青年編
10 流水の騎士
こうべを垂れた彼を見て、私は声が出せずに固まった。
「殿下、お初にお目にかかります」
リンク、と涙声が出そうになったのを必死で飲み込んで、ぴくりとも動かない彼の顔に釘付けになる。彼と引き離されてからすでに三年近く。私の兄代わりの人は、見事な近衛騎士となって私の前に突然現れた。
今日から新しい近衛騎士が私に付くとは聞かされていた。
でもまさか姫付きの新任騎士がリンクと名乗り、よく知る麦藁色の髪を私が贈った青い髪留めで結い、近衛兵の制服に身を包んで現れるとは思わないだろう。誰がこんな事態を予想できる?
彼とは力の泉で引き離されて以来のことだ。あれから一切音沙汰が無く、秘かに詩人の弟子、今や正式に宮廷に上がったシーカー族の詩人に行方を調べてもらっていたが、それも全て空振り。
無事であって欲しいと願い続けていたら、いきなり現れた。しかも近衛兵だなんて。
女神は何と言うことをなさるのだろう。
「本日より警護の任に当たらせていただきます。お見知りおきを」
「え、ええ、よろしくお願いします……」
びっくりしていたのは私の執政補佐官になっていたインパも同じ。突然のことに言葉が出ず、二人で顔を見合わせた。
王女という立場上、私には直接世話をする侍女が必要で、当然のように高位貴族の娘や若い婦人たちがあてがわれた。自分の評判が貴族たちから芳しくないのが分かっていたが、御父様は王家の威信にも関わることだからと侍女だけは相応しい娘や婦人ばかりを選んだ。
一方で貴族たちから嫌われていることが幸いして、望んで私の執政補佐官に着きたがる者が少なく、平民出のインパがその座を射止めることができた。あれから予想通り厄災対策のためにシーカー族への締め付けも弱まり、インパは私の幼馴染だと言うことを隠したまま補佐として手腕をいかんなく発揮してくれている。
そのインパですら話を聞いていなかったらしく、リンクを目の前にしてしばらく固まっていた。
「何かあればお声がけください」
懐かしい青い瞳は伏し目がちのまま、何事も無かったかのように身をひるがえす。まるで私のことなど見ていないかのように、彼は持ち場へ引き返していく。
思わずその背に声をぶつけた。
「ま、待って!」
侍女がまだいる部屋の中で、久方ぶりに砕けた言葉が飛び出してしまった。
高貴な身分である侍女たちは、いつもの冷ややかな顔に侮蔑を張り付けて私をあざ笑う。
姫殿下が若い騎士の背を呼び止める、しかも下々のような言葉遣いで。この後しばらくは囁かれるに違いない。「騎士に懸想でもしたのか」と陰口が飛び交うのが容易に想像できた。
しかしそんなことはこの際どうでもいい。本当にどうでもよかった。
「インパ、人払いを」
「かしこまりました」
「リンクと申しましたね、少し話があります。残りなさい」
「……はっ」
くすくす笑いの侍女たちに睨みを利かせて全員部屋から追い出し、インパが静かに扉を閉めた。さらに扉に耳を当てて、扉の外側に張り付いていないかどうかも確認してもらう。
そこまでして、誰にも聞かれていないことを確かめてから、私はリンクの手を取った。
「無事だったのですね!」
懐かしい、私を守ってくれていた手は、いっそう逞しく固くなっていた。でも温かいのは変わらない。
背も随分と伸びて、私が少し見上げるぐらいある。
あの頃の幼い少年ではない。もうれっきとした青年になっていて、飛びつきたい衝動をこらえるのが大変だった。誰も見ていなければ絶対に抱きしめていた。
「もう、会えないと思っていました。ずっと心配で心配で、……でもまさか騎士になっているなんて! どうして教えてくれなかったんです?」
嬉しくて嬉しくて、こぼれそうになる涙をこらえる。ここで泣いてしまったら、また化粧を直さなければならず、侍女たちに何を言われるか分からない。
でも、感極まる私に対して、リンクはずっと表情を崩さなかった。
「リンク……?」
包み込んでいた彼の手が逃げて、大きく一歩体が遠のく。彼との間が大きく開いた。
その場に彼はひざまずいて「申し訳ありません」と頭を下げた。
「どなたかと勘違いなさっているのかと思いますが、私は殿下とは初対面でございます。また、人目もございますので、不用意な行動は慎んでいただけますでしょうか」
言葉に抑揚はなく、淡々と告げられる。声はもちろん耳に入ったが、言っていることはさっぱり理解できなかった。私の歓喜を受け取る気などさらさらないのか、目も合わせてくれない。知らないうちに、いやいやと首を横に振っていた。
どこをどう見てもリンクなのに、いや名前もまたリンクであるのに、彼は私を認めてくれない。
どういう意味? いったい何が起こったの?
「何を、言って……?」
「リンク、あのリンクですよね? 何を言っているのです?」
「執政補佐官殿まで……そんなにどなたかと似ていますか」
そのあとしばらく、諦められずに質問を繰り返した。しかし返ってくるのは、人違い、記憶にはない、自分ではないという、にべもない回答ばかり。
別の意味で涙が出そうになって彼を部屋から追い出したのは、随分と経ってからだった。
「姫様……」
「ねぇインパ、どう見てもリンクでしたよね? カカリコ村で一緒に食卓を囲んでいた、あの彼ですよね?」
「ええ、私にもそうとしか見えません」
項垂れる私の横でインパも首を傾げる。
この世には同じ姿をした人が三人いるという眉唾物な噂もあるが、まさか本当にそれなのではと思いたくなってくる。それぐらいに何の手ごたえもないほど、リンクはリンクなのにリンクではないと言い張った。
「お願いです、彼のことを調べてもらえませんか」
インパは二つ返事で引き受けて、シーカー族の情報網を使って数日のうちに彼の経歴と人と成りと調べ上げてきてくれた。
リンク、歳は十七。ただし生まれは不明で、親兄弟もないので年齢は自称。ハイラル平原の掃討作戦に十五歳の時に傭兵として参戦し、目覚ましい戦果を挙げたため召し上げられ、城に仕える近衛騎士の従卒となった。
一年ほど前に正式に騎士に叙され、半年ほど前に近衛騎士に引き抜かれる。引き抜かれた理由は『あまりにも強すぎたため』。他の近衛兵たちが訓練で格下に負けるのを嫌がって同格に引き上げたとさえ噂される。流浪から身を立てて近衛騎士になった初めての事例で、しかも最年少の記録まで塗り替えたらしい。
と、インパの報告を聞いてみて、全てのことが私の知っているリンクとしか思えなかった。あの性格さえ除けば。
「流れ者だったということと、他者を全く意に介さない水のようだという二つの意味で、流水の騎士殿と揶揄されているのだそうです」
「確かに、掴みどころがありませんでした……」
私付きを務めた近衛騎士はこれまでにも何人かいた。しかしいずれも気位の高い貴族出身だったため、平民に気安くて封印の力に目覚められない私のことを見下して長く務まった者は少ない。
その穴を埋めるために、今回あてがわれたのがリンク。力量は折り紙付きだが平民出身で、とらえどころのない余り物の近衛騎士殿ということらしい。
何を言っても最低限の言葉しか返ってこないし、表情も一向に変わる様子がない。怒るでも笑うでもなく、ただただ無表情の彫り物みたいな顔をずっとしている。鉄面皮ってこういうことなのね、と要らぬ納得をしたぐらいだ。
「何らかの事情があって他人の振りをしていると、そう思いたいですが」
「いずれ話をしてくれる時がくるかもしれません姫様。今は待ちましょう」
「そうですね、本当にリンクなら私の敵にはならないでしょうし……」
ソファーに腰を下ろして高い天井を見上げる。本来であればとやかく世話を焼くはずの侍女はおらず、広い私室はがらんとしていた。インパと二人きり、それが丁度よい。
本当に宮中は敵だらけになっていた。
城に戻されて以来、私の心はもう平民のそれに染まり切ってしまっていて、どうしても治すことができないのが自分でも分かった。貴族たちの態度は身分と矜持の問題であると理解はできるのだが、平民の犠牲の上に胡坐をかく姿が腹立たしく、自分まで同じと思われるのが嫌でたまらない。
おかげさまで王女としての私の活動は、自然と三つに絞られた。
一つはもちろん姫巫女としての修行。もう一つはインパを通して再会したプルアやロベリーに、協力するという形で携わるようになった古代遺物の研究。
それらに加えて、高位貴族を嫌った私は、特殊な技術力を持つ平民の技術者の保護と投資を行うようになっていた。
じつは毎月のようにささやかなサロンを開いて技術者たちを呼び寄せている。高位の貴族たちはお抱えの技術者ばかりによくしていたので、市井に溢れる潤沢な才能には見向きもしなかった。ならばと有能な技術者たちを呼び寄せて話を聞き、有益と思えば私自らが投資をするし、あるいは自ら販路を持つ低位の貴族との仲立ちもする。サロンとは名ばかり、ただの懇親会。やっていることはまるで商人だ。
「私、本当に王女なのかしら」
天井に向かって伸ばした右手の甲には何も光はない。実のところ、私の行動はどれも順調なわけではなかった。
御父様は私が再度失踪してしまうことを恐れて、泉へ修行に向かうことにあまり良い顔をされなかった。すると力が目覚める兆しがないのも当たり前なので、厄災への代替策として古代遺物の研究に携わるようになった。
ところがガーディアンの実働には未だ至っていない。研究の資金繰りのために始めた技術者たちの保護が、今や最も進んでいると言ってもよかった。
民は強い。むしろ王家などなくても生きていけるのではないかと思う程、彼らは強かで逞しかった。
「上手くいかないことばかり」
と、弱音を吐いても何も変わらない。でも時々ぐったりとソファーに身を沈めて、暗い天井を眺めた。
リンクが着任して彼の様子を理解して一週間ぐらいが経った頃、例の技術者との交流を目的としたサロンがあった。彼にとっては初めてのことなので先に説明しておくと、畏まりましたと一声あった。さらりと、それだけ。
そのうち、私にその鉄面皮の理由を聞かせて、以前のように朗らかに接してほしいと心のどこかで願う。私の気疲れを察したのか、丁度その日呼び寄せていた宮廷詩人の竪琴の音は柔らかく包み込んでくれた。
「技術者ばかりのサロンなのに来てくださってありがとう。調律に関する技術者が今回はいらっしゃっているので、是非にということだったので」
「ゼルダ様のお声掛かりがあれば、わたくしはどこへなりとも馳せ参じます」
滑らかな白い髪を揺らして、詩人は私の手の甲に口付けを落とした。城に戻ってからひっそり泣くときはいつも寄り添ってくれた竪琴の音。今は間近で隠れもせずに聞けるようになった。それは非常にうれしいことだった。
彼の師であった老詩人はつい数年前に亡くなって、彼自身が宮廷詩人の座に収まった。老詩人を熱狂的に支持していた貴族の婦人たちは、いまや弟子である彼に首ったけだ。
「あれが新しい騎士殿ですか?」
「ええ、そう……そうです」
見たことがありますよねとは言わない。リンクのことを調べてもらうように頼んでいた相手なので、その不手際を責めるようなことはしたくなかった。彼にとってみても、まさか騎士団に潜り込んでいるとは思ってもみなかっただろうし。
でも不思議と宮廷詩人の瞳は鋭くリンクに突き刺さり、視線をリンクの方に向ければリンクの方も突きさすように詩人を睨んでいた。二人の間に、一体何かあったのだろうかと勘繰ってしまうほど鮮明な睨み合いだった。
そのにらみ合いの最中、城下に工房を構える織物の技術者の女性がリンクに声を掛けた。彼女は確かタバンタ地方でリト族と共に暮らしていた経験を生かして、薄手なのに非常に温かい織物を作っている織匠だった。ただしハイラル城下では高価で温かい生地自体は好まれず、ならば軍の方で採用できないかという話で、私が間に入って調整をしていたところだ。
だからなのか、リンクとしきりに話をしている。おそらく近衛騎士の制服についての話なのだろう。以前私に付き従っていた騎士は彼女よりも年齢が上で強面だったので、年若い彼ならば容易に話ができると思ったのかもしれない。
案の定、二人は長いこと話をしていた。
「随分と話し込んでおられる様子ですね」
「ええ、本当に。珍しいことです、彼が誰かと話をするなんて」
再会してからリンクとあんなに長く話が続いたことはない。私と言葉を交わすことを嫌がっているのかと思うぐらい、会話が成立しなかった。
だから単純に、彼と話をしている女性を羨ましいと眺める。私もリンクと些細なことでもいいから話をしたいのに。懐かしい昔を思いだして、あれが美味しかっただの、あそこの風景は綺麗だっただの、そんなことを話したい。ただそれだけで鬱屈した宮廷生活は大いに救われる。
だから、話ができる織匠の彼女が羨ましい。
でもある瞬間、羨望は嫉妬に変わる。リンクの表情が緩んだからだった。
何事か女性が声を掛けた瞬間、少し噴き出すのを我慢するように彼は口元を緩ませた。あんな顔、再会してからは一度だって見せてくれなかったのに、初めて会うあの女性に見せるなんて。
手の中の扇子がミシリと音を立てる。人目が無ければ、扇子の一つ叩き折りそうな衝動に駆られた。
「姫様」
「いいえ、大丈夫。なんでもありません」
口に出すのもおぞましい感情が胸の内側に渦巻く
分からない。彼が一体何者なのか分からない。
やはり彼は私とは初対面のまるで別人で、彼にとって私はただの警護対象。しかも手のかかる下賤に足を踏み入れた姫君なのだろうか。
あるいは本当に、本気で私を無視しているだけの可能性もある。たまたま姫付きの騎士になって再会してしまっただけで、本当は私には会いたくなかったとか。何しろ私一人のために、リンクは人生を棒に振りかけていた。ようやく尊敬する父と同じ道を、新たな人生を歩き始めてすぐに元凶に出会うなんて嫌悪以外の何物でもあるまい。
でも穏やかに話をするリンクと織匠の女性の二人を見ると別の感情が湧いて、あることに気が付いた。
『私が妹や年下じゃなくて、もう少し大人の女性だったら違ったのかしら』
三年ぶり。
私はそれなりに大人になったつもりだった。見目はもちろん、教養や精神的な部分でも成長したつもり。でもリンクもまた同じだけ歳を重ねて大人になっている。いくらがんばっても歳の差は縮まらない。
つまり私は未だ、ただの護る相手でしかない。リンクが私の傍にいる理由は昔から変わらず守るべき存在という、ただその一点のみなのだ。