不可知の獣 - 7/14

4*嗅覚・残香の憂い

 オルドラの一件から少し時間が空いて、心が落ち着きを取り戻しつつあったころ、ゲルド砂漠へ調査に行く機会があった。

その日の調査を一通り終えてゲルドの街に戻って来たのだが、あいにくウルボザはまだ執務に追われていた。終わるまで待たせてもらおうとしたら、彼女はにんまり笑って人を呼び寄せる。

「待っているのはつまらないだろう。最近、近くに面白い教室ができてね。気晴らしにちょっと行っておいで。身分は隠して御ひい様が見学する旨は伝えてあるから」

「教室ですか?」

「今の御ひい様にこそ必要なものだと思ったんだよ」

 いったい何の教室ですかと聞いたが、それは着いてからのお楽しみだとウルボザは教えてくれなかった。首を傾げつつも、ウルボザが言うのならば危ないことではないはず。

お言葉に甘えて行ってみますと答えると、当然の顔をして淑女の服に身を包んだリンクが付き添おうとした。

ところがウルボザの手がそれを遮る。

「あんたは駄目」

「なぜ」

「それは秘密」

「……ウルボザ」

「女の子の秘密に堂々と立ち入るんじゃないよ、駄目なものは駄目。ちゃんと腕の立つ護衛をつけるから、あんたはむしろ私の相手だ」

 珍しいことに、あのウルボザが私からリンクを引き離した。彼とうまくやっているのかと何度も案じてくれたのはむしろ彼女のはずなのに、いったいどういう風の吹き回しだろう。

 普段であれば表情を変えないリンクも、今回ばかりは明らかに眉間にしわを寄せて不機嫌の体を表していた。それでもウルボザは頑として譲らず、結局私は白い淑女の服に身を包み、ゲルド族の護衛に連れられて、街の北西に向かった。

 そこでようやくウルボザの意図を理解する。掲げられた看板に目が点になった。

「れん、あい、きょうしつ……?!」

「ヴォーイハントのためにゲルド族の娘たちが通っているのです」

 ひえっという声を飲み込んで、笑って送り出したウルボザを睨む。

 なんていうものを必要だとか、必要じゃないだとか、訳の分からないことを言っていたんだろう。でもここで「こんなもの必要はありません!」と恥ずかしがって声を荒げれば、逆に必要性を肯定するようにも思えて、ぎくしゃくしながら建物に入った。

 最低限の知識として、将来的にそういうお役目をせねばならないというのは分かっている。知っている。理解している。

 でもそれと、恋愛はまた別問題でしょっと文句を言いたいのに、思い浮かぶのはウルボザのにんまり笑った顔ばかり。あの女傑にはまるで歯が立たない気がして、借りていた淑女の服の裾を掴んだ。誰に何を言われたわけでもないのに、顔から火が出そう。

 集まっていたのはゲルド族のうら若い乙女たちばかりで、聞けば年齢も私とさほど変わらない。なのに彼女たちはもうヴォーイハントで運命の相手を見つけることに夢中の様子だった。

「ハイリア人は小さいころからヴォーイと一緒でしょう?」

「そうよ、こんなところで勉強しなくても大丈夫なんじゃないかしら」

「そう、そうですよねぇ?! ある人が、ちょうどいいから行ってこいだなんて言うものですから!」

 おおらかなゲルド族の乙女たちは、私の必死の言い訳をすんなりと信じてくれた。

 だが背後の護衛は穏やかに微笑むばかりで、少しも同意してくれる気配がない。ウルボザと同じ百戦錬磨の女性たちには、私の嘘などとうに見抜かれているのだと思うと背中がむずむずした。

 そんな私に、いったいどんな過激な恋の手ほどきが始まるのかと思えば、その日は初心者向けだとかで香水についてのレッスンだった。曰く、ヴォーイというのは良い香りがするヴァーイを急に意識して、恋愛感情が芽生えてしまうという調査結果があるらしい。

 いったいどこでそんなけしからん調査をしたのか、そちらの方も気になりはしたけれど、先生が持ってきた香水の方には心がときめいた。輝く小瓶に入った香水たち。乙女たちに混ざって手に取ってみると、一つ一つ違う香りがして、それぞれに異なる印象が頭の中に浮かんできた。

柑橘類の香りは清涼感がある、万人受けしやすく男女問わずにつけて良いとのこと。甘い果実の香りは可愛らしさを表すので、少し私には可愛らしすぎるかなと首をかしげる。はちみつの甘い香りにスパイスを加えたエキゾチックな香りはミステリアスな大人の女性、すぐにウルボザが好む香水に似ていると分かった。

花の香りと言っても様々あって、薔薇は上品な大人の香り、ラベンダーは癒し、スズランは清楚な雰囲気。一種類だけはもちろんのこと、複数の花の香りを混ぜて花束のようにすることもできるらしい。

「たくさんあるとは知ってはいましたが、こんなに比べてみるのは初めてです」

 様々な人と話をする立場でもあるので、香水をつけると言うことに関して抵抗はない。でも種類にそこまで気を使ったことはなかった。なんとなくお母様が使われていた薔薇の香水と同じものを使っていたけれど、これからは場面や気分に応じて香りを選んでみようなどという学びを得る。

 そんなことを考えながら香りを確かめていたら、先生が力強い笑みと共に大事そうな小瓶を取り出した。

「さあ皆さん、この香水は絶対に覚えておいて。これはイランイラン、花の中の花と呼ばれるものでヴォーイを虜にする魅惑の香りよ」

「花の中の花?」

「イランイランには催淫作用があるとも言われていて、ヴォーイの中にはこの香りを嗅ぐだけで興奮してしまう人もいるぐらい強力なの。だからここぞという場面で使うものよ。でも今日はせっかくだから練習がてら、イランイランをつけてみましょう」

 なんて直接的な表現。女性しかいないからこそなのだが、耳まで熱くなっているのに気が付いて思わず手で隠す。

 どうしましょう。

そんな煽情的な香りをつけて、リンクの元に戻ったらどんな顔をされるか、気が気ではない。でも「このあとヴォーイと会うから付けられない」と言うこともできず、他に良い言い訳も出て来ず、気づけば両手首と足首から甘い香りを漂わせていた。

「今回はお試しでイランイランをつけてみたけれど、香りはその人を記憶するための鍵のようなものなの。だからヴォーイハントに出向く前に、ちゃんと自分に合った香りを選びなさいね」

 付けてもらっておいて言うのはなんだが、確かにイランイランの香りはそんなに好きではなかった。少し甘ったるすぎる感じが否めない。どちらかというと柑橘類の香水がすっきりとしていて好みだった。もし執務だけの日に侍女に香水の種類を聞かれたら、柑橘系はないかと聞いてみよう。

「それから最後に一つ。香りはヴァーイを引き立たせる……だけではない、と覚えておいて」

 香水の可愛らしい瓶を手にとって、せめて気に入った香水の名前ぐらい覚えて帰ろうかと思っていたのだが、つい熱のこもった先生の言葉に顔を上げる。

恋愛教室の先生の眼差しは、これまでになく真剣だった。

「運命のヴォーイはね、匂いで分かるのよ」

 教室中がどよめく。

 それもそのはず、ゲルド族の乙女たちは皆、運命のヴォーイを求めて年ごとになったらヴォーイハントに出かけるのだ。それが匂いで分かるのなら、過酷な旅路もいくらか楽になる。前のめりになった一人が手を上げた。

「どんな匂いなんですか!」

でも先生は静かに首を横に振った。そう簡単な話ではないらしい。

「特定の匂いではないの。その人の匂いが気になるとか、安心する、惹かれる、そんなヴォーイが現れたら要注意。相性のいいヴォーイは匂いで分かる、きっとヴァーイの本能で運命の人を見つけるのね。だからそういうヴォーイを見つけたら絶対に逃しちゃいけないわ」

 香りとはとても不思議なものだ。

 目には見えないのに確かにそこにあり、記憶と密接に結びついている。子供が母親の匂いを懐かしく思うのときっと同じ。そういう意味では確かに非常に有意義なレッスンだったのだろうけれども。

 それにしても私は手首と足首について離れないイランイランの香りに困っていた。ぱっと見は水のようにも見える香水だが、その実あれはアルコールに香りを溶かし込んだもの。意外に取れにくい。しかも案外しっかりとつけられてしまったらしく、水でちょっと洗ったぐらいでは香りが薄れない。困った。

 しかも今私が纏っているイランイランの香りは、先生の言を信じるのであれば自分のためのものではない。この香りはこれから会う人が気付くもので、気づかれたらどうなってしまうのかしら。それよりもこれから会うのはウルボザとそれから、えーっと、えーっと、いったいどうすればいいのでしょうか。

空回りする頭を抱えたままウルボザのところへ戻ると、想像通りのにんまり顔だった。

「もうっウルボザッ!」

「どうだい、よかったろう?」

「~~~~ッ」

「たまに引き離した甲斐があったってもんさ」

 あっはっはと笑っているウルボザの周りにリンクの姿はなかった。それだけは少しだけ気の緩まる思いだ。今もなお私はイランイランの香りを漂わせている。できれば落とすまでは顔を合わせたくない。

「その香り、イランイランだね」

「えぇ、お試しで全員つけてもらったんです。でもこれ、落とさないと」

「落としてしまうのかい?」

「こんな香りつけてたら、迷惑になります」

「……それはどうだろうねぇ」

 じゃあ待っておいでと優しく諭すようにウルボザは湯を取りに行った。その後ろ姿に安心して肩の力を抜き、私の居室がある方へふらりと上がっていく。思えばその場で待っていればよかった、今一番会ったらまずい人物がいる場所の見当ぐらいついていたはずなのに。

人目がほぼなくなる宮殿の上部に、髪を結い上げた男性の後姿があった。男性はゲルドの街の中には普通であれば入ることが許されない。だからそれが誰なのか一目瞭然だ。

左腕だけ緑の長手甲と肩当てをつけ、臙脂のズボンと金の脛あて。一目見てゲルドの意匠の鎧だと分かる、初めて見る装備に思わず感嘆の声が漏れた。

わずかな声に、振り向いた青い瞳が私の姿を捕らえる。

「ゼルダ様、いまお帰りでしたか」

「そのような格好をして大丈夫なのですか」

「人目のない室内であればバレないからいいと。それに明日からの調査は砂漠の奥地だからこの装備が使えるか確認しておくように、ウルボザから渡されました」

 かちゃかちゃと具足を鳴らしながら入念に手首と足回りを気にしている。さすがに砂漠仕様の鎧だけあって肌を覆う面積が少ない。でもそのことを本人は気にした様子なく、剣帯の長さを調整したり、継ぎ目を動かして支障がないか丹念に確認していた。

なのに私の方は、いつもは服や鎧を隔てて見えないはずのリンクの引き締まった体が目の前にあって、おもわず意識がそちらへ向いてしまう。よく見れば体は傷だらけ。自分とそう年も変わらないはずなのに、すでに背だけ見れば歴戦の猛者ともいえる体つきをしている。思わずまじまじと、自分がどのような人に守られているのか見入ってしまっていた。

ところが集中していたはずの彼がふと顔を上げる。鉢がねの照り返しがこちらを振り向いた。

「あまい、匂い……?」

 イランイランだ。気付かれた。

すかさず数歩逃げる。

「いえっ! これは、えっと、香水のお勉強会でつけてもらったもので」

 しどろもどろになる必要はないのに、言い訳じみていると思いながらも必死の言葉を紡ぐ。悪いことをしているわけでもないのに、追い詰められる小動物の気持ちになった。

 どうしてこんな時ばかり、リンクが男性であることを思い出してしまうのか、世俗じみた自分の思考回路に怒りをぶつける。

「そういった類の教室だったのですか。ならば私が隠れてついて行ってもよかったのに」

「いえ、いいえだめです! そんなことは絶対にだめです!」

「駄目なんですか?」

「だめですよ! 絶対にだめです、そんなこと!」

 慌てて両手を振ると、余計に上気して香りが舞う。ああもう、はやくウルボザ来てください、と心の中で願う。

 リンクは私のうろたえた様子に、ただきょとんとした顔で首をかしげていた。こちらが慌てているのを一向に構う気配もない。それがさらに私を狼狽させる。

 自分から漂うものを彼に確認されている。それって物凄く、ぞくぞくする。こんな感情は、ついこの間まで知らなかった。

「こんな香りがしていては落ち着きませんよね。すぐに落としますから待ってください」

 もうウルボザを待つよりこちらから行った方が早い。踵を返そうとしたが、その寸前に彼はいいえと首を横に振った。

「私は落ち着く匂いだと思います」

「……そう、ですか?」

 じゃあ落とすのを止めようかなんて、一瞬でも頭によぎった自分を罰したい。思わず香水をつけて手首を隠した。ところがその動作で逆に、リンクは香りの元を見つけた。目ざとすぎる、物凄い洞察力だ。

「手首につけるのですか?」

「ええ、今は手首を足首、他には首筋などに付ける場合もあります。血流のある場所につけて、香りが飛ぶようにするんです」

 ここにと指し示した腕をじっと眺めている。視線に熱があるのなら、私の腕はもう溶けている。どうしてそんなに見つめるの、もうやめてくださいと言いたいのをこらえる。

 でもついに、いたたまれない気持ちに根負けして腕を差し出した。

「香り、嗅いでみます?」

「よろしいのですか?」

「もういいです、どうぞ……」

 自分でも一体何を言ってるのか、分からなくなりながら差し出す腕にリンクの手が掛かる。子供みたいに温かい手。そのまま顔を近づけるのだが、やはり表情はほとんど変わらなかった。

「いい匂いだと思います」

「それは、よかったです……」 

これ以上どうすればいいのか分からずに硬直してしまった。

 そのすぐ後にウルボザが湯を持って来てくれたけれど、やっぱりつけたままにしておいてもいいですかと聞くと、大きく笑われた。たぶんやり取りを聞かれたのだと思う。恥ずかし過ぎて確認はできなかった。

 その夜は遅くまでウルボザと積もる話をしたが、やはり彼女の眼はごまかせない。

「いい香りだって、よかったじゃないか」

「よくなんかありません! 色恋にうつつを抜かしていては、修行に差し障りがあります!」

 リンクがすでに離れた場所にいることが分かっていて、なおかつ相手がウルボザだということもあって、私も言葉をあまり選ばずにいられる。ここまで明け透けに物を言える場所はあまりない、だからこそ喋り出すと要らぬことまで言ってしまう。

「おや、認めたね?」

「あ、えっと……いえ、違いますっ! そんな、ことは、ないと言いたいのですが……」

「素直じゃないねぇ。まぁそういうところも可愛いんだけど」

やはり私の気持ちを分かっていて恋愛教室に送り出したのだ。んもうっと、子供のように頬を膨らませる。でもウルボザは杯を傾けながら、砂漠の夜空を見上げてふっと真顔になった。

「御ひい様は、恋が嫌いかい?」

 こんなことを聞いてくれるのはウルボザだけだ。だからできるだけ嘘は吐きたくないし、私もどこかで本当の気持ちを誰かに聞いてほしいと思っている。

「嫌いではない、と思います。……でも余計な物だとは思います」

「どうして余計だと?」

 夜空に視線を逃がして、言葉を探した。

大気に余分なものが少ない晴れた砂漠の夜は、特に星が美しく瞬いて見える。降り落ちてくる星明りが純粋だからこそ、あの星々は輝きが強すぎる。

 多分恋も、同じようなものだ。

 余計なことにうつつを抜かすなと怒る御父様、また遺物ですかとため息を吐く高官たち、今回も駄目だったのねと囁き合う侍女たち。そんな私に色恋の欠片は身ほど知らずの宝石のようなものだ。

 他の誰とも違い、私の身体は私のものではない。だから恋で好きに飾ることは許されない。

 それにいずれ伴侶を迎えるとしても、その相手は好いた好かれたの関係で選べる立場ではないのだし。

と、頭では分かっているのに、どうしてだか想いが捨てられない自分がいる。

「本来の責務が果たせないのに、そんなことをしている場合ではないことは分かっています。それなのに時々、頭から離れなくなってしまう。それが怖いんです」

 でもウルボザは、そんな私に目を細めていた。

「怖いという割には、最近の御ひい様は前よりも輝いて見えるよ」

「え……?」

「一緒に居ると楽しいだろう? 恋をすると世界の透明度が上がる。すると楽しいことがたくさん見えてくるものさ」

 ウルボザは一気に杯を煽り、コクリと飲み干す。何か懐かしむように目を伏せた。

 姉のように慕うこの人も、いつかどこかで恋をしたのだろうか。その恋はどうしたのだろう。いまウルボザの傍に誰もいないと言うことは、だとしたらこの想いの捨て方も知っているのだろうか。誰にもばれない隠し方も、いっそのこと恋する相手にすら知られないように秘密裏に埋めてしまう方法も。

持て余すこの気持ちと決別するために必要なことの全てが知りたい。

「ウルボザは、この気持ちをどうすればいいのか知っているのですか」

「もちろん知ってる、私を誰だと思ってるんだい」

「じゃあ教えてください、いったいどうすればいいのですか?」

「素直になる、それだけ。素直になれば色々なことにもやりがいが出てくる。だから御ひい様も輝き始めているんだよ」

あまり認めたくはなかった。でもひんやりとした宵の口の空気が頬を撫でるので、思った以上に顔が火照っているのを認めざるを得ない。

 泉に赴く足取りがわずかでも軽くなったのは供をしてくれる彼のおかげ。王城の中での陰口に耐えられているのは傍にいてくれる彼のおかげ。修行をさらに苛烈にしようとさえ思えるのは彼のおかげ、か。

 認めたくはない。でも否定する言葉が見つからず、俯く。

 そんな私に、「あとね」とウルボザは続けた。

「女神がそんな狭量だとは思えないのさ」

「ハイリア様が?」

「ゲルド族の私がいうのだから、真実はどうだか知らないよ。でも仮にも女神なのだから、乙女の心がどんなものかぐらい分かっていてもおかしくはないじゃないか」

 女神が本当にそんな方だったらいいなと思った。

だが女神が許したところで、御父様は許さないだろうという卑屈な思いが別にあった。例え力に目覚めようとも、厄災が討伐されようとも、私には自由などない。

 となると、よしんば女神様が許してくださっても、私が恋で身を飾ることは一生ないのではなかろうか。

「女神様が許してくださったとしても、世間がそれを許さないでしょう。やっぱり私に恋は相応しくないのです」

 ウルボザは少し寂しそうにしていた。

 次ぐ朝、ゲルドの街では女神像は片隅に追いやられていてお祈りに行けないので、一人、朝日の見えるところへ出た。まだ気温が上がりきらない、夜の延長線上にある砂漠の朝。全身を冷たい空気が覆う。

 冷気に体を晒すと一種の満足感があった。わざと体に辛く当たれば、その分だけ心が落ち着く。体を張って努力していると主張をすれば、女神の顔もこちらを向くのではと思うのは自己陶酔だろうか。

震えながら祈る方が良い気がするのだから、人の心は単純だし、おこがましい。こんな私だから見苦しい心根は見透かされ、だから力に目覚められない。

ウルボザの言葉はもっともらしく聞こえたけれど、やはり私には相応しくない。きっと自分に恋を許したら、そればかりにのめり込んでしまいそうだから、切り捨てたほうが良いものだ。

頭で分かって、心でそれが捨てられない、出来損ないの姫巫女。

 祈りは形を変えて、自分への呪いになっていく。頭の中がぐずぐずに煮えたぎっていた。

「姫様」

 声に、頭が一瞬で煮える前に戻った。朝日の中にリンクが立っていて、白い息が朝焼けに消えゆく。

「せめて、もう少しお召し物を」

 すでに女物の衣装を身にまとっていて、おそらく一晩それで夜を明かしたのだろう。ちょっと待っていてくださいと走り去ると、慌てた様子で上掛けを一枚持って来てくれた。

「これぐらいしかないですが、使ってください」

「ごめんなさい、こうでもしないと落ち着かなくて」

「それでお体を壊したら、本末転倒です」

 自分を追い詰めなければ煩悩を打ち払えない。だからわざと薄着をしていたというのに、煩悩の原因がそれを許してくれない。上手くいかないものだ。

「祈る間だけ、一人にしてもらえますか」

 悩みを打ち払いたい、その一心で私は朝日に向かって祈る。浮ついた気分に惑わされぬように頑張ります、だからどうか私にお力を。

 でもふと気が付く。穏やかなお日様に似た香りに包まれていた。それはとても落ち着く匂いで、ふわふわしたお布団に包まれている感じ。思わず上掛けを口元に寄せて深く息を吸った。

「いい匂い……」

 そう思ってから肩から羽織った上掛けをあらためて眺める。しわが寄っていてすでに一晩使われた形跡があった。

 途端、恋愛教室の先生の言葉がものすごい勢いで脳裏をかすめていく。

『相性のいいヴォーイは匂いで分かる』

 息を飲んで、上掛けを放り投げて走り出した。

 私、今いったい何を思って上掛けを口元に寄せたのかしらと顔が真っ赤になる。なんてことをしたの、祈る最中になんて不純なことを私は考えていたの。

 そのまま水場に飛び込み、冷たい水を頭から被った。

 禊をしなければ、香りを消さなければ、イランイランもお日様の香りも全部、全部、ぜんぶいらない、流して無かったことにしたい。私は匂いに惑わされてなどいませんと、心の中でたくさん懺悔する。

 ずぶ濡れになったところで、異変に気が付いたウルボザの手が私を止めた。がちがちと歯の根も合わぬ口の中で必死に祈りと謝罪を繰り返す。

 でももう大丈夫。心を惑わす香りは一切が水に流れた後だった。