12 懺悔
「戦士たちよ、命を賭した任を引き受け、今日この場に集ってくれたこと、感謝する」
水を打ったように静まり返る広間に、御父様の朗々とした声が響き渡った。
「そなたたちをハイラルの英傑に任じ、その衣を与えよう」
正装用のドレスは未だに窮屈に感じていた。しかしながら今日は英傑式。相応しい姿で私は中央に立たねばならない。
私の背後には、ゴロン族のダルケル、ゾーラ族のミファー、リト族のリーバル、ゲルド族のウルボザが並んだ。彼らには、四つの神獣の繰り手となってもらう。協力を取り付けるために私が各地へ赴いた。
神獣の繰り手を任命する件について、御父様にいくら進言してもなかなか話が進まなかった。業を煮やして私が直接話をしに行くと言ったら「また失踪でもしたら」と心配な顔をしてようやく重たい腰を上げてくれた。でも結局、話をつけたのは姫である私。
ミファーとウルボザは元から面識があったので難なく事が運んだ。ただ数年ぶりに会ったミファーが、私がハイラル王家の姫だと分かった途端に態度が変わってしまい、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
あれからミファーは私のことを『姫様』と呼ぶようになり、名前を呼んでくれない。
「その青は、我が王家の象徴とされてきた由緒正しき色である」
ダルケルとリーバルは、なんとリンクの知り合いだった。
ゴロンシティに行った折、ダルケルはリンクのことを相棒と呼んでいた。経緯を問うと、一時期リンクはゴロンシティに身を寄せていたことがあったという。ただ、リンクの方が「あまり以前の話はしないでくれ」と低い声を出すと、ダルケルは眉を八の字にしてしょぼんとしていた。
もうひとり、リーバルはなんと以前のハイラル平原の掃討戦においてリンクと共闘した仲だという。とは言え、あまり仲が良さそうではなかった。リーバルは近衛姿のリンクを見つけるや否や「僕は英傑に任じられたのに、君はただの近衛騎士かい?」と鼻で笑っていた。姫付きの騎士として常に帯同しているので、私と顔を合わせる度にリーバルはリンクに絡む。もちろん表情も感情も波打たないリンクは何を言われても微動だにしなかったので、しばらく挑発を続けていたリーバルも最後はつまらなさそうにそっぽを向いてしまった。
「そして、それを仕立てたは、我が娘ゼルダ」
御父様の声が私を名指しにする瞬間、居並ぶ兵たちの視線が否応なく背中に刺さった。盾になってくれる人もなく、己の心を守れるほどの自信もない。
貴族だけではなく、ついには城勤めの平民でさえ、私を糾弾する声を発するようになった。非難の声は日増しに大きくなっている。
なのに未だ私の力に目覚める兆しはなく、勇者も見つからない。
『本当にあれは王家の姫なのか』
『下賤の娘が姫に成りすましているのでは』
『市井に降りて姫君の純潔が汚されたから目覚めないのだ』
誹謗中傷は湯水のごとく湧いた。
陰口に現実味を持たせ、拍車をかけ続けていたのは、対たる勇者が現れないことだった。
『姫巫女に何らかの落ち度があるから勇者が現れないのではないか』
反論できず、何度も歯を食いしばった。
今日も本来ならば、私の後ろには各種族から選ばれた英傑と、加えてハイリア人の勇者の五人の予定並ぶはずだった。しかしながら今、姿があるのは四人。
退魔の剣を携えた勇者は影も形もない。
姫巫女の力も勇者も現われないのなら、せめてガーディアンと神獣だけでも動かせるようにしておかなければと、私は死に物狂いで動き回っていた。でも、同胞のハイリア人たちは一向に認めてくれる気配は無かった。
唯一救われたのは、御父様が優しく接してくれたこと。気にするな、そなたが努力しているのはワシが一番よく知っておる。そう言われて何度も涙をこらえた。
でもそんな御父様も、式典の場では毅然と王として振舞う。
「ゼルダよ、王家の姫に受け継がれてきた任を全うせよ」
力強い御父様の言葉こそが、本来は私がするべきこと。姫巫女としての役割を果たさなければならず、慰めてもらっている場合ではない。甘えなど許されない。
それぞれの英傑の背後には、各種族の御旗を掲げる一族の者が立っている。本来であれば私の背面には姫巫女の対である勇者が立ち、さらに後ろに王家の旗章を掲げるはずだった。
ところが私の背後には誰もいない。ただ一人、旗章の傍らに近衛騎士であるリンクが立つのみ。それも遥かに気配が遠い。背筋を伸ばして歯を食いしばり、前を向く。
「英傑たちの長となり、このハイラルを厄災ガノンの脅威から護り抜くのだ」
空っぽの後背を見るのが怖かった。
自分でも、本当に己が正当な姫巫女なのか疑いたくなる。姫巫女としての修行は続けていたが、城下のハイラル大聖堂や足を延ばしても時の神殿まで。それ以上、遠くへ行く機会はあまり与えてもらえない。
足掻いてはいる。でも努力が全然足らない。
苦しい現実は夜まで追いかけてきて、安らかな眠りさえ侵食していった。もう最近は、ゆっくりと眠れた記憶がない。化粧で顔色が悪いのをひた隠しにして、厚い臙脂の絨毯に沈み込む足が揺らがぬように力を込めた。
辛い、苦しい。でも、がんばらないと。
誰か助けて。甘えちゃダメ。
声ならぬ声は祝いの花火の音にかき消された。
式典を終えるといったん私室に戻り、野外調査用の動きやすい服に着替えて英傑たちをハイラル平原のハイラル軍駐屯地に連れて行った。本当なら城の東屋でのんびりと親睦会でも開きたいところだったが、今日は大事な話をする予定があった。
四人を連れて行ったのは駐屯地に立ち上がった塔の上。顔見知りもいるのだからリンクもどうぞと言いたかったが、彼はただの姫付きの騎士でしかない。各種族の代表である英傑と同じ場に居合わせる立場ではなかった。彼自身もそれを理解し、少し離れたところで恭しく礼をして、私から離れていく。
皆を先に上がらせて、最後に塔の上に上がる。ミファーとウルボザの心配そうな顔を見つけたので、無言で「大丈夫です」と頷いた。上手く微笑むことができたと思う。
「お集まりいただきありがとうございます」
「そういう堅苦しい話はもう腹いっぱいだぜ、姫さんよ」
「そうだよ、早く大事な話とやらをしてくれよ」
疲れた顔のダルケルがぐるぐる腕を回し、リーバルは肩をすくめた。彼らの気さくな態度に、城の者は眉をひそめたりもするが私は好きだった。どことなく、旅をしながら村々を巡っていた頃を思い出す。
リーバルは一見すると口が悪いのだが、こう見えて気を回してくれる人なのは分かっている。天才と称されるが本来は努力の人だ。いつだったか、私の悪口を行った騎士をわざと挑発して弓で勝負をつけたことがあった。手を煩わせてごめんなさいと謝ったら、「ここはお礼を言って僕を褒めるところだと思うけどね」と逆に怒られてしまった。
ダルケルも厳つい外見に騙されがちだが、根はとても優しい。一度、リンクの話を聞こうとしたら、リンクからの「言わないでくれ」という言葉と板挟みになって、しゅんと困り顔をさせてしまった。本当は聞きたかったけれど優しいダルケルを困らせたくなくて聞くのを止めると、「いつか話すから待っててくれや」と大きく頷いてくれた。
ミファーもウルボザも、気位の高い侍女たちよりも私の気質をよほど良く把握している。だから彼ら英傑たちといる方が、城仕えの者たちよりもよほど居心地がよかった。なにより、彼らと行動している時が、最も生産的に活動している感触があった。
「では単刀直入に。王家が所有している古代遺物、シーカーストーンで皆さんの神獣へ瞬間移動ができることが判明しました」
「はぁ?! どういうこと!」
「瞬間移動? なんだそりゃ、食えるのか」
「ダルケル、食えるわけがないだろう?」
ハテール地方の塔を起動させた帰路、カカリコ村からサハスーラ平原へ出た時だった。老インパの見送りに振り向くと、ラネール湿原の奥に橙の光を灯す塔が見えた。他にもよく見まわしてみると、ハイラル平原のど真ん中とハイラル大森林の方向にも同様の塔が見えた。驚いて馬から落ちそうになったぐらいだ。
プルアによってシーカータワーと名付けられた一連の塔は、その後の調べで、どうやらハイラル全土を網羅するように十五機存在することが確認された。またハテール地方の塔と同様に全ての塔がシーカーストーンで起動することができて、ハイラル全土の地図がいま、手元にある。
「まずはこちらを見てください。これが先日、出土したシーカータワーから得られたハイラルの地図です」
小さな画面に四人が群がる。特に大空から大地を眺めることができるリーバルは、地図の正確さをすぐに理解したのだろう。目を細めて食い入るように見ていた。
先日のシーカータワーが出現したときの騒ぎは大変なものだった。国中、上から下からの大騒ぎになり、その後は古代遺物の物珍しさに近くまで見に来る人が後を絶たなかった。
仕方がないので今は全てのシーカータワーに兵を配置して、軍の基地のひとつとして扱っている。未だに厄災が封じられている場所が分からないこともあって、ハイラル全土を網羅する巨大な物見櫓としても非常に有効な手立てとなっていた。
「これを見せたってことは、王家は地図の利権を独り占めにしないってことだね?」
「はい、これは皆さんと共有した方が良いと、御父様に進言しました。先日出現したシーカータワーへの立ち入りも、各種族の軍関係者に限り解放したいと思っています」
「いい心がけだと思うよ。ハイリア人だけが情報を持っているなんて不公平だ」
「ありがとう姫様。ゾーラのみんなもこれで少しは安心すると思う」
「でも問題はその瞬間移動の方だよ、御ひい様」
ええ、とウルボザの言葉に頷く。シーカーストーンを引き寄せてタバンタ大雪原の南側を拡大した。タバンタ大雪原の南、ククジャ谷のすぐ脇にヘブラ地方のシーカータワーのマークが青く光っていた。
「では今から、私はこのヘブラの塔へ行って帰ってきます」
「どうやって信じろって言うんだい?」
「それは見てからのお楽しみです」
きっとリーバルもびっくりしてくれるに違いない。
唯一、事前実験の手伝いをしてくれたミファー以外の三人は、腕組みをしたり首を傾げたり。私は彼らの目の前でシーカータワーのマークに触れた。
ふわりと体が解ける感覚があり、三人が目を丸くするのが見えた。ミファーだけ訳知り顔で、ちょっと笑って手を振ってくれたので私も手を振り返す。
次の瞬間、私はヘブラの塔の上に立っていた。急に冷たい空気を吸い込んで、体がびっくり、喉がきゅっと締まってむせる。北側には真っ白な雪原、つい数刻前まで式典が行われていた城がはるか南東に見えた。
事前に通達してあったので、見張りの兵は敬礼こそしたものの、あまり慌てた様子はない。「雪を少し頂きますね」と端に積もった雪を掬い、もう一度ハイラル軍駐屯地の塔のマークに触れる。
全く間に戻り、ほらと右手に乗せた雪を差し出した。
「これで信じてくれましたか?」
つんつんとダルケルの太い指が雪の感触を確かめて、ゴロン族特有の小さくてつぶらな目が大きく輝いた。ウルボザもまぁと開いた口がふさがらない様子で、リーバルは「あ、え、えぇ……?」と声にならない声を発している。
どうやら無事に瞬間移動を信じてもらえたみたい。大成功ですね、とミファーと顔を見合わせた
「これと同じ機能が、各神獣にも備わっていることが先日、ヴァ・ルッタの解析で判明しました」
「じゃあ何かい、ここでシーカーストーンを使ったら、今ゲルドの街のすぐそばに居るはずのナボリスまで一瞬で行って帰ってくることができるって言うのかい?」
「いえ、今すぐは残念ながらできません。移動先の地点にある勇導石にシーカーストーンをはめて登録する必要があります。でも一度登録してしまえば、このシーカーストーンを使って誰でも一人までならば移動できることが分かりました」
再びシーカーストーンの地図を出して、今度はゾーラの里の東側、貯水湖のあたりを拡大する。そこにはルッタのマークが青く光っていた。
「な、なるほどね。大事な話っていうのは、その移動地点に神獣を登録する話か」
「そうです。それぞれの神獣をシーカーストーンに登録しに伺いたいということと、加えてこの移動機能を英傑の誰かが使わなければならない可能性を考えておいてほしいのです。ハイラルのどこかで厄災があふれ出たとき、もっとも近い神獣の英傑に真っ先に対峙してもらうことになると考えています」
この移動法は、シーカーストーンを持ったハイリア人が、無許可で彼らの土地に現れる可能性もある。その点に関しても、また真っ先に厄災と戦わなければならない可能性についても、もちろん構わないと三人とも即答してくれた。これで、またひとつ厄災への備えが厚くなる。
プルアやインパはシーカーストーンの瞬間移動機能を、私や御父様に何かあったときの脱出手段にと主張した。でも私は辺境で厄災が復活した際に、英傑の誰かを優先的に神獣に送り込む手段として使いたいと説き伏せた。
未だ厄災が封じられている場所も分からず、発掘しているガーディアンの数も足らない。城の周囲にあるという五本の石柱も見つかっていない。厄災が復活する場所によっては、最も近い神獣に英傑の誰かを送り込み、民を避難させる時間を防ぐような動きになると踏んでいた。
いわば、最初に送り込まれる英傑は敵陣に切り込むも同然。もちろん命の褒賞は無い。申し訳ないとは思いつつ、早く私も皆の役に立つために力を得なければと覚悟を新たにする。
そのあとは、四人とも興味津々だったので一回ずつ好きな塔に移動をして試すことになった。残念ながらヘブラの塔以外へは何の通達もしていなかったので、飛んだ先でビックリされたらしいが、皆楽しんでいた。
塔から降りて、どこから登録に回るかの相談をするときになって、ミファーがスッと姿を消す。ルッタはすでに移動先に登録できているので相談に混ざらずとも問題は無い。けれど調和を貴ぶ彼女らしくないと思って見回すと遠く、リンクの傍に赤いヒレが動いているのが見えた。
「ミファー……」
リンクの固い顔を見上げて、身振り手振り何か一生懸命に話しかけているのが見えた。しかしリンクが表情をあまり変えずに首を横に振ると、ミファーは悄然と項垂れる。私が見ていることに気が付いた彼女は、顔を上げてすぐに戻って来た。
「どうかしたのですか?」
「ううん、なんでもない。姫様のお付きの騎士の方が、私の幼馴染にすごく良く似ている気がしたの。だから声を掛けたみたけど……人違いだって言われちゃった」
歪曲的な言い方で、リンクがあのリンクと認めなかったことを示唆する。
どうやら彼は、出会ったのが力の泉で私と離ればなれになる前と後とで、話をするかどうかの線引きをしていると最近ようやく分かって来た。その証拠に、ダルケルとリーバルから声を掛けられれば嫌そうにしながらも応じる。私やミファー、シーカー族の幼馴染には他人の振りをした。
私を守るためだと理解していたが、最近は随分と腹が立ち始めている。押しても引いても反応がない。あれで私を守護しているつもりなのかもしれないし、確かに剣の腕は誰にも負けないし心強いとは思った。しかし私はもっと近くに居て欲しいと常々思っている。
「相手にしていると気が滅入りますよ」
「うん、ハイリア人は成長が早いから、見間違えちゃったのかも。……でも」
広いハイラルの四方に散らばる神獣に、それぞれどういった順番で登録作業をするか他の三人が相談しているのを傍目にミファーは俯く。金に輝く目を優しそうに細めた。
「きっと深い訳があるのだろうし、辛いのはお互い様だと思うの……だから、話してくれるのをずっと待っていたい、かな」
ゾーラの姫君にして、癒し手であるミファー。彼女は私と違って慈愛に満ちていた。待つこと、それは酷く辛抱のいることだ。しびれを切らしてイラつく私には到底真似のできない懐の広さ。
その余裕はどこから生まれるのですかと問いたいほど、ミファーは物静かに微笑む。また視線は遠く、警護に付くリンクの方へ。ちょっと熱っぽい、甘やかな横顔だった。
「ミファー、貴女は」
「ん? なに、姫様」
「……いえ、なんでもありません」
「ふふふ、変な姫様」
振り向くと気配が幼く変わる。彼女の視線の意味を解さないほど、私も疎くはない。そう言えば幼い頃からミファーはリンクには特に優しかったように記憶している。『そう言うこと』なのかなと思うと、胸の片隅がチクリと痛んだ。
ミファーにあって私に無いものに思いを馳せる。もしかしたらリンクの頑なな心を融かせるのは、ミファーのような辛抱強い優しさかもしれない。そんなゆとりは今の私にはなく、自分の浅慮に嫌気がさした。
それからしばらくの後、ヴァ・ルーダニアとヴァ・メドーをそれぞれ移動地点として登録したさらに後のことだった。最後にゲルド砂漠を訪れてヴァ・ナボリスを登録しに行くことになった。付き添いは相も変わらず何も話してくれないリンク。もう慣れっこというより、半ば嫌いになりかけていた。
もちろんリンクが嫌いというわけではない。
頑迷すぎるその態度に腹が立っていた。
「もう、いい加減にしてください。ゲルドの街の中ではウルボザの配下の方が護衛に付きます。あなたはどうせ街には入れないのですからカラカラバザールの方に戻っていて構いません!」
「そういうわけには参りません」
「大丈夫だと言っています! こう見えて私だって弓を引けるんですよ? 知っているでしょう!」
一度は禁止された弓術の訓練も、城に戻って一年と経たずに権利を取り返していた。体を動かさなければなまる一方だったし、自分の身は自分で守れるに越したことはない。ただ守られるだけの姫なんてまっぴらごめんだ。
それに私は弓だけはそれなりだった。他の芸事は人並みだが、弓だけは命中する。もちろん男の騎士ほど強い弓は引けないが、それでも同年代の女性としては筋が悪い方ではないと自負していた。
なのに。私の弓の腕前を知っているにもかかわらず、小憎らしいぐらいリンクはどこにでもついて回った。まるで私の腕前では不安だとでも言いたそうに、じっと背負った弓に目を向けていた。
「もう、勝手にしてください!」
「はい」
私がゲルドの街に入るまで直立不動を崩さない。
そのあとこっそり門から顔を出すと、リンクは布を張っただけの日陰に入って腰を下ろしていた。ゲルドに来ると毎回のように、こうして町の正面口で剣を抱えて待っている。
ひんやり薬はもちろん所持しているのだろうし、日差しを反射しやすいようにと白染めのハイリアの服を着てはいた。でも昼になろうが夜になろうが、同じ場所でずっとずっとずーっと待ち続けている。
厚い忠義は理解できる。でも、そこまでするならなぜ私に正体を明かしてくれない!
いい加減、私はあの朴念仁から離れたい気持ちに駆られていた。幸いなことにゲルドの街には他にも通用門がある。ウルボザとナボリスに向かう相談が終わった後、街で羽を伸ばしたいと言ってお財布片手に衣装屋へ飛び込んだ。
色とりどりの可愛らしいゲルドの服が並ぶ。どれもお腹や足や背中が出るので、城ではもってのほか。でもここはゲルドなのだし、これが普通なのは知っていた。
護衛の方に試着をしたいからと少し席を外してもらっている間に、会計から着替えまで全て自分で終わらせた。私の事情を知らないゲルドの女兵士にしてみれば、ハイラル王家の姫君が一人で着付けから会計までできるなんて思わないだろう。しかし残念ながら、市場でのお買い物は元々私とリンクの仕事だったので慣れている。
「すいません、裏口貸していただけます?」
「裏口?」
「護衛の方、ちょっと堅苦しくって……。少し一人でゲルドの街を楽しみたいんです」
と、困り顔をすれば、ゲルドの女性たちはどうぞと通してくれることも知っている。この街は彼女たちの誇り、だからハイリア人ヴァーイが街を散策したいのにと笑顔を曇らせると、是非とも楽しんでおいでと後押しをしてくれる。
意気揚々と裏通りに飛び出して、まるで勝手知ったる家のようにゲルドの街の北西の門へと向かった。
「すいませんね、リンク。実直が時に仇となることも知ってください」
ひっそりと抜け出してまで行きたかったのは北の氷室。
どうしてこの暑い砂漠に冷たい氷室があるのか、なぜ温度が維持できるのか、その仕組みが知りたくて私はずっと氷室に行きたいと申し立てて来た。ところが研究にも修行にも直接関わりのないことだからと、侍従が旅程に組み込んでくれない。インパも首を横に振った。当然のことながら、リンクがこっそりと連れて行ってくれるわけもなく。
しょうがないので一人こうして北へ向かう。もし中央ハイラルでも再現できる技術なら、夏場でも氷が潤沢に使えるようになる。それは様々な技術革新につながるから是非にと言ったのに、誰も首を縦に振ってくれなかった。
「んもう、誰も彼もみんな頭が固すぎます!」
北の氷室へ向かうには、街から真北に一直線に続く遺跡を通っていくのが楽なのは、シーカーストーンで地図を見た時から分かっていた。ただし、正門に張り付いているリンクの目は驚くほどいいので、少し遠回りをする。砂に沈んだ靴の中がじゃりじゃりしても構わず歩き続ける。それすら楽しい気分にだった。
しばらく歩いてから東に転進して歩きやすい遺跡の中央へ向かい、崩れかけたアーチ状の遺跡をいくつもくぐって北上した。シーカーストーンの地図には、現在地や自分の向いている方向まで表示されるので迷うこともない。これさえあればどこへでも行ける気がする。
あっという間に北の氷室に到着して、私は意気揚々と氷室の管理人に見学を申し入れた。地中深くに掘られた氷室の中は外とは全く違う温度だ。まるで砂漠の昼と夜ぐらい違う。震える手でシーカーストーンを確認すると、なんと四℃! 外が四十℃以上だったことを考えるととんでもない温度差だ。ぽっかりと開けた口から真っ白な息を吐き出した。
この温度差の理由は氷室の奥にあった。こんこんと湧き出す冷たい水、これはゲルド高地からの湧き水だと以前ウルボザから聞いたことがある。熱い砂漠の地下を通っても冷え切ったままの水が地下の氷室に湧き出ることで、氷室自体を冷やして氷を作り、融かさないようにする。他にもゲルド地方では手に入らないはずの保温用の稲わらや、高地で採れるヒンヤリハーブなどで工夫しているのが分かった。
これならば城の地下を使えばもしかしたら、ハイラル城でも冬に採れた氷を保存しておくことができるかもしれない。そうしたら食料の保存も楽になるだろうし、怪我をした際に患部を冷やすこともできる。あとは冷たい氷菓子などももしかしたら……と甘い欲望が囁き始めたので、ぶんぶんと乱暴に首を振った。
「ありがとうございました」
「気を付けてお帰り。最近は物騒な奴らが砂漠に潜伏しているらしいから」
「大丈夫です、私こう見えて結構強いんですよ!」
ハハハと笑って、氷室の管理人に送り出された。
さあ帰ろう。ウルボザからつけてもらった護衛の人も撒いてしまっているので、もう流石にリンクにも私が一人で出歩いているのがバレているはず。でも目的は十分に達したわけだし、堂々とゲルドの街の正面玄関から戻ろう。
私はそのまま直線状の遺跡を歩いていく。
南へ真っ直ぐ。ただそれだけで、私は無事に帰りつけるはずだった。
「ハイラルの姫君が供もつけずに一人歩きとは、我らも舐められたものでござるな」
ポンッとはじける聞きなれた音と、聞きなれない男の声がした。
何かが弾ける音はシーカー族の隠遁の術の音、よくインパがこの音を立てて現れる。でも声は聞いたことが無かった。
背から弓を外すと、一息のうちに腰の矢筒から弓を抜き取って構える。狙いは音のした方向、斜め右前の柱から現れた赤い人影を撃ち抜こうと引き絞る。
でも、人の姿を見た瞬間に指が震えた。
魔物や動物を射た経験はあったが、リンクと違って人間だけは射たことは無かった。それだけは養父が許さなかった。どれだけ狩りをして命を頂いても、商隊警護のために魔物と対峙しても、『ゼルダは人を射てはならない』ときつく言われていた。人を殺めることはゼルダを守る者の役目だと養父は言った。
だがこの際、四の五の言っている暇はないし、どう考えても敵。
それでも私は人間だけは撃ち抜けなかった。
「いい腕だが、人間相手は無理と見えるでござるな」
「痛い目を見たくなければ引き下がってください」
柱の影から完全に姿を現した人物に照準を定める。イーガ団の面は以前インパに見せてもらったことがあった。逆さまのシーカーマークを彫り込んだ面で、構成員は赤い衣服を身に付けていることが多い。
見上げるほどの巨躯だが、均整の取れた体つきの男が私を見下ろしていた。イーガ団の面には斜めに大きな傷が入っていて、腰には二本の刀。気配が尋常ではないほどに鋭い。
「威勢だけはよい」
ゆっくりとこちらを向く敵に、今なら矢を当てるのはそう難しいことではない。何しろ相手はほとんど止まっているうえに距離も近い。こっちは飛ぶ鳥を射落とすこともできるのだから無理ではない。でも人に手を掛けるというその行為に、矢を番える指が震えた。
矢が刺されば痛い、当たり所によっては死んでしまうこともある。敵だと分かっていても、人間を殺すことは私には難しかった。
「退いてください」
「指が震えておるが?」
震えが見抜かれたと分かった主観に、カッと顔に血が上る。その熱が手に込めた力を融かし、指の間から白と青の矢羽根逃げていった。
狙いの狂った矢じりが目の前の人物目掛けて吸い込まれるように飛んでいく。下手なところに当たれば即死なだけに、放った私の方が「あっ」と声を上げた。
でも瞬き一つする間に、その人物の姿が掻き消える。どこへ?と思った瞬間、ブンと音を立てて真空刃が飛んできた。
間一髪、しゃがみこむと頭の上を物凄い勢いで空気の刃が飛んで行く。乾ききった遺跡の柱にあたって砕けた。
「……!」
風化しているとはいえ、一振りでこの威力。当たったらただでは済まない。身をかがめた体勢から前へ転がって距離を置くと、背後の気配に素早く矢を射かけた。でも当然のように当たらない。
それどころか、他の柱の影からこちらを狙った矢が飛んでくる。イーガ団は目の前の巨漢一人ではなかった。合図とともに半月型の首狩り刀を持ったイーガ団が行く手を阻む。また矢筒から、今度は三本抜き出してつがえ、下っ端の方に狙いを定める。
が、未だ私には人を射る覚悟はなく、とっさに足元を狙う。
「舐められたものでござるな!」
ザンっと大きな音がして、顔のすぐ横を何かが飛んでいった。一拍おいて、頬がバッサリと切れて熱い液体が流れだす。そこまでしてようやく、いま自分の顔の横を通っていったのが、傷の入った面の男が放った真空刃であることが分かった。
「え……、あぁ……」
「声も出ないか」
傷入りの面の下で、男が笑った気配がした。
この暗殺者は私を追い詰めるのを楽しんでいる。埋められない力量差があることにやっと気が付いて、私は腰に付けたシーカーストーンに手を伸ばした。
逃げなければ。これは殺される、到底太刀打ちが出来ない。
でも、腰に付けていたはずのものが無くなっていた。
「えっ」
慌てて腰を見たが、ひっかけてあったはずのシーカーストーンはなくなっていた。
遺物の研究を平民の真似事と笑う侍女たちが一向に腰に装着するものを準備してくれないので、物は試しにと自分で器具を作ってみた。これが上手くできたとばかり思っていたのだが、どうやら完全ではなかった様子。しゃがんだり転がったり、無理な動きをしている間に落としたらしい。
その事実を理解すると、私の足は自然と南へ向いた。
助けを求めるには街までたどり着かなければ。そのためには走らなければ、走って助けを、リンクの元へたどり着かなければ、殺される。
気が付いた時にはもう喉の奥がひりついていた。
走らなきゃ、怖い、助けて!
「逃げられると思うな!」
怒号と共に他のイーガ団も飛び出してきて、行く手を塞いだ。でもひとたび逃げ始めた体にはもう戦う勇気がない。
刃から身をかがめて丸くなった段差でけつまずき、矢をかいくぐり柱の陰に回り込み、転がった遺跡の岩陰に転がり込む。身を護ることに適していないゲルドの衣装では、体中に傷が出来た。焼け付く様に痛いのは日差しのせいばかりではない、体のあちこちが擦り傷だらけになって血がにじむ。
痛い、怖い、助けて。
まろび転びつ走り続け、遺跡の切れ目へたどり着いた時、もうここからは身を隠す場所が無いことに絶望した。でも背後からは足音が複数。熱に歪むゲルドの街まで、走り切らなければ死あるのみ。
無理は承知の上。
ところが、遺跡の少し高いところから砂地へ、飛び降りる瞬間を狙いすましたかのように後ろから射られた。空気をつんざく音が耳の横を通り、もう一本ががら空きの背中に迫る。矢を受けるよりかはマシだと体を捻って避けて砂の上に転がった。無様に顔面から砂に倒れこむ。顔を上げると切っ先があった。
「御覚悟」
鋭利な刃に自分の恐れおののく顔が写り込んだ。
震えが止まらなくなり、捻った足首がずきずきと痛みだす。どうやら砂に足を取られて捻ったらしい。こうなってはもう一人では逃げられない。
震える手が砂を掻いた。
どうして一人で出歩こうなんて思ったのだろう。我が身が狙われていることは理解していたはずだ。城の中にさえ、厄災信奉者の手の者が入り込んでいて気の抜けない状況だというのに。どうしてリンクを撒こうなどと考えてしまったのだろう。
と、そこまで考えた時、はたとある考えに至った。
「あ、ははは……」
「なっ……」
「狙われると言うことは、私はちゃんと姫巫女なんですね……?」
「何を言って」
目の前の巨漢がわずかにたじろぐのが分かった。
さもありなん。死を突き付けられているというのに、私は笑っていた。隠し切れないほどの喜びと、殺される恐怖が一気にあふれ出す。
「あなた方が私を狙うと言うことは、つまり私は偽物ではない」
「姫巫女、貴様……」
「わたし、ちゃんと本物だったんだ」
市井に下った姫は落花と蔑まれて、偽物ではないかと猜疑の目で見られる。勇者は現れず、力が顕現する兆しもない。
誰もが私を偽物の姫君だと疑う。私でさえ、自分が本当にハイラル王家の姫だったのか記憶を疑いたくなる衝動に駆られていた。優しかったお母様が偽物の記憶とすり替わっている恐怖に苛まれる。お母様がどうやって祈りを捧げていたのかも、もうよく思い出せない
そんな折に、存在の正しさを確かめてくれたのが敵であったとは。命が狙われることで逆に証明されるなど、皮肉にもほどがあろう。
「ありがとうございます、私、ずっと自分が偽物じゃないのかと、自分でも疑っていたんです」
傍から見れば気狂いの戯言かもしれない。でも私にとってはとても大事なことだった。
誰も信じてくれない、自分でも信じられないことを、敵が唯一信じてくれるだなんて。ならばいっそ、殺されてみようかと興味が湧いた。
私の命を絶たれれば、ハイラルは厄災を封じる手立てを失う。そうなって初めて、私を偽物だと疑った者たちは私が本物であることを知って絶望をするのだ。そうなればいい。自業自得じゃないの。
でも心残りはリンク。
ごめんなさい、私が生きている限りあなたを自由にしてあげられなかった。私がいなくなったら、どうか自由に生きて欲しい。
大人しく瞼を閉じた。後は痛みが一瞬で終わるようにと願うだけ。もし生まれ変わるなら願わくば、もっと別の形であの人に会いたいなと思って。
でも甲高い金属音があって目を開く。振り下ろされるはずだった凶刃が弾け飛んでいた。
「何奴!」
私を背に庇う見慣れた後姿があった。
白かったハイリアの服が薄汚れていて、全身砂だらけにしてリンクが立っていた。
「リンク……!」
声もなく、振り向きもしない。目の前の傷のついた面のイーガ団の男と睨み合っていた。
対するイーガ団の男も、明らかな力量の持ち主が現れたことに動揺を隠しきれていない。何しろ一撃で得物を片方弾き飛ばされてあらぬ方向へ飛び、二刀流だったはずが刀は一本。
しばらく睨み合っていたリンクは、短く息を吐き出すと緩い砂の地面を蹴って剣を振るい、火花が散った。凄まじい剣戟が続く。力量は互角か、あるいはリンクの方がわずかに上回るのが辛うじて見えた。
とはいえ圧倒的劣勢には間違いない。
私は足を痛めて動けないし、多勢に無勢。いつぞやの力の泉で引き裂かれた時のことを思い出した。あの時は取り巻いていた敵がウルボザとその配下たちだった。私を守るのはいつだってリンクひとり。
どうしてこの人の人生は、いつも貧乏くじなのだろう。
「逃げてください……」
当然のように返事は無く、自分でも馬鹿な言葉を吐いたと思った。彼が二度も同じ轍を踏むとは思えない。
だとしたらこのまま二人で殺されるか。
いやだ、と首を横に振った。先ほどまで死んで本物の証を立ててみようかと思っていた気持ちはすっかり消えている。私を守ってリンクが死ぬことはあってはならない。だったら私もここで死んではならないのだ。
でもこのままでは間違いなく共倒れになる。
握り込んだ弓を睨み、矢筒を覗き込んだ。砂漠だからと一応、氷の矢を入れておいたのをまとめて取り出す。おもむろにつがえ、狙う先は目の前の敵ではなくゲルドの街の方向。目いっぱい引き絞って射た。
誰か気が付いて。
何の障害物もない砂漠の真ん中に氷の矢がさく裂するのが見えた。きっと街の入り口の門兵からも見えているはず。信じて立て続けに街の方角に向けて打ち込む。
早く助けを、ウルボザ気が付いて。リンクを助けに来て。
三射目、私の行動に気が付いたイーガ団の下っ端が走ってくるのが見えた。慌てて矢を向けるも、やはりまだ狙いが定まらないし、座ったままの体勢では無理があった。
運悪く、リンクも巨漢とやり合っていてわずかに遠い。目の前で氷の矢をさく裂させれば、少しは驚いて逃げてくれないだろうかと息を止める。何を覚悟したつもりだったのか、いつだって私は何かが足りない。
そのとき、ドォンと地鳴りがした。雷だと思って顔を向けると砂塵が上がった。スナザラシを駆る女傑の姿、背後にまた雷が鳴る。
「御ひい様!」
パチンと指を弾く音が遠くで鳴って、辺りに白い雷が走った。ギャァと叫び声がいくつも上がり、イーガ団たちが撤退していく。最後までリンクと切り結んでいた傷ついた面のイーガ団の男も、立ちはだかる手練れが倍になったことで劣勢を理解したのか姿をくらました。
全ての殺気が消えた。砂漠に静けさが戻る。
助かったと分かると、ずるずると力が抜けていく。熱い息を肺の奥底深くから吐き出すと、目の前にはリンクの顔があった。
膝をつき、顔をゆがめ、固い指先が私の頬に付いた傷に触れた。
「申し訳ありません、遅れました。他にお怪我は」
絞り出す声は苦渋に満ちていて、聞いているこちらが辛くなるほど苦しそうな顔をしていた。
勝手に出歩いて、勝手に危険な目に合って、勝手に怪我をしたのは私なのに苦しそうな顔をするのはリンクの方。これはまた、自分を責めている。私を危険な目に合わせたことや、私の行動を読めなかったことを自分の手落ちだと考えている顔だ。
追い打ちをかけるようで申し訳なかったのだが、右の足首を指し示す。
「足を捻り、まし、た……」
では、と抱き上げられそうになり、嫌々と手を突っ張って振る。
「だ、大丈夫です! 肩を貸してもらえば歩けます。それに悪いのは全部私ですし……」
しりすぼみになる声を出しながら、抱きかかえようとするリンクの手から逃げた。そんなことまでしてもらわなくても、自分の体のことぐらい自分でできる。それに今はゲルドの露出の多い服を着ていることもあって、触れられることにかすかに気恥ずかしさがあった。
ところが、立ち上がるのにすぐ脇の遺跡の岩に縋ろうとした途端、ぐいと乱暴に二の腕を引かれた。驚いて見上げると、最近では見たこともないぐらいに眉間にしわを寄せてきつく私を睨みつけるリンクがいた。
「これ以上心配をかけるな!」
怒鳴り声に、ハッと息を飲んで固まった。対するリンクも、やってしまったとばかりに開いた左の手で顔を隠す。
冷たい騎士然とした彼が、ようやく感情らしい感情をあらわにする。覗き込んだ顔は怒りと苦みでいっぱいだった。
私の腕を掴んだ手が震えている。ここまで感情があふれ出しているのは再会してから初めてのことだった。消え入りそうな声がほっそりと零れる。
「頼むから、危ないことはしないでくれ」
「リンク、リンクなの……?」
「こんなことなら認める、だからもう一人で出歩かないでくれ、頼むから守る側の身にもなってくれ、ゼルダ……」
はーっと大きく、息と一緒に苦しそうな表情まで吐き出して、リンクは元の抜からぬ顔に戻った。呆けた私の体を軽々と持ち上げるので、驚いて首に手を回す。でもリンクは私の方なんか全然見ていなかった。少し離れたところで腕組みをしていたウルボザの方を向く。
「殿下の手当をしたいのだが」
分かった、とウルボザが頷いた時、急に冷たい風が吹いた。昼の砂漠にしては不穏な温度が頬をきつく撫でる。そこにぽたぽたと、水滴が当たって弾けた。
雨だ。
「随分と久々だね……」
三人で空を見上げる。
雲一つ無く晴れていたはずの空はいつの間にか日差しが遮られ、昼間だというのに暗くなった。
砂漠に数年来の雨が降る。一度に大量の雨が降って恵みになる一方で、実は砂漠の民の死因で多いのは意外にも洪水だった。砂漠は水の逃げ場がないので、降ったらそのまま濁流となり危険だと聞く。書物で読んだ記憶はあったが実際に見るのは初めて。
どうしましょうとウルボザの方を見やると、やおら考えてから笑った。
「ナボリスにおいで。怪我人を連れて、街まで戻っている暇はなさそうだ」
「リンクは英傑ではありませんがウルボザ、いいのですか?」
「構わないさ、歓迎するよ」
少し躊躇する気配を見せたリンクだったが、問うような視線に頷くと納得して首を縦に振った。そのあと失くしたシーカーストーンを回収してもらい、その間にナボリスを呼び寄せたウルボザに手を借りて神獣の中に乗り込む。
音を立てて降り始めた砂漠の雨は、雷と風を伴って激しく降った。
もう歩けると何度言っても、リンクは降ろしてくれなかった。結局、ナボリスのテラスのようになった場所まで、抱き上げられまま連れていかれる。
「さぁ御ひい様、リンク、ここなら誰の目もない。私が許した者以外は入れないし、この雨だから覗きも立ち聞きもできない」
大丈夫だよと言われるや否や、抱き上げられたままリンクの首に縋った。応じるように彼の腕が背に回り、ぎゅっと抱きしめ返される。嗚咽が止まらなくなった。ウルボザが持ち込んでいた敷布とクッションの上に座らされてもしばらく、私は声も無くして爪を立ててしがみついていた。
こうして彼を間近に感じられるのはいつ以来のことだろう。以前はいつでもこの腕が守ってくれていた。ようやくその守護する内側に戻り、お日様みたいな暖かさを感じる。今日は雨に濡れて少ししっとりとしていた。
「ごめん、これしか、方法が無かったんだ」
耳元で静かな懺悔が聞こえた。
そんなことないと首を横に振ると、申し訳なさそうに笑って金色に戻った私の長い髪を撫でた。
「無事でよかった」
何の後ろ盾もない十五の男の子が、騎士になるだけでも大変だったろう。それが今や一握りの近衛兵にまで上り詰めた。そうまでして私の元へ来てくれようとしたのに、どうしてそれ以上を望んでいたのか、今となっては自分の傲慢さに腹が立つ。
「私こそごめんなさい。ずっと寂しくて駄々をこねていました」
「ウルボザに言い含められていたとはいえ、俺も意地張ってたから。おあいこってことにして欲しい」
「ウルボザに?」
二人が力の泉で死闘を演じた以外に、接点があるのは知らなかった。隣に座るウルボザの方を向くと、彼女は申し訳なさそうに首を縦に振った。
「リンクに他人の振りをしろと言ったのは私なんだ。ごめんよ、御ひい様」
「問題ないウルボザ。ゼルダの立場を考えるなら、当然のことだ」
何があったのかはつまびらかではないが、二人が相当以前から互いを知っていたことに半ばあ然とした。信頼はしていた、なのにたくさんの隠し事がある。
私はそんなに頼りなく見えているのかなと肩を落とすと、頬にリンクの指が触れた。
「ともかく傷の手当てをしよう」
斬られた頬の傷はもう血がほとんど止まっていて軟膏を塗る程度で大丈夫だった。体中についた小さな掠り傷も、幸い問題無さそう。
しかし捻った足首はパンパンに腫れていた。これはだいぶ酷い。叩いても骨には響かないので折れてはいなさそうだが、履きなれない靴を履いていたこともあってか、尋常ではなく痛んだ。
濡れた布で冷やしたが、そんなことよりも、今はリンクと話がしたいと気が急く。手当をされながらそわそわしていると、ウルボザに落ち着きなさいと怒られた。
「どこから話せばいい?」
「全部です、どこで何をしていたのか、ダルケルやリーバルに出会ったことと、私に会うまで全部です!」
「全部ね、分かった」
力の泉で別れてから何があってハイラル城で騎士にまでなったのか、全て話してくれるまでは絶対に手放すまいと服をぎゅっと掴んだ。「もう逃げないよ」と笑われたけれど、いつまた姿を消してしまうのか不安で思わず唇を噛む。
リンクの話は静かに長く続いた。
命からがら力の泉から逃げ出して、デスマウンテンの方向へ迷い込んで倒れたところを運よくダルケルに拾われた。傷が癒えてから山を下ってハイラル軍の傭兵隊に入り、たまたまハイラル平原の掃討戦で喧嘩をしながらリーバルと共闘。その後、御父様から直々に声を掛けられて近衛騎士の従卒に付いた。
離れていた時間を埋めるように、辛いことも楽しいことも全部聞いて心を刻み込む。
「御父様がリンクを引き抜いていたなんて、全然知りませんでした」
「俺も。まさか直接陛下からお声掛かりがあるとは思っていなかった。あの時は驚いたけど、おかげでこうしてゼルダの傍に来られた」
近衛騎士として傍に居る時と違って、リンクはナボリスに乗ってからずっと『俺』と言った。柔らかい響きが心地よく、本来の彼を思い出す。よかった、とまた目頭が熱くなった。
一番の味方が私の最も近いところに居てくれる。それだけで心が安らいで、思い出したように眠気が襲ってきた。しばらく深い眠りについていなかった体が、安心と共に疲れを思い出す。でもまだ話足りなくてぱちぱちと熱っぽい頬を叩いた。
リンクは言葉を続けた。
「でも戻ったら、また別人の振りをさせてくれ」
「やっぱりそうなります?」
「ゼルダの立場を悪くしたくない」
私とリンク。
もし城に戻る以前からの知り合いだとバレたら、私だけではなくリンクもつらい立場に置かれるだろう。もしかしたら姫付きの騎士を解任されるかもしれない。
分かってる。我儘なのは分かっている。
でもハイと答えずにまたリンクの衣の裾を握り込んだ。冷たくあしらわれ続けるのは辛いが、でも傍には居てくれる。いつもリンクは私のためにしか動いていない、申し訳ない。
「勇者さえ見つかれば、少しは安心なんだけどねぇ」
降り続く雨の向こう側、砂丘は形すら見分けがつかない。かすんだ砂漠をウルボザは不安そうに見ていた。
彼女の言う通りだった。勇者さえ見つかれば、例え力が顕現せずとも私は本物の姫巫女だと認識されるだろうし、勇者さえいればリンクの役目も少しは楽になる。
どうして退魔の剣を携えた勇者があらわれないのだろう。何処かで道にでも迷っているのかしら。もしかして方向音痴?
「その、ことなんだが」
顔を見合わせてため息を吐く私とウルボザのすぐ横で、リンクは大きく言い淀みながら言葉を探して顔を背けた。
「もしかしたら退魔の剣は、城のどこかにあるかもしれない」
「どういう意味ですか?」
「その、実は、デスマウンテンから下ってくる途中で、コログたちに導かれて、一振りの剣を抜いた。……たぶんあれが退魔の剣だったんだと思う」
まさか、そんな。
痛む足首も眠気も忘れて前のめりになった。いたたたと顔をしかめるが、痛みに気を散らしている場合ではない。
「だとしたらリンクが勇者ではありませんか! それが城に? どういうことです?! さっきの話の中にそんな下りありました? 無かったですよ、どこを省略したんですか! 私は全部話してって言ったのに!」
悪い癖で、夢中になると矢継ぎ早の質問をしてしまう。その癖を良く知っているリンクは、私に好きなだけ質問をさせてから一息つかせた。
それからわずかに考えるようにして、目を伏せて首を横に振った。
「剣は抜いたが、俺は勇者ではないと思う」
それこそどうして?どういう意味?と言葉を紡ごうとして、彼が自分の大きな手を寂しそうに眺めていることに気が付く。
その話が真実ならば、今彼は退魔の剣を握っていて然るべき人物。それがどうして黒い近衛の片手剣を握っているのだろう。
「俺の手元に今は剣がない。剣が手元に戻ってこないから、つまり勇者は俺ではないのだと思う。……正直言うと、俺にもよく分からない」
リンクは肩を落として申し訳なさそうに首を傾げた。
責めるつもりはないのだが、なぜそんな大事なことを今の今まで黙っていたの!と声を荒げそうになる。
鼻息が荒くなりそうになるのを抑え、一つ一つ順を追って頭の中を整理していく。
リンクは何か特別な剣を抜いたけれど、事情があって剣を手放すに至り、剣の所在が分からない。でもハイラル城のどこかに隠されている。一体誰が隠したというのかしら。
「剣が戻ってこないとは、どういう意味ですか?」
「従卒として召し抱えて頂くときに、陛下にお預けした。従卒は長剣を持てない規則だから」
ああ、と彼の背を見た。ここでもまた、剣を手放させたのは私のせい。私へ近づくために、大事な剣を手放させた。
本来彼の背に、どんな形かは知らないが、退魔の剣があったのだと思うと目がくらんだ。
「預けた剣が未だに戻されないのですか? それがもう三年もの間?」
「何度も侍従長を通してお伺いしたし、陛下にも直接お伺いしたこともある。でも記憶に無いの一点張りだった。だから抜いたのは俺かもしれないが勇者は別にいて、城のどこかに保管してあるのかもしれない。本来は俺の手にあるべきものではなかったという意味なのだと思う……あるいは夢でも見たのかもしれない」
情けなさそうにする横顔に、私は食い入るように見た。
どうしてそこまでリンクが私のためにするのか、実をいうとよく分からなかった。でもそれが全部、リンクが勇者だったからだと思えば辻褄があう。
ずっと私の傍に居てくれたリンクが勇者だったから?
どうして彼が幼い折から私の運命に巻き込まれてしまったのか。どうしてここまで私に尽くしてくれるのか、己を殺してまで守ってくれようとするのか。彼が勇者であることにすべてが収束していく。今までの疑問がピタリとはまっていく。
リンクがもし勇者なら嬉しい。これほど嬉しいことは無い。こんなに頼もしい味方はハイラルのどこを探してもいない。
でも同時に私は一抹の悲しみを見つけてしまった。
リンクは勇者だから私の傍に居てくれただけで、私が姫巫女じゃなかったら傍に居てくれなかった? 護ってくれていたのは刷り込まれた使命に従っていただけ?
湧いた疑念に心臓を掴まれた気がした。
「すまない、剣を本来の持ち主に届けたい。探すのを手伝ってくれないか」
結局、私の疑念は放り出されたままになった。
今大事なのはリンクが傍に居てくれる理由ではない。退魔の剣を携えた勇者が私の傍に居ることだ。
わだかまる心の声に耳を塞いでリンクを見上げた。
「大丈夫です、必ず見つけましょう。でもリンクが勇者です。絶対、ぜったい!」
言ってから耳までぽやんと熱くなった。そんな顔を熱くするようなことを言ったつもりはないのに、なんだか頭までふわふわしている。
いったいどうしちゃったのかしらと思って首を横に振ると、くらりと世界が揺れた。崩れかけた体を咄嗟に支えられ、大きな手が私の額にあてがわれた。
「やっぱり熱が出てる。捻挫のせいかな」
「そんな、でも」
もっとリンクと話がしたい。三年弱ぶりにまともに会話をしているのに、熱のせいで話が終わってしまうなんて嫌。
城に帰ったらまたどうせ滅多には話ができないのに、どうしていつもこう不甲斐ないのかしらと目じりから涙が零れた。朦朧とする中、手を掴む。
「大丈夫、もうどこへも行かないから、今は少し寝ておけ」
柔らかなクッションに頭を乗せて、おぼろげながら名前を呼びながら目を閉じた。もう手放さない。絶対にもう一人でどこかへ行ったりしないし、リンクを一人にもしない。必ず退魔の剣を見つけようと心に誓う。
でもそこから見たのは随分な悪夢だった。
退魔の剣を振るい、英傑の青い衣に身を包んだリンクが巫女服の私を連れて逃げまどう。二人の姿を、私は第三者の視点で見させられていた。決して逃げているのは私自身ではない。
追いかけてくる敵は研究しているガーディアンたちだった。本来の青や黄色の光ではなく、禍々しい赤色をなびかせながら人々を無差別に焼き殺していく。
私や逃げまどう民を守りながら戦う勇者のリンクはとても強く、退魔の剣もまた伝説の剣にふさわしいだけの力を発揮していた。ただ一本の剣とただ一人の人間が、体の何倍も大きなガーディアンを次々と屠っていく。でも敵は次から次へと現れた。
夢の合間に私は何度も止めてと叫ぼうとした。でも無力だった。
ガーディアンは疲れを知らない絡繰りだ。対する勇者はどんなに強くとも生身の体。時間が長引けばどちらが不利かは明白だった。
雨風の吹きすさぶ、どこだろう、平原で。泥にまみれて私たち二人はついに敵に囲まれた。リンクの額に照準が合わさり、もう持ち上がらない剣の先が地面を擦る。だめだ、このままでは死んでしまう。そう思ったとき、守られてばかりだった姫巫女姿の私が前に出て、光が溢れた。
これが力か、とまぶしくて目を細める。
でも力が顕現した私は、代わりにリンクを失った。どさっと泥の中に転がる体。慌てて駆け寄った私に、リンクは最後に何かを言いかけたがもう声も出ない。そのまま腕が泥の中に落ちた。
間に合わなかった。
退魔の剣を持たせたら、勇者は死ぬまで姫巫女を守る。
だとしたら今度は本当にリンクを殺してしまうのかもしれないと怖気が這いあがった。もうすでに二回、リンクは私を守って死にかけている。いずれもギリギリのところで事なきを得たが、三度目無いとも限らない。むしろ、厄災が復活したら誰の命も保証はない。
退魔の剣を取り戻したら彼が死んでしまう暗示、それを見せつけたもう一人の私が溢れる光の中で私の方を向く。
「私はこうして一度、彼を失いました」
そう私に語り掛けるもう一人の姫巫女の私は、私と鏡映しのようでいてどこかが違っていた。
なんとなく私よりも口調も所作も洗練されているようだったし、体つきもどこかまろい。極めつけは髪の長さ。ずっと肩口に切りそろえ続けていた私は、城に戻ってから伸ばすようになったがまだ背中の真ん中あたりまでしかない。対する目の前の彼女は同じ金色の髪を腰に届くほど長く伸ばしていた。
顔かたちは似ているどころの騒ぎではないのだが、お互いに見比べてみると別人のようだ。
「あなたは、誰?」
「私はあなたです、ゼルダ。祈りは、大切な者を思うことこそが力になると、ゆめゆめ忘れてはなりません」
それはどこかで聞いた言葉。どこで聞いたのか全然思い出せないけれど、大切な人から言い聞かされていたように思う。
「どうしたら彼を守れますか? リンクが勇者で、退魔の剣を持たせて戦わせたら、あんな風に死んでしまうってことですか?」
そんなの嫌だと両手をぎゅっと握り込む。
私は彼に自由に生きて欲しい。私のために人生を無下にしてほしくなかった。そればかりか、死んでしまうなんてとんでもない。
だったら勇者になんかならないでと願いながらも、苦しい状況を考えると彼が勇者として傍に居てくれることが一番の安心材料にもなる。いつ何時も、最も傍にいて欲しいのはリンクそれ以外の誰でもない。
ただ私が封印の力をちゃんと持っていないと、彼女のように自分の半身を失ってしまう。やっぱり不甲斐ないのは私自身?
ところが残念そうにもう一人の私は笑った。
「残念ながら、退魔の剣があろうがなかろうが、勇者であろうがそうでなかろうが、私が姫巫女であっても違っても、あるいは封印の力の有無にかかわらず、リンクはあなたを守ります」
「どうして?」
「守ってしまうんです、そういう人だから」
悲し気に微笑む自分に向かって、そんなの答えになってない!と叫ぼうとして目が覚めた。
降りしきっていた雨は止んで、珍しく柔らかな風が砂漠から吹いてくる。ウルボザの姿はなく、暖かい上掛けで体がくるまれていた。
「お目覚めですか」
約束通りリンクは私の傍にいて、寝ている間ずっと手を握っていてくれたらしい。すっかり元の騎士に戻って声の調子も固くなっていたが、晴れた砂漠の空と同じ色をした瞳が優しく迎えてくれた。
ほっと息を吐く。幸いにも熱は下がって、捻った足首以外体は問題なさそうだ。
でも見た夢の内容については、さすがにリンクにも話す気になれなかった。