傍らの青の一途 - 7/13

5 傍らの青の一途

 足音が近づいてきていた。二足歩行ではあるが、明らかに人のものではない足音。地面を擦る爪の音に交じって聞こえるのはフゴフゴと、まるでイノシシの鼻息のような音だ。

「こわいよぉ……」

「しっ、しゃべってはダメ」

 彼女の腕の中にはまだ十にもならない子供が三人いた。今にも声を上げて泣きだしそうなのを堪えながら、彼女の胸や腹にぎゅっとしがみ付く。

 本当ならば彼女だって「助けて」としがみ付きたかった。誰かに守って欲しかった。だが彼女は誰にも守ってもらえないことを、齢十六にしてすでに理解していた。

 彼女は騎士でもなければ義勇兵でもない、成人すらしていないただの少女だ。彼女の亡くなった父はアッカレの筆頭騎士であったし、二人の異母兄たちも騎士で今もこのアッカレ砦に攻め込んでくる敵と戦っている。だが彼女自身は剣を振るう力は無かったし、弓を引くこともできなかった。

 しかし魔物は力ある者と無き者の区別などしてくれない。非力な彼女の手は、怯える子供たちの服を握りしめることしかできなかった。

――こんなところまでボコブリンが入り込んできているなんて……!

 数日前、ハイラル城から厄災が溢れ出た。

 厄災を封印するはずだったゼルダ姫の行方は知れず、ローム王に至っては城で討ち死にされたと撤退してきた騎士たちは口々に話した。ハイラル城から落ち延びてきた兵たちを受け入れる形で、アッカレ砦はいま必死の防衛を行っている。

 要衝アッカレ砦はこの時、ハイラル最後の地になろうとしていた。

 砦に詰めていた騎士はもちろん、その家族や不穏を察知した近隣の村の住民も避難してきていた。難攻不落と名高い砦だからこそ、皆助かりたくて逃げ込んできたのだ。

 ところが現実は皮肉なことに、アッカレ砦は援軍が見込めない孤立無援の要塞と化していた。備蓄はあるが、この先何か月戦い続けたとしても、どこからも助けが来ない。そもそもハイラル全土がどうなっているのか分からない。少し前には赤く染まった神獣たちが暴れまわるのも遠目に見えた。

 もはや誰もが勝ち目のない戦だと分かっていて、誰も事実を口には出しはしない。負けを認めてしまえば砦はその日にでも陥落するほどに、なす術ない状況だった。

――助けてハイリア様、どうか私たちをお救いください。

 剣を持つことができない彼女には祈ることしかできなかった。ただひたすらに、王国の祖である女神の名を繰り返し心の中で呼んだ。

 だが女神の返事はなく、返されるのはガーディアンの砲撃の音ばかり。

 ドォンと砦の壁面が打ち崩される音が響いて、ついに子供が泣きだした。

「おかあさあぁんあああああ」

「だめ、泣いたら、だめだから!」

 痩せた脇腹に顔を抑えつけるように、ぎゅっと抱きしめたが手遅れだった。小さな地下室に声が響く。声を聞きつけた魔物が、木の扉を蹴り飛ばすのは時間の問題だった。

 ひょっこりと顔をのぞかせたのは、白銀の体に禍々しい紫の文様がのたうち回るボコブリンだ。赤や青のボコブリンは見たことがあっても、白銀のボコブリンを見るのは初めてだった。厄災の力を得た魔物と知って細い足がすくむ。

 手には赤い血の滴る剣を持って、いやらしい雄たけびと共に飛び上がった。

「だめぇッ!」

 元来、彼女は臆病な性格だった。

 母の違う次兄から妾の子だとしてことごとくいたぶられていたおかげで、何事にも後ろ向きだった。父母が亡くなってからは次兄からの折檻が一段と激しくなり、一家の日陰者として歯を食いしばる日々を過ごした。

 若くして家督を継ぎ、ハイラルで一番大きな砦の筆頭騎士を務める長兄は多忙を極め、彼女を守る余裕もない。あるいは腹違いの妹の扱いに困っている様子すらあった。

 守ってくれたのは彼女の家門に仕えていた郷士の娘で、よく娘の故郷であるシャトー集落へ足を延ばしたものだ。そこでは次兄のように彼女を虐げる者もいなければ、長兄のように腫れ物扱いする人もいない。貧しいながらも安穏とした集落は、彼女の安らぎの場だった。

 そこの子供たちだったから。

 彼女が腕の中に匿っていた三人の子供は、シャトー集落から逃げてきた子供たちだったから。臆病な彼女は子供たちを振りほどき、血液が逆流せんばかりの恐怖を乗り越えて強大な魔物に立ちはだかる。

――私は死んでもいい、でもこの子たちは絶対に手出しさせない!

 ところが彼女の予想に反し、血濡れた白刃は右目のすぐ脇から耳の方へと通り過ぎていった。腹か胸かに激しい衝撃を覚悟していただけに、彼女の口角は少しだけ上がった。

 ボコブリンはどんな色をしていても、やっぱり間抜けのボコブリンなのかしら、と。

 が、次の瞬間、顔の右側から血飛沫が上がり、ぼたりと床に何かが落ちる。耳だ。

 彼女は自分の右の耳が丸ごとなくなっていることに気が付いて、ようやく痛みに叫び声を上げた。

「いやああぁぁぁぁッ!!」

 いくら手で押さえても流れ出る血が、まさか自分の物とは思えない勢いで噴き出してくる。彼女はその場に崩れ落ち、悲鳴を上げながら右の耳殻があった場所を抑えた。子供たちはみな泣き叫び、もはや逃げ出すこともできない。

 白銀のボコブリンはそれを見て明らかに嘲笑していた。

 人が苦しむ様をみて、目を可笑しそうに歪めて笑っていた。

――どうしてこんな、なんで酷い。

 彼女自身は決して悪人に類する人ではない。平々凡々なただの少女でしかなかった。

 それなのに家庭では虐げられ、大事に思う子供たちを逃がすことも出来ず、最期は魔物に嘲笑われながら殺される。

――ひどい、ひどいひどいひどい!

 狂ったように痛む右顔面から手を離し、血に塗れた手がその辺に転がっていた桶に届いた。怒りに任せて振り上げると、嗤うボコブリン目掛けて振り下ろす。

 人に怒ったことも無ければ、手を上げた経験すらない彼女にとって、人生で初めての暴力だった。

 だがそれもあっさりと躱されて、ひょいと白銀の体が後方へ飛び退く。

「どうして一発ぐらい当たらないのよぉッ!」

 血と涙が混ざったものがぬらぬらと頬を濡らす。打つ手無くみじめに殺されていくだけの人生に、もっと逆らえばよかったと、もっと言いたいことを言えばよかったと、血の涙が出るほど魔物を睨みつけた。

 その魔物の首が、あっけなくポンと飛ぶ。

「え……?」

「大丈夫ですか?!」

 戸口に立っていたのは、青い衣を纏った騎士だった。

 見知ったアッカレ砦の騎士たちよりも随分と小柄だが、明らかに気迫が違う。携えた剣は青白く光り、血振りをせずとも刃が曇らない。

 騎士は頬に飛んだ魔物の血を拭うことも無く、まっすぐに彼女の元へと駆け寄った。傷の具合を見るや、すぐさまポーチの中から当て布を出して、体躯に似合わぬ大きく無骨な手で痛いほど傷を抑えてくれる。

 間近くにある真摯な青い瞳に、彼女は思わず見惚れてしまった。

「すぐに治療できる人が来ます。それまで傷口を抑えていてください」

「あなた、は……」

「援軍としてきました、ゼルダ姫の麾下の者です」

 泣き叫ぶ子供たちの頭をポンポンとやってなだめると、彼はすぐまた別の叫び声のする方へと走っていった。

 その騎士が退魔の騎士その人だったことを、彼女、ラディはそのすぐ後に知る。

 行方不明になっていた姫巫女と共に厄災に奪われていた神獣を取り戻し、アッカレ砦の包囲網を突き崩し、国の滅亡を覚悟していた砦の人々を救った青い瞳の騎士。彼が王女のすぐ隣にある人と知りながら、それでも恋慕をしたのはラディの故意ではない。

 ただあの日、誰にも顧みられなかった辺境の少女を救ったのが、リンクだったと言うだけの話だ。