14 姫巫女の天秤
雨降りしきる中、なぜ私だけがカカリコ村へ走っているのか。疑問を投げかける頭を切り落としたい衝動と戦いながら、懸命に足を動かしていた。
リンクに援軍を呼んで来てくれと頼まれた。だから走っている。それ以上の理由はない。
でもその実、援軍のあてなど無い。もともと、カカリコ村は援軍なんて大層なものが駐屯している場所ではなかった。インパか、その配下の隠密の誰かに出会えれば御の字だ。だからもう、援軍を呼ぶなんてことは形ばかり。分かっていて、私は泥飛沫を上げて走っていた。
「ごめんなさい、死なないで」
避難民の最後尾を追い立てながらクロチェリー平原を北へ走る。口の中で何度も謝罪の言葉を繰り返す。涙なのか雨なのか分からない水が顔を伝った。
リンクを殺したくないと言いながら、わざわざ死地へ追い立てたのは紛れもなく私。大きな矛盾がガリガリと爪を立てて頭の中を削る。
リンクか、民か。
一体どちらが大事なの、と。
単純に考えれば、騎士の一人の命で数百の民が救われるならば、王女である私は騎士に死を命じるべきだ。でもそれが彼だった瞬間に私の天秤は動きが鈍くなる。殺したくないものが天秤皿の双方に乗る。
自分の命が天秤にかけられるのならいくらでも使えるのに。いつだって剣をもって命が危機に晒されるのは自分じゃない、守る側のリンクだ。
「なんで、どうして私の命では代えられないの」
そう口にしたのは、もしかしたら自分の過ちから目をそらしたかったのかもしれない。
だから、行く手に騎馬の一団を見つけた時、目を疑った。
カカリコ橋をちょうど渡ったところで、雨に濡れた金属の甲冑からぎらぎらと剣呑な空気を漂わせた騎士たち。それを率いていたのは、げっそりと頬から肉が落ちて、顔に大きな傷跡があったものの、見間違えようのない人だった。
「おとう……さま……?!」
「陛下の道行きを妨げるな! どけ!」
先達をする従卒が私と避難民の一団に向かって怒鳴り散らす。特に変なことを口走った私を、馬上の騎士たちも甲冑の下から睨みつけた。肌にびりびりと緊張が走る。間違いなく彼らは王の親衛隊だ、気迫が違う。
だとしても王は、私の父はハイラル平原で厄災に憑りつかれていたはず。赤黒い光を放つガーディアンを従えていた姿をこの目で見た。
しかし、体形や顔の傷痕の有無こそ違うが、目の前にいるのは正しく私の御父様だった。
「あなたは、御父様ですか……?」
「娘、陛下に向かって何を言うか!」
「待て」
全身に泥をかぶり、真っ白だったはずの巫女服からは、黒と赤の混ざった水が滴り落ちる。邪魔な装飾は全てここに至る道中で捨ててきた。手に持っているのは弦の切れた弓がひとつだけ。身なりだけでは私を王女と証明するものは何一つない。
「そなた、……ゼルダ、か?」
こんな姿になっても私の名を呼べる人がいるとすれば、それは本物の御父様しかいない。
「本当に、御父様?」
「ゼルダなのか!」
葦毛の馬から飛び降りたその人の腕の中に飛び込んだ。
分厚い手が私の冷え切った体を包み込む。御父様だ。なぜそう思ったのかと聞かれても、どうしてなのかよく分らない。ただ、この人は間違いなく血の繋がった父だという直感があった。
どうして厄災に憑りつかれたはずの御父様がここにいて、しかもご無事なのかは不明だ。しかし間違いなくこれが自分の父であるということだけは分かった。
一瞬安堵してから、頭を振って顔を上げる。今はそれどころではない。
「御父様、お願いです、リンクを助けてください!」
「リンク?」
「この先で私の騎士が一人で戦っているんです。私たちを逃がすために平原に残ったの、どうか助けてください、彼を、リンクを!」
叫び声を聞いた御父様と騎士の一団によって、私の願いは叶えられた。
しかしあと一歩というところで、リンクの体が崩れ落ちる。抱き起すとわずかに開いていた青い瞳が私を捉え、すぐにがくんと頭がのけ反った。
「だめ、だめ、死なないで!」
力なく横たわる体を無意識になぞる。もし魂というものがあるのならば、抜け出ないでと願って首筋に指を添えた。その指先にわずかな鼓動を捉える。
「呆けるな! 村へ連れていけ!」
御父様のりつける声に顔を上げる。まだだ、まだ死んでない。諦めてはだめ。痛いぐらいに奥歯を噛み締めた。
乗り手のいなくなった鞍上に乗せ、鐙であおりを打つ。馬は短く嘶いて疾風のように走った。そこからはもう怒涛の勢いで時間が流れていった。
老インパに驚きと共に出迎えられ、傷病者のために開かれた家屋にリンクを運び込んで手当てをした。どちらを向けても傷しかない体からは、絶えず血が流れ続ける。
傷を縫う道具も、薬も足らない。彼の手当てがひと段落した後も、運び込まれる怪我人は後を絶たたなかった。幼い頃から薬の扱いを教え込まれたこともあって、私は方々で怪我人たちの手当てに駆り出される。
戦っている相手は人間ではないのに、まるで戦争だと思った。
意識があって受け答えができるならばまだ助かる見込みは高い。傷を水で洗い、縫える傷は縫い、包帯を巻いて、痛みが酷ければ眠り薬を含ませる。手遅れならば事切れるまで手を握り何人も見送った。途中で何度もリンクの元へと戻り、口に手をやって息をしているのか確かめる。何度も何度もかすかな息を確かめに行っては胸を撫でおろし、他の怪我人の手当てに行く。
夜が更けてきたころ、ようやく怪我人の流入が止まった。クロチェリー平原の平定から数時間後のことだった。
疲れ果て、手足に鉛を流し込んだように重たくなる。気付けば微動だにしないリンクの隣で膝を抱えて眠っていた。
「御ひい様」
肩を叩かれて、泥のような眠りから顔を跳ね上げる。
やつれた顔をしたウルボザが立っていた。
「ウルボザ……!」
「無事だったんだね」
あなたもよく無事で、と言おうとしたけれど、言葉にならなかった。真っ暗な画面のシーカーストーンを受け取りながら、「嗚呼」と意味のない声ばかりが嗚咽と一緒に吐き出される。そんな無様な私をウルボザは黙って抱きしめてくれた。温かい手がぽんぽんと頭を撫でてくれる。
私が死地に追い込んだ人が戻ってきてくれた。ごめんなさい、ありがとう。どちらも言えずに涙ばかりが流れて行った。
「ダルケルとリーバルは無事だった。いま手当てを受けているが、大したことはない。ただミファーだけはすでに内部でガノンの分裂したやつと戦っていてね」
渋い声。でも、最悪ではなさそうなのが透けて見えた。
「無事、だったのですね?」
「分かるかい」
「だってもしミファーが本当に間に合っていなかったら、ウルボザはまず先にそのことを言うでしょうから」
ウルボザは苦笑しながら頷く。よかった。また一筋、まなじりから涙が零れた。
聞けば、ウルボザがルッタにたどり着いたとき、古代炉を乗っ取った厄災の分裂したものとミファーは互いに槍を突き立てあっていたという。だがお互いの刺しどころを考えるに、ウルボザがもう少し遅かったら死んでいたのはミファーの方。
でも間に合った。ギリギリのところでヴァ・ルッタを乗っ取った厄災の分裂したものを討ち取って、ミファーはゾーラの里で手厚い看護を受けているという。
「そう、だから、ミファーはリンクの手当てには来られない」
私の傍らには赤黒く染まった包帯まみれのリンクがいた。一目見て傷の具合を察したウルボザは、難しい顔をする。
意識のない硬い体を私は柔らかく撫でて、土気色をした顔を覗き込んだ。どれほど体に触れても、声をかけて、隣で泣こうとも、青い瞳は開かない。老インパによれば、意識が戻るかどうかは五分五分。あまりにも体から流れた血が多すぎるという。
「リンクは約束通り、ちゃんと御ひい様を守ったんだね」
その言葉が鋭く胸に刺さった。
守った。守らせた。どちらも正しく、私の心を責め立てる。
私に似た私ではない私の言葉を思い出す。
『リンクはあなたを守ります』
『どうして?』
『そういう人だから』
そう、本当にそういう人。憎いぐらい彼女の言うことは的を射ていた。
何を言おうとも、最後には私の願いに首を縦に振ってくれる。そこに付け込んで私は、彼に民を守らせた。彼をして、一度は滅びてもよいと言わしめたものを、だ。
王女として、あるいは騎士として、民を守るのは当たり前の行為だろう。でもただの一人の人間に立ち返ってみれば、襲い来る巨大な機械兵器から他者を助けながら逃げるのはあまりにも愚行。それを愚かな我儘と分かって、私は彼の気質を理解して飲ませた。弱みに付け込んだと言ってもいい。
「私は卑怯者です」
「できることをしてきたんだろう?」
「そのつもりでした。でも今のこの状況は全部、私の判断が招いたことなのです」
ドドンとまた低い音がして、太い梁がミシミシと音を立てて木くずが降ってくる。ハイラル平原につながる西側の切通では、夜通し散発的な戦いが続いていた。
「ともかく、陛下がお呼びだ。大丈夫かい?」
「御父様、が。……ちゃんとお話を伺えるとよいのですが」
リンクの口元に手をやり、まだ息があることを確かめる。傍を離れている隙に、女神に連れ去られないか、ただそれだけが心配だった。
怪我人の集められた家屋を出ると、外は小さなかがり火がいくつも焚かれていた。あまり明るすぎても標的にされやすいのだろうし、かといって敵は昼夜関係なく襲い掛かってくるので間断なく明かりが必要になる。今もまた、武器や盾を西側の戦線に運び込む荷車が目の前を通り過ぎて行った。
村に駐屯するのは御父様を守るべく構成された騎士の一団で、年齢も様々で一概に近衛とも言えない面々ばかりだった。城詰めしていた騎士の顔もあったが、そうではない者も多い。一体どんな集まりなのか不明だが一様に士気が高く、彼らは私を見止めると礼を取って道を開けてくれた。すでに私がゼルダ姫であること、加えて無才の姫であることも知れ渡っているのだろう。視線が痛かった。
長い階段を上り村長の家の扉を開けると、いまだ甲冑姿の御父様を中心に騎士たちが地図を囲んでいた。その中にダルケルやリーバル、老インパ、あるいはインパの姿もあった。
「大事ないか、ゼルダ」
「はい私は問題ございません。ただ、布も薬も足りません」
「ハテノ砦の陥落は免れた。双子山の間隙も防衛線が維持されている。東のハテノ村、あるいは南方のウオトリー村から物資を運ばせよう」
ありがとうございますと頭を下げながら、目の前の厳めしい顔つきの人を見た。
単純に考えてみる。いま相対している顔に大きな傷跡のある御父様が本物だとすれば、城で長年共にあった御父様の方が偽物なのだろう。どうして本物と偽物がいるのかはさておき、本物の御父様は、偽の御父様よりもずっと緊張を強いる方だった。
これが本来の王の貫禄を思えば納得もできる。実の娘だろうが何だろうが、委細構わずひれ伏させるだけの力があった。一度は暖かい抱擁もあったが、今は有無を言わさぬ瞳が私を睨んでいる。
騎士の一人がどうぞと準備してくれた座布団に座る。場所は御父様の隣。自然と背筋を伸びて、居住まいを正した。
「何がどうなっているのか、お聞かせ願えますか御父様」
ふむ、と頷く白いお鬚。まるでそっくりなのに、全然違う。夢の中の彼女と私みたいだなと、まだぼんやり考えていた。
「今、城にいるあれは、儂の影武者だった男じゃ」
「影武者? そんな人がいたのですか?」
「ハイラルの王統を継ぐ者には、成人する前より影が付く習わしがある。ところがそれを逆手に取られた」
私の記憶の定かでない部分を補いつつ、話を聞くところによれば、今から遡ること十一年前の話だという。
本物の御父様は、何者かに襲われて行方不明になっていたのだという。私はかすかに残る記憶をたどり、騒然とした城の雰囲気を思い出していた。
こっそり覗いた奥のお部屋。蒼白になったお母様の悲痛な雰囲気。国で最も偉いはずの御父様に向かってなぜか命令をするお母様の物々しい横顔。
光景だけがおぼろげに蘇る。
当時まだ六歳の私には影はおらず、存在も知らされていなかった。だから御父様が影武者と入れ替わり、王の不在を悟られぬように腐心するお母様が何をやっているのか、いったい何が起こっているのか理解できていなかった。
次の日には当然のように国王としての御父様が戻ってきて、当たり前のようにご政務に当たられていたので、普通の日々に戻ったのだとばかり思っていた。
「影は本来、王の不在を周囲に隠すため、あるいは必ず死ぬであろう戦場へ代わりに向かわせるための存在じゃ。それゆえ影自体が厄災の手にすでに落ちているとは気付きもせず、儂の不在の穴を埋め、それどころか立場を乗っ取られた。まさかこれほどの手の込んだことをしてくるとは思わなんだ……。大方、日陰者の心にでも入り込んだのであろう」
「ではその間、本物の御父様はどこにいらっしゃったんです?」
「時の神殿に匿われていた。が、長らく意識が無くてな。無事に動けるようになったころにはもう後の祭り。王妃も姫も厄災の手の者に殺され、風貌の変わった儂を王と分かる者はほとんどいない。手詰まりじゃった」
結局、王の最側近だった近衛騎士が御父様を見つけ、王と認めてひそかに反撃の時を伺っていたらしい。そのために集められた手勢が、いまカカリコ村に集まった騎士の一団だという。
人知れず集められた王の親衛隊への入隊規則はただ一つ、真に王国に誓いを立てているかどうか、それのみ。道理で階級もてんでバラバラなうえに、リンクがそこに含まれていないと納得がいった。
とはいえ、目を伏せる。
厄災のやり口は狡猾で、まさかこんなことをしてくる相手だとは思っていなかった。
私は心のどこかで、厄災は災害のようなものだと考えている節があった。厄災ガノンが、大昔のゲルド族の男だったという話はウルボザから聞いていた。しかしその当人が生きているわけもなく、ただ一人の人間を相手取るならば、ガーディアンも神獣も役不足と言えよう。
だからこそ厄災というのは人の言葉を解さず、人間の営みをただ破壊するだけの巨大な天災のようなものだと思っていた。神獣やガーディアンで対抗できるとずっと考えてきた。
ところが蓋を開けてみれば、人より人らしく心の機微を熟知しているとしか思えない。そうでもなければ、私を案じるリンクの幼い心を覗き見て退魔の剣を取り上げることも、心配する父親という真綿で言葉を包んで私の修行を妨げることもできない。
厄災は、人の心をよく分かっている、まるで人だ。
根本的に考え方を改めなければならない。だからと言って、狡猾な厄災にどうやって立ち向かえばよいのかも分からない。静まった部屋の中で、バンっとリーバルが床を叩いた。
「じゃあ僕たちは、厄災の指示でいい様に働かされていたってことかい? こんなバカバカしいことあっていいのか!」
「控えよ、陛下の御前であるぞ」
「陛下? 玉座も王冠も軍勢も民も、全部厄災に掠め取られておいてよく言うよ。一体、僕たちは何のために戦わされたんだ! まったく、やってらんないね」
リーバルの声高に文句を言いながら立ち上がる。彼は面々を見回して、最後に私を誰よりも鋭くねめつけた。
「城の外に逃がされていたとはいえ、姫はどうしてあれが厄災だと気づかなかったんだい?!」
「リーバル」
私の斜め横にいたウルボザが咎める声を上げるが、リーバルのいらだちは止まらない。でも当然のことだと思って悄然と受け止めた。
「ウルボザだって、同じだろう! ゲルド族の長といえば王との面識も多いはず。それなのになぜ気づかなかった!」
「それを言ったら、あんただって何度も会っていただろう」
「そうさ、だから一番腹が立つのは自分自身だ。あれが厄災と分かっていたら、玉座にふんぞり返っている間に頭を吹き飛ばしてやったのに! くそっ」
オオワシの弓を背負い、苛立った足音が扉を押し開けて出て行った。羽音がしたのでどこかへ飛んで行ったのだろう。
戻ってくるかもしれないし、リーバルの性格を考えれば帰ってこないかもしれない。それでも彼は自由に動くことを許されている身。それが少しだけ羨ましかった。
では、私は。
今の私には一体何ができるだろうかと手を見る。拭ったはずの誰かの流した血が、しぶとく爪の間に残っていた。
リーバルの言う通り、私は目の前にいたはずの厄災に全く気が付かなかった。それもこれもすべては私に封印の力が無いから。しかし思い返しても、その時々の状況に応じてできうる限りの手を尽くしてきたはずだ。間違いはあったかもしれない、だが決定的にどこで何を間違ってしまったのだろう。
「ゼルダよ」
「はい、御父様」
「それで、あの者はまことに勇者か?」
ああ、誰かからリンクのことを聞いたのねとすぐに頷いた。
こんな状況になってまで隠しておくこともない。私が力を得られていないことも、勇者が剣を失くしたことも、全て秘密は開示しよう。
そのうえで指示を仰ぐしかない。目の前のできることをする。今は情報をお互いに共有し合うことだとして、重たかった口を開いた。
「御父様もお分かりかと思いますが、封印の力のない私には何も感じることはできません。ただ、彼が青く輝く剣を抜いたと、それだけが手がかりでした」
「退魔の剣、か。剣の行方も分からぬと聞いたが」
「分かりません。彼が私を守るために厄災に言い含められて手放して以来、行方知れず。おそらく城のどこかにはあると思うのですが、いくら探しても見つかりませんでした」
重苦しい空気が、特に騎士たちの間に広がった。リンクの噂話は城に詰めていた者であれば大抵は知っている。
流水の騎士殿。恐ろしいほど腕の立つ流れ者で、他を意に介さず、平民好きな姫についた近衛騎士。とびぬけて腕は良いばかりに嫉妬と誹りを一心に受けていた青年が、まさか国の大事に剣を振るうはずだった勇者だとは誰も思っていなかったようだ。
もちろん隠していた私も窘める立場ではない。しかし彼らの中にはリンクを疎んじていた者も少なくないはず。
味方同士だというのにお互いに思うところがたくさんあって、でも今はそんなことを言っている場合ではないことも重々承知しつつも腹に一物を抱えている。善意と猜疑で出来上がった今の状況は、まるで枯れかけた井戸の底の水みたいにひどい腐臭がした。
その淀んだ空気の中で、御父様はぱんと大きく手を打った。
「ともかく、アッカレ砦を取り戻し、残存する兵力を救い出す。ゾーラと手を結び、挟撃すればまだ間に合うであろう」
広げられた地図はシーカーストーンから抽出されたものだ。これまで見たことないほど大きく精度の高い地図の各所に、ガーディアンの侵攻状況が兵棋で置かれていた。ハイラル平原からアッカレ砦にかけては相手制圧下にある。だがゾーラの里はまだ落ちていない。同様に熱の影響なのかデスマウンテンも中腹まではまだ無事。
地図を覗き込みながら、ダルケルは緊張気味に太い指でアッカレ砦の周囲をなぞる。
「それなら俺たちゴロン族も手を貸すぜ。三方から攻め込めばどうにかなるんじゃねえかな」
「ゴロン族の力が借りられるならば心強い。至急ドレファン王に繋ぎを取りましょう」
老インパの声に、部屋の暗がりにいつの間にか控えていた隠密が「はっ」と返事をして音もなく消える。
ウルボザは一族の状況を確認すべく、ゲルドキャニオンを通らずにゲルド砂漠に戻る方法を考え始めていた。ガーディアンが多く入り込んでいるゲルドキャニオンから敵を掃討し、ハイラル平原へゲルドの一団が到着すれば心強い。リト族への連絡はどうするか、時の神殿へ残してきた別動隊は、はたまたハイリア湖以南のフィローネ地方へのガーディアンの侵攻状況は。様々な言葉が交わされ始め、私だけがぽつねんと置き去りにされた。
私にだけ役割が与えられない不安な気持ちに、嫌だと首を振る。私だって役に立たなければ、ここまで生かされた意味がない。意を決して「御父様」とすぐ横の大きな人影を覗き込んだ。
「どうかアッカレ砦には私もお供させてください。これでも弓ならばそれなりに役に立ちますし、怪我の手当てもできます」
今できることをする。ならば最善はこれであろうと、熟慮した結果だった。
それなのに場はしんと静まり返る。誰からも同意の声はなく、騎士の中には私を睨む者さえいた。
「ならん」
一言。発された声は巌のようだった。
「どうしてですか!」
「ならんものはならん」
「お願いです、私にもできることをやらせてください!」
「愚か者! できることをというのならば、今一度己の本分を見定めよ!」
脳天に稲妻が落ちたかと思った。
自分のできること、己の本分。それが何なのか、思い返して息が止まる。
「ハイラル王家の姫たるそなたが本当になすべきことは、弓を取って戦うことでも、負傷者の手当てでもない! 封印の力を得て厄災を封じることであろう!」
まだ分からぬのかと怒鳴る声に、賛同する頷きこそあれ、庇ってくれる人はいない。
「儂も長らく動きを封じられておった身ゆえ、そなたばかりを責めるわけにはゆかん。じゃが、まんまと厄災の口車に乗り、祈りの修行をおろそかにしてきた仕儀がこれじゃ!」
手当てをした怪我人たちのうめき声が夜半の風に乗って耳の奥を揺らす。
泥だらけの巫女服を脱ぎ、今はシーカー族の着物を着ていたが、背まである金の髪を見れば、私の正体には誰もが気が付いた。
そのたびに、呪詛のような言葉がかすかに聞こえてくる。
痛い、苦しい、どうしてこんな目にあわなければならない、姫巫女はまだか? 勇者はどこにいる?
ハイリア人の耳は女神の声を聴くために長いなんて嘘だ。耳は私を呪う声しかとらえない。
耳をふさぎたくなるのをどうにか堪え、不規則な床板の模様に目を落とした。その頭上へ重々しい言葉が降ってくる。
「王として命じる。今一度ラネール山へ参り、知恵の泉で願い乞うて参れ」
「そん、な……、お母様のお言葉の通り行ったのです。それでもだめでした。なのに同じことを、いまさらそんな時間がありません!」
「時間なぞいつだって足りん! 封印の力を得て厄災を封じることこそが、王家の姫として生まれついた者の責務じゃ。心せよゼルダ、そなたに課された役目は、他の誰も肩代わりできぬものぞ」
呆然とする私を置いて、場はまたアッカレ攻略の話に動き出す。辛うじてインパに手を引かれて、私は奥の部屋へ下がることが許された。むしろ邪魔だからこの場から立ち去れと手を振られたようなものだった。
トンと戸の閉じる音が背後でした途端、大粒の涙が床に落ちる音を聞いた。
「インパ、私は」
蝋燭が一本だけ灯される。その揺れる炎に影を作ったインパの顔は暗い。
彼女が衣装箪笥に手を掛けたのを見て、ようやく自分が怪我人の手当てで随分と血を浴びていることに気が付いた。必死に手当てをして、赤黒く染まった袖さえも間違いだったと言われている気分になる。
「できる限りのことを、私はやってきたつもりです」
「姫様、ともかくお召し物を換えましょう」
手渡された服は純白だった。金の装飾まで準備されている。私がここまでに脱ぎ捨ててきたものと同じ、姫巫女のための衣装。
民を守るために、あるいはリンクの助けとなるべく犠牲にしてきた巫女姿に、インパまでもが戻れと言う。思わずめまいがした。
「私が今までしてきたことは、何の役にも立たなかったと……?」
「姫様、そうは申しません。でも」
「インパ、あなたまでそんなことを言うのですか……?」
力の入らなくなった膝がゆっくりと床を擦る。
理性では、インパが御父様からの命に逆らえないことは理解していた。しかし感情が追いつかない。
私はカカリコ村にたどり着くまで、逃げ惑う民を一人でも救うべく奔走した。その前は厄災の復活した城へ駆けつけた。さらにその前は厄災を封じる力を得ようとラネールに登り、その前は、その前は。
どう思い返しても、目の前にあった最善と思う手段を選んできたつもりだった。
それなのに現実は積もり積もった間違いだらけで、もはや修正の効かないところまで来ている。何よりも、リンクが目を覚まさない事態を引き起こした直接の判断は私だ。
「一体、何をどう間違えて、こんなことに……」
「それは女神しか存じ上げぬことです」
血だらけの衣をはぎ取りながらインパが小さくつぶやくそれが、頭の中でぱちんと弾けた。
「その女神になれというのは皆ではありませんか!」
乱暴に振り向いて彼女の手を振り払う。そんなことをしたって、インパが正しいことは明白なのに。それでも口からは言葉が溢れて止まらなかった。
暗い部屋に汚い心が噴き出す。
「もし私に力があるのなら、最初から全てやり直すことでしょう。それができないから、私は紛い物なのです。城の者たちが私を落花と蔑むのはずっと知っていました。でも私は落花ではない、元から花ですらなかった!」
「姫様は姫巫女です、それは間違いありません!」
「いやです、私は姫なんかじゃない! 私がゼルダと名付けられた、きっとそれ自体が間違いだったんです!」
一息にそこまで言い尽くして、また私は間違えたと己を呪った。
インパが怒りを押し込めてこちらを睨んでいた。
大きく息を吸って吐く音が規則正しく一回ずつ聞こえ、止まっていた手と口が同時に動き出す。大きな傷こそないが、インパの手にも血が滲んでいた。彼女もまた、最前線で乗っ取られたガーディアンたちと戦っている一人。同時にこの短い間に、多くの仲間を失ってきた人だ。
「だとしても、姫様を守るために死んでいった者たちが大勢いることは、紛れもない現実です。それだけはどうか、お忘れなきよう」
事実、まだプルアは行方不明のまま。ロベリーはアッカレ砦に出向していたところで、連絡が取れずにガーディアンたちに取り囲まれている。そんな状況で、役割を放棄したいと喚く私を平手打ちしなかったインパは大人だ。そんな弱音、一言でも声を上げてはならなかった。
こうやって小さな間違いをたくさん重ねて、私はきっとこの状況に皆を落とし込んでしまったのねと肩を落とす。
「知恵の泉には再度参ります。私のできることを、やります。……すいません、インパ」
「いいえ、私も出過ぎたことを申しました。お許しください姫様」
夜が明けたらお迎えに参りますと言い残し、インパは音なく去って行った。背中を見送り、部屋の隅で膝を抱える。姉妹のように育った彼女すら去っていった。
腹立たしくて、不甲斐なくて、どうしようもないのに無駄に涙だけはたっぷりと溢れる。
インパは怒ったが、やはり最大の間違いは私だろう。厄災と戦うハイラルから私は早々に退場すべきだったのに、気が付けば様々な人の善意に守られ生かされ、かえって無用の長物と化している。その最たる影響を受けたのはリンクだ。
思い出したように部屋を漁り、闇夜に溶け込む色の長い外套で純白の衣を隠して彼の元に走る。リンクはまだ微動だにせず眠り続けていた。
「今の私には、何もできないようです」
口元に手をやると微かに空気の出入りするのが分かる。それでようやく生きているのが確認できる程度。彼のぼろぼろになった手に、指を絡めた。
この顔を見るにつけ、自分の大事なものが何なのか分からなくなった。
大切といいながら否応なく命を秤にかけて、私は彼の命を削らせた。また夢の中の彼女の言葉が思い出される。
『そういう人だから』
それってどういう意味よ、と喚きたくなるのを我慢して彼の指を撫でた。頭のどこかで、その理由は理解している。でも認めたくはない。
たくさんの間違いの末に、私にとっての『そういう人』の命を縮めたのだとすれば、最初の間違いは出会ったことだ。私とリンクが出会わなければよかった。
そうすればリンクは私のために命を削ることもなかったし、私も彼の人生を振り回すこともなかった。
「最初の間違いは、あの時なのかもしれませんね」
六歳、お母様の近衛騎士であった養父に手を引かれ、ハテノ村で出会った少年。半年ばかり歳が上だからといって、彼は私の兄になった。あの時リンクに出会わなければ、今頃はその剣の腕前と実直な性格からして、御父様の側近になっていたに違いない。
そうしたら、私と彼はどんな関係になっていたかしらと皮肉に笑う。
「……と、いくら『もしも』を繰り返しても、現実は覆らないのですよね」
薄い布団の上の微動だにしない手を握り、撫でて、夜明けまでこうしていようかと座り直した時だった。シーカーストーンの画面に、青白いマークが浮かび上がる。
ウルボザに返してもらってから確かめた時には、地図機能には反応がなかった。おそらく城の中央制御が厄災に落とされているからだろう。
だから期待はしていなかったが、何があったのかと恐る恐る操作してみる。先ほどまで反応がなかったシーカータワーの全十五地点も、四体の神獣も全て正常に起動していた。
どういうことか、すぐには理解ができずに口が半開きになる。
呆然としながら家屋を出て、足早に裏山へ上がった。高いところから見ると橙色になって機能を失っていたシーカータワーが、今は青い清澄な光をたたえていた。
「移動機能が、使える?」
望遠機能で拡大してみても、確かにシーカータワーの先端部分は開いて正常に起動しているように見えた。正しく動いているということは、つまり城の中央制御が解放されたことになる。厄災に乗っ取られた城で、いったい誰にそんなことができるというのだろう。
もしそれができる人がいるのだとすれば、それはあの場にいる何者か。
「まさか、厄災が……?」
手招きする赤黒い手を見つけた気持ちになって全身が粟立った。ハイラル城に憑りつく怨念の塊が私を呼んでいるように聞こえる。
だとしても、何の意味があって私を呼ぶのかは分からない。力のない姫巫女に誰も見向きもしないのに、厄災が私をわざわざ相手取るとも思えない。一思いに殺そうというのであれば、カカリコ村に全精力を注げばいいだけのはずだ。
私に価値などあるものか思い、いいやと首を横に振った。
「厄災は、災害ではない。あれは人だわ」
眼下のカカリコ村で疲弊した人を見れば、厄災は猛威を振るう暴力的な存在のようにも見える。だが感じた通り、直感を信じるのならば厄災は元を正せば人だ。人でなければ、これほどうまく人心を追い込む術を知るとも思えない。
「相手が人なら、話が通じる」
シーカーストーンを握る手に力が入った。
もし厄災と話ができるのならば。いいや、すでに私は一度ハイラル平原で会話をしている。会話することができる相手だったことに驚いた。
その厄災が私を呼ぶのであれば、私には何らかの価値があるのだ。
「ごめんなさいリンク、私行きます」
ようやく、自分の命の使いどころを見つけた気がした。指が勝手にハイラル平原の塔を選ぶ。
誰にも知られず、私は青い粒子に変じて空を飛んだ。
力が無いとはいえ、自分でも認めたくないとはいえ、インパの言う通り私は曲がりなりにもハイラルの姫巫女だった。だからこそ私は生かされ、私を守るために多くの人が血を流した。
お母様によって逃がされ、養父によって導かれ、リンクによって生かされた。その命をようやく天秤にかける機会が巡ってきた。私一人の命で民の命が贖えるのならば願ってもない機会だ。
瞼を開ければ、風が逆巻く平原の只中。塔の足元を覗き見ると無数のガーディアンの青い目と、それを彩るまがまがしい赤い光が見えた。
あんな量のガーディアンに囲まれれば瞬時に焼き殺される。ところが青い単眼たちは、私の姿を捉えても赤い照準を合わせようとしなかった。
恐る恐る塔を降りても変わらず、青いレンズの単眼が私の顔を覗き込んでいる。
「案内なさい。お前たちの主のもとに、私を連れて行きなさい」
半ば賭けだった。
ガーディアンに言葉が通じるとは思わなかったし、間違えば私は頭を吹き飛ばされて死ぬ。だとしても他に方法が思いつかなかった。半歩前へ出る。
ところがガーディアンの長い足が優しく差し出された。
驚いて戸惑っているうちに、長い脚がするりと私の体を巻き取る。ガーディアンはこともなげに黒い図体の上に私を乗せて、静かに歩き始めた。慌てて頭部の突起に縋り付く。
のしのしと歩くガーディアンの上からは、私の運ばれるのを遠巻き見るに魔物の姿もあった。ところが光る眼は見えても襲ってくる気配はない。これほどの渦中にあるというのに、平原はとても静かだった。
本当に、厄災が私を呼んでいる。
腹の底から怯えが沸き立つ。でももう引き返すことはできない。
禍々しい霧に包まれたハイラル城の周囲には、以前の探査では見つからなかった五本の古代柱がそびえ立っていた。ある種の壮観な眺めに、思わずウツシエを一枚撮る。と言って、こんなものあってもしょうがない。
シーカーストーンの画面と閉じてハイラル平原のど真ん中でポイと放り投げた。もう私には不必要なものだ。誰かがシーカーストーンを拾って、描かれたシーカーマークを頼りにシーカー族の手に渡り、インパの手にでも戻ってくれれば上々であろう。
夜明け前の不穏な風に髪をなびかせながら、私はガーディアンにいざなわれて城へ戻った。堂々と真正面から、無数の青い単眼の視線を浴びながら門をくぐった。
城の中はあふれ出した怨念の塊や、鋭い魔物の視線、固定型も飛行型のいずれのガーディアンも乗っ取られていた。しかし襲ってくる気配はない。全てが厄災の指示で、私を招き入れている。
静まり返った城の最上部、本丸まで来るとガーディアンの脚が止まった。
「ここですか」
滑り降りるとガーディアンが数歩下がっていく。よく躾けられた下男のよう。そして躾けた当人は中にいる。
震える右足を前へ。転ぶのを恐れて左足を続けざまに動かし、気が付けば私は本丸の中に入っていた。
赤を基調とした旗は返り血を浴びて重々しく、揺れることすらできないまま固まっている。おそらくここには、私の成人を祝う宴に招かれた多くの貴族たちがいた。多くが殺されたというが骸はなく、舐めたように床も綺麗になっている。ただ、匂いまでは隠しきれない。むせかえるほどの血の匂いがした。
「あなたが、厄災ガノンですか?」
血と怨嗟の漂う玉座に男が一人、頬杖をついていた。
ハイラル平原で言葉を交わした時とは姿形が異なる。女ばかりのゲルド族にもし男が生まれていたらきっとこんな見目だろうと思った。褐色よりも深い色の肌に赤い髪、黄玉のような鋭い瞳。
ところが体の方は怨念渦巻く不定形の様相を呈し、御父様の影武者だった男の体の上を赤黒い何かが覆って這いずっていた。時に痙攣するようにのたうつ体は、厄災もまた万全の体勢で復活できたわけではないことを予感させた。
「お前たちがそう呼ぶのであればオレはガノンなのだろうが、長らく封じられていたのでもはや名前も定かではない」
聞き覚えのある声に、いつだったか高熱の折に見た悪夢を思い出す。
燃え盛る炎の壁の向こう側から呼ぶ恐ろしげな声。あの時聞き覚えのなかった懐かしい声は、今ここで再現されていた。
男は玉座に座ったまま、自分の黒い炎のように揺らぐ自分の手のひらを開いたり閉じたりして、首をかしげていた。そのたびに額のトパーズの飾りがぎらぎらと凶悪な光を反射した。
「名前はおろか、自我さえなかった。だが長らく人の形をしたものに憑りつけば、おのずと意識も蘇ってくるというものだ。幸いなことに、この体の主は随分と王家に恨みを抱いていたのでな、馴染みはよかった」
「乗っ取った男が何者であるか、気付いていなかったのですか?」
「そんなものを察するほどの自我さえなかっただけだ」
ふっと厄災は目を細める。厄災が知らなかったとはいえ、影武者の男とは惹かれ合うものがあったのかもしれない。
影武者といえば王の代わりに殺される者だ。表には決して出てこない存在、人生そのまま主君に乗っ取られる存在、自分などあってないに等しい。影武者を仕立てる風習が王家にいつからあるのかは知らないが、影が王家を恨むのは当然だ。
私も順当に城の中で育てば、私そっくりの影を従えねばならなかったに違いない。そう思うとゾッとする。
途端、厄災はなだめるように手を振って、口角を上げた。
「そう身構えるな姫君よ。何も取って食おうと思って呼び寄せたわけではない」
「ならば、どうして私を呼んだのですか?」
ガーディアンに揺られて移動する間に、塔に通っていた青い古代エネルギーの光は途絶えて橙色になっていた。私が移動してきたことを確認した厄災が、城の中央制御を再び落として誰も追って来られないようにしたのだろう。
そうまでして、力のない姫巫女を手中に置きたい理由とは一体何か。私にどんな価値があるという、それが知りたい。
ところが厄災はふと視線を逸らす。
「いや、ただ話し相手が欲しかっただけだ」
「話し相手?」
「この姿形では、あまりにも長く人と話をしてこなかったのでな。どうも言葉が、うまく出てこない」
少しの間あっけにとられてしまった。
ただ話し相手が欲しいばかりに私を呼んだ。それが本気ならば厄災は、いやガノンは随分と人間じみている。人間臭いと言ってもいい。
同時に私は、彼と話が通じることに歓喜した。
私もガノンと話がしたかった。正確には彼にお願いをするべく、落ちた城へとわざわざ出向いたのだ。
ガノンの方へ一歩進み出る。
「ならば私から、一つお願いを聞いてもらってもいいでしょうか」
まるで私からの言葉を待っていたかのように、ガノンはどうぞと手を差し伸べる。厳めしい雰囲気に似合わず、不思議と指先まで優雅な動きだった。
臭気と一緒に生唾を飲み込む。
ひとたびから出た言葉は取り返しがつかない。私はもう間違ってはならないのだ。
あるいは、これまで積み重ねてきた間違いを一気に正す、決定的な一打を打ち込む。そのためならば命を惜しんでいる場合ではない。胸元でぎゅっと手を握りしめた。
「あ、あなたは、人なのでしょう?」
「人? オレが人に見るのか?」
ガノンは目を丸くして自分の手をじろじろと見まわした。
乗っ取った体自体は黒く変色して、体を形作っているのは怨念と怨嗟が実体化した腐臭を放つ何かだ。それが人間らしいとは全く思わない。ただ、一方では怨念が人の形をしていると思えば、人の本質がそれなのだとも思えた。
キラキラ輝くものばかりが人ではなく、時にこうしてドロドロに腐った思いばかりを抱え込むのも人だ。私もまた、心の底に他者を疎む気持ちを飼っているからそれはよく分かる。
だから、違う、と首を横に振った。
「姿形の問題ではありません。人心を捉える術を心得ているという意味で、あなたは人なのだと感じました」
「そう買い被られても困るが」
苦笑しつつも、ガノンはまんざらでもない様子で暗い笑みをたたえていた。
それで間違いないと思った。やはり彼は人だ。褒められれば嬉しそうにもするし、一人で城に留まれば寂しくて話し相手を呼び寄せたくもなる。
そこに私は、話をする余地を見出す。
「それで、人であるオレに対して姫君は何を望む?」
黄玉のような目が面白おかしく私を笑って見ていた。
一度、大きく深呼吸をする。
「ハイラルの民に、これ以上手を出さないでいただきたいのです。代わりに私の命を差し上げます」
もしも私に価値があるのなら、それは死んでから発揮される類のものだろうというのは予想に難くない。力のある姫巫女ならば、ハイラルを守るためにガノンと対峙しただろう。しかしそれが叶わない以上、私の命の使い道は大きく変わる。
厄災を封じる切り札をこちらが捨てる代わりに、厄災には民の命を救わせる。
ガノンにとっても、いつ力に目覚めるとも知れない姫巫女がずっといるよりか、いっそ殺してしまった方が安全のはずなのだ。とても簡単な取引。
それが可能ならば、私は進んで天秤に乗る。
だが、ガノンは顎鬚を擦りながら首を傾げた。
「姫君はそれでよいのか? そなたが死ねば王家は滅びる、それでもよいのか」
「治める者が替わろうとも、人は生きてゆけます。それに、あなたがその玉座で人として生きていくのであれば、手足となるべき人が必要になるはずです。むやみに人を殺しては、あなたの治世を支える者がいなくなる」
「そのために、命を差し出すと?」
真っ直ぐに睨み据えて、はい、と答えると、またガノンはわずかに目を見張った。
まるで予想していなかったとばかりに、ついには呆れた様子で乾いた笑いを漏らす。
「そんなにおかしいでしょうか」
「いやはや、驚いただけだ。が、しかし。おかげでだいぶ言葉の調子が戻ってきた。礼を言おうゼルダ姫」
ニヤリと笑い、彼は玉座から立ち上がった。
玉座のある高いところから軽々と跳躍し、本丸の中央で立ちすくむ私の前に舞い降りる。見上げるほど大きく、威圧感があった。
ああ、これで殺されるのかなと思って、でもそれで大勢の民が助かるのならば本望と、手を組み、頭を垂れた。
一思いに叩き潰してもらえたらありがたい。そうしたら、この命をちゃんと役立てられたこと、女神に感謝して逝きたいと思う。
どうかみんな生きてくださいとひっそり祈りを捧げた。リンク、無事でいてください。私とは最初から会わなかったものとして、忘れて生きてください。
でも彼ばかりは、簡単には認めてくれないだろう。きっと私が死んだのが分かった瞬間に、剣を取って乗り込んでくるに違いない。その時にはきっとダルケルあたりが止めてくれるはず、そう願うしかない。
いっそ、怪我の後遺症で記憶を失ってくれさえすればよいのになと、目を伏せた。
そこへ頭上から言葉が降りかかる。
「これでお前たちに恨み言をちゃんと言える」
えっと顔を上げる。
ガノンの顔は醜く歪んで、全身から黒い瘴気が立ち上っていた。まるで怒りが体の中から溢れ出てくるようで、目の前に立っていているだけなのに息苦しい。思わず手で口を覆った。
「ハイリア人の扱いについては一考の価値がある話だった。確かに隷属させる者はどれだけいても良いからな」
くつくつと笑う声が、がらんどうの本丸を揺らすほど響き渡る。
渦巻く瘴気がどんどん濃くなって、思わず膝をついた。ひと息する、それだけなのに苦しくてうまく空気が吸えない。
大きな黒い手が伸びて、私の髪を掴むと無理やり上を向かされた。そこには黄玉の瞳が歓喜に溢れていびつに笑う。
「だが残念だが、貴様ら二人は絶対に許さん。名を忘れ、自我を失っても、それだけは忘れられんかった。特にあの小僧、あれだけは必ず縊り殺してやると、ただその思いだけで万年の時を耐えたのだ。ところが覚えているのはオレばかり。まったく惜しいものだが、まぁそれでもいい」
身をよじって逃げようとしても、体が動かない。
そこへガノンの体からあふれた怨嗟の塊が迫りくる。口だの耳だの、体に開いている穴という穴から注ぎ込まれるそれは、体の内側に焼け付く痛みを這わせながら私から自由を奪っていく。
「ゼルダ姫よ、己に力のないことを悔やめ」
高笑いだけが脳裏に染み付く。
それきり、私の意識は薄い暗幕の向こう側に押しやられたようになった。これが厄災に乗っ取られるという感覚か、と納得して瞼を閉じる。
また間違えてしまった。
これではもう、勇者が厄災に乗っ取られた姫巫女を殺す以外に方法がない。
せめてリンクに謝りたいのに、床に放り出された体は私の言うことを全く聞いてくれなかった。