3 彼女の敵は
斜陽の一室に、沈黙が渦巻いた。
目の前には大量のリンク宛ての恋文がある。この爆弾を彼のベッドの下から見つけ出した張本人のインパは青くなり、家探しを止めたはずのリラですら真っ白に、ゼルダは顔から色を損じていた。
抱えた感情の種類が理解できぬまま、たおやかな姫君の手は掴んでいた一通を握りつぶす。
「落ち着いてください姫様、リンクに限ってこんなの何かの間違いですよ」
「そ、そうです! どう考えても文面が一方通行ですし!」
血の気の引いた2人が必死でなだめる言葉をゼルダは目を閉じながら聞き、ゆっくりと瞼の向こうに彼の姿を思い描く。吹き上がるマグマをどうにか抑えながらも、大量の恋文を透かす向こう側に睨みつけるのはあれほど大事と思った恋人の姿だった。
今朝、牢で会ったときの殊勝な態度を思い出し、ゼルダはしわになるほどドレスを握りしめる。主であり大切な人を庇っての思慮深い行動だと皆が感心したばかりだったのに、全てが台無しだ。
「確かにこれだけでは、本当に浮気かどうかも分かりません。でも私はっ、隠されていたことの方に腹が立ちます! ……しかしながら、リンクと直接会えないことにはどうしようもありません。この件は全て事が終わってから直接聞くこととします」
バンと足の裏で床を打ち鳴らし立ち上がる。体の内側を震わせ、怒りと理性を戦わせている主に、従者二人はたじたじだ。大人しく「かしこまりました」と答えるほかない。
その日はそれ以降、ゼルダは何をどうしたのかもよく覚えていないぐらい頭の中は恋文と怒りでいっぱいだった。誠実が服を着て歩いているようなリンクのことだ、相手が誰だか分かっていなくとも無下にできなかったのだろう。
だからといって本当の恋人であるはずのゼルダには、何一つとして知らせていない。恋文には日付も何もなかったが、量からは優に数か月分だと予想出来る。隠していたのは思いやりなのか、あるいはゼルダが彼を恋人だと思っていたのがそもそも勘違いだったのか?
「いえ、いえそんなはずは、ありません……でも本当に、リンクが二股をしていたら……? だってリンクが侍女たちの間で受けが良いですし、ええ、そんな、違いますよね……」
ゼルダに隠れてこっそり色目を使う侍女の一人や二人居ても可笑しくはない。もしその中にゼルダよりも好みの娘が居たら、リンクは一体どうするだろうか。
人の醜美など、突き詰めれば嗜好の問題だ。最も高価なダイヤモンドが、全ての人にとって一番好きな宝石であると言うわけではない。
つまり城が厄災の手に落ちた時ですら傍らから離れなかったリンクは、ゼルダが王家の姫だから彼女を好いたわけではない。だとしたらその逆もありうるというだけの話。
そんな馬鹿なことは無いと頭では分かっていても、ゼルダの目尻には熱いものがにじみ出てくる。枕に突っ伏し、行き場のない感情を小さく叫んで吐き出す。
「大丈夫です。リンクはそんな不誠実な人じゃありません……っ」
互いの気持ちを確かめ合ったのは厄災を封じてからほどなくのことで、ゼルダにとってはさほど古い記憶ではない。二人きりの時間が特に持てなくなったのはここ二、三か月のことで、まさか社交界のご夫人方の口を揃えて夫を冷笑する『倦怠期』とやらには早すぎる。
湧きおこる不安で、浅い眠りと覚醒を繰り返し、翌朝いつもの起床時刻に起こされたゼルダは眠気に目を擦っていた。
「姫様大丈夫ですか?」
「寝不足はいつものことなのですが、気分も体も重たいです……」
心配顔のインパに、ゼルダはあくびとため息の混ざったものを零す。
傍らで朝食の世話をする侍女は、案の定だと頷きながら椅子を引いた。昨晩は随分と遅くまで部屋の灯りが消えなかったことが、侍女伝てに調理場には伝えられていたようだ。おかげで今朝のテーブルには食べやすいものばかりが並ぶ。
リンゴを主体とした煮込み果実、イチゴソースのかかったパンケーキに、マックスラディッシュの香草炒め。少しでも精を付けてもらおうという工夫でゴロンの香辛粉で香りづけしたマックスサーモンが中央にどんと鎮座し、エッグスタンドのゆで卵はいつもよりも黄身が柔らかい。
戦場で食べ物に難儀した経験から、ゼルダは貴族の女性にしては珍しく食べきれないことを嫌がる。そのため普段の食事量は少なめと言いつけてあった。だが今日ばかりは、料理長からの『好きな物だけでもいいのでお召し上がりください』の圧に負けて、煮込み果実やパンケーキを少しずつ口に運ぶ。
ただしハートミルクスープにだけは睨んだ末、手を付けなかった。
「あの、今日は薬を免除していただけません?」
「好き嫌いはなりませんよ、姫様。これはハイラル王家に代々伝わる妙薬! ……を、プルアが改造したなんかすごい薬なんですから。健康のためを思ってグイっと!」
「インパは自分が飲まないから気楽に言いますけど、これとっても嫌な味なのですよ?」
手元に甘い紅茶を準備して、今朝もショットグラスを前に生唾を飲み込む。呼吸を止めるとまた一気に煽り、ほんの少しの水薬を一気に飲み込むと、うがいでもする勢いで紅茶を口に含んだ。
「本当に美味しくないんですこれ! 一体何が入っているんですか?」
「ええっとプルアによれば、ハイラル草の高濃度エキスとゲルド族の特別な砂漠で採られたビリビリフルーツの種の粉、あとは三年物のガッツニンジンにモルドラジークの肝、を精製したものらしいですけど」
「ヒノックスの爪の垢でも入っていた日には、さすがの私でも叫びますからね……」
「料理にあれだけマモノエキスを入れる姫様でもヒノックスの爪は嫌なんですね。まだ改良しているらしいので、プルアに伝えておきます」
ぞっとしない一言にティーカップを取り落しそうになりながら、ゼルダはその日の朝食も一応つつがなく終えようとしていた。そこへ侍女が手紙を1通、お盆に乗せて持ってくる。
封蝋を確認すると、公爵家の紋章だった。
「もうロメリア夫人からお返事が来ました」
「そういえば昨日は何をお話されていたんです?」
「女神のお告げについて少々議論を」
頭がハテナで埋まったインパの目の前でゼルダは封を開ける。封筒は真っ白で、まるで面白みが無かった。
書面は非常に丁寧なもので、ロメリアの人柄がにじみ出る文章だった。全く飾り気のない言葉が淡々と並び、やはり必要最低限で貴族らしからぬ華のなさ。公務文章といい勝負ができるほどだ。
硬い文面が必要とあらばもちろんゼルダも書くが、令嬢相手ならば季節のあいさつぐらいは最低でも付け加える。それすらもない辺りが、彼女が神官としての教養しか持ち合わせていないことを如実に表していた。
「ロメリア夫人によれば、あの『ルテラ女王の祟り』はウトノフ男爵の仕業なのだそうです。そのようにお告げを受けたとかで男爵本人に言い募ったらしいのですが、逆に相手を怒らせてしまったとのことでした」
「新しい公爵夫人は、随分と突飛なことをおっしゃる方なんですねぇ」
ロメリアからの文には隠しきれない失望のようなものは滲み出ており、自らが受けたという『お告げ』と同じものをゼルダが感じられなかったことへの悲しみがつづられていた。今の自分にはどうすることもできないが、ただ信じて欲しいとだけある。
そこで手紙が終わるかと思いきやさらに二枚目へ続いており、これ以上一体どんな話をするのかとゼルダは白けながら紙をめくった。
「……、サマサ平原の治水を始める前に、ラネール海で私が祈祷した方が良い……? これどういう意味でしょう」
「公爵夫人は姫様の封印の力を便利な超常現象とはき違えておられるのでは」
インパが胡散臭そうに鼻を鳴らす。ただでさえ身動きが取れない状態の治水工事に、これ以上無駄な仕事を増やすなと言いたげだ。
二枚目の最後の方でようやく、シレネの婚約者が亡くなったことと、それに対するお願いがあった。いったいロメリアの中の優先順位がどのようになっているのか、さっぱり分からずにゼルダは呆れ果てて言葉も無い。
「シレネの様子を見て欲しいとのことです。チャード殿のことはあまり好きではなさそうでしたが、婚約者を亡くされたのですからお見舞いに行きましょうか。予定は確保できますか?」
「姫様はお気分が優れないので、急務以外は持ってこないようにと言って回ったので何とか。ご令嬢のところで情報収集ですか?」
「インパ、人聞きの悪いことを言わないでください」
「もちろん表向きは『弔問』にしておきますから、レクソン伯爵の方にも行ってみましょうよ。姫様が訪問される理由だけなら揃っておりますから」
インパはさっさと文を書く道具一式を侍女に言いつけ、ゼルダも仕方なしにペンを執る。公爵邸と伯爵邸宛てにそれぞれ訪問の伺いを送ると、部屋で着る用の気楽なドレスのまま部屋の外に立っていたリラを呼び出した。
お茶とお菓子の支度だけを侍女に言いつけ、後は人払いをする。ゼルダは自ら紅茶を入れてインパとリラに振る舞い、自身もソファーに体を預けた。
「少し頭の整理をしたいので、話に付き合ってください」
「かしこまりました、姫様」
「御意です」
紅茶を口に含み、緊張で乾く口を潤す。ゼルダはまだすっきりと覚醒に至らない頭を振って、二人に向かって指を三本立てた。
「今現在、私が直面している謎は三つあります。一つはもちろんチャード殿を殺し、私を貶めようとした犯人。もう一つは『ルテラ女王の祟り』を演出している犯人。あとはリンクに恋文を送り付けていた犯人です」
「ゼルダ様、最後のを犯人というのはどうかと……」
「細かいことはこの際目をつぶってください、リラ。まず三番目に関してはリンクと無事に話が出来るようになってから何とかします」
やけに棘のある言葉をぶつけられたリラはシュンと肩を落とした。悪いのは彼女ではないはずなのに、未だゼルダはこの件に関しては誰に対しても容赦がない。
この様子を見ていたインパは目を逸らしてボリボリとクッキーを齧る。
「ならば二番目の『ルテラ女王の祟り』とウトノフ男爵の関係は、シーカー族の隠密を使ってこちらで調べておきます」
「お願いします。まずは利害関係について、祟りが起った日と男爵の出仕日を照らし合わせてみてください。」
「でも証拠が無ければどうしようもないですからねぇ。どうにか現場を押さえないと」
上手いことゼルダの意識の誘導に成功したインパは、二枚目のクッキーに手を出す。
だが肝心の問題は一番の謎、誰がチャードを殺したかということだ。
正直なことを言えば、単にゼルダに対して悪意を持つ使用人が殺害したという線もまだ完全に捨てきれない。現場へはどんな地位の人物でも行けるうえに、犯行時刻はおおよそ夜中というだけ。ほぼ即死だったのか悲鳴を聞いた者が名乗り出ることも無く、正確な時刻も分からなかった。
唯一分かっているのはチャードに対して殺意があり、且つゼルダに対しても悪意がある人物だということだけ。
「それで、姫様の推理はどうなっているんですか。何か思い当たることがあるんですよね?」
人払いはしてあり、侍女も居ない私室だ。凄腕の隠密と騎士が二人もいては、壁にも窓の外にも盗み聞きをする不届き者は居ない。
それでもインパは声を落とし、ゼルダの思案顔を覗き込む。
甘いものが好きなはずなのに、ゼルダは紅茶を口にしてから一向に何も食べていなかった。膝の上のソーサーの縁を無意識に指の腹でなぞり、視線はテーブルの木目を這う。
「単純に考えるのならば、私の政治的失脚を狙った犯行だと考えます」
ゼルダの声ははっきりとそれを呟いた。だがどこか釈然としない顔で眉をひそめる。
一方、言葉の意味を把握したインパは「あぁ」と呟く。
「確かに、万が一あの殺人が姫様の罪と断定された場合でも、王族なうえに姫巫女ですからさすがに極刑にはなりませんね。でも相手が伯爵家の次男ですから罪を隠すわけにもいかない」
「その通り。王女としての地位を追われて辺境で一生軟禁か、あるいは修道女として過ごすか、そんな流刑が妥当なところだろうと思います」
「……あの、よく分からないのですが」
ようやく一枚目のクッキーに手を伸ばそうとしていたリラが手を引っ込めた。眉を八の字にして、しのび草みたいな目が困惑している。
「犯人はどうしてそんな回りくどいことをするんですか? 姫様のことが邪魔なら、恐れ多いことですけど、チャード様を殺して罪を擦り付けるより、姫様を直接害した方が早くありませんか? もちろん私がそんなの許しませんけど……」
「リラは先の厄災との戦においては、アッカレ砦からは離れなかったんでしたっけ?」
「はい。当時はまだ義勇兵でしたから、正規の騎士たちが出払った砦の警備にあたっていました」
「つまり厄災そのものは見ていないということですね」
ゼルダはまだたっぷりと紅茶の揺れるティーカップをテーブルの上に置くと、右手のフィンガーレスグローブの中指の留め具を外す。手の甲にはハイラル王家の紋章にも描かれる聖三角が、今日も目もくらむような光を湛えていた。
インパは目を細め、リラはごくりと生唾を飲み込む。
ゼルダの左手の指が右手の甲に触れたが、聖三角には熱も痛みもない。ただそこで輝くのみ。
「私を廃したくとも、直接害せない理由はおそらくこれです」
ゼルダの右手は聖なる力の根源がある。厄災を封じた今や、そのことは国の誰もが知っていた。だが不用意に人目に触れないように普段はグローブで隠されており、顕わになるのは儀式や祈りの際だけだ。
あまりにも強大過ぎる聖なる物を前にすると、力無き者ほど心も体も圧倒されてしまう。信心深い者のなかには、姫巫女の聖なる右手を直視すると目が潰れると本気で思っている人もいた。そのため、力が顕現しない頃には考えられなかったが、今では就寝時すらグローブで手を隠すことがゼルダの習慣となっている。
それほどまでに強大な力を持つ姫巫女と、その対である退魔の騎士の2人でしか封じることのできない厄災という恐怖。それを目の当たりにした貴族たちのほとんどは、ある考えに至った。
どんなに邪魔であっても、現王家を滅ぼしてはならない。
厄災を封じる役を担う者が居なくなる。
「いつまた復活するとも知れない厄災のことを考えると、姫巫女が存在しないことが余程怖くなったのでしょう。もし王家唯一の姫である私を殺してしまったら、封印の力を継ぐ子が生まれなくなってしまいますから」
「生まれなくって! その、姫様が流刑というのは、まさか……」
「犯人の表の目的がチャード殿の殺害なら、リンクによって阻止された裏の目的は私の廃嫡です。もし裏の目的が達成されていたら、私はこの城から追い出されることになったでしょう。でも封印の力を継ぐ子だけは残さなければ国の将来が危うい。つまり私はいずこかで人知れず子を産み、何も知らないその子が御父様の次に王位を継ぐことになったはずです」
「そんな、酷いです! 姫様は王家の血筋を残すための機械ではありません!」
「酷いかもしれませんが、私が犯人でも同じことを考えます。そうまでしてでも私を退かしたい、誰とは存じませんが政敵とは厄介ですね。本気で手段を選びませんから」
グローブを元に戻しながら、ゼルダは全てを話し終えると少し疲れたように目をつぶった。リラはまた怒りで膝の上で拳をぷるぷると震わせている。素直な気性の彼女には刺激が強すぎたのか、わずかに赤髪が逆立つほどだった。
その隣で「うーん」と口を尖らせながら、インパが三枚目のクッキーに手を出す。ボリボリと音を立てて咀嚼して紅茶で喉の奥に流し込む様子は、まるで頭を動かすための糖分摂取のようにも見えた。
空っぽになったインパの口が「姫様」と問う。
「『単純に考えれば』ということは、複雑にも考えられるということですよね?」
「可能性はいくらでもありますから、単純にそういう方向に真犯人がいるのでは? という話です」
「ですよね、私も大筋では姫様の推理には同意します。でも例えば、成人済みの姫様よりも無垢な幼君を擁立した方が摂政役や側近として容易に操れると考える者や、あるいは姫様に恋慕していて軟禁して気弱になったところに取り入って寵愛を得ようという不逞の輩という線もまだ捨てきれません」
「後者はともかくとして、前者の側近や摂政役が自分を示していると分かってて言ってます?」
ズズーっとカカリコ村特産の緑茶のように紅茶を飲み干し、インパはこっくりと頷く。
「もちろんです。今のままだと私も容疑者候補だなと思いまして」
もちろんそんな面倒くさいことはしませんが、と笑って見せたインパだったが、こう見えて彼女はわりに有能な執政補佐官だった。長らくゼルダの最側近を勤めた眼力は伊達ではない。
そのインパが飲み込み顔で「でも」と続けた。
「ということはですよ? 最大の問題はこの後なのでは?」
「そうなのです。問題はリンクが真犯人の裏の目的を阻止してしまった点にあります」
「え、え? なんで阻止しちゃ駄目なんですか?」
リラだけが未だに宮中のもの考え方についていけず、またしてもクッキーを食べる機会を逃す。伸びていた手を引っ込めてそれらしくインパの真似をして腕組みをするが、表情だけはきょとんとしていた。
「真犯人はチャード殿を殺すという表の目的は達成できましたが、逆に言えば裏の目的が達成されていないということになります。つまり犯人は再び私を貶めようとする可能性が高いということなのです」
「え、え? なんでですか? だって一度は失敗したし、それにリンク様はどうなるんですか? 普通は手を引きませんか?!」
「リンクは私の騎士です。王女にチャード殿の殺害を命じられたとリンクの自白を捏造すれば、二人もの命を奪った王族として私の流刑は必至となります。確かに真犯人は失敗しましたが、逆に私とリンクの双方を一度に排除できるようになったのです。手を引くはずがありません」
リラは信じられないものを見るような顔をしていたが、貴族のものの考えの中にどっぷりと浸かるゼルダとインパは言わずとも分かっていた。
王族を貶めようと心に決めた者が、ただ一度の失敗で易々と手を引くとは考えにくい。そんな生半可な覚悟で手を出せる相手ではないからだ。それでも意を決して、王女の地位からゼルダを追い落とそうとした犯人は確かに存在する。
今の状況だけ見ればリンクが上手く隠蔽したようにもみえるが、一方で次の事件で見事にゼルダを貶めさえすれば、退魔の騎士もろとも宮中から厄介払いできる好機ともとれる。
「相手はすでに非合法な手段を用いることに躊躇がありません。どうにかして犯人を特定しなければ……でもどうやったらいいのかしら」
「姫様のお考えは分かりました。しばらくはあまり誰とも会わぬように、こちらにお仕事を運ばせていただきますね」
インパの提案で書類仕事を私室に運んでもらい、出来る限り誰とも会わずにゼルダはその日の仕事を終えた。外に姿を現さずにいれば、犯人が付け入る隙も少なくなると考えての対策だ。
一方で、ずっとこんなことをしていても埒が明かないのもまた事実だった。リンクは未だに捕らえられたまま、捕吏隊の方からは捜査にはほとんど進展が無いという報告しか上がってこない。
取り調べに進展がないのは、大半がリンクの黙秘が原因だ。だが勘のいいあの隊長が現場の状況から推理したとしても、ゼルダと同じ結論に至るだけだから。
ただの捕吏隊には王侯貴族の政争は荷が勝ちすぎていて、単なる時間稼ぎしかできないのだろう。実際、ロームから捕吏隊へ捜査の催促は無いようで、むしろアッカレの騎士たちの怒りの矛先は王の方へ向き始めていた。
翌日になり、侯爵家と伯爵家からそれぞれ訪いに対する是非の返信があり、どちらも訪問については問題ないとあった。外出用のドレスに着替えたゼルダが、インパとリラを伴い丸一日ぶりに姿を現す。人々は無言で道を開け、事件の渦中にある騎士の主の様子を興味深そうに眺めていた。
まず先に訪れたのはアッカレの伯爵家。もとより疲れの見えるレクソンだったが、たった数日のうちに輪をかけてやつれていた。それでも彼は身なりに全く崩れたところはなく、ゼルダの顔を見るなり深々と赤錆びた頭を下げる。
「ゼルダ様、我が配下の騎士たちが捕吏隊の詰め所に押しかけたこと、お詫び申し上げます」
「どうか面をあげてください、レクソン殿。貴方には何の非もありません」
城下街にある伯爵邸は油断ならない空気に包まれていて、警護の騎士が訪れたゼルダを無遠慮に睨みつけてくるほどだった。完全にチャードを殺した犯人がリンクだと考えているようで、顔見知りらしいリラですら素っ気なくあしらわれて口もきいてもらえない。
簡素で落ち着いた応接室に通されたゼルダだったが、兄のレクソンも目を合わせることを極力避けていた。
「確かに弟のチャードはあの性格ですから、たくさんの恨みを買っていることだろうと思います。ですが、それでも殺されてよいとまでは、さすがに思えません」
「私もそう考えております、レクソン殿」
「殿下、どうか、今から私の言うことは心の弱った者の戯言とお許しください。リンク殿が無闇に人を殺めるような方ではないことを、共に戦った私も十分理解しております。ですが事実、何らかの理由で投獄されたことには違いない!」
彼は顔を伏せ、嗚咽を飲み込む先は言葉にならなかった。
レクソンは若いながらもその寛大な人柄で、血気盛んなアッカレ砦の騎士たちをまとめてきたひとかどの人物だ。そんな彼ですら、現状捕まっているリンクを疑わずにはいられない。これでは他の騎士たちは言わずもがな。
捕吏隊はどうやら、亡くなったチャードの親族にすら、リンクを投獄した理由を開示していない。あの痕跡はそれほど重要視されていて、どこに犯人が居るとも分からない状況で無暗に表に出さない方が良いと判断したらしい。
疑心暗鬼に苦しむレクソンを前にして、ゼルダは彼に無理強いすることはまず難しいことを察する。せめて彼の様子を直に確認できたことだけでもよしとすべきだろう。早々に辞去を申し出ようとわずかに腰を浮かせた。
まさにその時、扉の向こうで怒号が飛び交い始める。
片方は男の騎士の声で、もう片方はどうやらリラの声だった。止めに入るインパの声もあったが、リラと男の声に止まる様子はない。
レクソンは慌てて応接室の扉を開き、ゼルダもあとに続いた。予想通り、アッカレの騎士二人と、リラが怒鳴り合っていた。
「だ、か、ら! ラディ様に『リラが来た』とお伝えくださいと申し上げただけです!」
「リラ貴様ァ、どのツラ下げて屋敷へ来た!」
「王家に尻尾を振る裏切り者の言葉は聞かぬぞ!」
「ラディ様と私の関係はあなた方もご存知ですよね?!」
「リラもちょっと抑えて! あ、姫様、ちょっと助けてくださぁい!」
インパが数人に分身し、どうにか互いが剣を抜かないように抑え込んでいる状態だった。狭い廊下に熱気が籠る。
リラは目の端に涙を堪えながら、出てきたレクソンにも懇願する。
「レクソン様! ラディ様に、どうかお声だけでもなりませんか! だって、私は、私は……!」
「お前たち、彼女はラディの友だ。傷つけることはない」
落ち着いた一声で、男の騎士二人が先に殺意の矛先を仕舞った。合わせてリラも体から力を抜くが、互いに音のない視線をバチバチとぶつけ合う。
「リラは妹を案じてくれているだけだし、彼女が我々アッカレの騎士団を裏切って王家の近衛になったわけではないことも承知しているだろう。私とてリンク殿が犯人だとは思いたくない……何かの間違いなんだ、これは」
力なくレクソンは廊下に視線を落とし、誰に向けるでもない言葉を紡いだ。その言葉に、騎士二人は歯ぎしりが聞こえそうなほど口を引き結ぶ。
アッカレの騎士たちもまた、リンクと共に戦場を駆けたいわば戦友だ。誰も疑いたくて疑っているのではない。だが今は怒りをぶつける相手がそこにしか存在しない、それが問題だった。
ところがそこへ言葉の刃が降った。
「申し訳ありませんが、私はチャードお兄様が死んで清々しています」
一度は怒りを収めた騎士の視線が、廊下の先へと向かう。そこに立っていたのは小柄な女性だった。おそらくゼルダよりも小さい。
色めき立つ騎士たちの気配を一身に受けながらも、果敢に立ち向かおうと震える手を握りしめて立っていた。
「ラディ……」
「ラディ様?!」
レクソンとリラの呼びかけで、その女性が件の令嬢であるとゼルダは気が付く。
異母兄のチャードからいじめられ、アッカレ砦が包囲された時に顔に傷を負ったという伯爵家の末娘。チャードから匿うために、リラによって度々外に連れ出されていたというその人だった。
だがゼルダは彼女の姿に驚いて固まる。深々と頭を下げたラディは、すっぽりと頭を覆う白い面布をつけていた。
「このような成りでゼルダ様の御前に参じましたことをお許しください。ですが私の醜い顔で御目を汚したくはありません、どうかご容赦ください」
顔はもちろん、耳も首も見えない。唯一見えるのは背中まである少し癖のある髪だけで、2人の兄と同じく赤錆た色をしていた。
「面布に付いてはリラから事情は聴いております。ですが、その、……仮にも貴女はお兄様を殺されたのではないのですか?」
「あんな人、兄でも何でもありません! 私はあの人がずっと憎かった……、レクソンお兄様や婚約者のシレネ様には申し訳ありませんが、私はあの男が死んで嬉しいです!」
激しい感情がむき出しになった言葉に、ゼルダは目を剥いた。同じくアッカレの騎士は驚いていたし、兄のレクソンも硬直していた。ただ一人、ラディの言葉に渋く頷いたのはリラだけ。
実はあれからリラの言葉が気になって、ゼルダはラディの手紙を発掘していた。むしろ発掘しなければならないほど、彼女の手紙は他の貴族令嬢たちとのやり取りの中では埋もれていた。
まったく特徴が無いからだ。
公爵夫人のロメリアの文面が悪い意味で印象的なのに対し、ラディは形だけは整っていたが何の印象も残らない文面だった。柔らかい文字が並ぶだけのまるで穏やかな水面のよう。王家の姫として義務で各地の令嬢とやり取りしているゼルダにしてみれば、義務以上にはやり取りしたくなる相手ではなかったのですっかり忘れていたらしい。
ところがいま目の前で震えながらも、声を荒げる彼女の姿は一体どういうことか。あの平面的な手紙とは印象が全く結びつかない。
「こんな言い草はお耳汚しかもしれませんが、私は兄を殺した犯人にお礼を申し上げたいぐらいです。ですからこの件に関して、私はゼルダ様に全面的に協力いたします。私でよければ、犯人を捕まえるためにお使いください!」
面布の切れ目から涙に濡れた首筋がちらりと見えた。悔し涙か嬉し涙か、いずれにせよ気弱な少女をここまで怒りに駆り立てたチャードが、一体何を考えていたのかはもう知ることはできない。
ゼルダは歩み寄り、震える少女の手を取った。
「協力感謝します、ラディ殿。何かあればリラを通してご連絡いたします」
「あ、ありがとうございます!」
「でもその前に、どうかお心を鎮めてください」
確かに下女などよりかはずっと綺麗な手をしていたが、それでも伯爵家の末娘にしては爪の手入れが行き届いていない。どんな嫌がらせをされたのか、手の甲には深く穿った傷が白く残った跡さえあった。
「怒りは目を曇らせます。……と、偉そうなことを言っていますが、これは私も同じことです。心穏やかに、曇りのない眼で真実を探しましょう」
「はいっ、ゼルダ様!」
喉の奥から絞り出したラディの声は、感涙に咽ていた。
侍女に連れられて部屋に戻る彼女を見送り、レクソンから謝罪を受けてゼルダ達は伯爵邸を後にする。馬車に乗るなりリラは俯き、顔を覆う。言いようのない感情をどう処理するべきか迷う女騎士に、ゼルダは無言の時を許した。
きっとリラの中にも喜びと怒りと悲しみがごちゃ混ぜになっている。大事な友人であるラディが救われたことへの喜び、あるいは離れていても故郷の同胞だと思っていたアッカレの騎士たちから裏切り者扱いされた悲しみ、加えてあのラディをあそこまで追い詰めたチャードへの恨み。真に怒りをぶつけたい相手は犯人だろうが、容疑者として収監されたのは尊敬していた先輩騎士だ、どうにもならない。
揺れる馬車は無言の三人を乗せ、辻をいくつも超えて公爵邸へ向かった。
厄災封印後に新しく建てられた公爵邸は、資金繰りの関係からか規模は伯爵家よりも小さかったが趣のある建物だった。以前の大きくて古めかしい公爵邸よりも、ずっと気品を感じられる。これも全て次期公爵たるシレネの趣味だろうと感心しながら通された応接室は、やはりこちらも柔らかな光であふれていた。
「ゼルダお姉さま、ああ、お会いできてよかった」
「大丈夫ですか、シレネ」
「もちろん、と言いたいところですが、さすがに堪えますね。政略結婚とはいえ、あれでも伴侶として歩もうと思っていた相手でしたので」
無理にでも笑って見せた瑠璃色の瞳は、後悔の波が押し寄せていた。
シレネは事件の前日、チャードを相手にハイラル城内でかくれんぼに興じている。単に『腹が立つから悪戯しただけ』なのだが、その結果、すれ違ったまま彼女は婚約者を亡くした。
喧嘩の最中に仲直りする相手を亡くすのは、どれほど嫌っていた相手でも後味が悪い。
「お姉さまが来てくださって……よかった………よかっ……」
目尻に膨れ上がった水球が弾けて、シレネの頬を濡らす。震える口元を抑え、部屋の外にまで声を漏れないように彼女は必死で堪えていた。ボタボタと涙が零れ落ちる音だけが響き、屋敷のどこか遠くから子供の笑い声がする。
幼いアモネはきっと、大事な姉を困らせる男がいなくなったのだから、純粋に喜んでいるだろう。だからシレネはこの殺人事件に関して、家族の前ですら気丈に振舞うしかない。その原因を作ったのが当人だったとしても、あまりにも悲痛な無言の叫びだった。
早く嗚咽を抑えようと急いて揺れる背中にゼルダは手をやり、優しく撫でながら声を低くする。
「大丈夫です。先ほどロメリア夫人が、お茶を持ってくるのは少し後にするよう、メイドに言いつけていましたから」
「お義母さまには、不思議と何でもバレてしまうんです。どうしてかしら、血なんか一滴も繋がってないのに」
泣き笑いするシレネに、ゼルダも記憶にある母を思い出して眉尻を下げた。
ゼルダが六歳の時に亡くなった母は、なぜかゼルダの居場所が分かる人だった。どれほど上手く庭に隠れても、魔法を使ったみたいにすぐに見つけてしまう。幼心にゼルダは、母には精霊の力が付いているからだと思っていが、今となってはなぜ居場所が分かったのか真相には手が届かない。
お告げだの祈祷だのと言うロメリアも、信心深いだけで案外ただの母なのかもしれない。
シレネが落ち着くまでのしばらく、応接室は二人きりで誰も近寄らなかった。ようやく彼女が呼吸を整え、もう誰が来ても大丈夫ねと頷きあった瞬間、コンコンと扉がノックされる。
どんな頃合いの見計らい方をしているのか、ぴったりのタイミングでメイドがお茶を運んできた。
「本当に魔法のようですね」
「もしかしてお義母さまは魔女なのかしら?」
「だとしたら、シレネはどうします?」
「ぜひ魔法を教えていただきたいです。でも我が家には魔女の血は流れていなさそうだし……あ、でも私とお義母さま、瞳の色だけは一緒なんですよ。それで弟子にしてくれないかしら」
切れ長で一重のロメリアとは似ても似つかないぱっちり二重を指さし、シレネはようやくニコリと笑った。だが次の瞬間、何を思ったか、お茶とお菓子を置いた若いメイドの手首を掴む。
慌てたのはメイドの方だ。彼女は侍女のように、主人であるシレネに触れることを許された立場ではない。
ところがシレネは手の付け根を抑えて脈をとると、驚きに声も出ないメイドの顔色を窺った。
「体調が悪いのならば休みなさい。メイド長には私の方から言っておきますから」
「あ、あ、ありがとうござい、ます……」
「あと温かくすること。ポカポカ草の実を布で巻いて腰に当てておくのですよ」
混乱したままのメイドはお辞儀をし、困惑を必死に隠しながら応接室から出て行く。シレネはメイドが退出するまで注意深く観察を続け、扉がしっかりと閉まってから紅茶に角砂糖を一つ入れた。
「単に月の障りが重たいだけかもしれませんが、だからと言って放っておいてよいというものでもありません」
「脈で分かるのですか?」
「これでも神官の端くれですよ? 医薬もちゃんと勉強しております」
どこに勉強をしている時間があるのか不思議だが、シレネは優雅にお茶の香りを楽しむ。ゼルダも彼女に倣って角砂糖を一つ、音を立てないようにかき混ぜた。
「で、お姉さまがいらっしゃったということは、殺人事件のことで事情聴取かしら」
「婚約者を亡くしたばかりの貴女にそんなひどいことはしません」
「つまり私が勝手にしゃべる分には問題ないということですよね」
「では私はたまたま聞いてしまったということにしておきます」
互いに視線を合わせることもなく、ふふふと笑い合う。相変わらずシレネはゼルダの性分をよくわきまえていたし、ゼルダの方もシレネの性格を当てにしていた。
タルトタタン風のリンゴのケーキを小さく切って口に運び、ゼルダは思った通りの甘酸っぱさに目尻を下げる。その横で、シレネは「実は」とおもむろに口を開いた。
「正直なことを申しますと私、犯人はリンク殿だと思っていました」
「それはありません! リンクはそんなことをする人では……っ」
慌ててケーキを飲み込んで、勢いよくシレネの方を振り返るゼルダ。だが彼女は、そう言われることを元から分かっていたかのように、すでにティーカップをテーブルの上に戻していた。
「落ち着いてください、最後まで話を聞いて。あの女ったらしのチャード殿のことですから、酔った勢いでお姉さまに手を出そうとしたところを、リンク殿に刺されたのではないかと思っていました。でも、だとしたら正当防衛だから逃げる理由がありません。だから何か込み入った事情があるのかしらと思って……」
「思って?」
「お姉さまを昼餉か茶会にご招待して、悪い言い方ですが、探りを入れようと文をしたためていたところでした。ところがお姉さまの方からご訪問のお知らせがあるものですから、これはどうやら違うと考えを改めたというわけです」
目も口も、シレネは面白そうに緩ませていた。
どうやらここまでのゼルダの一挙手一投足、全て観察されていたらしい。そうとも知らずにほいほいと公爵邸へと訪れてしまったゼルダは、事が悪い方向に転がらなかったことに胸を撫で下ろす。彼女の迂闊さと遠縁の姫の才気とが合わされば、リンクをさらに窮地に追いやることになっていたかもしれない。
「もう、びっくりさせないでください」
「ちゃんと驚いていただけました? 私だってリンク殿が訳も無く人を殺めるような方ではないと存じております。何かがおかしいとはちゃんと分かっているんですよ」
しれっと笑うシレネは、始まりの台地を救援に行った際、もちろんリンクと顔を合わせている。
むしろ自ら進んで先陣を切ろうとするゼルダが怪我をしたら承知しないと、真正面からリンクに言い募ったのが彼女だった。鬼神のような戦いぶりの退魔の騎士を相手に意見する者がほとんどいないなか、非力な公女が啖呵を切る姿は未だに語り草になっている。
だがその甲斐あってか、ゼルダに大きな傷なく戦を終えると、シレネはリンクのことを認めた。だが話には続きががあり、リンクがゼルダを庇って受けた腕のかすり傷に、めっぽう沁みる薬をたっぷり塗り込んだうえ、きつく包帯を巻いて追い打ちをかけたのもシレネであった。こちらはもっぱら兵たちの笑い話となっている。
「しかし、お姉さまの騎士が捕らえられということは、犯人はお姉さまの政敵だと思うのですが」
「シレネもそのように考えますか?」
「リンク殿が捕らえられた理由が分かりませんが、訳もなく捕らえることも無いはずです。宮廷内の王女派閥をリンク殿から崩しに来たと見て間違いないのでは?」
さすがに幼い頃から宮廷の吸気を吸ってきたシレネだけあって、その読みはほぼ完璧だった。捕吏隊が伏せている『現場の地面に掘られた名前』という情報を抜きにしても、総じてゼルダと同様の見解に至っている。
だがそれ以上のことはゼルダと同様に分からないのか、彼女は視線を庭に流した。ゼルダも釣られて庭を眺めたが、そこに答えがあるというわけではない。始まりの台地にある精霊の森を思い出すような、草木の生い茂る静かな庭だった。
「しかし私の政敵と言っても様々です。治癒院の創設に反対している急先鋒はダリア夫人ですが、彼女の属する派閥にもたくさんの貴族がいます。それにルテラー川の治水の反対派は未だに分かりませんし……、そういえばロメリア夫人からある人物の示唆はありましたが信憑性がどうも、うーん」
「もしかしてお義母さまの『お告げ』を聞いたのですか?」
「夫人はあのようなことを度々おっしゃるのですか? ある方が祟りを仕組んでいると教えてくださったのですが、どうも要領を得ないのです」
疑問を呈しながらもゼルダの手は止まらず、今度はヘブラのイチゴが練り込まれてクッキーに手が伸びる。
テーブルに並んだ茶菓子はどれも見事なものだった。だが、味も香りも見た目も良いのに、なんとも皿の上は雑然としている。一言でいえば絶望的に盛り付けのセンスがない。サハスーラ平原の花畑になるはずだったのに、気が付いたらフィローネの樹海になっていたという感じ。
恐らく準備の最終的な指示がシレネではなくロメリアだったのだろう。その割にお茶の頃合いだけは読み間違えない彼女は、本当にちぐはぐな印象を与える人だった。
ゼルダが眉をひそめていると、シレネは至極真面目な顔で身を乗り出す。
「ここだけの話、お義母さまは不思議と色々なことを言い当てるのです。重大な局面でも、些細な失くし物でも、関係なく『お告げ』と言って教えてくださるんです。ところが理由はいくら聞いてもさっぱりなのです」
「当たっていたらありがたいのですが、さすがにお告げだけでは本当の犯人なのか確証が得られません」
「正しくそれです。結果が出ないことにはお告げの成否が分からない」
二人は無言になって茶菓子に手を伸ばす。
ゼルダが現在抱える二つの政策は、どちらにも反対する者がいる。何事にも良い面と悪い面が存在するからだと、ゼルダはそのこと自体には納得していた。だがその反対者の中から、たった一人の犯人を見出すのはこの上なく難しい。あるいは複数の犯人が共謀している可能性も否定できない。
しかも反対する者たちはシレネのように、ゼルダと穏やかに話が出来る相手とも限らなかった。挨拶を交わすだけでも腹の探り合いなのに、それを両手では足らない相手と行わねばならないとなれば、途方もない時間を要する。多忙な王女にはそんな暇は存在しない。
「地道に城内で捕まえて会話していくとして、私は一体何人に探りを入れたらよいのやら」
「探り…………を入れるのなら。そうです、お姉さまも私と同じことをするのはいかがですか?」
今度はキャラメルをたっぷり絡めたナッツのお菓子を、リスみたいに少し齧ったゼルダは首を傾げる。その隣で、ゴーゴースミレのはちみつ漬けの乗ったクラッカーを摘まみ上げ、シレネは目を輝かせた。
「茶会に疑わしい方々を招待するのです。王女の名で開かれる茶会なら、余程のことが無い限りは断れません。それに茶会と称しておけば、双方の政敵を同時に呼び出しても不自然ではありませんよ」
「確かに、お味方くださる方や中立の方もお呼びしておけば、私の意図はある程度隠せますね」
「茶会だと女性しか呼べないのが難点ですが、疑わしき人物の半分を呼べると考えれば効率は悪くないかと思います」
ゼルダの目に光が宿る。胸の前でパンと手を打った。
「ありがとうシレネ。すぐにでも戻ってお呼びする方を吟味しなければ! もちろん茶会には貴女も来てください、ロメリア夫人もご一緒に! 今日のお菓子もとても美味しかったので、ぜひ私もとっておきのお菓子を準備しておきますね」
「とっておきのお菓子ですか?」
「まだハイラルでもほとんど知られていない珍しいお菓子です。ご夫人方に試食していただいて、ついでに感想をいただくのも悪くありませんね!」
そのまま立ち上がって帰りかねない勢いのゼルダに、またもシレネは名残惜しそうに袖を引く。すでに腰を浮かせていたゼルダは、目を丸くして再び座り直した。
「シレネ?」
「あの、お姉さま。もちろん茶会には出席いたします、でもそれとは別に昼餉でもご一緒する機会を設けても良いですか?」
「それはもちろん大丈夫ですが、一体どうしました?」
「あんな婚約者とはいえ、さすがにまだ心が癒えておりませんので、出来ればお姉さまともう少しお話したいのです。でもお姉さまはいつも忙しそうなので、ちゃんと寂しいと言わねば伝わらぬのだとようやく分かりました」
先日の温室でも、寂しく笑って引き留めるのを止めたシレネを置いて、ゼルダはそそくさと仕事に戻っていた。それを思い出しながらゼルダが「ごめんなさい」と言うと、シレネは「それでも好きなんですけれど」と意地悪く笑う。
ハイラル王家の王女は前のめり。制止を掛ける側も真正面からぶつからなければ、なかなか止まってくれないというわけだ。
「いつかまた、お姉さまと一緒にアップルパイを食べたいです。落ち着いたらぜひ」
「それは良い考えですね、そうしましょう。リンクにアップルパイの作り方を習っておこうかしら」
王女自ら作らずとも城には腕のいい料理人はたくさんいる。シレネは苦笑しながら、「約束ですよ」と呟き、訪れた時よりかは心持ちよい顔色で最後は見送ってくれた。
こうしてゼルダは茶会を開くことを父ロームに報告し、ならば一番広い庭園を使うようにと指示を貰った。やるならば徹底的に調べ尽くせと、父王も背中を押したわけである。
「ええっとインパ、ダリア夫人と仲が良かったのはマリッタの子爵夫人ですよね」
「そうです。あそこはご令嬢も今年デヴュタントで、そのためのドレスをダリア夫人のところで作るとか」
「サワビ夫人は? お呼びする中で一番高位がシレネなのに対して、サワビ夫人は男爵夫人です。上手く釣り合いを取らないと」
「でしたらアッカレ湖の新しい村の管理をしている男爵夫人と、あとはタバンタ大橋の準男爵夫人を取り揃えたら同じ法服貴族だからお話しやすいと思いますよ」
「本当はミファーやウルボザにも来てもらえたらよかったのですが……」
「お二人はハイリア人とは違う慣習の種族ですからね。でも近々お会いできるはずですし、今回はハイリア人のご夫人とご令嬢だけでも手いっぱいです」
広げたたくさんの手紙の中から、ゼルダは時にインパや侍女長に相談をしながら茶会に招待をする人選をしていく。あちらを誘うならばこちらを誘い、仲が良い人、釣り合いが取れる家格、話が合いそうな年齢など様々な要素を鑑みて選び出していく。
ものすごい勢いで仕分けされていく様子をリラだけがぽかんとして見ていた。
「そうです、リラ。ラディ殿にも招待状を送ろうと考えているのですが、彼女はどんな方ならば喋ることが出来ますか?」
「ラディ様ですか?! むっ無理ですよ!」
まさかの話題にリラは乱暴に手と首を一度に横に振った。
だが殺人事件に関して、彼女はゼルダに全面的に協力すると言っていた。それに婚約者を失ったばかりのシレネが参加するのに、兄を失ったばかりのラディが参加しないのも逆に違和感がある。
もし可能であればと付け加えたうえでの招待状にするが、どうかと聞かれてリラは眉間の深いしわを寄せた。
「え、ええっと、恐らく面布は取るのは難しいと思いますので端っこで、根掘り葉掘り聞かない方の方がいいかと……」
「だとしたら逆に私やシレネの近くの方が良いかもしれませんね。その方が彼女の方に話題が集中しづらいと思います」
「そういうものなんですか?」
「席順もこちらでちゃんと調整します。だから彼女へは、ただ居て、目を光らせてくれればよいと、貴女からも伝えてあげてくださいね」
真面目な顔をしてふんふんと感心した様子のリラを見て、むしろ笑ったのはインパだ。
「一番の味方はリラ、あなたですよ! 姫様の近衛として当然お傍に居るのですから、自然とラディ嬢のお近くにあなたが居ることにもなります。当日は姫様とご令嬢のお二人を守るつもりで気張るんです!」
「は、はい! かしこまりました!」
大きな声で敬礼をしたリラ。その必死の形相に、インパも侍女長も声を揃えて笑った。
王女のお茶会が刃傷沙汰になることなどまずない。だから近衛はその場にいることが大事であり、加えてラディに対しては絶対的な味方の存在が何よりも心の支えになる。
そのことを分かっているのか分かっていないのか、リラの張り切りようはすさまじかった。何があってもお守りいたしますと勇ましく言い放つと、実際にその日から鍛錬を倍にしたらしい。
ところが、だ。
まさかリラが当日、体調がすぐれないとして休むことになるとは、この時、ゼルダもインパも全く予期していなかった。
「リラが風邪?」
「はい、今朝早くに近衛師団の方から連絡がありました。代わりの近衛が本日は警護をつとめるとのことです」
「まぁ、大丈夫かしら」
ゼルダが心配するのは自らの警護や風邪をひいたリラよりも、むしろラディの方だった。
茶会に対しては参加の返事が来たものの、明らかに緊張に震えた文字だった。かねてから内向的な性格だったのが、アッカレ砦の戦いにおいて顔に怪我を負ったのが相当響いているらしい。
「今日の警護の騎士、あまり強面の方にならないように急ぎ師団の方に連絡をしておいてください」
今朝はスコーンにカカリコ村産のヤギのバターだけを塗る。甘いリンゴのジャムは茶会までお預けだ。
色々な種類のキノコが入ったキノコミルクスープに、モリイノシシの厚切りハムを焼いたもの、背の高いグラスには一口大のフルーツのシロップ漬け、てっぺんにヒンヤリハーブが添えられている。ゼルダはそれらをぺろりと食べきると、最後にまたプルアからの薬を甘い紅茶で流し込んで、足早に茶会の会場となる庭園へと出かけて行った。
先ごろ繁殖に成功したばかりの姫しずかを活けた花瓶が並ぶ会場で、ゼルダは思わず真顔になる。自ら招待状を出したとはいえ、およそ三十名の夫人や令嬢たちが座る椅子が整然と並んでいた。
「チョコレートが足りるでしょうか」
「どれだけ私と料理長が頑張ったと思ってるんですか、倍はいけますよ。余ったら私も食べますからね」
「大丈夫です、インパの分は別に取り置きしておきます」
秘かに拳を握るインパが、次の瞬間には「イテテ」と腕をさする。今回の茶会にはあのチョコレートもとっておきのお菓子として出そうということで、ただし原料のカカオという豆をすり潰す作業が困難を極めた。
何しろ作り方自体はまだゼルダとインパしか知らない、ハイラルでは未知のお菓子だ。料理長は大乗り気で付き合ってくれたが、大勢の招待客にチョコレートを行き渡らせるためには大量のカカオが必要になった。
そこで夜なべしてすりこ木でカカオ豆をすり潰す手伝いをしたのがインパだ。
「早く豆をすり潰す機械を取り寄せてくださいよ姫様ぁ~」
「注文はしたんですよ? でも荷物の中に無かったんです、どこで手違いがあったのかよく分からないんですけど。もう一度カカオの原産地の方にお願いしてありますから、時機に届くと思います」
「時機っていつです?」
「半年後ぐらいでしょうか」
「そん、なに、あと! プルアに作ってもらった方が早い気がしますよぉ?」
なんだかんだと文句を言いながら、インパは調理場では失敗して歪んだチョコレートを食べてほっぺたを抑える。役得だと言い張ってはいたが、料理長が工夫を凝らしたチョコレートは確かにゼルダが作ったものよりも華があって、可愛らしい装飾が施されていた。
チョコレートの他にも白い粉砂糖を纏った雪化粧のシュー、ハートの形をしたサクサクのパイクッキー、しのび草の砂糖漬け、クリームとイチゴのジャムを挟んだミルフィーユ、星のかけらを模した黄金色の砂糖菓子などが並ぶ。
極めつけは小鳥の形をしたクッキー。緑、薄桃、青、紫、赤、黄金色に淡く色が付けられたスズメ型のクッキーがお皿の上に大集合。ハイラルの何処からのお客様でも、見覚えのあるスズメが少なくとも一羽は居るという具合だ。
「思っていた以上にお皿が可愛いことになっていますね。スズメ型クッキーを提案してよかったです」
「この子たち食べるんですか? ご令嬢方も結構酷いですよね、可哀そう~」
「行っているそばからインパも食べているではありませんか」
「カカリコ村では昔からタダスズメを丸焼きにして食べる風習がありますもん。シーカー族は元からそういう種族なんです」
インパが無駄口を叩くぐらいなので、どうやら準備には問題が無い。あとを頼みますと一度私室に戻ったゼルダは、茶会までのわずかな時間も書類仕事に没頭していた。いきなり大規模な茶会をこのタイミングで開くとなって、停滞した仕事がまた山のようになっている。
その中に埋もれながらペンを走らせていると、侍女が取り急ぎだと言って手紙を持ってきた。お盆の上の封筒は真っ白。予感がして裏返すと、またしても封蝋は公爵家の紋章だった。硬い文面をゼルダは目で追うが、ロメリアからの知らせはいっそ清々しいほどの欠席の業務連絡だった。
「ロメリア公爵夫人が、体調を崩されたみたいです。風邪が流行っているのでしょうか」
身近で二人もいきなり体調を崩したことを思うと、少し不安になってゼルダは胸元を抑える。だがまったくもって体調は悪くなかった。
取り急ぎ承知した旨の返信を書いて侍女に渡すと、茶会のためのドレスに着替える。全ての準備を整えると、ゼルダは柔らかな日差しの庭園に赴いた。
「さて、蛇が出るか、鬼が出るか。覚悟を決めましょう」
緊張した面持ちで、地位の低い順番に入ってくる夫人や令嬢たちを待つ。数人ずつ呼び出されては、招待客の方も強ばった表情でカーテシーをしては指定された席へ向かった。
サワビ夫人は同じ法服貴族の知り合いの夫人たちと冷や汗をかきながら豪奢な席に目を白黒させ、ダリア夫人は庭園の隅から隅まで目をやって分からない程度に鼻で笑う。最後にハイラルで唯一の公女であるシレネが席に着くと、ゼルダは「では始めましょう」と全員を見回した。
「春の佳き日に花を愛でたいと思い、皆を招待しました。どうぞ心行くまで楽しんでいってください」
主人であるゼルダが本来は全員にお茶をサーブする決まりではあったが、さすがに人数が多すぎるので最初の一杯はテーブルの端の方は侍女が担当することになっていた。ゼルダ本人がお茶を入れるのは彼女が座る中央の席の周辺の数人。
王女の隣に配されたラディと、対面のシレネ、加えてゼルダに対して反旗を顕わにしているダリアとその取り巻きの夫人や令嬢たちにゼルダは紅茶を入れる。大きなポットから花模様のティーカップへ。夫人や令嬢たちが取り上げて目を見張るカップは、今やゼルダを象徴する姫しずかの模様入りだった。
「こんなに大きな茶会は久々ですね。素晴らしいお庭に招待していただいて、私たちは幸運ですよ」
「心穏やかに春を楽しめる姫殿下のお心遣いに感謝しなければ」
「本当に、デビュタントも近いというのに城内は嫌にざわついておりますものね」
表情と言葉の上っ面だけを見れば、ダリアやその取り巻きの夫人たちの言葉は非常によい反応だった。しかしゼルダ本人の隣で会話を聞いていたラディは緊張で手が震える。
城内がざわついている原因はルテラ女王の祟りや殺人事件なのは明白で、どちらもゼルダは辛い立場に立たされている。そのうえで彼女らは「ゼルダ姫の面の皮は随分と分厚いのですね」とオブラートを何重にも巻いて言葉を交わしていた。
リラと違って直截な言葉でなくとも理解が及ぶらしいラディは、しかし社交の場に出てくる経験の浅さから姿勢を正して前のめりになった。
その瞬間、隣に座っていたゼルダが膝をポンと叩く。
「……?」
ゼルダは何も言わず、ましてやラディの方すら見ずにふんわりと笑みを湛えていた。何も言い返さない。
「ご夫人方のおっしゃる通りです」
やきもきするラディの耳に飛び込んできたのはシレネの優雅な声だった。
「最近のハイラル城の様子は少し可笑しいですね。ですから殿下は私たちの憂いを見越して、風通しの良いこの庭園をわざわざお選びになったんですって。……ところでダリア夫人、ご夫君はお元気?」
「えっええ、健在でございますが」
「そう、それはよかった。実は御父様をクムの秘湯に湯治に行かせてほしいとお願いしたいのだけれど、なぜか最近城内でお会いできないの」
シレネに比べて倍ほども年齢が上のダリアだが、ハイラル王家の遠縁の公女であるシレネとは地位に雲泥の差がある。頭を下げねばならないのはダリアの方であり、本来であれば公女や王女を愚弄することなど許されない。ダリアがそれを忘れてゼルダを攻撃できるのは、元々無才の姫として蔑んでいた延長線であるとともに、現在政策で完全に敵対しているからだ。
その事実を思い出したらしいダリアは、淡い嘲笑を引っ込めて頬を軽く引きつらせていた。どうして王女派閥のシレネがダリアの夫に会えないのか。理由は単純明快、敵対する相手として避けられているからだ。素知らぬ素振りを続けるシレネはさらに畳みかける。
「できればこの夏にも行きたいので、近々相談しにお伺いしたいの。夫人の方からよろしく伝えてくださらないかしら」
「もちろんです。公女様のご相談であれば夫も喜んでお力になります」
「ありがとう夫人。よかったわ、クムの秘湯に行くにはタバンタ辺境に滞在しなければならないから、どうしても夫人のところにご厄介にならなければと思っていたのよ」
あっという間にシレネは政敵の懐に入ることに成功し、ぱちりとゼルダにウィンクを送った。他方のダリアは少し頬をひくつかせながら、ベニイロスズメのクッキーに手を伸ばす。
鮮やかな攻防を前にして、ラディはただただあっけに取られているだけだった。面布をしていても彼女の目がまん丸になっていることが分かる。ゼルダはこっそりとラディの手をぽんぽんと叩いた。
こんな調子でシレネとゼルダはそれぞれ、話を振ったり聞いたり、様々な話術で相手の懐へと飛び込んでいった。時に返り討ちになりそうになることもあったが、主だった敵対関係にある夫人や令嬢と近々個別に会う約束を取り付けたり、その場で先日の事件の日のことをサラリと聞いてみたり。
ラディは元々あまり喋ることも無いのだが、輪をかけてひたすらお茶とお菓子を頬張るだけになっていた。
「私、なんだか申し訳ないです。お菓子を食べに来ただけのような気がしてまいりました……」
「そのためにお呼びしたのですからお気になさらず。あ、でももしよろしければ、お菓子の感想は教えてくださいね」
ゼルダは遠い席まで全ての招待客にお茶をサーブしてからようやく席に戻り、一息つくとメイドに目配せをした。チリンとベルが鳴り、給仕係が大層な銀食器を手に静々と入ってくる。
何の趣向かと一同が首を長くしたところで、給仕係は蓋を持ち上げ並んでいたのは茶色い塊を見せつける。だがハイラルではまだほとんど知られていないお菓子だ、シレネすら「これは何かしら」と目をぱちくりとさせる。思っていた通りの反応だ。
悪戯が成功したときの喜びをゼルダは必死で隠しながら、胸を張って「これは」と口を開いた時だ。
「そ、そ、それ! それはちょこというお菓子では?!」
端の方から声が上がった。
驚いてゼルダが見やると、椅子から転げ落ちそうになっていたのはサワビだった。今日のために急遽引っ張り出してきたらしいドレスから、お肉がたっぷりとはみ出している。だが揺れるお肉に構わず、彼女が指さしていたのは確かにチョコレートだった。
「サワビ夫人はチョコレートをご存知なのですか?」
「は、はい! 以前、口にしたことがございます!」
王女の言を遮ることがこの際どれだけの無礼かはさておき、サワビのチョコレートに対する熱量は大したものだった。『ちょこ』というお菓子が如何に甘いか、香りが良いか、広告費を払ってもいないのにたっぷりと説明してくれる。
ここまで来るとゼルダの方も笑えてきて、微笑ましく彼女の説明が終わるのを待っていた。
「はっ……! 申し訳ありません王女殿下……」
「夫人のおかげで皆にチョコレートの良さが伝わったように思います。では順に取ってくださいませ」
ポカポカ陽気でチョコレートが溶け出す前にゼルダがまず一つ、給仕係の差し出す銀食器からナイフとフォークで皿からチョコレートを取った。サワビ以外みんな初めてのチョコレートに夢中になる。自分のお皿に移したチョコレートの艶のある表面を覗き込んでから、口の中に含んでその甘さと香りに思わずうなって口元を抑えた。
誰一人としてリンクのようにボリボリと嚙み砕くことはなく、口の中で溶けるに任せて甘さに身を委ねる。シレネですらうっとりと、甘さに目を細めていた。
「私もこんなお菓子は知りませんでした。やはり殿下は博識でいらっしゃるわ」
公的な場ではさすがにお姉さまとは呼ばないが、シレネは何かとゼルダを褒めたたえる。まるで自分の姉を自慢げに語るかのようで、ゼルダは少し気恥ずかしくなって苦笑しながら他の令嬢や夫人たちを見回した。
「でも実はまだ試作段階なので、もしよければ感想を頂けると嬉しいです。いずれ城下町にお店を出したいと思っているので、その時はぜひ」
いらしてくださいね、とゼルダが言おうとしたところへ、駆けこんでくる人影があった。
「姫様!」
「インパ?」
執政補佐官であるインパは、今回のようなお茶会の表側には基本的にかかわらない。お茶会が正確には執務のそれに当たらないからだ。
それがどうしたことか、インパは血相を変えている。
「どうしたのですか?」
「申し訳ありません、その、少々よろしいでしょうか」
物々しい雰囲気の執政補佐官に、ゼルダならず他の招待客も顔を曇らせた。ただでさえ、チャードの殺人事件と『ルテラ女王の祟り』で城には嫌な空気が流れている。ダリアのようにわざわざ指摘して嫌がらせをしようとする人は多くないが、それでも心のどこかでは誰もが思っていた。
そこへ知らせを持ってきたインパの表情は明らかに暗い。
紅茶のポットを持っていた手休め、ゼルダはゆっくりと席を立った。隅の方へ行き、歩み寄る側近の言葉を耳の間近で受ける。
「またしても殺人事件です」
「……どなたが亡くなったというのですか」
この場にわざわざ話を持ってくるということ自体がまず変だ。茶会の性質を考えれば、つつがなく終わって招待客が帰ってから報告すればいい。ところがそういった配慮を全てすっ飛ばしてインパが飛んでくる、それが可笑しい。
つまり被害者か加害者がここに居る招待客の関係者か、あるいはゼルダに余程近しい人物か。
嫌な予感に詰まる息をどうにか吐き出す。だがインパは一段と声を低くした。
「それが、どなたが亡くなったのか分からない首なし死体だったんです」
「首無し……?!」
「服を剥がれて身元を示すものが一切ないご遺体でした。しかも現場にはまたリンクの名前があって、……おかげで現場は大混乱です」
思いがけない言葉に、ゼルダは人目があるのも忘れて顔色を変えた。常であれば気を付けているはずの所作さえおろそかになりかける。
それほど、インパのもたらした情報は奇異だった。
「どういうことですか。リンクはまだ城の牢に入っているはずでしょう?」
「ええ、その通り、リンクの在所は捕吏隊の元から動いておりません。にもかかわらずリンクを犯人と示唆するような証拠が挙がって、しかも現場も前回とほぼ同じだとか」
「どういうことです……?」
殺人現場に人の名前を残すという行為が何を意味するのかは犯人しか分からない。だが痕跡を発見した側は、残された名前の人物が犯人だと推理するのは当たり前だ。
だが今回の場合には、リンクは牢に入っていて殺人をすることが出来ない。にもかかわらず残された彼の名前。
これではリンクが濡れ衣を着せられていることを逆に証明するようなものだ。
「不可解です、リンクの無実の明示しているようなものじゃありませんか!」
「さすがに今回の名前の件は捕吏隊も隠し通せなかったらしく、アッカレの騎士隊の方もリンクが濡れ衣であることを理解しつつあるようです。釈放されるのも時間の問題かと」
犯人の狙いはゼルダの排除、だとしたら彼女に最も近しい一人であるリンクをこのまま釈放させるのは、犯人にとっては全く得策ではないはずだ。犯人の意図が急に全く分からなくなり、ゼルダはその場に立ち尽くした。
席を離れてからわずかばかりの時間だったが、主人の女性が席を外す間に招待客の夫人や令嬢もざわつき始める。
その中で、ガタッと音を立ててダリアが立ち上がった。
「ダリア夫人?」
瞬く間にその場にいた全員の視線がダリアに集まった。主人の不在という無下な扱いをされたダリアが怒って帰ろうとでもしているのかと、隣の席のマリッタ子爵夫人などは慌てて袖を引いたぐらいだ。
ところがダリア夫人の淡い鴇色のドレスに赤い花が咲いた。
「ひめ……で、んか…………?」
鼻と口からボタボタと血を吹き出しながら倒れる寸前まで、ダリアの夜空のような瞳はゼルダを見ていた。自分の体に何が起こったのかを理解できないまま、彼女が最後まで手に持っていたのは姫しずかの模様のティーカップ。倒れると同時に高い音を立てて割れた。
最初に事態を理解して悲鳴を上げたのは隣のマリッタ子爵夫人だった。
「いやーっ! ダリア夫人?! だれか、誰か!」
動転した令嬢や夫人たちが一斉に席を立って逃げ始める。ガチャガチャと騒がしい音と、誰が何を言っているのか聞き取れないほどの悲鳴。
彼女たちをかき分けるようにして、ゼルダは倒れたダリアに駆け寄って手を取る。しかし彼女の瞳にもはや光は無かった。ダリアの体が最後に一度、大きく痙攣しながら口から大量の血泡を吹く。穏やかな春の庭園があっという間に血みどろの修羅場に早変わりだ。
「おねえ、さま……?」
シレネが信じられないようなものを見る目でゼルダを見る。
「え……?」
慌ててゼルダは辺りを見回したが誰一人として近づく者はいない。直前に紅茶のおかわりをサーブしたのはゼルダ本人だ、すぐそばに居た誰もがその様子を見ていた。
明るい真昼の茶会で、誰がダリアを殺したのか?
答えは誰もが分かっているようで、誰も何も言えない。静まり返る庭園で、じくじくとゼルダの白いグローブが赤く染まっていった。