ゾッと嫌な感じがして身を引いたが間に合わない。俺は真正面から顔に、何か得体のしれない感覚を浴びた。
「うわっ!」
埃っぽい城の保管庫の片隅で、普段なら出さないような軽薄な叫び声を思わず上げてしまう。持っていた箱は取り落しこそしなかったが、滑り落ちそうになった蓋を抑えるので精一杯。隙間から見えた中には白っぽい骨が見えた。
「リンク、どうしました?」
「こちらへ来てはなりません! 何か、変なものが……」
ここは城の中でも特に古い物を保管しておく保管庫。姫様と二人で、亡き王妃様が残した記録を探しに来ていた。普段人の立ち入らない部屋なので、虫の一匹や二匹飛び出してきても可笑しくない。
だが俺の浴びたモノは、恐らくそんな生易しいものではなかった。
背筋がぞくぞくとして、全身鳥肌が立つ。まるで毛の生えた蛇がまとわりつくような感覚が、服の内側をするすると這いまわる。
俺ですら目にもとまらぬ速度でそいつは箱から飛び出して、いつの間にか背筋の側に回っていた。慌てて服の中へ手を突っ込もうにも、重ねの多い近衛兵の服ではどうにもならない。
そのうちにそいつは動きを止め、しばらくすると感覚がなくなった。
「なん、だ?」
ともかく服を脱がなければならないが、姫様の手前脱ぐわけにもいかない。どこか別の部屋にと言いかけて顔を上げると、姫様の目が点になっていた。
「リンク……」
細い指が差すのは俺の頭だ。慌てたせいで制帽が脱げてしまった、その頭。
ものすごく嫌な予感がして頭に触れてみると、髪の毛の間から毛に覆われた三角の物が生えていた。
「耳が生えていますよ……?!」
「え、耳?」
恐る恐る両手で頭をまさぐると、確かに動物の耳らしきものが頭のてっぺんに生えていた。自分の耳はもちろんついている。それとは別で、頭に生えていたのは完全に違う生き物の耳だった。
厚みは無く、短い毛がびっしりと生えている。耳の付け根の毛だけ異様に柔らかく、正直言って気持ちいい手触りだ。意識すれば手足と同じ感覚でその耳も動かすこともできた。
「なんだ、これ? なんで耳?」
「ハイリア犬の耳でもありませんし、ヘイゲンギツネの耳に形は似ていますが厚みが全然違いますね」
おもむろに俺の頭に手を伸ばそうとする姫様に、びっくりして距離を置く。心なしか髪の毛、背筋がぶわっと膨らむ感覚があり、一瞬にして自分が小動物にでもなった気分だ。だが姫様の方は心外そうに眉をひそめる。
「触らせてくれてもいいではありませんか!」
「なりません! 得体のしれない耳ですよ?!」
「触らなければ正体が分かりません。正体が分からなければ、解決のしようがありませんよ?」
矢継ぎ早に言われてしまうと、むぐっと口を噤むしかなかった。確かに自分では触ることはできても鏡が無いので実際に見ることも出来ず、一体何の耳がどうやって生えているのかも分からない。
かといって、姫様の冷たい指が耳に触れると思わずぶるっと全身が震えた。「耳を触られるのは嫌だ」という動物的な衝動と、「姫様が触りたいとおっしゃられているのだから」という人間的な理性が音を立てて衝突する。
辛うじて逃げ出す体をその場に留めたが、頭の上の耳にはぎゅっと力が入ってぺったりと伏せたのが自分でも分かった。
「温かみのある、本当に動物の耳ですね。でも一体何をして耳が生えたのですか?」
「この箱を開いたら、中から何かが出てきました」
俺が触っていたのは部屋の一番奥に隠すように置いてあった古めかしい木箱だった。中に入っていたのはちょうど一匹分の動物の骨、いわゆる骨格標本というものだろう。
まっすぐな木目の箱はとても作りが良く、留め金も随分古いものだが朽ちた様子が無い。きっと貴重な生き物の記録を残しておこうと、昔の誰かが丁重に扱ってくれたのだろう。
しかしながら、その骨格標本は頭の骨が落ちていた。
「箱を開いた時からすでに頭は落ちていましたか?」
「いえ、実は箱を持ち上げた際に、中でゴトンと音がしまして……」
小さな頭の骨だった。異様に眼窩が大きく、小さいながらも鋭い牙を持っていることから肉食動物であることが分かる。小柄だが、きっと優秀なハンター気質な動物だったに違いない。
その箱から出てきた何かが俺の服に入ってきて、頭には耳が生えた……と、言うことは?
「もしかしてこの動物に憑りつかれてしまった……とか?」
「そんなまさか……」
幼い頃から不思議なものはたくさん見てきた。人の目には映らないコログとも話が出来たし、空を飛び回る龍の姿を見ることもあった。
墓地では幽鬼に包まれた人影を見ることもある。一度、ハイラル大聖堂の墓地を歩き回る人影を眺めていたら、姫様に問われたことがあった。曰く、「寂しそうに見ていたから」らしい。
だが動物の霊なんて初めてだ。それにこの骨は相当に古いものだと思う。それでも先ほどのふんわりとした毛皮の感触を思い出し、何となく姫様の言が正解な気がしていた。
それにとても嫌な予感が、実は腰のあたりを擦っていた。
「あの、姫様」
「なんでしょう」
「申し訳ありません。尻尾も生えている気がします」
「非常事態ですね……。その箱を持って、一度私の部屋に戻りましょう。耳は帽子で隠して!」
振り落とした制帽で耳を隠し、俺と姫様は埃っぽい資料室から飛び出した。姫様の私室に戻る途中で図書室に寄り、古代の動物の図鑑を引っ手繰るようにして借りる。二人で小走りになりながら部屋に戻って扉を閉めるや否や、サーコートの隙間から我慢の限界を超えたひょいと尻尾が飛び出した。
「危なかった……」
「本当に尻尾まで生えちゃったんですね」
白地に黒と明るい茶色の縞模様の毛に覆われた尻尾だった。ぶんぶんと左右に不機嫌そうに振り回し、ところが姫様のたおやかな手が伸びてくると機嫌よくぴんと天を向いてしまう。
耳もそうだが、こと尻尾に関しては、俺の気持ちに過敏なほど反応してしまう。まさか姫様に触れられて嬉しく思っているなんて。決してバレてはならないとぐっと奥歯を噛んで堪えたが、だらしなく耳と耳との間隔が緩み、尻尾は機嫌よく姫様の手に絡みつく。
俺のやっていることじゃない。尻尾と耳が勝手にやっていることだ。俺じゃない。
「あの、早く調べませんか」
「そうでした! 撫でている場合ではありませんね」
しばらく尻尾の毛並みを無言で堪能していた姫様だったが、分厚い図鑑を広げて一心にページをめくり始めた。俺も箱に収められていた骨格と見比べて、本来の姿を求めて目を皿にする。
何ページも開いていった先に、その動物は描かれていた。骨からは想像しがたいようなまろい曲線で、ふんわりとした印象の目が大きい動物だった。
「これです! これは猫という動物の骨ですね。大昔に絶滅してしまった哺乳類で、ネズミや鳥などの小型の動物を捕えるので、益獣として飼われていたそうです。非常に優れた平衡感覚、また柔軟性と瞬発力の高い生き物で、爪が出し入れできる、と。平衡感覚を司るヒゲがあるそうですが……」
「髭は生えていませんが、確かに耳の形は同じです」
「猫には、白に黒斑や明るい茶色、濃い茶色、黒など、様々な毛並みがいたらしいです。リンクの耳と尻尾から察するに、三毛猫のようですね」
ハイどうぞと忘れたころに渡された手鏡で、俺はようやく自分の頭の上に生えた耳と対面した。
見慣れた俺の硬い髪の隙間から、三角形の猫の耳が生えていた。耳の内側には長い毛が生えていて、耳のてっぺんにもツンと立った毛がセンサーのようになっている。何度見直しても、図鑑にある猫の耳と寸分たがわぬものだった。
「本気でリンクは猫に憑りつかれてしまった、ということでしょうか」
「霊を見るのは初めてではありませんが、憑りつかれるなど初めてです。どうにかして剝がしてきますので、今日はもう下がってもよろしいでしょうか。事によっては明日もお暇を頂戴したいのですが」
どうすべきか、見当がつかないわけではない。とりあえずハイラル大聖堂に行って、内密にお祓いで儲けてみようと思う。もしくはそのあたりのコログを捕まえて、霊的なものの処理方法を問う。それでもだめなら、退魔の剣を抜いた森へ行ってデクの樹さまにお伺いを立ててみる。
さらにさらに、それでも駄目ならば、最終的には魔を払うという退魔の剣でそぎ切りにすればいい。
「そうですね。封印の力さえあれば貴方に憑りついた霊を払えたかもしれなませんが、今の私では何も力になれません」
「これは俺の失態です」
ですから、気に病まれませぬよう。
と言いたかったが心苦しくて、とてもじゃないが言えなかった。ただ王妃様の何か手がかりが無いか探しに行っただけなのに、どうして俺は姫様が表情を曇らせるようなことをしてしまったのだろう。不甲斐なくて唇を噛む。
「大丈夫ですよ、リンク。では今日は下がってください、お大事に」
「申し訳ございません」
ふいと姫様が背を向けた。
その瞬間、ひらりとドレスの袖が宙を舞う。
「にゃ」
「え」
俺の左手が、無意識のうちに姫様のドレスの袖にじゃれついた。
ちょいちょいちょいちょいと手首のスナップをほどよく利かせて、軽くグーに握った手が袖で遊ぶ。
「リンク?」
重ね重ね弁解をさせてもらいたい。
これは俺の意思じゃない。
憑りついた猫の本能が俺にそうさせているというだけだ。俺自身は全くこれぽっちも姫様の袖にじゃれつきたいなどという気持ちはない。断じて無い。
「……申し訳ありません!」
「本能的なものなんでしょうね。猫は小型ながらも狩りが上手だったようですし」
などといいながら、姫様は自分のドレスの裾を左右に振って、楽しそうに猫の本能を刺激し始める。
瞳孔がぐわっと広がる感覚があり、思わず前のめりになりながら左右に振れる袖を追って顔が動いてしまう。これではまるで得物を狙っている動物そのものだ。
だが自分がやりたくてやっているわけではないので、どうにも止めようがない。うずうずして思わず姿勢を低くしてしまう。
「俺で遊ばないでください姫様……」
「あ、ごめんなさい。可愛くってつい」
ようやく猫の狩猟本能を刺激する袖がなくなり、ほっと息を吐く。俺の中の猫もまた、ふぅと息を吐き出した。落ち着け、今は狩りじゃない。そうだ、お前が落ち着けば俺は人の振りがちゃんとできる。
と思ったのもつかの間、今度は自分を落ち着かせるために猫は毛づくろいを始める。また左手を軽くグーに握って耳の後ろからコシコシと、これはおそらく顔を洗う動作。ハイリア犬が前足で顔を掻く動作にも似ていたが、それよりもずっと滑らかだった。
「リンク、リンク」
「あっ……え、俺は、その、えっと……」
「もう完全に猫になってますよ」
挙動不審。
それ以外に、今の自分のことを表せる言葉が思い浮かばない。顔を洗う仕草を無理やりにでも止めて、ぎこちなく膝の上に戻そうとする。しかし俺の中の猫はざわつく俺の心を読み取って、「落ち着くには毛づくろいが一番にゃ」とぺろりと舌を出そうとする。
むぐむぐと葛藤しているうちに、真剣な姫様の顔が目の前まで迫っていた。ひゅっと息を飲む。
「分かりました! 猫の霊がいなくなるまで、この部屋で貴方を守ります」
「えっ」
「だってそんなに妙な動きをずっとしていたのでは、いろんな人達から怪しまれますよ?」
こんな姿、どこの誰に見られでもしたら大事件になる。ただでさえ、やっかまれているので、バレたらあげつらって笑われるのは目に見えていた。
しかしここは仮にも姫様の私室だ。
「しかし、ここは姫様のお部屋です!」
「大丈夫です。貴方には物足りないかもしれませんが、夜食をお願いすれば実質二人分ぐらいの食事にはなります。広い部屋ですから寝る場所もちゃんとあります。それにリンクなら、息をひそめて侍女をやり過ごすぐらいはできるでしょう?」
胸の前で両手をぎゅっと合わせてお願いするみたいに、そんな真摯な顔を近づけないでいただきたい。余計に落ち着かなくなって、尻尾がぱたんぱたんと大きく文句を言っていた。
「はい……かしこまりました。何とかなるまでご厄介になります……?」
「貴方のせいではありません、猫のせいです! でもそうと決まれば、まずはねど……じゃなくて寝る場所からですね」
ねど、……寝床。寝床って、絶対にいま言った。
ペタっと耳を後ろに寝かせて困り顔をする今の俺は、結局姫様から見たら動物みたいなものなんだろう。ひそかに拳を握りしめたのもちゃんと見えたし。
姫様は、カエルはもちろん、ハイリア犬も馬も、小鳥の類も何でもお好きなので、得体のしれない猫という生き物が増えても一向に構わないのだと思う。それどころか誰にも内緒で部屋に俺を匿うのは、おそらく親に内緒で動物を部屋で飼おうとする子供みたいなものなのだ。
ちなみに俺は七歳の頃に、部屋で親には内緒でコッコを飼おうとして大失敗したことがある。毎日自分だけのタマゴを食べようと思っていたのだが、朝になると大声で鳴くのでたったの一日でバレて怒られた。
「ソファーで大丈夫です。何ならベッドの下でも、バルコニーでも俺は寝られます」
「お外は駄目ですよ。扱いに不服を申して例が貴方を酷い目に合わせたら大変です。侍女に毛布を言いつけておきます。あと除霊に関する本を図書館で探してきますから、リンクは部屋から出ちゃだめですよ!」
「申し訳ありません……」
なんだか今日は「申し訳ありません」ばかりを繰り返している気がする。でもそれ以外に言葉が無い。姫様の手伝いをしているつもりで、得体のしれない動物霊に憑りつかれて本当に情けなかった。
「何やってんだろ俺……」
猫、早く出て行ってくれないかなぁ、と思ったものの足取りは勝手に姫様のベッドの方へ。
待て待て待て。
そこは姫様の寝る場所だから。動物のお前が寝ていいのは床! せめてソファーにしろ!
内心、がんばって猫を諭したつもりだ。だがここまでの経験則から言ってもまるで猫は話を聞かない。勝手に俺の体を操ってコロリと姫様のベッドに丸くなる。
「にゃあ」
にゃあ、じゃない!
でも気持ちいい。ふわふわのお布団に傾き始めたお日様が差し込んで、余計にうとうとと眠気を誘う。睡眠剤を飲んだみたいに瞼がとろんと落ちて来る。駄目だ、寝ちゃだめだ。でもめちゃくちゃ眠い。
ふかふかのいい匂いのお布団も手伝って、俺は猫と睡魔に負けていく。
よくよく考えればこのベッドでは毎日姫様が寝ているのだから、このいい匂いはたぶん姫様の匂いでもある。やばい。その考えは非常に危険だ。模範足れとかそういう問題ではないところまで俺は堕ちている。猫、手強すぎる。
でも顔を擦りつけると酷く安心して、俺は完全に猫に負けた。
「リンク! 大丈夫ですか?!」
「え、あ、……え?」
ハッと起きて耳を立てると、目の前には本を抱えた姫様が戻ってきていた。
寝ぼけまなこがぎゅっと開いて、ようやく頭が猫と睡魔から覚醒する。
「あっ……え、も、申し訳ありません!」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫です腹を切ります」
思わず背に佩いた退魔の剣の柄に手をやった。
姫様のベッドで爆睡するなんて、猫に憑りつかれているとはいえ、騎士の風上どころか人としてどうかしている。
「だめ、はやまらないで! ほらココ見てください、猫という動物は、日に十二~十六時間寝る、と書いてあります。ですから眠ってしまったことは仕方がないことなのです。猫のせいです」
「猫のせい……」
「そうです、リンクが今日可笑しなことをするのは全部猫のせいです!」
姫様がそう言ってくださるのであれば、そのように思うことで心を落ち着けるしかない。
これは猫のせい。
断じて俺の意思ではない。ねこのせい。
「しかし申し訳ありません」
「他にどのような行動をするのか、把握しておいた方が良いかと思って、猫に付いて書かれた本も借りてきました」
はるか昔、猫という動物がまだたくさん生きていた頃、ハイラルでは『猫の飼い方』なる本まで出版されていたらしい。
その本によると猫とは、非常によく寝る動物だそうだ。犬と違って群を作ることは無いが、同じ縄張りに複数の猫が一緒に暮らしていることはあるらしい。基本は単独行動なので気ままな性格が多く、飼い主相手と言えども甘えるのは気が向いた時だけ。ただし、雌の方がそっけなく、雄の方が甘ったれが多いとのことだった。
また模様に関しては、三毛猫はそのほとんどが雌らしい。だとすると、俺に憑りついた猫は雌猫なのだろうか?
などと考えているうちに、姫様の指がスッと俺の前に差し出される。
条件反射で俺はそこにぴとっと鼻をくっつけた。
「……はっ!」
「思った通りです……犬も手を出すと匂いを嗅いでくれますが、どうやら猫も同じようですね」
「姫様!」
「いいんですよ、猫のせいですから」
ふふふと笑うので、どうやら姫様は楽しんでいる。
そのまま少し冷たくて柔らかな手が俺の頬を撫で、額やおでこまでよしよしと撫でて来る。
「うわっ……」
我慢ならない猫の本性が、そのままグイと頭突きするみたいに姫様の手に頭を擦りつけた。耳(もちろん猫の方)の後ろや喉を撫でられると、気持ちよくてどこからともなくゴロゴロと音が出てしまう。
一体これは何の儀式だ? 一体俺は姫様に何をさせている?
耳は緩く間が空いて、姫様のなでなでに俺の中の猫は満ち足りた様子だ。でも撫でている姫様の方も、淡く嬉しそうな顔をして俺を撫でていた。
人間としてはとんでもなく不甲斐ないことだが、猫としてはまんざらでもない。
が、コンコンコンと扉がノックされる音で、唐突に触れ合いは終わった。
「追加の毛布を持って参りました」
侍女の声に驚いて、俺の体はベッドの上で少なくとも十㎝は垂直に飛び上がった。人間ってこんな動きが出来る生き物だったかと考える暇もなく、慌てて姫様の誘導に従ってベッドの下に潜り込む。
昼間とは言え、さすがに私室で二人きりのところを見られるわけにはいかない。
「そちらのソファーに置いておいてください」
「姫様、あまり夜更かしはなりませんよ。お休みはちゃんとベッドになさってくださいね」
お小言をいう年かさの侍女がちらりと乱れたベッドを見ている気配があったが、深い追及は無かった。たぶん姫様がそれとなくベッドに座ってくださったからかもしれない。
そんな気遣いまでさせてしまうなんて、なんて忌々し猫。
「もう出てきて大丈夫ですよ」
「申し訳ありません……」
「本は私が読んでおきますよ。眠たいのなら眠っていいですからね」
いまだとろんと落っこちそうな目に先手を打たれると、不甲斐なくてシュンと肩を落とすしかない。耳も尻尾も俺の心に従って項垂れたが、睡魔にはやはり勝てなかった。
何とか俺も除霊の方法を探そうと姫様が借りてきた本に手を伸ばすのだが、数行読む間に「くぁっ」とあくびが出てしまう。
そのうちに布団にコロリと転がって、事もあろうに姫様の太ももに額をぴったりとくっ付けてしまう。
「膝枕じゃなくていいんですか?」
「そんな、恐れ多いです。それにおでこをぴったりくっつけていると安心する動物のようです」
「ならばいいのですが。雄猫は甘えんぼさんらしいですから気兼ねなくどうぞ」
本来の俺は気兼ねの塊のはずなのに、本を読む姫様の空いた反対の手に、俺はずっと頭を撫でてもらっていた。猫は満足げにゴロゴロと喉を鳴らす。どこをどう鳴らしたらこんな音が鳴るのかはよく分からないが、不思議と体に響く不思議な重低音が心地よかった。
姫様の手が俺を撫でると猫は喉を鳴らし、疲れて手を止めるとゴロゴロも止まる。
なんて贅沢で、気ままな動物かと理解するころには、猫はベッドよりもさらに柔らかい姫様の膝の上に俺の体を移動させていた。
断じて俺の意思ではない。繰り返すが、俺は姫様の隣に寝っ転がっているだけでも重罪なのだ。膝枕など万死に値する。
「気持ちいいですか?」
「大変申し訳ありません……」
「いいんですよ、猫のせいですから。でも、ちょっと足がしびれちゃいましたね」
苦笑する姫様にようやく俺は体を元の体勢に戻した。抵抗する猫に向かって、姫様を煩わせるんじゃないと叱咤する。
痺れても動かないなんて、姫様もどうかしている。だがどうやら猫という生き物はそういうものらしい。
「さて、除霊の方法ですが、いくつか調べが付きました。やっていきましょう」
「にゃい……」
ご勘弁ください。もはや語尾まで可笑しいことになっている。
早く除霊してほしいと正座になって待っていると、姫様はなぜか机の上に置いてあったトンカチをもって、猫の骨に向かった。
「まずは骨を粉々に砕く方法です」
「え、ちょちょっ、ちょっと待ってください!」
俺の尻に生えた猫の尻尾が。試験管タワシのように毛羽だった。尻尾の太さが倍ぐらいになり、思わず自分で握りしめても反発するほど毛が逆立っている。猫の尻尾ってすごい。
だが今はそれどころじゃない。姫様の除霊は物理的過ぎる。
「霊の方をどうにかするのではないのですか?!」
「でもスタルフォスという古の骨の魔物は、爆弾で粉砕するまで復活すると書いてありますよ? 爆弾でなければならないのでしょうか」
「憑りついた霊が戻る場所がなくなる!」
あ、いま、猫が喋った。
今のセリフは俺じゃないなぁと思いながら猫をなだめ、同時に姫様に縋り付く。頼みます、猫を刺激するようなことを言わないでください。
「えっと、だとしたら、こちら。空き瓶で魂を集める方法でしょうか。憑りついた猫の魂を空き瓶に閉じ込めます」
空き瓶。……なぜ空き瓶?
疑問に思いながら姫様の手元を見ると、持っているのは『悪魔に魂を売った男』という本だった。何となく小さい頃に読んだ本で見覚えがある。確か金に目がくらんで悪魔に魂を売った結果、自身が金色の人形にされてしまった男の話ではなかっただろうか。
「空き瓶でなければならないのですか……?」
「黄昏の勇者は空き瓶で魂を集めて悪魔に魂を売った男を助けたそうです。それに時の勇者は光の玉を反射させて攻撃が出来たとか」
「それって本当にただの空き瓶なのですか? 特別な空き瓶ではなく?」
「確かに、空き瓶の性能という線は捨てきれませんね」
姫様はご自分の机の上にあった砂糖菓子の入った瓶と、本に描かれたものと見比べて首を傾げていた。
さすがの俺でも、未だに空き瓶に魂を詰め込んだことは無い。チュチュゼリーなら入らないことは無いだろうと思うが、入れて持ち運んだ経験は無かった。だってポーチがあるし。
というか、昔の勇者って一体何をしていた人たちなんだろう。何をどうしたら空き瓶に魂を突っ込むという思考に至ったんだ。他にも変なものを入れてそうで、俺はそんな人たちに倣って厄災を倒さねばならないのかと思うと頭が痛い。
「だとしたら……あとはプルアに教えてもらった塩を振る方法しか分かりません」
「霊ってナメクジなんですか?」
「シーカー族によると塩は清めに使うそうですよ。殺菌効果があるからでしょうか?」
お漬物や乾物にも塩を入れるのは、あれは殺菌効果があって腐りづらくなるからだとは知っている。除霊とは、つまり殺菌?
だとしたら強いお酒でもいい気がするが、当然のことながら姫様の私室には酒も塩も無い。
「食事の時、侍女に夜食と一緒に塩を準備するように言っておきます。それまではこの部屋で待機です。絶対に出てはなりません」
「はい……」
姫様は夜食を多めに頼むついでに、小皿に塩を一杯準備するよう言いつけていた。それから姫様の夕食や着替えなどが全て終わるまで、俺はベッドの下や衣装ダンスの中にその都度隠れ潜む。
俺自身は狭いのがどちらかと言えばあまり好きではないが、どうやら猫の方は迫っ苦し方が好きらしく、上機嫌で隅っこで小さくなる。一体どんな動物なんだ猫。
全て準備が整ったのは侍女が下がった夜半。ようやく一人きりになったところで、姫様は扉に鍵をかけて俺を呼んだ。
「出てきてください。さあ、除霊を始めますよ」
ネグリジェ姿の姫様を前にして、目のやり場に困って顔を背ける。いつもは見えない首筋があらわになって、非常に目の毒だった。
「あの、羽織ものなどは」
「寒いですか? 猫って寒がりなのかしら」
「いえ、そういう訳ではありません。失礼しました、始めましょう」
説明したうえで羽織ものを準備する暇があるなら、そんなことより先に除霊してもらった方がいい。一刻も早く姫様のお部屋から、この二人きりの空間から抜け出す方が優先される。
ぐっと自分に我慢を言い聞かせた。
途端、すぽーんと手袋を抜き取られた。
「あの?」
「塩が付いてはいけませんから、インナーだけになってください」
近衛の制服はこれ以上汚さないように、非常にありがたい配慮ではあった。
が。
事実上、姫様に脱がされる形となった。一生の不覚と言ってもいい。残ったのは黒い上下だけ。双方ともに丈が長かったのが幸いだが、さすがに主の前で制服を脱いだ姿で立つのは心もとない。姫様の前だったが背を丸めてしまった。
だが姫様の方から手が伸ばされると、猫は嬉しそうに俺の体を使って撫でられに行く。無意識のうちに俺もごろごろと目を細めてしまった。ハッとしたがすでに遅く、恥ずかしくなると人間の方の耳が先まで熱くなった。
「姫様……」
「なんだかもう少しこのままでもいい気がしてきました」
「よくありません、大問題です」
早く猫を追い出さないと、このままでは俺の自尊心が持たない。
なんて姫様には言えないけど、実はそれが一番の問題。
「冗談ですよ。では始めましょう」
「お願いします」
姫様はコホンと咳ばらいをすると、厳かに塩をひとつまみ。えいと俺に向かって塩を投げた。
ぱらぱらと勢いよく当たる塩に俺自身は少し顔をしかめ、猫の耳がぴぴぴっと反応する。何の変哲もない塩だ。少し口に入ったが普通にしょっぱい。
本当に、それだけ。
「これで本当に効くのですか?」
「分かりません、でもプルアが嫌な貴族が帰った後に塩を撒いたら、その貴族はドブに落ちたあと、馬糞を踏んでいました」
「本当に効くのかな……」
その後しばらく、姫様は無言でひたすら摘まんだ塩を投げていたが、俺の体には変わった様子はなかった。猫は塩が当たるたびに耳を細かく動かして嫌だなぁと伏せていたが、だからと言って俺から出て行く気配も無い。
姫様は首を傾げ、塩の接触が足りないのではと、今度は摘まんだ塩を直接背中にポンポンと撫でつけ始めた。背筋の上から下に向けて、ぽんぽんぽんと軽く塩を叩きつけてみる。
様子が変わったのはちょうど腰のあたりだった。
「あっ」
「どうしました?」
びくっと小さく爪先だって、背が伸びる。同時に三色の尻尾もぴぃんと上を向いた。
得も言われぬ感覚が背筋をぞくぞくと刺激する。
「あっえっ、っと……」
「ここ?」
ちょうど尻尾の生え際辺りの腰に塩を摘まんでトントンと擦り付けられると、体がぴくぴくと反応してしまう。もしや尻尾を掴んで引きずり出せないかと思ったが、それどころじゃない言いようのない感覚が背筋を駆け抜けた。
「うっ……そこ……っつ」
「リンク?」
もはや姫様の指の隙間からは塩などとうに無くなり、ただ俺の腰をポンポンと撫でるのみ。それなのに俺の顔はだらしなく蕩け切って、頭を撫でられていないのに喉をゴロゴロと鳴らし始めた。
「あの、そこ……っ、気持ち、いいです……」
「ここはつまり、猫の、気持ちの良い場所……?!」
なるほど猫という生き物は、腰をポンポンしてあげると気持ちが良くなってしまうらしい。俺を乗っ取った猫は腰を上げた体勢のまま、またベッドに擦りつく。寝るのではない、今度はどちらかと言えば気持ちの良い場所を撫でろと言った感じだった。
「はっ……うぁ………」
「猫、出て行きませんね」
姫様は真剣に除霊を考えてくださっているのに、俺の頭の中ときたら半分以上猫だった。腰をポンポンしてもらうのがこんなに気持ちのいいことだなんて、人間の俺は全然知らない。時々鼻にかかった変な息が漏れるのを必死で堪え、猫を虜にする姫様の手から何とか逃れよう体をひねる。
ころん。
ベッドの上にあおむけに転がっただけだった。ちくしょう、これでは何の解決にもならないじゃないか!
それどころか姫様は、もはや塩の器さえ置いて俺の喉やお腹を、まるで犬と遊ぶかのように撫で繰り回す。猫の方もそれが嬉しいのか、ゴロゴロ言いながら体をくんにゃりとさせるのでどうしようもない。
「だ、駄目です姫様!」
「もしかしてこうやって満足させたら出て行かないかしらと思って」
「なるほど……?」
必死で体を起こそうとするところへ、滑らかな指が近づいて来る。駄目だ、猫は少し尖ったところがあると匂いを嗅ぎたくなる。ついでに自分の匂いをつけたいのか首のあたりを擦りつける動作をする。
すでにこの部屋のチェストの角や、椅子の背もたれなんかは、猫の衝動に任せて擦りついた後だ。全てが終わったら消毒しなければ我慢がならない。
「猫ってたぶん愛玩動物だったんでしょうね」
「そんなことっ、いま言われましても……!」
と、俺の鼻先をかすめた姫様の指から、とてもいい香りがした。
その香りに気が付いた途端、猫が姫様の腕にじゃれつく。両手で姫様の手を抑え込むと、よりにもよってその指を舐め始めた。
「えぇ? 美味しい……ですか?」
「あっえっ、もしかして、香油塗られてます……?」
「はい、寝る前は手足に香油を塗るのが習慣です」
「それだ……ッ」
猫の狙いは油。
良い香りだと認識したのは姫様の香油だった。
「申し訳っ……ありませ、んッ……!」
「あっ……だ、大丈夫です、リンク。んっ……全部、猫のせい、ですからね?」
許しがあるとはいえ、俺は猫の本能に負けて姫様の指に舌を這わせる。舌が甘く感じることでさえ嘘だと言って欲しい。
時に指先を吸い、果ては両手の五本の指の間全てにまで舌を突っ込むころには、姫様は完全に腰砕けになっていて、俺はその上に乗り上げていた。姫君を押し倒して一体何やってるんだ。
指舐めてるんだ。
何だこの状況、間違いだらけ過ぎる。
「やっ…、リン、ク……ほら、肉食動物は……んっ………油が好きですから」
「お願いです、そんな風に俺に許しを与えないでください……!」
「貴方ではなくて、あんっ……猫に言っている……んんっ、ですよ?」
そうだった。俺じゃなくってこれは全部猫の仕業。
慌てて自分の欲望をひた隠しにしてみたが、感情に素直な尻尾はぴんと上を向いていた。姫様がこの尻尾の感情を読み取れるようになる前に、どうにかして猫を体から追い出さなければならない。
ともかく離れなければ。さすがに押し倒して指をしゃぶり続けているのはまずい。
「申し訳ありません、失礼します……!」
出来るだけお体に触れないように、必死で俺は姫様の体から自分の体を押して遠ざけようとした。その瞬間に俺のぐーにした手が姫様に触れる。
柔らかかった。
女の子の体ってこんなに柔らかいんだと一瞬だけよこしまなことを考え、それが悪手だったことが次の瞬間に分かる。
猫は柔らかいと分かった瞬間、姫様の上でふみふみを始めた。しかもお腹の上で。
「え、リンク?!」
「やめ、猫、マジやめろッ」
パン種でもこねるみたいに、ネグリジェ一枚挟んだだけの姫様のお腹を俺の手がこねる。軽く握った俺の両手が、姫様のお身体の感覚を受け止めるようにもっちもっちと右往左往する。
もう絶望しかない。
主君を押し倒しているだけでも重罪なのに、俺の手はその柔らかさを堪能している。あり得ない。でも現実には尻尾は依然として立っていて、感情とは別のところで歓喜している。もうやだ、消えたい。
「申し訳ありませんッ、全て終わりましたら腹を切ります!!」
「だからそれはっ……困ります! あんっ……、こっこれは猫のせいであって、リンクの意思じゃないんですから! んんっ……仕方がありません、貴方が気に病むことでは……あぁん…ないん、です。これは、除霊の一環…んっ……です!」
「じょれいのいっかん」
「そうです! あぁん……」
じょれいのいっかんじょれいのいっかんじょれいのいっかん。
頭の中で呪文のように唱えたが、淡く色づいていく姫様の吐息が別の意味で俺を追い立てた。必死に堪えようとしても、柔らかいお身体をふみふみすると股間に血が集まってきくるのが自分でもよく分かる。
夢にまで見た姫様のお身体に触れているのだから、どんなに我慢強い俺でも男なので限界がある。しかしなんだって猫ってぐーなんだ、せめて手の平だったら、ってそういう問題じゃない。
息子が硬く張り詰める前に、どうにもならなくなって姫様にバレる前に、頼むから猫出て行ってくれ。近衛服は重ね着するせいもあって、いつも内側に着ているものが比較的薄い。だから勃ってたら絶対にバレる。
土下座でも何でもするから俺が姫様を襲う前に出て行ってくれ。
「あっ…はぁ……猫ちゃんって、……あん………本当に甘えんぼさん、ですね」
「姫様、申し訳ありません、どうかお許しを」
「っ……いいですよ、あん……リンクはいま、猫ですから。んっ………好きにしていいんですよ」
薄いネグリジェの上を、お腹周りだけで踏みとどまっていた手が、ジワリと上半身に伸びる。もう止められなかった。
お腹よりもさらに柔らかいお胸に、何食わぬ猫が俺の手を使って攻略にかかる。同時に何を思ったか姫様が俺の頭を撫で始めたので、猫は意気揚々と姫様の方へと顔を近づけるではないか。
駄目だ、それだけは絶対に駄目。口付けなんかしたらこの場で舌を噛み切って死んでやる!
覚悟を決めたはずなのに、猫の狙いはむしろ耳。
「あっ、リンク、やっ……耳はぁ……あぁん……っ」
まるで俺が姫様の耳をしゃぶっているようだけれども、断じて違う。これは猫がやっていることだ。
柔らかな耳たぶに吸い付き、そのままザリザリと耳殻を舐める。なんだか自分の舌が少しざらついているみたいだった。
「はっ……あ、……姫様、申し訳ありませっ……!」
「耳元っで、んんっ…しゃべっちゃ、だめぇ……っ」
気が付けば、姫様は俺に組み敷かれて胸をフミフミ、耳をちゅうちゅうされた状態で、太ももをぴったりと閉じてすり合わせていた。胸が大きく上下するぐらいに息をして、翡翠色の大きな瞳が涙で潤む。
俺はなんてことしてるんだ。
「申し訳ありません姫様、俺なんかが」
これじゃまるで房事だ。だいぶ間違っている部位があるけれど。
ここに至るまで、いくつも姫様が拒める機会はあった。それでも姫様が俺の奇天烈な行動を容認してくださったのは、決して憎からず想ってくださっているからだとは予想に難くない。そうでなければ、どれだけ除霊と言い張っても侍女を呼ぶだろう。
だからこそ、姫様のお気持ちに付け込んで体に触れ、喜んで尻尾をぴんと上げてしまう自分を殺してやりたくなる。確かに耳と尻尾は猫のものだが、感情は自分の物のままだった。
「どうか人を呼んでください。このままだと俺は、本当に姫様を襲ってしまいます!」
事実、姫様がもじりと揺らす腰のあたりから、得も言われぬ良い香りがしていた。たぶん猫にだけ分かる雌の匂いだ。許されるのならば今すぐにでも鼻先を突っ込んで、姫様の香りを確かめたくてしょうがない。
俺の理性と猫の本能が鍔迫り合いをしている今ならば、まだ人を呼べばどうにかなる。姫様から俺を引き剥がして、傷つける前に早く縛り上げて罰してほしい。
でも姫様はいいえ、と首を横に振った。
「猫のせいとはいえ、っん……貴方だから許したの、リンク……あぁんっ」
上気した桃色の頬、柔らかいお胸の感触、耳をくすぐる甘い声、吸い付いた耳たぶは甘露のようだった。
「姫様……っ」
「今はぜんぶ、猫のせいにして……、ね?」
俺の髪を梳く姫様の指は、赤子を撫でるみたいに優しい。姫様のお気持ちに付け込んで、除霊と言い張るのを真に受けて、不甲斐なさと歓喜がぐしゃぐしゃになる。
姫様に許されて嬉しい、でも何だって猫なんだ!
未だに俺は頭から三角の耳を生やし、腰からは長い尻尾が生えたまま。ゴロゴロ喉を鳴らしながら揉むでもなく胸をこねていては、まるで格好がつかない。それなのに、めくれたネグリジェの裾を見たら我慢の糸はぶつりと切れてしまう。
勢いよく体を起こすと、蕩け始めた姫様を置き去りにして、俺は良い香りのするところへ鼻面を押し当てた。理性が壊れるほどいい匂いが脳髄を揺さぶる。
「リンクっ、そこがいいのですか……?」
「いい匂いが、……我慢できなく、て……」
「……猫って、嗅覚が、いいのかしら……ぁんっ」
最初はネグリジェの上から姫様の秘所の香りを嗅いでいた。細い腰を掴んで逃げられないようにして、ぐりぐりと顔を押し付ける。姫様も動物を宥めるみたいに俺を頭や、猫の耳を折りたたむみたいにして撫でていた。
しかし時機に物足りなくなった猫は、ネグリジェの上から舌でべろりと姫様の柔らかい丘のあたりを舐める。生暖かい物が触れ、姫様の体が強ばった。でも撫でる手は止まらない。もはや化け猫だ。
口の中には絶え間なく唾液が溢れて、美味しそうな香りを逃すまいと必死に吸い付こうとする。察した姫様が裾をたくし上げたのを機に、俺はぐっしょりと濡れた下着に舌を這わせた。
「やぁん!」
跳ねる腰を押さえつけ、役割を果たせなくなった白い布地を鼻先で退かし、目の前に咲いた花を口に含む。思っていた通り、いやそれ以上に姫様の泉は美味しかった。
舌先でつつけばとろりと雫が湧きあがり、零さないようにちゅうと吸うと吸った分だけ補うようにまた雫が湧く。そのたびに姫様がシーツを掴んでよがり声を上げるので、それが良くってわざとじゅるじゅると音を立て舐めた。
「あっ、あぁっ……リンク、んぁっ……!」
「猫のせい、です」
「そうです、けどっ…やぁんっ」
色の薄い襞をかき分けて、ぷっくりとした突起をねぶると、むっちりとした太ももが俺の頭を挟み込んだ。どうやらここが、姫様のイイところらしいと気が付くと、耳も尻尾も俺は上機嫌ぴんと立ってしまう。
ぞりぞりと、今日は妙にざらつく舌で姫様のいいところをせめたてて、そのうち泉の中にまで舌を突っ込む。温かい媚肉の狭間を行ったり来たりさせると、姫様の艶声が一段と艶やかに鼓膜を震わせた。
いまや取り返しのつかない一線はすでに超えている。ならばせめて姫様には気持ちよくなっていただきたい。
「あと、どこが、いいんですか?」
とろとろにほぐれた姫様の太ももの間から顔をあげて、表情を伺おうと思った。
姫様の頭にも猫の耳が生えていた。
「え」
「リンク……?」
思わず行為を中断して姫様の頭の方へと近づく。
どう見ても、俺と同じ形の耳が頭に二つ生えていた。色は真っ白。三角耳の一番上に優雅な毛が生えているあたりが姫様らしい。
「姫様の頭にも、猫の耳が生えています」
「え、ええぇ?!」
飛び起きてベッドの脇に置きっぱなしになっていた手鏡を覗き込み、姫様は目を丸くする。だが俺は、立派な白い耳を触りながら慌てる後ろ姿に、やはりと頭を抱えた。
ネグリジェの裾から、ふさふさの長い白い毛に覆われた尻尾が生えている。
「尻尾も生えてます……」
「そんな! 私も猫に憑りつかれてしまったってことですか?!」
「猫のせい……? 俺のせい……??」
一体何がどうなったのか全然分からない。
それでも揺れる姫様の綺麗な尻尾を見たら、我慢ならずに腰を触ってしまった。俺もここを触られたら衝動が堪えられなくなってしまったから。
「ふぁ?!」
「ここ、猫になると気持ちよくありませんか?」
なでなでぽんぽん。
本来なら許されるはずのない触れ合いも、『猫のせい』と言い訳してしまうぐらいタガが外れていた。軽く爪を立ててカリカリと腰から背筋を掻いて差し上げると、姫様は急にくったりと上半身をベッドに擦りつける。お尻を高く突き上げて、尻尾も小刻みに震わせていた。
「あ……あぁ…、リンク……んんっ、どうしま、しょう…、はぁ……」
「俺にも、どうしたらいいのか、分かりません」
猫の骨をトンカチで砕けばよかった? 猫の魂を空き瓶に詰めればよかった?
今となっては、正解は行方不明だ。
でもごくりと生唾を飲み込む俺の下半身は、隠しようもないほど押し上げていた。姫様も腰をうずうずと撫でられながらも、俺の欲望がしっかりと主張しているのを目にしている。
悩まし気な息を吐き出しながら手を伸ばすので、黙ってその手を受け入れた。軽く握った姫様の手が、ズボンを押し上げるそれに優しく触れる。申し訳ない気持ちが半分を占めていたが、もう半分は間違いなく悦びだった。
ただ、こんな時まで互いに猫の手なのだけが解せないけれど。
「っん……」
「はぁ…あ……、フミフミちゅうちゅうしながら、っん……我慢していたんですか?」
「……申し訳ありません」
「んッ……狭くて、あんっ…可哀そうですから……リンクも、脱いで?」
ご命令ならば仕方がない。
撫でる手を止め、汗で張り付く服を全て脱ぎ去る。勢い姫様のネグリジェにも手を掛けて、すぽんと上に引っ張り上げてしまった。
「きゃっ」
「動物は服を着ません」
「そ、そうですね! 猫のせい、ですっ」
無理があるなとは思いつつ、言ってしまえばそれで通ってしまう。たぶん姫様も俺と大して変わらないぐらい、猫に化かされている。
それでもいいやと思って、また姫様の腰に触れた。途端にまた姫様はお尻を上げて、分かりやすく悦楽に目を細める。
「はっあぁん……」
「ここ、気持ちいいんですね」
「リンクだって、っん……蕩けてたくせ、にぃ……あぁん!」
姫様に腰をなでなでぽんぽんされたからよく分かる、ここはたぶん猫にとっての性感帯だ。ゆったりと腰をさすると、それだけで内腿を雫が伝い落ちて来る。零れ落ちるのがもったいなくて舐めると、白い尻尾がふんわりと上を向いたまま揺れていた。
「姫様の尻尾立ってます」
「やぁん……! 見ちゃだめ、だめなのっ……!」
「尻尾が立ってる時は、嬉しい時ですよ」
「じゃあ…あぁ、リンクも、っん………ずっとうれしかったの?」
自分のまっすぐに立った三毛猫の尻尾を見て、墓穴を掘ったなぁと苦笑する。
どんな気持ちであっても、不用意に顔に出さないように半ば訓練を積んできたようなものだ。それがたった一つの尻尾で、ここまで隠せなくなってしまう。
でもバレた相手が姫様でまだしもよかった。
「バレました」
「はぁ……、私もバレたのが、貴方でよかっ、……んっ、もうだめっ…リンク、入れてぇ……」
突き上げたお尻に入れる物なんて、猫も人間も変わりはないんだろう。四つん這いになった姫様に本能の赴くままに覆いかぶさって、強ばった竿で二枚の扉を優しく押し開ける。
「ああぁんっ……」
「申し訳、ありません……っ」
猫に憑りつかれているとはいえ、体は姫様のままのはずだ。俺が押し開いた隘路はきっと痛んでいるはず。
それでも辛抱できずに奥へ進むたび、姫様はシーツを掴んで声を噛み殺していた。釈明のしようもないほど、俺が姫様の中をこじ開けていく。申し訳ないことだが、そこまでしてでも俺を迎え入れてくれる蜜壺が愛おしいほど気持ちいい。
「全部、入りました」
「リン、ク……口付け、ください……」
「よろしいのですか?」
こくんと頷くのを確認し、姫様の顎に手を伸ばす。苦しそうに顔だけで振り向いた唇を触れて、俺はようやく人間だったなと思い出した。本当ならここから始めなければいけなかったのに、ようやく俺は姫様の唇を吸い、薄く開いた隙間に舌を突っ込む。
舌を絡め、上あごを舐め、唇を食む。そうしているうちに自然と腰が揺らいで、許しも無いのに緩やかに抜き挿しを始める。たぶん生き物の本能だろうってことにしておく。
体が勝手に動いていつの間にか唇は離れ、ゆっくりとだが確実に姫様の胎の中のいいところを探しまわっていた。
「痛くないですか?」
「あっあっあんっ…! だいじょぶ……お腹のなか、あついっ……んあっ!」
「ここですね」
尻尾が邪魔だなと思いながら浅いところを擦り上げると、柔らかな背が弓なりになる。その曲線にまた舌を這わせ、俺はある衝動と戦っていた。
姫様の首筋に噛みつきたい。
「はっあっ……リンク、もうっ……やぁっ!」
「姫様、俺も……!」
ぐっぐと己を一番奥に押し込んで、噛みつきたい首筋から目を逸らす。たぶんこれは猫の方の本能だと思う。人間は房事の時は噛みつくなんて聞いたことが無いから。
噛みついて、たぶん雌が逃げないようにする。
でも姫様は人なので、逃げない。それが頭で分かっているから、俺は辛うじて目の前のうなじに歯を立てていないだけだ。
危ない均衡の中で目いっぱいに腰を打ち付けて、上半身が崩れ落ちた姫様の上に覆いかぶさる。
「姫様ッ」
姫様に噛みつくなんてできない。でも猫はどうしても目の前の雌を独占したがる。
だから首筋に強く吸い付いた。それがせめてもの譲歩だ。
「あっあっあああっ!!」
「んあぁ………、ぐっ」
首筋に吸い付いた途端、姫様の内側が飲み込んだ俺をぎゅっと強く握り込む。目の前に星が飛び、溜まらず歯噛みしながら熱い滾りを奥にぶちまけた。
ずんと体に気だるさが満ちて、潰れかけた姫様の上にこれ以上圧し掛からないように脇に崩れ落ちた。ハアハアと肩で息をする姫様を思わず抱きしめると、顔を見合わせ、「あ」と互いを指さした。
「耳が、リンク、耳が無くなってます!」
「姫様も、無いです。尻尾も消えた……」
自然に姫様のお尻に手をやってしまったが、あれは思えば相当な不敬だった。でもあそこまでが全部『猫のせい』として、俺と姫様の中では処理された。
原因も解決した理由もよく分からないまま終わった猫の祟りは、それから意外な展開を見せる。
「実はですね、猫について面白いことがまた分かったんです!」
あの一件以来、猫という動物に惹かれてしまったのか、姫様は猫について書かれた古い書籍を片っ端から読み漁っていた。生態から迷信に至るまで、興味深そうに知りえたことを教えてくださる。
それは良いのだが、猫にまつわる話を聞くたびに、俺はあの時の失態を思い出してふいと目を逸らすクセが付いてしまっていた。
「今回は分かったことがいくつかありまして。まず猫は雄が左利き、雌が右利きが多いんだそうです」
言われて、確かにあの日、姫様のドレスの袖にじゃれついたのが左手だったことを思い出した。騎士になるのならば心臓を守る意味でも右手に剣、左手に盾を持つようにと利き手を矯正された俺にしては、妙なことだと思ったらどうやらアレも猫の仕業だったらしい。
だが、憑りついた猫は確か三毛猫だった。三毛猫はほとんど雌だったと言われた記憶がある。
「三毛猫ってほとんど雌だという話では?」
「そう、もう一つ分かったのはそれです! 興味深いことに三毛猫はほとんどが雌で、雄が生まれる確率は三万分の一と言われていたそうです。そのため雄の三毛猫は幸福を呼ぶと言われ、福招きの象徴になっていんですって、ほら!」
目を輝かせて見せてくださったのは、丸っこい三毛猫が左手を上げて座っている置物の絵だった。三毛猫という割にはなんだか丸っこい。ほとんど白地に黒い斑みたいな模様で、真っ赤な首輪に大きな鈴、絵の中では真っ赤な座布団に座らされていた。
招き猫、というらしい。
「きっとリンクに憑りついたのも、福を招くためだったんですよ」
「福、ですか……、いいことありましたか?」
「ありましたよ」
くすっと笑って、俺の顔に向かって手を伸ばす。
もうさすがに指に鼻先をくっつけたりはしないが、それが合図にはなっていた。
「近くには誰もいないでしょ?」
「いません、けど」
音もなく合わせられた唇に、これが猫の招きたかった福なのか首を傾げる。でも姫様が幸せそうなので、俺も幸せということにしておいた。