三年後、十七歳の秋の深まったころ、俺は学士の三次試験の会場に居た。
一次の筆記と二次の弁論を競り勝ってきたおよそ三十名のなかで、一番若いのが俺だった。よもや最終試験まで残れるとは思ってもみなかったが、陛下のお言葉と小さいゼルダ様の笑顔を思い出すと気負いはない。今の自分の力でやれる限りをやる。
ところが一つ、俺は大きな勘違いをしていた。
「あの勇者の息子だから、試験に通ったんだ」
一次試験を通ったあとから、うっすらと耳に聞こえてくるやっかみは少なくなかった。裏ではそれ以上のことを言われているに違いない。
矢を外せば落胆され、試験に通ればひがまれる。
結局何をやっても父の評判に俺は左右されるのだとようやく理解が追い付いた。無性に苛立ったが、言い返すだけ無駄だというのも分かっていた。
ああいう手合いは、こちらの気持ちなんかどうでも良いのだ。それは矢を外した時に「父さんと比べないで」と猛然と抗議した時に身に染みた。だから無視以外の選択肢はない。
父も、こうした陰口に若いころから晒されてきたんだろうか。もしかしたら今の自分以上に手ひどいことをされたかもしれない。騎士というのは学士と違って力もあるうえ、上下関係が厳しいから、悪口だけで済むとも限らないのだし。
やはり父は、すごい人なのだろう。辛かったことはおくびにも出さない。
その父の七光りだと思われたくない。ならば腹を括るしかない、自分の力で勝負をするのだ。かぶりを振って雑念を払い、最終試験の面接に臨んだ。
終わってみると、なんだか言いたいことの半分も言えなかった。今の自分ではこの程度が限界かと落胆するところもあれば、全ての試験が終了してひとまず肩から荷を下ろしたような感じ。
あとはなるようになれ、これで駄目だったなら来年また頑張ろう。まだ十七なのだから、あと数年ぐらいは父も受験を認めてくれるだろう。
大きく息を吐きながら王城の廊下を外へ向かうように歩いていると、後ろからわざとらしい声が聞こえた。
「あれか、英傑の息子ってのは。意外とチビだな」
「親の七光りでここまで通してもらったんだろ」
声の具合からして、そう若くもない。また年上からの嫉妬。当然のことながら無視するに限る。
だがその続きを聞いて、途端に許せなくなった。
「しかも母親が分からないんだろう?」
「外には言えないようなところでできた子供なんだろうね、あの近衛も隅に置けない」
言葉の最後の方は嘲笑に変わったので上手く聞き取れなかったが、気が付いた時には踵を返して殴りに行っていた。俺の目に映ったそいつらは瘦せ型の、いかにも座学しかしていませんと言うような二人組。途中で騎士の道に進むのを辞めたとはいえ、あの父に鍛えられた俺の相手ではない。
普段通りならば、こんな奴らに振るう拳の方がもったいないと自制が利く。でもこの時ばかりはどうしようもなかった。
ごめんなさい父さん。これだけは俺、許せない。
俺の尊敬する父を愚弄する奴と、俺を生んでくれた母のことを貶める奴だけは許さない。なぜだか父は、母の名前もウツシエの一つさえも残してくれなかった。ゆえに俺は母の顔も名前も知らない。知らないけれどもあの父が愛した人なのだから、きっと素晴らしい人だったに違いない。
そうじゃなけりゃ、父が救われない。
これだけ俺が成長しても、未だに後妻のひとりさえ迎えようとしないんだから。どれだけ周りから勧められているのかだって、知らない年齢じゃない。俺を残して死んでしまった母のことを、きっと父は未だに愛しているはずなのだ。
だからその母を、悪しざまに言う奴だけはどうしても許容できなかった。
拳が熱い。それ以上に心が痛かった。
その痛みがふと遠くなる。気が付いた時には父に首根っこを掴まれて、柔らかい王城の絨毯の上に組み伏せられていた。
「何をしでかしたのか分かっているのか」
ずるずると引きずられて、空いた一室に乱暴に放り込まれる。冷たい床の上で投げ出されて見上げると、恐ろしい顔が頭上にあった。あの二人組から多少は殴り返されて口の中が痛いが、それよりも怒った父の方がよほど怖い。
だがこの時ばかりは気分が高ぶっていることもあって、睨み返すどころか反論が口をついて出た。
「あいつらは父さんと、母さんのことを侮辱した」
「だからと言って暴力を振るうとは何事だ」
「だったらあいつらは何を言っても許される、こっちは何もできない、卑怯じゃないか!」
「つまりお前は卑怯者と同じ土俵に立ったわけだ」
厳しい言葉が冷たい床に転がる。それ以上言い返せなかった。じくじくと心が痛んで、悔し涙が口にしみて痛い。
おそらく俺の今年の試験はこれで終わった。身分は問われない代わりに、素行の悪い者が通るほど試験は甘くない。最終試験に落ちたという評判と、暴力を振るった噂が、この後の俺にはついて回るんだろう。自業自得だ、仕方がない。来年また頑張ろう。来年があればだけど。
だが父と母を侮辱した二人組がそのままだというのが実に業腹だ。とはいえ、父の言葉に納得してしまった身としては、謝らざるを得なかった。
「ごめんなさい」
「それは殴った相手に言え。医務室に居るはずだ」
父の声から怒りが少し薄れた。はい、と素直に返事をして立ち上がる。
目を合わせずに横を素通りして医務室に行くと、案の定キャンキャンと嫌味を吠えられた。二対一で優勢だった相手に恥ずかしげもなくよくこれだけ嫌味を言えたものだ、などとは言わずにすぐに頭を下げてやった。
「申し訳ありませんでした」
心がこもっていないのは誰の目にも明らかだが、これ以上は言うことはない。どうせこれ以上顔を突き合わせていても、難癖付けられるのが関の山。さっさと帰ろうと医務室の扉を乱暴に開けた。
目の前に、金の髪の人影が立っていた。
淡い緑色の瞳に怒りを灯して、その方は眉を吊り上げていた。久方ぶりにお会いした陛下は、もう一息で四十に手が届こうかというのに一向に輝きが衰えることはない。まぶしくて思わず膝をついて頭を垂れた。
「申し訳ございません」
間髪入れず謝罪した。今までの誠意のない謝罪など、比ではない。
雰囲気からして、俺が流血沙汰を起こしたことを耳にされたのだろう。女王陛下から『できる』と言われたのに、それを無下にしてしまった。落胆以上に恥ずかしさが勝って、まともに顔を見るこができない。
「暴力を振るったことはあなたが悪いと思います」
凛とした声が医務室に響く。こんな時ですら陛下のお声が綺麗に聞こえるんだから、俺も大概な奴だと思う。
殴った二人組を横目で見ると、したり顔をしていた。見なけりゃよかったと目を伏せる。
ところが続く言葉に、伏せていた目が丸くなった。
「ですが、そなたたちはこの者の両親を侮辱したとも聞きました。私には、その様な心根の者に学士が務まるかどうか、はなはだ疑問です」
ふと視線を泳がせると、医務室の奥からは見えないところに父の姿があった。先ほど俺に怒っていた気色は欠片もなく、すでに女王陛下の騎士としてそこにいる。静かに影のように控えていて、怒っている陛下とはあまりにも対照的。
しかも俺の視線に気が付いた父は、口元を少し緩ませて一本指を立てて静かにしろと言う。少しばかり面白がっている風ですらあった。
「学士の試験に関しては国が関与することでもあり、当然ながら私も結果には目を通しています。もし、その結果に思うところがあるならば、正規の手続きを踏んで異論を申し立てなさい」
そこから振り向き、厳しい視線がまた俺の方へ向けられた。顔を上げなさいと厳かに言われて渋々上目遣いになると、意外なことに目の前には心配そうに眉をひそめた女性がいた。
たおやかな手が俺の切れた口を撫でる。ため息を吐いてゆるゆると首をふると、金の髪が揺れた。
「あなたも、これぐらいのことで怒ってはなりません。自分の価値を下げないの、もっと自信を持ちなさい」
俺を見る陛下の瞳は淡い新緑のように儚げで、それが憂いを帯びて揺れていた。そんな目で諭されたら、言うことを聞かないなんてできない。
格式ばった言葉ではなく「ごめんなさい」と、思わず幼い子供みたいな謝罪をしてしまう。言い直そうと口ごもっている間に、陛下の儚げな雰囲気は鳴りを潜めた。「分かればよろしい」と強い口調がわずかに戻って、すぐに医務室から出て行ってしまったので言い繕う暇は無かった。
その日の遅くに帰宅した父にもう一度謝ると、当の父も少々困り顔をする。
「陛下が取りなしてくださったんだ。感謝しろ」
やっぱり親の七光りじゃないかと思わないでもなかったが、それを言ったら全て取り消しになりそうだったのでやめておく。代わりにホットミルクを渡した。自分の分のホットミルクに口をつけながら、ぼんやりと考えを巡らせる。
女王陛下が怒ったところを初めて見た。そのお姿は、なんだかいつもと何か様子が違っていた。普段は神々しい女神のような雰囲気で、多少なりとも近づき難いものがある。話せば優しい方だと分かるのだが、そこに至るまでに一つ敷居を跨がなければ近づけないような感じがする。
今日の陛下は、その敷居を陛下の方から跨いでこちらに来たような感じがした。あの怒った感じが実に人間らしいと言うか、血の通う人だという事実をまざまざと見せつけられたと言うか。
女神然としているけれど、あの方も人なのだ。
そりゃそうだ。小さいゼルダ様のお母上なのだから、もちろん陛下も人なんだけれど、なんだかすごく意外な感じがした。特に心配そうに俺の切れた口元に手をやったとき、まるで母に言い聞かされる幼子みたいな気持ちにさせられた。無論、母を知らないので本当にそうなのか、自信はない。ただ話に聞く限り、物語で読む限りはそんな印象だった。
さて、と父が立ち上がった物音に、考えごとをしていた頭がはっとこちら側へ戻ってくる。勢いで父の方へ目をやると、青い髪留めを外して完全に気を緩めていた。
このとき、無性に好機だと思った。広い背中に「ねぇ」と声を掛けてみる。
「俺の母さんってどんな人だったの?」
父の動きが一瞬止まった。ほんの僅かな硬直時間、おそらく普段一緒に居なければ分からない程度だが、それでも本当に一瞬だけ動揺したのが分かった。
幼い頃は何度か聞いたけれど、そのたびに笑って適当にはぐらかされていた質問。聞いてはいけないことだと察して以来、心の奥底の方に封じていた。
どんなことあって自分が生まれたのか、もう意味が分からない歳じゃない。でも、だからこそ聞いてみたい。自分の母は、今日の陛下みたいに、悪いことをしたら俺のことを叱ってくれるような人だったんだろうか。
父は戸惑った次の瞬間には、いつもの何を考えているのか分からない顔になった。
「とても気高い方だ」
が、よく見ればわずかに目を細め、何かを思い出すように口元が微笑んでいる。
いや違う。あの父が、少し頬を赤らめている。
蝋燭の火が揺れる加減かと見紛うばかりに、わずかなものだけれど、確かに父は照れていた。そんな姿を見るのは初めてで、それ以上何も聞けなくなってしまった。そっか、とそっけない返事しかできなかった。
じゃあおやすみと、父は部屋を出て行った。その背中を見送って、俺は残っていたホットミルクを煽って「ずるいなぁ」と独り言を吐き出す。珍しく好機だと思ったに、してやられた気分だ。