8‐Dance

「じゃあ、あとはよろしく」

「かしこまりました、お嬢様」

 スーツケース三つ、大きな鞄二つ、それから手持ちの細々としたもの。それら全てを運転手のカールにまかせ、車から降りた私は急いで家の門をくぐった。

 それくらい当然なのである。完全寮制の学校から四カ月ぶりに帰った私は、早く父と母に会いたかったのだ。

「ただいまぁ!」

「お帰り、マニー」

 玄関で両手を広げて出迎えてくれるのは父だ。ああ、本当に久しぶりだ。外交官である父は普段仕事大変忙しいが、私のワガママで今日と言う今日だけは空けておいてくれたのだ。父の後ろから母が顔を出す。

「まぁまぁ、十五歳になってまで抱っこはないでしょう?」

「いいさ、マニ―は軽いからな」

 そう言って父も母も、私も笑った。

「学校の方はどう? 先生方にご迷惑お掛けしていない? お友達は出来たの?」

 母の問いに、私はもちろん大きく頷いた。品行方正、成績優秀の四字熟語の二つとも私の所有物と胸を張れるくらい、私は優等生だった。

「寮が初めての子とか、始めは泣いてたわ。でもね、私が一年の寮長だから、もうそんなことはなくってよ」

 私は誇らしげに言った。この父と母の娘なのだ、優秀でないとは言わせない。

「旦那様も奥様も、お嬢様も、早く奥へ入られませ。十二月の風は寒うございますよ」

 腰の折れたばあやが、女中たちに紅茶の用意を急かしている。私は父と母の間、特等席を占領しながら居間の方へと歩いて行った。

 本当に家は変わっていない。寮も学校も嫌いとまでは言わないが、私はやはり落ち着いた家が好きだった。この南向きの大きな家が大好きだった。

 執事のパーガンが居間の扉を開ける。甘ったるい匂いが私の鼻をついた。

 見知らぬ女が居た。

 黒い総レース地の豪奢なドレス、まっ白な肌、金のロングヘア。私はこんな女、見たことが無い。どうして見知らぬ女が、私の家でまるで女王のようにくつろいでいるのだろう。

 私は硬直した。お客様なら挨拶しようと思ったのだが、どうやらそうでもない。彼女はどこからか持ってきた安楽椅子に座っていた。その上、彼女の長い金の髪は、我が家の女中によって梳かされている最中だった。

 女の方は、あら、と顔をあげてこちらを見たが、少し笑って居間の大きな掛け時計に目線を戻してしまう。私は少しも笑えない。入口で止まってしまった私を、不思議そうに父と母が見る。私は声を振り絞った。

「あの方は、どちら様?」

 私はよほど困惑した表情をしていたのだろう。父が私の肩を、少し乱暴に揺すった。

「マニ―、何言っているんだい? あの方は、ウルスラ様だろう?」

 ウルスラなんて女、私は知らない。

「そうよ、マニ―何をとぼけたことを言っているの?」

 母も娘の私が、何か悪いものにでも取り憑かれたのではないか、と言った顔をしている。言わせてもらうが、取り憑かれたのは父と母の方だと思った。

「知らない、私あんな人知らないわ!」

 叫んでから私は女、ウルスラの方へ乱暴に歩み寄った。彼女は優雅に首を捻って私の方を見る。彼女のドレスは、今時流行りもしない六角模様のレース地だ。花の一つもあしらっていない、面白みに欠けるドレスだ。変な女だ。

「あんた、誰よ!」

 私は彼女に怒鳴った。

「さて……、知らないわ」

 彼女はふふふ、と笑った。その度に甘ったるい匂いが漂ってくる。そして彼女は優雅が指先で私の顎を撫でた。

『美味しそうね』

 彼女は口だけで、声は出さずに、私にそう言った。確かに、私には彼女の口の動きが見えた。鳥肌が立つほど恐ろしかった。

 怖くて混乱して泣きそうになった私は、家で一番暖かい居間を飛び出した。そのまま自分の部屋、南東二階の部屋に走っていた。部屋の前では雇ってからまだ日の浅い運転手が女中に指示してもらいながら、私の大荷物を部屋の中に入れている最中だった。

「早く入れてちょうだい!」

 私は思わず荒げた。驚いたのは運転手と女中だ。先ほどまで上機嫌だった私が、金切り声をあげるほど怒って、しかも泣いているのだから。

 慌てた二人が投げ込む勢いで荷物を部屋に運び込むと、私は二人を追い出して部屋の中から鍵を掛けた。

「どうして私の家に、何であんな変な、知らない女がいるのよ!」

 私は綺麗にセットされたベッドの上に転がった。どうして、あんな得体のしれない女が自分の家に堂々として座っているのか、私には理解出来ない。変なのはあの女を許している父と母だ。変なのは私ではない。私は私にそう言い聞かせた。

 しかも『美味しそう』とは、人間の私に使われる言葉とは到底考えられない。私は、牛や豚ではない。食べられる謂れはない。

 部屋の外から父と母とが、扉を叩く。

「何が、そんなに気に入らないの? どうしたのマニ―」

「ウルスラ様はずっと前からいたじゃないか」

 父と母は交互に私を諭そうと口を開く。

 二人の言うとこによると、あのウルスラという女はずっと前、私が学校の寮に入る以前からこの家に居て、一緒に暮らしていたという。

「そんなはずない!」

 私は、部屋の外の両親二人にはもちろん、私自身にも言い聞かせるように大きな声で断定した。

 そんなはずはない。私はあの女の髪一筋たりとも知らない。しかも他人の家に居ながら、家の者に様付けで呼ばせるとはどういう神経をしているのだろうか。

 父と母とが諦めて一階に戻った足音がしたので、私はベッドから降りて学校の制服から普段着に着替えた。

 少し落ち着こう、考えなければ。私は私に言い聞かせた。

 窓の傍にある椅子に座る。広い庭がよく見える、お気に入りの定位置だ。

 そして大きく深呼吸だ。まるでテストが始まる直前のようだな、と私の頭はふざけた考えをする。だが今はテストなどより、はるかに重篤な事態のようだ。紙っぺら一枚より大変な事態だ。

 まず、あの女は誰だろうか。彼女の声をほとんど聞いていない。たった一言、「さて……、知らないわ」だけが、彼女と交わした唯一の言葉だ。声にも聞き覚えが無かった。

 そしてあの女は、口ぱくで私を見て『美味しそう』と言った。美味しそうだなんて、私は食べ物じゃない。では一体どんな意味か。私は思わず卑猥な意味であるのかと、赤面してしまった。

「違う違う違う!」

 頭を振って、思考を切り替える。

 落ち着け、私。彼女の名前はウルスラと言ったか。ウルスラ、と言えば聖女の名前だ。しかしあの女、悪女に見えはしても、聖女には見えてこない。教会のレリーフに彫りこんだって無理だ。だってあんな黒いドレス、しかも爪だって黒いし、口紅だって娼婦が使うべったりとした赤だ。趣味悪いことこの上ない。私なら絶対にしないファッションだ。

 もちろんあの女は娼婦には見えない。だって体をほとんど露出させていないから、あんなんじゃ引っかかる男も引っかからない。その点は聖女みたいなものだ。

「聖女の生まれ変わりが、わざとあんな恰好で家に来て、私が真の信仰を持っているか試しにきた、とか……? いや、それはないないない!」

 それはいくら何でも、突飛な考えすぎるだろう。私はまた頭を振った。

 それから夜になるまで、私は延々と考え続けた。だがこれと言っていい考えが浮かばない。途中で母が食事の用意が出来たことを伝えに来たが、私は大好きな母の言葉を全て無視した。

「マニ―! なんて聞きわけの悪い子なんでしょう!」

 母は怒って、そのまま一階に降りて行ってしまった。母に理解してもらえないのと、母が変なのとで、二重に悲しくなった私は泣いていた。

「お嬢様……」

 夜もだいぶ更けてきた頃、私のドアを叩く者がいた。誰だかは声で分かった。

「パーガン?」

「はい、それから女中のリリアでございます」

 声を潜めて二人はドアの向こうから、私に声をかける。私は訝しんだ。

「お嬢様、お話がございます。あのウルスラと言う女のことでお話がございます」

 パーガンのこの言葉に、私は急いでドアの鍵を開けた。そこには見慣れた執事のパーガンと、まだ若くして奉公に出されたリリアが立っていた。二人ともとても心配そうな顔をして私の顔を見た。

「お嬢様、大丈夫でございますか」

「お食事してらっしゃらないと聞きましたので、あたし、少しお料理をお持ちいたしました」

 確かにお腹はすいていた。リリアが今日の晩御飯に出たという料理の残りをいくつか、私に持って来てくれたのだ。私は泣きそうになった。

「二人とも入って。話を聞かせてちょうだい」

 二人を椅子に座らせ、私は食事をしながら彼らの話を聞いた。

「あの女は、一か月くらい前にふらりと現れたのです。旦那様が珍しく酔ってご帰宅のなされた際に、あの女を連れて来られたのです」

「もちろん、あたしたち女中は仰天いたしました。だって奥様がおられるのに、女性の方を連れてこられるなんて……」

 女中のリリアは、両手を胸の前で固く組んで怖々と話してくれた。

「旦那様はその時『ウルスラ様はずっと家にいたではないか』とおっしゃられました。奥様はもちろんびっくりなさいました。でも酔ってお友達でも連れてきてしまったのだろうとおっしゃられて、ウルスラに部屋をお貸ししたのです。でも奥様はとてもとても嫌な顔をされていました。だって、あんな恰好ですし、そもそも品性の欠片もないのですから」

 リリアは、ウルスラの食事の方法を教えてくれた。彼女はどんな料理でもミキサーでどろどろの流動食のようにさせて、飲み込むように食べるのだという。

「しかし、なのです。次の日にはその奥様までウルスラのことをお認めになってしまったのです!」

 パーガンは悔しいやら悲しいやら、そんな感情を混ぜた声を荒げた。それから年老いた執事は、白髪頭を抱えて俯いてしまった。それを見たリリアの方が、今度は口を開いた。

「それ以来、屋敷の者は次々にウルスラのことを〝ウルスラ様〟と呼ぶようになっていきました。あたしと仲の良かった女中のパメラもマーニャも……」

「気がおかしくなっていないのは、このリリアと私パーガンと、それからお抱え運転手のカール、そしてマニ―お嬢様だけでございます……!」

 思わず声を荒げたパーガンに、私は静かにするよう指で諭した。そして私は腕組みをして首を傾げた。

「おかしくなったのは、具体的にいつ頃? 一か月前って言ってもね」

「確か……木枯らしが吹いたくらいでした。とても寒い日で……」

 思い出すように首を傾げたリリアは答えた。私はふうとため息を吐いた。それだけではどうにも判断しにくい。

「お嬢様、どういたしましょう。もう、この家はあのウルスラに乗っ取られたも同然なのでございます」

 パーガンとリリアの、助けを求めるような視線が私に突き刺さった。助けてほしいのは私の方よ、と言いたい。しかし負けず嫌いの私の性格が、それをよしとしなかった。

「いいわ。明日、カールに話を聞きましょう。だって運転手ですもの、お父様があの女を連れ帰った日も運転していたはず。あれがどこの誰か、知っているかもしれないわ」

 二人は大きく頷く。

 幸い明日は土曜日だ。仕事のないカールは詰めているだけで暇をしているはずだ。こっそり話を聞くくらい何でもない。

「それから、あの、お嬢様……」

「まだ何かあるの?」

 すっかり食べ終えた私は、軽い眠気に襲われていた。何しろ何時間も車に揺られて帰って来て、何も食べずに考え事だ。その上、今は私の味方が増えたのだ。安心すれば眠気だって襲ってくる。

「その……ウルスラは時たま、夜半に屋敷中の人間を集めて、何やら怪しいことをしているのでございます」

「怪しいことって?」

「それが……ある一人だけを指名して、服の袖を振りながらくるくると回らせ、周囲の人はそれを見物させるのです。大体数十秒で終わるのですが、最初にそれを見た時はこのパーガン、恐ろしいやら気味が悪いやらで……」

 パーガンは身振り手振りでその光景を私に説明する。私の頭の中では女中の一人がスカートの裾を振りながらその場で回転する、まるでフラメンコのような光景が浮かんだ。ダンスか何か、やっているつもりなのだろうか。

「あたしも見たことがあります。なんか、変なダンスみたいでした」

 リリアも同じように頷いた。

「そのダンス集会の後は?」

「分かりません……怖くなって自室に戻ってしまいましたから……」

「パーガンは?」

「申し訳ありません、同じくでございます」

 また私はふうとため息を吐いた。何をやっているのかが分からなければ、意味がないではないか。回答には思考過程は必要事項だ。だがまあ仕方があるまい。私だってそんな薄気味悪い光景を見てしまったら、逃げ出すに決まっている。口に出さないだけだ。

「まぁいいわ。その件は後回しにしましょう。とにかくあの女の正体を掴むの。パーガン、明日私と来てくれますね?」

「もちろんでございます」

 私はこの執事を本当に心強く思った。

「それからリリア、少し早く起きます。あの女にも、お父様にもお母様にも会いたくないの。食事の用意をしてもらえるかしら?」

「はい。かしこまりました」

 二人は、貴族か何かに礼でも取るように私にお辞儀をした。反乱分子はいても、今までリーダーがいなかったようなものだろうか。

私は二人を自室に返し、夜一時を過ぎたあたりで眠った。

 次の日、私は早めの朝食を一人ですませると、パーガンと連れだってカールの詰めている駐車場の脇、物置小屋のようなところへ出向いた。

「お嬢様ぁ! どうしてこんなところに?」

 驚いたのはカールだ。大きく咳込んでいる。こんなところに屋敷の一人娘が、大した車好きでもないのに、出向くことはない。

「少しお話を聞かせてほしいの。あのウルスラのことで」

 私が少し声を低くして言うと、普段は陽気なカールも、流石に事態を察知して表情を暗くした。彼は訛りのひどい言葉で、しかし私の聞きたいことは答えてくれた。

「あの女ですかぃ……。あたしゃね確かにあの日、酔われた旦那様ぁをお送りいたしました。でもですね、あの女は送っていないんですよ。車の扉を開いて、旦那様が降りて、あたしゃが後部座席のお荷物を玄関にお届けしたときにゃ、あんの女がいたんでさぁ」

 私は首を傾げた。

 何か、おかしくはないだろうか。

「つまり、カール。あなたは、あのウルスラは我が家の敷地内で突然現れた、と言うの?」

「そうですぁ。あたしゃが一瞬目ぇを離した隙に、あの女が旦那様の横に立ってたんでさぁ」

 おったまげた、と付け加えてカールは口を閉ざした。そしてまた咳をした。実際、彼もウルスラのことはよく分からないらしい。私も首を傾げっぱなしだ。

「まぁいいわ。ありがとう」

「いいか、カール。このこと、他の誰に話してみろ。このパーガンがお前をクビにしてくれる!」

 私思いの執事は慣れもしないのにカールを脅して見せた。それほど利かないと見える彼も脅しも、不景気な情勢が手伝ってかわいそうな運転手を脅かす。彼はまだ我が家に雇われてから数カ月と経っていない。

「そんな品のないこと、やめなさいパーガン!」

 私は苦笑しながら執事を黙らせた。

「でもほんと、誰にも話さないで。お願いね」

「はい、かしこまりましたぁ」

 カールは私の言葉には素直に礼をした。

「それから、風邪お大事にね」

 私は彼にそう言って、物置を出た。彼と話せたことは、そこそこの収穫だ。しかしウルスラの正体を暴くにはまだ判断材料が足りない。私は屋敷へ戻ろうと踵を返した。

 と、そこへ一人の男が門の外から私たちを呼び止めた。塗装工のようだ。

「おお、来ましたか。お嬢様、少々お待ちください」

 パーガンは私をその場に残し、その男の元へ行く。男を屋敷の中に入れ、女中に後を引き継いだ。そして急いで戻ってくる。

「どちら様ですか?」

「養蜂の巣箱がボロボロになっておりましてな。旦那様が昨日、巣箱を直すよう人を呼んだのでございます」

 私は巣箱の中身が気になった。養蜂は父の趣味なので、小さい頃から一年だって蜂がいない時はなかった。だからこの時期だって巣箱の中では蜂たちが寄りあっているのを知っている。どうやって直すというのだろう。寒空の下に追い出してしまうのは可哀そうだ。

「実は先日、蜂たちが突然失踪しまして、今巣箱の中身は空っぽなのでございます」

「空っぽ? なぜ?」

 私は非常に驚いた。こんなことは生まれて初めてだ。

「それが、理由は分からんのでございます。分封の時期でもありませんし、第一、一晩で蜂が全ていなくなるなど、前代未聞でございました」

 さぞや父は落胆したことだろう。私の脳裏にはその光景が浮かんだ。

「CCD、蜂群崩壊症候群と言うらしいのです。最近各地でミツバチばかりが一晩でいなくなるような、そんなことが起こっているのだとか……専門家の間でも原因が分からないそうでして」

 原因不明ではどうしようもない。それよりも私はあの頃の父に、美味しい蜂蜜を私に取らせてくれた父に、早く戻ってほしかった。

「さあ、屋敷に戻りましょう。あの女の行動をよく見なければ! 何か分かるかもしれないわ」

 私は元気よく言って、屋敷の方へ歩き出す。それから私はウルスラの行動を見張っていた。

 彼女は日がな一日、何をするでもなく暇を持て余していた。いや、より正確に表現するならば、私には彼女が暇を持て余しているようにしか見えなかった。

 なぜなら彼女は、居間の南に開けた一番大きな窓辺に安楽椅子を置かせ、そこにふんぞり返って座っている以外何もしないのだ。しかも彼女の目線は大きな掛け時計に固定されたまま。そのままの体勢で髪を梳かれても、爪を磨かれても、女中が部屋の掃除をしに来ても、父と母が何か話しかけても、彼女は反応しなかった。

 反応したのは、リリアが横を通って花瓶の花を取り換えた時と、食事に呼ばれた時だけだった。そして聞きしに勝る、おぞましい食事風景も、私はこっそりと陰から見ていた。その日の昼食は、父の友人がイタリアから買ってきたという珍しい乾麺のパスタを調理させたものだった。

 しかし彼女は出されるや否や給仕女中の一人を掴まえて、ミキサーにかけろと命令する。女中はにこやかに笑って、きれいに皿に盛り付けられたパスタをグチャグチャのペーストにしてしまった。彼女はそれを皿に戻させ、汚らしい音を立てながらスプーンですくって食べていた。

 私は思わず吐き気をもよおしたくらいだ。あれは、あんな食べ方は、人間のすることじゃない。しかし父も母も、誰も気に留めていないようだった。唯一その場にいたパーガンだけが、とても嫌な顔をしていた。

 そして夜、私は決定的な現場に出くわした。

 ダンス集会が開かれたのである。

 最初は何事か分からなかった。居間にいたウルスラが突然立ち上がり、うろうろと歩き始めた。甘い匂いが部屋に充満し、部屋だけでなく廊下からこっそり見ていた私の方にまで流れて来た。

 すると匂いに惹かれたように、父母を始めとする屋敷中の人間が居間に集まり始めたのだ。集まらなかったのは私とパーガンとリリアだけ。

 集まった皆は、全員夜着に着替えてしまっている。目は虚ろだった。私は幽霊の集会を目撃しているようで、背筋が凍った、だが不思議とその光景から目が離せなかった。

 その背を誰かが叩く。口から心臓と絶叫が飛び出しそうになった。私が口を押さえて振り向くと、カーディガンを羽織ったリリアがそこには立っていた。

「びっくりさせないでよ……」

「申し訳ございません。でも相部屋のパメラが出て行ってしまったので、もしかしてと思いまして……」

 二人で居間を覗き込むと、その中に確かにパメラがいた。

「これが、あの集会?」

「はい。あたし、見るのは二回目です」

 二人なら怖くない。私もリリアも口には出さなかったが、たぶん同じことを思っていたに違いない。無意識にお互いの冷えた手を握り締めていた。

 部屋の中で、ウルスラが中心に立つ。彼女を中心に、乱雑に家の者が集まってくる。その中に父も母もいた。しかし周囲の者は、普段なら雇い主である父にも母にもそれ相応の態度を示すはずだが、二人を押し退けてまでウルスラの方へ歩いて行く。そしてその両親と言えば、押し退けられても、全く怒らなかった。

 中心にいたウルスラが、今日初めてではないだろうかという声を上げた。

「今宵は、誰が見つけてきたの?」

 甘美な声だ。オペラ女優がわざと鼻に掛けた声を出しているようだった。

 彼女の問いに、コックが手を上げた。それを見た彼女は妖艶な唇を歪ませて笑った。そしてもう一度、質問する。

「それは何時のこと?」

「今日の正午直前のことです」

 コックは無表情にそれだけを淡々と答えた。彼女は嬉しそうに頷いてみせた。

「では、示して見せて」

 優雅な腕が彼女の周りにまとわりつく人間たちを退かす。そして隙間を作ると、そこに太っちょのコックを誘導した。

 コックは自分の夜着の上を持ってひらひらと振り始める。そして大きな掛け時計の位置を見て、そこから約三十度左側に向かって数歩歩いた。しかしあるところまで行くと急に方向転換をして弧を描き、元いた位置に戻ってくる。そして今度もまだ同じ方向に数歩歩いて、反対に弧を描いて元に戻ってきた。歩く速さは一定。

「これが、回るって言うこと?」

 フラメンコのようなものだと思っていた私は、いささか拍子抜けした。だがリリアは真剣な表情で頷いた。

「はい。ただこれだけなのです」

 確かにコックは数十秒間それを繰り返した。その様子を、周囲の者もウルスラ本人も眺めているだけだった。

 太っちょコックが踊る姿は滑稽だ。しかし何人もの人間がいるのに、衣擦れしかしない部屋と言うのは気味が悪い。

 しばらくするとウルスラが白魚のような繊手を挙げて、コックの動きを止める。

「よろしい。皆も見たわね。どこに餌があるか、覚えたわね」

 彼女の不可解な問いに、周囲の全員が無言で頷いた。

「では行ってらっしゃい。なるべく美味しいのがいいわ」

 彼女は全員に向かってそう言った。言われた屋敷の者たちは、無表情で部屋を出て行こうとする。部屋を覗き見ていた私とリリアは、慌てて近くの階段裏に隠れた。

 全員が部屋から出終わると、ウルスラはまた安楽椅子に腰かけて、大きな掛け時計を見た。そしてそのまま目を閉じてしまった。

「どうしましょう、お嬢様」

「あの人たちの後を追いましょ」

 私はリリアの手を痛いほど握り締しめて歩き出した。彼らの動きは鈍いから、すぐに追いつく。無表情な人の群れは南西向き一階にあるパーガンの部屋に吸い込まれていった。

 私たち二人は戦々恐々としながら、部屋の外でその光景を見ていた。物音一つしなかった。

 どれだけ経っただろう。部屋から人が出てきた。待つ時間とは長く感じるものだから、意外に早かったのかもしれないが、私とリリアには待つ間が永遠にも思えた。

 部屋へ入った人がどんどん出てくる。その中にパーガンの姿があった。彼もまた虚ろな表情をしている。彼らは再度居間に戻り、待ち構えていたウルスラが手を振って解散を告げると、各自の部屋に戻っていった。

 私とリリアは、パーガンもまたウルスラの虜になってしまったのだと落胆した。案の定、次の日から優秀な執事だったパーガンは、ウルスラの食事風景に嫌な顔一つせず、にこにこと笑っていたのだ。

 私はどうしていいのやら、悲しくなってしまった。今やリリアとカールだけが私の味方だった。

 しかし神様は私のことがお嫌いなのかもしれない。私は次の日の夜半に甘ったるい匂いで目が覚めた。ウルスラが動いたことを直感した私は、急いで上着を引っ掛けて居間の方へ降りて行った。

 やはり昨夜と同じことが起こっていた。彼女が舞台女優よろしく中心に立っている。

「二晩立て続けとは……。しかし昨日のはイマイチでした。もっとマシなのがいいわ。今宵は誰が見つけてきたの?」

 今度はリリアと相部屋のパメラが手を上げた。

「それは何時ごろのこと?」

「日が昇る頃でした」

「では、示して見せて」

 昨晩と同じことが繰り返されている。

 パメラは自分の夜着の裾を振り始める。そして大きな掛け時計の位置を確認して、時計のま逆の方向に向かって歩き出す。右側に弧を描き、元の位置に戻ると歩いて今度は左側に弧を描く。昨日よりも歩く速度が遅かった。

 しばらくすると、やはりウルスラがダンスを止めさせて、見ていた人々に命令を下す。

「さあ行ってらっしゃい。美味しいのを頼むわ」

 彼らは昨晩と同じように部屋を出て、今度は西の一番遠くに位置する女中たちの部屋の並びへ歩いて行く。そして私も知っている、パメラとリリアの相部屋に、人間が吸い込まれていくところを私は見た。

 本当に泣きそうだった。いや泣いていたのかもしれない。リリアが虚ろな表情で部屋から出てきたときは、彼女に駆け寄ろうかとしたくらいだ。

 次の朝、リリアが私のために早めの朝食を作ってくれるはずもなかった。

 私は自室に引きこもった。東と南に大きく開けた窓から、十二月のいささか控えめな日の光が部屋に差し込んでくる。しかし少しも暖かくなった気がしなかった。

 ぼーっとしていたら、朝食も取っていないのに、正午になってしまっていた。そして私の部屋のドアを叩く音がした。

「マニー、マニー!」

 母がドアの向こうから私を呼んでいる。

「開けるんだマニー!」

 父も一緒らしい。

「もう、どうにでもなれ……!」

 私は思い切って、ドアを開けた。やはりそこには優しそうな父と母がいた。とても心配そうな顔をしていた。

「ねえ、どうしちゃったの? みんなおかしいわよ!」

 私は母に泣きながら抱きついた。しかし母は私を引き離す。

「ごめんなさいマニ―。どうしてここに来たのか、忘れてしまったわ」

 母の表情は変わらず穏やかだった。

「そうだな、私もどうしてマニ―に会わなければならなかったのか、忘れてしまった」

 父の表情も変わらず穏やかだった。

 しかし二人は娘の私を置いて、一階に下りて行ってしまった。

 私は泣いた。悲しくて、悔しくて、怖くて泣いた。普段の勝気な私が、魔法で変えられてしまったかのように泣いた。

「もういい、この家を出てやる……!」

 私は一番コンパクトで使いやすい旅行鞄を選んで、その中に服やその他諸々の道具を詰め込んだ。家出だ。とりあえず、どこでもいいから安全な所へ逃げ出そう。私だけでも助かろう。

 そう考えていた時だ。あの甘ったるい匂いが漂ってきた。私はこの甘い匂いがしてきた後に何が起こるのか、学習している。私は荷物を持ったまま、居間の方へ行った。

 昼間だと言うのに、やはりあのウルスラが人々を集めていた。

「さて、今日は誰が見つけてきたの?」

 彼女がお決まりの文句を言うと、今度は私の父と母が二人して手を上げた。

「それは何時頃のこと?」

「つい先ほど」

「正午です」

 私の両親は答えた。

「では示して見せて」

 両親は別々の場所で、しかし父は上着の裾、母はスカートの裾を同じように振りながら、居間の大きな掛け時計の位置を見た。そして二人は時計に向かって左四十五度の方に歩き出した。そして数歩歩くと弧を描いて戻ってくる、あの忌々しい動きを始めた。

 二人の動きはぴったりと合っていた。本当に、まるでダンスのようだった。動きの同調をウルスラも気に入ったのか、いつもは無表情な彼女も笑っていた。

「流石、外交官とその妻。基が違うわ。洗練された、美しい動きね」

 ウルスラはよっぽど夫妻のダンスが気に入ったのか、しばらく見入っていた。繊細な指先で、とんとんとリズムまで取っていた。

 だが単調な動きに飽いて、遂には手を挙げて中断させる。そして彼女は言った。

「さあ、いってらっしゃい。そして美味しいのを……ね」

 私は荷物を持ったまま階段裏に隠れて、無表情な人の群れが居間から出ていく足音だけを聞いていた。

 彼らの足音がどこへ向かっているのか。そんなの、分かっている。

 私の部屋だ。

 私は逃げればいいものを、なぜか確証が欲しくて彼らの後をつけていった。

 そして彼らが私のいない空っぽの部屋に入っていくのを見届けた。私はエサだったのだ。

「もういい、最悪だ」

 私は、独り言を言ってこの場から立ち去ろうとしていた。しかし甘い匂いが、階段の下の方から漂ってくる。私は硬直した。

 階段を昇ってきたのは言うまでもなく彼女、ウルスラだ。

 だが、彼女の昇ってきた階段と私の部屋との間、廊下には障害物が一つもない。丸見えの私はウルスラの瞳に捉えられた。

 彼女は舌舐めずりをして、真っ赤な唇を笑わせた。それからあの独特な口調、恐らくは手下どもに命令する口調で、声を上げた。

「いるわよ、ここにいるわ。みんな、ご飯の時間よ」

 私は彼女の意地悪い表情に釘付けになった。彼女の声に呼応して、私の部屋から無表情な人の群れが出てくる、出てくる、出てくる。

 しかし私はウルスラから目を離せなかった。

「なんで、なんでこんなことをするの?」

 私は涙声になりながら、彼女に訴えかけた。彼女は笑いながら答える。

「寒かったからよ」

 私は走り出した。

 階段の手すりに手をかけたままのウルスラの横をかすめ、三段飛ばしで一気に階段を駆け下りる。後ろからあの無表情な人間の、いやあれはもうただの人間なんかじゃない、ウルスラの奴隷たちが追いかけてくる。足音が怖い。

「追いなさい! 逃がしては駄目よ!」

 あまり俊敏な動きが出来ないのか、ウルスラ自身はほとんど動かず、奴隷たちに命令を下すだけだ。彼女の言葉が届かないくらい遠くまで走っても、彼女の奴隷たちは追いかけてきた。

 私は走っている最中、私以外にまだ正気を保っている人物を思い出した。

「そうだ、カール!」

 私は方向転換をして、彼の詰めている物置小屋まで走って行った。

「カール! 助けて、あの女に、ウルスラに殺されちゃう!」

 私が血相を変えて、しかも言うことが言うことなもので、びっくりしたカールは最初は口も利けなかった。だが次の瞬間既に事を理解した優秀な運転手は、私の荷物を持って我が家の車の方へ私を誘導してくれた。

 間一髪で私は後部座席に乗り込み、カールも私の荷物を放りこんで運転席に乗り込む。ウルスラの奴隷たちが何人も車のガラス窓を叩いた。その中には父も母も、パーガンもリリアもいたのかもしれない。しかし私は何も見たくなくて、何も聞きたくなくって、目と耳を塞いでいた。

 車の動きで、カールが急発車させたのだと分かった。家の門を出て左へ、そしてしばらく行って右へ。私はカーブの回数で大通りへ出たのが分かった。私はようやく顔を上げた。

「何で……どうしてあんなことに、なっちゃったのよ……!」

 私は叫び声を上げた。

「お嬢様ぁは、なんでか、誰だか、分らんかったので?」

「え……?」

 カールが耳を疑うようなことを言った。

 そしてあの甘ったるい、今思えばそれは蜂蜜だったのだが、匂いが少ししていた。

「カール、あなた……」

「あたしゃが、いつ嘘をつかないとお約束しましたぁ?」

 私は咄嗟に車のドアを開けようとした。しかしロックされている。どうしても開かない。

「あなたも、あの女の奴隷だったのね!」

 私は、恐怖で気が狂いそうだった。

「いえ、あたしゃは、働き蜂じゃあないです。あたしゃ、ウルスラに〝ポイ〟されたクチですよ。もうそろそろ寿命が来るんでねえ……」

 カールはそう言って、また咳をした。

「私をどうしよって言うの? あの女みたいに、私を餌にするつもりなの?」

 カールは咳込んだまま、ハンドルを握り直した。

「お嬢様ぁ、どこに行きたいですかぁ? このカール、体を心配してくれたお嬢様ぁのためなら、どこまででも行きますぁ」

 私は分からなかった。この男は、ウルスラの仲間なのか、それとも私の敵ではないのか、判断出来なかった。

 だから私はこう答えた。

「行けるところまで、行ってちょうだい」

 カールは返事をして、さらにアクセルを踏んだ。

 こうして私は、逃げだした。

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