1‐eyes

 A君は八歳になる男の子だった。彼は小学校には通っていない。そもそも小学校をというものを知らなかった。

 A君は母と二人でアパートの二階で暮らしていた。母は毎朝早くにアパートを出て、夜に帰って来る。そして料理を作ってくれることもあったがそうでないことの方が多く、彼はとにかくお腹が空けば何かを探して家の中をうろうろと歩きまわった。

 A君が主に生活しているのは押し入れの中だ。そこ以外で寝ることは母によって禁止されていた。またテレビを見ることも禁止されていた。

 その母はと言うと、いつも夜帰ってくるなり酒を飲み始め、気に食わないことがあるとA君を叩いた。例えば彼がコップを落としてしまった時、食べ物を食べている音が響いた時、あるいは扉をバタンと勢いよく閉じてしまった時、そして内緒でテレビを見ているのがばれた時などだ。そのような時、母はどこからともなくすっ飛んで来て彼のことを叩いた。

 だが母はとても優しい時もあった。一しきり叩いた後などはよく、母はA君に向かって何度も何度も謝ることがあった。だがそれ以外の時は恐ろしく叩くか、話しかけても何も答えてくれなかった。

 今日も夜の九時を過ぎる頃になって母は帰って来た。くたくたに疲れていて酷く機嫌が悪そうな足音だったので、A君は黙って、押し入れから出ていかなかった。

 しかしもうひとつ、足音が聞こえた。知り合いでも連れてきたのかもしれない。母が人をこの家に連れてくるのは、本当に珍しかった。声はどうやら男の人のようだった。

 母と男の人は、いつも母がやっているように帰るなり酒を飲み始めた。そして楽しそうに何かを喋っている。その輪にA君も入りたかった。誰か、知らない人と話がしてみたかったのだ。しかしまた叩かれるのではないかと思うと、どうしても暗い押し入れの戸をあける勇気が出なかった。

 結局どれくらいの時間が経ったのかは分からなかったが、母とその男の人は一緒に寝てしまい、それが分かるまでA君は押し入れから出なかった。押し入れから出た彼は真っ先に台所へ向かい、そして食べ物をあさった。今日は母と男の人が食べてしまったのか、あまりなかった。それでもパン一つを見つけると、彼は嬉しそうに食べた。さらにもう一個食べかけのパンを見つけると、それを持って押し入れに戻り、寝た。

 次の朝、A君は物音で目覚め、身を固くした。どんな音であれ、起きられることが彼の自慢でもあり、そうでなくては叩かれる回数が倍増していたところだ。この物音は、どうやら昨日泊まった男の人を、母が見送っているらしかった。またね、という声がして、母は家の扉を閉めた。

 A君はほっとする。叩かれずに済んだのだ。だが今日は土曜日。母は一日中家にいることが多い。彼は母が休みの日は出来るだけ押し入れから出ないようにする。トイレだけは仕方がないので、頃合いを見計らって行くが、それ以外は押し入れから出ないようにかなり気を付けていた。昨日の夜、持ちこんだパンを食べ始める。クリームパン、これはなかなか美味しかった。

 A君が夢中になってパンを食べていると、突然押し入れの戸が開けられた。あまりにびっくりし過ぎて思わず彼は飛び上がり、押し入れの天井に頭をぶつけた。しかし辛うじて悲鳴は上げず、大きな声を出すと母が怒ることがあったからなのだが、彼は叩かれなかった。

「A君! 買い物に行かない?」

 母は、どうやら彼を叩くために押入れを開けたのではないようだった。その証拠に、今の母はここ数カ月の中で一番機嫌がいいように思えた。

 そもそも一緒に買い物なんかに行くのは何年振りだろう。A君は少し嬉しそうな顔をして、大幅に笑うと叩かれることがあったからだが、少し頷いた。

「そう、行こう! じゃあ着替えなさい」

 母は、A君を押し入れから出して長袖のシャツとズボンを着せようとした。少し暑かったが、しかし母が着せたのだ、逆らっては叩かれるかもしれないし、それに機嫌を悪くして買い物に行かないと言い出してしまうかもしれない。彼は出来るだけ速やかに服を着た。

 そして母の用意も出来ると、手を繋いで二人は近所の本屋へ行った。なぜ本屋なのかはよく分からない。でも、A君としては、どこでもよかった。何せ何年振りかの外出だ。家の周りはいろいろと様変わりしていておもしろかった。

 本屋の中で、A君はある子供用雑誌の中で面白いものを見付けた。写真のような繰り返し模様なのだが付属の特殊なメガネを通して見ると、立体図形が浮き上がって見えるのだ。雑誌の他のページはカラフルで面白そうだったがそんなものよりも、彼はこの繰り返し模様の写真のような、絵のようなものを非常に気に入ってしまった。

A君がそれをずっと眺めていると、隣でこそこそとしている男がいた。若い男で、よく見ると自分のカバンの中に雑誌の一冊を入れようとしていた。

「お兄さん」

「いい子だな、誰にも言っちゃ駄目だぞ?」

「はい」

 若い男は、A君の素直な返事を少々不審に思っていたようだが、まんまと雑誌を一冊万引きしていった。実のところA君は、逆らうことが叩かれることだと学習していたので、もし彼が若い男の行為が悪いことだという認識があっても、別に何も言わなかっただろう。そしてそもそもA君は今の万引きが犯罪だとは思っていなかった。

「そうか、いいんだ」

 彼は呟いて、自分の見ていた子供用雑誌からあの綺麗で不思議な絵だけを破り始めた。

 その現場にたまたまアルバイト店員が通りかかったため、A君と彼の保護者として母が奥の部屋に連れて行かれたのは言うまでもない。本屋の店長に、母は家では見たことないくらい腰が低く、謝り続けていた。

「駄目だよ、坊やこういうことしちゃあ」

「すいません、もう店には連れてきません、本当に申し訳ありません」

 この繰り返しだった。もちろんA君も謝った。だが彼にはどうして悪いことをしたのに叩かれなかったのかが不思議であり、更には同じことをしたあの若い男はどうして良かったのか分からなった。だが彼は、これを言えばあの若い男が自分を叩きに戻って来るのではないかと言う恐怖から、そのことは言い出せなかった。

 結局A君が破いてしまった子供用雑誌を、母は買い取らされてことなきを得た。しかし母の機嫌はここ数年で一番悪くなっていた。

 母は帰るなりA君を床に叩きつけた。

「ごめんなさい、ごめんなさい!」

「あんたなんか、あたしの子じゃないんだから!」

 これがいつもの怒られ方だった。A君はただ叩かれるのが終わりになるまで泣きながらごめんなさいを繰り返す。それが母の怒りが鎮まる一番の近道だと知っていたからだ。もちろん泣かない方がいいのだが、それは恐怖と痛さから彼には出来なかった。

「あんたなんか、おまえなんか、死んじゃえばいいんだ!」

「ごめんなさい!」

 A君は必死に謝ったが、だが今日の母の機嫌の悪さはそれでも鎮まらないくらいに凄まじかった。

「外であたしに恥をかかせるなんて、おまえみたいな子供は死んじゃえばいいんだよ!」

 母はそう言って、遂に包丁を取り出した。

 A君は必死に逃げ出した。何度かあれで切られたことがあったが、あれはとんでもなく痛いのだ。その感覚だけを彼は知っていて逃げだした。

 しかし逃げた方向が悪かった。A君が逃げた方向は、ベランダの方、がむしゃらに逃げたために玄関と反対方向に来てしまったのだ。追い詰められた彼は何度も何度も切りつけられた。しかし母の手はどうしてか震えていて、力無いので傷自体は浅かった。

 しかし、それにしたって痛い痛い、痛い!

 A君は再度振り上げられた包丁から逃げ出すために、ベランダの反対側に走り寄った。しかし彼が反対側の柵に手をついた瞬間、その柵が音を立ててもげた。

 A君は柵と一緒に地面に向かって真っ逆さまに落ちていった。そこはアパート一階、大家さんの庭だった。

 母は駆け付けた警察に連れて行かれ、彼は見知らぬにこにこ顔のおばさんに施設に連れて行かれた。

 A君の生活は一変した。彼はそこでは誰からも叩かれず、食べ物だって漁らなくても与えられた。勉強だって始めたし、ゆっくりと手足を伸ばして布団で寝ることが出来るようになった。だが彼は物音で起きてしまう癖だけは抜けず、どうしても夜中に一回は起きてしまっていた。それでも彼の日々は平穏だった。

 そんなある日、A君はその施設で一番偉い先生に呼ばれた。何事かと思って行くと、警察に連れて行かれた母の望みで、ある一冊の本が彼に届けられたのだ。驚いて包みを開けて入っていた本を開く。そこにはあの日彼が破いて持ち去ろうとした写真と同じような写真がいっぱい載っていた。立体図形が浮かび上がる、あの写真だ。

「A君、付属の特殊メガネもあるが……」

 一番偉い先生が言い淀んだ。A君はその理由が分かっていた。彼にはもう、あの立体的に浮き上がる図形を見ることは出来ない。

 母に切りつけられた彼は、片目が見えなくなってしまっていた。

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