苛立つのをどうにか抑えて、俺はこっそりと城の図書室へ向かう。普通の人は出入りなどさせてもらえないのだが、あの父の息子だからと出入りが許されていた。今では司書さんとも顔なじみで、誰にも邪魔されずに勉強できるからと足しげく通っている。
学士の試験はラネール山への入山できる年齢にあやかって、十七になるまで受けることが許されない。だからと言って十七で受かった者もあまりいない。それぐらい狭き門だというのは分かっている。
もちろん一回で受かるとは思っていない。受ける機会は毎年一回あるのだから、せいぜい数回ぐらいで受かれば御の字だ。中には何年も受けているうちに、貯えを食いつぶす人もいると聞く。
それに自分がそんなに秀でているなんて、微塵も思っていない。なにしろ父親があれなので、そもそも自惚れるという感覚が分からない。
とはいえ、朝の一件がじわじわと忍び寄って、ありていに言えば集中力を欠いていた。自惚れることはないのだが、反面どうしても劣等感に苛まれる。こればかりはまだどうにもできない。
「勉強ですか?」
ぼうっとしていた瞬間を見計らったかのように声を掛けられて、思わずびくっと背筋が伸びた。
知っている声。女性で、こんなに響く綺麗な声の人は一人しかいない。
思わず椅子を蹴るほど勢いよく立ち上がり頭を下げた。
「女王陛下ッ」
「びっくりさせてしまいましたね、ごめんなさい」
そのお方は優雅に手を口元にやって笑っていて、背後には父の少し呆れ顔が見えた。
この組み合わせに変な慌て方をするのは俺ぐらいなもんだろう。ゼルダ女王陛下とお付きの騎士、騎士の方が自分の父親だというのが、なんともこそばゆいのだ。
「申し訳ありません、ちょっとぼーっとしてて」
「勉強のし過ぎも体によくありませんよ」
ゼルダ様はそうおっしゃったが父の話を聞く限りでは、このお方も相当に無理な勉強なさる方だ。父がこっそりため息を吐いて困っているのを見たことがあって、なんとなく知っている。
その女王陛下であるゼルダ様に手を引かれて、もう一人小さな影があった。
「ここでお勉強しているの?」
この国でもう一人のゼルダ様。王女殿下だ。この国では代々継がれる姫君に名前だから母娘で同姓同名。陛下をそのまま小さくしたような金の髪に翡翠みたいな瞳の可愛らしいお姫様。
俺は姫君の方を、心の中でこっそり『小さいゼルダ様』と呼んでいた。
「はい、ここが一番集中できるんです」
「すごいのね」
今年で八つになる姫君は、はにかみながら「がんばって」と言ってくださった。父との間にわだかまっていたものが半分ぐらい溶けた気がした。
「この子が本を読みたいと言って。気晴らしに選んでもらえるかしら」
「俺、あ、いや、私がですか?」
集中できるんですと言った割に、さっきはだいぶ気が散っていたけれど。それを見抜かれているのか、陛下はくすっと笑っていた。
「お願いできるかしら」
「はい、私でよければ」
幼い頃は父について行って小さいゼルダ様の遊び相手をしていたこともあるけれど、こうして会うのは久々な気がした。小さいゼルダ様は、女王陛下に背を押されておずおずと俺の隣に立つ。
姫君の歳ぐらいの女の子が読むのに丁度良い本はなんだろう。かなりの量の本を読んでいる自信はあったが、さすがにぱっとは思いつかない。首を傾げていると温かくて小さい手が、恐る恐る俺の手に触れた。
「お勉強のお邪魔してごめんなさい」
「大丈夫です。何に興味がおありですか?」
「……あのね、ガーディアンが好き」
らしいなぁと思わず笑みがこぼれた。だとしたら図書室の手前の方だと、小さい手を優しく引く。父が女王陛下の手を取るのを何度も見ているので、見様見真似だけれども。
子供が読めるぐらいの遺物の蔵書は本当に限られる。ここ数年、読み物として庶民が手に取るような簡単なものぐらいだろうか。絵がたくさんあった方がいいのかもしれない。
そんなことを考えながら何冊か手に取って、中身をパラパラと見せると小さいゼルダ様は女王陛下と同じ緑色の瞳をきらきらと輝かせた。紙の匂いがする通路に「ありがとう」と笑顔が咲く。ああよかった、とこちらまで笑顔になった。
元居た場所に戻ると陛下は椅子に腰かけていて、すぐ脇に父が立っていた。何か話し込んでいたが、俺と小さいゼルダ様が戻って来たのを見てふわりと音無く席を立たれる。
「今、リンクから聞きました。学士の試験を受けるそうですね」
「はい、三年後に。一度で受かる自信はないですけど」
「私は、あなたならできると思います」
どこかで聞いた言い回しに、一瞬戸惑う。
今朝聞いた。父の言葉と同じだった。
それなのに父の言葉よりもすんなりと心に落ちて、わだかまりを解いてはまった。
がんばろう、がんばらねば、と先ほどまで燻っていた雑念が払われていく。あるいはこれが、陛下がその身に宿すとされる女神のお力の一端なのかもしれない。そう思ったとき、どうしてこの方は、俺のことをこんなに親身に背を押してくださるのだろうかと不思議な感覚に陥った。
この国で女王陛下ほど尊い方はいない。この方が居なければこの国は十五年前に滅びていて、俺も多分生まれてなどいなかった。そんな方から『できる』と言われたら、やるしかない。この方の言葉を嘘にしたくなかった。
「娘のためにありがとう。勉強、頑張りなさい。期待していますよ」
女王陛下はそうおっしゃると、姫君の手をとって父を伴い、図書室から出て行った。小さいゼルダ様が図書室の入り口で手を振るので、こっそり振り返す。父の目に映っていたので、後でちょっと苦言を呈されるかもしれない。それでもいいかな、とこの時はなんだか心が軽かった。
静けさが戻って来た図書室で俺はもう一度試験勉強に向き合う。頭の中にあるのは先ほどの陛下のお言葉だ。
『私は、あなたならできると思います』
そういえば、陛下からあまり名前を呼んでもらった記憶が無かった。いつも『あなた』と呼ばれる。全く悪いように感じるわけではない。ただ、思えばそれは不思議なことだった。