「あなたが、俺に恋文を送っていた方なんですね」
静かに取られた白い面布の下からは、右の耳のないあどけない少女の顔が覗いた。赤錆びた髪が、左耳にはかかるが右側にはかかるところがない。
ハイリア人は特にこの長い耳に関して、よく美醜を図る材料にする。長い耳の方が女神ハイリアの声をよく聞く美しい耳だと形容して褒めた。それゆえ耳そのものを失い、顔の横にぽっかりと穴の開いただけのラディは、貴族令嬢としてはもう嫁の貰い手がないほど醜女と言っていい。
それでもリンクは彼女から目を逸らさず、あの日子供たちを守った勇敢な令嬢を真正面から見据えた。
あの時とは互いの様子はまるで違う。リンクは英傑の服から近衛の服に着替えていたし、ラディは血に塗れてはいないが右の耳は影も形も無くなっていた。
「あなたは俺が捕まったと知って、どうにか助けようとした。だから俺が犯行できないと誰もが分かっている状況で、首無し死体の脇に俺の名前を残したんですね。首を斬り、服を変え、どこの誰か分からないようにご自身の兄上を、ありもしない三人目の犠牲者に仕立て上げた、と」
ゼルダに言われた通り、リンクは家長のレクソンではなく妹のラディの方に直接手紙を書いた。『邸宅をお尋ねしてお話がしたい』と。
全く面識のない貴族令嬢に「あなたの家で会いたい」といっても、にべもなく断られるのが貴族社会の筋というものだ。だがラディからの返事はイエスだった。
人目を忍んで弔問のていで訪れたリンクは、チャードの棺桶が安置された部屋に通された。遺体は数日後にもアッカレにある墓地に連れていかれ、そこで葬儀が営まれる予定らしい。
その棺桶の蓋に手を添えて、リンクはグイと持ち上げる。
中に在ったのは頭だけになったチャードの遺体だった。
「どうして……、なんで分かったんですか」
ラディは唇を噛み締め、甲に白い傷跡が残る手で面布をぐしゃりと握りつぶす。
あれほど会うことを待ち望んだ恋しい相手が、自らの罪科を暴きに来きた。喜びと絶望がせめぎ合うところで、彼女は震える足を辛うじてその場に残していた。
罪を犯せば罰を下されるのが人の世の常ではあるが、リンクはラディの罪を暴く役が自分であることにわずかに胸を痛める。こんな形で再会しなければ、もっと違う言葉を交わせたはずなのに。
哀れなほど怯える彼女から目を逸らし、リンクは丁重に棺桶の蓋を閉めた。
「姫様のご朝食には必ずゆで卵が付くのですが、あの茶会の朝にはなかったことに姫様は不思議に思われたそうです。それで料理長に聞いたら、あの朝はコッコたちが酷く怯えて卵を産むどころの騒ぎじゃなかったとか。……あなたはコッコを一羽〆て、その血を遺体の偽装に使ったんですね」
声のない悲鳴のようなものを吐き出し、ラディはびくりと体を大きく震わせた。小さく口の中で「そんな些細なことで」「まさか、うそ」と繰り返す。
これではどちらが悪役か知れたものではないとリンクはため息を吐きかけたが、剣呑な気配にふと視線を上げる。大粒の涙に濡れたラディと視線がかち合った。
「でも違います私っ、人なんか殺せません!」
「分かっています。そもそもあなたのその細腕では、成人男性の首を斬り落とすことも、遺体を担いで移動させることも難しい。だから実際にそれ行ったのは、あなたではない」
目を見開いた彼女を通り越し、リンクは半開きの扉の向こう側へと視線を移す。
青い瞳を細めて睨むのは、そこに隠れ潜む何者か。
「剣を収めて出てきてください。俺は争うために来たわけじゃない」
一段落とした声は、剣士を自負する者であればその意を理解する。騎士が剣を抜く前の警告だ。
それでも抜き身の両手剣を構えて部屋に飛び込んできた人影は、さっとラディを背後にかばう。
「退魔の騎士と呼ばれる方に敵うとは思っていません。ですがあなた様のご無事を思ってしたことです、どうか見逃して頂きたい。罪は私が被ります」
「お願いをしたのは私ですリラ!」
「ラディ様はどうかお逃げください。確かにチャード様のご遺体から頭を斬り落としたのは、この私です!」
燃えるような赤髪を振り乱し、言葉が終わらぬうちからリラの左の足が前に踏み込まれた。
慣れぬ者なら剣の重さに負けて体の方が振り回される両手剣を、リラはその凄まじい膂力を以っていとも容易く御する。大きな体躯に似合わぬ速度で突き出された両手剣が、寸分の狂いなくリンクの首元目掛けて吸い込まれていった。迷いのない白刃の煌めきに、逆にラディの方が悲鳴を上げるほど。
ところが甲高い金属音と共に剣の刃先を一点で受け止めていたのは、目にもとまらぬ速さで背から抜かれていた青白い剣だった。
「ご令嬢の罪を裁くのは俺ではない。だが罪に加担した騎士を姫様のお傍に置くことは、誰が許しても俺が許さない」
「耳の切れた不美人が、好きな方のために手を尽くしたいと思うのは罪ですか!」
「遺体の損壊はハイラルの法に照らし合わせれば罪だ」
王家の両手剣の柄を、文字通り両手で持ってリラは目一杯切っ先を押し込むも、片手持ちの剣で受け止めたリンクはびくともしなかった。それどころかクイっと小手首をひねると、まるで魔法でも使ったみたいに両手剣が宙に浮く。
あっとリラの目が見開いた時には、リンクの白い軍靴が石床に叩きつけられた両手剣を踏みつけていた。
「観念してください。内密の訪問とは言え、ご当主に話がいっていないとでも思っているのですか」
硬質だが諭すような声に、びくりとした二人が振り向く。
そこには苦々しく顔を歪めたレクソンの姿があった。同伴の騎士はいないが彼自身も帯剣しており、手はもちろん柄に掛かっている。
「二人とも、もうやめなさい。お前たちが罪を犯した原因は私にもある」
「お兄様……」
「レクソン様」
二人の騎士に挟まれて、ついにリラは握っていた拳を開いた。頭を垂れて恭順の意を示す。ラディは涙を滂沱して、冷たい石床に黒い染みを作る。
その様子を見て、リンクも背に剣を戻した。
あとはチャードが誰に殺されたのかを明らかにし、ゼルダの無実を明らかにするのは主にレクソンの役目だ。むしろ自ら身内を差し出させてこそ、軽くなる罪もある。
しかし次の瞬間、目の前で膝を折ったレクソンに、リンクは目を向いた。
「リンク殿、この者たちの処遇については私に預けていただけないでしょうか。もちろん殿下の無実を明かすために別途、賊の追悼令を発し、アッカレ全軍を以ってそれを追い詰めますゆえ、なにとぞ!」
「……もみ消されるというのですか」
「どうか、お目こぼしを頂きたい」
退魔の騎士として国を救った青年が、少し前までは騎士と言ってもただの小隊長でしかなかったことを大抵の人は忘れている。代々近衛騎士の家柄の出だが彼自身は平民で、姫付きの騎士に任じられるまでは貴族の何たるかをほとんど理解していなかった青二才だ。
対するレクソンは王家に長年使える騎士の家柄でもある。その言葉がどれほど真実か、正直なところリンクには分からなかった。
「退魔の騎士殿がこういったことを厭う方とは重々存じておりますし、私としても提案するのすら心苦しい。それでも王家をお守りするアッカレ砦復興のためには、当家が今退くことを許されぬ。どうかご寛恕承りたく、伏してお願い申し上げる……!」
顔を伏せるレクソンの言葉には、確かに正しいと思われるところはあった。アッカレ地方の騎士たちは勇敢と言えば聞こえはいいが、気性の荒い者が多い。そういった有象無象をまとめ上げられる者が筆頭騎士でなければ、アッカレは一枚岩として動くことが難しい。
代々続くアッカレの伯爵家の真価はまさにそこにあり、彼以外ではアッカレ砦の再興は難航するはずだ。
一方でレクソンは騎士とはいえ、貴族としての顔も持つ。本当のところは一体何を考えているのか、生粋の騎士としての生き方しか知らないリンクには遠く理解が及ばない。
妹たちを庇いたいがための虚言か、はたまた真に王家のために持ち掛けた取引か。
リンクはしばし悩んでから、言葉を選んだ。
「いずれ政の駆け引きを出来るようにならねばと、常々考えてはおります」
「であれば……っ」
「しかし私は、手前勝手な都合で人を殺めた人を許すことはできません」
あまり温度を乗せず返した言葉に、レクソンは打ちのめされていた。
退魔の騎士は揺るがない。むしろ一刀のもとリラを斬り伏せなかっただけでも、リンクとしては相当に生温いことをしている自覚はあった。だが大事なゼルダのためとはいえ、彼女を斬ることに抵抗があったことを思い出して自らの右手を見る。
聡明な姫君はラディの共犯者の正体まで、当然予想はしていただろう。それでも身近に仕えていたリラがリンクに斬られれば、さすがに気落ちするはずだ。
だからこれでいいのだとリンクは内心で自分に言い聞かせる。
「レクソン殿、申し訳ない。今の言葉は聞かなかったことにします。申し開きを考えておいてください」
「……かたじけない」
「では失礼する」
小さく黙礼して三人の横を通り過ぎる。実に後味の悪い現場だった。
確かにレクソンの提案を飲んで取引をすれば、互いにもう少し楽な関係がこの後も続けられたかもしれない。だがそれを許した瞬間、リンクにとっては何か大事な物を失いような気がしていた。
もとより彼は曲がったことが嫌いな性格だ、さらに今回は人死にまで出ている。その真相を隠蔽するなど、出来る気性の持ち主ではない。ゼルダの無実と名誉回復のための真相解明がなされれば、その後が誰に恨まれようとも仕方のないこと。そう腹をくくる以外に彼にはやり方を知らなかった。
加えて、今はラディの見える範囲から一刻も早く立ち退きたかった。
自分に大量の恋文を送り付けていた彼女の愛憎入り混じる得体の知れない視線。果たしてラディは反省などというものをするだろうかと、不安に襲われるようなどぎつい視線だ。
ずっと項垂れているリラはまだいい。ラディは未だに瞳には疎豪なものを宿して、リンクのことを睨みつけていた。
斬れるものならば斬っただろう。だが生憎どんな相手だろうと女子供を斬るようなことはできない。だからと言ってこちらに気持ちが無いことはすでに承知しているはずで、これ以上の断りの言葉も必要としていないはずだ。
それなのに追いすがるようなあの視線。
棺の安置されたその部屋から出さえすればそれも無くなる。自然と急く足を止めたのは、「お待ちください」と言う彼女の声だった。
「リンク様。私は、私は誰も殺してなどいません」
この期に及んで、ラディは罪を認めなかった。
レクソンは呆れかえって叱責の言葉すら失い、リンクもあっけに取られて一瞬口を開けた。だが粘りつく彼女の視線に、もはや言葉を選んでも埒が明かないことを察する。
ここまでしてもまだ断罪したくない気持ちがわずかに鎌首をもたげたが、ゼルダを害するとなれば話は別だ。今も昔も変わらず、リンクが動く理由はゼルダ以外の何物でもない。
「仮にその言が本当だったとしても、俺はラディ殿には絶対になびきません。俺にはもうお慕いする方がいます」
それを言葉に出して言うことが、どれだけの勇気がいるのかを、当人以外の誰もが真には理解できない。
国を救った青年が誰を慕うかなどと言えば、それはただ一人しかいない。だが相手は王女、口に出すのも憚られる。それでも言わなければラディは現実を受け入れられない。
そう思って言葉のはずが、ラディは怒りで顔を真っ赤にして叫んだ。
「そんなことは分かってます!」
キィンと耳鳴りがするほどの、まるで絶叫だった。
誰に言われなくとも分かっていると言いたげにギリギリと歯を食いしばり、またラディは大粒の涙を流す。
両手でドレスを握りしめ、国で一番の騎士に食って掛かった。
「私はリンク様に振り向いていただきたいわけじゃありません! そんな分不相応なこと、耳のない私が望むわけがないじゃないですか! 登城して一目お姿を拝見できればそれで十分でした。もし恋文がバレて問い詰められるなら、全て認めて謝ろうと思っていました……なのにあなたが捕まってしまったから、それだけはどうにかしないと思っただけでっ」
悔し涙がおとがいから滴り落ちる。
ぐいと下からねめつけた顔は、もはや恋する乙女などではなかった。
「本当にリンク様を手に入れたいのなら、私は姫様を殺します! 後世の人がどうなったって構わない、もう厄災を封じてしまった時代を好きな人と生きるためなら、姫巫女なんかもう要りませんから!」
すでに恋人同士になっている片割れに振り向いてもらう方法。
『心が弱っているときに優しくされると、誰しもほだされるそうですよ』とゼルダから聞いた後、そのセリフを最初に言ったらしいプルアに真偽を聞きに行った。すると彼女はフフンっと青い彼を鼻で笑った。
『高級娼婦は男やもめの貴族や豪商を見つけて、後妻として入り込むのヨ。剣士クンも気をつけなさいネ』
一体どうやってそんな知識を得るのか定かではないが、プルアに言わせると連れ合いを失うと、どんな男でも案外コロッと騙されるらしい。
だがそれは連れ合いを失った場合だ。
チャードとダリアと首無し死体の三人分の殺人罪を擦り付けられたとしても、ゼルダは命を奪われるまでのことは恐らくない。厄災を封じる詳細な役目が一万年ぶりに明らかになったハイラル王家の存続のために、現国王の唯一の娘である彼女の命を奪うことは誰にもできない。そんなことをしたらハイラルの存亡にかかわる事態だ。
だからゼルダはどんな罪を犯したとしても流刑にしかならない。それは貴族どころか平民ですら分かる簡単な理屈だ。
ゼルダが流刑になったらリンクはどうするか。
地の果てまで彼女について行くに決まっている、傍を離れるなどありえない。
「待ってください」
自分自身がどんな人間かを分かっていたつもりで、酷く混乱しながらリンクは宙を睨んだ。
何かが可笑しい、どこか噛み合わない彼女との会話。その根源を探そうと、推理のたどった道を最初に戻る。
「俺に取り入る隙を作るために姫様の廃嫡を狙って、ラディ殿がチャード殿とダリア夫人を殺めたのでは……?」
「だから最初から、私は人なんか殺せないと言っています! なんで信じてくれないの?!」
項垂れたままのリラの方を向くと、すっかり気の抜けた彼女もぼんやりと首を横に振る。
「私がラディ様から頼まれたのは、チャード様のご遺体を首無し死体に偽装することだけです。チャード様を殺してなどいませんよ……?」
「そんな、馬鹿な」
二人が嘘をついているようには見えなかった。ラディは信じてもらえない怒りで声が裏返るほどだったし、リラはもうだいぶ前から全てを認めて考えることを放棄してしまっている。
ならば、チャードとダリアを殺したのは一体誰か?
耳の奥で焦りが潮騒のように騒めいた。他に犯人がいる、しかもまだその人はゼルダを狙っている。早く彼女の元へ戻らなければとリンクが顔を上げると、察したレクソンも黙して頷き、興奮した妹を抑えようとしていた。
再び「失礼する」と足早に屋敷を出て、嫌な予感は的中した。
屋敷の門の警備兵たちを振りほどきながら、血相を変えたインパが走ってくる。
「リンク! 姫様がっ、姫様がハイラル大聖堂へ向かわれました!」
一瞬、意味をとらえきれず、リンクは硬直した。
姫巫女が大聖堂へ向かうのは大概が特別な祈りのためだ。鎮魂であったり、祭礼であったりと、女神ハイリアに係わる儀式の場合が多い。
だが近々にはそういった予定はなく、殺人の容疑で軟禁されている彼女がそういった場に出ることももちろんない。
だとすると、大聖堂行きはゼルダたっての願い以外には考えられなかった。このタイミングで彼女が自ら望んで動くとは、つまり事件に係わる行動以外のはずがない。
「ゼルダ様……!」
手綱を引かれてきた愛馬に予備動作なく飛び乗ると、リンクは目一杯鞭を入れながら警備兵に向かって「開門」と怒鳴りつけた。リンクを乗せた軍馬は疾風のように城下町を駆け抜ける。
だが生憎なことに、アッカレの伯爵家邸宅とハイラル大聖堂は、城下町の東西最も離れたところに建っていた。