朝は日の出と共に起きる。これがナギの習慣だった。もちろん日の出は毎日少しずつ位置がずれるのだから、起きる時間は厳密には違ったのかもしれない。それでもこれが習慣だった。
季節は夏。とはいっても、島はいつでも常夏のように暖かかったから、夏と言う言葉は実際には使われない。古文書にのみ、その言葉は記されていた。
ナギが柔らかい動物の毛を織ったベッドから這い出すと、すぐに女たちが飛んでくる。女たちは指が一本多かったり、目が片方無いのか眼帯をしている者もいる。そして彼は女たちに、やはりこれも毛を織った白い着物をきっちりと着させられた。その上に薄い紗のような羽織を着させられる。これが島民に示すべき彼の島主としての姿だった。
何も言わずとも、他の女たちが食事を用意して持ってくる。当年とって十五歳の彼は、昨年亡くなった先代の島主からその地位を引き継いだばかりだ。しかし貫禄はすでに十五には見えず、島の誰からも立派に認められていた。
そのナギが食事をしながら、ふと窓の外を見た。彼が住まう館は島唯一の煉瓦造り二階建てのため、うっそうと茂る木々より背が高く、海の果てまで見渡せる。その海の彼方と空の、曖昧な境界を眺めながら、彼は首を捻った。女たちも、はてと首を傾げる。
「どうなさいました?」
彼は持っていた箸を下げながら、水平線から離れた太陽を指した。
「日の昇る場所が、昨日までと違う」
女たちは彼の言うことがよく分からず、さらに首を傾げた。それを見た彼は女たちの方を向き直って口を開いた。
「昨日までは日の昇る位置は、南から北に移動していた。だが今日は昨日よりも南側から日が昇った。これはどういうことだ?」
「確かに……いったいどうしたことでしょうか」
一番年を取った女が口元に手を当てて外を見た。彼女の左手の小指の横には第六の指が生えていた。
女は下座に控えていた若い娘、ルノと言うのだが、彼女を呼んで耳打ちをする。ルノはまだ傍仕えに上がったばかりで、仕事と言えば細々とした雑用をさせられていた。食べ始めていたナギはその話を、右手を挙げて止めさせた。
「よい。物見の爺と崖裏の婆のところへは私が行く」
「しかし、ナギ様ご自身が行かれずとも、爺様と婆様を呼べば宜しいではございませぬか」
一番年の女は、ナギの母親よりもはるかに年上だろう。しかしナギの言うことには逆らえないようで、少し不機嫌そうに言った。それを見た彼は苦笑しながら、さらに食べ物を口に運ぶ。咀嚼して飲み込むまで女たちは発言しない。やっと飲みこんだ彼は再度口を開いた。
「足腰の弱い爺と婆にここまで来させるのは酷だ。それより何か美味しいものでも包んでくれ。爺と婆へ何か持って行ってやりたい」
「かしこまりまして」
にこやかに平服した年を取った女は、先ほど呼び寄せたルノに何か見繕って包むように言い渡した。ルノは一礼して部屋から退出し、ナギが外出の準備が整う頃を見計らって裏口から館の外に出ていた。そして館から出てくる彼に、駆けて行って包みを渡す。誰が見ても明らかに、彼女の頬は赤らんでいた。
「今朝方獲れました、サクウパ(魚の一種)をお包みいたしました」
「そうか、ありがとうルノ。妹に言伝はないか?」
「いいえ、元気でやっていれば構いません」
ナギは包みを二つ受け取ると、足取り軽く歩き出した。供は付いていない。それくらい島の中は安全で、大きな猛獣もいないのだ。
彼の住まう二階建ての館を出て、坂を下って行くと小さな村がある。ここに五十人にも満たない島民のほぼ全てが暮らしている。村に出ると民の誰もが彼の存在に気付いて駆け寄ってくる。そして手を握りしめたり何かを渡したりしようとする。大量のお荷物を持ってでは歩けない。いつもと同じように彼は苦笑しながらそれらを丁重に辞した。
「館の方へ届けてくれ。女たちが喜ぶだろうから」
「そったら、ナギ様、食べてくださるか?」
「ああ、食べるとも」
大喜びで坂を駆け上がり館の方へ走って行った男は、生来普通よりも口が裂けていて発音に難儀している者だ。その彼はよくナギの頬を撫でる。そうすることで自分の口が小さくなるように願っているらしい。
他にも様々な者がナギの体で、自分の体に過不足ある部位と同じ部位を撫でては良くなるようにと願った。つまり、ナギの体には過不足が無かった。手足全ての指は五本ずつ、しかも全てに爪が生えている。両眼とも見えおり、両耳とも聞こえている。細部に至るまで彼の体は過不足が無い。それが理由で、彼は幼いころから次期島主として教育を行われた。島主は決して世襲制ではない。彼は生まれながらにして島主の地位を約束されていたのだ。
しかし、そうであってもナギは誰も見下したりはしなかった。彼にとって、島の人々は大きな家族のようなものであった。だから彼は十五歳という若さで島を統治出来ているのだ。
ナギは大勢の人に声を掛けられながら湾になっている砂浜に出た。本当にちっぽけな砂浜で、ちなみに十メートルも海に出ると砂地が突然切れている。しかしナギを含む島民はこの砂浜しか見たことが無いために、十メートル先が深海につながっていることが普通であると思い込んでいた。
その湾では天気さえ良ければ毎日漁が行われている。小魚を追って大きな魚が浅い湾の中にも入ってくるので、それを狙って丸太を刳り抜いて作った簡素な船を使って漁をする。もちろん日が高くなったこの時間にはすでに漁は終わり、ナギは子供たちが元気よく泳いで遊んでいる姿を眺めた。平和な光景だった。
湾の隅から崖に掘られた階段を昇って森の中に入る。うっそうと茂る森は年がら年中むせ返るほど濃い緑色だ。所々に極彩色の小さな花が見える。見た目もさることながら、花はどれも皆香りが強い。香りに惹かれた虫たちが集まって来て蜜を嘗めている。これも通年見られる光景だ。
細々と続く道を通りながら上を見上げると、ひっそりと佇む物見櫓が木々の間に見えた。その上に物見の爺と呼ばれる長老格の一人が居た。爺はいつも櫓に居て海を眺め、住む場所は櫓の足元にある、木と棕櫚の葉で作られた粗末な小屋と決めている変人だ。しかし誰よりも海のことをよく知り、嵐が近付けば村に降りてきて注意を喚起する。島民は順番に爺の小屋に食べ物を運んでいた。
「爺! 私だ、ナギだ! 上がるぞ」
声をかけても返事がないのはいつものこと。ナギは心細い梯子を上りながら広い海を見た。この島は絶海の孤島だ。海以外には何も見えない。
「爺、聞きたいことがあってきた。あとこれはサクウパだ。美味いぞ」
彼が包みの一つを差し出すと、爺は黙ってそれを受け取った。まっ白な髭が顔全体を埋め尽くしているような人で、ナギは小さい頃爺が怖くて仕方がなかった。だが実際はそれほど怖い人物ではなく、むしろ喋るのが不器用なだけだと気がついたのは相当後になってからだった。
その爺がいつにも増して難しそうな顔をしている。一瞬ナギは声をかけることを躊躇したくらいだ。
「ナギ、日の出の事かの?」
彼が声をかけようとすると、爺はそれより早く口を開いた。やはり海を毎日眺めている爺は気付いていたらしい。それで難しそうな顔をもっと難しそうにしていたのだ。
「そうだ。どうして日の出が昨日より南側にずれたのだ? 何か悪いことでも起こるのだろうか? ついこの間のように酷い嵐で島が大揺れになるのだろうか?」
ナギは心配そうに爺の顔を覗き込んだ。だが爺の方は目を閉じたまま答えない。考えているようだった。
爺がやっと目を開く。それでも解決していないらしく、まだ思案顔のまま。
「分からぬ。日の出が逆にずれることはこれまで一度もなかった。ワシには不吉な予兆のような気がしてならぬ」
「そうか、爺にも分からぬのか」
少し落胆したように彼が言うと、爺は不機嫌そうに鼻を鳴らした。ナギには理由が分かっていた。包みを二つ持っているからだ。
「どうせこの後婆さんの所へ行くんじゃろ。そちらに聞け」
「いい加減、夫婦喧嘩を終わりにしたらどうだ?」
もう一つの包みを見ながらナギは苦笑した。物見の爺と崖裏の婆は夫婦なのだが、遠い昔に喧嘩したっきり別れて住んでいる。お互いに手のつけようもないほど頑固者で、しかし二人ともよく物事を知る人だ。
「いかに島主の言でもそれだけは嫌じゃよ」
「そうか。では仕方がないな。私は婆の方に顔を出してくる。何かあったら煙を焚いて知らせてくれ」
「分かった」
ナギは言い残して梯子を下り始める。丁度中ほどにまで下りた時に彼は思い出したように笑って、顔を上げた。
「そうだ、爺! 婆に言伝はないか」
「小僧、五月蠅いわ!」
怒った爺の怒鳴り声が降ってくる。爺自体が降ってくる前に急ぎ足で、笑いながらナギは退散した。
次なる目的地はさらに山を登った先の崖に住んでいる婆のところだ。婆は博識な人で、古くからの言い伝えや古の文字を読める人だった。島主の後継ぎと決まった頃からナギも、十日と開けずに通って文字を練習している。それでも婆のようにすらすらとは読めなかった。
爺が海を見る人ならば、婆は島を見る人である。島のどこにどんな草が生えているか、どこにどんな遺跡があるか、どの入り江が漁にはよいか、婆に聞けば何でも教えてくれる。
「婆はおるか? 私だ、ナギだ」
「婆様は今薬草を取りに行かれましたよ」
ぽっかりと空いた四角い洞窟の中から出てきたのは、ナギとほとんど同じくらいの年頃の娘だった。彼女は婆の弟子のユノで、館付きの娘ルノの妹である。婆とは血縁も何もないが薬草が好きだった彼女は、六つの頃から婆に従って手伝いをしながら勉強をしている。まだまだ婆には及ばないものの、彼女の方がナギよりも字を読むのは上手だった。
実はユノも過不足ない体の持ち主である。しかし女であるという理由から島主にはなれなかった。だからこそ島民たちはナギが島主を継ぐ際に、健康なユノを彼の奥方にと推した。しかし彼女はそれを頑なに拒んだ。誰もが皆、彼女を説得しようとしたが、彼女は頑として首を縦に振らなかった。逆に諦めの悪い島民を説得したのは、結局彼女に振られたナギであった。それが約半年前のこと。未だに気まずい空気が残っている。
その彼としっかり目が合ってしまったユノは、言葉を探しながら後ろ手に手を組んだ。
「姉は元気ですか?」
「ああ、仕事にも慣れてきたらしい」
「そうですか、それはよかった」
さらに一言二言言葉を交わして、ナギは崖の上の方を見た。そちらに婆がいるわけではなかったが、なんとなく別の方向を向いていたかった。そして目を合わせずして口を開く。
「婆はどれくらいで戻るだろう?」
「さて、今日は何やら胸騒ぎがするとかおっしゃって、いつもはわたくしに任せているルーヴェア(薬草の一種)の種をご自分で採りに行ってしまわれました。だからどれくらいで帰られるか、見当もつきません」
ユノは少し首をかしげて答える。彼女の動作一つ一つは大らかで、ナギはそんな彼女が好きだった。ただ、彼は今さら事を掘り返すつもりは全くない。それはそれで終わってしまったことなのだから、と諦めている。
「ルーヴェアが生えている場所は?」
「日が沈む方の、山の端です。あの草地の上の方に群生しています」
「そうか、では行ってみる。そうだ、忘れぬうちに渡しておく。サクウパだ」
ナギは包みを渡すと足早に歩き始めた。少し息を切らせながら急な山道を登って行く。この道を老いた婆は一人で昇って行ったのだと思うと、急に婆の身が心配になった。
彼は早足どころか、最終的には駆け足になり、そして籠を持って元気にルーヴェアの種を採っている婆を見付けた時には完全に息が上がっていた。
「どうしたナギ! 若いもんが、この婆よりも体力が無いとは!」
未だにかくしゃくとしている婆は豪快に笑った。笑いながらナギが草地に寝転ぶのを見て、ゆっくりと歩いて近づいてきた。
「どうした。文字の手習いなら三日後と言うたはずじゃろ。……ふむ、さてはユノの顔を見に来たな?」
「ちっ違う!」
慌てて起き上ったナギは、急斜面でもう一回草地に倒れた。その滑稽な倒れっぷりに婆ももう一回豪快に笑った。
「分かっておる! ナギは善き者じゃ。そんなことはすまい」
「じゃあ、だったら!」
「分かっておるよ、何かが起こっているのじゃろ?」
草地に座り直したナギは真剣な顔になった婆を見た。
「日の出の位置が、南に逆戻りした。物見の爺にも話を聞いたが、理由が分からん。婆なら分かるかと思って来た」
「ふん、あの頑固ジジイめ! 海ばっかり見ておっても何にも分からんわ」
婆はぶつぶつと文句を言いながらルーヴェアの種を摘み始めた。手は滑らかに熟した種だけを採っていく。この種が、島民が病気になったときには重宝されるのだ。
見ていたナギも、目の前で穂先をしならせた黒っぽい種に手を伸ばした。
「それはまだ熟しておらんの。食べると腹を下すぞ」
「そうなのか?」
「たくさん食べればな」
ナギは渋々と手を引っ込める。婆は構わずに種を摘み続けた。
「なあ、婆……」
「……正直なところこの婆にも、何が起こっているのかよく分からんのじゃよ」
婆は顔色変えずにただそれだけを言った。手は決して止めない。その手付きをナギは眺めながら頬づえをついた。
気持のよい風が草地を駆け抜けていく。島の中央にそびえる山の中腹だ。遮るものなく青く広い海が望める。しかしナギの胸の内に渦巻く不穏な空気は晴れるどころか混迷の度を増していった。彼はため息を吐いた。
「じゃが二つ、ナギには言うておこう」
婆はいつの間にか手を止めて、ナギの方を見ていた。
「一つは日の出が動いたことに前例があるかどうか、調べてみる必要があるの。婆とユノで手分けをして古文書を探してみよう。何かが分かり次第ユノを館に遣る。二つめ、これは恐らくなのじゃが、少し肌寒くなったとは思わんか?」
言われてナギは顔に受けた風の温度を感じる。言われてみればそうかもしれないが、しかし言われたからそう感じているだけかもしれない。実際に彼は昨日までの風と今日の風に確たる違いを見付けられなかった。それで曖昧に、上下とも左右とも判別し難く首を振って見せる。
「やはり若いもんには分らんか。婆は、起きてすぐに膝が痛むので気付いた。それでこのまま寒くなったら、風邪が流行るだろうて、ルーヴェアの種を採りにきた」
「なるほど……」
「それに何かせんと、落ち着かぬでな」
納得したようにナギは頷いた。そして勢いよく立ちあがる。そして周囲を見渡した。
「婆、私も手伝いをする!」
「熟しているかどうかの見分けもつかん奴に、採られちゃ堪んないよ。ナギは館に戻って、ナギのやるべきことをお探し」
促されて館に戻ったナギは、それでもそわそわとして手に物付かずの状態だった。村からは彼に貢物が届けられ、館付きの女たちは嬉しそうに調理して彼の食卓に並べる。子供たちは元気に遊び回っているし、空も海も荒れる兆しはない。いつもと同じ。
至っていつもと同じ、平和な一日が過ぎた。
次の日も快晴だった。
その次の日も、次の日も、次の日も、やがて一週間。小雨が降ることはあっても嵐の予兆は欠片も見えなかった。
だがやはり日の出が南へずれる。そして昼間の時間が短くなっていった。
ナギは違和感を覚えていることを隠せずにはいられなかった。だが彼の動揺する姿を見ると、村の皆に動揺が伝わる。それを察した彼は、籠る、と一言だけ残して遺跡へ出かけた。
島にはいつごろからあるのか、非常に硬い金属で作られた遺跡がいくつも点在している。目的も誰が作ったのかも分からなかったが、島民は壊すでもなく調査するでもなく、ただ朽ちゆくに任せていた。
ナギが訪れた遺跡は彼が小さい頃よく隠れて遊んだ場所で、存在は恐らく彼と婆とユノしか知らない特に小さな遺跡だ。彼の知る中で最も籠りやすい場所だった。地面にぽっかりと空いた竪穴に、最初に太い縄梯子をかけたのはナギだ。その縄梯子を伝って下り、地下に入る。錆びて開いた穴から昼を過ぎた日の光が注いでいた。
その中に人影があった。
冷たい床に正座していたのは誰でもない、ユノ。彼女は目も口も固く閉じて、一生懸命何かを願っている。その横顔を見たナギは、声をかけるのを躊躇した。
すると彼女の方が気配に気付く。目を開けて、驚いた顔をした。
「やはり、ユノか」
「ナギ様も、どうかなさったのですか?」
彼女はまた優雅に首を傾げた。その度に彼の心が跳ね上がる。もはや瞑想に耽るどころではなくなってしまっていた。気まずそうにナギは頭を掻き、それから苦笑いをする。こんな表情は他の島民の前では絶対にしない。
「何やら心配でな。いつまでたっても日の出は元に戻らないし、それに確かに婆の言うとおり、寒くなってきた気がする」
苔生した室の壁に寄り掛かると、ひんやりとした冷気が体を伝う。ナギは本能的にその冷気を嫌がって硬い壁から離れた。そして腕組みをして腕をさすった。日が当たらないにしても、地下はやはり冷える。彼は寒いのが苦手だった。
「どうしたんだユノ?」
さっきから黙っている彼女は、彼の数倍は深刻そうな顔をしている。その顔に影でも射したようだった。
「いえ。ただ、お祈りを」
「そう、か……」
お互いに黙り、不安とも何とも言えぬ空気が場に停滞した。ナギは居場所なさげにそわそわとして、遺跡の壁に彫られた落書きを撫でた。いつ誰が描いたのか分からないが、時々引っ掻いたような落書きが遺跡では見られた。
「なぜわたくしたちの一族は、この島で暮らしているのでしょうか」
唐突にユノが話しかけた。その声を背中で受け止めたナギは黙っていた。
「どうして、わたくしたちは、この島から出てはいけないのでしょう。わたくしたちの先祖は、伝承の歌によれば三本足の鳥より生まれ出でし一族。なのに、なぜ羽の一枚をも持たぬのでしょうか」
彼女は口惜しそうに話した。その口調は、言い知れぬ不安と、何も出来ない自分への苛立ちと、そして閉ざされた島の生活に対する憤懣とを綯い交ぜにしたようだった。彼女がこんな話をすることも非常に珍しい。
ナギは振り向いてユノに向き直った。
「伝承の歌は、あれはどうせ作り話に決まっておる。それにユノも読んだことがあろう。古文書の示すところによれば、我らの一族はその昔広大な領土を持つ皇帝により追放されたのだ。どうせ昔、我が一族は大陸での戦に敗れてこの島に逃げて来たのであろうよ」
村の文字が読めない人々は三本足の鳥から生まれた伝承を信じている。だが文字が読める者は長年に渡り、古くから伝わる文書を読んではその内容と読み方を口伝していった。実際の歴史を識者たちは胸の内に秘めながら、ずっと沈黙を貫いてきた。現在の若い識者の二人も知った時は驚いていたが、同じく沈黙を一生貫く覚悟で今を生きている。
「ですが、なぜこの島で生まれる者は、体に過不足があるのでしょう。腕が一本多いなら、どうして神はその腕を鳥の翼に変えて、生まれさせてはくれないのでしょう」
「ユノは、どこか別の世界に飛んで行きたいのか?」
ナギが聞いても、彼女は答えなかった。ただ悲しそうに俯くばかりだった。それを見た彼は、悪戯心に火が付いて、にやにやと笑いながら口を開いた。
「そうさなあ、子供らに翼が欲しければ、飛んでいるランガ(アジサシの一種)と交わればよい。奴らの翼は強いぞ」
ナギが言い終わる前にユノは顔を真っ赤にして立ち上がり、彼の頬を叩いた。びっくりしたのはナギの方だ。
「ナギ様の馬鹿!」
見開いた眼から、連なるように涙が零れ落ちてくるユノ。裾で拭うことすら忘れているようで、彼女は欠けるほど歯を食いしばっていた。
「もう知りません!」
彼女は大きな声で叫んで、簡単に縄梯子を上がっていく。泣きながら走って森の中に消えてしまった。森の中では小柄なユノの方が動きやすく、また森を熟知しているのも彼女の方だ。今から追いかけても捕まるはずもなく、更には謝ることも出来ない。
「なんだあいつは……!」
軽率な自分の言葉にナギは舌打ちをして、空になった室の中で胡坐をかいた。冷たい金属の床が、彼女の座っていたところだけほんのりと温かかった。
それから数日が経ち、日の出はさらに南へ、昼間は短く、気温も追随するように下がっていった。
その日の昼下がり、日が当たっているにもかかわらず、やはりどこか寒い空の下を大慌てでユノが走ってくる。村人たちは婆に何かがあったのだと気付いて、とにかく彼女と一緒に館に急いだ。
館に着くと、ユノは乱暴に戸を開けて何事か目を丸くしたナギに詰め寄った。息は完全に上がっていたが、それでも途切れ途切れに言葉を紡いだ。
「婆様が、寒い寒いと、おっしゃられて、動けなくなってしまわれました! どうしましょう!」
言い終わると彼女は両手で顔を覆って、その場に膝を着いた。小柄な彼女の体を慌ててナギは助け起こす。
「婆が? 体を温める薬湯は?」
「作りました。でも寒いとおっしゃるばかりなのです。わたくしは、一体どうすればよいのでしょうか?」
ユノはほろほろと涙を流しながらナギに縋った。だが薬草知識が無い彼にどうする事も出来ない。ともかく婆のところへ行くことが先決と、ユノを連れて崖の洞窟へ向かった。
婆は洞窟の奥の方で、毛皮を何枚も何枚も被って震えていた。ナギはこんなに弱った婆を見たことが無い。それほど震えている婆を背負い、彼は山を下りた。そして館へ連れ帰って、館付きの女たちに冷やさぬようにと念を押した。一度洞窟に戻ったユノは薬草の類を全て持ち出して、つきっきりで看病した。
心配になったナギは、物見の爺の方も訪ねて見た。こちらはぴんぴんしており、だが婆が危ないと言うと流石に少し心配顔になっていた。
婆は暖かい部屋で看病されたせいか、すぐに良くなった。一週間もしないうちに元のかくしゃくとした婆に戻っていた。
しかし日の出の位置はさらに南へ進み、昼間の時間が短くなる。そして気温の低下もそれと分かるほど下がってきていた。そして婆の考えていた通り、風邪が流行り始めた。婆とユノが館に居るので、館は病院のようになってしまった。
流行っている風邪は性質の悪いもので、急激に熱が高くなり、更に咳が止まらず呼吸がしづらいというものだった。しかも瞬く間に他の者に感染が広がっていく。普通の風邪にならよく効くルーヴェアの種の煎じ薬はあまり効果を発揮せず、熱さましの薬がすぐに切れてしまい、島民は静かに寝ていることくらいしか出来なかった。
そして日の出が狂ってから二か月後、遂に風邪による死者が出た。死んだのは五歳になったばかりの男の子だった。母親は二回の流産の末やっと授かった我が子を失った悲しみを、こともあろうかナギにぶつけた。だがその怒りを彼は受け止め、他の者がその母親を止めるまで黙って立っていた。
母親が去った後も、ナギは茫然と海を見ていた。村に以前の平安はない。彼の中にどうすればいいか、という問いはあっても答えが見つからない。だが村の人々は口には出さないが目で答えを求めるのだ。その眼差しが痛い。何も出来ない島主に対する諦めか、落胆か、あるいは怒りか。ナギは突き刺さる視線が恐ろしいと感じつつあった。
「ナギ様、外は寒いですから、中にお入りください」
言われて館に入ると確かに暖かい。だが煉瓦と言う不可思議な石で立てられた館ではなく、ただの木と棕櫚の葉で作られた家で暮らしている島民たちは寒いだろう。
「部屋を全て開放し、病人を館に入れよ」
ナギは女たちにそう伝えて、自分は部屋に籠った。
何かが起きている。それは彼にも分かっている。日の出が南に傾いて以降、日に日に下がる気温が何よりの証拠だ。だがその理由が全く分からない。彼は自分のベッドの端に腰かけて頭を抱えた。これは島有史以来の一大事である。どうにかしなければ、また死者を出す羽目になる。
彼の部屋の戸を叩く者がいた。ナギは曖昧な声で答える。
「失礼いたします」
入ってきたのはユノだ。ビクリとして彼は戸の入り口に立つ彼女を見る、平静を装う。彼は自分の心臓を宥めた。
「何だ?」
「いえ、少しよろしいでしょうか……。今はご迷惑ですか?」
「いいや」
頷いたユノはナギの真正面に正座した。彼女も深刻な顔をしている。事の重大さがひしひしと伝わってきた。二人とも、何も言わず、何も言えず、重苦しい空気が見えない手で絞めつける。
だがその彼女がふいに顔を窓の外を眺めた。眼差しははるか遠く、海さえ軽々と飛びこす。彼女の眼差しは望郷、望んだのは見たこともない大陸かもしれない。
「どうした?」
ナギは彼女の向けた目線の先に何が見えているのか、非常に気になった。ユノは別のものを見ているのかもしれないという危惧が芽生えつつあった。
「ナギ様……、大きな船を作りませぬか」
「この島を捨てよと申すのか?」
ベッドに腰かけなおした彼は、不機嫌そうに言葉を返した。
先祖代々の島を捨てることはかなり難しい。それにどれだけ漕げば次の陸地に着くかも分からない。途中で嵐に遭うかもしれず、あるいは食糧が底をつくかもしれず、また陸地に辿り着いたとしても住めるかどうか分からない。
それに何より島民全てを引きつれて船旅など無茶だった。体の弱い者も多く、大きな櫓を漕げる男たちの人数は少ない。とてもではないが無理な話だった。
「ユノは、まだ外の世界を憧れるのだな」
不承不承に言いながらナギはそっぽを向いた。窓の外に木々が見える。木の先端では葉が萎びて枯れてきているのが見えた。
「しかし、このまま寒くなり続ければ、わたくしたちは皆死んでしまいます!」
「それをこの私にどうせよと言うのだ! 天の動きは私とてどうする事も叶わぬ。それとも気温が下がったのが、私のせいとでもぬかすのか!」
ナギは大声で叫んで、それから自分の言葉に驚いた。今までこれほど焦燥感に駆られたことはなかった。得体のしれないものに責め立てられるように、彼の余裕が削り取られていく。ナギは自分でそれが分かっていた、分かっていて、しかしどうにもできない自分が憎らしかった。
だが目の前に座る気丈な娘はどれほども驚いていない様子に見えた。彼女は目を逸らさず、さらに言葉を続けた。
「そうでないことは、わたくしも重々承知しております。なれど、一部の不届きな者たちは、ナギ様が何がしか神の怒りを買ったために、神が日の出をずらされ、更にはこの島より熱を奪っていなさるのだ、とまことしやかに噂しておるのです!」
ナギは絶句して、ユノの顔を見た。彼女の表情は真剣と深刻とで、嘘を吐いているようには全く見えない。ナギは考えが多方向に向かって、何を、どう、考えればよいか分かっていない。
ユノはさらに続けた。
「わたくしもナギ様と同じく、見た目は過不足無き完全なる人として生を受けました。それゆえ、不届きな者たちはナギ様を廃し、わたくしを島主に立てようと密談しているのでございます」
気丈な娘はその場に平伏した。それはナギの怒りが、もし彼女に向かうのならばそれを甘んじて受けようとする意思の表れであった。だが彼の怒りが、彼女に向かうことは決してない。もちろん怒りはその不届きな者たちに向けられた。
「誰だ。私に楯突く者は、その不届き者たちとは誰だ、答えよ!」
立ち上がったナギは大きな声で彼女を詰問し、ユノを乱暴に揺さぶった。だが彼女は頑としてその者たちの名前を言おうとはしない。誰にも負けない頑固な気質が、彼女にこれ以上の密告をよしとさせなかった。
「知っていかがなさるのです? 処罰なさるおつもりですか、それとも追放ですか」
「そのような者たちは、殺してくれる!」
「なりませぬ! それだけは、おやめください! お話いたしましたわたくしが迂闊にございました。故にわたくしの命に代えましても、その者たちを説き伏せまするによって、ご容赦くださいませ!」
「なぜ止める!」
島に一本しかない刀を持ち出して、ナギは怒鳴り散らした。だがその白刃を突き付けられても、ユノは一歩も引こうとはしなかった。
彼の怒鳴る声を聞きつけた館付きの女たちは慌てて彼の居室の戸を開けたが、彼が刀を持っていていることに驚いて声を上げた。祭事にしか使われないこの刀によって血が流れたのは、おおよそ百年前の話なのだ。しかもその時は事故だったと聞いている。
女たちが悲鳴を上げながら逃げ出しても、ユノは紙一枚の距離さえ動かず床に手を突いて頭を垂れたまま居た。
「ナギ様が刀を振るえば、島民は皆信じなくなります。そうあってはいけません」
「……そなたに、説得が出来るのか?」
「お任せください」
顔を上げたユノは女にしておくのが勿体ないほど、覚悟の決まった表情でナギを見つめた。彼女のどうしても引かない態度に諦めたのか、彼も刀の切っ先を下す。
部屋の外で見ていた年を取った女が、やっと敷居を超えて部屋に入ってくる。彼女の顔は真っ白だ。ナギの前に平伏すると、震える声で言上した。
「刀をお納めください。皆が驚いております」
「……分かった。すまぬ」
仏頂面だったが、ナギは素直に元あった壁に掛け直す。すると部屋の外で女たちが、中には泣いている者もいたようだが、やっと安堵した表情でそれぞれの仕事に戻って行った。
ユノはすぐに館を出て、反乱を企む不届き者たちの集まる場所に急いだ。確かに彼女ならば話を通しやすいだろう。だが彼女は、なんとか譲歩を引き出せれば、と考えていた。実のところ彼女は説得材料など持っていなかったのだ。しかしあの場ではあのように言ってナギの怒りを抑える以外に、とっさに方法が思いつかなかった。
ユノは腕組みをしながら考えつつ歩いていて、自分がある娘につけられていることに全く気付いていなかった。後ろからこっそり着いてきていたのは彼女の姉、ルノだった。
ルノはユノと違って完全なる人ではない。しかし右足の小指と中指が変にねじくれて短いだけで、その他は至って健康体だった。そのことが彼女に非常に強い劣等感をもたらしている。足の指さえ完全であれば、彼女とてナギの奥方にと推されるはずだったのだ。だが妹が断わりを入れても、その話がルノの方に回ってくることはなかった。
「妹さえいなくなれば、ナギ様は私を見てくださるのに……」
彼女は呟き、必死に気配を隠して妹の後を追った。
ユノは山の中に入り、以前婆と二人で暮らしていた四角い洞窟の口の中に入って行った。その姿を確認したルノも足音を忍ばせながら入っていく。この洞窟は非常に音が反響しやすいのだ。
進むにつれて段々と話声が聞こえてきた。中にいるのはユノと男女合わせても人数は五、六人程度。何を話しているのかは、音が反響してしまい聞きづらい。さらに近付いて聞き耳を立てようとしたとき、ルノの足が悲鳴を上げた。
彼女の足は指が変形していることによって、度々痛むことがあった。それは気温が下がる度に酷くなっていった。洞窟の冷たい地面に棕櫚の葉で編んだサンダルでは足を冷やすだけだ。痛んだ足に、彼女は思わず悲鳴を上げた。
「誰だ!」
相談をしていた者は入口の方を睨みつけ、農具や銛を手に向かってきた。ルノは慌てて、痛む足を庇いながら走りだした。
「ルノだ、館に知らせるつもりだ、捕まえろ!」
相談していた者たちは彼女を追いかけ始める。彼女は捕まるまいと必死に走る。この情報を、妹が説得ではなく共謀していると、ナギに伝えればルノの望みは叶う。彼女はこれまで生きてきた中でも最も力を振り絞って走った。投げられた銛が彼女の頬を掠める。真っ赤な血がつうっと垂れた。それでも彼女は逃げ続けた。
森から出ると彼らはもう追っては来なかった。一度洞窟に戻り、居場所を変えるのかもしれない。その前に島で最も威力のある刀でナギが彼らを殺してしまえば、ルノの望みへの最短経路であった。
彼女はまだ走り続け、息が切れぎれになりながら館に戻ってナギの前に平伏した。
「申し訳ございませぬ! 妹は、ユノは謀りましてございます!」
「どういうことだ!」
再度こめかみに青筋を立てたナギは、演技で泣いているルノを見抜けなかった。
彼女は不出来な妹を持った姉を見事に演じ、不届きな者どもに加担した妹を責め、だがその罪を自分の命で償うから妹の助命をと叫んで壁に掛けてあった刀に手を伸ばそうとした。その手をナギが叩き、一番年のいった女が諫める。ルノは泣き崩れた。頬から吹き出る赤い血が、彼女の演技を程よく引き立てた。
「もう、誰も止めるな!」
彼はおろおろとしている女たちを言い渡して、自分は刀を手に館を飛び出した。
伏したルノは、込み上げてくる笑いを押し殺して泣き続けた。
夕刻あたりに帰って来たナギを見た人々は絶句した。中には気絶する者もいた。彼は返り血を浴びて、彼自身も傷を負っていたが、それより遥かに多い量の返り血で真っ赤に染まっていた。白い着物に、真っ赤な花が咲き乱れていた。
「ユノとそれから三名、取り逃がした。明日は総出で山狩りだ。皆にそう伝えおけ」
それだけを一番年を取った館付きの女に言って、彼は自室に閉じこもった。
その夜、彼のすすり泣く声が風に乗って島中に木霊した。
次の朝、日の出と共に起きる前に、彼は屋敷の中が騒然としていることに気付いて起きた。東の空が白んできてはいるが、まだ日が昇るまでには時間がある。こんな時間に女たちの悲鳴と走り回る音が聞こえるのはおかしい。
彼は自分が昨日の返り血が付いたままの着物で寝ていたことに気付いたが、何もかも全てを億劫に感じて、そのまま部屋の鍵を開けて外に出た。
部屋の外では女たちが箒やら、鍋やらを振り回していた。
「何の騒ぎだ?」
「反乱にございます!」
一番年を取った女が、すっ飛んで来て平伏して答えた。すでに右腕を怪我している。
「誰が……」
「ユノを島主にせんと企む連中に、島民の約半分が加担いたしました! その他の者が銛や鎌、鍋などを持参いたしまして、ただ今、館の玄関先にて交戦中にございます!」
まさか平和なこの島で反乱などと言う言葉を聞くとは思っていなかったナギは、最初何を言われているのか分からなかった。徐々に外の阿鼻叫喚が聞こえてきて、彼は昨日斬った三人の男女の姿が目の前にチラついた。
突然、彼は壁に手を付いて、何もない胃の中身を吐き戻した。口の中が苦いものでいっぱいになる。血の匂いはしていないのに彼の嗅覚があの匂いを嫌って、胃の奥のさらに奥から物を逆流させる。誰かに支えられて部屋に戻された彼は水で口を濯いだ後、ぐったりと横になった。
「何だと言うのだ……!」
仰向けになった彼は片腕で顔を隠した。誰から、どうして隠したいのかよく分からなかったが、彼はどうしても誰にも顔を見られたくなかった。思うようにならず、全てが壊れていく。彼にはそれを止める力がなかった。
「いっそ、壊してしまおうか」
呟いてから上半身を起こした彼は、無表情のままだった。ふつりとしがらみが途切れた。他の者が心配するから、いつも笑うことを心がけていた。だがその必要も、もうない。
とにかく未だに不毛な殴り合いを続けている現場に赴いた。玄関先に出た途端、生まれてこのかた向けられたことのないような視線と、罵声が投げつけられる。
「人殺し!」
「ユノ様に、座を明け渡せ!」
「海にその身を沈めろ!」
だがナギは元よりこうなると分かっていて、あるいはどうでもよいと感じて、特別に悲しさや悔しさは湧き上がって来なかった。さらには昨日、人を斬ったことで、完全に感覚が麻痺している。
刀は他の農具や漁具と違って斬ることを前提にしている。彼がどれほど慣れない動作で刀を振るっても、どの農具より漁具より多く血が流れる、血飛沫が飛ぶ。美しい白刃が一度振るわれると、衆目は全てナギに向けられた。
「この私に盾突くとは何事だ!」
低い声に、敵味方共に静まり返る。その中を彼は悠々と歩いた。
「ユノをはじめとする首謀者たちを引き渡せばお前たちの命は許してやろう。その身を海に沈めるは貴様らの方だと伝えよ!」
敵方は彼、つまり刀の出現にたじろぎ、じりじりと後退していく。
「去れ!」
最後に一喝、ナギの声とともに敵方は散り散りに逃げて行った。こうして一時休戦となった。
ナギは館の前に机や椅子などの家具を使ってバリケードを作らせた。こうすれば館は簡単な要塞と化す。館の地下には大量の食糧が貯蔵されているし、周囲に人を配すればおいそれと侵入出来ようはずもない。それを見た村側も館から伸びる一本道の坂を下りきったところに、木を使って同じようなバリケードを作りあげた。
こうして硬直状態が続いて二週間が経った。幾度かの小競り合いをしたものの、依然として村側からは音沙汰がなかった。
日の出はさらに南に傾き、日が出ている時間も短くなっていった。寒冷化はさらに進み、ついに霜が降りた。島の誰もが初めて見る霜だった。それを機に、まだ辛うじて残っていた葉までもが萎れて緑色のまま落ち出した。滅びの予兆のようであった。
硬直状態の間にナギは一度風邪をひき、それ以来着物を倍着させられるようになっていた。重たいが寒いので仕方がない。だが彼には着るものがあっても、普通に暮らす者たちには重ね着するような余裕はなかった、徐々に寒くなって体の動きが鈍くなっていく者が増えていく。ある朝かける布団無しに寝ていた男が凍死した状態で見つかった。皆、次は誰が凍死するのか、戦々恐々としていた。
しかし死者よりも、ナギはあまりに村側の動きが無いことが気がかりになってきていた。
「少し、村の方を見てくる……」
止める者たちを振り切って、彼は一人で坂を下って行った。とても心細かった。昔なら誰かが見つけてくれれば話をしたものなのに、今では見つけたら用心しないと殺されてしまう。刀が手放せない。事実、彼は眠る時でさえ刀を手放すことはない。それほどに今は他者が怖い。過去に思いを馳せるほどに悲しくなっていくので、彼は途中で考えることを止めた。
吐く息は白い。ちなみにこの現象も島民全てにとって初めての体験だった。最初に吐く息が白くなった女は、驚いて悲鳴を上げたのだ。
ナギは坂を下りきってバリケードに手をかけて村の様子を見た。しんと静まり返り、物音一つしない。不審に思った彼は声をかけた。
「どうした、襲ってこぬのか?」
張りつめた空気の村に朗々とした彼の声が響きわたる。だが答えはなかった。
「入ってしまうぞ」
言ったがやはり応じる声はない。彼は堂々と敵本陣に一人で乗り込んだ。村の至る所に火を焚いた跡があった。きっと寒くてどうしようもなかったのだろう。食べ物は館よりも海に近いので問題ないだろうが、こう寒くては潜りの漁は不可能だ。投網で魚を獲ってそれをつつくしかない。火の跡の周りに骨が多数残っていた。
しかし、その骨に虫がたかっていない。不審に思って魚の骨を拾い上げると、骨はかさかさに乾いて手の中で簡単に崩れた。この乾きようは昨日今日に食べられたものではない。慌てて他の骨も拾ってみるが、全て乾いていた。
「なぜだ……」
ナギは胸騒ぎがして、村の家を覗いた。そこに人はいなかった。さらにもう一軒覗く、だがここにも誰もいなかった。良く見ると所々に土が盛られて、簡素な墓が建てられている。やはり村側の方でも凍死者が出ていたのだ。だがそれにしても人がいない。
「どこに消えたのだ?」
彼は村の家全てを覗いたが、どこにも人は見当たらなかった。寒くなってきたので帰ろうと振り向いた時、島の中腹が彼の視界に入った。
「そうか、あの洞窟に隠れたのだな」
彼は歩き出した。歩いていた方が寒くない、むしろ歩いていないと凍えてしまいそうだった。彼が赤くなった手を擦りながら中腹の洞窟に着くと、そこにはおぞましい光景が待っていた。
積まれたいくつかの死体には、足と腕がない。切れ味の悪い刃物で切り落とされた断面が、すでに滴る血もなく黒ずんでいた。内臓は腐っているのだろう、すさまじい腐臭がした。
ナギは積まれたかつての島民を一人ずつ横に並べた。八人分。村の方にあった墓は十数余であったため、ナギに反旗を翻した人数を考えると数人足りない計算になる。しかも足といい、腕といい、どこへ行ってしまったのだろうか、とナギ首を傾げた。
「恐らく洞窟の中にでも隠れているのだろうよ」
少々の不安など踏み潰し、ナギは刀を抜いた。そして真四角の壁と天井を持つ洞窟へ入って行った。足音など気にしない。むしろ足音が響くが、だが彼の足音一つしかしない。人の気配が全くしなかった。
そして徐々に鼻を覆うような腐臭がしてきた。もはやなぜとは思わない。奥でも人が死んでいる。そう思った瞬間に、ナギは弾かれたように走り出した。
奥には、ユノがいるはずである。
彼女が本当に首謀者であるならば、最後まで匿われるはず。ならばこの腐臭は、彼女の死か。
小さな広間の入り口、襤褸切れになった麻布を跳ね上げた。飛び込んできた光景は、陰惨な殺人現場。男女入り混じって五人、木切れと農具で争った跡だった。撲殺された者と手で首を絞められた者と、そして倒れて炉で焚いていた火の中で黒こげになっている者と。皆死んでいた。
ナギは掴んでいた麻布を引きちぎる。そして乱暴に投げ捨てた。
反乱を起こした者たちは、結局仲違いして死んでいたというわけだ。ナギは彼らも館に助けを求めに来ればよかったのに、と思わないでもない。だが来たところで、中に入れたかどうかナギは自信がなかった。
視線を落として炉辺をみると、太い骨が何本も落ちていた。島で飼っている家畜の骨出ないことは一目瞭然だった。
「ああ、そうか。喰ったのだな」
軽蔑する気持ちが一瞬湧いたが、それも瞬時に収まる。ここまで追い詰めたのは自分であるという自覚が多少なりともあった。ナギは一応五人の死体を並べ始める。もはや死体を見ると、癖のように埋葬する準備を始める。すでに島には生者よりも死者の方が多い。ナギは黙々と死体を外へ運び出した。全員を運び出したら、再びユノを探しに行こうとしていた。彼女だけ死体が見つからないのは、どこか別の場所で死んでいるかもしれないから。素直に生きている可能性に期待を寄せることは出来なかった。
三人目の死体を退かした時だ。下に見えた、だらりと垂れた腕、色のない頬。無造作に死体を横に退けた。死者への冒涜などという言葉は一蹴される。
引きずり出した彼女に意識はなかった。
体は冷たくなっていたが、しかしゆっくりとした脈は感じられるから、死んでいるわけではない。その体を抱えたままナギは泣きだした。涙が彼女の頬に何粒も落ちていった。
ナギ自身どうして泣いているのか分からなかった。悲しくもあったし、虚しくもあった。腹立たしくもあったし、脱力感もあった。
そのうちに彼は上着の一枚を脱いで彼女にかけて、自分は火を起こした。小さい火ならば酸欠にはならない。燃える赤い炎が揺れるたびに、ナギは自分の運命を呪った。ああすればよかった、こうすればよかったと言うことは次から次へと出てくる。だが今からこうすればよい、と言う考えは不思議なほど浮かんでこなかった。
しばらく二人は洞窟の中にいた。ユノを連れてでは館に帰れないし、しかしナギは彼女をこの場に放置していく気にもなれない。
そう思って眠っているような彼女の頬に触れたとき、彼女のまつ毛が一瞬動いた。
「ユノ!」
声をかけると、うっすらと目を開けた。しかしまた目を閉じてしまう。再度の呼びかけにも、目を少し開けただけだった。何度か繰り返してみて、ナギはユノが未だに覚醒していないと結論付けた。もう少し温めてやらなければならないのかもしれない。さらに死体を退かして空気の通りをよくし、火を大きく焚いた。
一日そこで看病していたが、結局よくならない彼女を背負ってナギは館に戻った。館ではさらに凍死者が増えていた。
「ユノを連れ帰るとは、何を考えてらっしゃるのですか!」
年取った館付きの女は金切り声でナギを責めた。
「村の奴らは、ユノの命を助けることを条件に皆死んだ。約束は違えられぬ」
しかし彼はこの一点張りで、皆に非難されながら自分のベッドを彼女に貸し与えた。
悔し涙を流したのはルノである。彼女はこの寒さに震えながらも、未だに生きている一人だった。
戦いはあっけなく終わってしまった。しかし残った島民は自分の家にはすでに戻れない。あまりに寒くなってしまい、そしてここ二週間は暖かい煉瓦造りの館で暮らしていたのだ。隙間風の多い家に、誰も戻ろうとはしなかった。またナギも彼らに出て行けとは言わなかった。
その頃には、とっくに物見の爺も崖裏の婆も疲労と病気と、歳による寒さへの抵抗力の無さで亡くなっていた。残された識者はナギと意識のはっきりとしないユノだけだった。触れれば反応はするが、それ以上何も言わない。無理にでも食べ物を与えれば、咀嚼せずに流し込む状態になる。彼女は依然として死んではいなかった。しかし虚ろな視線の先には海の遥か向こうが見えている様子はなかった。
特に薬草の知識のあるユノの意識が戻らないことは、島民にとっては死活問題だ。あいも変わらず寒くなる一方で、流行る病気はただの風邪だけに収まらない。病気と寒さで、すでに半分以下になっていた島民はさらに数を減らした。一人、また一人、朝起きると冷たくなっているところを発見される。
戦いが終わってさらに二週間経つと、残された者はすでに両手で事足りる人数になっていた。その数八人。中にはナギもユノも、ルノもいた。彼ら八人はいつも同じ部屋に居て、暖を取っている。しかし地下にある食糧は十人にも満たない人数を賄うにも不足してきた。
ある日地下に食糧を取りに行った二人組がなかなか戻ってこない。慌ててユノを除く五人全てが松明を持って地下に向かった。そこには、地下室で探し物をしている間に凍死してしまった二人組の死体が転がっていた。
「もう、嫌!」
頭を抱えて泣き叫び出したのはルノだった。
「仕方がなかろう……」
ナギは言ったが、実質的には自分に言い聞かせたにすぎない。彼も泣き叫びたい気分だった。慟哭したい衝動をぐっと腹の底に押し込める。
「仕方がないですって? 冗談じゃないわよ、私はこんなところで死にたくないわ!」
「それはみんな同じだ」
生き残りの一人が口を開いた。苦々しい表情をした壮年の男だった。
「みんな同じですって? 違うわよ、あんた片腕無いじゃない! あたしが無いのは右足の小指と中指だけよ。あんたたちよりずっと完全なる人に近いんだから、あんたたちがこれからは地下室に入りなさいよ!」
「なんだと? おまえは体の過不足で人の仕事を割り振るのか!」
「それの何が悪いの? 完全なる人に近しい存在である私は、あなたたちなんかよりずっと生きる権利があるのよ!」
ルノが叫ぶと、頭に血が上った男が手を振り上げた。生き残っていた女性は、ルノとユノだけ。他は皆男で、そのうちの一人に暴力を振るわれたルノはひとたまりもなかった。
軽く体が浮くくらいに飛んだ彼女の体は、煉瓦の壁に打ち当てられた。その光景がナギには異常にゆっくりと映って見えた。崩れる彼女の後ろの壁には汁気の多い実でもぶつけたように、真っ赤な血が流れ伝った。
「……まっまさか、死んじまったのか?」
殴った男が恐る恐る崩れたルノの死体を突く。ぴくりとも反応しなかった。
男は後ずさる。顔が妙に引きつっていた。
「お前が殺したのだろう。……外に埋葬するしかあるまい」
ナギは男たちに声をかけたが、やはり後ずさった男だけ反応しなかった。
「何している、手伝ってくれ」
ナギが言いながら振り向くと、松明を振り回しながら男は逃げだした。あられもない悲鳴を上げながら走って行ってしまった。
「どこへ行ったのだ?」
「あいつ、限界が来ちまったのかもしれません」
逃げて行った男と特に仲が良い生き残りの一人が、口を開いた。彼は冷や汗をかいている。不審気にナギは男の逃げて行った方を見ていた。
「限界……?」
「ナギ様、ユノさんの所に戻った方がいい」
残された三人は急いで二階のナギの自室に戻った。戸を開けると、先ほど逃げて行った男が半笑いしながら敷物に火を付けているところだった。
「何をしているんだ!」
「さっ寒いから、燃やさなきゃって、寒いから。大きなもの、燃やせば暖かくなるって、母ちゃんが教えてくれた……」
男は泣き笑いしながら次々に火を放って行く。
あっと言う間に屋敷は火に包まれた。ナギは寸でのところでユノを救い出した。残されたのは四人。火を放った男は、自分も燃やしてしまった。さぞや暖かかっただろう。
「ナギ様、どうしましょう」
「崖の洞窟へ行くか……」
言いながら、ユノを負ぶったナギは未だに燃え盛る館の前に佇んでいた。確かにとても、ここ数カ月の中で最も暖かかった。
火が消えてから四人は洞窟に移り、細々と暮らし始めて一か月。ついに残されたのはナギと生と死の境界を漂うユノの二人だけになってしまった。他の二人は皆凍えながら病気で死んでいった。
ナギは寂しさを紛らわせようと、日に幾度となくユノに話しかけた。その度に彼女のまつ毛がぴくりと動く。それは微かだが彼女なりの返事のようであった。
ある朝あまりの寒さに夜全く眠れないでいたナギが洞窟の外に出ると世界が変わっていた。一面の白銀。混じりけのない白に刺し貫かれて、ナギは思わず目を伏せる。
驚いた彼はしばらくの間、目の前に広がっている光景をぽかんとして見ていた。初めて見る白い物体。触ってみる、手が切れそうなほど冷たかった。しかしその白いものの一部を掬い取って手で持っていると、次第に溶けて水になってしまった。確かに彼は寒さを嫌っていたが、それでもこの白い未知の物体に強く惹かれた。その白い物体は、小さな塊で空から降ってきていた。空は曇ってどんよりとしていたが、白いふわふわとした物が舞い降りてくる幻想的な光景をナギは唖然として見ていた。
そしてはっとして洞窟の中に戻る。ナギ自身とそしてユノにあるだけたくさんの着物を着せて、彼女を抱きかかえた。少しずつ食べさせてはいるものの彼女の体は痩せ細り、抱き上げてみるとその軽さを実感する。ナギは彼女を連れて洞窟の外に出た。
「ほらユノ、ごらん。これが楽園と言うものだろうか……」
洞窟の脇に二人で並んで座り、彼らは延々と不思議な白い世界と向き合っていた。
舞い落ちる白。降り積もる白。久しく枯れて寂しくなっていた木々にもこの白いものは降り積もり、少しだけ世界を明るく照らしてくれる。これで暖かければいいのに、とナギは白い息を吐き出した。
だが次第に自分の体が動かなくなっていくことに彼は気付いた。手足の感覚が麻痺して、体が重たくて動かせない。自力では這うことくらいしか出来なくなっていた。
「そ、んな……」
動けないままでは凍死してしまう。今のナギにとっては自分が死ぬことよりも、ユノを一人だけ残す方が耐え難かった。それだけはどうしても避けたかった。
彼は白い地面の上を這うように進んだ。少し進むと、ユノの体を引っ張る。この動作を繰り返した。何時間もかけて洞窟の中を数メートル進んだところで、ナギの意識は途切れる。最後にユノの体を自分よりも奥へ押し込んだことくらいしか覚えていなかった。