女に生まれて得だったこと

 女に生まれたことが得だったことなんて、今まで一度たりとも無かった。

 そう思っていたはずなのに。

 ある探し人を見つけた時、『こんな奇特な瞬間に出会えるなんて』と女も捨てたものではないと微笑んだのは内緒だ。

 

 戦と病と飢えばかりの京の都で、親無しの子が生きていくのがどれほど大変かアンタは知っているだろうか。

 帝や将軍がおわす都は、入れ替わり立ち代わり武士や僧兵たちが力を振い、10年と平和だったことがない。

 最近乗り込んできたのは織田信長とかいう尾張のうつけだ。

 物を買おうにも商人たちは座を組んでとんでもない値段でしかものを売らず、もちろんアタシたちが買えるものなんかほとんどなかった。

 それでも生きるためならば盗みでも脅しでもペテンでも何でもやった。

 そうじゃなければ生きられなかったから。

 そういった色々なことを考えても、男に生まれたいと思ったことはあっても、女が得だと思ったことなんてない。

 男の子と同じボロを纏って、気が付いたらそれなりに大きくなっていた。

 たぶん人より少しばかり運が良かったんだと思う。

 

 ある時、とある豪商が人探しのふれを出した。

 なんでも豪商の息子が目の病で臥せっていたときに世話をした女を、金を出してまで探しているという話だった。

 しかも10貫も出すと言う話だ。

 1貫あれば一か月は食うに困らない、大事に使えばアタシひとり1年は優に暮らせる。

「なんだって女の1人、顔も居場所も分からないんだい?」

「息子は離れにこもりきりで、両親も世話につけた女をまともに見ていなかったらしい。だが息子が看護していた女をいたく気に入って、探し出せと騒いだんだとか」

 難儀なものだ。

 親子がそろって同じ敷地に暮らしているのに、世話人の顔すら知らないなんて。

 一体どんな広いお屋敷で暮らしているんだろう。

 産まれてこの方、金が余ったことがないアタシには全く理解のできない話だった。

「お前なら女の1人ぐらい見つけるのは簡単だろう」

「ただの人探しで10貫か。これじゃああこぎな商売だと怒られちまうね」

 鼻で笑って、三日と経たないうちにその女を見つけ出した。

 女は京の隅っこの小さな掘立小屋みたいなところに住まう六人兄弟の一番上。

 アタシと同じ孤児の姉だった。

「アンタが豪商の息子の世話をしたって女だね?」

 声を掛けるや否や、女は蒼白になって逃げ出した。

 口からは悲鳴みたいなものを吐き出しながら、でもアタシから逃げられるほどの脚力ではなかった。

 軽く追いつくと、彼女の乱れた黒髪を鷲掴みにして壁に押し付ける。

「アンタを捕まえて連れて行けば10貫なんだよ、悪く思わないでおくれ」

「だったらあなたが私の振りをすればいいでしょう! そうしたら豪商の息子のお妾になってふんだくれる銭は10貫どころじゃない!」

 なるほど、この女は賢いのか愚かなのかよく分からなかった。

 小作人が貧しいのは金を産む土地を持っていないからだ。

 それと同じでアタシがずっと貧しいのも、金の生る木を持っていないから。

 いっとき金が手に入っても、それきりじゃどうしようもない。

「アンタの振りをしてもいいんだね?」

「そうしてもらった方がいい。あんなところへはもう行きたくない!」

 豪商の息子のお妾さんにでもなれるなら、多少の気性ぐらいどうと言うことは無い。

 この女は随分と良い儲け話を袖にするのだと思って、アタシは見つかった女の振りをして豪商の家に行った。

 幸いにも女とは背格好も声も似ていて髪も黒い、何より目を患っていた若旦那は女の姿をしかと見たわけではなかった。

 意気揚々と若旦那に会うと、アタシは逃げ出した女の振りをして丁重に頭を下げた。

「驚いて逃げ出してしまい申し訳ありませんでした」

 すると若旦那は少し驚いた顔をしていたが、珍しく薄い茶の瞳を細めてにっこりと笑う。

「お前が戻ってきてくれたのならそれでいいよ」

 なんとまぁ線の細い男だろうと思った。

 腕なんかへし折れそうなほど柔っこくて、アタシが暮らしているようなところじゃ一日も持たないだろう。

 騙すのが悪い気すらして来たが、もう後には引けない。

 アタシはあの女の振りをして、地べたを這いずるような生活からの脱出を心に決めていた。

 もう泥水をすする生活なんて嫌だ。

 もう粥も食えずに1週間も放浪するのは嫌だ。

 もう風邪のひとつで命を失いそうになるなんて嫌だ。

「まずは以前のように通いで世話をしてくれればいい」

 若旦那はそう言って、その日はお茶だけを所望した。

 実はお茶なんかそうそう真面目に煎れたことは無い。

 でもお茶なんて誰が入れたって大体一緒だ、茶葉が物をいうんだろうとタカを括った。

 それにあの女だってそんな大した作法が出来たわけではないそうだから、適当に湯を沸かしてどさどさと茶葉を入れる。

 出来たのは、草を煮出したみたいな緑色のドロドロの液体だった。

 アタシは生まれてこの方、薄い水みたいな奴しか飲んだことが無かったので、どうやら茶葉を入れ過ぎたらしい。

 でも「煎れたかい?」と背中の方から声を掛けられて、グンと背筋が冷えた。

「あ、の、失敗してしまって」

 失敗にもほどがある。

 いいお茶を知らないアタシだって、これがどれだけ不味いのかは見て分かった。

 ところが若旦那は屈託なく笑った。

「そうかい? おいしそうだよ」

 まさかそんな、とアタシが目を丸くしている間に、若旦那は一息にドロドロの濃いお茶を飲み干してしまった。

「申し訳ありません、明日からはもっと練習します……」

「大丈夫、お前さんなら上手いことできるよ」

 ニコニコ顔でその日は家に帰してくれた。

 正直なことを言うと拍子抜けだった。

 だって心底気に入って金を出してまで探し出そうと言う女の、顔は知らずとも声や雰囲気を若旦那は堂々と間違えたのだ。

 自分の家と決めたあばら家に帰ってきて、アタシはようやく笑ってしまった。

 なんだ、男なんて大したものじゃないの、と。

 

 それからアタシは戻ってきた奉公人の振りをして若旦那の家に通い続けた。

 お屋敷には裏手から入るので、確かにこれでは若旦那の両親とは顔を合わせる機会もない。

 どうりで若旦那の良心は、臥せっている息子の世話をしている女の顔さえ知らなかったのかと呆れる気持ちはあった。

 だがそれが偽物であるアタシが入り込める余地でもあった。

 これについては神仏に感謝した。

 だって若旦那は何がそんなに気に入ったのか、お金とは別に色々なものをくれたから。

 ある時はお供物みたいな果物であったり、ある時は上等な紙であったり、ある時は反物であったり。

 どれも質は上々で、家のないアタシにしてみたら目が飛び出るようなものもあった。

 でも若旦那は躊躇なくアタシにそういったものをポンポンとくれた。

 家に帰るとアタシは要らない物を売り飛ばし、高笑いが止まらなかった。

 

 ある日、若旦那は握り飯を所望した。

 何だって握り飯なんだと頭を抱えてしまった。

 白いおまんまがこの家は毎日食える家だった。

 食事自体は本宅のおくどさん(台所)で作られたものがお膳に乗せられて、離れに届けられる。

 アタシの仕事はそれを受け取って、離れから一歩も出ない若旦那にお出しすることだ。

 その日は珍しく、その食事とは別に握り飯、しかも菜っ葉の入った握り飯が食べたいと言い出した。

 菜っ葉だけならばアタシの好きな漬物を刻んだのでも混ぜようかと思ったが、そう簡単な話ではなかった。

「以前作ってくれた奴だ、塩気が効いて美味しい握り飯だった」

 どうやら若旦那が目を患っていた時にあの女が作った物らしいが、どんな菜っ葉を混ぜたのかはさっぱり分からない。

 塩気と言うからには何か漬物だろうか。

 だが目を患っていただけあって、味は鮮明に覚えているだろう。これはまずい。

「そうしたら材料を取ってきますね」

 そう断って、アタシは慌てて京のはずれの掘立小屋を訪ねた。

「若旦那がなっぱの握り飯を食べたいって言ってんだよ。アンタ、何のなっぱを入れたのか教えてくれないかい」

「それぐらいならばいいけれど」

 代役を押し付けただけあって女も気まずいのか、作り方を教えることは一切渋らなかった。

 混ぜたのはかぶらの葉だった。

 良かった、アタシだったら何か葉物の漬物でも刻んで入れるところだった。

 かぶらの根の部分は汁物にして、葉の部分は塩もみしたのを細かく刻んで白飯に混ぜる。

そうして握るとなるほど塩気の利いた握り飯になった。

 3つほど握って三角の握り飯をお出しすると、若旦那はまたニコニコして食べた。

「以前食べた時にも思ったがやっぱりお前が作る握り飯は美味しいね」

 ありがとうございますと頭を下げながら、アタシはほくそ笑んだ。

 本当にちょろい、握り飯だけでこれだ。

 これほど楽な仕事は他にはないだろう。

 それに若旦那はそんなに悪い人でもなかった。

 怒鳴ったり叩いたりすることもなく、お世話だってそう難解なものじゃない。

 むしろ子供の遊び相手のようなものだから、なんで逃げ出すのか理解ができない。

 本当に、なんであの女はこんな楽な奉公人の仕事から逃げ出したのだろう。

 愚かな女だ。

 

 一方で私の方は罪悪感が募り始めていた。

 アタシは死んだらきっと地獄に堕とされる程度には悪いことをしてきたつもりだ。

 もちろんただで地獄に行くつもりはない。

 責め立てられようものならば、アタシたちをそんな風に生き延びさせた京の都と権力者をどうにかしろと怒鳴るつもり。

 だがそれにしたって若旦那を騙すのはなかなかに気が重くなっていた。

「あまり物のお菓子だから持ってお行き」

「でもこんなに」

「小さい子たちにはこれぐらいなんてことないだろう?」

 今日の帰りがけ、腕の中に押し込まれたのは街で一番上等な饅頭屋の饅頭だった。

 一時期は御所にも饅頭をお納めしていたと聞いたことすらある。

 しかも包みごと6つも入って、あまり物であるはずがない。

 断ることが出来ず、私は家に帰ると渋々1人でお茶を飲みながら饅頭を頬張った。

 このお茶も若旦那がくれたものだ。

 お茶も饅頭も生きた心地がしないほど美味しかった。

 何しろ若旦那はアタシが以前世話をしていた女だとまるっと信じ込んでいたので、こういうことは非常に多い。

 六人兄弟の一番上で、早く帰らなければ下の五人の兄弟たちがお腹を空かせていると、若旦那は微塵も疑っていなかった。

 お陰様で給金はそこいらのお女中よりも倍ぐらい多く出してくれるし、それ以外にもぽいぽいと物をくださった。

 若旦那の頭の中でアタシは六人兄弟だが、実際のところは薄暗い路地の奥まった家に帰ると一人分の寝床しかない。

 特に食べ物が多かったが、それ以外にも反物やらオモチャやら、結局アタシひとりでは使いきれないで売ることも多かった。

 その額はあっという間に10貫を超え、やはり女を突き出して礼金の10貫を貰うより、奉公人として給金を貰った方がよっぽど懐は潤う。

 これならもうお妾の座を狙わずとも、ずっと通いの奉公人でもよいのではないかとさえ思うほどだった。

 

 半年も経つころにはアタシの生活は一変した。

 住む場所も表通りの日当たりの良い家に変えたし、三食まともに食べるようになった。

 生まれて初めて化粧らしきものもしたし、着ているものも古着じゃない新品だった。

 全部若旦那の懐から出たものだった。

 こんな恵まれた生活は生まれて初めて最初は有頂天だったが、時が経つにつれて増していったのは良心の呵責だ。

 生活にゆとりがあればあるほど、アタシは自分以外のことが気になり始めた。

「騙していることが辛いなんて、お前も贅沢な悩みを言うようになったね」

「自分でもこんなに悩むとは思わなかった」

「そういうのを昔の偉い人は『衣食足りて礼節を知る』と言ったらしいよ」

「学が無いからよくわからない」

「生活にゆとりが出来ると礼儀や節度をわきまえるようになるってことさ。今のお前にぴったりじゃないか」

 そんな皮肉に返す言葉も無いぐらい、アタシの心はじくじくとし始めていた。

 こんなつもりではなかった。

 上手いこと世間知らずの若旦那に取り入って、奉公人で銭をせしめれば万々歳だと思っていたのだ。

 あわよくばお妾さんにでもなれば、人生安泰になれると思っていただけ。

 でも心のどこかでは、きっと途中で正体がバレて追い出されると思っていた。

 だからそれまでに金持ちからふんだくれるだけ銭をふんだくっておこうと考えていたのだ。

 だからこそ、バレないのが申し訳ない。

 罪悪感に苛まれながら、ぼんやりと靄のかかった頭で仕事をしていたのが悪かったのかもしれない。

 ガチャンと音がした時には床板の上に、花瓶と花と水とが粉々になって落ちていた。

「申し訳ありません!」

「大丈夫かい? 怪我は」

 と、不用意に割れた花瓶に手を出す若旦那を止める暇も無かった。

 「いてっ」と顔をしかめると、若旦那の指からダラダラと血が流れている。

 慣れないことに手を出そうとする方が悪いと、以前の私なら怒ったところだろう。

 だが今はそんな事よりも若旦那の傷の具合の方が心配だった。

「手当てを!」

「いいよ、少し切っただけだから」

「駄目です、ちゃんと手当しないと膿むから!」

 傷は膿むのが怖い。

 そうやってちょっとした傷や野良犬に噛まれた同じくらいの孤児が、三日三晩熱で苦しんで死んでいくのをアタシはよく見ていた。

 だから花瓶の始末もろくにせぬまま、慌てて若旦那の手を取る。

 器用にざっくりと切った指先は思ったよりも傷が深いではないか。

 急いで傷口を洗って破片が入っていないかを見て、それから包帯を巻いてやった。

 包帯を巻きながら、無性に悲しくなった。

 なんだってアタシは、気のいいこんな人を騙しているんだろうって。

「あの、お話があります」

 と言って、正直に話をして罪を償うのは怖かった。

 正直言うと、今までくれてやったものを全て返せと言われるのも恐ろしかったし。

 事ここに至っても、アタシはやっぱり自己中心的なヤツだったので、嘘だとしても訳を言って奉公を止めさせてもらおうと思った。

「実は遠い親戚が見つかって、丹波の方に行くことになりました」

「最近ぼんやりしていると思ったらそうだったのかい」

「今まで大層よくしていただいたのに、言い出せなくてごめんなさい」

 ぺこりと頭を下げると若旦那はにっこりと笑ってアタシの頭をポンポンと撫でた。

 素直に白状すると「そんなことは許さない」とでも言われるかなと思っていた。

 お前には金を掛けたのだから、ずっとここで働いてもらうよとかなんとかって。

 でも若旦那には全くそんな様子はなく、でもすっくと立ちあがった。

 それからおもむろに手を叩く。

 ぱんぱん、と2回。

 柏手にしては可笑しいと思った。

「若旦那様?」

 私が不思議に思って首を傾げた瞬間、パンっと音を立てて障子戸が閉まった。

「えっ」

 この離れには誰も近づかない。

 本宅の女中も食事を持ってくるとき以外は誰一人として近づかない。

 だから手を叩いたぐらいで障子戸を閉めてくれる人なんているはずがないのだ。

 何が起こったのか、思わず背後を振り向いた瞬間、次は目の前の引き戸がタンッと子気味の良い音を立ててしまった。

「ひえっ」

 パン、タン、パンパン、タタン。

 開け放たれて心地の良い初夏の風が入ってきていた窓や戸の引き戸が、誰も触れていないのにどんどん閉まっていく。

 勢いよく、なのに弾んで隙間が空くことも無く、隙間風すら入らないほどぴったりと。

「若旦那様?!」

 一体何が起こっているのか理解が追いつかないうちに若旦那は振り返り、アタシが巻いた包帯を愛おしそうに撫でた。

「あのね、彼女のお茶はこれでもかと言うぐらい薄かったんだ。たぶん貧乏性ってやつだねぇ、何度お茶を入れ直させても彼女のお茶は薄かった。でもそれも悪くないってずっと思ってたんだ」

「はい?」

 お茶は毎日欠かさずに言いつけられるので、アタシは初日からお茶だけ欠かさずに入れていた。

 おかげでだいぶ茶葉の量とか温度とか、適当に出来るようになってきたと思う。

 自分でも残っていたお茶に少し口を付けたことがあったが、丁度よい濃さに入れられるようになったと1人で満足したものだ。

 だが若旦那の言葉はそれで終わりではなかった。

「あと握り飯、味は同じだったが形が違った。彼女は確かに目を患った私でも食べやすい様に持って食べられるように作ってくれたが、俵型だったよ。君は三角に作るんだねぇ」

 未だに人の良さそうな笑みを張り付けて、若旦那は戸口に立っていた。

 冷や汗が背を滑り落ちる。

 慌てて左右に視線を動かして、他に逃げ出せそうな場所が無いかを探った。

 だがどの戸口もぴったりと膠が張り付いたみたいになっていて、開けられるのかどうか自信はない。

「あとはこの包帯、彼女は左利きでね。依然、怪我の時に巻いてくれたから覚えているが、右利きの君とは巻き方が逆だった」

「アタシが偽物と分かっていてずっと知らない振りをしていたんですか」

 罪悪感なんて掻き消えた。

 やっぱりアタシの演技はバレていて、たぶん若旦那は面白半分にアタシを半年もの間飼っていたのだろう。

 いつ尻尾を出すか、音を上げるか。

 そのためならば倍ほども高い給金も、様々にくれた物品も、安い撒き餌だったに違いない。

 そのことに腹が立った。

 何よりも、だましている振りをして騙されて、それどころか罪悪感を抱えていた自分にムカついた。

 ところが若旦那は、いやまてまてと首を横に振る。

「別に君を役所に突き出すつもりはない」

「ハァ? アタシはアンタが探してた六人兄弟の姉貴じゃないんだよ?」

「それでもいいよ、私が見えているんならそれでいいんだ」

 どういう意味かと問いかけて、ゾッと目を見開いた。

 だって若旦那がどんどん薄く透けていくではないか。

 息をのんだ瞬間に姿は完全に消え、思わず左右を見回す。

「見える人が本当に居なくてね、世話役がなかなか見つからないんだ」

 声はアタシの耳元で。

 若旦那は音もなくアタシの後ろに立って、肩をがっちりと握る。

「欲しいものは何でもあげるよ、本宅の方をちょっとばかり揺すれば両親は涙目になって私に何でもくれるから。その代わり君はもうこの離れからは出させないよ」

 あの女が逃げ出した理由。

 若旦那のお妾さんなんて割のいい儲け話はたぶんなかった。

 ガタガタと離れの建物が揺れて、建物全体が悲鳴を上げているみたいに軋んでいる。

 でもアタシはがっちりと肩を掴まれて逃げ出すことができない。

「僕の世話役を再び見つけるなんて難しいからね」

 にこりと笑った若旦那の両足は透けて、断言してもいいが彼は生きていない。

 この時アタシは、自分が見える側の人間だと初めて知ったわけだ。

 でもアタシは笑った。めちゃくちゃな高笑いだった。

「相手が死人なら、罪悪感なんか関係なくていいじゃないのさ!」

 死んだ奴より怖いのは生きてる人間だ。

 女に生まれて得だったこと、それは幽霊とはいえ金持ちに魅入られたこと。

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