流水の兄騎士と落花の妹姫 - 16/19

13 騎士の選択

 陛下の執務室から出て来たゼルダは、俺とインパに向かって目を伏せて首を横に振った。隣でインパは堂々と残念そうなため息を吐いたが、俺は無表情で黙するだけにとどめる。しかし心の内では「やはり」という思いが爪を立てて、胃のあたりがズシリと重たくなった。

「預けたという長剣ついて、御父様は何も記憶にないとのことでした」

「お手数をおかけして申し訳ありません殿下」

「御父上の形見であれば手元に置きたいと思うのは当然のことです。私の方でも他の伝手を使って探させてみましょう」

「ありがとう存じます」

 廊下を歩きながら話を合わせる。視線はロイヤルブルーのドレスを追った。

『ゼルダ姫は、自分付きの騎士が以前、ローム王陛下に預けたという形見の剣を探している』

 聞き耳を立てる者がいれば、平民好きの姫君が流れ者の騎士の剣を探していると思うだろう。しかれども実情は違う。探しているのは退魔の剣。確かに一度は俺の手元にあった、あの青白い燐光を放つ剣。

 非公式に俺が行方を尋ねたのとは違い、ゼルダ姫が直接父王に尋ねたことは、一瞬で噂話になるはずだ。それゆえに、探しているものの正体は伏せられた。王が取り上げた剣が退魔の剣だったなどと噂が立てば、今以上に王家は苦しい立場に追い込まれてしまうが故の苦肉の策だった。

「姫様、陛下と随分長くお話されていたようですが、他に何かお話があったんですか?」

 インパが追いかけながら背中に問うと、ゼルダは「ええ」と浮かない顔でこめかみをえた。

「色々と頭の痛くなることが。その件について英傑の皆さんや古代研究所の面々とも相談をしたいのですが、日程の調整をお願いしていいですかインパ」

「承知しました。すぐにでも招集をいたしましょう」

 足早に王城の赤絨毯の廊下を突き進んでいく王女の姿に、すれ違う者たちはいずれも脇に避けて顔を伏せる。王以外に彼女の行く道を遮るものなどいない。その代わり、伏せられた顔に張り付いているのは、どんな表情なのか覗くのもおぞましい。

 ふと、ちょうど誰もいなくなった廊下の端で、ゼルダは足を止めた。振り向き、揺れる髪が窓ガラスを透かした陽の光に輝く。

「……いえ、今回はプルアのところで話ができるようにしてもらえますか。英傑の皆には研究所の方に足を運んでいただくように連絡を。できるだけ早くてしてもらってください」

「プルアのところ、ですか? かしこまりました」

「リンク、いつでも発てるよう準備をしておいてください」

「御意」

 頭を垂れつつ、どうしたというのだろうかとこっそり表情を伺う。

 ゲルドの一件以来、ゼルダの気配は日に日に鋭くなっていった。体調が変というわけでもなく、機嫌が悪いわけでもなさそうだ。よく食べて寝られているようだし、精力的に動き回っている。

 しかしまとう空気はキリキリと張り詰め、表情が硬くなり、時に唸るほど何かに怯え悩んでいる。きつく結んだ両手から、血の気すら失われていることもあった。

 本当ならば止めたいところだったが、すでに俺は見知らぬ他人の騎士に戻っていたので顔色を変えないように付き従うことしかできない。誰の目のないところで何度も声を掛けようかと思ったが、これまで自制して作り上げて来た関係を失うわけにもゆかず、に口を開くのを諦めた。

 インパはすぐさま手配をして、三日後には英傑の四人とインパを筆頭にシーカー族の幼馴染三人が王立古代研究所に揃った。面々を見回して思うに、今のゼルダが本当に気の許せる仲間とも呼べる者はこれで全部。それ以外は誰を真に信頼してよいのか、傍で仕える俺ですらよく分からない。

 侍女や研究員の中にさえ、間者がいるのではとも考えられる。話し合いの場に指定されたプルアのラボの扉の外が、不届き者を睨む俺の立つべき場所だと動いた。ところがゼルダの強張った声に動きを制止させられる。

「リンク、今日は同席してください」

「私もですか」

「ええ、今日は貴方にも話を聞いてもらいます」

 他の面々が訝しむなか、畏まりましたと一礼して、簡素なスツールに腰かけたゼルダの背後近くに立った。

 俺が扉の外に立たなければ、代わりに誰が立つというのだ。不安を顔に出したつもりはなったが、ロベリーが戸口で二っと笑うので何か秘策でもあるらしい。

 インパがカーテンを閉めて、プルアが薄暗い部屋の扉を閉める。それからロベリーが何か装置を使った。起動音がした後、ロベリーはゼルダに向けてばっちり親指を立てた。

「これでノープロブレムだ、これでウィらのボイスは漏れない」

「ありがとう。今日の話はくれぐれも内密にお願いします」

 はぁ、と大きく息を吐き出した細く華奢な背中に、目には見えない重責を見る。それは誰しも同じものを見ているのか、不安そうなウルボザやミファーの顔も見えた。

「それで、この面子をわざわざこんな埃っぽい部屋に集めて、今日は一体何の話だって言うのさ」

「ちょっとリーバル、埃っぽいってなにヨ。お茶請けまで出してあげたのに」

「客人が来ると分かっているなら、もう少し片付けておいたらどうだい?」

「すいませんリーバル、私がここを指定したんです。どうしても他の人には聞かれたくなかったので」

 広い研究所の中には、相応しい会議に使う部屋などもある。そういった場所をあえて使わず、指定したのはさして大きくもないプルアのラボだった。ダルケルまで入るとぐっと圧迫感が強くなる。

 しかもあのプルアの使っている部屋だけあって、片付けが出来ているはずがない。リーバルではないが、確かにもう少し片付けておいてくれと辺りを見回す。視線を感じて顔を上げると、部屋の主から睨まれた。

 でもわざわざこんな場所を話し合いの場に指定すると言うことは、何らかの機密に関する話だろうと言うのは誰もが察していた。強張るゼルダの表情からもうかがうことができる。加えて俺自身は、俺がこの場に呼び止められた時から、自分の出自までもが話に出される気はしていた。

 大きく息を吸って、ゼルダがスツールに座り直す。手には湯気立つマグカップ。一国の姫君が味方を集めて策を練るには侘しい有様に、彼女がどれほど追い詰められているのかを思い知る。

「何から話せばよいのか……、長くなりますが順を追ってお話します」

 そこから悩みながらゼルダが話を始めたのは、どうして自分が市井に紛れて暮らしていたのかという話だった。俺も実は初めて聞く。

 六歳のある夜、ゼルダのお母上であった王妃様が自身の近衛騎士であった俺の父にゼルダを託し、その夜に火事で亡くなった話から始まった。シーカー族の助けを借りつつ俺と父とがゼルダと暮らしていた頃の話、父が亡くなったあとお母上の遺言に従って俺と二人で各地の泉に祈りを捧げるために旅をしていた頃の話。それに加えて、俺が退魔の剣らしき剣を抜き、それが王陛下の手によって取り上げられた話まで全部、ぜんぶ。

「ってことは、姫さんとリンクは元々兄弟みたいにして育ったってことかい?」

「ダルケルの言う通り、リンクは私にとって兄のような人なのです。でもそれが知れたら、何を言われるか分かりませんし、下手をすれば私付きを解任されるかもしれません。ですからどうか内密にお願いします」

 深々と頭を下げるのを見て、自然と俺も頭が下がった。

 やれやれとリーバルがため息を吐くのが聞こえ、他の三人の英傑の笑い合う声が聞こえる。苦笑するのはシーカー族の幼馴染三人組。散々な紹介だとため息を吐きながらも、俺はようやく肩の荷が下りた気分でいた。

 しかしゼルダの話はまだ続く。むしろここからが本番だと言わんばかりに、声に力がこもった。

「私は、リンクが勇者だと考えています。しかし剣は取り上げられたまま、私の姫巫女としての修行は滞るばかり。このままではいけません」

「そのために私たち英傑が神獣で準備をしているんじゃないか御ひい様」

「そうよ姫様、そんなに気負っていたら目覚める力も目覚めないと思うよ」

「ですが、何もやらずに手をこまねいている暇はもうないのです」

 最近のゼルダの神経の尖らせようは尋常ではない。小動物の怯えにも似ている。だがゼルダがただ怯えているだけの姫ではないことを誰もが知っていた。

 まず、とインパの方を向き直る。

「退魔の剣の行方についてはインパ、シーカー族の隠密の方でどうにか探してもらえませんか。御父様が取り上げたのだとすれば、城のいずこかにあるはず。何か理由があって隠している可能性もあるので、どうか御父様には知られないようにしてください」

「お任せください姫様!」

 明るい声と共にインパは胸を叩く。

 他の面々からも、万が一にも各種族の領地内で見つかることがあれば、内密に連絡する旨を取り交わす。

「それから私の力が目覚めず、退魔の剣も見つからなかった場合に備えて、神獣はいつでも動かせるようにお願いします。ガーディアンについても同様に。忙しいとは思いますがプルア、ロベリー、よろしくおねがいします」

「もちろんヨ、姫様」

「ガーディアンについてはミーたちに任せてくれ」

 そこまで一気に話を進めたところで、ゼルダは湯気の消えたマグカップからようやく一口お茶を飲んだ。

 しいんと場が静まり返り、一気に視線が集中する。

「それで、もう一つ、皆さんに協力していただきたいことがあります」

 顔を上げたゼルダは、この日一番の難しい顔をしていた。これが真に本題なのだと顔を見れば分かる。ここ最近の険しい雰囲気をさらに濃く煮詰めたような横顔は、指先が触れるだけで泣き始めそうなほど緊張していた。

 後ろから握りしめる手が震えているのが見える。隣に居てやらなきゃと思ったが、すでに物理的には隣にある。これまでになく近い位置に居て、ではこれ以上はとなったとき、おずおずと口を開いた。

「落ち着け」

「……はい。大丈夫ですリンク」

 振り向きはしない。しかし深く息を吐いて、震える声を押さえつけるように言葉を紡ぎ出し始めた。

「あと二週間で、私は十七歳になります。ようやく、お母様の遺言通り、ラネール山の知恵の泉に行けるようになるのです」

 ラネールは知恵の神ネールより名前を授かった山。『齢十七に満たぬもの、知恵無きものとして入山を禁ずると』いう厳格なしきたりがあった。

 十四と十五当時の俺たち二人では、どう足掻いても知恵の泉だけはいくことが叶わなかった。だからその時まで待とうと約束した。それがついにあと二週間後に迫る。

 でも、と悔しそうにゼルダの声が歪んだ。

「よりにもよって誕生日の当日に、御父様が私の成人を祝う宴をもよおすとおっしゃられて……っ」

 歯ぎしりがこちらまで聞こえるようだった。

「私、どうしても一番に泉へ行きたいんです。己の責務を果たしたい、祝いの宴なんかしている場合ではないのです。私が力に目覚めないと、厄災が復活したらみんなが死んでしまう……。だから、だからどうか力を貸してください、お願いします!」

 王の名で開かれる姫君の生誕を祝う宴から、当の本人を連れ出す。その意味が分からない者はこの場にはいない。

 万が一にも手を貸せば、俺やインパなどの城勤めの者は左遷されるだろうし、他の誰であろうとも少なからず責めを受ける。下手をしたら一族に被害が及ぶし、ゼルダにしてみればただでさえ少ない味方がさらに減る可能性が高い。

 これ以上、信頼のおける者を遠ざけられるわけにはいかないが、ゼルダにとっては泉での修行は何にも代えがたい希望。道理で最近、悩みが凝り固まったように塞いでいるわけだ。

 しかしこの場に集った誰もが皆同じことを答えるだろうというのは、ゼルダ以外の誰もが分かっていた。まず先に、ダルケルが勢いよく笑う。

「そう言うことならどーんと任せておけ、姫さん!」

「顔を上げて姫様。大丈夫、私もお手伝いするよ」

 ミファーもにこりとして、隣にいるウルボザを見上げた。腕組みをしたウルボザは形の良い唇をきゅっと引き上げて目を細めた。

「御ひい様がラネールに向かったのを悟らせないようにすればいいんだね。ならば当日は誰かを身代わりにしたてて、私が傍に付こう。ゲルドの長が祝いに訪れていると言えば、他の貴族たちもむやみには近づかないだろう?」

「だとしたらまずは誰が身代わりになるか、だよねぇ。身長的にリンク、君が身代わりになったらどうだい?」

 嫌味な笑いを浮かべたリーバルがこちらを目線を寄越したので、俺はようやく掃討戦以来、初めてリーバルを睨み返した。いい加減、おちょくってくることには腹を立てていたのだ。

「君が姫のドレスを着てさぁ、きっと似合うと思うよ?」

「寝言は寝てから言え、リーバル」

「リンクは姫様をラネールへエスコートすべきだろう」

 ふふんっと鼻で笑うリーバルにロベリーが突っ込むと、分かってるよと不貞腐れた嘴がつんと向こうへ向く。

 とんとん拍子に話が進んでいった。誰もが面白そうにしていて、ゼルダだけが信じられない様子で慌てる。

「本当に、いいのですか……?」

「責めは覚悟の上、いいですねリンク」

「もちろんだ、構わない」

 俺が当然のことにようにうなずくと、それでも納得しないゼルダが皆を見回す。言い出した当人が信じられずに「でも」と言い淀む。

 さらに何か言い募ろうとインパの方へ向くが、当のインパは珍しくゼルダの方を睨んでいた。

「いいですか姫様、もし直接的に関わらなかったとしても、私とリンクは姫様をお止め出来なかったとして罰せられるのは必至」

「それは、そうですが……」

「それに私たちがどれほど以前から貴女の努力を見てきたと思っているんです? 他の英傑たちに任せて待っていろという方が酷というものです!」

 ゼルダはインパの怒気を感じ取り、しばらく驚きに目をしばたいていた。

 暗にほのめかされるのは、城に戻るよりもさらに前。インパとの付き合いは、ハテノ村を逃げ出してすぐからなので、数えてみるにもう十年余りになる。

 インパは祖母でシーカー族の長でもある老インパから、何か言い含められたこともあるのだろう。それを差し引いても、俺の次に長い時間を姉妹のように過ごしたインパにとって、ゼルダの願いは大事なことに違いない。俺にとってゼルダが単なる主君ではないように、インパにとってもゼルダは単なる上司ではない。

 ようやくそのことを理解したのか「ごめんなさいインパ」と小さく謝ると、インパはにっこり笑って、次いで俺の方に力強い視線を寄越した。

「リンクは護衛についてください。姫様の身代わりはプルア」

「ええ、あたし?!」

「私はプルアが色々と心配なので、ウルボザ様と一緒に傍に控えておきます」

「姫様とは背の高さがちょーっと違うけど、……ヒールとカツラでどうにかなるかナ?」

 プルアがゼルダと適当な背比べをしながら首をひねる。幼い頃、カカリコ村でこうしてよく背比べをしていた。あの頃はプルアの方が背が高かったのに、今ではゼルダの方が少しだけ大きい。そんなゼルダよりもチビだった俺は、あの頃は四人の中で一番小さかった。

 なんだか昔に戻ったみたいだなと、思わず頬が緩む。

「あ、笑った」

 ん、と顔を上げるとミファーが覗き込んでいた。

「ようやく笑ったね、リンク」

 そうだっけ。あんまり覚えていないが、少し気恥ずかしくてすぐに顔の力を抜く。そうしたら皆からけらけらと笑われたので、顔をそのまま横へ背けた。ただ、自然に振舞えることが楽なこと。随分と強張っていたからだから力が抜けて行った。

 同じように、ゼルダも力が抜けてキョトンとしていた。その肩をウルボザが叩く。

「御ひい様、ずっと一人で考え込んでいたんだろう。もう少し早く相談しておくれ、みんなあんたの味方なんだから」

「ありがとうウルボザ、すいませんみなさん……」

 振り向き、ゼルダの翡翠色の瞳が俺を捉えた。

「リンク、ごめんなさい。お願いします、絶対に知恵の泉まで私を連れて行って下さい」

 父の余命が幾ばくもないことを知ったあの日に、俺は父からゼルダを委ねられた。その時すでに彼女を全ての泉へ連れていくと約束を交わしていた。亡き父がゼルダのお母上から託された約束であり、ゼルダと俺との約束でもあった。

 一度は無理かと思ったときもあったが、ようやく果たせる時が来た。十分にもう大人だと、今なら父も認めてくれるだろうか。厳しい父のことだから、もしかしたらまだ子供だと首を横に振るかもしれない。

 どうだろうと思いを巡らせつつ、一つ頷く。

「分かった」

 大丈夫、俺がちゃんと泉まで連れていく。以前とは違って他の仲間の協力も得られる、だから安心していい。今度こそ約束を違えまいと頷いた。

 ところが一向に気の晴れた様子なく、ゼルダは表情にどこか影を残していた。

「他に何か不安でも?」

「いえ、大丈夫……です」

 口では大丈夫と言いながらも視線は下へうつむき、唇をきゅっと引き締めている。

 こんな不安そうな顔をさせる心当たりは一つ、やはり俺の手元に退魔の剣がないこと。ただの騎士では、姫巫女の信は得られないのだろうか。そんなに頼りなさそうに見えるのかと思うと、少しだけ悲しい。これでも随分と力を得たと思っているのに。

 せめて目線を合わせようと膝をついて顔を覗き込んだが、どうしてだか上手くゼルダと視線を交わすことが出来なかった。

「すまない、俺が剣を手放したばっかりに」

「いいえ、何か意味があってのこと。きっと女神の思し召しなのです」

 声がまた深く沈み、憂色を浮かべながら俺の手を握った。

「リンク、頼みますから無茶だけはしないでくださいね」

 酷く、怯えた顔だった。

 しかし時間切れ。そろそろ研究所を出なければ、日が落ちる前にハイラル城へ帰りつくことが出来なくなる。だから瞬きと共に表情を消して、触れていた指先をそっと押し返して離した。

「それはこちらのセリフです。どうかご無理だけはなさらないでください、殿下」

 時計を振り返り、ゼルダはああとため息を吐く。名残惜しそうに俺を見つめたが、首を横に振るのと見せれば、その日は大人しく姫と騎士の関係に戻って帰路についた。

 それから秘かに何度かやり取りがなされ、宴を抜け出して知恵の泉へ行く計画がひっそりと立てられた。

 まず、夜中のうちプルアがゼルダと入れ替わる。インパと二人でプルアを身代わりに仕立て上げてから、ゼルダは一人でシーカーストーンを使って城から抜け出す。行く先はヴァ・ルッタ。ミファーには事前にルッタをカカリコ村に近いラネール湿地へ移動させておいてもらった。

 泉へ付き添う俺は前日に城を出てルッタへ先回りして待ち受けておく。シーカーストーンで移動してきたゼルダを待ち受けていて、カカリコ村を経由してラネールへ向かう。

 ゼルダの誕生日の前日、俺は仕事が終わるや否や、秘かに城を抜け出した。覚悟はしているが、不安がないといえば噓になる。何しろ王陛下の言いつけを破っての行動だ。

 ゼルダの封印の力が目覚めればバレたとしても、その功績をもって今回の出奔は不問に処されるだろう。何らかの責めはあるかもしれないが、姫付きの立場を解任されることはないと思う。

 だがもしゼルダが力に目覚めず、出奔に手を貸したことが露見したら、王の宴から姫を連れ出してわざわざ危ない場所へ連れて行ったとして厳罰が下される。下手をしたら投獄。そうなったら最後、貴族と違って何の後ろ盾もない俺は二度とゼルダに近づくことはできなくなる。

「そうなったらいっそのこと、ゼルダを連れて逃げるか……」

 我ながら不穏なことを呟いたと自重しながら馬に鞭を入れる。最悪の事態になったとしても「まぁいいか」という気持ちの方が不思議と勝っていた。

 俺の中では、王陛下からの処罰よりも、ゼルダ本人の願いを叶える方がよほど大きな比重を占めている。とどのつまり、どこまで行っても何になっても、俺はハイラル王国の騎士ではなくゼルダの用心棒で、彼女以外の誰の言うことを聞く気もない。騎士が聞いて呆れる。

 それでもなんとなく、父ならば同じことをする確信に近いものがあった。父は近衛騎士の地位を捨て、王命に背いてでも、誓いを立てた王妃様から姫君を預かって逃げた。あの父ならば、今の俺の行動を後押ししてくれる気がした。

 闇深い街道を小さなランタンの灯りを頼りに東へ馬を走らせ、夜半過ぎラネール湿地に辿り着いた。浅瀬にたたずむヴァ・ルッタの青い光に導かれて行くと、ミファーの赤いひれがひらひらと揺れて見えた。

「お疲れさま、大丈夫だった?」

「俺が城を出るまでは勘づかれてはいなかった」

 よかったとほほ笑むミファーに、城の内情を知る身としては曖昧な笑いを返す。

 そもそもゼルダは自分の個人的な生活からは侍女をなるべく廃していた。本来であれば朝から晩まですべての支度を侍女に任せきりにするところを、自分でできる範囲のことは全て自分で行っていた。

 誹謗中傷のために粗探しをする者を傍に置きたくない意思の表れだったが、それにしたって現ハイラルで最も地位の高い女性のする生活ではない。おかげさまで、彼女が出奔のための準備をしていることや、プルアの変装道具一式を隠し持っていることを知る傍仕えはいない。それもまた、おかしな話だった。

「姫様、大丈夫かな……」

 光鱗の槍がカシャリと鳴る。ミファーは心配そうにゴングル山に遮られて見えないハイラル城の方を伺っていた。持参した軍の携帯食を齧り、同じ方向を見る。空を見上げるとよく晴れていたが、空の高いところは風が強いのか、星の瞬きがずいぶんとチカチカしていた。明日は天候が崩れるかもしれない。

 嫌だなと思いながら、ミファーに火の番を頼み、その脇でひと眠りさせてもらった。幼いころからの癖で剣を抱え込んだが、それは黒い片手剣だった。これがあの青い剣なら、どれだけゼルダを安心させてやれただろう。揺れる炎に幻を見る。

 どこにいるんだろう、俺の半身。どうかゼルダを助けるために、俺の手元に戻って来てくれ。

 願いながら瞼を閉じると、まどろみの中で葉っぱのお面がぼろぼろに欠けたコログが何か言っていた。夢か現か、必死で赤い実のついた枝を振って俺を呼ぶ。でも俺はゼルダの傍から離れられず、コログの言葉が上手く聞き取れなかった。

 ごめん、もう少ししたらきっと余裕ができるはずなんだ。その時になったらちゃんと話を聞くから、だからもう少し待っていてくれ。すまない。

 そう叫ぶと、コログは肩を落としてまどろみの中から去っていった。

「リンク、そろそろ起きて」

 優しく肩を揺さぶられて瞼を押し上げる。まだ日の出、明るくなりつつある東の空を伺う。天気は晴れだが、風が飛ぶように速い。こういう日は山の天気は急に崩れるから、本当は登らない方がいいのは経験で知っていた。しかし今回ばかりはそうもいかない。覚悟を決めるしかない。

 しばらくして、ついにルッタの入り口に青い光と共に人が現れる。

 ストンと軽い足音と共に、荷物を二つ抱えたゼルダが降り立った。

「お待たせしました!」

「姫様、大丈夫だった?」

「はい、問題ありません。ありがとうミファー」

 俺とミファーはゼルダを連れてすぐさまサハスーラ平原の坂を駆け上がった。

 ゼルダが城を空けていられる時間は夕刻まで。宴が始まる夜までにどうにかシーカーストーンを使って、ハイラル平原の駐屯地にあるシーカータワーを経由して戻らなければならない。シーカータワーから城まではリーバルが最短距離を誘導する手筈になっていたが、ラネール山の頂での滞在時間まで考慮すると心もとない時間だった。

 それでも行かねばならないというのなら、手を引くのは俺の役目。

 夜明け前の静かなカカリコ村へつくと老インパが待ち受けていて、ゼルダとミファーの分の馬を引き出してくれていた。馬を受け取るのと引き換えに、彼女は二つ持っていた荷物の片方を老インパに渡す。

「これを、預かってください」

 老インパも大きく頷き返すので、何のことかと首をかしげていると、代わりにと言わんばかりに老インパの鋭い視線が俺をうがった。

「姫様のこと、くれぐれも頼む。父親の立てた誓いをしっかりと果たせ」

 ひとつ礼をして、すでに汗だくになっている自分の馬の首を叩いた。一晩急かした後なのに、さらに今度はカカリコ村を通り抜けて東へ向かう。頼むぞと声をかけると先陣を切って駆け出した。

 ラネールへ続く道はその昔は多くの人が通っていたらしく、石畳の参道が続く。しかし今では人が行きかうこともなくなり寂れて、魔物が巣食っていることも多かった。道すがら討伐していくのでは時間が足りない。それでダルケルには先行して討伐をお願いしておいた。

 何の障害もなく、馬の脚で水をかき分けながら進む。ラネール山の入り口、ネルドーラ雪原へ。たどり着いた時には完全に夜が明けていて、ダルケルがロース岩を朝ごはんに齧っているところだった。

「おう! 姫さん、相棒、来たか!」

 山門の向こうには白くけぶる山がそびえたっていた。俺はダルケルとラネール山を見上げながら、ゼルダの支度を待つ。崩れかけた山門の陰でミファーに手伝ってもらいながら着替える音がかすかに聞こえ、腕の中に準備していた上着を固く握りしめた。

 こんな雪山に登るのに、あんな寒そうな衣装を着る必要が本当にあるのかと、何度もインパと共に苦言を呈した。しかし、かすかに残るお母上の祈る姿は、いつも白い巫女装束をまとっていたという。だからそれに倣いたいとゼルダは頑な首を横に振り続けた。

 真っ白な衣装に着替えたゼルダの肩に、せめてもと握りしめていた雪避けの上着をかける。

「姫さん、くれぐれも気を付けるんだぞ」

「ありがとう、ダルケル、ミファー。では行ってきます」

 着替えと馬を二人に託し、俺たちは雪深い道へ足を踏み入れる。

 ここにたどり着くまで、随分とかかった。長かった。

 きっと千歳ちとせを生きる女神から見たら、俺たち二人はまだ生まれて間もない赤子も同然だろう。それでもゼルダは十七年、俺は十七年と半年ほど、それなりの時間をかけて大人になったつもり。

 もちろん人生の長さを考えたら先の方が長いのだろうけれど、でも俺にとってこの十年はとても長く、同時に短かった。特に父が亡くなってからの三年余りは、あっという間。それなのにとても長いようにも感じた。

 俺はちゃんと大人になれたんだろうか、未だに疑問が残る。

 頭の片隅で他愛ないことを考えながら、襲いくるアイスチュチュを切っては足で蹴飛ばした。離れたところでボンっと爆破する。後ろからゼルダが炎の矢が援護してくれることもあって、敵の排除は特に問題はない。

 なんだかんだで、力量ばかりが大人に追いつき、追い越した。ただ心は比べようがないので迷うばかり。せめて今自分のいる場所ぐらいは見失わないようにと、自分の立つ足元を確かめる。

 ラネールの山道はところどころ雪から顔を出す石の階段が続き、古くは人が行き交った痕跡があった。雪は強くなったり弱くなったり、晴れる兆しは一向になく、曇天を頭上に抱えたまま山を登り進めていく。

「なんだか、昔みたいでちょっぴり楽しいです」

 王権を象徴する印のついた上着を、寒そうに首元でかき寄せながらゼルダは笑った。

「あの頃みたいで?」

「ええ、二人で旅をしていた頃みたい。あの頃は毎日が楽しくて……私、ずっとリンクと肩を並べられると思っていました。それに弓だけは負けないぞって」

 「もう負けちゃいますけど」と笑いながら矢を射れば、一本の矢でアイスキースを二匹連ねて射落とす。思わず声が出た。

 ゼルダの弓の精度は落ちていないどころか上がっていた。目も良いので、雪に擬態した雹吐きリザルフォスの頭を的確に射貫く。そこに駆け寄って俺がとどめを刺すので、とてもやりやすい。

 下手な兵よりもよっぽど腕が良いが、でも男の俺に比べたら随分と華奢で細い。ずっと祈りの修行、古代遺物の研究、果ては平民の生活改善のための技術補助へと、ありとあらゆる方面に力を尽くしてきた手。それなのに報われず、今は供にただの一人、俺だけを連れて雪山に登る。これが一国の姫君のなすべきことかと思うと、腹立たしかった。

 うつむく彼女と連れ立って、また歩き出す。余計なことばかりが頭に浮かんでは消えていった。

 次第に開ける景色に山の高さを感じる。風を遮る草木もなくなり、いよいよ頂上は近いと思ったとき、異様な気配に緊張を覚えた。

 ラネールの頂上は昼間だというのに夕方のように暗い。凍り付いた石畳から顔を上げると、山頂には水が湧き出していた。あたり一面、雪と氷で真っ白だというのに、湧き出す水は滔々と流れが途切れることはない。不思議な場所。

 しかし何よりも俺が息を飲んだのは、山頂に青い巨体が巻き付いていたからだ。

「リンク?」

「龍が、いる……」

 遠くから空を飛ぶ姿を見たことはあった。コログと同じで誰の目にも映らず、俺ばかりに見えているので精霊の類だとは察していた。

 黄色いのと赤いのは遠目に見たことがあったが、目前、ラネールの山頂に巻き付いて見下ろしているのは、眩い青の角を持っていた。白い巨体が雪をはじいて輝く。思わずゼルダを後ろへ押しやって剣を抜いた。

「龍がいるんですか?」

「ああ、こちらを見ている」

 やはりゼルダには見えていないらしく、それが少しもどかしい。もし封印の力に目覚めていれば、俺と同じ光景を一緒に見られたはずなのに。

 俺ばかりが緊張して龍を見上げる。

 龍は金に光る眼をゆっくりと瞬きをすると、巨体を震わせた。ついに動き出す牙か爪か、その鋭い切っ先がこちらへ向くのかと神経を集中させる。

 ところがリンと甲高い音を残して、龍は空高く舞い上がった。流れ星のような一筋の光が泉の中に落ちてくる。

「何か落ちましたよ」

「飛んでいく……」

 剣を下ろし、曇天を優雅に飛翔する青い腹を見上げた。言葉は分からない。でも、どこか嬉しそうにも見えた。

「敵意はないらしい」

「精霊、でしょうか?」

「たぶん……知恵の泉を守ってるのかもしれない」

 あるいは、誰かの訪いを待っていた。それは誰か。

 待ち人がゼルダであったら、俺は嬉しい。

「大きい……。鱗です」

 ザバザバと水をかき分ける音がするので空から視線を下ろすと、ゼルダは冷たい泉をものともせずに淡く光る青い円形のものを拾い上げていた。

 祈りのために入るとはいえ、なんて無防備なと思って駆け寄ると、思っていたよりも水はぬるい。なるほど、これでは凍らないわけだと得心がいった。とはいえ冷たいことには違いなかった。

「まるで祝福してくださっているみたい。預かってもらってもいいですか?」

 ふふっと笑って、ゼルダは俺の腕の中に大きな鱗が押し込んだ。触れると暖かいようでひんやりする不思議な感触。ポーチにしまってから、今度はゼルダの上着を預かる。

 寒々しい肩があらわになる。体を冷やさないように薬は当然使っていたが、それでも限界はある。そうまでしてでも彼女は、その姿で泉の中ほどに進んだ。

「禊を始めます」

 ゼルダは冷たい泉の中央へ進み、俺は泉から上がって手前の石畳に立った。

 これまでもハイラル大聖堂や、城の内部にある泉での警護に当たったことはある。しかし思い出していたのは、在りし日に二人きりで勇気の泉で祈りを捧げたときのこと。

 あの時もこうして背中合わせになって、祈りを捧げるゼルダの気配だけを頼りに俺は立っていた。カツンと鞘のこじりで石の地面を叩く。十五の俺は虚勢を張って用心棒のように立ってはいたが、何ができたわけでもなかった。

 それは今も変わらず。ただ立っているばかりで、何の役にも立たない。

 幼い俺はあの時、途中で何度も『終わりにしよう』とゼルダに声をかけた。でも彼女は、まだ何も起こらないと渋り、祈り続けた。結局そのあと熱を出したゼルダを背負って馬宿に駆け込んだのだった。

 だいぶ遠い昔のようで、まだ数年しかたっていない。

 あの頃と変わらず『終わりにしよう』という言葉が、何度も口の中に沸いては飲み込むを繰り返す。

 途方もない覚悟の末にこの泉へ来た彼女の修行を遮ってはならない。しかしながら早く冷たい泉から上がって無事を確かめさせてほしい。

 待つというのは随分難しい。いら立つ気持ちを、空に舞い続ける青い龍を睨んでぶつけた。

『彼女に力を授けてくれ』

 そうすればもうこんな体を痛めつけるような無茶な修行をしなくて済む。城の中で謂われのない誹謗中傷にさらされずに済む。高貴な姫らしく、真綿にくるまれて穏やかな日々を送ってほしい。そうしたら俺はようやく安心できる。

 と思って、何かが心に引っかかった。

 ゼルダが王家の姫として、ハイラル城の中で穏やかに暮らす姿が上手く想像できなかった。あるいは想像する光景の中に、自分の居場所がなかったことも、どこか落ち着かない気分にさせた。

 一体何を考えているんだろう。

「王家の姫が代々受け継ぎし、厄災を封印する力。それは祈りに依って目覚める聖なるもの、そう聞かされた記憶がかすかにあります」

 振り向くと、祈りの手を解いて泉に立ち尽くす女神像を見上げる姿があった。背の中ほどまで伸びた金の髪が、雪交じりの強い風にばらばらと煽られる。

「でも最近はお母様の姿も声も、ほとんど思い出せないのです」

 風と雪と水の音を掻き分けて届く声は、寒さからか、あるいは怒りや悲しみか、震えていた。

「どうやってお母様が祈っていらっしゃったのか、思い出せなくなっているんです」

 地吹雪に、視界が真っ白に染まる。

 雪に連れ去られるのかと狼狽して一歩踏み出すと派手な水の音がして、ブーツの中に水が入り込んだ。姫巫女が禊を行う神聖な泉、土足で荒らしていい場所ではない。

 それでも白くけぶる視界の中に手を伸ばし、禊さなかの泉へ足を踏み入れた。バシャバシャとわざと高い音を立てる。

 女神はもちろんのこと、ゼルダも気が付いただろう。でも止められはしなかった。

「時々、全部放り投げたくなります。誰にもできないことを、私にだけ押し付ける皆が嫌いで、ちゃんとできない自分にも腹が立ちます。……やっぱり自分は偽物なんじゃないのかなって」

 自嘲気味に笑う姫巫女の背後に立つ。本来、その資格があるのは勇者だけのはずだが、今をもってしても俺は勇者ではない。

 それでもゼルダは俺が隣に立つことを許してくれた。勇者ではない俺が彼女にできることは何なのか。もとより本心では王国に誓いを立てた騎士ですらなく、今では立場が変わって兄でもなくなった。

 だとしたら。

「一緒に、逃げるか?」

 血の気のなくなった肩を後ろから抱いた。

 偽物でも、本物でも、関係ない。俺にとってのゼルダはこの人以外にいない。腕の中の人は柔らかな形をしていて、俺の堅い腕に指先を添える。

 彼女の修行を遮って覚悟を乱してはならないと、理性では分かっていた。でもやっぱり我慢ができない。

 そんな冷たいところから上がって、辛いことなんか放り出して、一緒に逃げよう。囁く自分はまるで悪魔か何かだと思う。

「今なら、ゼルダをハイラルの外に連れていけるよ」

 所詮、騎士の地位はゼルダに近づくための手段でしかない。父と同じ騎士になれたこと嬉しかったが、それより父に託された約束の方が遥かに大事だった。

 ゼルダを守れと言われた。

 彼女の身も心も守るにはどうしたらいいのかなんて、随分と前から気が付いている。

 ゼルダを姫巫女に祀り上げるこの国から逃げればいい。

 つ国へ行っても、彼女と自分を守るぐらいの力は十分にある自信があった。俺たちのことを誰も知らない土地へ逃げて、そこでハイラルが滅ぶことすら知らずに二人でのんびりと暮らせたら。

 それからもう一つ、俺はその昔気が付いた可能性を生きることができる。兄でも、家臣でもなく、あるいは勇者ですらなく。俺は別の生き方でゼルダの隣にいることができる。そうしたい気持ちはやまやまあって、できることならゼルダにはその生き方を選んで欲しいとさえ願った。そういう俺を選んでほしいと心のどこかで願い続けてきた。

「でも、できないよな」

 覗き込んだゼルダの顔は歪んで、こぼれる端から涙がそのままの形で凍りついていた。

「ごめんなさいリンク……」

「分かってる、ゼルダが逃げるわけがない。ごめん。分かってて言った、俺が一緒に逃げて欲しかっただけ」

 膝までしかない泉で、すでに足はかじかんでいた。先ほどは思ったよりぬるいと思った水ですら、たったこれだけの時間であっという間に感覚がなくなる。しかもブーツを履いているにもかかわらずだ。

 一方のゼルダはサンダルで、つま先なんか切れそうなぐらいに真っ赤にしていた。どうしてこんな華奢な人が、これだけの苦役を背負い込まなければならない。こんな不合理が許されるハイラル王国って一体何なんだと、もうずっと腹の虫がおさまらない。

 だからと言って彼女からハイラルという国を取り上げて、手の届かないところに連れ出せば、それは苦しませることだとも分かっている。

 やっぱり俺は無力だ。

 剣を振るうしか能がないくせに、当の剣すらなくしてしまった。

 腕の中からゼルダを放して、せめて一緒の場所で冷たい水に浸かっておこうと手を伸ばす。隣に立って彼女の左手を握りしめて、淡い光をたたえる女神像を見上げる。

「本当は、リンクだけでも逃げて欲しいんです。私に厄災を封じる力がないと、あなたを殺してしまうから……」

 横から零れ落ちた懇願に、首を横に振る。彼女の答えが変わらなかったように、俺の答えも変わらない。

 結局、俺とゼルダはどれだけ距離が離れても、互いがどんな関係になっても、一蓮托生。

「ゼルダが逃げないのなら、俺も逃げない」

「ごめんなさい……」

「俺がやりたくてやっていることだから気にするな」

 そうやってしばらく、二人で並んで祈りを捧げた。寒くはあったが、穏やかな二人だけの時間。時を忘れて立ち尽くし、仮にも俺に力を授けたであろう女神に縋った。雪空に青い龍が舞い続ける。

 でも結局、何も起こらなかった。

 シーカーストーンで時刻を確認すると昼の刻限を過ぎている。ネルドーラ雪原で待つミファーに着替えを手伝ってもらわなければならず、シーカーストーンでハイラル駐屯地のシーカータワーを経由したとしても、夕刻までに城に戻るにはもう去らなければならなかった。

「戻ろう」

 名残惜しく最後まで泉から上がろうとしなかったゼルダを強引に引っ張って、ラネールの雪道を転がるように下った。引く手の向こう側でむせび泣くのが分かったが、かける言葉がない。

 お母上の遺言をちゃんと守ったのに何も起こらなかった。やり方が悪いのか、あるいは陰口のように真の才が無いのか、はたまた繰り返される誹謗中傷のように自身が本物の姫ではないのか。

 それでも駆け下る。

 これほどの悲しみを背負ってまで戻らなければならない場所があるなんて、よほど連れ去ってしまおうかと思う邪念を押さえつけて足を動かした。姫君を早く本来の居場所に戻して差し上げねばと理性を総動員し、途中からは半ば抱え込むようにして走った。

 ようやく雪が途切れ、空気が人界の温度に戻る。ダルケルとミファーの姿が見えた時、ゼルダを人の内に戻せたこと、自分が人のしがらみの中に戻ってきたことに安堵を覚えた。

 もう人目がある、これ以上は直情的に行動することは許されず、許さない自分の理性を再度確かめる。

 雪のヴェールがなくなった空は、夕焼け色に輝いていた。もう猶予はない。

「で、どうだった姫さん? 神の山での修行はよ?」

 ダルケルの言葉に、ゼルダは首を横に振った。

「ごめんなさい」

 一言が全てを物語った。夕日にゼルダの目じりの涙の跡が溶け出す。

 時間だからと泉から引き剝がしたのは俺。それ自体を謝るつもりはなかったが、何を言って慰めればいいのかわからずに口を閉じた。迫る時間だけは確かに時を刻む。

 これだけのことをしたのに、何も変わらなかった。

「姫様」

 ゼルダの荷をほどきながら着替えを取り出すミファーは、逡巡しながら言葉を選んでいた。抜かりなく手を動きながらも、思い出すように、心を覗くように目を細める。

「あの、上手く言えないんだけど、私考えてみたの。私が治癒の力を使うとき、何を思っているんだろうって。そしたら、それは……」

 ところが、ミファーの言葉は続かなかった。

 ドォンと地鳴りがする。

 揺れる地面に立つことままならない。とっさに濡れたゼルダの体を支えた。すがる指先に力が籠められ、彼女の顔に恐怖が張り付く。

「なんだ?!」

 ダルケルが怒鳴ると同時に、ちょうど北にあるラネール台地の向こう側を指さした。目に飛び込んでくるのは赤い雷を伴って渦巻く赤黒い霧。雷の落ちる音に加えて、オオンと何かが吠える声がした。

 距離は分からないが方角は、城。

 誰から何と言われずとも理解した。

「目覚、めた……」

 ゼルダの乾いた声が転がり落ちた。

 あれが予言されたもの。厄災、姫巫女が封じるべきもの。勇者が戦わなければならない相手。

 こちらは何の準備もないのに、それは穏やかな橙色の空を赤黒い暗雲で覆いつくしてゆく。何てものを相手取ろうとしていたんだろうかと、今更ながらに言葉を失った。

 対照的に、自分のなすべきことをとうの昔に理解していたダルケルとミファーは、気圧されてはいたものの立ち直りは早かった。

「大丈夫だ姫さん、奴は俺たちだけでなんとかしてみせる!」

 神獣に乗り込んで駆けつけること。当然、ハイラル平原の軍駐屯地にいるリーバルや、城に詰めているウルボザも同じ行動をとるだろう。

 英傑たちはすでに戦う準備ができている。逆に、力のない姫巫女と剣を持たない勇者には何もできることはない。

 無力だ、くそ、と地団太を踏みたくなるのをこらえ、ゼルダの手を取ろうとした。今の俺にできるのは、彼女の安全を守ることだけ。

 ところが柔らかな手は俺を振り払う。

「いいえ! 私も行かせてください、何もできないかもしれないけれど、せめて民を救わなければ!」

 力は無くとも、震えていようとも、彼女は毅然と頭を上げ続けた。

「ダルケル! ミファー! どちらか、シーカーストーンを使って神獣へ飛んでください」

 確かにそういう手筈だった。

 ところが差し出されたシーカーストーンに、振り向いた二人は首を横に振る。ミファーのいつもは柔らかな視線が、にわかに険しくなり俺の方を向いた。

「リンク、姫様を安全な場所へ連れて行ってあげて」

「どうしてですかミファー!」

 早くと急かすゼルダの声が、悲鳴じみた声に変わる。俺の手を振り払い、「どうか」とミファーの腕の中にシーカーストーンを押し付けようとする。

 ところがミファーは逆にゼルダの両腕を掴んで乱暴に揺さぶった。

「落ち着いて姫様。ここからじゃ、厄災がどこに現れたのか分からないのよ。それに姫様は止めたって城へ行くつもりでしょう? その状態で一番シーカーストーンを持っていなければならないのって、誰?」

 地鳴りは続き、暗雲が頭上まで広がってきていた。

 でも、だって、と泣きそうになる顔を覆って、ゼルダは頭を横に振る。それでもミファーは首を縦に振らなかった。

「今の姫様じゃあ、死に行くようなものよ。それじゃダメなの、みんなが生きるために行動しなきゃ。お願い、冷静になって」

「ミファー……」

「姫様の気持ち、分かる。分かるけど、まずは一緒にカカリコ村へ行きましょう」

 着替えもままならずに馬上の人となり、朝たどった道を行きよりも速く逆に駆け抜ける。何度も揺れが断続的に続き、瞑色へと向かうはず空は赤黒く染まっていった。

 これまで俺は幾度となく魔物の討伐に駆り出され、白銀の体毛を持つライネルとも何度か剣を交えてきた。それをはるかに上回る威圧が大気をぴりぴりと尖らせる。馬たちも怯えがひどく、なだめなければ足をもつれさせてしまうほどだった。

 たどり着いたカカリコ村は騒乱状態になっていた。被害自体はなかったが、村の外から逃げ込んでくる人でごった返している。どうして村の外側から人がなだれ込むのかと、村の高いところから眺めて、やはりと舌打ちをした。

 ハイラル城に巨大な何かが巻き付いて猛り声を上げていた。はるか遠くだというのに、ここまで怨嗟の轟が聞こえてくる。腹の底から恐怖をあおるような黒々しいあれの、正体とは一体何だろう。

 ウルボザの話によれば、厄災ガノンは大昔のゲルド族の男らしい。もちろん本当のところは、どうかは分からない。

 本当にあそこへ向かうつもりかとゼルダに問おうとしたが、先に重々しい老婆の声があった。

「姫様はカカリコ村へ残りなされ」

 高台へ上がってきた老インパは苦しそうに顔を歪めていた。孫娘二人が城に居る。それを承知の上で、ゼルダだけは残れというのだから、この老婆の胆力たるや恐れ入る。

 しかしゼルダがそれでは止まらない娘だということもまた、この老婆は知っている。幼いころから面倒を見ていたのだから、彼女の気質を十分に理解して立ちふさがるようにしていた。

 だが思った通り、彼女はきっぱりと首を横に振る。

「いいえ、城へ向かいます」

「なりませんぞ姫様」

「私には民を救う義務があります」

 さらに言い募ろうとする老インパの気迫はすさまじく、本来ならば臆するであろうところ、ゼルダはしっかりと頭を上げていた。いつの日か見た、尊い身分の強い気配がする。

「皆を、民を救わなければ、私は生かされた意味がない。誰が何と言おうとも、私は参ります!」

 言い終わる前から、馬腹を強く蹴って老インパを馬で飛び越えた。

 なんという荒業を使う。倒れかけた老インパの横を俺も通り過ぎ、混乱騒ぎの村を躊躇なく駆け抜ける背中を追う。

 追いすがる俺に向かって老インパの声が投げつけられた

「必ずやお守りしろ!」

 見えないだろうとは思いつつ、頷いてゼルダの馬を追いかける。

 同時に遠ざかるダルケルとミファーを見て、頼むと視線を交わせば、二人からも力強い頷きが返された。

 カカリコ村を出て平原を駆け下る。並走しながら叫んだ。

「城の方はどうなっているか分からない、くれぐれも離れるな」

「分かっています! ともかく城へ!」

 不気味に赤くうごめく空の下、北へと馬を駆る。どう考えてもおぞましい気配がする方向へ向かうのを、馬たちは何度も嫌がった。それでも無理をさせ、時に鞭を入れて足を進ませる。もはやどこかで馬は乗り潰すことになるだろう。城まで持てばいい。ただその一心で野を駆ける。

 すれ違う民は一様に、顔に恐怖を張り付けて逃げていた。

 暗雲は雷を伴って渦巻いていたが、遠目に圧迫感があっても、それ自体に攻撃性はない。どこからともなく沸いた魔物とて、量は多いが以前から居たものばかり。しかし逃げ出す者たちの形相はすさまじい。いったい何に恐怖をしているのか、不穏を感じつつも進まずにはいられない。

 恐怖の正体が分かったのはメーベの町を超えた辺りだった。

 前方に土煙と火の手が見え、戦闘する音が聞こえた。騎士団が戦っている馬蹄の音も聞こえる。軍が動いている、そこへ行けば何か情報がつかめるはず。ゼルダと顔を見合わせて、馬首を巡らせる。走り出す方向を定めた瞬間だった。

 一筋の閃光が草原を焼いた。

「何事ですか?!」

 夕闇に染まる草地に走った真昼のような光に目がくらみ、慌てて手綱を引く。驚いた馬が鋭く嘶いた。いったい何が起こったのか細めた目で確認しようとしたところで、ゼルダの乗った馬の嘶きが断末魔に変わった。

 同時に彼女の悲鳴が鋭く空を割く。

「ゼルダ!」

 馬から飛び降りて走り寄り、得体のしれない攻撃からゼルダをかばう。彼女が乗っていた馬は閃光に射貫かれて頭が丸ごとなくなり、胴体だけになった体が大きく痙攣して倒れていた。太い首の断面から音を立てて血が噴き出し、ごうごうと音を立てて草原が燃える。

 何が起こったのか頭が追いつかないままあたりを見回した。馬の頭が一瞬で消えるなど、尋常ではない。何者か、確実に人ではない。ましては魔物でもこんな攻撃をしてくる相手は思いつかない。

 未知の敵が来ることだけは分かって、全身が粟立つ。

 その正体が、丘陵の陰からのっそりと姿をあらわす。

 そいつは見上げるほど大きく、六本の足を自由に動かし、常時ならば青や黄色の穏やかな色できょろきょろと人の言うことをちゃんと聞いていたはずの、あれ。

「ガーディアン……!」

 空を埋め尽くす暗雲と同じ赤黒い光を宿し、黒いガーディアンの一つ目が俺とゼルダを捉えた。ピピピと赤いレーザーがゼルダの胸のあたりに照準を合わせる。

 なんだこれは。

 どういうことだ。

 理解が追いつく前に、ゼルダの体を突き飛ばした。一拍遅れて、倒れこんでいたところに光線がぶち当たり、地面がえぐれて火柱が上がった。

 ガーディアンが人を襲っている。

「なぜ……?」

 ゼルダも理解が追いつかないのか、見開いた目はただ蠢くガーディアンを追うばかり。

 分からない。何が起こったのかは分からないが、ただそれが純然なる敵だと判じるだけの頭は残っていた。

 次点の照準が合わさる前に走り寄って、蜘蛛のようなガーディアンの足を切り上げる。藻掻き、俺を振り払おうとする巨体に取り付いて、何度も青い単眼に剣を突き刺す。

 そうしてやっと停止したガーディアンから、赤黒い怨念のようなものが抜けていった。よく見れば躯体には剣や槍が何本も刺さり、中には千切れた腕だけが無残にぶら下がっているものもある。それでようやく理解した。

 厄災がガーディアンを操って人を襲わせている。

 本来、厄災に対抗するべき戦力が、逆に厄災の手足となって人を襲っている。赤く点滅する光が如実に事態を物語っていた。

「ゼルダ……」

 民が恐怖に駆られて逃げる正体は、間違いなく襲い来るガーディアンだろう。それもこの一体だとは到底考えられない。

 多くのガーディアンが城には配されていたはずだ。その半分が厄災の手に落ちたとしても、相当な量の巨体が民を襲っていることになる。

 前方に見える戦闘がおそらく軍の最終防衛ライン。おそらく城は厄災の手に落ちた。

 にもかかわらず、彼女はまだ立ち上がった。

「連れて行ってください」

「どうしてもか」

「行かなければ、駄目なんです」

 正直なことを言わせてもらえば、もうカカリコ村へ引き返す選択をして欲しかった。守れる気がしないのではない。行ってもできることがあるとは思えなかったから。

 それでもなお、彼女が諦めないであろうことはよく分かっている。ゼルダがそういう人なのは理解していた。

「御父様も、インパも、ウルボザもプルアも、みんなあそこにいたんです」

「……危なくなったら、すぐにシーカーストーンで離脱してくれ」

 ハイとは答えなかった彼女の体を、自分の馬へ引き上げる。二人を乗せるほどの体力はもう残されていないだろうに、俺の馬はまだ健気に走ってくれた。無理を覚悟で手綱を握る。

 統制が取れずに横に広く長く引き伸ばされた前線の、どこへ行けばいいのかは一瞬で分かった。雷鳴が響き渡る場所にウルボザがいる。

 案の定、混戦状態になったハイラル平原に、一か所だけ制圧が進んでいる場所があった。崩れ落ちた馬を置いて駆け寄った先に、見知った女傑が剣を振るう姿がある。

「ウルボザ!」

「御ひい様?!」

「ちょっ姫様なんで! リンクも!」

 ウルボザと、未だにゼルダの身代わりのドレスを着こんだプルアの姿があった。

 駆け寄ろうとする間に殴りこんでくるモリブリンを一刀のもとに切り伏せる。小型のガーディアン数体が取り囲もうとしているところへウルボザが指をパチンと鳴らせば、一斉に雷に打たれて煙を吹き、起動停止した。

「無事だったんですねウルボザ、プルア」

「どうして御ひい様がこっちに来てるんだい?!」

「インパは! カカリコ村にインパを行かせたのに、会わなかったの?!」

「入れ違いか。俺たちは会わなかった。これは、一体どうなってる」

 抵抗を続ける騎士団に最前線を託し、一時丘陵の背面へ後退する。それでも背後からは耳を塞ぎたくなるような悲鳴と怒号が絶え間なく続いた。

「厄災が、城の奥深くから湧き上がってきたのヨ。あっという間にガーディアンたちに取り付いて、……あとはもう一方的な殺戮だった」

「大きな怨念の塊が四方に飛んだのを見た。おそらく神獣もガーディアンと同様に乗っ取られているはずさ」

 早口にまくしたてて、珍しくウルボザはチッと舌打ちをした。どうしてウルボザがヴァ・ナボリスへ向かわずに、ハイラル城に残る兵たちと撤退戦を行っているのか、ようやく意味を知る。

 それとともに、それぞれの神獣へ向かった他の三人が、乗っ取られたことを知らずに心中を動かし始めていることも理解した。そんな、と歯を食いしばって涙をこらえゼルダはうつむいていた。

 しかし何かに気が付いて、ハッと顔を上げる。

「待ってください、御父様は? 一緒ではないのですか?!」

 周囲に騎士団や将軍の旗章はあるものの、王の在所を示す旗章が見当たらない。ローム王はああ見えて武人としての力量も確かな方であった。生きていれば必ずや自ら剣を振るっただろう。しかも最も安全であるはずのウルボザと共に行動をしていて然るべき人だ。

 しかし今ここに、王の姿はない。

「御ひい様、心を静めて、よくお聞き」

 最悪の事態を察したゼルダの手が、無意識に誰かを求めてさまよう。震える手を迷うことなく握り返し、俺もウルボザの言葉を待った。

 ゼルダはすでに俺と共に養父を亡くし、見送っている。その前にはお母上を亡くしている。三度、今度は本当の父まで厄災に殺されたのかと、身を固くした。

 ところがウルボザの口は予想外の言葉を吐き出した。

「陛下が、厄災だった」

「え……?」

 また丘陵の向こう側で、派手な閃光と悲鳴が上がる。ずるりと、俺の手の中からゼルダの手が崩れ落ちた。焦点の合わない瞳でゼルダは丘陵の向こう側を覗き見る。よろよろと立ち上がり、呆然としたままふらふら歩いてゆく。

 視線の先には巨大なガーディアンを数体、従えて歩く人影があった。

 その人はハイリア人にしては大柄で白いひげを蓄えた老人だったが、貫禄に見合うだけの王冠を戴く人だ。武人らしく手には幅広の剣を軽々と片手で担いでいた。

「ゼルダ。ようやく戻ってきたか」

「おとう……さま……?」

「そなたを苦しめていた貴族どもの死ぬところを、特等席で見せてやろうと思うておったのに、どこへいっておった」

 にこやかに手招きする様は、愛娘を案じてやまないただの父親にも見えた。しかし白目は黒く染まり、瞳は金に怪しく光る。

 転びそうに前へ足を出しそうになるゼルダ。とっさにその前に立ちふさがって、俺は剣を構えた。本来剣を向けてはならぬ国の頂点に立つ人に向かって切っ先を合わせる。

「どういう意味ですか、御父様。これは、なんで御父様が、民を? ガーディアンを……?」

「そなたの母は、城に入り込まれたことまでは気が付いたが、流石に誰に憑り付いたかまでは分からんようじゃった。それゆえ娘を逃がしたはずなのに、娘の方は力を得られず、長らく共にあっても気が付きもしない」

 ハッハッハと豪快な高笑いが風に吹き飛ばされていく。

「勇者をおびき出すのに生かしておいたが、当の勇者も気が付きもせずに退魔の剣を差し出す始末。揃いも揃って、滑稽であったぞ」

 にんまりとあざ笑う顔に、気が付けば剣を片手に走り出していた。

 あの時、ゼルダに近づきたい一心で大事な剣を差し出した。十五の子供には、不可抗力だった。それが全て奴の目論見通りだったことに、頭に血が上る。見抜けなかった自分に虫唾が走る。

 剣だけならば、誰にも負けない自信があった。例えそれが王であろうとも。

 だから喉を目掛けて振り抜いた刃が軽々と受け止められ、いなされ、あしらわれたことにあっけにとられた。その瞬間を狙いすましたかのように腹に蹴りを入れられて吹き飛ぶ。

 ローム王が武人として名高い人だというのはもちろん知っていた。だが、以前見た動きからしてみれば、俺の敵ではないはずだった。ゼルダの父だからと言って、手心を加えているつもりもない。

 受け身を取って転がると、再度駆け抜けて下から今度は切り上げる。ところが軽々と受け止められて鼻で笑われると、鍔迫り合いでごりごりと削られた。

「甘く見るな小僧。久方ぶりの体だからとて、貴様だけは容赦せん」

 何合と剣戟を交わすうちに、おぞましい気配が湧き上がった。

 俺はこいつを知っている。

 奴の動きを知っている。どこでやり合ったのかは分からないが、確実に知っていた。

 退魔の剣を手にした時と似た、だが剣とは違って『会いたくなかった』という出所の知れない記憶が体の底から呼び起こされる。嫌な汗が額を伝った。

 厄災と呼ばれた男と、俺は昔会ったことがあるらしい。

 もちろん生まれて十八年と経っていない人生の中に、該当する記憶はない。だが確かに俺は厄災と対峙した記憶があった。それはもしかしたら、生まれるよりもずっと前からの記憶。

「どういう、ことだ……?」

 理解が追いつかないが、またこいつを倒さなければならないということだけは分かった。本能的にそいつには刃を突き立てなければと急き立てられる。

 しかし、あたりはガーディアンたちに圧され始めていた。ウルボザやプルアも善戦はしていたが、騎士団も総崩れになり、旗章は折られて踏みにじられ、敗走が始まっている。

 逃げるな戦えという本能と、今は逃げなければ殺されるという理性がせめぎ合う。

 揺れる意識を理性の側に押し倒したのは、ゼルダの手だった。

「リンク、やめてください」

「なぜ」

「だって、憑りついているだけなんでしょう……?」

 信じられないものをゼルダの中に見る。まさか姫巫女当人が、封じるべき厄災の命を懇願するなんてこと、あっていいと思っているのか?

 声にならない怒りで、歪むゼルダの顔を睨む。厄災も一度目を丸くしてから、大きく笑い声を立てた。

「御父様を殺さないで……」

 剣を握りこんだ右手が、ゼルダの泥だらけの手に縋られて動かせなくなる。振り払おうにも、こんなところまできても、俺はゼルダの言葉を飲むことしかできなかった。

 彼女の手を取り、元凶に背を向けて走り出す。怒号が聞こえたが、かまわず走り続けた。

「ウルボザ、撤退する!」

「任された、振り向くんじゃないよ!」

 背後でひときわ大きな雷の落ちる音がした。雷に守られながらほうほうの体で逃げる。

 退魔の剣もなく、封印の姫巫女の力もない。今の俺とゼルダではあいつには勝てない。

 今はただ、ゼルダの願いを聞き届けるために逃げているのだと言い聞かせ、背後をウルボザとプルアに頼みながら走った。口の中が錆びた鉄の味でいっぱいになった。

 襲い来るガーディアンの足を斬り、目を潰し、魔物たちの首をはねる。普段ならば造作もないことが、どんどん血に濡れて重たくなる。どうにかしなければと考えれば考えるほど、体が動かなくなっていった。

 一息ついたのは崩れかけたメーベの町まで逃げてきてから。動き回るガーディアンから身を隠し、崩れかけた建物の中に四人で息をひそめる。

 すすり泣く彼女の声が耳に痛い。

「ごめんなさい……」

「御ひい様、気を確かに」

 動く者の姿は犬一匹すらなく、蹂躙された街に残るのは生き物の焼ける臭い。それすらも鼻が麻痺をしていて、感じることを拒否している。

 家屋の中に燃え残ったパンを見つけ、すでに姿のない住人に心の内で断りを入れながらかじった。当然のように味はしない。

「ともかく姫様は、アッカレ砦かカカリコ村か、どちらへ逃げるか決めないとネ。シーカーストーンを使うのは飛んだ先に護衛がいないから最終手段、とはいえ厄災が城の中央制御を完全に制圧したら使えなくなる。時間の問題だから気を付けてネ」

 勝手に家を物色して、動きやすい服装に着替えたプルアが腕組みをしていた。棚を漁り、俺と同じように保存食を見つけて口に含む。一瞬、うえっと吐き出しそうにしてから、どうにか咀嚼して飲み込んでいた。

「プルアはどうする?」

「あたしは研究所へ向かうワ。あそこにはまだ無傷のガーディアンが大量に保管してあるから、無事なら乗っ取られる前にすべて爆破しないとネ。ちょっとでも被害を小さくしないと、研究者としては寝覚めが悪すぎる」

 その後はと問うと、プルアは「さあ」としか答えなかった。

 研究所へ向かったとして、その先がどうなるとも分からない。生きて落ち延びるならば、むしろ軍が撤退していったアッカレか、あるいは東西の入り口を狭い切通に囲まれたカカリコ村へ逃げ込むべきだ。それでもプルアは逃げる気配は見せなかった。

 俺とウルボザは、どちらへ向かうのか相談しようと顔を見合わせる。軍本隊が向かったのはおそらくアッカレ砦。備蓄と防衛面を考えるのならば、おそらくカカリコ村よりも安全のはず。だがインパはカカリコ村へ先に向かったという。どちらへ行くべきか。

 どうするかとウルボザに問おうと口を開こうとしたが、それはゼルダによって遮られた。

「ウルボザ、頼みがあります」

 差し出されるシーカーストーン。

 画面に映し出されるシーカーマークが頼りなく点滅していた。

「どうかダルケル達を助けてください」

「どういう意味だい?」

「ウルボザならそれぞれの神獣の中へ入れます。そうすれば先回りをして、乗っ取られた神獣に入る前に三人を止めることができるはずです」

 ウルボザの受け取らない手の中に、ゼルダは無理矢理シーカーストーンを押し付けようとする。幾度かの押し問答。

 ここまで来てもまだ、ゼルダの頭の中にあるのは自分のことではない。どうして自分ばかりをないがしろにするのか分からない。それが無性に忌々しくて、お願いしますとシーカーストーンを差し伸べる手を押さえつけた。

「それだけは許さない、止めてくれゼルダ」

 いつ使えなくなるか分からなくても、これは大事な手段の一つ。それをむざむざゼルダ以外に使うなど。

 脳裏にダルケルとミファーとリーバルの顔が浮かび、それでも俺はゼルダを選ぶ。

 ところが彼女はキッと俺を睨むと、立ち上がりシーカーストーンを操作した。

「誰も行かないのならば私が行きます!」

「やめてくれ!」

「行かせてください、もう誰も殺したくないの!」

 もみくちゃになって、ぼろぼろと涙をこぼすゼルダの手からシーカーストーンを取り上げる。やめて、行かせて、殺さないでと懇願する手を、心苦しくも振り払い俺は何度も駄目だと繰り返す。

 乗っ取られている神獣の中に一人で向かわせるなんてできるはずがない。いくら弓の腕が立つといっても、ゼルダは姫君なのだから。そうでなくともガーディアンの闊歩する地から逃げ出すための切り札を他人の命のために使うなんて。むざむざ彼女を窮地に追い込むなんてできるはずがない。

 ただそればかりの俺の手から、シーカーストーンを奪ったのはウルボザだった。

「誰が助かっても、誰が助からなくても、恨まないでくれるかい」

「ウルボザ!」

 慣れない手つきで画面を操作して、地図を呼び出しながらウルボザは各神獣の現在地を確認する。メドーとルーダニアはまだ動いていない。ルッタだけが動き出していた。位置的に近かったミファーだけが、まず先に神獣に乗り込んだとみて間違いない。

「リンク、あんたなら御ひい様を安全なところに連れていけるだろ?」

「しかしウルボザ!」

「リンク、あんただから言ってるんだ。あんた以外の奴ならこんなことは言わない」

 睨み据えたウルボザが、どうしてそこまでするのか俺には理解できなかった。ウルボザにとってもゼルダは大事な友人の娘のはず。それをなぜ危険が増える選択肢へと誘導する。

 問おうにも、すでにウルボザは腹をくくっているようだった。

「リンク、御ひい様を頼んだよ」

「……わかっ、た」

 すでに当人も傷だらけで、砂漠の女傑といえども無傷ではない。それでも彼女は、我が子のように可愛がっていた娘を抱き寄せた。

「安心をし。この役目、私が引き受けよう。その代わり、ちゃんとリンクと逃げるんだよ」

「ごめんなさいウルボザ、わがままを許してください。お願いします……」

 ウルボザが青い光と共に去り、プルアも「じゃあネ」と西へ去る。俺は悲痛な面持ちのゼルダの手を取り、滅びたメーベの町を出た。

 ここから東へ、レボナ橋を渡ってゴングル山の方角へ向かえば軍と合流できる可能性が高い。それにメーベ草原の起伏を盾に、ガーディアンの目をかいくぐることもある程度は可能なはず。

 泥にまみれた手を取って、東へ走り出す。すぐさまガーディアンと魔物を数体切り刻むことになり、追手の量に辟易しながら草原を駆けた。

 だがレボナ橋まで来たところで、二人して息を飲む。

 橋の向こう側の夜空が赤々と炎が照り返すのが見えた。方角から推測するに、燃えているのはおそらくラネール湿地のコポンガ村。アッカレへ撤退戦を行うガーディアンたちの一部が湿地に向かったか、あるいはルッタが侵攻したのか。

 その時点で俺の読みは外れていた。陰から飛び出してきたリザルフォスを三匹、たて続けに切りさばいて考え直す。もう東へ向かうことができない。だとしたら逃げ道は南しかない。

「アッカレはもう無理だ……、カカリコ村へ向かおう」

「……はい」

 繋いだ手のぬくもりだけを頼りに、ハイリア川の脇を夜陰と雨に紛れて南下する。折からの雨に、体からじわじわと体力が流れ出て行った。朝感じた空の不穏な動きは、間違っていなかった。こんな時に雨なんてついていない。

 途中何度も歩を緩め、少し休もうと声をかけたが、ゼルダは頑として首を縦に振らなかった。曰く、まだできることがあるはずだからと。

 俺に言わせれば、それは何なんだと怒鳴りたかった。

 父王が厄災に憑りつかれて民を殺し、生き延びるための切り札さえ他人のために使い、ゼルダだけがぼろぼろになって落ち延びる。一体何ができる、もういい加減、楽に流れてもいいのでは、と。

 でも心の内でいくら苛立っても、悲痛な顔を見ると何も言えず、先に進むしかできなかった。

 夜明けが来る頃、雨は降り続いていたが、ハイリア川の二股に分かれたところまで来た。昨晩馬を駆ったサハスーラ平原にようやくたどり着くかと思った。ここまでくればシーカー族の隠密とも合流できる可能性が出てくる、どこかでインパが探してくれているかもしれない。早く安全なところへ連れて行こうと、急く思いに浮足立ちながら橋を渡った時だった。

 南側で悲鳴と、またガーディアンの閃光が走った。

「リンク! あっちで人が!」

 反射的に悲鳴の上がった丘の向こう側へ走り出そうとするゼルダの手を力強く引く。

「そっちじゃない」

「でも、人が襲われています! 助けないと……!」

「ゼルダ」

「お願いです行かせてください、民を失っては駄目なんです!」

 どうして、と問おうにも、怒りに任せた言葉しか出てこないので口を噤んだ。

 なぜゼルダは自分のことを二の次にして、他人を助けることしか考えないのか。なんで苦しい場所から、さらに苦しい場所へ自ら進んでいくのか。

 もういい加減に逃げ出してもいいはずだ。ゼルダを責める人なんかもういない。

 頼むからもう逃げてくれ。

 嚙み締めた歯の間からどうにか言葉を吐き出そうとしたが、上手くいかずに苦しい息だけを吐き出す。そんな俺に彼女は答えを与えてくれた。

「国が滅びても人は生きていけます。ハイラルを渡り歩いたあなたも知っているでしょう? 治める者がいなくても、民は勝手に生きていけるんです。でも人が滅びたらお終いになってしまう」

 言われて、ようやっと腑に落ちた。

 彼女にとってのハイラルは、人なんだ。

 王家や貴族などはどうでもよい。逃げているしがない民草こそが一番の大事。高貴な彼女にそう考えさせるだけの何かがあったのだとすれば、それは俺と共に市井に紛れて平民として暮らしたことだろう。

 どれだけの人々に支えられて自分が生き延びたのか、知らぬ王女ではない。だから民の命と自分の命を天秤にかければ、間違いなく民を取る。

「だから、民だけは救わなければ……お願いです、リンク。ハイラルを殺したくないの」

 胸元に汚れた指が縋り付いた。

 もしも心の底から国に忠誠を誓っている騎士であったならば、俺は王女の手を取って迷いなく願いを聞き届けただろう。あるいは民を救うのが騎士たる己の役目だと自負して、脇目も振らずに民を助けに向かったことだろう。

 だけど残念ながら違った。事ここに至っても、俺は生粋の騎士でなければ、勇者ですらない。

「俺は勇者じゃない」

「リンク!」

「だからハイラルが滅びても、ゼルダが無事ならそれでいい」

 断続的に続く悲鳴は遠のき、人々が南へ向かって逃げているのが手に取るように分かった。この小高い丘の陰に隠れておけば、ガーディアンに見つかることなく逃げおおせることができる。

 ゼルダを守るならば、それが最も確実で安全な方法なのは間違いない。悪いが民には囮になってもらうのが上策、そんなの素人だって分かる。

 大勢の人と、目の前の大事な一人、どちらを取るかなんて問題は簡単だ。大事な人を取るに決まっている。ゼルダが民の命を迷うことなく優先するのと同じで、俺は迷わず民よりもゼルダを優先させる。

「でもここで民を見捨ててゼルダの心が死ぬのなら、俺はあの人たちを助けなきゃならない」

 また人の焼ける臭いがした。阿鼻叫喚の地獄が、丘の向こう側で無辜の民を喰っている。そちらへ行こうなんて、気が狂っているとしか思えない。

 だから繰り返し聞く。

「俺は勇者じゃないからハイラルなんかどうでもいい。それでもいいの?」

 ざわざわとまだ焦げていない草地が雨風に揺れた。

 こんなことになるまでゼルダを追い詰めたハイラルという国の人間どもを、助けたいなどとはこれっぽっちも思わない。しかし彼女がそれを望むのならば、俺はしょうがない、嫌でも手を尽くす。

 ごめんなさいと泣きながら、ゼルダは首肯した。

 とても強欲な人だと思った。でもそういう人だと分かっていて、俺はずっとそばにいたはずだ。

「分かった、行こう」

 手を放し、南へ向かって丘を駆け上がった。

 逃げ惑う二百は下らない人の群れに、歩行型の巨大なガーディアンが三体、襲い掛かっているところだった。流石に距離があり、駆け寄るまでにどれほどの被害が出るかと目を細める。

 ところが俺の不安をよそに放物線を描いて矢が降り注いだ。

「注意を引きます!」

「無茶はしないって約束はどこへ行ったんだ!」

 すぐさま回頭したガーディアンの照準が、ゼルダの白い巫女服に赤く染みを作る。発射されるまでに猶予があるのがこれまでの戦闘で分かってはいたが、さすがにやり過ぎだ。馬鹿と叫ぶ暇もなく、全力でガーディアンの巨体に飛び乗って発射の寸前に目玉をえぐり切る。

 小規模な爆発と共に赤黒い怨念が抜けて停止したので、止めていた息を吐き出すと、残り二体の照準が俺に合わさっていた。

 同様に発射前に取り付いて目玉に剣を突き立てようとしたが、眼前で仲間が壊されたのを見たやつらは、俺の剣が届かないようにと六本足をうまく操って距離を置く。足を切れば動けなくなるのに、脚部にさえ届かない。弓か閃光を跳ね返す盾があればよかったと思った時だった。

 ガーディアンの体勢がガクッと崩れる。俺から見えない位置で、誰かが剣を振るっていた。見知らぬ、おそらくただの民が、必死で手持ちの剣と槍とを振るって足止めをしていた。

「今の内です!」

 前面を俺とゼルダに、背後を大勢の民に、双方向からの攻撃にガーディアンは混乱気味に回頭して照準を合わせずに閃光を短くあたりにまき散らす。そのたびに爆発に人間だったものが形を失って爆ぜていく。

 その隙をついて一体は俺が剣を突き立て、もう一体はゼルダが目玉に数本の矢を突き立てる。ややあってガーディアンは停止する。しかし焦げて性別すら分からなくなった人が、巨体の下敷きになって幾人も倒れていた。

「姫様、騎士様、ありがとうございます……!」

 前髪から落ちる雨を甲でこすり上げ、顔を上げると人の群れがあった。助けられる命がまだこれだけ残っている。

 ここで立ち止まっている暇はなかった。

「南へ走れ! 双子山の間を抜けてハテノへ向かえ!」

「女性や子供、老人に手を貸して、先に行かせてあげて! 武器を取れる者は加勢を、殿しんがり</rubyは私たちがつとめます!」

 軍とは違い、民間人の手にはろくな武器がない。それでもガーディアンの足を止める程度のことができる者が中にはいて、数人がかりで一体を足止めしては俺がとどめを刺していく。遠くからもゼルダの矢がガーディアンの目を綺麗に射貫き、中には目だけが針山のようになった躯体もあった。しかし一体を止めるのに数人、必ず死者が出る。もう誰が死んだのかさえ、分からなくなっていった。

 人の群れを追い立てながらノッケ川の浅いところを渡らせ、双子山の割れ目を行く。何人か川の流れに溺れる姿もあったが、その全てに手を差し伸べる暇もない。倒れ伏す人の数はもう数え切れるものではなく、川が赤く染まった。

 それでも人の群れは止まらずに東を目指す。その最後尾にあって、俺とゼルダは雨ざらしの体を盾にして、止まぬ追撃の矛先を払い続けた。

 近衛として賜った剣はとうの昔に折れて、すでに拾った剣も数本を折っている。死んだ者の手から武器をもぎ取り、武器を使い潰しながら襲い来るガーディアンと魔物たちを止め続けた。

 ゼルダの弓はまだどうにか弦が切れずにいたが、こちらもそろそろ限界。矢も足りない。じり貧の中、民を生かすゼルダの願い、それのみを頼りに振るう切っ先はもうだいぶ下を向いていた。

 どうして俺は大事な人を戦わせているのか、途中から考えるのを放棄していた。この人を守るために振るいたかった俺の剣は、当人たっての願いで民のために振るわれている。なんてバカバカしいんだと思いつつ、これが彼女の願いかと思えばまだ辛うじて体が動く。

 だから、弓弦が切れた音を聞いた時には、ようやくゼルダを前線から遠ざけられると笑みさえこぼれた。

「もういい、皆と一緒に逃げろ」

「リンクは?」

「足止めをする」

 狭窄した谷間から、開けたクロチェリー平原へ。もう身を隠す岩もなければ、ガーディアンの巨体がぶつかり合ってお互い邪魔することもない。

「いいから行け! カカリコ村から援軍を呼んでくれ!」

 そういう言葉を使えば、ゼルダが苦痛に顔を歪めながらも走ってくれるのは計算の内だった。死なないでくださいという言葉を背に受けたが、大丈夫とは答えなかった。

 昼だというのに暗く雨の降りしきる平野部に、殿をつとめて生き残った数人と共に取り残される。一人、また一人と閃光に射貫かれて死んでいった。

 本当の意味で援軍を呼んで来てもらえたならば、どれほど助かったかもしれない。でもこの様子ではただの関所であったハテノ砦は敗戦濃厚なまま防衛をしているだろうし、カカリコ村だって西側の切通を使って防衛線を敷いているはず。

 もうクロチェリー平原に取り残された敗残兵に手を差し伸べられる援軍はどこにもいない。

「でもまぁ、ゼルダが助かったのならいいか」

 ついに剣が持ち上がらなくなった。

 倒したばかりの黒い巨体の合間から、さらにもう一体、無傷で活きのよさそうなガーディアンが顔を覗かせる。

 これはもう、死んだなと思った。

 外れなく合わさる照準と、泥の中についた自分の膝を見る。視界は歪み、体の至る所から血が噴き出す。息をするのも辛い。

 ただ、遠くに白い衣が見えた気がして、なんで戻ってきたのかと目を細めた。

 せっかく逃がしたのに、どうして戻ってきた。お前が生きてくれなきゃ、俺は無駄死にだろうが。それよりもなんで、どうして。

 思考が上手く紡げなくなり、いよいよ頭の中も視界も真っ暗になる。

 痛いのはもう散々だ。一瞬で頭を焼き切ってくれればいいなと、ぼんやり考えた時。

「しっかりしろ、諦めるな!」

 俺を焼き殺すはずだった閃光が、怒号と共にあらぬ方向へ飛んで行った。驚きに目を開けると、ガーディアンの頭部に登って武器を振りかざす大柄な姿がある。

 あれ?と首をかしげようとして、頭の重みにか耐え切れず泥の中に崩れ落ちた。でも死んでいない。遠くでゼルダが叫ぶ声が聞こえて、温かい腕が俺の体に触れる。

 だめ、だめ、死なないでと泣く声が辛い。

 泣くなよ、と慰めてやりたいのに指の先すら動かない。

「よく、娘を守ってくれた。早くこの若者の手当てをしてやれ!」

 どこかで聞いた、随分と張りのある老人の声。誰だっけ、いつ聞いたんだっけと、かすれてゆく意識の中で声の主を見た。

 顔に大きな傷があって城にいる陛下とは随分と風体が違うので、あの時はまさか当人だとは気が付かなかった。瀕死の俺を助けてくれたのは、数年前、時の神殿で早生のりんごをくれた老人。

 ようやく一致した面差しに、現実が混乱する。ローム王は厄災に取り付かれていたはずだ。この目でしかと見た。

 だが、目の前には顔に傷があって風貌こそ大きく違うが、ローム王本人が剣を振るい、厄災に乗っ取られたガーディアンと戦っていた。