私は負けたのだ。
苦しい思いを抱えたまま、ふと目が覚めると、あたりは不思議な靄に包まれていた。果てしなく広いそこは、空もなく、地面もない。きっと始まりもなく終わりもない、そんな空間が見渡す限り続いている。
もしも『時』というものが可視化できるのならば、きっとこんなものなのかもしれないと思った。
「いったい何がどうなって……」
背後から胸を貫かれ、ゼルダの悲鳴を聞いた先の記憶にない。でも体に傷は無かった。痛みもない。
というよりも、身体がほんのりと透けていた。
それで、ああ、と嘆息する。
「死んだのね、私」
父が戦ではなく病で死んだとき、どう死ぬか分からないと思った自分の言葉を思い出した。生きていた時にはすっかり忘れていた。
ゼルダからハイラル王国が遠い未来まで繁栄していることを聞いた時、私はガノンドロフに勝つ未来を確信した。だから戦になったとしても、私自身がガノンドロフ本人に殺されるなんてこれっぽっちも思ってもいなかった。どんなに熾烈な戦禍を経たとしても、必ずやあの男を屈服せしめるのだと、信じて疑わなかった。
「でも考えてもみれば、あの男にとって一番の脅威はラウルよりも私。ならば狙うのは当然……か」
ゼルダの姿を模したのも、私の警戒心を削ぐためだろう。もちろんそんなことに騙される私ではないが、一番の見当違いは偽のゼルダがガノンドロフ自身だったことだ。
私とガノンドロフは似た者同士だ。ただ決定的な違いは、私は先陣に立つだけの力はなく、あの男にはそれだけの力があるということだった。
私なら、偽物を泳がせるのに他の者を使う。対してあの男は、自らが偽物に化けた。
力の有無という大きな違いを見誤った。だから負けた。
「あーあ、なんとも、間抜けな死にざまね」
カラカラと乾いた笑いを零しながら立ち尽くした。
あれからハイラルはどうなったのだろう。ガノンドロフの狙いは私の秘石のはずだ。あの男があえて回りくどい手を使うときは、真っ向勝負で勝つための布石でしかない。力で相手をねじ伏せることこそが、砂漠の王が本来好むやり口だ。
だとしたらゼルダはどうなったのか、あるいは私の息子は、そしてラウルは――。
「まぁ当然、私のせいで死んでしまったのでしょうね」
口に出してみると、意外と無感動な自分に驚いた。もう少し哀しみや後悔があるかと思っていたのに、やはり私はどこか心が渇いているのかもしれない。
ぽつねんと魂だけが浮かぶ時の中、私はいずれ朽ちて消えていくのだろう。それも案外悪くない。
そう思っていたのに、ぼんやりと誰かの気配がした。
こんなところで出会うのはいったい誰だろうかと目を細めると、その気配は徐々に良く見知った形になっていく。記憶どおりのへたれた長い耳で、出会ったときから変わらぬ全身を覆う黒っぽい毛並みは全く可愛いとは思えない。
でもラウルも私と同じく、体が淡く透けていた。
私の姿を見つけたラウルはまなじりを下げかけた。だが斜に構えて醜悪に笑う私を認めるや、一瞬のうちに言葉を失ってしまった。あっはっはと、私の方こそ大笑いだ。
「ざまあないわね」
「ソニア……」
「もちろん一番無様なのは私だけど。……どう? 妻がこんなにも愚かで、腹黒い女だったと知った感想は?」
もうどうでもいい。取り繕うのは止めた。
生前からずっと緊張続きだった肩から力を抜く。ぼんやり見上げた空が青くないのが少し残念だった。
「秘石を操るゾナウ族の、貴方の力さえあれば、ハイラル全土を掌握することなんて容易いと思ったのに……。どうしてなかなか、うまくいかないものね」
「そんなことを考えていたのか」
「あら、悪い? でも私、本当は自分でやりたかったのよ。貴方の力なんかアテにせずにね」
ピクリと耳を震わせたラウルの驚き顔に、やはり彼は何も分かっていなかったのだと理解した。フンっと鼻で笑ってやる。
ラウルにとって私は、善良な妻だったのだろう。一生そのままでいられたならばお互いに幸せだったかもしれないが、生憎ともうそんな面倒なことをするつもりはない。
私は生来の性分を隠そうともせず、ぎりぎりとラウルをねめつけた。
「貴方みたいな圧倒的な光の力もない、ガノンドロフのような他を凌ぐ武力もない。私はただ少し頭が回るだけの小賢しい娘でしかなかった。それが分不相応な夢を抱いた末が、このざまよ」
「ひとこと言ってくれればよかったものを……」
「貴方に言って何になるの? 妻の本性さえ見抜けないボンクラのくせに」
もう顔も見ていたくなくて、ゆるりと背を向ける。そのまま遠ざかるように足を動かしてみたが、果てのないこの空間では歩みはあまり意味をなさないようだった。
歩いても歩いても、ラウルと距離が離れる気配はない。
それどころか、いつの間にか困惑気味によりいっそう垂れた耳が私の真横にあった。
ラウルがとぼとぼと着いてきていた。
「ソニアが裏から手を回してくれていることには薄々は気が付いていたよ。でも君の言う通り、私はそういうことが苦手だからね……。そういえば結婚の時にも言われたな、ハイリア人とはだいぶ感覚が違う、と。それをソニアが埋めてくれているのだとばかり――」
「そんなの、貴方が不甲斐ないからでしょうが!」
思わず両手で襟を掴んで締め上げながら、怒鳴ってしまった。
見たこともないぐらい彼は慌てふためいて、「え、えぇ?」と言葉にならない何かを呟いている。その素っ頓狂な面にさらに腹が立った。
「力はあるのにお人よしで、後先考えずに誰でも助けて、そのくせ裏切りには鈍感で! 私がいなかったら貴方、何回毒を盛られていたと思う?! 叛乱を何度企てられてたと思うの?!」
すでに死んでいるのだから今となっては意味のない怒りだ。全て終わったこと。
それでも全て吐き出さねば、腹の虫がおさまらなかった。
「地に住まう者はねぇ、貴方たちゾナウ族のように高潔な心根の者ばかりじゃないの! かく言う私もそうよ、打算なく誰彼構わず手を差し伸べるようなことなんかしないわ!」
「ソニア……」
「貴方はよく言えば公平無私、悪く言えばひどい偽善者。私みたいな欲得でしか生きられぬ者から見れば、虫唾が走る以外の何物でもないのよ!」
神には人の醜さを理解などできまいと、一度は諦めた。
でも彼は神ではなかったから死んだのだ。だったらもういい加減、理解してくれてもいい頃合いではないだろうか。
十年以上寄り添った妻の醜い心根の一つぐらい、理解してくれても良いではないか!
「助けられたことをありがたいと思う者いれば、不甲斐ないと思う者もいる。あるいは見下されていると逆恨みする者もいる。それが地に住まう者たちよ。天より降り来た神の末裔様にとっては些末な悪意も、集まれば十分に害する力を持つといい加減に理解しなさいよ!」
「ソニアはそんなものと、ずっと相対していたのか……?」
「そうよ……ッ。どれだけ私が、貴方への悪意を潰してきたと思ってるの!」
誰が死んだとて流れなかった涙が、盛り上がってボロボロと崩れていった。自分のためにしか流れない涙は、なんて利己的なのだろうと自分でも反吐が出る。
でもそれが私、ソニアというハイリア人だ。もう隠しもしないし、取り繕いもしない。罵倒するのならすればいい。嫌いになるなら今がまさにその機会だと思う。
私は悪びれることもなく、上背のあるラウルを下からぎゅっと睨みつけてすごんだ。
「何か弁明はあって?」
「……すまない。本来であれば感謝の言葉を述べるべきとは、分かっているんだが……」
事ここに至っても、ラウルの言葉はどこか上の空で、ものすごくすっとぼけていた。
背は大きい癖に、まるで小動物みたいに小首を傾げている。腸が煮えくり返る。
「ソニアはどうして私に、そこまでのことをしてくれたんだ?」
ねぇ、この人はどこまで馬鹿なの?
「どうしてって……ああ、もう……」
呆れて両手で絞めていた襟を放りだした。もう怒る気にもなれない。話が通じないってこういうことだ。
地面があったら倒れ込むほど脱力したが、良くも悪くもここは地面が無い。私は立つ気力すら失って、体を適当に投げ出した。
するとラウルは器用に私の体を掬い上げ、そのまま幼い日のように軽々と抱き上げてくれた。一転して、私はラウルを見下ろす形となる。
彼は人畜無害そうな顔をして、心底不思議そうに首を傾げていた。
「いや、毒ごときで死ぬ私ではないのは君も知っているだろう? 確かに毒を盛られたら苦しむだろうが、それでもミネルの手にかかればどうとでもなる。実際、幼い頃にミネルに毒キノコも食べさせられたこともあるしね」
「それは、さすがにどうなの……」
「飛び込みの儀よりはマシだと思うよ。あれは命がいくつあっても足らないから禁止したぐらいだ」
はぁ、とため息を吐いたラウルは、私を抱き上げたままとぼとぼと歩いていく。
「それに、ソニアには甘いと言われるかもしれないが、全ての部族が反旗を翻すような悪政を強いていたつもりも一応ないよ。だから叛乱が起こっても、他の部族の助力と秘石があれば鎮圧は不可能ではなかったと思うんだ……まぁ結果的には秘石を取られて負けたわけだが」
それは、そう思う。
決して圧政を敷いたわけではなかったから、叛乱といってもラウルにとって代わろうとする驕慢な輩が時折いるだけだった。そんな者に加担する者が多いわけがない。
だとすると確かに言う通り、ガノンドロフ以外にはラウルを打ち倒せる者がいなかったというのも、あながち間違いではないのだ。
私から反論が飛び出してこないのを確認しつつ、ラウルは「つまりだな」と言葉を続けた。
「もし私が王として何か悪意を向けられたとしても、苦労はしただろうが自力でどうにかできたと思うんだよ。そのことに賢いソニアが気付かぬわけがない。だからそういった難事を先んじて防いでくれたソニアのそれは、ただの善意にしか思えないんだ。ところが君の善意は全て計算づくだという……」
「……で、だから?」
「うむ、だから、私が分からないのはその善意の理由だよ」
結婚式の時と同じように、彼は「ふぅむ」と顎の髭を撫でる。ただその視線はあの時とは違い、しっかりと私を見ていた。
「ソニアの言が真実なら、君は有益な理由が無い限り、私を護らないはずだろう? でも私は相当のことでもなければ死にはしない。いったい私のどこに護る理由があったんだい?」
それまでスルスルと出てきていた言葉が、不思議と詰まった。
思い返すと、そういえば侍女からもゼルダからも指摘されたことがあった。
『ラウル様にご相談なさった方がよろしいのではないでしょうか』
『では、ラウル様にお知らせしないと!』
言われるたびに、反射的に「駄目よ」と言ってきた。
駄目、ラウルにはこんな些末なことに関わる暇はない。
駄目、ラウルにはこんなことは任せられない。
そのように言えば、彼女たちは納得した様子で引き下がってくれた。それは私が王妃という立場だったからだ。
でも普通に考えたら刃物を持っているであろう敵に対して、私とゼルダ二人で立ち向かうのは愚かの極みだ。ラウルも来てもらった方が安全なのは間違いない。そもそもラウルは彼我の最大戦力なのだから、その力を使わない方が可笑しい。
というよりも私、まったく彼の力を使えてない……?
「あ、……え…………?」
「ソニア?」
無意識のうちにラウルの力を使うことを避けるようになったのは、いつからだろうか。これでは正味、私の行動はラウルを護ることに重きを置いているとしか思えない。
非力な私自身を護らせ、ひいては全土平定のための手足として使おうと思っていた男を、私はいつの間にか護ろうとしていた? これではまるで足かせではないか。
きっかけも思い出せない私の足かせ。その正体は――。
「っ……!」
カァっと頬が熱くなる。
それが何と呼ばれる感情なのかを正確に理解する前に、私は頭を振ってどうにか否定しようと思った。でも一度真っ赤に染まった頬はもはや弁明のしようがない。
もしかしなくてもこれは、私がゼルダに感じたものではないだろうか。私には無かったと思っていたものではないだろうか。
「いてて……なっなんだい、いきなり?」
我知らず、ラウルの毛を鷲掴みにしていた。
慌てて手放すも、もうその柔らかな毛並みの感触が愛おしい。どうしたらいいのだろう。本当に、この名状しがたいこの想いは、どう御したらいいのだろうか。
何よりも、今まで理解していなかったのが恥ずかしい!
「っ……、ラウルのばか!!」
「急になんだい?」
「も、もうそれ以上聞いたら、口利きませんから!」
「え? なんで、……いや、その……うーん?」
足をばたつかせてポカポカと蹴ったが、大きな体躯のラウルはさして気にする様子もなくとぼとぼと歩き続けていた。
よかった、このお人よしのボンクラは人の機微にはめっぽう疎い。私も自分自身についてはさほど察しが良い方ではないと理解はしたが、それを上回る朴念仁っぷりに今は感謝をするばかりだ。
しょぼーんとラウルは耳を下げた。
「……分かったよ、もうこの件は聞かないことにするよ」
「ええ、それが身のためです」
「どういう意味なんだか……………………。じゃあ聞かない代わりに、賢い妻に一つ頼みごとをしたいんだが、いいかな?」
この期に及んで何を言い出すのかと思えば。
察しの良い人ならば私が断れないと分かって無茶なことを言い出すだろうけれど、きっとラウルはそんなことはこれっぽっちも分かっていないのだろうなと思う。
私はツンとすまし顔でそっぽを向いた。
「……聞くだけなら」
「ありがとう、じゃあまぁ、向かいながら話そうか」
そういえば、私は歩いても歩いても動いている気がしなかったが、先ほどからラウルは目的をもって歩いているようだった。ちっとも周囲の風景が変わったようには思わないが、どうやら私をどこかへ連れて行こうとしていたらしい。
ラウルはじっと先を見据えたまま、着実に歩を進めていた。
「これからとある青年がここに来る。だから彼を通して、ゼルダを元の時代に戻してやりたいんだ」
とある青年とは誰なのか分からなかったけれど、ゼルダの名前が出たことに驚いてそれ以外はどうでもよくなってしまった。
ラウルに抱きかかえられたまま、私は目を丸くした。
「ゼルダは生きているの?」
「ああ、龍となってね。ガノンドロフを倒すために並々ならぬ苦労を掛けてしまった……。だから元の時代に返してあげたいんだが、時を操るのは私一人では難しい。だからソニアに手伝ってほしいんだよ」
あるところでラウルは足を止めた。先ほどと風景が変わったようには思えないが、ゾナウ族には何か分かるのかもしれない。私はラウルの腕から降りる。
何が始まるのかとあたりを見回していると、遥か下方に麦わら色の髪をした青年が現れた。さらにその足元に、長大な龍が姿を現す。その鬣は私の髪よりも濃い黄金色をしていた。彼女は眠っているようだった。 なんとなく事の次第を察した私は、フッと笑う。するとラウルは苦笑した。
「愚かな夫に免じて、頼むよ」
「……もう、仕方がありませんね」
これがゼルダの想い人なのかと思うと、何とも甘酸っぱいものに胸をくすぐられる。もっと昔に自分の気持ちに気が付いていたのなら、彼女とは別の話ができたのかもしれない。でもそれを今さら認めるのは癪だ。
私は精一杯大人びた女の振りをして、驚いている青年の右手に手を重ねた。
了