3‐Doppeln

 頭が重たいから、痛いに変わったのはすでに二ヶ月も前のことだ。それ以前から肩こりで頭が痛いことなどはよくあったから、あまり気にしていなかった。それでも後頭部に纏わりつく痛みが、鈍痛ではなく突き刺さるような痛みになってきた時、さすがに病院に行こうと思った。

 そして今、大学の講義を終わらせて駅へ歩いている最中だった。駅までの道は幅広く、会社帰りのサラリーマンが全員同じように疲れた顔をして歩いていく。何も考えていない、ただ何かに吸い寄せられているかのように駅を目指して歩いていた。大学に入りたての頃こそ人形の群れの中に取り残されたようで気持ち悪かったが、今ではあと数年であのサラリーマンの群れに仲間入りかと思うと、親近感さえ湧いてくる。半分くらいは冗談だが。

 隣を歩く友達も無く、俺は早く後頭部の突き刺すような痛みを取ってくれる医者と薬を求めてひた歩いた。特に意識もせず、俺は下を向いていたのだと思う。ある瞬間、目の前を何か小さな、虫くらいの大きさのものが、物凄い勢いでかすめて行った。そして一瞬遅れて、ぱん、という乾いた破裂音、さらに一拍遅れて、うがぁっと言う唸り声がした。

「え?」

 そこで俺は顔を上げる。音のした方向を見やった。建物の隙間に細い路地が多い構造の町である。こそこそと人が隠れるにはもってこいだった。

 だが、その空間にライフルと思しき長い銃を抱えた青年がたたらを踏んでいた。そして彼の肩から血が噴き出していようとは、誰も想像しなかっただろう。

「は?」

 あまりにも日常とかけ離れた光景がそこにあった。ぱんという音が銃声であり、さらには撃たれた人間がそこにいるということが、頭の中で全く結びつかなかった。それらが結び付くと、自分の前を通って行った虫のような物が弾丸であって、文字通り一歩間違えば自分が撃たれていたことが分かって、見えない冷や汗が滴るようだった。

 銃、は日本では持てないはず、だが。驚きのあまり、俺はそれ以上の反応を返せないで固まっていた。すると目があってしまった青年は、肩を抑えながら舌打ちをして走り去って行った。驚いたのは彼の顔であった。

「俺に、似てたな……すっごく」

 他人の空似より、ずっと似ていた気がした。追いかけようにもすでに彼の姿は路地の奥の方へ消えてしまい、もう見えない。それに元々俺には追いかける気力も無かった。

「玩具かなんかで脅かそうとした、が、イマイチ効果がないので逃げてった、と考えていいのかな……?」

 俺はそうとしか考えられず、またそれが現状を説明するのに最も適した言葉である気がした。そう考えると、全てがどうでもよくなってくる。ただ汚いアスファルトの上に点々と血痕が落ちていた。

「ま、そういうことだろ。う、うん。そうだそうだ」

 まるで知り合いだと思って声をかけたら全然知らない人だった時のフォローでもしているような気恥かしさだった。独り言をぶつぶつと言いながら、俺はまた歩き始めた。何とはなしに、不安が纏わりついてきた。

 狐に化かされているような気分。悶々としながら、俺は歩みを速めた。

「よっ」

 目の前に自分と同じくらいの歳の男が、俺の方を向いて左手を上げて、ただ立っていた。姿はぼやっとしていて特にこれと言った特徴も無く、名前を何と言ったかすぐには思い出せない。笑っているわけでもなく、怒っているわけでもなく。さして明確な表情があるわけでもなかった。どこをとっても平平凡凡と言った感じ。

 顔は見たことあるし、先輩ならば忘れるわけにもいかないので、恐らく同じ学科か何かの同級生だろう。よしんば後輩であったとして問題は無いので、俺も相手がしたように右手を軽く上げて「よぉ」とおざなりな挨拶をした。

 それで普通ならば俺はそいつとすれ違い、そして改札まであと三十メートルを歩くはずだった。

「おいおい、随分とそっけないんだな」

 そいつは一歩横へ足を出して、すれ違おうとした俺の目の前に立った。両手をジーパンのポケットに突っ込んで、足を肩幅に広げて俺と向き合った。こうして見ると俺と背格好もほとんど同じだということが分かった。

「悪い、俺これから病院行かなきゃならないんだわ。絡むんなら別の奴を見つけてくれ」

「そりゃないだろ。俺が俺であり、お前がお前だぜ? どうして他の奴の必要性があるんだ?」

 そいつはにやりとして俺の方を見たが、生憎俺は頭がまたずきぃっと痛くなって渋い顔をしている最中だった。面倒なことになったもんだ、と舌うちをした。だいたい、言っている意味がよく分からない。

「まぁまぁいいじゃないか。一分一秒を争わなくても、お前は死なないよ。それよりもどうだい、そこの奴なんか。今にも死にそうじゃん?」

 そう言ってそいつは俺から見て右側を指差した。

「はぁ? お前馬鹿か? こんな人通りの多い所で死にそうな人がいたら、すぐに救急車が来るだろうが。俺は死にそうなほど頭が痛てぇんだよ」

「だが事実だ。お前はまだ見ていないだけ」

 と、俺は行きたい方向ではない、そいつが指差した方向を見た。

 ガリガリに痩せた男が、転がっていた。

 服は、辛うじて下だけなんか襤褸切れを纏っていた。肋骨が透けて見える。腹だけが異様に膨らんで、体も足も手も本来あるべき肉がごっそり刃物でそぎ取ったかのように無かった。頬がこけ、しかし落ちくぼんだ眼にだけはまだ爛々と光が灯っていた。逆にそれが不気味に見えた。

「どうだい、まさしく死にそうだろ?」

「きゅ、救急車、119番! 呼ばなくていいのかよ? お前携帯持ってるだろ?」

「大丈夫だ、あいつの生きているところには救急車は無い」

「いや、全然大丈夫じゃねぇだろそれ!」

 思いっきり突っ込んでみたものの俺はおろおろするだけで、実際何をどうしてやればいいのか全く分からなかった。そもそも周りの歩く木偶人形のサラリーマンたちは見ているのか見ていないのか、全くの無反応を貫き通していた。

「お前ってさ、もっとこう、大事なことに気がつかないのか?」

「大事なこと……?」

「そう、例えばそいつが誰であるか、とかだな」

 そう言われて、俺はようやく転がって天を仰いでいる男の風体ではない所へ目を向けた。

 目鼻立ち、そして背格好。見ながらに、俺は徐々に口を大きく開けて言った。

「……あ、れは、俺……か?」

「おお、やっと気がついたか」

「どうなってるんだ、俺はここにいるぞ! しかもちゃんと食ってる!」

「つまりあいつはお前のドッペルゲンガーということになるな。ドッペルゲンガーは死の象徴だと言われているが、するとお前はもうそろそろ死ぬのかな?」

「んな馬鹿なことがあってたまるか! 夢だろ? あるいはドッキリとか、あ、古いか。それにしたって質の悪いいたずらはもうやめろよふざけんじゃねぇ! 俺、帰るからな! そうだ、俺は病院行くんだ!」

 言い放つと俺は、転がっている痩せこけた俺と同級生のそいつから逃げるように走って改札に滑り込んだ。走ると拍動の度に脳に張り巡らされた血管が軋むように痛かったが、今は痛みよりも早く得体のしれない同級生から逃げることを優先させた。

 折よく発車直前の電車に乗り込み、俺が中に入った瞬間に背中でドアが閉まった。ふぅと一息吐くと、なんと目の前に一席空いているではないか。いつも帰りのラッシュで座れることなどほとんど無いのに、今日に限って何ともラッキーなことだ。頭がいつにもましてかち割れそうなほど痛かったので、自分よりも歳上の人が周りに立っているのを横目にそそくさと一席空いている席に腰を下ろした。

 ふぅと一息。

「酷いじゃないか、走って置いて行くなんて」

 隣にあの同級生が座っていた。膝を組んで腕組みをして俺の方を向いていた。

「お前、どうして、なんで、俺より先に座ってんだこのやろ……」

 開いた口が塞がらないというのは、まさにこういう時のための言葉であると俺は確信した。人を指さしちゃいけませんという有難い教えを無視して、俺は全身全霊を込めてそいつを指差し確認した。大事だ、こういう時の確認。

「お前が置いて行くからだよ。ひどいじゃないか全く。話はまだ途中だというのに」

「ちょ、まて、さっきのガリガリはどうした。いないってことはまさか置き去りにしたのか?」

「ん、ガリガリ? 何の話だ? アイス?」

 口を軽くへの字にして、同級生のそいつは俺を見て小首を傾げた。とぼけている雰囲気に異様なまでの腹立たしさを感じたが、一方でガリガリに痩せた俺自身という得体のしれない者がいないことには安心をした。安堵するとじきに頭痛を思い出して俺は右手で額を覆う。

 俺が痛みと戦っているすぐ横で、そいつは肩から掛けていたカバンから本を取り出して片手に持って読みだした。カバーが掛かっているが恐らく漫画、なぜか俺には確信が持てた。ぱらりと一ページをめくり、それからおもむろに本から顔を上げたそいつは俺を見ずに真正面を向いたまま口を開いた。

「時にお前さ、電車で座った席の正面に病人がいたらどうする?」

「はぁ?」

「聞いてんのは俺だよ」

 なんだか偉そうな態度だなぁと思いつつ、俺はこめかみを親指でグリグリと押しながらそいつを見た。

「俺がその病人をどうにかする前に、普通自分で病院行くだろ。あるいは誰か家族か、知り合いが連れていくとか」

「そうだ、病院があれば行くな、普通なら。普通と言うなら金があればってことだろうけど、それだけじゃない。薬だけでも、環境だけでも、医師だけでもいれば、あんな風にはならないだろうな?」

「どこの国の話をしていやがる。ここは世界の日本で、日本の東京だぞ」

 俺は半分くらいは予期しながら正面の席に座っている男を見た。

 やっぱりだ。

 見た目からして病気である男が座っていた。これもご丁寧に俺だった。

 熱があるのか呼吸が荒く、明らかに体力が衰えている。それだけで病気であることが分かった。じっと見てみると、肌が変色している部分があった。先ほどの痩せた俺との違いは目に生気が無いことだ。健康な生命が持つエネルギー、その枯渇を連想させられた。

 コレラ、ペスト、天然痘、様々な伝染病の名称が頭の中に思い浮かんだが、だがどの病気なのかは分からない。しかもそれは病理学的な知識ではなく、歴史的な知識でしかなかった。ただ無意識のうちに、俺は空気感染を恐れて口を手で覆う。自分だからこそ目を背けたくなり、だがそれが自分であるからこそ踏みとどまってそれを見続けることができた。

「俺に変なもの見せやがって。幻覚かこれは……」

「幻覚、ね。確かにそういう説もある」

 同級生のそいつは素知らぬ顔でまた本に目を落とした。こんな時に何を読んでいるのか気になって覗き込もうとすると、パタンと本は閉じられてしまった。

「お前さ、自分の生活圏に無いものは、世界に存在しないと思ってるだろ?」

「それの何が悪い」

「良い悪いの話じゃないさ。でも存在するんだぜ? こんな本の中の話なんかじゃなくて」

 目の前のそいつは意地悪そうににやにや笑って、閉じた本を振って見せた。ああ、そうだ。アリスのデブ猫、あいつの笑い方にそっくりなんだこいつ、と俺は思った。こいつは俺の痛いところだけを上手い具合に引っ掻かず、逆なでをする。いつにも増して、俺はイライラしながら名前が思い出せない同級生を睨みつけた。

「存在したからって関係ないだろ俺には。そんな奴とは、一生俺は会う機会も何も無いんだからな」

「本当にそうか?」

「だって考えてみろ。普通に行けば俺はあと二年くらいで、どこかの会社に普通のサラリーマンで就職して、誰かの紹介ででも彼女作って三十過ぎくらいで結婚して、子供が二人くらいで? それで六十過ぎたら定年退職して、年金と子供の稼ぎで暮らして、今は医療技術も発達してるから馬鹿でも八十くらいまで生きてさ、そんで癌とか心筋梗塞とか何かで死んでくんだぜ? そんな平凡な俺と地球の裏側まで行かなきゃ会えないような奴とどんな接点が持てる? なんでそんな奴らのことまで、俺が考えなきゃならない?」

 俺は頭の痛みすら忘れて、一気に言いきった。現在の俺には、選択肢などと言う上等な切符は然程用意されていない。不況に続くまた不況で、俺はただ普通に生活できるように努力するまでしか余力が回らない。二十歳にして人生の袋小路。早すぎる焦燥感と脱力感。

 小さな俺と言う存在をかけて、世界に対して何かをどうかしよう、したいと思った時期もあった。だがそんな努力は時間の無駄遣いにしかならないと切り捨てたのが、確か高校生の時。それを今思い出して、記憶の残滓が悔しさに変わった。

 どうしてこんなこと、顔しか知らない同級生に話しているんだ俺は!

 自分に対する怒りと、土足で俺の心の領海侵犯をするそいつの両方に腹が立った。そんな俺の内心を知ってか知らずか、そいつはぱっと花が咲いたような誇らしげな顔をして言った。

「本当にそうかよ」

 晴れ渡った空みたいな顔だった。

「いいじゃねぇか、ちょっと地球の裏側の近所でお隣さんだ。お前の考えに無かったからと言って、それを無かったことにするのはあまりに酷だろ。一生会わないかもしれない、それが何だ。お前はその人たちと一生会わない可能性を知っているんだよ。お前は全く接点が持てないと言うが、それは本当か? ここは悲しいが、恵まれた国だぜ?」

 そいつは本をカバンに仕舞った。そいつのカバンは、俺のカバンと同じだった。

「じゃあな、俺はここの駅で降りるから」

 乗ってから五つ目の駅、ここは俺の地元の駅だ。病院が隣駅だから今日、俺はここでは降りないが。

 降りる寸前、振り向いたそいつ。

 思わず俺は腰を浮かせて、初めてそいつに俺から質問をした。

「お前誰だっけ?」

 電車のドアが開くとばっちり西向きの夕日が差し込んできて、そいつの顔が逆光で見えなくなった。

「俺達はお前のドッペルゲンガーだ。俺達に会っちまったんだ。死ぬ前に早く病院に行きな、俺」

 ひらひらと適当に手を振る後姿だけが見えた。

 

***

 

 その後、俺は都内の大きな病院に入院することになる。

「よくこの痛みに耐えていましたねぇ」

 と、中年の医者に呆れられた。後頭部より左にずれた場所、耳の斜め後ろくらい。そこを抑えられて言われたことは「ここに腫瘍があります」だった。幸いにも悪性ではないらしいので、あとは、金はかかるが手術して摘出ということだった。

「そういえば、君の脳腫瘍のできた場所、ボディフォルムを司る部位なんだ。同じ場所に腫瘍ができた患者が自己幻影を見た症例があるらしいんだが、今のところ幻覚症状は?」

 医者にそう言われて、俺は思わず噴き出して笑った。医者と隣にいた看護師が顔を見合わせて首をかしげている。

「ああ、会いました。世界には自分のそっくりさんが三人いるって話ですよね? 俺、そのそっくりさん達に病院に行けって言われたんです。ほら、自分のドッペルゲンガーと会うと、死ぬらしいから。でも不思議なことに、なぜかそっくりな四人の自分に会ったんです」

 大真面目な俺を医者も看護師も笑った。何人だろうと、彼らは幻覚ですよ、と。

 でも俺には違って見える。あれは、別の社会、別の境遇に生まれた場合の、俺の姿だ。あいつらはそれを俺に見せに来たんだ。何も考えていなかったこの俺に。

 あれ、でもじゃあ、境遇までそっくりなあいつは何だ?

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