ける。

「私ね、治癒の力を使うとき、その人のことだけを思ってるの。誰かのためにとか、みんなのためにとか考えない。今はリンクのことだけ思ってる」

 手に温かい光を灯しながら、横顔はおっとりとほほ笑んでいた。

 その面差しで、今は俺のことだけを。それはとても嬉しいようでもあり、わずかに気おくれもした。ミファーが俺だけのために思うのは何かもったいない、あるいは申し訳ない気持ちが先に立つ。

 でも彼女は俺の心を知ってか知らずか、言葉を続けた。

「きっと、姫様のお力も同じことだと思うの。姫様って、みんなためにがんばっちゃうでしょう? 大事な人のためだけに祈るのは、姫巫女失格だと思ってるじゃないかな。みんなのために、ハイラルのために祈らなきゃって必死になってると思う」

 そこで言葉を切ったミファーはしばらく言葉を紡がなかった。

 その間にもミファーの治癒の光は温かく俺の腕を包み込んで、痛みと腫れがどんどん引いていく奇跡を目の当たりにする。幼いころはこうしてよく傷の手当てをしてもらったが、これがどんなすごい御業なのか理解していなかった。

 もし本当にミファーの言う通りなら、ゼルダの大事な人は一体誰か。

 そこに名乗りを上げるほど、俺の面の皮は厚くない。同時に、思うことと思われることが等価でないことも、すでに知っていた。どんなに強く手を伸ばしても相手が応じないこともある。

 だから俺はゼルダを連れてハイラルから逃げなかった。

 ところが慈母のごときミファーの金の瞳は、俺の侘しい気持ちを優しく刺し貫く。

「姫様の大事な人はリンクだよ」

「ミファー、俺は」

 ならば今、俺に癒しを与えているミファーの大事な人が誰なのかも分かる。朴念仁とあれだけ言われても、それぐらいは分かった。

 でもそう、思うのと思われるのは時に嚙み合わない。

「リンクの大事な人も姫様でしょう? 大丈夫、分かってる」

 静かな小部屋にミファーの声は穏やかに落ちて消えた。

「ちゃんと伝えてね。姫様、きっとあなたのことを待ってるから」

「うん、ありがとう」

 そこからはもう言葉はいらなかった。戦いの渦中にありながら、これほど穏やかな時間が享受できるのは奇跡に近い。

 だからこそ懊悩する。

 ミファーの言葉が本当なら、ゼルダの力が目覚めないのは当たり前だった。俺たちには幼いころから、互いに大事な人を思うだけの幸せな時間はほとんど許されなかった。その日の食い扶持を稼ぐだけで手いっぱいの根無し草の生活。加えて背負わされたものが大きすぎて、子供心になぜ二人きりなのか怒りを感じることもあった。

 こんなの最初から詰みだ。間違いは、俺とゼルダが出会ったときから詰み上がり始めた。そう考えるとあまりにも虚しい気持ちが澱のように心の底に溜まる。

 治療が終わるとのどやかな眠気に苛まれたが、まだ体は本調子には程遠い。

「もし俺と出会わずにお姫様でいたら?」

 寝転がって届かない空想に手を伸ばす。ミファーが癒してくれた左腕はしっかりと動いた。

 ゼルダが城の外に連れ出されず、お母上にちゃんと慈しまれて育っていたら、彼女はこんなに苦しまなかったのかもしれない。でもそれは俺の手の届かないところに彼女が行ってしまうようで嫌だった。

 想像だけでは、どう転んでも上手くいかない。

 諦めて目を閉じると変な夢も見ずに一晩ぐっすり寝られた。次ぐ日の朝早くからインパにたたき起こされて飯と服をもらう。そのあと話があるから来いと言われたら、すんなりと体が動いた。昨日まで足を引きずっていたのが嘘だと思うほど体が軽い。

「ではご一同、これを見て」

 プルアが随分と息巻いて、シーカーストーンを全員に回してあるウツシエを見せつけた。

 ハイラル城のだいぶ近くから撮った一枚だ。厄災復活後の様子で、立ち上がった黒い古代柱に禍々しい気配が巻き付いている。撮った位置は城のおそらく南西方向から。

「研究所を爆破してからここへ向かう途中、シーカータワーがひと時だけ青くなってたのネ。まさかと思って城の方角を確認したら徘徊するガーディアンの群れを見つけたのヨ。遠目にガーディアンの上に乗ってる人が見えて、で、通り過ぎた後に落ちてたのがシーカーストーン」

 大きな地図に撮影のおよその場所を指し示す。唄ドリの草原付近、やはり現在では入り込むのも難しい位置だ。

「で、今見てもらったウツシエが記録的に最後ってワケ」

「ハイラル城ですよね。柱も立ち上がって、どう考えてもこれは直近ですよ」

「周りにガーディアンも写りこんでいて、どう考えても方向的に城に向かっているのヨ。こんなこと出来るのは、この場にいない人物よネ。つまり、姫様はハイラル城にいる!」

 なるほどと思って、そんなこと誰でも分かるけどな、と首をかしげる。案の定リーバルが不機嫌そうに鼻を鳴らしながら、プルアの手にシーカーストーンを返した。

「で、どうして厄災が姫を城に呼び出すんだい?」

「理由は知らないワ! でもこれで行く先は決まり。アッカレの戦力も半減はしているけど取り返せたことだし、ウルボザ様の配下の一団もハイラル平原へもうそろそろ出て来られるはず」

 でしょ、と老インパの方を伺うと、重々しく首が縦に振られて肯定の意が示された。

 俺が怪我で意識を失っている間の出来事を聞く限りでは、どうやらローム王はゴロン族とゾーラ族と挟撃して、アッカレ砦を取り戻していたらしい。戦力は半減していたが、それでも戦える人員は増えた。フィローネとハテノの方面は無事で、現在の主な供給はその二方面からに頼っている状況。つまり長くは持たない。

 フィローネ南部から山脈を超えてゲルド砂漠に戻るために、ウルボザが発ったのが数日前。ガーディアンとの戦線はゲルドキャニオンで今も続いているが、峡谷の地形が有利に働いてゲルド族はそろそろ平原に出て来られるはずとのこと。

「神獣は使えるか?」

 中央に鎮座したローム王は片隅のダルケルの方を向く。だが大きな手を振って、ダルケルは眉をひそめた。

「難しい。俺とリーバルは中に入る前にウルボザに止められたから、おそらく中にはまだガノンのちいせぇやつが巣食っていやがる。それを排除する時間があれば別だが」

「私はウルボザさんに助けてもらったとき、倒したから使えるけど……」

 おずおずと手を上げたミファーには、里から介添えにきたムズリがずっと付き添っていて悲鳴にも似た声で「なりませぬぞ!」を発した。途端、しゅんと俯くミファーの傷だらけの体を見れば、それが難しいことぐらい本人でなくとも分かる。この場で今最も酷い怪我をしているのはミファーだ。

 インパがローム王を仰ぎ見て、上申する。

「ミファー様は傷の具合がよろしくありません。神獣は使えないと見た方がよいのではないでしょうか陛下」

「人の力だけで、厄災と対峙せねばならぬか」

 準備していた手はことごとく厄災に奪われ、残ったのは人の力だけ。姫巫女も行方が知れず、退魔の剣を従えた俺ですらようやく戦えるかどうかの瀬戸際だ。

 それでもゆかねばならないのは誰もが同じことで、ならばもうぐずぐずしている暇はない。王は膝を力強く叩いて立ち上がった。

「あい分かった、出陣の支度をせよ」

 俺も戦支度をせねばと思って立ち上がったところ、袖を引っ張られる。老インパが下からぎろりと俺を睨んでいた。

「姫様から預かりものがある。ついてまいれ」

 思い当たる節が全くなくて、首をかしげながら小さな背中に付いて行った。

 老インパの部屋に連れていかれだが、幼いころ覗こうとしてしこたま怒られたことを思い出す。子供心にこの部屋は謎に満ちていた。だから奥まで入り込むことに本能的に躊躇して、戸口で足を止めて待つ。

 すると老インパは、大事そうに包みを取り出して俺の手の中に押し込んだ。早く開けろと催促され、開いた包みの中には青い衣が入っていた。

「これ」

 夢の中で、もう一人の俺が纏っていた衣と寸分違わぬもの。でも夢じゃない。

「ハイリア人の英傑に着せるために姫様がお作りになったものじゃ。ま、おおかたお主の体の大きさに合わせてあろう。せっかくだから着て行け」

「いいの?」

「良いも何も、お主以外に着る奴はおらん」

「……ありがとう、ございます」

 広げてあてがってみると、言われた通り体にちょうどぴったりの大きさだった。ところがここ最近で、ゼルダに服の大きさを確かめられたことなどない。首をかしげる。

「よく俺の服の大きさ知ってたな……」

「あ、サロンに来ていた織匠しょくしょうの女性に近衛の制服を見せたでしょう?」

 インパがひょっこり顔を覗かせていた。ああ、と頷いて思い出すのは、ゼルダが定期的に開催していたあのお茶会。

 庶民の技能士たちを集めては、出資する下級貴族たちとの橋渡しをしていた。その中にいた織匠の女性が俺の近衛兵の制服にえらく関心を示していた。

 あの時は姫様に直にお話をした方がよいと言ったのだが、結局あの後、俺の服を一時だけ貸すことになってしまった。いま思い出してもなんだかよく分からない話だった。

「……うん、貸した」

「四人分の英傑の服を作る際に、あの織匠の方にちょっと手伝っていただいたんです。その時に服の大きさを教えていただきました」

 私も少し手伝ったんですよ、と腕まくりするインパ。特別に反応するのが面倒くさくて、「へぇ」とだけ答えると、ムッとした顔で背を押された。早く着替えてこいと奥の寝間に追いやられる。

 一人になってから再度、腕の中にあるものを確認して、やはり信じられない気持ちになった。青い衣、暗闇の中で勇者だった俺が纏っていた衣が、現実に俺の腕の中にもある。

 いつの間にこんなものを作ってくれていたんだろう。これを縫ったのはどう考えても、ゼルダはまだ俺が勇者だとは知らないときのはずだ。指の腹でなぞると、生真面目に揃った縫い目が、彼女の性格そのものに感じられた。

 誰にも内緒で服に顔を埋める。かすかに甘い花の香りがしたような気がして、思わず顔が熱くなる。嬉しかった。

「すぐ行くからな」

 袖を通した青い衣の着心地はとてもよかった。真新しい剣帯を青い鞘に通し、退魔の剣を背に佩くとぴりりと背筋が伸びる。数日ぶりに体が戦場に戻っていく感覚。それが俺にとっての日常であり、悲しいかな体にはしっくりとなじむ。

 出立の朝、淡い日の光に目を細めていると、後ろから声があった。

「リンクよいか、お主はゼルダを助け出すことにだけ集中せよ」

「御意」

「なんじゃ、いきなり他人行儀になりおって」

 一瞬考えて、尤もらしい顔をして頭を下げた。

「一応、姫君付きの騎士を拝命しておりますので」

「何をいまさら白々しい」

 面白そうにローム王は鼻を鳴らして俺の隣に並ぶ。仮にも勇者であればそれが許された。不思議なもので、退魔の剣が手に戻ってからは誰もが俺に一目を置く。あからさまな手のひら返しに嫌な気分になったが、もともとの俺を知っている人だけがこうして相応に扱ってくれた。

 ぽんと肩に手を置かれ、声は低く抑えられていた。

「娘を頼む」

「分かりました」

 言われなくとも俺はゼルダ以外救うつもりがない。それを言っても仕方がないことが分かっている。

 ところがそれで終わりかと思えば、ローム王がまだ何か言葉を探していた。言おうか言うまいか、だいぶ悩んでいるのを察して何も言わずに目して待つ。

「のう、リンクよ。一つ尋ねるが、おぬしは何者としてゼルダを救いに行くつもりじゃ」

 チクリと、ローム王の言葉が胸に刺さる。王の言葉は、おそらく為政者の言葉と父親の言葉の半々だった。

 問いに対して、口に出したい答えはあった。

 でもゼルダは俺と一緒には逃げてくれなかった。だから今生では叶わぬ願いなのだと、あの時二度目の諦めを胸にしまい込んだ。俺に与えられた彼女と生きる道は二つ。

 ゆっくりと呼吸に意識を置いて、声が上ずらないようになるべく平静を装う。真正面から見据えた王は、俺を見定めているようにも見えた。

「兄として、騎士として」

「それでよいのか」

「相応かと」

 すると王からは、よかろうと声があった。それに短くハイと答えて、カカリコ村から発つ。

 馬に揺られるとまだ体が本調子でないことを実感した。どこと言わず、体の奥の方に鈍痛がある。ミファーに治してもらった左腕が時々引きつり、見た目は治っていても傷というのが生易しいものではないのを思い出した。

 無理はできない、だが勇者が弱音を吐くわけにもいかない。平原のかなたに厄災に落ちた城を見て、痛みを吐息に隠して静かに吐き出した。

 時の神殿からは王配下の別動隊が、東からはゾーラとゴロンの一族、南方からはウルボザ率いるゲルド族が間に合い、北からはリト族がハイラル平原へ向かう。

 厄災復活以来、初めて統制の取れた反攻だった。

 縦横無尽に歩き回るガーディアンを突き壊し、溢れ出てくる魔物たちを根こそぎ薙いでは、城へと向かう。もちろん少なくない数の死者があった。しかし戦場だというのに体は重たく、救えない人を傍目に見捨てて前へ進む。

 多くの死者を踏み台にしている自覚はあった。もっと強ければ、その全てに手を差し伸べてやれたのだろうが、残念ながら俺にはそれだけの力が無い。守れる者だけを守るというのは、戦うことよりもずっと勇気のいることだった。

 城に足を踏み入れたところで、進むのに要る勇気は膨れ上がる。

 多くの人が逃げ遅れた現場には、いまだ死臭が染み付いていた。思わず顔をしかめそうになったところに、そんな暇は与えないとばかりに突出してきたモリブリン二体。交わした槍の穂先を切り落として、首を刎ね上げた。

 退魔の剣は奥深くに潜れば潜るほど輝いて切れ味を増していった。だから奴がどこにいるのかが分かる。上だ。城の最上階にいる。きっとそこにゼルダもいる、なぜだかそんな気がして、本丸までの坂道を我武者羅に駆け上がる。

 脇について走るインパが、俺の顔を覗き込んで言葉を飲み込んでいた。蒼白なのは言われなくとも分かる。飛行型ガーディアンの閃光が足元の石畳を穿って爆ぜるのを避けるのが精いっぱい。

「ここは私が! リンクは行ってください」

 すまない、と頷いて、背後をインパに託す。

 この先にゼルダが待っている。早くいかなきゃと、ただそれだけの思いに縋り、必死で足を動かした。

「ゼルダ!」

 ただの近衛騎士として、英傑式でゼルダの背後の旗章の脇に立ったのが、随分と遠い昔の出来事に思えた。

 あの時とだいぶ様変わりした赤い広間。その中央に立ち尽くす白い衣の彼女が一人、浮かび上がる。

「ゼルダ、ゼルダ!」

 遠目に大きな傷はない。

 ゼルダはまっすぐに俺を見つめて立っていた。よかったと急く足が緩む。

「大丈夫、か……?」

 肩で息をして、背後には追いつく者の気配も感じないまま歩み寄る。俺をこの場へと押し上げるために、多くの人がまだ外で戦っていた。

 だが、ようやく辿り着いた。

 一歩一歩、確かめるように彼女の元へと向かう。

 自分の腕でようやく守れるところにゼルダを置ける。手を伸ばす。もうあと一歩で、指先が柔らかな肩に届く。

 その瞬間だった。

 どこからともなく彼女の手の中に現れた黒い弓が引かれた。俺を目掛けて。

「……ッ?!」

 月を模した優美な弓は新月のように黒い。こんな弓を番えているところは見たことが無い。何よりも、例えふざけていたとしても俺に向かって矢を番えたことなどない。俺がゼルダに向かって剣を向けないように、ゼルダも俺に向かっては矢を向けたことはなかった。

 突然のことに混乱する頭は、何をどう考えたらいいのか分からなくなっていた。

 ゼルダを助けるために来たはずなのに、その当人がこうして俺に武器を向ける。その意味するところが何なのか、そもそも彼女とは絶対に敵対するはずがないという絶対の信頼に音を立ててひびが入る。

 なんで? どうして?

 あと一歩のところまで近づいていた足が、震えながら後ろへ下がった。何のためにここまで来たと叱咤する己の声も、害する意思をあらわにした彼女の前では意味をなさなかった。

「姫君相手だと、やはり勇者は形無しだな」

 疑問ばかりの頭に、突然うるさい笑い声が響き渡る。見上げた玉座には、赤い髪の大柄な男が頬杖をついて笑う。

 全身を怖気が走り抜けた。

 ハイラル平原で出会ったときの、まだ王冠を戴いて王の振りをしていた時とは全く違う風貌。だがその姿を見て、心臓の鼓動が速くなる。

「厄災ガノン……?」

「よく覚えておらんくせに、よくもぬけぬけとオレのこと呼べたものだ」

 確かに覚えてはいない。でもこいつだ。

 間違いなくこの赤髪の大男が全部の元凶だ。玉座から立ち上がり、ゆっくりと階段を降りながら、そいつはこちらに向かって歩いてくる。

 ゲルド族らしい肌の色と、目と、それから髪の色。黄玉の額飾りが凶悪に光る。玉座から立ち上がり、ゆったりと螺旋の階段を下り始めた奴の体は人の形はしていたが、首から下は赤黒い怨念がうごめくだけの塊になっていた。

 あいつの腹の傷に退魔の剣を奴の体に突き立てる、申し訳ないが依り代となった影武者には死んでもらうつもりでいた。それぐらいの犠牲を甘んじて認めなければならぬほど、奴の力は強大だ。そのために俺はここまで来た。

 だとして、目の前で俺に向かって弓引く彼女はどうすればいい。

 色を失う俺の背後に、追いついた幾人かの気配があった。しかし悲鳴のようなものが上がる。振り向くと、インパのクナイが黄昏色の結界のようなものに阻まれて、誰も本丸の中に入れなくなっていた。

「我ら三人、久方ぶりの再開だ。邪魔者はいらん」

 どういうことだ!と叫ぶリーバルの声も聞こえた。

 彼らにしてみれば、ようやく辿り着いたところで姫巫女が勇者を狙っている。そんなの誰だって驚くに決まっている。

 だが折悪しく、俺は背後の他の人を気遣う余裕もない。

「ゼルダ、なんで、俺だよ……? なぁ、俺だってば」

 ゼルダから向けられた圧に負けて、じりじりと後ろへ下がる。照準を合わせられた矢じりは、ピクリともブレない。

 翡翠色の瞳は、ただ柔らかく俺のことを見つめていた。弓を引いていなければ敵意さえ感じないほど穏やかな表情。その背後に厄災の大きな体が立つ。

 白く輝く細身の剣の長い柄を持って、剣先で絨毯を突いた。

「姫君、約束は果たしてもらうぞ」

「皆は帰ってください」

 意識が無いのかと思ったが、変わらぬ彼女の声が静かにその可能性を否定する。ゼルダは俺を俺と認識して矢を番えている。そのうえで言葉の意味を捉え損ねた頭がまた空回りした。

 『帰ってください』とは、どういう意味だ。

 彼女の声を何度も反芻してからようやく理解する。ゼルダが俺を拒否した。

「なん、で……?」

 どうしてゼルダは俺と一緒に帰ろうとしない。できうる限り一緒にいたいと思ったはずで、彼女もそれは同じだと思っていた。どんなに立場が変わっても関係が変化しても、求められれば傍に居て、呼ばれれば必ず手の届くところに居たいと願ってきた。俺を傍においてくれるとばかり思っていた。

 それが、帰れとはどういう意味だ。

 音を立てて血の気が引いていく。嫌だと首を振っても、ゼルダの表情は少しも動かない。

「私の身一つで、贖える命があるのならと城に赴きました。だから私はここを離れるわけにはゆかないのです」

「まぁ、そういうわけだ小僧」

 背後の厄災は大きく歯を見せて笑い、俺を見下ろしていた。途端、血液が沸騰する。

 あいつがなんかやった、ゼルダに何かを吹き込んだ。そう判断した瞬間に噛みつくように見上げて、体が勝手に奴へ向かって走り出そうとする。

「貴様、ゼルダに何をした!」

「いい加減に打たねば分かりませんか!」

 パァンと音がして、俺の足元で黒い矢がはじけ飛んだ。

「本気、か……?」

「ガノンは私の願いを聞き入れました。私がここにいる限りは、無駄に民の命は奪わないと約束してくれました」

「ゼルダはそれを信用するのか」

「はい。無才の姫にできることは、民のために命を捧げることぐらいです」

 次の矢を番えながら、一瞬だけ彼女の瞳が曇った。

 愁いを帯びた金のまつ毛が下を向いても、ためらいなく他者のために身を削る。その思いが外ならぬ彼女の願いであることも、随分と承知していた。

 ところが俺の背後からは「姫様!」と悲鳴が上がる。

「そんなことはありません、退魔の剣も見つかりました。もう大丈夫ですから、御自分を犠牲になさらずともよいのです!」

「インパ」

 声は俺を通り越して、背後で喚くインパに向けられる。

「あなたは幼いころから良くしてくれました。殺したくはありません」

「姫様!」

「御父様もせっかく永らえた命、大事になさってください。ウルボザ、ダルケル、リーバル、どうか手を引いてください。ミファーにも同じく伝えてください。でもリンク」

 悲しそうな声が俺の方に投げかけられる。

 どうしてそんな辛そうに俺の方を見るんだよと手を伸ばそうとして、届くはずのない指先が宙を彷徨った。いまだ照準を合わせられたままの矢じりが、俺の心臓を狙う。

 それは間違いなくゼルダの技術と言ってもいい。下手な兵士よりも腕が良いのだから、動けばすぐに射貫かれる。

「残念ですがあなただけは、なりません」

 言葉が終わるか終わらないか、その僅かな時間にゼルダと厄災は目線を交わす。それがまるで打ち合わせだったかのように、厄災はよくできたと彼女の白い肩を叩いた。

 全身が粟立つ。

 厄災と姫巫女が手を組んだ。その光景を俺はただ一人、見せつけられる。

「あなただけは許されないのです。いえ、許されないのはあなたと私の二人ですが」

「どういう意味だ」

「私にも思い出せません。でもそういう因縁なのだそうです」

 ツキリと、頭の奥の方に痛みのない衝撃が走った。

 そういえば、俺は厄災ガノンを知っていた。

 あの暴力的なまでの力、かと思えば狙いすましたかのような繊細な太刀筋、人の心をよく知る意表を突いた戦術。初めて剣を交えたはずのあの時、俺の体は嫌が応にも奴に反応した。

 またこいつと剣を交えるのかと、得体のしれない思いに急き立てられた。

 因縁とはまた便利な言葉だ。意味が分からなくても、自分のすべきことが分かる。ゼルダの射程を警戒しつつ、俺は背後の厄災を見据えた。

「ゼルダに何をした」

「オレは姫君の願いを叶えただけだ。小僧も姫君のことを思うならここで散れ」

 パァンとまた黒い矢が弾けて砕けた。かすった頬からつぅっと血が流れ落ちる。首をひねっていなければ、今頃は頭を貫かれていた。

 本気だ。本気でゼルダが俺を殺しにかかってきている。よそ見をする暇などない。握った剣をどう構えていいか分からないまま飛び退り、距離を置きながら飛んできた矢を横に払った。

「止めろ、戦いたくない」

「無理を言わないでくださいリンク」

 三連の矢を番えて俺に狙いをつけたゼルダ。その真正面に立って剣を構えたが、決して刃を立てる相手は彼女ではない。かといって殺されるわけにもいかない。

 利き手と逆の側に回り込んで照準から逃げるが、ゼルダも弓の相当な射手。分かっていて体を左へと回す。

 その合間を縫って距離を詰めたガノンの白い剣先が、唸り声を上げて襲い来る。噛み合った柄同士がガリガリと嫌な音を立てた。

「どうした、すでにここまで来るのに満身創痍か」

 鍔迫り合いに負けて壁際まで吹き飛ばされる。床に打ち付けた体が一瞬呼吸を忘れ、一拍おいて肺の奥から空気の塊が飛び出した。カハッと軽い息継ぎのあと、間髪入れずに体を一回転させて立ち上がると、つい一瞬前に体があった場所で黒い矢が弾ける。

 体調が万全であれば難なくできたであろう全ての動作が、冷や汗をかくほどに緩慢になる。体の奥が痛い。

 軋む体の違和感を見抜いたかのように、厄災は嬉しそうに笑った。

「オレを苦しめてきた勇者と姫君が殺し合うとは、何と愉快なことだ! これでこそ万年の時を耐えた甲斐があったというものだぞ」

「二対一は卑怯だろ!」

「いつも姫君と仲良く共闘してオレを討とうとしていた勇者の言葉とは思えんな」

 そんな覚えはないと視線を一瞬奴の方へ向けた瞬間、案の定放たれた黒い矢。また左側の頬と肩とわき腹を掠って、熱い痛みが走る。

 だが次を番えるまでに間があった。わずかに厄災から離れた場所、一足飛びに間合いを詰めて両手首を握りこむ。どうにか抑え込むことに間に合った腕は、ゼルダの細腕とは思えないほど頑健に抵抗した。

「ゼルダ、止めろ!」

「手を放して」

 まだ矢を番えていない右の手が、それでも弦を引こうと藻掻く。

 ところがその手が、不自然に向きを変えた。俺の方に分かりやすいように手首の角度を変えて、手のひらをこちらに見せる。

「どうして、死んでくれないのです?」

 口では言いながら、表情も一切変わることもないまま、右手の親指が内側に折り込まれた。

 後ろからは乾いた絨毯を進んでくる重々しい長靴の音がする。あいつが近づいてくる。

 でも俺は目の前の手の動きにくぎ付けになっていた。

「あなたさえ、勇者さえいなくなれば、民が助かるのです」

「姫君のせっかくの願いをなぜ聞いてやらんのだ、小僧」

 そのまま残りの四本指がゆっくりと握りこまれた。

 その瞬間、筋肉のきしむ音が耳に聞こえて手を離す。鼻先を白い刃がかすめて行った。

「ゼルダ……ッ」

 目を見開いたまま距離を置いて、また厄災と立ち居並んだゼルダの右手を見た。

 何のことか思い当たる節をはるか遠い昔に見つけ、胃の腑が掴まれたようになる。あれは、二人で旅に出るときに決めたハンドサインだ。困ったことがあったとき、誰にも知られずにひそかに助けを求める方法。二人だけで決めた、知っているのは俺とゼルダだけ。

「なぜなんですかリンク」

 握りこまれていた右手はすでに形を崩し、矢が番え直される。

 だが確実に、右手は助けを求めていた。誰にも知られずに、淡々と表情一つ変えず、彼女が内側から悲鳴を上げているのが聞こえた。

 助けなきゃ、でもどうやって。

「中にいるのは厄災か」

「何を言っているんですか」

「操られているんだな?」

「いいえ、これは私の意思です」

 立て続けに矢が飛び、合わせて何合か厄災の白い剣と火花を散らす。完全に癒えていない体で、大柄な厄災と切り結ぶのは骨が折れることだった。刃を左右にいなし、振るわれる切っ先をすんでのところで避け、回り込んでは突き出す剣先。ところが今度はゼルダの矢に防がれる。

 宙を一回転して着地をしたところを狙われ、飛び退けば追い打ちに黒い男が眼前に迫りくる。それでも合間を縫ってゼルダに向かって叫ぶ。

「返事をしてくれ!」

「随分と余裕ではないか」

「違う、お前じゃない!」

 俺が聞きたいのは厄災の声じゃない。内側から助けを求めているゼルダの声だ。

 ローム王の影武者を乗っ取ったのと同じ方法で、ゼルダの体も乗っ取ったのだろう。だから見た目は何ら変わらない。だとして、どうやって体に入り込んだ厄災を追い出せばいいのか分からない。

 俺にできるのは剣で斬ることばかりで、まかり間違ってもゼルダの体に退魔の剣を突き立てるなんてことはできなかった。

「もう気が付いたか、案外早かったな」

 やれやれと首を振って、厄災はゼルダの背後に立つ。一気に表情を失くした彼女は、まるで操り人形に見えた。さっきほどまでの愁いを帯びた瞳が冷え切って、知らない人間を睨むみたいに俺のことを翡翠色の瞳が射貫く。まるで寝覚めの悪い夢みたい。

 俺たち二人を殺し合わせて楽しむあれは、一体何だと柄を握る手に力が入った。

 射られた矢を真正面から叩き落とし、どうにか近づこうとするところへ奴が間に入り込む。距離を置けば矢に間断なく狙われて、行きつく暇もなく繰り出される剣を避けながら、避けきれなかった矢が体に傷をつけていく。

 黒い矢と白い剣が絶えず俺を突け狙う。青い剣は防ぐためばかりに振るわれ、無情なまでのやり取りしかない。

 一度は実の娘を黙殺しようとしたあのローム王でさえ、阻まれた現実を目の前にしてみれば言葉を失って立ち尽くしていた。厄災を封じるための切り札が、互いに殺し合っている。しかも厄災と姫巫女が共に勇者を追い詰める。

「ゼルダ、そいつは追い出せないのか」

 肩で息をしながら問いかけても、もはや返事すらない。どうすればいい、一か八か剣を突き立ててみるか?

 そう思って間合いを詰めれば、花顔がわざわざ物憂げに歪むので考える前に手が止まってしまう。やっぱり俺にはゼルダに剣を突き立てるなんてことはできない。

 だったら俺が死ねばいいのかと逡巡するが、それで厄災がゼルダを解放するとも思えなかった。この茶番が、記憶がないほど古くから続く因縁だとするならば、それはゼルダも同じこと。彼女の命もまた奪われる。そんなのは嫌だ。

 放たれた矢を剣で叩き落し、体をひねりりながら無茶な体勢のまま弓の弦を斬ろうとする。せめてその弓さえなければ、そう思っても、ぎりぎりのところで体が悲鳴を上げる。

 俺とゼルダの間を切り裂くように白い刃が繰り出され、血飛沫を上げながらあと半歩、体が間合いに追い付かない。

「畜生……っ」

 剣は無力だ。やっぱり厄災を封じるには姫巫女の封印の力が必要だった。

 そこで気が付く。

「そうか、力に目覚めれば追い出せるのか」

 力さえあればゼルダは乗っ取られなかっただろうし、今もまた力が顕現すればおそらく追い出せる。

 でも操られ続けているということは、今をもってしてもゼルダは封印の力に目覚めていない。

「俺たちは、一体どこで間違えた……?」

 捌ききれなかった厄災の刃が肩を抉り、せっかくゼルダが仕立ててくれた青い衣がまた裂けた。治してもらったばかり傷口が割れて血が噴き出す。その痛みに、『大事なその人のことだけを思うこと』というミファーの言葉を思い出して、またはらわたが煮えくり返った。

 大切な人のことだけを考えられる時なんて、俺たちには誰も与えてくれなかった。急き立てられるように今まで懸命に生きてきた。目の前に迫りくることに最善を尽くすばかりで、後ろを振り返る時間なんか許されなかった。

「俺たちはずっと間違えてたっていうのかよ」

 ゼルダは亡くなったお母上の遺言に従って、俺は亡くなった父との誓約を果たすため、生きるのに必死だった。それが全部間違いだったというならば、俺たちの今までは、最初から全部間違いだ。

 汗と血のにじむ手の平から剣の柄が滑り落ちそうになる。真正面にゼルダが見えた。

 もう避けることもできない。射貫かれたら終わる。

 ならもういっそ、射貫かれよう。

「もういい、撃て」

 両腕を開いて剣を取り落として、がら空きになった胴体を晒した。厄災の笑う顔が、姫巫女に弓を引き絞ることを選ばせる。

 俺たち二人が大事な人のことだけを思うことが許されたのは、その人の死を見送るときだけだった。それは父が死んだときもそうだった。

 妹と母が燃え盛る家から出てこなかったときも、エボニ山の頂上でわずかな暇を与えてもらった。護衛業の旅すがら亡くなった同業者を夜悼むこともあれば、顔見知りの騎士の死を後から知ってひそかに哀しむこともあった。

 死は誰しも、平等に訪れる。

 ならば俺が死ねば、ゼルダは俺のことをちゃんと想ってくれるだろうか。

 どうだろう。少しだけ笑いかけると、向こう側には弓を引き絞りながら泣きそうになった顔が見えた。

 濡れた瞳が目に染みる。今なら俺のことだけを想ってくれる気がした。

「大丈夫」

「だめ――……ッ!」

 悲鳴とは裏腹に、矢は放たれた。

 一直線に俺目掛けて飛ぶそれは、わずかな手元の狂いで、狙いが眉間から腹の左に変わる。刺さっただけにとどまらず弾けながら貫通する。

 さすがの威力に後ろに吹き飛ばされながら、でも俺は光を見た。

「リンク、リンク、リンク!」

 これが姫巫女の力なのかと、わずかに開けた目が走ってくる影を見つけた。目を開けていられないほどの輝きはゼルダの中から溢れる。とめどない、温かい光。ああ、ようやくかと深く息を吐く。

 圧力のある光に、目の端に捕らえた厄災の体も壁際へ吹き飛ぶのが見えた。本丸の中に獣の叫び声が木霊して、それが厄災の声だと気が付くまでにわずかに間が必要なほど。人のものとは思えない叫び声が響き渡った。

 光り輝く人が俺の肩を抱き起こす。取り落した弓はようやく白く輝いていた。

「ごめんなさい私っ、こんな、傷が……!」

 涙でぐちゃぐちゃにした顔が近づく。その顔がどうしようもなく可愛いなと思って、自分がまだ生きている実感がわいた。同時に激痛が体に走る。音を立てて腹から血が噴き出した左の脇腹は、見事に削り取られていた。どろりと内臓が零れ落ちそうになる。

 痛い、でも死んでない。ならばまだやることがある。

「俺に構うな、立て!」

 手放した剣に指を掛け、すがって立ち上がりながら奴を見た。

 壁際に這いつくばる大男は、目を覆いながら獣のような叫び声をあげてのたうち回っている。血潮のように黒い怨嗟があふれ出し、口からあふれる声は言葉を失くして空疎を吠えた。

 ゼルダの体の内からあふれた光に中てられたのか、厄災の体はもはや原型を留めていない。しかし赤い瞳は確かに俺とゼルダを捉え、剣を振るえなくなった腕が爪を立てて空を引き裂いた。

「まだ終わってない、構えろゼルダ!」

 力の入らない足を踏ん張って声を上げれば、泣き顔が跳ね上がる。取り落した白い弓の弦に優雅な指がかかると、今度は溢れんばかりの光が灯る。それが厄災の額目掛けて飛ぶ。合わせて俺は足を動かした。

 俺の役目は厄災に退魔の剣を突き立てること。それが自分の役割だと、対峙したときにすんなりと腑に落ちていた。

 自分の知らない出来事に心が引っ張られて、感じたことが自分の記憶なのかどうか定かでなくなる感覚は空恐ろしい。だが奴が目の前で足掻くのを見れば、勝手に体は動いた。

 あれは、俺が闘わなければならない相手だ。

 振るわれる爪を掻い潜り、いくつかはゼルダの放つ矢に助けられて、奴の萎んだ体の間近くにたどり着く。落ちくぼんだ赤い目は怯えにも似て震えていた。一万年も封じられていてようやく出てこられたというのに、この男も哀れだ。でも同情はしない。

 自分の腹から溢れた血で足を滑らせながら、矢の一撃に床に倒れ伏した厄災の腹に剣を突き立てる。

 ガツンと手に重たい感触。咬み合わせた上と下の歯みたいに、間近で顔を突き合わせた。俺とガノンは、ゼルダとは別の意味での対だ。

「お前、やっぱり会ったことある、よな……?」

「あぁああぁぁぁぁ…………」

 呟いてはみたが、もはや言葉は通じている様子はない。

 奴の伸ばす手は質量を失って萎んでいく。溢れ出る憎悪が力を失くして本丸の床に広がっていった。

 奴が作り出した浅黒い顔の下に、本来の影武者の顔が見えた。恐怖に硬直したまま干からびたローム王そっくりな男の顔。急に外気に触れた顔は、あっという間に骨になっていく。

 これでようやく終わったかと、体から力が抜けそうになった。ところが辺りに漂う赤黒い霧が晴れない。ふわりと体を失くし、それは窓の外へ飛んでいく。

 駄目だ、逃げてしまう。あれを逃がしたら駄目だ。

 そう思って手を伸ばした瞬間、俺の体も淡い光に包まれた。黒い霧を追うように、宙に浮く。

「リンク!」

 振り返ると目いっぱいゼルダが手を伸ばしていた。体が形を失くしそうになる寸でのところで、柔らかな手を握る。シーカーストーンで移動するのとはまた少し違う感覚。

 逃げる厄災の、ガノンの後ろ姿を自然と追った。

 ひと瞬きのあとで、俺はゼルダの手を握ったまま黄昏のハイラル平原に立ち尽くしていた。腹の傷からは、いまだ音を立てて血が流れ出ている。でも体はまだ立っていた。

 なぜここに?と思って黄金色に輝く草原を見回すと、鞍のない栗毛の裸馬が一頭待っている。真っ白な鬣と鼻筋の白い。血が流れ過ぎた頭は朦朧として、一体何が起こっているのか理解できない。

 ところが不思議と馬の名前と、掛ける言葉は分かった。

「エポナ、エポナ、そばにおいで」

 馬は素直に歩み寄って鼻先を擦りつけてくる。

 体がふわふわと浮ついて、この草原がただの現世とは思えなかった。

「リンク……?」

「大丈夫、乗せてくれる」

 止めどなく溢れる血と一緒に、自分の命が流れ出ていくのを感じた。でもこうなったらもう、すべきことは一つなんだろう。

 ゼルダの制する手を振り切って体を浮かせると、エポナは分かっているかのように俺の体を乗せてくれた。手を引っ張ってゼルダも馬上へ引き上げる。

 オオンと獣の鳴く声がした。ドンと地面を蹴る大きな足音。

「あれで最後だ」

 振り返ると、小山ほどある巨体を震わせて、体から黒い炎を拭き上げる獣が何かに怯えながら藻掻いていた。大きな牙に割れた蹄、イノシシのようにも見える。そいつは苦しそうに叫び声を上げながら、てんで見当違いの方向に向かってまで火を噴き散らす。

 その様子を見て、奴も相当苦しいらしいと察しがつく。だとしたらもう一息。

「行こう」

「でも怪我が……!」

 聞こえない振りをして馬腹を蹴ると、エポナは素直に俺とゼルダを乗せて走り出す。鐙も手綱もないのに、鬣を少し引くと俺の行きたい方に走ってくれた。首を撫でれば嬉しそうに鼻を鳴らす。血の抜けた手足が自分の物ではないかのように動いて、軽やかに黄金色に染まる草原を駆けた。

 どこからともなく懐かしいなぁという気持ちが湧き上がってきて、自然と笑みが零れる。

「奴の腹には傷がある。そこを狙えばいい」

「どうして、それを?」

「分からない。けど、知ってる」

 エポナの腹にわずかに踵を当てて脚を速めると、勢いで崩れそうになる俺の体を後ろに乗せたゼルダが支えてくれた。その手の温かいことに安心する。もう厄災に憑りつかれてもいないし、とても自信に満ちた腕だ。大丈夫、今のゼルダならきっと生きていける。

 一気に煽り、黄昏の草原を駆け抜けて暴れる獣の足元に入り込むと、体が覚えていた通り、やっぱり白く割れ目のような傷が見えた。

「あそこだ、撃て」

 はい!と耳元で涙声がして、放たれた光の矢は一直線に腹を穿った。

 すぐさま叫び声と、崩れ落ちるどす黒い臓腑を避けて距離を置く。馬上で振り向くと、横倒しになって地面を擦る額が割れて、金に輝く目のような中枢が見えた。

「あれだ」

 馬首を巡らせて近づきながら一つ目を退魔の剣で薙ぐ。また天を割るような叫び声がひとつ、大きく痙攣すると同時にガノンは獣の形が崩れて空を舞う。竜のような、蛇のような、怨念の形そのものが渦巻きながら小さな俺たちに向かって牙を剥く。

 ゼルダに後ろから支えられながら、馬上で最後の力で襲い来るそいつを真正面から見た。

 崩れかけた俺の体越しに前方に突き出された彼女の右手の甲に輝く聖三角を睨む。随分な縁だ。また随分と無茶に戦わされた。

 でもいいや。たぶん何度同じことがあっても、俺はゼルダのためになら戦うんだろう。

 光に食われながら、赤黒い巨体が削り取られ、消えていく。

「さようならだ、ガノンドロフ・・・・・・

 名前ぐらいはなんとか思い出してやった。忘れっぽい俺にしては上出来だと思う。光が消えてゼルダが手を引くの合わせて、血に濡れた馬上から体が滑り落ちた。

 何にもない平原のど真ん中に肩から落ちて、大の字になる。もう微塵も体を動かせる気がしない。

 痛い。体が全部痛い。痛いけど、終わった。

 慌ててエポナから飛び降りて、俺を抱え込むゼルダの顔がまた大きく歪んで、翡翠色の瞳から大粒の涙が零れ落ちてきた。

「死なないで!」

 暖かな腕と膝が俺の頭を抱え込む。なんて極楽だろうとよこしまなことを考えて、死ぬのはちょっと惜しいと苦笑した。

「傷をどうにか、血が、血が……、止めなきゃ……!」

 ゼルダが無事でよかった。本当によかった。

 でも正直なところ、死ぬのは惜しいどころか嫌だった。全部終わってようやく自由の身になったというのに、もうこの体では生きるのが許されないなんて酷い話だ。弱い俺には厄災を討伐するだけでも、とんでもないめっけものだったのかもしれない。それでも女神はあんまりなことをする。

 でも最後ぐらいは兄としても騎士としても、見栄を張ろうと思って少しだけ言葉を選んだ。

「よかっ、た……」

「よくありません! 駄目、死ぬなんて許しません!」

 ゼルダの白い巫女服も手も、俺の腹の傷を抑えて真っ赤に染まる。血なんかで汚していい人ではない。彼女には綺麗なままでいて欲しいのに、俺の血がどんどん彼女を赤く染め上げていく。それが霞んでいく視界の中で、まるで花みたいに見えた。でも花なら赤じゃなくてたぶん、青がいい。

 だくだくと耳の奥で煩かった心臓の音が小さくなっていく。これはもう持たない。でも雨のクロチェリー平原で冷たい奈落に落ちていったのと違って、今は随分と温かくて気分がよかった。天にも昇る心地とはたぶんこんな感じのことを言うのだと思う。

 なによりも、今この瞬間、彼女の頭の中が俺でいっぱいなのが嬉しかった。

 力の限り持ち上げた左の指先がわずかにゼルダの泣き顔に届く。綺麗な頬に真っ赤な筋を一本残したが、それ以上はもう持ち上がらなかった。自分の胸の上の落ちた腕の重みに、情けなくてハハハと息を吐き出して笑う。

 過ぎた願いを抱え込んだまま、白く霞んでいく視界の中で俺は大事な人を見た。

「ゼルダ、また……」

 いつか。

 言おうとしたのに呼吸が続かなくて声にならず、もはや伝える術がなかった。

 でも因縁とやらがあれば、きっとまた会えるだろう。それはいつのことだかは分からない、それでも必ず会えるはず。

 ただ願わくば。

 生まれ変わってゼルダに会えるなら、今度は兄妹でも主従でもなく会いたい。兄でも騎士でもなく彼女の隣に居られたら、嬉しい。