傍らの青の一途 - 4/13

2 誰の隠し事

「姫様!」

 ゼルダの崩れ落ちかけた体を、インパの手が支える。おこりのように震え、見開いたゼルダの目は何も映していなかった。

「うそ、です……、そんな……リンクが殺人だなんて、何かの間違いです……!」

 か細い震え声が否定を発したが、騎士は苦虫を噛み潰したように俯いたまま。日頃からリンクと接点のあるインパやリラはもちろん、その場の侍女全員、果ては報告に参上した捕吏隊の騎士ですら、事実を信じられない顔をしていた。

 しんと静まり返った部屋にはゼルダの揺らぐ呼吸音しかない。

 もはやどうすることもできないと思ったその時だ。重い軍靴の足音が、凄まじい勢いで走ってくる。

 また一人、今度は近衛の制服を纏った騎士が戸口に跪いた。

「恐れながら申し上げます! たった今、リンク様が捕縛されたとッ」

「そんな、あの方に限って殺人だなんて、そんなことするわけがありません!」

 リラが気色ばみながら怒鳴りつけるも、報をもたらした近衛騎士から否定の言葉は無い。

 どうしてリンクに嫌疑が掛かったのか分からないまま、国で一番の騎士が、あるいはゼルダの一番大切な人は囚われの身となった。それだけが明らかになり、残されたのは浮足立つ周囲の人間ばかり。

 どうしたらよいかインパでさえ狼狽えたが、ゼルダは細く長く息を吐き出すと顔を上げた。

「インパ、ともかくリンクの元へ向かいましょう。今日の全ての予定は取りやめてもらえますか」

「それは問題ありません。ですが、姫様は大丈夫ですか?」

「大丈夫……とは言い難いですが、しかし最悪な状況ではありません。リンクはまだ嫌疑をかけられて捕縛されただけ、まだ私にもできることがあるはずです」

 ゼルダは両手をきつく結びつけ、祈るように一度額に当てる。次に目を開けた時には、冷や汗をかきつつもいくらか落ち着きを取り戻していた。数多の戦場に立ってきた姫巫女の強さは伊達ではない。

 すっくと立ちあがると、強ばる体からは震えを追い出すように頬を軽く叩いた。

「リンクが理由なく人を殺めるはずがありません。何かがあったのです。それを調べなければ」

 ゼルダは手早く支度を済ませ、インパとリラを伴い騒然とした場内を牢屋の方へ向かった。

 すでに城内には退魔の騎士が殺人の容疑で投獄された噂は広まっていて、誰も何も言わずに視線を逸らす。剣呑な気配を振りまきながら足早に歩く王女に対して、静かに頭を伏せて顔を隠して道を開けた。

 それがまるで、数年前の城に戻ったようだとゼルダは顔をしかめる。

 無才の姫と揶揄されていた頃、彼女が城内を歩けば人々はみな顔を伏せて嘲笑を隠していた。隠した感情の種類は違えども状況は同じ。物騒な雰囲気のなか、ゼルダは牢屋の手前の詰め所の戸を叩いた。

「あぁ、もうお聞き及びですか……」

「あら? 貴方は確か」

 戸を開けて顔を出したのは随分と背の高い騎士だった。痛そうに額を抑えながら緑がかった灰色の目を細め、口元に手をやっている。

 その顔を見た途端、ゼルダよりも先に、後ろに控えていたインパが指をさした。

「あれ? ローム陛下の近衛だった方じゃありませんか。なんだってあなたが捕吏の隊にいるんです?」

「兼任と言う名の出向みたいなもんですよ……ほら、厄災のおかげで人が足りないから、俺みたいな若い奴が捕吏の隊長務めなきゃならなくって。全くなんだってこんな時に、こんな厄介な事件が起こるんですかね」

 ぶつぶつとぼやきながら捕吏隊の隊長は、何も言わずとも心得たように一行の前に立つ。どうぞと促されて、ゼルダは恐る恐る暗い廊下を進んだ。

 牢屋など、王族が不用意に踏み入れるような場所ではない。初めて見る硬い寝台とはばかり用の壺しかない小部屋から、ゼルダは目が離せなかった。こんな場所に投獄された人物のことを思いながら唇を噛む。

 いくつもの牢を通り過ぎ、隊長が足を止めたのは一番奥だった。

「リンク、姫様がいらしたぞ」

 紛れもなく、リンクが寝台に腰かけていた。

 制帽は取っていたが、ゼルダと昨晩会ったときの近衛服のままの姿。声を掛けられてようやく持ち上げた瞼の向こう側には、冴えた青が静まり返っていた。

「リンク! 一体何があったのですか!」

 鉄格子を掴み叫ぶゼルダの声に、寝台から立ち上がったリンクは、そのまま石畳の床に膝をついて頭を垂れる。

「申し訳ございません、姫様。どうか俺のことは捨て置いてください」

「貴方が人を殺めるような人ではないことは、私だけでなく皆が知っています。何があったのかを教えてください!」

 昨夜の密会を知っているのはインパのみであり、またこれも公にすることはできない。ゆえに昨夜の事情を説明してリンクの無実を明かすことは難しかった。

 それを理解しての諦めなのか、彼は頑なに拒絶の言葉を繰り返す。

「何も申し上げることはございません」

「リンク!」

「申し訳ございません」

 異様な光景だった。

 退魔の騎士が姫巫女の対であることは、このハイラルでは広く知れ渡っている。子供でも知っていることだ。退魔の騎士は身命を賭してでも姫巫女の命に従う。リンクの人柄そうさせるのか、それとも女神に仕組まれたものなのかはさておき、彼にとってゼルダの命は絶対のように見えていた。

 だからこそ、姫の声に耳を貸さずに頭を垂れ続ける騎士の姿は、普段を知っている者には異様に見える。

 リンクがゼルダの言葉を聞き入れないのは、何かがおかしい。

「姫様、お話があります。少し詰所でよろしいですか」

 頑として口を割らないリンクから半ば引き剥がされるようにして、ゼルダは捕吏隊の隊長に詰所まで連れ戻された。詰所の中に入り、戸を閉めるとフーっと隊長は上に向かって息を吐き出す。

 彼もまた、随分と顔色が悪かった。

「ずっとあの調子なんです。何も言うことはない、そのまま捜査を続けてくれればいい、と」

「何かおかしいとは思わないのですか?」

「可笑しいことだらけですよ。大体から殺さなければならない相手がいるんなら、あいつは騎士なんだから堂々と決闘すればいい。何もかもが可笑しいんです」

「だったら……!」

 ゼルダが思わず声を荒げそうになったところで、騎士は「しーっ」と口元に指を立てる。そのまま辺りを伺うように聞き耳を立てたあと、声を一段と低く怖い顔をした。

「だから今からこっそり遺体と現場をお見せします。そのあとはどうぞご自由になさってください、と言えば通じますか」

 背後でリラが「やった!」と小声で手を叩いた。

 本来、容疑者と目される人物に近しいゼルダは、如何に王族と言えども事件に関する証拠を直に見ることなどできない。今回の場合は特に、下手に王女が肩入れしてしまっては、リンクが本当に犯人だった場合に示しがつかなくなってしまうからだ。

 それでもこの捕吏隊の隊長は、渋面のままゼルダに向かって事件解決のための情報提供を申し出る。彼もどこかで、退魔の騎士が殺人を犯すなどありえないと思っているのだろう。

 彼の立場上、容疑者であるリンクに肩入れできない苦悩が、眉間のしわにありありと刻まれていた。

「ありがとうございます。現場へ向かう際には少し着替えた方がよいですかね」

「そうですね、現場は使用人たちが行きかう場所なので、侍女の振りでもしてもらえると助かります。チャード様のご遺体は近くの遺体安置室にあるんで、すぐにご案内しますよ。っていうか、死体は大丈夫ですよね?」

「戦の時にこれでもかと言うぐらい見ましたから。でもその前に貴方にお聞きしたいことがあるのですが」

「え、俺ですか?」

 すぐにでも扉に手を掛けようとしていた隊長が、びくりと肩を震わせて振り向く。

 何におびえたのか、怯えた犬のように背を丸くしていた。上背がある割に小さく見える背中に向かって、ゼルダはコホンと咳ばらいをする。

「貴方を責めるつもりは毛頭ありませんよ。ただまず、リンクの所持品を見せていただけますか? 入牢する際には持ち物は取り上げる規則ですよね」

「あぁ、そうですね。確かにその通りです」

 広い机の上に広げられたリンクの持ち物は、何の変哲もない物ばかりだった。

 油の残りがだいぶ少なくなったカンテラ、空の薬瓶、地理の教書、私室の鍵や飾緒。退魔の剣も一応押収してみたらしいが、伝説の剣を抜けるのはリンクただ一人。押収したとしても置き場に困っているのか、隊長は随分と嫌そうな顔をしていた。

 ゼルダは全ての品を手に取って、教書は最初から最後まで、空の薬瓶の中まで覗き込んだ。

「ありがとうございます。次に貴方への質問ですが」

「ええぇ、やっぱり俺まで取り調べですか……?」

「最初に私の部屋に来た捕吏隊の騎士は、私にリンクの居所を聞きました。しかしその後、すぐに捕まったと別の近衛騎士が駆け込んできました」

「情報が錯綜したんですね」

「そうです。リンクは、いつ、誰の手によって捕縛されたのですか? 教えてください」

 直立不動になっていた隊長が、ところが灰色の目を左右に落ち着きなく動かす。

 その様子に間髪入れず、ゼルダは再び口を開いた。

「ところで貴方、昨夜は随分と深酒をしたご様子ですね」

「非番の夜ぐらい飲ませてくださいよ……」

 また口元を抑えながら顔色の悪い隊長は顔をそむけた。だが、さらに畳みかけるように言葉を紡ぐゼルダにはもうほとんど答えが見えている。しかし本人から言質を取るまでは容赦がない。

「さらに確か貴方は元々、騎士の寮でリンクと同室の先輩、でしたよね? 今はご結婚されて城下で奥様とお子様と一緒に暮らしていると、彼から聞いた覚えがあります」

「……………………あー、もう。本当に鋭い御方だ」

 ガリガリと灰茶の髪をかき上げながら、隊長は天を仰いだ。それが勝負ありの合図だった。

 ゼルダがわずかに口角を上げると、騎士はまた天井に向けてため息を吐き、表情を崩した。

「昨日の深夜にリンクが俺の家に血相変えて飛び込んできたんですよ。それで四の五の言わずに一緒に酒を飲めって。言い出したら聞かないやつですからね、あいつの言うがまま朝まで飲み明かした瞬間に容疑者が目の前に居るって状況でした。出向とはいえ捕吏隊の隊長やっているわけですから、捕まえないわけにもいかず。……これ以上はどうかお察し願います」

 きっちりと九十度に腰を折って頭を下げた隊長からは、まだ微かに酒の匂いがしていた。

 ゼルダは満足した様子で「分かりました」と静かに答える。もうこれ以上は追及しないと口を閉じると、ようやく隊長はホッとした様子で詰所の扉を開けた。

 遺体安置所は詰所のすぐ近くにあって、先に行った隊長が人払いをしておいたせいで警備の騎士も管理の医官も居ない。ゼルダが入るとそこには昨日会ったばかりのチャードが台の上に横たえられていた。

 しばしゼルダは手を組んで祈りを捧げる。

 どれほど人から嫌われていても、あるいはゼルダ自身を虐げた人でも、死んでよい理由がある人などいない。その信念に基づく行動に、インパは同じく手を合わせたが、リラはしばらく考えてから手は合わせずに黙礼しただけだった。

「アッカレの伯爵家のご次男、チャード殿で間違いないですね? ご遺族には今連絡している最中で、まだ確認前なんですが」

「実は昨日会ったばかりで、見間違えようがありません。当人です」

 変わらず華美な装飾の服だが、衣服に乱れは全くなかった。豪奢な剣も佩いたまま、物取りが行われた形跡はない。

 昨日まで軽薄な言葉を紡いでいた口は恐怖に開き切り、憎まれっ子世に憚るかと思われた彼にしては随分な死にざまだ。

 隊長は遺体の頭側に回り、チャードの左の首元を指し示す。

「致命傷になったのはこの首の傷です。一見するとただ首の太い血管を断ち切って失血死させたように見えますが、恐らく細い剣のようなもので刺したあと、傷痕を隠すために横に掻き切ったものと思われます」

「なぜそんな手間のかかることを?」

「剣の形を見られたくなかったのかもしれません。おかげさまで、正確な傷の深さが分からないので、犯行に使われた剣の刃渡りもよく分かりません」

 よく見てみると首元の傷は真ん中の一部だけが少し深くえぐれているように見えた。

 なるほどとうなずきながら、ゼルダは遺体の検分を続ける。頭の先から靴の爪先、服の合わせ目から見られる限りと腕もしっかり指の先まで、遺体を一度ひっくり返させるまでした。

 最後にまた全体を見て、ゼルダはふむと頷く。

「リンクの太刀筋や性格と照らし合わせても、そもそも傷の印象が随分と違う気がしますね」

「俺もそう思います。リンクならこう、剣でバッサリといく。こんな懐に飛び込まなければ刺せないような場所に小剣を突き立てるよりよっぽど早いし、鎧を着ていない相手ならちゃんとした武器の方が確実だ」

 黙って様子を伺っていたインパもリラも、双方それなりに腕に覚えがあるためか声を揃えて「確かに」「そうですね」と頷く。

 小剣とは本来、甲冑の隙間に差し込んで致命傷を与えたり、あるいは護身用にあつらえたものが多い。服装をみれば鎖帷子さえ着込んでいないことがすぐに分かるチャード相手ならば、普通の剣を持ち出した方がよっぽど確実だろう。

 それにリンクから取り上げた荷物の中には小剣は無かった。さらに付け加えるならば、勇者が携える退魔の剣は、あの厄災の額を割れるほどの切れ味だ。彼がその気にさえなれば金属の甲冑ですらバターのように切ることもできる。そもそも小剣など必要としていない。

 ますます分からなくなったゼルダは、ひとまず遺体の検分を終えることにした。今のところリンクが犯人である理由は見当たらないが、だからと言って他の犯人に思い当たる節も無い。

「ちなみに、リンクが犯人と目された理由は何だったのですか?」

「それは現場の方にあります。変装が終わり次第、城の裏手の通用門に来ていただけますか、ご案内します」

 バレないようにしてくださいよ~と念を押す隊長とは一旦別れ、ゼルダは私室へ戻った。

 侍女長を呼び出して事情を説明し、非常時ゆえ侍女の装束を三人分準備するように言いつける。髪さえ隠してしまえば、目立つ金の髪のゼルダはもちろん、インパもリラも一目見て誰とは分からなくなった。ただしリラにだけは、「さすがに背が大きゅうございますね」と侍女長は苦笑していたが。

 急いで通用門へ行くとすでに隊長が待っていて、案内されたのはそこからほど近い壁際の茂みの中だった。城の外から物品を運び込むための坑道に近く、多くの使用人が日ごろから歩き回る辺りだ。決して人通りが少ない場所ではないが、ちょうどへこんだ隙間になっていて通り道の方からは見えづらい。人が一人分ギリギリ入れるかどうかという隙間だった。

 非常線が敷かれた内側は未だに血糊がべったりと残り、どこに遺体が倒れていたのかは一目瞭然。壁を背に、大柄なチャードは寄りかかるようにして亡くなっていたようだ。

「どうして発覚したのですか?」

「犬が異様に吠えたのを不審に思った使用人の男が覗き込んだら、血みどろのご遺体があったと聞いております」

 ハイリア人は何も気が付かなくとも、ハイリア犬の嗅覚にはさすがにこの大量の血はバレバレだったのだろう。そうでもなければ数日間見つからなくてもおかしくはない位置だ。

 ゼルダは侍女の服の裾を摘まみ、慎重に遺体があったであろう場所に近寄る。しゃがみこみ、硬い地面を見て「ああ」と声を漏らした。

「これが、リンクが犯人とされた理由ですね」

「馬鹿げた話ですが、その通りです」

 乾いた硬い地面に名前が掘ってあった。

『Link』

 しかもご丁寧に、ちゃんと被害者側から書いたように向きまで調整してある。ちょうど右手が垂れていたであろう小さな窪みにだ。これを素人が見れば、被害者が苦しみながら書いた犯人の名前だと思ってもおかしくない。

 だがゼルダはその名前を憎々しげに睨みながら立ち上がった。

「首元を鋭い小剣で刺したらほぼ即死でしょう。こんな丁寧に字を掘る暇などないはずです」

「えっ、つまりリンク様は誰かにはめられたってことですか?」

 リラの言う通り、単純に名前が書かれた状況を見ればそういう話だ。

 掘られた名前はフェイク。リンクは誰かに殺人の罪を擦り付けられ、今捕まっているのは冤罪と言うことになる。

 そこから導き出される答えは一つしかない。

「つまり犯人は、リンク様を恨んでいる人物ってことですよね。それって、ええっと」

 リラが小難しい顔をして腕組みをした。

「具体的に心当たりあたりが、無い訳じゃないんですが、これと言ってあるわけでもないというか……」

「恨みというか妬みというか、リンクはそういうのばっかりですからねぇ。平民なのに最年少で近衛騎士になった出世頭の代表ですもん。でもそんなことで濡れ衣を着せられてたら、いくら退魔の騎士でも身が持ちませんよ」

「です、よねぇ……」

 心当たりが無い訳ではないが、決定的な目星が居るわけでもない。

 ある時は羨望を、ある時はやっかみを、常に多くの人からそういった感情を突き付けられているリンクには大小様々な敵が多い。だが決定的に対立する相手が居ないのは、厄災を封じたという何にも代えがたい功績があるからだ。言わずとも相手の方が察して一歩引くうえに、本人もそれを鼻にかけることが無いので、大きく敵対した相手はまだいない。

 それが周知の事実なだけに、インパとリラは互いに顔を見合わせた。ゼルダも肯定の意を示し、眉をひそめながら彫り込まれた文字を見ていた。硬い何か金属のようなもので、何度もなぞるように書かれている。

 誰がリンクの仕業に見せかけたのか。

 文字と、その地面を。

 ところがある瞬間、ゼルダはハッとして自分の手を見る。柔らかく小さな手にはまだ絡めた無骨な指の感覚が残っていた。

「姫様、大丈夫ですか?」

「え、ええ……大丈夫ですよ、インパ」

 動揺を隠しきれないゼルダはしばらく口元を抑えていた。ゆっくりと呼吸を落ち着けて、再び現場を見直す。

 窪んだ壁に寄りかかるようにして倒れていた遺体と名前の書かれた地面。それらをつぶさに見直してからゼルダはごくりと唾を飲み込んだ。

「インパ、リラ。もう戻ります」

「もうよろしいのですか?」

「少し落ち着いて考えを整理してみます」

 静かに非常線の外に出るとゼルダは隊長を振り返る。

 その灰色の瞳を見上げた。

「リンクのことをどうかよろしくお願いします」

「言われなくともそのつもりです。早く自由にしてやんないと」

「いえ、彼を牢から出さないでください」

 え、と声を上げたのはインパとリラだ。

 リラに至っては「姫様何をおっしゃって!」と侍女の振りをしていることを忘れたように声を荒げた。慌ててインパがリラの口を抑え込み、周囲で怪訝そうにする使用人たちに愛想笑いをする。

 もちろん憮然としたのは隊長も同じだった。

「それはどういうことですか。まさか本当にあいつがやったとお考えで?」

「違います、今の彼にとって一番安全な場所があそこだからです。もちろん私の予想の粋を出ない話ですが……」

 今朝の殺人事件などどこ吹く風でせっせと働く使用人たちを見回し、ゼルダは開きかけていた口を噤む。依然として眉をひそめていた隊長だったが、捕吏の騎士が駆けてくるのを見てずいと一歩前に出た。

 変装中とはいえ、翠の瞳はとても目立つ。意図を察したゼルダは隊長の影に隠れるようにして俯き、息をひそめて耳をそばだてた。

「申し上げます! アッカレの騎士たちが犯人を出せと詰所に押しかけております!」

「あ、ああ……なるほど、そういうことか。ったく、これだから地方貴族ってやつは……」

 隊長は痛そうに頭を押さえながらまたため息を吐き、部下に先に行けと命じる。

 部下の姿がすっかり見えなくなってから振り返り、ようやく顔を上げたゼルダを見て小声で「意味が分かりました」と呟いた。

「証拠はこれで全てです。あとはよしなお願いします」

「こちらこそありがとうございました。彼のことをどうかよろしくお願いします」

「言われた通り、重要参考人を奪われないように頑張りますよ。伯爵家相手じゃ分が悪いですが、まぁせいぜい足掻いてみせます」

 ではときっちりと一礼し、隊長はとまた痛そうな頭を振りながら詰所の方に歩いて行った。

 その後ろ姿を見送り、ゼルダもまた部屋に戻るために歩き出す。だがその歩みは遅々として進まなかった。何度も階段を踏み外しそうになり、壁にぶつかりそうになり、リラが慌てて腕を引くこと三回。

 腕を組み、小さく「そう、でも違う、いえ、だから……」と口の中で繰り返しながら、聡明な王女の頭は誰にも追いつけない速度で回転し続けていた。

「こうなると姫様はもう止まりませんねぇ」

 侍女らしくない緩慢な動きをするゼルダを隠しながらインパが苦笑する。

「でも私、リンク様が捕まったままなの、まだ納得できないんですけど……」

「それよりほらまた姫様が!」

 またもゼルダが違う曲がり角を曲がろうとしたところで、慌ててリラが先回りをして方向を修正する。このままでは抱きかかえて連れ帰った方が余程安全で早いかと思われた。

 ところがそのリラの方が、ものの見事に廊下に転倒する。

 すてーん! と音がするほど完璧な転び方だった。こればかりはさすがのゼルダも目が覚めたように組んだ腕を解いた。

「いったたたた……」

「大丈夫ですかリラ!」

「うわー誰にも見られなくてよかっ……」

 慌てて手を差し伸べたゼルダも、後ろで笑いを堪えたインパも、無様を晒したのが騎士姿でなくてよかったとホッとしたリラも。

 三人とも、あたりを見て表情が凍り付いた。

「また、水……!」

「いやあああッ! ルテラ女王の祟りです!!」

 お尻までぐっしょりと水で濡らしたリラは半泣きになりながら立ち上がる。手を貸したゼルダは青筋を立てながら廊下の端から端までを眺めた。

 廊下はまたしても大洪水。

 誰もが退魔の騎士の殺人容疑に意識を奪われている真っ只中で、通算六度目の『ルテラ女王の祟り』が起っていた。

 だが折り悪く、ゼルダ達は侍女姿で下女に言いつけることも難しい。敢え無く見過ごし、私室に戻るしかなかった。戻ればすぐにでも本物の侍女に事の次第を説明して秘密裏にでも処理してもらいたいところだったが、その頃にはすでに別の人に水浸しの廊下が見つかり、女王の祟りは大々的に広まっている。

 ドレスに着替えようとしていたゼルダは、姿見の前で立ち尽くした。

「次から次へと、もう、どうしたらいいのか……」

「リンクの容疑はさすがに『冤罪ではないか』と言う意見が大半ですが、ところが、その冤罪そのものが『ルテラ女王の祟り』の続きではないか、と疑う者すら出てきています。本当に人の口に戸を打ち付けたいですよ!」

 頬を膨らませるインパを横目に、ゼルダはコルセットを締められて表情を歪ませる。下手に王女であるゼルダが動けば、またどんな噂が立つとも分からない。どうしたら、どうしたらと呟きながら、着替えを手伝う侍女にドレスの色など聞かれても上の空。

「姫様、こちらを向いてくださいませ」

 呆れ顔の侍女が青藍色のドレスを持ち上げるその向こう側に、白いものあった。

 見慣れた姫巫女の装束だった。

「インパ……、今日はハイラル大聖堂に参拝がありましたね。今からでも間に合いますか」

「たぶん、大丈夫だと思いますが」

「参拝に行きましょう」

 呆れ顔がついにしかめっ面になった侍女を差し置き、ゼルダは白い姫巫女の装束を手に取る。

「私が大聖堂に参拝すれば、人々はわずかでも祟りに関しては安堵するはずです。癪ですが今はリンクを助けるためにも、水濡れ事件は『ルテラ女王の祟り』としてごまかす方が良いかもしれません。それに私としても、ちゃんと考える時間が欲しいのです!」

「御祈祷は頭を整理するお時間ではありませんよ?」

「非常時です、ハイリア様もきっとお目こぼしくださいます!」

 都合の良いことを並べ立ててインパを言いくるめると、結局ゼルダは巫女装束に着替えて大聖堂へと向かった。

 すでに大聖堂の方へも城での変事は届いており、一度は参拝を見合わせた姫巫女が訪れる方が不測の事態だった。大わらわの神官たちが、訪れていた参拝の客たちに帰るように促す。

 その追い立てられている人の群れの中にある人物を見つけて、ゼルダは目を丸くした。

「まぁ、ウトノフ殿が」

 昨日温室で会った時とはまるで違う厳めしい顔つきのウトノフが、女性の神官の手を乱暴に振り払っていた。何を言っているか間では聞こえないが、どうやら怒っている様子であるのは口元を見れば分かる。

 ぽっちゃりと垂れた口元の肉をぶるぶる震わせて、黒髪の神官に向かって何か怒鳴りつけていた。昨日会った際の小心が服を着ているようなウトノフの姿を思い出し、ゼルダは目を丸くして立ち止まった。

 すると捨て台詞を吐いたウトノフがくるりと女性の神官に背を向けて、のっしのっしと肩で風を切って歩き出す。妻のサワビと体が二つ折りになるほどぺこぺこしていた彼はどこにもいなかった。

「ウトノフ殿もお参りですか」

「なんだきさ……ひっ! 王女殿下ッ……!」

 ゼルダが声を掛けると驚いたルミーのようにぴょこんと跳ねて、先ほどまでの威勢が消し飛ぶ。何が彼をそうしたのかはつまびらかではなかったが、人は見た目に寄らぬものだとゼルダは冷ややかな視線を送った。

「これは、お見苦しいところを、申し訳ございません……」

「構いません。ではごきげんよう」

 特に喋ることもなく、それより早く祈りと称して思考する時間が欲しいゼルダは先を急いだ。逃げていくウトノフに構わず、彼に乱暴されていた女性神官に近寄る。粗暴な言葉をぶつけられていたその神官は、白い衣の裾を直していたが塵ほども取り乱した様子はない。

 むしろその顔を見て再び目を丸くしたのはゼルダの方だった。

「ロメリア夫人?!」

「お見苦しいところをお見せいたしました、ゼルダ姫様」

 今日の公爵夫人はカーテシーをしなかった。手を組み深々と、神官として頭を下げる。

 昨日温室でシレネやアモネと会ったときは見事に着こなしていたドレスも、今日は一般の神官と同じ白地に青で紋章の入った簡素なものだ。濡れ羽色の見事な髪を後ろに編み込んでしまうと、元から地味な彼女は見事に大聖堂の雰囲気に隠れてしまう。

「どうして夫人がここに? いえ、それよりなぜ神官としていらっしゃるんですか?」

「実は私、元々ラネール山で女神ネールにお仕えしている神官なのです。ハイリア様をお祀りしている大聖堂の方でも毎月のお勤めを行う許しを頂けたので、今日はこうしてお勤めを」

 そうしてまた深々と頭を下げた物腰を見て、彼女の気配の希薄さにゼルダはようやく得心がいった。常人の気配とは明らかに違う新しい公爵夫人は、社交界にあれば悪目立ちして忌避される花だ。だが神を祀る場においては、彼女のような敬虔な姿は模範ともいえる。

 ハイラル大聖堂へ参拝に訪れた意図を、わずかにでも見透かされていそうでゼルダは思わず背筋を伸ばした。

「ところで、ウトノフ男爵と面識がおありだとは思っていませんでした」

「昨日温室を出たところでお会いしたのです。そこでお声がけをして、よろしければ本日のお勤めの際に少しお話が出来ればと申し上げたのですが……」

「何やら怒っていましたね」

「私の不徳の致すところでございます」

 水底のような目を静かに伏せたロメリアは、俯いてしばらく何か考えている様子だった。穏やかな呼吸が二回。

 きつく結んでいた口を開いた彼女は、ゼルダの翠の瞳を見据える。

「ゼルダ姫様、少しお話よろしいでしょうか」

「構いません」

 さっとゼルダが手を振ると、控えていた侍女たちが距離を置く。開けた聖堂の通路に二人で立ち並び、しっかりと聞こえない距離まで人が離れたことを確認するとロメリアはおずおずと口を開いた。

「恐れながら『ルテラ女王の祟り』はウトノフ男爵の仕業ではないかと愚考いたします」

 あまりにも意外な言葉に、ゼルダは咄嗟に言葉が出てこなかった。

 確かに、先ほど幅を利かせて横柄な態度を取るウトノフならば、やりかねない雰囲気はあった。昨日温室で見せた小心者な様子とはまるで逆で、本来の性格がどちらかはよく分からない。

 しかし、だからと言ってウトノフが『ルテラ女王の祟り』を演出する理由を、ゼルダは思いつかなかった。何しろ治水工事が行われるのはラネール地方、ウトノフが管轄しているのはハイリア湖のハイリア大橋だ。まるで地方が違うため、治水工事に係わるところでは名前すら出てこない。

 それでもロメリアがわざわざ声掛けをして話をするのには、何か重大な理由でもあるのかもしれない。

「理由を聞かせてもらえますか?」

「あの、ゼルダ様が封印の姫巫女であらせられるから言いますが」

「聞きましょう」

「……実はそのようにお告げ・・・があったのです」

 またしてもゼルダは言葉を失った。

 祟りの次はお告げときた。科学論者の彼女としては頭を抱えたくなる素っ頓狂な言い草だ。だがロメリアは至って真面目な顔をして、嘘をついている気配もない。

 頭ごなしに否定することも出来ず、ゼルダは「そんな馬鹿な」という言葉を寸でのところで飲み込んだ。しばらく大聖堂の天井を見上げる。

「えっと、ではどうしてウトノフ男爵があんな騒ぎを起こすのかは分かりますか? いわゆる『動機』というものに心当たりなどは?」

「申し訳ございません、それがお告げでは理由はよく分からないのです。神官としての教養しかない私には、貴族としての物の考え方が今一つ分からず……ただ、その事実だけはお伝えしたく思いまして……」

「それで男爵を呼び立てて『貴方が祟りの犯人です』とお伝えしたと?」

「はい……」

 証拠もなしにそんなことを言われたら、どんな温厚な人物でも怒るに決まっている。しかも大聖堂の神官長やゼルダのようなある種の権限を持つ人物ならまだしも、一介の神官であるロメリアから、お告げで犯人扱いしたら猶更だ。この際、公爵夫人の地位など何の役にも立たない。

 先ほどのウトノフの傲慢そうに見えた態度も、もしかしたら普通の人の反応だったのかもしれないと思うとゼルダは改めて自分の先入観を恐ろしく思った。か弱そうに見えた方が正義とも限らないわけだ。

「分かりました。この『ルテラ女王の祟り』は私も困っていたところです。今からハイリア様にお祈りいたしますので、何かお告げがあればお屋敷の方にご連絡いたします。それで構いませんか?」

「ありがとう存じます、ゼルダ姫様」

 また深々と神官式の礼を取るロメリアを見て、つくづくこの人は貴族ではないのだなとゼルダは呆けて、開いた口を塞ぐのに精いっぱいだった。

 シレネとアモネの父親は、明らかに世間慣れしていない女性神官を自分の妻として選んだ。どんな理由、あるいはどんな色恋があったかは、臥せっている公爵とロメリア当人にしか分からないが、何の意図もなくロメリアのような女性を後妻に迎えることはないだろう。

 シレネは良い母だと認めていたが、多感な年頃のアモネにしてみれば付き合いづらいことこの上ないはず。道理であんな難しい相談をされるものだと、静かに祈りを捧げる振りをしながら頭の中で独り言ちた。

 当然、女神ハイリアから『ルテラ女王の祟り』の犯人がウトノフであるなどという、馬鹿げたお告げは無い。大聖堂から城に戻る前にペンと紙を所望して、ゼルダは何も無かった旨を手紙にしたためた。

「ロメリア夫人にですか?」

「今はリンクを救うことを第一に考えなければなりません。関係のないことは早めに終わらせておきたいのです。あと城に帰ったら御父様のところへ向かいます」

 神殿の下仕えに公爵邸への文をお願いして馬車に乗り込む。

 馬車の扉を閉じてしまえば、城までのわずかな距離だけでも密室となった。いるのはインパとリラとゼルダの三人だけ。インパが辺りの気配を入念に探り、何もないことを確認すると無言で頷いた。

「それで姫様、どうして今更陛下のところなんです? まさかもう昼食って時間じゃありませんし、分かったことがあるなら教えてください」

「そうですね、二人には順を追ってお話します」

 馬車の車止めが外された音がする。御者が台に上がる気配があって、ゆっくりと車輪が回転を始めた。

 わずかな振動と共に馬車が前に進み始める。その音と共にゼルダは口を開いた。

「まず、あの地面に『Link』と書いた人物ですが、恐らくあれはリンク本人の仕業であると私は考えます」

「えぇ!? なんで、なんでゼルダ様までリンク様が自分を容疑者にするんですか!」

「リラ! しーっ! しーっですよ!」

 ぽかんと殴らん勢いでインパがリラの口を抑え込む。リラも慌てて自分で自分の口を押えていた。

 だが幸いなことに歳のいった御者は気が付いた様子なく、馬車は緩やかなカーブを描きながら大聖堂の敷地内から出てく。

「理由はいくつかありますが、一番可笑しいのはリンクが捕吏隊の隊長殿のところへわざと駆け込んで捕まっている点です。もし本当にチャード殿を殺していたのなら、隊長殿を抱き込むよりも自力で逃げた方がいいはずですよね?」

「あー、リンクなら単身海外まで逃げられるだけの蓄えも、技術もありそうですよねぇ」

「でも、でも、リンク様は罪など犯していないですよね? じゃあなんでわざわざ自分から捕まりに行ったりするんですか!」

 リラは握りこぶしを膝に叩きつけ、猛然と抗議する。

 しかしゼルダは落ち着き払って、口元に一本指を立てた。しーっと、声を潜める。

「ですから、自分の名前を書くことで彼自身が進んで捕まらねばならない理由があったとしたら、どうでしょう?」

「自分を犯人にしなきゃならない理由なんてないですよ! それってどんな自虐ですか?!」

「そうですね、例えばあの硬い地面に、すでに別の人物の名前が掘られていたとしたら? 消せないほど深く、私や御父様の名が刻まれていたら。リラならどうしますか」

 静まり返った馬車が、石畳の上でゴトンと音を立てて跳ねた。

 一番整備が進んでいる城に近い広い通りでも、未だに整備が行き届かないところもある。表向きハイラル城も城下町も美しく整ったようにもみえるが、実際のところ復興はまだこれから。

 そんな時に復興の先陣に立っている王族が殺人罪の容疑で捕まりでもしたら、とんでもないことになるのは火を見るよりも明らかだ。

 ようやく意味を理解したリラが座席に座り直す。

「それで、自分の名前を書いたと……?」

「遺体の指には少しばかり土がついてはいましたが、爪にまでは入り込んでいませんでした。ところが『Link』と書かれた地面は小さく窪みが出来ているほど土が掻かれた跡がありましたし、全ての文字が異様に右上がりになっていました。人が一人しか入り込めない隙間だった現場の地面に名前を掘るなら、誰であろうと逆さまに文字を書かなければなりませんね? 右利きが逆さまに書いたのなら文字は水平か左下がりになる傾向が強い。しかし残された文字は異様な右上がり。あれはおそらく左利きの者が何か硬い物で掘った形跡です」

「あれ、リンク様って左利きなんですか? 剣は右手で持ってますよね?」

 言いながらリラは自分の剣帯の方向を確かめる。

 右利きの彼女は右の肩から左の腰に剣帯が掛かり、大剣の柄はもちろん右肩の上だ。だがリンクも立ち並べば同じ方向に剣帯が掛かっていた記憶があるのか、リラは手を前に出して空で剣を構える動作を何度か繰り返す。

「リンクは元々左利きですよ。剣の扱いは右利きに強制したらしいのですが、文字を書くのだけは未だに左手なのです」

「それは全く存じ上げませんでした」

「リラにとっては騎士として剣を交える時の方が印象強いでしょうから、気付かなくとも当然です」

 開いた自分の両手をしげしげと眺めながら、リラは「はぁ」と気の抜けた返事をした。解せない様子の彼女を尻目に、ゼルダはなおも話を続ける。

「だとして、リンクが庇うとすれば、それは誰でしょうか?」

「姫様か陛下しかいませんね。例え執政補佐官の私の名前があったととしても、リンクなら恐らく庇わないはず。直接言いに来てどうにか対処を考えると思います」

「私も同じことを考えました。もともとあそこに名前が書かれていたのは、恐らく私か御父様の名前。かき消すだけでは不自然なほど深く掘られていたんでしょうね」

 もちろんリンクとしても、本当にゼルダやローム本人がチャードを殺したとは思わなかったはずだ。だが放っておいては王族といえども嫌疑を免れることはできない。

 リンクがかき消す前に名を書かれた人物が、本当は犯人が貶めたかった人物と言える。

 しかし一刻の猶予もなく、隠蔽しなければならない事態に際したとき、退魔の騎士は自分を囮に使うことを躊躇なく選んだ。逃げることもなく捕まり、口を閉ざして沙汰を待っている。

 インパも、遠く石牢に捉えられている騎士を睨んだ。

「そこで関係ない他人の名前を書かずに自分の名前を書くのが、リンクらしいと言えばらしいですね。でもこれで、姫様に何を聞かれても黙っているリンクの態度も説明がつきます。なんかおかしいと思ったんですよ!」

「あとはもう事実の通りです。融通の利く先輩である捕吏隊の隊長殿の家に、アリバイを求めてお酒を飲ませに行き、明朝遺体が見つかったところで隊長殿本人に捕縛されて城の牢に入れてもらう。先に城方の捕吏隊に捕まっておけば、地方貴族の私兵によってろくな弁明や捜査もされずに私刑にされるよりも、ずっと安全と言うわけです」

 短い推理披露を終えたゼルダは、城に戻るとすぐに王の執務室へと向かった。

 当然、王であるロームは事の次第を把握しており、現れた娘のゼルダに向かって難しい顔をする。

 王がただ一人の騎士に肩入れすることはできない、武人気質の強いロームは公明正大だった。さりとてロームにとって、リンクは何にも代えがたき人物であることには違いない。退魔の騎士がいなければ、ハイラルは当の昔に滅びていたのだから。

 せめて『公正な捜査を行うように』と各所に命を下している最中に現れたゼルダが、人払いを願い出ると眼光鋭く頷いてさっと手を振った。

「ありがとうございます、御父様。実は昨晩のご様子をお伺いしに来ました」

「なんじゃ、娘のそなたが儂を疑うのか?」

「その逆です。おそらく私か御父様のどちらかがを貶めようとする輩が犯人で、リンクはそれを隠蔽するために自ら捕まったものと思われます」

「……なるほどな」

 父娘二人きりとなった執務室で、ロームは立派なあご髭を撫でる。

 その顔は戦場に立っていた時よりも随分と老けたように見えた。

「実は昨晩はアッカレの騎士たちと夕餉を共にし、酒杯を交わしておった。先だっての戦で亡くなった騎士たちを忍んでな……。その中に殺された伯爵家の次男、チャードもいたのだが、ふと気が付けば姿が消えておったのじゃ。兄のレクソンに行方を尋ねたが、『不調法者ゆえお気遣いなく』というのでそれ以上話はしておらん」

「ある意味、免れたということですね」

「どうやらそのようじゃな。ということは狙われたのはゼルダ、そなたの方ということになる」

 王であるロームが突発的にアッカレの騎士たちと会食することはあまりない。王の会食は事前に決まっている行事のようなものだ。すなわち、会食相手のアッカレ砦の筆頭騎士の弟を殺害して罪を王族に擦り付けようとする人物が、王族の会食予定を知らないとは考えづらい。

 しかもチャードはそれなりに大柄だ。現場へはチャード本人が歩いて行ったと考えるのが普通だろう。ということは、会食の場から姿をくらましたことも本人の意思だったことになる。

 ロームとアッカレの騎士たちが夕食を共にすることを知っていた何者かが、チャードを現場に呼び出して殺害。会食には参加しなかったゼルダの名前を地面に掘り残して逃走したと考えるべきだ。

 ではその犯人とは一体誰なのか。

 大きく肩を落としながら唸るゼルダの顔を、ロームは心配そうにのぞき込む。

「ゼルダ、大丈夫か」

「……大丈夫です」

「リンクを救いたいのは分かる。じゃがくれぐれも無理をしてはならぬぞ」

「はい。でも御父様もお気を付けください」

 それではと執務室から出ると、インパとリラが今や遅しと待ち構えていた。

 歩き始めてすぐにインパが小声で「どちらでしたか」と問う。ゼルダは無言で自分の胸を指さした。

「で、次はどこへ向かうおつもりです?」

 問いかけながらも、すでに私室へ戻るルートからは大きく外れていることに、インパが気にしている様子はあまり無かった。このままいくと兵舎の方へ行ってしまう通路に入ったが、構わずにゼルダは進んでいく。次第に顔が引きつっていくのはリラの方だ。

 往来する使用人たちが慌てて頭を下げる隙間を縫い、渡り廊下を颯爽と通り抜け、とある建物の入り口で鍵を借りる。

 その鍵を持ってたどり着いたのは騎士の寮、リンクの私室の前だった。

「一つだけ見当たらなかった物があるんです。もしかしたら部屋に隠したのではないかしらと思って」

「ええぇ……姫様、さすがにやめませんか? 勝手にお部屋を見るのはさすがにリンク様に申し訳ない気が……インパ様も何とか言ってくださいよ」

「私は構いませんよ。リンクの部屋がどんなものか、少し興味ありますし!」

 ゼルダが慣れない手つきで鍵を開けると、三人はするりと近衛騎士の寮の一室に入り込んだ。

 若い騎士たちは相部屋が基本とされているが、リンクは二人用の部屋を一人で使っていた。もともと相部屋だったあの捕吏隊の隊長が結婚して寮を出て以来、相方が入ってこないらしい。退魔の騎士と同室になることを、特に新任の近衛騎士は緊張して生活が間ならないとの噂さえあった。

 そんな事情のために、ベッドが丸々一つ空いているのは分かっていたとしても、三人はぽかんと口を開ける。

 部屋の面積を占めていたのは圧倒的な量の本だった。

「リンク様って、読書家なんですか……?」

「ここまでとは私も知りませんでした。でもこれ、ほとんどが教書や専門書ですね」

 読みかけらしく机の上に置かれていた本を手に取ったゼルダは、それが昨日一緒にチョコレートを食べた際に使っていた算術の教書であると気が付く。

 ここにあるだけの蔵書でもそれなりに勉強できるはずなのに、彼はわざわざ図書室の本を借りて来て夜まで勉強していたらしい。昨晩の待ち時間ですら、別の本を読んでいたらしいことは、取り上げられた荷物からすでに把握している。

 並大抵の努力ではないが、それを一切他人に漏らさないのがまたいじらしい。

「それで、一体何を探すんですか?」

 勝手に棚を開けたインパが、並ぶ武具に無遠慮に手を伸ばす。

 さすがに騎士の部屋だけあって、装備類だけはそれなりの量があった。異様なのは積み上げられた本だけのようだ。

「えっと、探して欲しいのはリンクが地面に自分の名前を書いた際に使った物です」

「具体的に何ですか?」

「それがよく分からないんです……」

 えぇ~っとカエルの潰れるような声を出しながら振り向くインパに向かって、ゼルダは苦笑する。肩をすくめながら有能な執政補佐官を上目遣いに見た。

「被害者が倒れていた地面、相当硬かったんです。でも周りにはそれを搔いたような石は見当たらなかったし、詰所で見せてもらった荷物の中にもそれらしきものはありませんでした」

「つまりリンクが先輩宅に行く前にここに寄って隠していった、と姫様は推理しているわけですか?」

「もちろん堀などに捨てた可能性は否定できません。それに見つかったら『リンクが上書きした』証拠になるだけで、見つからなくても支障が無いものなのであんまり期待してはいません。そっ、それにほら、他に何か彼の無実を証明できるものが見つかる可能性もありますし、リンクには申し訳ないですけどお部屋をササっと見せていただきましょう!」

 やけに早口になるゼルダを、インパは半眼で薄く笑って見ていた。ほんのりと耳を赤くしながら生まれて初めて家探しをし始める王女の姿に、リラは不審そうにしていたが何も問いはしない。

 リンクとゼルダが定期的に二人きりで会っていることを、リラは知らされてはいなかった。だから姫君が一体どんな気持ちで騎士の部屋を漁っているか、あまり気にしていない。

 分かっているのはインパの方だ。自信満々で適当な槍を一本拝借する。

「いいですか姫様、男という生き物が大事な物を隠すのは、大体ベッドの下と相場は決まっているんですよ」

「そ、そうなのですか?!」

「まぁ見ててください。ロベリーがあんな本やこんな本を大量に隠し持っていたのも、ベッドの、下の、一番奥の、壁際!」

「ちょっとインパ様、止めましょうよ! そんな、可哀そうですよ、さすがに!」

 兄がいるリラはおろおろしながら止めようとするが、インパは構わずベッドの下に槍を突っ込んで探る。ゴツゴツと石突の部分が箱に当たる手ごたえがあると、満面の笑みでそれを掻き出した。

 滑り出たのはテラコほどの大きさの木箱だ。きっちりと蓋がしてある辺りがリンクらしい。

「ほーらごらんなさい! 退魔の騎士といえども、やることはロベリーと変わらないじゃないですか!」

 嬉々としてインパは箱の蓋を取る。罪悪感からゼルダは少し顔を背けていたが、それでも興味に負けてはこの中を覗き込んだ。

 中身は手紙の束だった。

 真っ白な便箋に『リンク様へ』と書かれただけで、宛名のない手紙たち。いずれも封を開けられた形跡があり、リンクが目を通した形跡がある。

 だが中身が問題だった。

『ずっとお慕い申し上げておりました。遠くからいつもあなた様を見守っております』

『いつもリンク様に手を取っていただく夢を見ます。夢でお会いできるだけでも胸が張り裂けそうになります』

『リンク様のおかげで私は生きてゆくことが出来ます。想うことだけはどうぞお許しください』

『この春、登城することとなりました。直にお顔を垣間見られること、楽しみにしております』

 いくら他の便箋を開いても、中から出てくるのは無記名の恋文ばかり。まともなやり取りの手紙など一つもなく、きび砂糖より甘ったるく丸い文字ばかりが連なる。

「姫様、これは、そのつまり……」

 さすがのインパも、自分が掘り出した爆弾を青い顔で見ていた。

 ゼルダは我を忘れて、手紙をぐしゃりと握りしめる。

「どういうことですか……、リンク?」

 夕日が差し込む寮の一室で、ゼルダは恋人のとんでもない隠し事にわなないた。