9 ままならぬ世
馬の世話をして、料理の配膳を行い、洗濯掃除、それから今日は修理に出しておいた盾を工房まで取りに行かなければならない。もちろん鍛錬や学び舎での勉学があるので、合間をぬって雑務をこなす必要がある。
だというのに、仕えている近衛騎士は今日も俺へのあたりが強く、昼頃になって城下への手紙を押し付けられた。しかも届け先は城下の相当に端の方。日が暮れるまでに戻ってこないと晩飯にありつけないのを分かっていて、ひたすら意地悪いことをする。
数か月前であればムッと眉根の一つでもひそめそうなところだったが、最近は顔の筋肉を動かすのが億劫になっていた。真顔のまま午後の予定を頭の中で整理して、効率の良い順番を考えながら廊下を走った。
「あれか、流れの傭兵風情から召し上げられたという」
「酷い身なりだが、あれでも従卒か?」
「違う、すでに従騎士になったらしい」
「従騎士? あの成りでか、随分とチビだな」
「チビだが腕っぷしだけは馬鹿にならんぞ」
「下手な騎士では歯が立たず、近衛たちも負けるのが嫌で相手にせぬのだとか」
「しかしながら不調法だけは板についているな」
陰からこそこそと、せせら笑う声はたくさん聞こえた。
騎士の従卒や従騎士、これをまとめて従士という。従士を務めるのは大半が騎士の息子たちで、あるいは貴族の子弟などが箔をつけるために務める場合があった。
だから俺のような平民出で、しかも親兄弟の分からない流れ者はぞんざいな扱いを受けるのは当たり前。分かっていたが、騎士たちからも同輩の従士たちからも酷い仕打ちが続いた。
一日、二日食事が抜かれることは稀ではなく、物が無くなれば俺が盗ったと問答無用で折檻を受けた。一度、殴られそうになったのを避けたらいつもの倍ぐらいやられたので、避けてはならないのだと理解して当たり所を上手く調整するようにした。
誰としゃべるわけでもないので口数がどんどん減って、使う単語は「はい」と「申し訳ありません」がほとんど。たまにコログを見かけても、どこに人目があるとも知れず返事が出来なくなった。目線だけで答えると、コログたちは寂しそうにカラコロと音を出し、そのうちどんぐりやりんごを俺の寝床に置いていくようになった。始終腹を空かせていたので、夜中にこっそり隠れて食べていた。
「もう少し身なりはどうにかならんのか」
「申し訳ありません」
仕える近衛騎士から文句を言われても反抗的な態度をしてはいけない。
そもそも従士の衣服の世話は騎士の仕事だ。自分の身辺の世話をさせるのだから、その分だけ衣服も下賜するものだ。それを分かっていてこの騎士は俺にあまり物を与えなかった。だから旅をしていた時よりも一段とぼろをまとって駆けずり回るものだから、城内では浮いて見えていた。
自然と立ち入りを許される場所も限られるようになり、俺は同じ城の中に居ながらゼルダを見かける機会は一切なかった。
「姫様すげぇ綺麗だった」
「遠目から見たけど金の御髪がキラキラしてさ!」
「リンクは結局来られなかったんだっけ」
「うん」
四人部屋の片隅で、教本に目を落としながら答える。幸いにも従騎士の寮の監督をしていた騎士は寛大な人で、俺の同室には割に気にせず付き合ってくれる三人を選んでくれた。
そうはいっても特別仲が良いわけではない。ただ、寝込みを襲われたり言い訳を聞かずに窃盗の疑いを掛けたりはしない連中だった。だから俺は黙々と歴史の教本を頭に叩き込むことに努められる。
「リンクのところの騎士様ももうちょっといい人だったらよかったのになぁ」
「別に、俺みたいなのにはもったいない御方だ」
「だって闘技場に連れて行ってもらえなかったんだろ?」
「仕方がない、あの日の仕事が俺だけ終わらなかったんだから」
同室の他の三人は先日、ハイラル平原の南にある闘技場行われた御前試合に随伴が許された。というより、従騎士の中で唯一随伴が許されなかったのが俺だった。悔しいかな、前日から大量の雑務を言いつけられて、俺は城から離れさせてもらえなかった。
「姫様がな、こうやって手を振ってくださるんだよ」
「そうそう、騎士たちだけじゃなくって、俺達にまで!」
「平民に気安いって貴族の方々は嫌がるけど、別にいいじゃんな」
『羨ましい』を何度も飲み込んで聞き流す。俺もゼルダの姿を一目見たかった。でも一切許されることはなく、最近は城の廊下でばったりと出会う夢ばかり見る。
金の長い髪をして、綺麗なドレスに身を包んだ彼女が俺を見つけ、優しく手を差し伸べて声をかけてくれる。そんな夢ばかり見た。
それはそうと、ゼルダ姫に関する評価が真っ二つに割れていた。
同室の三人のように貴族でも郷士などの低い身分の者や下仕えの平民は、とても気さくで心の広い姫君だと好意的に言う。方や、俺がお世話をさせていただいている騎士のような高位の貴族出の人は、ゼルダ姫は卑しい身分の者とでも平気で言葉を交わす少々可笑しい方だとあざ笑う。
まさしく俺の知るゼルダだなと思って聞いていた。
何年兄妹として過ごしていても、ふとした拍子に出る楚々とした所作は高貴な人の気配だと思っていた。でもどんな相手でも態度を変えることはなかったし、下手をしたら俺よりもずっと度胸が据わっている。
そのせいで辛い立場にあるのではと考えたりもしたが、だからと言ってお目通りどころか遠目からでさえ見ることが叶わない今の俺には何もできない。あと二、三年経って、無事に騎士に叙任されてからでないと、まみえることすらできない高嶺の花だ。
いや、ただ騎士に叙任されたとてすぐには無理。そのあとも戦功を重ねなければ近づくことも許されない。遠い道のりにため息も出なかった。
そんな長い悪路をひた歩きにしていたころ、思わぬ話が飛び込んできた。
「これを着ろ」
ぶっきらぼうな言葉と共に、久々に下賜された上下の服は丈が丁度で、しかも新品だった。どんな風の吹き回しだかと思わず首を傾げそうになり、不用意な態度で折檻されるのを思い出して体が固まる。
「どうした、嬉しくはないのか」
「……ありがとうございます」
「まったく、かわいげのないやつだ。いいか、半月後にゼルダ殿下が時の神殿へお渡りあそばされる。その警護の任に当たることになった、心して準備にかかれ」
「はっ」
腕を組んで渋々と言った風の自分の主をみて、なるほどと心の中で頷く。さすがに数日間の遠征ともなれば、世話役の従騎士を置いていくわけにはいかない。しかし貧しい身なりをさせている俺を、平民に優しいと噂の姫君に見咎められでもしたら厄介だ。だからこうして真新しい衣をくれたというわけだ。
ありがたく押し頂いて、より一層盾も鎧兜も磨き上げてやった。なんたってゼルダの顔が拝める機会を与えてくれたのだ。しかも話に聞いた御前試合のように、物凄い遠くからではない。何なら忍び込んで言葉を交わす機会もあるかもしれない。
久しぶりに心が躍った。
それからちょうど半月後、ゼルダ姫の御一行を護衛する騎士の随伴として俺はハイラル城から時の神殿へ向かった。同じく警護の騎士たちの従士たちと列の最後尾に着く。ゆっくりとだが、歩く速度よりは早く進む馬車を追いかけて、ひたすら走り続けた。もちろん背には自分と自分の仕える騎士の分の荷物も背負ってのこと。
幼い従卒たちは早々に脱落し、従騎士も体力のない者から順番に脱落していった。俺は最後の五人までついて行って、とうとう時の神殿に着くまで全ての行程を走り切った。
馬で先を行く騎士たちは己の従士がどれほど待っても来ないのに苦笑していたが、俺の仕える騎士は俺が真っ先に到着したのを見て引きつった笑いをしていた。内心ざまぁみろの思いつつ、支度をしろというので鎧を脱がせて平服の準備をする。
さすがの行程に心を痛めた姫様の計らいで、従士たちには神殿から十分な食事と睡眠時間が与えられた。こういう些細な気遣いが平民たちからは人気があるようで、なんだか誇らしかった。
だからと言って、俺はその夜を無駄にするつもりは毛頭なかった。
皆が疲れて寝静まっている時こそが絶好の機会。疲れているのは馬上にあった騎士と言えども同じなので、さすがに移動日の夜ぐらいは意識も散漫になるのを知っている。
必死で眠気と戦い、全員が寝静まったのを確認してから宿舎をこっそり抜け出た。
「コログ、いるか?」
外に出て草木の多い方に話しかける。
幸いなことに、すぐにカラカラコロコロと音が答えた。
「すまない、ゼルダの居場所を知っていたら教えてくれ」
カラコロカラコロ。
音が時の神殿へ続く道へ移動し始めた。ありがたいことにコログは姿を現して、赤い木の実のついた枝を振って走り出す。時の神殿に併設された小神殿の裏側を奥の方へ案内してくれた。
月のない夜だった。
寝ずの番の明かりがついた窓の下を通り抜け、うねる根っこを跨ぎ、星明りだけを頼りに音を立てないように気を付けて進む。本来であれば従卒どころか、神官の傍仕えだって入り込めないであろう姫君の寝所へ、俺は片手に姫しずかの押し花を懐紙に挟んで持っていった。
大昔にカカリコ村で姫しずかを摘んで以来、俺は時折ゼルダに花をやろうかと聞くことがあった。はいと答える時も、いいえと答える時もあったが、なかでも一番気に入っていたのが姫しずか。
本当は摘むと可哀そうと言われていたが、今日だけは絶対に姫しずかを持っていこうと決めていた。神殿へ行幸の話を聞いてすぐ、寝る間を惜しんで探して押し花にしておいた。きっと姫しずかを持っていけば、言葉を交わさずとも俺だと気が付いてくれるはず、そう信じて。
コログが暗い窓の下で足を止め、手に持った枝でツイツイと上を指し示した。
「ありがとう」
俺は出っ張った窓の縁のところに懐紙に挟んだ押し花を置いて、そのあたりにあった小石を重石に置いた。それから窓をコンコンと二つ叩いてから、急いで窓を挟んだすぐ横の柱のでっぱりの影に隠れた。
気が付いてくれるだろうか。
いや気が付いたとして、どうすればいいだろう。
大声が出そうだから顔は見られない。
でも小声なら呼びかけてもいいだろうか。
鍛錬の時はびくともしない心臓がばくばくと音を立て、口から飛び出そうになって押さえた。気配の殺し方を忘れるほど汗が噴き出て、鼻でする呼吸が熱い。
でも思いは通じた。
「誰かいるのですか?」
キィと窓の開く音がして、声が聞こえた。
すぐにゼルダだと分かった。聞き間違えるはずがない、ずっと兄妹として育ったゼルダの気配がした。
「あら、これ」
重石の石を外すコトリという音、懐紙を乾いた音、それから小さく息を飲む音。「姫しずかだわ」と嬉しそうに零れ落ちた声、その全てが聞こえた。俺はひたすら両手で口を押さえて耐え続けた。
よかった。生きてた、無事だった。
当たり前の感想しか抱けなかったが、何より離れてからずっと聞いていなかった声に安堵する。守らなきゃならない俺の大事な妹は、ちゃんと無事だった。
「姫しずか、大好きなんです。ありがとう。……あの、いらっしゃるの?」
小声で、ゼルダがあたりを伺う様子があった。
どうする、出て行って姿を見せようか。でも二人して声を上げたら、侍女どころか警護をしている騎士に見つかってしまうかもしれない。それにウルボザからは他人の振りをするようにと強く言い含められている。
そう、俺は未だに内々では追われている身だ。まさか騎士の身内に紛れ込んでいるとは思っていないのか、まったく詮索されないのが逆に不思議なぐらい。
でもゼルダに会いたい。
会ってはいけない。
会いたい。
駄目だ。
ちょっとだけなら。
少しだけ、顔を見たらすぐに逃げようと思って、腰を浮かせる。でも次の言葉を聞いて俺はもう一度腰を下ろした。
「今日は竪琴の音は聞かせてはくれないのですか?」
ふふふと笑う声がして、ゼルダが全くの別人を探していることを知る。
俺は竪琴なんか弾けない、持ったこともない。ゼルダが待っていたのは、俺ではないまるで別人なのだ。愕然とした。
確かに力の泉で別れ別れになってから一年以上が経つ。姫君としての生活にも慣れただろうし、新しい人間関係だってたくさん繋いできたことだろう。そうでなければむしろ心配だ。
でも俺の手の届かないところで、俺の知らない誰かと、こうして夜中に秘かに会う。ゼルダにそんな相手がいることが許せない自分がいた。
ひっそりと人目をはばかって会う相手とは何だ。どうして俺以外にそんな相手がいる、どうしてその相手が俺じゃない。なんで俺は会ってはならない。
なんで、どうして。
むなしい疑問ばかりが心を占めている間に、ゼルダの声がもう一度響く。
「ごめんなさい。確かに警護の者も多いですし我儘でしたね。……また気が向いたら来てください、待っています」
では、とゼルダが窓を閉める気配がした。これを逃したら、何年先まで会えないとも分からない。柱を挟んですぐ横にいるのに、俺は探されていない。一つの明確な事実に頭を殴られてその場から動けなくなっていた
――ゼルダは俺を待ってない。
ゼルダの待ち人は、俺ではない他の誰か。
その事実を認めると、走り通しだった疲れが出てずっしりと体が重たくなった。もう一歩もここから動きたくない。
俺はゼルダに会いたくてずっと努力してきたつもりだった。仕える近衛騎士からどんなひどい仕打ちを受けても、年下の従卒から馬鹿な言い分でそしりを受けても、彼女に会うためならば耐えられた。
でもお姫様になったゼルダにとっては、俺のことなんかもうどうでもいいのかもしれない。
「まぁ、確かに俺、ゼルダを置いて逃げたしな」
ウルボザから逃げた時を思い出して、ずるずるとその場に崩れる。膝を抱えて顔を埋めた。
あの時、俺は守る立場から守られる立場に一転した。それを思えば、確かにゼルダにとって俺はもう価値の無い護衛なのかもしれない。
コログが心配そうに顔を覗き込むので、「大丈夫」と自嘲の笑みを張り付けた。のろのろと立ち上がって従士にあてがわれた宿舎に戻る。雑魚寝の合間を縫って自分の布団にいくと、半分ぐらい隣の奴に占拠されていた。
でももういいや。
ゼルダが俺を待っていないなら、俺はもう用無しだ。もう従士など辞めてハテノに戻るか、旅に戻るか。取り上げられた剣も一向に戻ってくる気配はないし、ちょうどいいと思った。
本当に丁度いい具合に、諦められる出来事を女神は与えてくれる。
そんなことがあったからか、次の日は珍しく寝坊をしてしまい、怖い髭面の近衛騎士のがっつりと怒られた。ただ他の騎士の手前、手酷い折檻だけは免れた。
でも一旦抜けた気力は戻ってこない。何をやっても身が入らない。幸いなことに遠征先だったので、余計な仕事だけは増えなかった。仕事の終わった従士たちには、珍しく自由時間が与えられた。
神殿内で祈りを捧げても良いし、門前町へ行ってもいい、散策をしても良いと言われて俺は神殿周りの森へ散策をしに行った。精霊の森と呼ばれていると聞いたが、確かにコログたちがきゃわきゃわと楽しそうに遊んでいる。
「どうしたの勇者サマ、元気ないネ」
「俺は勇者じゃないよ」
「姫巫女サマは? 元気?」
「ゼルダは……わかんない、ごめん」
ぼーっと草地に転がって風に吹かれていた。こんなにのんびりとするのは、いつ以来だろう。体を支えていた力が全部抜けて、雨水みたいに地面に吸い込まれて行った。何もする気が起きない。
でもお腹だけは空くのだから生きるのは厄介だ。
昼飯には戻ろうと思っていたのに、うっかり呆けすぎて昼飯の時間には間に合わない時刻になっていた。食いっぱぐれが確定したのに諦めきれずにぐーぐー鳴く腹がうるさくて、しょうがないから体を起こしてあたりを見回す。
見事なりんごのなる木があったので、早生のりんごなんて珍しいなぁと思ってよじ登る。真っ赤に熟れたのを選んで手を伸ばした。
「こりゃぁ!」
「えっえっええぇ?」
フードを被った大柄の老人が木の影から飛び出してきて、木の下から俺の体をカンテラ付きの長い杖で突いた。うわぁとバランスを崩して木から落ちる。でもしっかりとりんごは手に持ったまま、ぶちっと一つもぎ取ってしまった。
「小僧! 勝手に森のりんごを食うな! この森は精霊様のものじゃ!」
「え、あ、すいません……?」
といっても怒る老人には、どうやら俺の脇にいるコログのことは見えていない様子。コログの方は「どうぞどうぞ~」とリンゴをツンツンと枝で押す。一体どちらが正解だ。
やる気なくボケた頭でコログの顔をみて、思わず「いただきます」と頭を下げた。お腹を空かせた体が勝手に動いて、一口齧ったりんごはとても甘かった。
でもその瞬間にさらにどデカい声で怒られて、杖で強かに頭を打たれたのはさすがに痛かった。
「なんじゃお主、しょげて昼飯時間に間に合わんかったのか」
「はい、すいません」
ひとしきり怒られたあとで理由を話すと、老人は俺がりんごを食べることを許してくれた。その代わり一つだけじゃぞと念押しされたが、大きな傷のある顔は笑っていた。
ほっといたら、確かに夢中で数個は食べていたと思う。それぐらい貰ったりんごはみずみずしくて美味しかった。この森の木々は老人が手入れしているのだという。
「して、何にしょげておったんじゃ。説教の駄賃に、このじじいに愚痴でも何でもこぼしていけ」
「見も知らずの方にそんなことできません」
「儂を石か何かだと思えばよい。歩きながらでもどうじゃ」
なんだか前にもこんなことがあったなぁと思いながら、精霊の森から肩を並べて高台に向かって坂を上った。穏やかな風に吹かれ、心地よい日差しが降り注ぐ。
振り返り、遠目に噴煙を上げるデスマウンテンを見て、ダルケルに胸の内を聞いてもらったこと思い出す。あの時も、こうして話を聞いてもらった。でも何かが違うなと思って、傷の程度かなと首を傾げた。例えるなら致命傷みたいなもの。
でももう従騎士も辞めてどこかへ消えてしまおうかと思っているし、ならばここに言い捨てていってしまおうか。捨てる相手が石を自称する老人なら、拾って誰かにくれてやることもないだろう。
「誰にも内緒にしておいてもらえますか」
「儂は石じゃからの。聞いても何も答えんよ」
時の神殿を有する始まりの台地の高いところ。足元には精霊の森が広がり、その向こう側に広がるのはリーバルと一緒に戦ったハイラル平原、真正面には黒々とハイラル城がそびえたっていた。
遠目から見てようやく実感するが、随分と大きな城だった。あんなところで俺は働いているんだなぁと妙なところで肩から力が抜けて、その場に胡坐をかいた。
「俺、姫様を守りたかったんです」
「姫様というと、今代のゼルダ姫様か」
「はい」
でも、と言葉を続けようとして、喉が詰まった。
この胸に渦巻く気持ちを何と形容すべきか分からなかった。ゼルダを切望し、俺ではない待ち人に嫉妬して、俺を忘れたゼルダに失望したとでも言えばいいんだろうか。
分からなくて頭を掻きむしる。
「いや、前は、俺が姫様を守っていたんです、信じてもらえないかもしれませんが。でも久しぶりにお声を聞いた時に、お前はもう必要ないって、そう、言われたみたいな、気がして……」
心にぽっかりと穴が開いたような悲しみって、多分こんな感じ。ひゅうひゅうと風が吹き抜ける音がする。
しばらく無言で聞いていた老人はふむ、と一つ相槌を打つ。俺の隣にどっかりと胡坐をかいて座った。
「お主、溺れている者を見たことはあるか」
石なのにやっぱりしゃべるんだなと思って、でも別に悪い気はしない。
溺れている者というのでぱっと思い出したのは、ゾーラの里で泳いで遊んでいた幼い頃のことだ。ゾーラのもっと小さい子が足を滑らせて溺れかけたのを見て、俺が助けに入った。大人が誰も見ていない一瞬の出来事だった。
「あります」
「ならば溺れる者がどのように溺れるのかは知っておるな」
「はい。静かに、溺れる」
溺れる人というのはバシャバシャと水音を立てて見つけやすいと思うかもしれないが、案外そうではない。口や鼻から水が入って声が出せず、水しぶきは川のせせらぎや波音にかき消され、気が付くと沈んでいる。ずぶずぶと水に飲み込まれていくのだ。
しかしながら老人が何を言いたいのか分からず、目線だけで伺う。老人は濃い緑色の目は遠く、城の方を向いていた。
「良いか。溺れる者の声は遠くまでは届かない。溺れる前に助けられるのは、その者の声に常に耳を傾け、見守っている者だけじゃ」
そう言うことかと、顔を上げると、フードの下の真剣な面持ちの老人と目があった。その顔の大きな傷からして、この老人もまた大事な人を失くしたことがあるのかもしれない。
「ゼルダ姫様がお辛い立場だったとしても、大手を振って誰かに助けを求めるなど出来まい。身分あるお方であれば猶のこと難しいであろう。それなのにお主はお守りしたいという割に、お声掛かりが無いと背を向けて逃げ出すのか?」
無言で頭を横に振る。
昨晩、確かにゼルダは誰かを呼んだ。
今、陰ながらに支えているのは俺ではないが、あの様子では確実に支えが必要なのだ。実の父でもなく、身近な侍女でもない、誰かの支えが。
だから今はまだ聞こえなくても、ゼルダの助けを求める声を聞く努力を辞めてはならない。俺はどんなに辛くとも、やはり逃げ出してはならないのだ。
「……がんばってみます」
「諦めるな若人よ」
にこりと笑った老人は、懐からぴかぴかに磨いたりんごを一つ差し出した。一個しか食べてはならないと言ったのに、あれだけでは俺の腹が鳴りそうなのを分かっているらしい。
宝物みたいなりんごを抱えて立ち上がり、ぺこりと頭を下げた。
「導きをありがとうございます」
「なぁにそんな大したものではない。森だの祠だのを任されているだけの、変わりもんじじいじゃよ。わしはもうずいぶん長くここで独り、退屈な神殿仕えにちと飽いていたのでな、たまには活きの良い若いのと喋りたくなっただけじゃ」
ほっほっほと笑いながら老人も立ち上がり振り返る。確かに気になっていたが、背後の崖ぽっかりと穴が開いていた。
草に紛れて分かりづらいが、どうやら入り口は人工物。見覚えのある模様でそれが古代遺物だと分かった。
「古代遺物ですか?」
「良く知っておるな。回生の祠というらしいが儂もよく分からん、というよりも分からんので調べておる」
シーカー族でもないのに古代遺物を調べるなんて、まるでゼルダみたいだなと思った。
こんなものに興味を覚えるハイリア人はそう多くない。他の種族も一様に遺物に関しては「なんだこれは」という顔をする。あの独特の模様だって他種族からしてみたら、なんだか気持ち悪いと言う人もいる。
「遺物がお好きなのですか?」
「いや亡くなった妻からの言伝でな。いずれ必要になることもあろうと調べておるのだが、門外漢なものでトンと分からんで途方に暮れておる」
遺言で調べるだなんて、もしかして亡くなった奥様はシーカー族だったんだろうか。そうしたら随分と年齢差がありそうな気もするが、何か込み入った事情がありそうだった。もちろん聞かないでおく。
俺は恐る恐る祠の中を覗きこんだ。
黒い壁に橙の星座の模様が刻まれ、長い階段が地下へと伸びている。古い墓所みたいにも見えてゾッと寒気が背筋を走った。ひやりとした空気が漏れ出てきて、あまり中に入りたいとは思えない。こんなものを調べるなんてやっぱり変わり者だ。
「さて、そろそろ帰るがいい。いずれ立派な騎士殿になって姫君を助けてやれ」
「はい」
「では頼んだぞ」
この老人から頼まれる覚えは無かったが、誰かに期待されるというのは久しく忘れていた感覚なので素直に嬉しかった。ぺこりと頭を下げ、俺はりんごを片手に坂を駆け下って宿舎へ戻った。
十六になる前の、たしか夏の終わりだったと思う。
顔に大きく傷があって、風体があまりに違うので、その老人の正体には全く気が付かなかった。その時は気にもとめず、ありがたい言葉のみをただ胸にしまっておいた。