傍らの青の一途 - 6/13

4 それぞれのやり方

「そなたがやるわけがないとは分かっておる。だが証明が出来ぬ以上、こうする他ない。許せよ、ゼルダ」

「承知しております、御父様」

 ゼルダの私室の入り口近く、大きく開かれた扉の前でロームは顔を苦々しく歪めた。お付きの近衛騎士たちも視線を床に落とし、侍女も全て部屋から追い出されている。

 ゼルダは部屋に一人押し込められた。事実上の軟禁だった。

「儂の方で何とかする。だがそなたも何か気付いたことがあれば、世話役の者を通して申し伝えよ。期限は、……分かっておるな」

「はい」

「何としても身の潔白を示すのじゃ」

 無情にも閉じられた私室の重たい扉、その向こう側に置かれたのは捕吏隊の騎士たちだった。ゼルダが顔をよく見知った近衛兵や侍女たちは全て遠ざけられ、世話役に着いた見も知らぬ白髪の老女しか周囲には近寄れない。インパやリラは目通りさえ許されなかった。

 書類仕事さえ取り上げられたゼルダは、ただ広いだけの空虚な部屋を見回す。いつもは世話焼きの侍女や、口うるさいインパ、戸口で全身を耳にしているリラがいるのに。

 誰も傍に居ない。

 なにより、リンクが居ない。

 これまでどんな窮地に立たされてもゼルダの傍らには彼がいた。力に目覚められずに悩んでいた時も、城が厄災の手に落ちて父を失ったと思った時も、テラコを失いながら厄災を封じたその時もその後も、姫巫女の傍らにはずっと騎士がいた。

「なんで……、こんなことに」

 ドレスが皺になるのも構わず、ゼルダはベッドに身を沈める。漏れ出る嗚咽が扉の向こう側に響かないように、小さく肩を震わせた。

 これまでいくら身の危険を感じようとも、苦しい立場に置かれようとも、本当の意味での孤立無援になったことは無かった。ところが今やゼルダの周りからは完全に人払いがなされ、リンクに至っては不義理を働いていた可能性すらある。

 誰も頼れないのに、時間だけは刻々と過ぎていく。泣き疲れてウトウトしかけていたとき、控えめながら扉がノックされた。

「は、はい!」

 慌てて飛び起き、赤い目尻を擦りながら扉を開ける。

 腰の曲がった老女がお盆を持っていた。

「ゼルダ様、料理長からお心をお慰めしたいと、甘味が届きましたがいかがなさいますか」

「……いただきます。ありがとうございますと、伝えてください」

 受け取った皿の上に乗っていたのは、茶色いチョコレートだった。少し歪な形をしていたが、どうやら料理長が残っていたカカオ豆を使って作ってくれたらしい。

 湯気立つ紅茶に、歪んだ丸いチョコレートが三つ添えられていた。

「まだ私の味方をしてくださる方がいるのですね」

 紅茶を一口飲んで、温かくなった口の中に丸いチョコレートを含む。ふんわりと甘い香りが鼻へ抜けて、口の中はとろりと溶ける。まろやかな甘さが広がった。

 ゼルダは泣き笑いしながらゆっくりと二つ目を口に含み、時間をかけて甘美を堪能する。だが不意に、眉をひそめた。

「ん……?」

 何かが歯にコツンと当たる。

 最初はナッツか乾燥イチゴかと思ったが、明らかに食べ物ではない硬さだ。異物だと分かり、ゼルダは顔をしかめながらそれを口から出す。手のひらの上に転がり出たのは、小さな黒いカプセル状のものだった。

 ざらついた表面といい、継ぎ目の精巧なことといい、恐らくこれはシーカー族の手によるもの。もしやと思って三つ目は歯を立てて齧ってみたが、こちらの中身はナッツだった。

「……インパ?」

 懐紙で拭って封を開けると、中身は小さな紙切れが丸まって入っていた。人差し指で抑えるようにして広げたそこに書かれていたのは、『抜け道から参ります』の文字。関節二つ分程度しかない紙切れに、律儀な性格そのままの角ばった文字がみっちりと並んでいた。

 見間違えようもなく、それはリンクの字だった。

「どうして……?」

 詳しい話を聞く前に軟禁されてしまったので不明だが、リンクはおそらく釈放されたのだろう。だからと言ってそうそう自由に歩き回れるはずもない。良くてあの寮の一室に、ゼルダと同じく軟禁されているのが関の山だ。

 だがどうやらリンクとインパは合流し、調理場に忍び込んで料理長と共謀しているらしい。

「通りでチョコレートが歪なはずです」

 すでに二個と半分はゼルダのお腹の中に収まって、紅茶と一緒に心まで温めていた。

 最後のチョコレートの残りを口に放り込み、ゼルダはリンクを真似して歯を立てる。ゴリッと大きな音をして噛み砕いたチョコレートも案外美味しいものだった。

「そうですね、諦めてはだめです。まだ私にもできることがあるはず!」

 残りの紅茶も飲み干して、軽く頬を叩いた。

 リンクに会いに行くために使っていた通路は、実は外側からは開かない。貴人の居室には往々にして逃走経路が準備されているが、そこを使って暗殺者が外部から侵入出来ては困るからだ。その外からは開かない通路から入ってくるということは、つまりゼルダが戻ってくる時と同じように、内側から開ける係が必要になる。

 いつもは身代わり役のインパが通路の扉を開けてくれていたので、今回は逆のことをするわけだ。

「では二人が来るまでに、私も考えられる限りのことをしましょう」

 まずリンクからの手紙を蝋燭で燃やして証拠を消した。カプセル自体はどうしようもないが、中身が無ければ遺物の研究材料とでも何でも言い訳はできる。

 次いでペンとインク壺と紙を引っ張り出した。いつもは侍女に準備させるのだが、誰もいないのでゼルダが自分でやるしかない。ペン先にインクに浸し、しばらく難しい顔で考えていたが、頷きながらペンを走らせ始めた。

「まず、状況の整理です……。ダリア夫人は私が煎れた紅茶のおかわりを飲んだ後に苦しみだして亡くなりましたけど、結局カップは割れてしまって毒物がどこに入っていたのかまでは分からなかったんですよね」

 一人なのを良いことにゼルダは、トントントントンと、はしたなくペン先を遊ばせる。

 あの時、ダリアが食べていた物が何だったかまで、正確なことは思い出せるはずもない。それでもクッキーやチョコレートはもちろん食べていたし、星のかけらの砂糖菓子なども皿に取っていた気がする。

 案外ダリアは、甘いものが好きだったのかもしれない。

「犯人はお茶会に参加していたあの中にいたということは間違いありません。でもどうやってダリア夫人を狙って毒物のあるものを食べたり飲ませたりしたのか、そっちが分かりませんね」

 なにせあの場には三十人もの令嬢や夫人たちがいた。まさか全員に目を配ることは現実的ではない。

 一方の招待客は、会場の庭園に入るまで自分の席すら知らされていない。にもかかわらず、犯人はゼルダの目の前でダリアに毒を飲ませた。

 方法が皆目見当つかず、ゼルダは口を尖らせる。いくら考えても埒が明かないので、紙に『?』と大きく書いてその場ではそこまでとした。

「方法はともかく、この招待客の中にダリア夫人の一派以外に、今まで明らかになっていなかった反対派閥が隠れ潜んでいると分かったことを収穫としましょう」

 実は茶会の前日にインパとゼルダは、誰がチャード殺害の犯人候補の本命であるかを伝えあっていた。二人は声を揃えて『ダリア』と答えたわけだが、当の本人が殺されてしまったのだから予想は大外れ。

 しかし元からチャードの殺害とゼルダの失脚はセットで動いているのだから、根本的な考え方は変わらない。今まで見えなかった敵があの中に潜んでいただけという話だ。

「治癒院に関する敵? それともルテラー川の治水工事の方……? 心当たりが多すぎますね」

 呟きながら、コンコンとまたノックされた扉に向かって返事をする。先ほどの老女がこっそり顔を覗かせて、空になったお皿とカップを下げても良いかと聞いてきた。

「はい、大丈夫です。そちらに持っていけばいいですか?」

「ゼルダ様のお手を煩わせて申し訳ありません」

「構いません。気にせず職務を全うしてください」

 普段であれば、空になった食器類は何も言わなくても侍女やメイドが片付けてくれていた。しかし着替えの手伝い以外では侍女は部屋の敷居を跨ぐことも許されず、部屋に入れたとしても老女の監視が必ずついた。しわしわの手に空の食器を渡し、ゼルダはぱたんと扉を閉じる。

 何でもない動作だったが、扉を閉じて寄りかかった翡翠の瞳は大きく見開いていた。

「そうです。なんでサワビ夫人はチョコレートを知っていたんでしょう……?」

 チョコレートは、その存在も製法もハイラルでは未知のお菓子だった。外国の要人から送られたお菓子の中に入っていたものを一口食べて以来、ゼルダはチョコレートをいたく気に入ってしまったのだ。

 研究者気質がそれを後押しし、チョコレートを取り寄せるだけでなく、作る方にまで手を出し始めたのがつい最近の出来事。チョコレートの製法に関する書籍と原材料を取り寄せ、執務の合間を縫って少しずつ外国語の本を解読していた。こうして先日、初めてハイラルでチョコレートを作ったのはおそらくゼルダだ。

 だがサワビは、あのお菓子を見るなり声を上げた。

 傍目にはチョコレートはただの茶色い塊で、一見するとあまり美味しそうには見えない。しかし甘くておいしいお菓子だと、一目見て彼女はチョコレートの本質を言い当てた。

「シレネやラディのような高位貴族の令嬢ならともかく、一介の男爵夫人に高級菓子を取り寄せることが出来るとは思えません。となると考えられるのは、まさか」

 足早に机に戻り、本の並びから折りたたまれていた地図を出して広げる。そこには中央ハイラルから東側が大きく描かれており、ルテラー川とラネール湾を繋げることで可能になる船便の量や規模についての走り書きが大量にあった。

 現在のハイラルでは、海外からの船はウオトリー村か、アッカレ地方のマーリン湾に入港することになっている。ただ、マーリン湾は渦巻の形をしたマキューズ半島のおかげであまり規模の大きな船は入ることが出来ない。大きな商業船は主にウオトリー村に入り、荷物はフィローネ樹海を通って中央ハイラルに運ばれていた。

 これらの大型船を、ラネール湾とルテラー川を経由してコポンガ村まで入船させることが出来れば、ゼルダが試算してみたところ年間おおよそ五割もの取引の増加が見込める。

 輸入と輸出、どちらの面から考えても大いに利益になることだ。

「ですがコポンガ村経由が増える代わりに、ウオトリー村経由とアッカレ経由からの輸出入は減る可能性がある……、もしやこれがウトノフ男爵の治水工事を邪魔する原因?」

 しかしながら、ハイリア大橋を管理しているからと言って、通行税が法服貴族の懐に入ることは無い。彼らはただの官僚で、懐に入った場合には賄賂になるからだ。

 それにインパに調べてもらったところ、ウトノフの懐事情はそんなによろしくないとのこと。つまり彼は賄賂を貰って私腹を肥やすような腐敗した官僚ではない。

 それでも自分の管理する場所を荷物が通らなくなることを阻止しようするのであれば。しかも彼の妻が、未だご禁制品であるチョコレートを知っていたということは?

「つまりウトノフ男爵夫妻は、美味しそうな物の少しずつ荷抜きをしていたということですか……!?」

 まるっとふくよかな夫妻のシルエットを思い出し、ゼルダは思わずこめかみを抑える。こっそり二人で美味しい物を少々失敬する姿を思い浮かべると、どことなく正解らしく見えてしまうのはゼルダの先入観だろうか。

 人気のない廊下に大量の水を撒いて『ルテラ女王の祟り』を演出していたのがウトノフとサワビならば、その大味なやり口さえもあの二人らしく見えてくる。二人がかりの犯行ならば、見張りと水を撒く役割分担も可能だ。

 決定的なのはカカオ豆をすり潰す機械が無かったこと。確かに頼んだはずの機械がなくて、インパがひぃひぃ言いながらすりこ木でカカオ豆をすり潰していたのがいっそ可哀そうになってくる。頼んだチョコレートと勘違いして、抜いた荷の中に機械が入っていたのかもしれない。

「辻褄はあいますけど……。しかし美味しいものを荷抜きしたいがために、高位貴族を殺して私に濡れ衣を着せるというのは、あまりにもリスクが高すぎますね」

 研究目的のフィローネの植物を温室に持ってきてもらった際、ウトノフとサワビは挙動不審の塊だったことを思い出しながらゼルダは顎に人差し指を添えた。

 あのおどおどした挙動の何割かが『祟り騒動を起こしている後ろめたさ』から来るものだとしても、恐らくウトノフとサワビには王女に牙を剥く勇気も、高位貴族を殺害する度胸もない。二人は至って平凡な法服貴族でしかないのだ。

 あの夫妻に『殺人犯』は荷が勝ちすぎている。

「『ルテラ女王の祟り』と『三つの殺人事件』は別と考えた方がいいかもしれませんね」

 すーっと長い線を引いて、ゼルダは紙の上で『ルテラ女王の祟り』と他三件の殺人事件を分断させる。ルテラ女王の祟りの方に二人の名前を書いてから少し考え、上から何重にも線を引いて名前を消した。そこにUとSを書き直して、丸で囲む。

「誰かに見られたら危ないことは書かないようにしましょ……今回の発端は名前の上書きでしたし」

 今頃、何かをどうにかして軟禁状態から抜け出したリンクは、インパにチャード殺害の晩の顛末を語っているところだろう。実際、事件現場の地面に誰の名前が書かれていたかはリンクと犯人しか分からない。

 だとして、次なる事件が立て続けに二つ起きた意図もよく分からなかった。

 ゼルダに殺人の罪を着せ、リンクもろとも失脚させるためならば、『ゼルダ姫によるダリア殺害の現場』を作り出すだけでいい。だが現実には首無し死体の傍らにリンクの名前があったことで、チャード殺しにおけるリンクの疑いは真っ白に近いほど薄くなってしまった。

 このままでは宮廷から排除できるのは、ゼルダ本人だけになってしまう。

「なんで二つの殺人事件があの日に同時に起ったの、誰がこんなことをしたの……?」

 ぶつぶつと思考を反芻しながら、ゼルダは茶会に招待したリストと人選のために使った手紙の束を引っ張り出す。

 ひとりひとり、名前と出自を書き出して利害関係を箇条書きにしてみたが、ゼルダの唸りは酷くなるばかり。元々は中立や味方だと思っていた夫人や令嬢ですら、サワビのことを踏まえると怪しく見えてくる。貴族など腹の中身には何が詰まっているか知れたものではない。

「同時に二か所で死体が出たということは、外側にも協力者がいたということですよね。つまり共犯者がいるってこと……共犯が夫や家族だとしたら、ええっと、何をどう考えたらいいのかしら」

 次々に手紙の封を開けながら招待客の顔を思い浮かべて困り顔になっていたゼルダだったが、一番下に混ざっていたぐしゃぐしゃの手紙を手に取り表情が強ばる。無記名の、リンク宛ての恋文がそこに混ざっていた。

「私ったら、持ってきてしまっていたんですね……」

 あの日、リンクの部屋で見つけた大量の恋文のうちの一通を、彼女は無意識に握りつぶしてそのまま部屋を出ていた。大方、机の上に放り出してあった手紙を、侍女がゼルダ宛ての手紙と勘違いして重ねてしまったのだろう。丁寧に皺を伸ばされた形跡だけあった。

 吐き気のするほど甘い文章を思い出して、ゼルダはぎゅっと目をつぶる。

 決してリンクを疑うわけではないが、未だに真実はゼルダの元には届かない。十中八九、一方的に送り付けられていた恋文だと分かっていても、気になってしまう。

「会えたら、このことも聞かねばなりませんッ」

 捨てずにもう一度、文面に目を通す。インクに砂糖でも溶かしたのかと思いたくなる甘ったるい文字の並びに、口元を抑えながらゼルダは最初から一文字ずつ情報を拾っていく。冷静になって読むと、リンクも厄介な女に付きまとわれていたのだと、ついに不憫になって天井を仰いだ。

 そのコロコロとした丸い文字からは聡明さの欠片も見えず、男に取り入ろうと躍起になる浮かれ女の顔がチラつく。

 ……かと思っていたゼルダは、あるところまで読んで真顔になっていた。

「この、文字」

 可愛く飾り立てた女の顔をした文字の中に、どことなく見覚えを感じてゼルダは生唾を飲み込んだ。

 リンクへの恋文の筆跡の第一印象は、娼婦のような匂い立つ男への媚びが前面に出たものだった。恋しい相手に書くのと、憎い相手に書くのとでは、文字の丁寧さや印象も自然と変わって見える。とはいえ同じ人間が書けば、自然に文字には細かな癖が反映される。ペンの流れは、そう易々とは変化しない。

 それを踏まえて筆跡をなぞりながら、ゼルダは様々な令嬢とやり取りしていた手紙の束とを見比べ始めた。一通一通、丹念に字を見比べ、違えば封筒に戻す。その作業を淡々と繰り返す。

 いて欲しくないとは思いつつも、恋文の文字を書いた人物が一体誰なのか、知りたい気持ちがゼルダの手を動かし続けた。

「……、いました」

 随分と経ってから、ゼルダは思わぬ手紙を手に取って口を半開きにしていた。

 さっと目を通した限りでは、あまり似ていない。だがLの縦の画の角度やEの横の画の長さやバランスなど、小さなところを指摘していけばキリがないほど似ている。

 ほぼ間違いなく、同一人物。

 震えそうになる手で、ゼルダは自分に宛てられた手紙をもう一度読む。綺麗な言葉で飾られた見事な仮面を被っていた。どこにも女の匂いなど感じさせず、恋文とはまるで違う。

「彼女もまた貴族、ということだったのですね」

 王侯貴族などというものは水鳥みたいなもの。見えるところは優雅に取り繕っているが、水面下ではバタバタとまるで違う生き物だ。だからこそ腹の中身は開いてみなければ分からない。どんな綺麗な人でも、貴族とはそういう生き物だ。

 もちろんゼルダ自身も上辺は完璧な淑女を演じているが、財政には夜中に歯ぎしりするほど頭を悩ませているし、気が緩めすぐにでも恋人の元へ駆けていきそうになる。

 それを認めて再び恋文を読むと、手紙の送り主の痛々しいほどの願いが垣間見えた。

「ということは、彼女は私を排除してリンクと恋仲になりたかったから二つ同時に事件を起こした? つまりダリア夫人を殺した手口は、……そういうこと?」

 方や首無し死体の現場にリンクの名前を残して周囲に濡れ衣に気づかせ、方やゼルダの目の前でダリアを殺害してその罪を擦り付ける。

 相当大立ち回りが必要ではあるが、協力者の存在を含めてもその人には事件を起こすことができてしまう。

「動機、手口も、矛盾はありません……。ならばあとは証拠ですね」

 気が付けば日は傾き、すでに夕餉の時間に近い。食事はいつもと変わりなく準備され、ゼルダは一人で黙々と食べながら時を待った。

 月が上り、中天を過ぎ、西へ傾く。

 もはや月明かりさえ望めなくなるほど夜が更けたころ、トントントンと合図があった。慌ててベッドから飛び降りたゼルダは、静かに書棚の本に似せた突起を押す。

 するとギィと小さく音がして、書棚が引っ込んで通路が開いた。

「姫様」

「リンク! インパ!」

「しー! お・し・ず・か・にっ」

 飛び出してきたインパが星明りに笑う。ようやく出会えた頼もしい味方に、ゼルダは思わず声を上げたくなるのを堪えて口を覆った。

 素足のまま冷たい石の床に立ち尽くし、インパの背後の人影に走り寄る。そのまま飛び込んだのは、シーカー族の隠密が着る忍び装束姿のリンクの腕の中。見慣れない姿でも、青い瞳だけは宵闇に明るく輝いていた。

「お待たせして申し訳ありません」

「本当に! どれだけ私がっ、心配を、……もうっ、もう!」

 衣擦れの音がほとんどしない特殊な薄布を一枚隔てたところに、リンクの硬くて温かい体があった。首筋に顔を埋めると回した腕に力が籠り、無骨な指が愛おしそうに長い髪を撫でた。

 ゼルダはホッとするのと同時に腹立たしくなって、握りこぶしでドンと胸を叩く。すると彼は一瞬咳き込みそうになって目を伏せた。

「全部お話します。というか、インパに全部吐かされました」

「あの恋文のこと、私がちゃーんと締め上げておきましたからね!」

 隣で手持無沙汰なインパが胸を張るので、ゼルダは苦笑してベッドの傍へと戻る。誰かが来てもすぐにベッドで寝ていたように見えるよう、わざと上掛けをずらしてそれらしくした。

 そのすぐそばにインパとリンクも立って、周囲の物音に聞き耳を立てる。しばらくすると緊張が少し和らげて頷き合った。

 聞いている者はいない、それが分かるとゼルダはリンクの青い瞳を覗き込む。

「それで、あの恋文の主が誰だかリンクは分かっていたのですか?」

「申し訳ありません。半年ほど前から送られてきていたのですが、誰からなのかはまったく見当もついていません。毎回違う商人を経由して届くので気味が悪いだけで……この春に登城するとあったので、もし向こうから何か言ってきたら全て文をお返しして止めて欲しいと伝えるつもりでした」

「やはり、分かってなかったんですね」

 あからさまな安堵の声色を出すゼルダに、インパは抑えながらも「ちーがーうーでーしょー!」と声を荒げる。

「姫様、いまは恋文の相手なんか置いといてください! お部屋の外では貴族たちが『ゼルダ姫が治癒院反対派を毒殺した』って話で持ち切りなんですよ?! ダリア夫人の身内は早く裁判を開けって、それはもう大変な騒ぎです!」

「そうです。このままだと姫様は裁判で有罪になります。だからその前に逃がすために俺たちが来ました、無論このことは陛下もご存知です。どうかインパを身代わりに、姫様はどこか別の場所に身を潜めてほしいと」

「なるほど、通りで御父様が私の軟禁場所を私室に指定したわけです」

 よく見知った侍女や騎士の立ち入りが全て禁止され、世話役は初対面の老女ただ一人。しかも私室に抜け道があることは、厄災に落ちた城を復興する際に図面を見ているロームはよく把握している。ゼルダが簡単に部屋から抜け出せることも分かっており、よしんばインパが姿を変えてゼルダの身代わりになっても見破れる人がいないというわけだ。

 ロームは開廷までの時間稼ぎをたっぷりする腹積もりで、その間に娘を逃がすことを選んだ。身代わりとなったインパをそのままゼルダと偽って流刑にさせるつもりだが、何となればインパは自力で逃げ出すこともできる。そうこうしている間に真犯人を捕まえ、堂々とゼルダを帰還させればよい。

 そこまでの計画を見抜いたうえで、しかしゼルダはきっぱりと首を横に振った。

「御父様のお考えは分かりました。でも私は逃げません」

「意地を張っている場合じゃありませんっ。反対派がうるさすぎて、あの茶会出席者全員の取り調べすらまだできていないんですから!」

「いいえ、犯人はもう分かっています」

 えっと、小さく声を立てて二人の動きが止まる。瞠目する二人の眼前にゼルダは皺を伸ばした恋文を突き付ける。リンクは目を逸らし、インパは恋文を通り越してゼルダに食って掛かった。

「これはリンクのストーカーの案件で、姫様が疑われているのは殺人事件ですよ?!」

「いいえ、この恋文をしたためた人こそ、殺人事件の犯人です」

「えぇ?」

「どういうことですか?」

 どろどろの甘い文面とゼルダと見比べながら、リンクもインパも眉をひそめた。無論、文面自体には何もしかけは無い。それでもゼルダは恋文から匂い立つ女の香りから顔をそむけた。

「そもそもダリア夫人と首無し死体の事件が同時に起ったことが不可解なんです。私の政策に反対して廃嫡させるだけなら、ダリア夫人を殺すだけで十分なはずですよね。ならば首無し死体はリンクの濡れ衣を晴らす目的だけのものと考えた方が自然です」

「つまり俺に恋文を送っていた人が、姫様だけを城から追い出して俺に取り入ろうとしていたと?」

「嫌な話かもしれませんが、そうまでしてでも貴方が欲する人が、あの茶会の現場に居たのです」

 にわかには信じがたいのか、リンクは眉間に深くしわを刻んで黙りこくる。だがゼルダの方は恋文をしたためたであろう人物の気持ちの端っこが、朧気ながらも覚えのあるものになりつつあった。

 ゼルダにとって恋焦がれても血反吐を吐いても手に入れたかったものは、誰か別の人のものではなかった。また非常に幸いなことに、今それは念願かなってゼルダの右手の甲で輝いているし、あるいは目の前に人の形をして立っている。

 でももしリンクと出会った時、例えば彼にすでに好い人がいたとしたら。

 自分だったらどうしただろうかとゼルダは胸に手を当てた。地位を振りかざして騎士を恋人にするぐらいのことは、王女であるならば可能だろう。だが心が伴わないでは意味がないこともまた、彼女はすでに知っている。

 ならば心を伴わせたい場合、その方法は「意外と簡単ヨ」とプルアがうそぶくのを聞いていた。

「心が弱っているときに優しくされると、誰しもほだされるそうですよ」

「そんなことをされても俺はッ」

「リンクがそういう人だということはもちろん知っています。でも、その人はどうしても貴方が欲しかった。誰かを排除してでも、欲しかったんです」

「でも姫様? 証拠がありませんよね。もしかして私たちの役目は証拠探しですか?」

 恋文を色んな角度から眺めていたインパが、二人の間に割って入る。

 そこでようやくリンクは我に返り、珍しく怒気を孕んだ息を大きく吐き出した。小声で「失礼いたしました」と顔を伏せる。

 ゼルダはインパに向かって大きく頷いて見せた。

「その通りです。首無し死体の現場に残っていた筆跡とこの恋文、さらに私宛のこの手紙の筆跡を、どうにかして比較してもらえますか」

「証拠自体は先輩に頼めば何とかなると思います。……この方が、俺に文を寄越していたんですね」

 ゼルダ宛ての手紙を受け取ったリンクは、清廉な青い瞳を歪めて文面を睨みつけていた。恋文を書いた本人は、リンクにこんな風に文を読んでもらいたかったわけではない。

 しかし皮肉にも現実は、リンクの本来の恋人の側から明らかにされてしまった。おそらく相手方にとっては、最も避けたかった状況だろう。

「おそらく本人で間違いありませんが、必要なのは本人と恋文と殺人現場を結びつけることです。それからチャード殿の遺体をもう一度検分してみてください」

「チャード殿? それは一体なぜですか?」

「どうして首無し死体だったのか、それは遺体の身元が分かっては駄目だからです。そうでもなければ、人の首を切断するなんて大変なことは普通はやりません」

「つまり、首無し死体は、チャード殿だということですか?」

「確証はありません。でもあの朝、実はた……っ?!」

 リンクの大きな手がゼルダの口を塞ぎ、続きは掻き消えた。

 飛び込む勢いでゼルダはベッドにもぐって息を殺す。同時にインパはベッドの天蓋の上へ、リンクはベッドの下へと潜り込んだ。

 控えめなノック音のあと、扉の向こう側から酷くしゃがれた声があった。

「ゼルダ様、何かございましたか?」

 腰が曲がっていたが、やけに耳が良いらしい。世話役の老婆が扉挟んですぐ向こう側にいて、もしや話をしているところを聞かれてしまったかもしれない。

 ゼルダは声が震えないように両手を握りしめ、努めて冷静に寝起きを装って声を出した。

「大丈夫です。少し嫌な夢で、……うなされていたのかも」

「お水をお持ちいたしましょうか?」

「大丈夫です、下がってください」

「かしこまりました」

 一切の音無く、気配だけが扉の前から消える。

 しばらく窓の外を駆け抜ける風の音しかしなかった。たっぷり百数え終わったころに二人は隠れた場所から出てきて、一段と声を落とす。

「夜に姫様の私室で会うのはもう危険ですね。証拠探しの結果は別の方法でお伝えします」

「分かりました。私の方はこの部屋からは基本出られませんが、たぶん祈りのお勤めの時だけは出られると思います」

「それだけ隙があれば十分ですよ、では!」

 再びインパは書棚の突起を押して抜け道を開く。恋文を受け取ったリンクは、名残惜しそうに抜け道へ向かった。中は一寸の光も許さない真っ暗闇だった。

 その闇へ二人が姿を溶かす寸前、ゼルダの手が伸びる。リンクの首元に巻き付けられた布の端をくいと引っ張った。引く袖がないから仕方がなく。

 だがリンクは予想以上に慌てて、大きく見開かれた青い瞳が振り向く。その実直な瞳を、ゼルダは下から睨んだ。

「リンク、一人でどうにかしようとしないでください。私はずっと貴方に助けられてばかりですけれど、私だって本当は貴方の助けになりたいのです」

「姫様……」

「困ったことがあったらちゃんと言うって、約束してください。私と貴方は対なんですから」

 暗闇の戸口でインパがせかせかと手招きをしている。

 それに背を向け、リンクはゼルダの手を取った。星明りを白く弾く手袋に包まれた手の甲に口付けを落とす。形式的には貴婦人へのあいさつと同じだったが、彼の唇はゼルダの右手の甲の印を捉えていた。

 それだけで、これが誓いだと、ゼルダの方も意味を理解する。わだかまっていた一切合切が霧散していった。

「気を付けて。吉報を待っています」

「ゼルダ様も、どうか体にお気をつけて」

 踵を返したリンクの後ろ姿をすぐさま暗闇に溶け、駆ける足音も消える。

 ひらひらと揺れる忍び装束の衣の先が全く見えなくなってもしばらく、ゼルダは深い闇へと続く抜け道の階段を眺めていた。

「リンクと一緒に逃げれば、よかった? ……いえ、まさか」

 インパを身代わりに残し、彼と逃げるのは非常に甘美な囁きの提案だった。そうでなくとも、ここを下れば彼女は飛び出して自由の身となり、自分の手で真犯人への手がかりを探すことが出来る。

 それが分かっていても差し出された手を断って軟禁状態の維持を選択したのには、逃走が不要である以外にもうひとつ理由があった。

 部屋に本物の姫が居残って行動を起こすことで、人々の意識はおのずとゼルダに集まる。その間はリンクとインパは動きやすくなるという目論見があった。

 ゆっくりと通路を閉じ、ゼルダは胸の前で手を握りしめる。

「大丈夫です。私は、大丈夫」

 黙って囚われていることは、決して楽なことではない。ひりひりと疼く体を強く撫でつけて、ベッドに戻ると頭から布団を被った。

 インパが隠密として動いていることからも、シーカー族の隠密たちの全面的な協力が得られていることは想像に難くない。あの様子ではリンクの側にもシーカー族の身代わりがいるのだろう。表立っては動けないが、おかげで彼は自由に動き回ることが出来る。

 ならば彼らを信じて返事を待つことと、人々の非難と好奇の視線を集めるのがゼルダの役割だった。それはリンクにもインパにも出来ない。

 それらの有象無象に耐えられるだけの精神力を持つのも、ゼルダの側だった。

「私は私の出来ることを、する」

 翌日、形式的な捕吏隊の尋問を受けるなどしたが、それ以外には全く音沙汰がなく一室に押し込められたままだった。どのように接触するかの知らせすらない。父であるロームも部屋を訪れることは無く、ゼルダが脱出をしなかったことに呆れている気配すらあった。

 がらんどうの部屋をどす黒い不安がひたひたと浸食していく。

 何も手に付かず、ゼルダはただ嘆息を飲み込んで時が経つのを待っていた。すでに私室で出来ることは無くなり、もう二人からの結果を待つことしかない。

 思い出されるのは、いくら祈りの修行をしても力を得られなかった日々のことだった。

 一年と少し前、厄災復活の予兆が大きく騒がれていた頃は、心を磨り潰されそうにながらも、がむしゃらになれる修行が目の前にあった。今はそれすらない。

 老女の控えめなノックにすら反応が過敏になる。

「お勤めの時間でございます」

「はい」

 姫巫女としての役割だけは、殺人容疑で軟禁されていようとも誰かが替わりをつとめることが出来ないと判断されたのが逆に良かった。姫巫女の装束に着替えるのを手伝う侍女が二人通され、老女が監視役として衝立の脇に立った。

 その侍女二人の顔を見て、ゼルダは笑顔になる表情筋を必死で抑える。

 今日の侍女たちの指が貴人の世話をする役にしては随分と節くれだっていることに、果たして老女は気が付いているだろうか。背が高い侍女の瞳は淡い緋色の瞳で、背が低いもう一方の侍女の瞳は突き抜けた空色をしている。

 彼と彼女を知る者が見れば一目で正体が分かるが、老女の視線は監視対象のゼルダに釘付けになったままだった。

 背が高い方の侍女がゼルダのドレスを脱がせ始めると、空色の瞳の侍女はドレスの裾を持って必死に顔を伏せる。誰がこの方法を言い出したかは定かではないが、どうやら本人はあまり乗り気でないようだった。

「そういえば」

 姿見に映った背が高い方の侍女と視線を合わせ、ゼルダはおもむろに口を開く。ドレスから、殊更ゆっくりと腕を抜いた。

「弟さんの手紙の件はどうなりました?」

 侍女は緋色の目をニコリとさせて、満面の笑みで頷く。

「姫様に言われた通りでした。やはり字は大切ですね」

 やはりと頷き返しながら、ゼルダは青い瞳の侍女の方をちらりと見る。するとそちらも小さくコクリと頷いたが、次の瞬間には酷く慌てた様子で姫巫女の衣装を取るために後ろを向いてしまった。

 ミスヴァーイ選手権に女装して出ていた割には、どうやらゼルダの着替えは照れることらしい。何かの拍子にいま被り物が取れてしまったら、耳の先まで赤くなったところが見られるかもしれない。そう思うとゼルダは心底面白くなって、うかうかすると笑いそうになる口元を改めてきゅっと引き締める。

 ところが背後でコルセットを締めている侍女の声は、あまり面白くなさそうだった。

「ですが、お相手の方がどう思われているのか、その物・・・自体は見せていただけなくて……」

「あら、そうなのですか。それは残念でしたね」

「よく思われていないのかもしれません」

 ふむ、とゼルダは独り言ちる。

 どうやらチャードの遺体の検分はさせてもらえなかったようだ。リンクの先輩である捕吏隊の隊長が協力を拒むとは思えないので、別に理由があるのかもしれない。

 だとしたら次の一手は、ゼルダの中では決まっていた。

「だとしたら、弟さんがお手紙を書いて……」

「ゼルダ様」

 衝立の脇に立つ老女が重たい口を開いた。途端に部屋の温度が下がり、チリチリとした緊張に張力が掛かる。

 侍女たちは緊張した面持ちで老女をちらと見たがゼルダは振り返らず、悠長に締められたコルセットのお腹のあたりを気にしているだけだった。

「ずっと部屋に一人ではしゃべり方を忘れてしまいます」

「侍女の弟君にまでお節介でございますか」

「変わり者の姫の道楽のひとつですよ、大目に見てください」

 老女は怪訝そうに鼻を鳴らしたが、ゼルダ姫が遺物や他種族と特に深い親交を持つ人物であることは周知の事実だ。すでに姫巫女としての役割と十分に全うした彼女に対し、無害な趣味をとやかく言うことは王ですらできない。

 老女は押し黙ったが倍ほども鋭くなった視線がゆっくりと侍女たちの方へ向き、「続けてください」と低く唸った。二人の侍女は黙して頷くと、再び姫巫女の衣装の着付けのために手を動かし始める。

「弟さんがお相手の方にお手紙を書くのは」

「弟本人がですか?」

「その方とちゃんとけじめをつけるべきだと思うのです。会って、お話をすべきでは?」

「そうですね。姫様のおっしゃる通りだと思います」

 背の高い侍女は少し考えながらも、肯定の意を示しながら金のネックレスを手に取った。ゼルダは長い髪を少し掻き寄せ、再びもう一人の侍女の様子を伺う。金の腕輪を準備していた青い瞳は、ぎゅっと引き締まって迷いは無いように見えた。

 支度を終えて祈りの場へ赴く通路は、全て人払いがされていた。犯人扱いされているゼルダへの配慮がなされた形ではあったが、傍に居るのが全く気の許せない老女ではあまり意味がない。真新しい女神像の前に立つ前に、無意識にゼルダは肩を落とした。

「ゼルダ様は誰にでもお優しいのですね」

 その言葉は、ゼルダともう一人しかいない老女の口からだった。

 露骨な言葉にさしものゼルダも文句の一言でも言おうかと振り向いたが、老女の顔を見て口を閉じる。口ではとやかく言うらしいが、どうやらこの老女、あまり嘘を吐くつもりはないらしい。感心した様子でまっすぐな眼光がゼルダを射貫いていた。

 鋭い視線からふいと顔を背け、ゼルダは女神像を振り仰ぐ。

「私は色々な人の優しさに助けられて厄災を封じたのです。だから私のこれからの人生は、私を助けてくれた方々のためにあると言っても過言ではありません。民に、あるいはこのハイラルという地のために私は役目を全うしたいのです」

「王族がそのようなことを軽々と口にするものではございません」

「軽くはありません。私にとっては、とても覚悟のいることでしたから」

 地下からくみ上げた人工的な泉に足を踏み入れ、ゼルダは女神像を見上げる。

 幾度となく祈った女神は今日も無言を貫いていた。結局、女神は祈っていただけのゼルダに、直接は手を差し伸べてはくれなかった。

 手を差し伸べてくれたのは、共に生きていた人たちの方だ。それが人の手を介した女神の慈愛だったとしても、彼女の覚悟は共に戦ってくれた人達のためにあった。

「私はハイラルのために為すべきことを、誰かの血で贖おうとは思いません。これまでも、これからも必要ならば自らを差し出します」

「でしょうとも。先鋒に立って、あれほど輝かれていた姫巫女が、人殺しなどするはずがない。それなのに皆それを忘れて、嘆かわしい」

 老女の目が怪しく光る。オルドラの角のように煌めく瞳の奥で、星がいくつか光ったようにも見えた。

「厄災との戦いの折は、ゼルダ様も陛下も輝いておられた。王家の方々が陣頭に立って力を振るわれる姿に、兵たちはみな鼓舞されていましたよ。戦う拠り所ですらあった」

「……貴女は王家に古くから仕えているのですか」

「申し訳ございませんが、この婆はゼルダ様の監視役。お返事は致しかねますが、どうかお心を強くお持ちください」

 それっきり、老女は石のように黙ってしまった。彼女なりの気遣いと力添えだったのだろう。だがそれを受け取ったゼルダは、緩やかな疑問を抱いたままその日の祈りを終えた。

 掴みどころのない違和感と、振り向いても見つからない引っかかり。

 何かありそうなのに思い出せないむず痒さを感じ、夜半のベッドで何度も寝返りを打つ。

「私はもしかして何か大きな勘違いをしているのでしょうか」

 問うても返す者のいない疑問が、静かな部屋の中に落ちて消えていく。どこか継ぎ接ぎな思考を振り払おうと体を起こし、頭を乱暴に振る。

 と、窓に影が差し込んでいることに気が付いて、ゼルダはびくっと体を震わせる。だが次の瞬間には、口元を抑えて笑いをかみ殺した。

 窓の外から移り込んでいた影は、長く伸びた角が二本ある。くるんくるんと体を揺らし、枝をフリフリ踊っているようだった。

 ゼルダは足音を忍ばせてテラスに近寄り、ゆっくりと窓を開ける。テラスにはアサガオの葉っぱのお面をつけたコログが、月夜を背景に楽しく踊っていた。カラカラコロコロ、窓を閉めていたので気が付かなかったが、どうやらここはコログの踊り場になっていたようだ。

「ひめみこサマ、こんばんは」

「こんばんは。貴方ずっとここにいたんですか?」

「ずっとじゃなイよ、さっき飛んできタの」

「デクの葉で?」

「うんうん」

 赤い実のついた枝をしまって、ぴゅっと取り出したのはくるくる回る青い葉のついた枝だ。存外大きなコログだが、不思議なことにこの二枚の葉っぱを使うだけで空を飛ぶことが出来る。

 ということは、逆にここから飛び出すことも出来るということだ。

「アッ! ゆうしゃサマ呼んでくル?」

「今は、会えないのです。でもいつか伝言を頼んでもいいですか?」

「ひめみこサマの伝言なら任せテ!」

 ぽんと胸を叩いたコログに妙な頼もしさを感じて、ゼルダは極々小さくだが、声に出して笑った。

 再びコログは赤い実のついた枝を取り出して、くるりくるりと踊り始めた。ゼルダはしゃがみこみ、コログの不思議な踊りを眺める。

「もしかして、コログたちって城にたくさんいるんですか?」

「いるヨ。ハイラル城が新しくなってかラ、みんなで引っ越してきタの」

「だから温室にも居たんですね」

「温室? あのもじゃもじゃの木があルところ?」

「もじゃもじゃの木?」

 ぱたりと踊るのを止めたコログは、不思議そうに体ごと頭を傾げる。それに合わせてゼルダも首を傾げた。

 確か先日、届けてもらったフィローネの植物を温室に見に行った際、丸いお面のコログが居たはずだ。見間違いでなければ、同じような赤い実のついた枝を振って応じてくれていた。

 ところがコログはお面を左右にぶるぶると振って、両手をバタバタと妙に怖がっている。

「あそこ、ハイラルの植物じゃないのがいルからちょっと苦手」

「コログがハイラル外の植物が苦手だとは知りませんでした。でもこの間、確かに丸いお面の子を温室で見かけましたよ?」

「他にお引越ししてきたの、いるのカナ?」

 ハテー? と体が真横になるほど頭を傾げたコログを見て、ゼルダはしばらくその様子を眺めていた。

 丸いお面のコログと会ったのは夢ではないはずだ。

 だがコログはあの温室には確かにあまり近づかないらしい。実は森を思い出してコログが喜んでくれないかとゼルダは温室を整備していたのだが、言われてみれば温室でコログを見かけたのはあれが初めてだった。

「じゃああのコログは、あそこで一体何をしていたんでしょう」

 丸いお面のコログを発端に、パチンパチンとゼルダの頭の中で色々なことが繋がっていく。数珠繋ぎになった予想を手繰り寄せ、理論と思考の糸で真実までの道を紡ぐ。

 そうして影を潜めていた不安に指が掛かったとき、彼女は走って机に齧りついていた。慌てて燭台を灯し、コログが持てるぐらいの紙を二枚準備する。流れるようにペン先にインクを浸し、勢いよく文字を走り書き始めていた。

 ゼルダの鬼気迫る様子に、不安そうなコログは踊りを止めて部屋の中までポテポテと入ってくる。机にぴょこりと乗っかると、不用心な手元を覗き込んだ。

「ひめみこサマ、なに書いてルの?」

「『本当は犯人になるべきだった・・・・・・・者が逃走しようとしている』という手紙を出すようにと。これをインパの枕元に投げ込んでもらえますか? インパは分かりますか?」

「インパ、知っテる。大丈夫!」

 インパの側からコログを見ることは叶わなくても、コログの側からはインパはもちろん見えている。特にゼルダの周囲にいた人物についてはコログの方も興味があるらしく、インパやプルア、英傑についてはその人ズバリを認識していた。

 折りたたんだ手紙をコログに託し、ゼルダはもう一枚の紙を手元に引き寄せる。蝋燭がゆわりと揺れて、まだ白い紙の上で影が躍った。

「こっちハ?」

「こっちはリンクに頼み事をしようか、どうしようか」

「書かなイの?」

「知りたくない気持ちと、明らかにしなければならない気持ちの両方があるんです」

 またインク壺に浸したペン先から黒い染みが落ちた。じわりと滲む点をコログは手で突いて、黒くなった自分の手に驚き、ぴょっと細くなる。その汚れた手を紙にペタペタ触ろうとするので、ゼルダはこれ以上悩む余裕は無かった。

 ええいままよと書き始めた文章は簡単に一文で終わる。ただそれだけの願いだったが、ゼルダは唇を噛み締めながら紙を折り畳んでコログに手渡した。

「ではこちらの手紙はリンクにお願いします。決して落とさないでくださいね」

「はーイ!」

 元気よく返事をしたコログは、またデクの葉を取り出して窓の外へ走っていく。軽々とテラスの手すりによじ登ると、そこで一旦振り向いて手を振った。ゼルダが手を振り返すと、「よいしょ」と声をかけて夜空に舞い上がる。

 パタパタと小さなプロペラ音が聞こえなくなるまで、ゼルダはコログの行方を見守っていた。

「どんなことでも、真実なら受け入れましょう」

 右手の甲を左手で掴む。そこに輝くのは、伝承によれば力と知恵と勇気の三つを象徴しているのだとか。

 果たしてそれら全てが今のゼルダに備わっているのかは女神のみぞ知ることだが、とりわけ今は勇気が必要だった。傍に居てずっと支えてくれていた彼こそが、人の形をした勇気だったことを思い知る。

「勇気を分けてください。おねがい」

 翡翠色の瞳に夜が映り込む。

 いずれ来る朝が容易いものではないことを覚悟しながら、彼が誓いを落とした場所に彼女もまた唇を重ねた。