傍らの青の一途 - 3/13

1 春めく城の不穏

 厄災との戦いから一年と数か月。

 女神の器として戦陣に立っていたゼルダは、今ではすっかり姫君としての生活に戻っていた。

 白い姫巫女の衣で傷だらけの戦場を駆けていた面影ははるかに遠い。今日も王家の青を基調とするドレスに身を包み、額を飾るのは泥ではなくティアラの輝きだ。

 実に王家の姫君らしい清楚ないで立ちで、しかし彼女は黒い紙の小箱を抱えて廊下に立ち尽くしていた。

「また、ですか」

 目の前の廊下は端から端まで水浸しになっている。

 せっかくの赤絨毯はぐっしょりと濡れて、下女たちが必死に拭きあげているところだった。誰の嫌がらせか、ご丁寧に窓の上の方にまで飛沫が付いている。

「本当に、また、です」

「誰が一体こんなことを」

 同じく苦々しい表情のインパと顔を見合わせ、二人は深々と大きな息を吐きあった。

 窓の外は温かな陽気に花も零れようかという春の息吹なのに、窓ガラス一枚隔てたハイラル城内は撒かれた水で冷え切っている。それもそのはず、実はここ最近のハイラル城では不可解な水濡れ事件が相次いでいた。

 いずれも水気のない場所に、まるでバケツをひっくり返したかのように水が撒かれている。誰がやっているのか犯人が分からないまま、すでにこれが五件目。

 厄災を討伐してはや一年余り。平和になったハイラル城において、この水濡れ事件はある噂話として面白おかしく囁かれるようになった。城に仕える者たちはもちろん、社交シーズンで城に出入りするようになった貴族たちも、今はどこへ行っても城中その噂で持ち切りだ。

「恐れながらゼルダ様、もしかして本当に『ルテラ女王の祟り』では……」

「リラもそんな噂を信じるのですか?」

 ゼルダはムッとしながら、背後に控えた新任の女騎士を見上げた。

 濃い赤毛を後ろできっちりとまとめ、女性にしては随分と大きい。しかしリラはその大きな背格好に似合わず、恐々と眉尻を下げていた。

 新しく姫付きとなった彼女は、アッカレ砦奪還戦で女性ながらも勲功を立てて王家に召し上げられた騎士だった。訳あって警護の任から外れている退魔の騎士ほどではないが、これでも相当に腕は立つ。

 それなのに彼女はお化けや祟りというものをひどく怖がっていた。対する執政補佐官のインパは横目にニヤリと笑う。

「リラはお化けが怖いんですかぁ?」

「怖いですよ! だってルテラー川って、大昔に非業の死を遂げられたゾーラの女王様のお名前が元なんですよね?! 化けて出そうじゃないですか~」

 ルテラー川は遥かな太古、黄昏の勇者の時代に実在したというゾーラ族の『ルテラ』という女王の名を冠した川だった。ある者はリラのように恐々と、ある者は面白おかしく、ハイラル城の水濡れ事件を『ルテラ女王の祟り』だと噂する。

 もちろん見闇なものではなく、噂になるのはそれなりに理由があった。

「確かに私が測量を指示したサマサ平原は、ルテラー川とラネール湾の境目です。でも湾と川を繋ぐ治水工事に、どうしてルテラ女王が祟るというのでしょう。非科学的にもほどがあります!」

 眉根をひそめながら、濡れた廊下を迂回するようにゼルダは歩き出す。

 行先はゼルダの執務室から本丸を挟んで反対側、図書室の近くの部屋だった。遠回りをしながらも、彼女の足は迷いなく城の反対側を目指す。

 その足取りは怒りに燃えている。ハイラルの王女は、ひとたび口と足を動かし始めると、止める術を知らない人だった。

「私もルテラ女王については調べました。確かに黄昏の勇者の時代に里を氷漬けにされて非業の死を遂げられたことは事実のようですが、当時のカカリコ村にあったゾーラ王家の墓に丁重に埋葬されたこともまた事実です。ミファーにも確認を取りましたし、祟りなどありえません」

 ゼルダ王女は無類の科学論者。

 これは城勤めの誰もが知る事実である。それでもリラはしゅんと肩を落とし、モゴモゴと言葉を詰まらせていた。

「そうはおっしゃいますが、私のような凡人には精霊もお化けも区別がつきませんもん」

「リラが怖いのは祟りではなく、得体が知れないモノの方なんですよ」

「インパ様だって先日は怖がってたじゃないですか!」

「たかが水と思えばどうと言うことはありませんよ」

 訳知り顔で一本指を立て、インパなどは胸を張っていた。見え透いた強がりに、今度はリラの方がぷうと膨れる。

 しかしインパのように考えられる者は少ない。

 大多数はリラのように、ゼルダが現在行おうとしている治水工事に対する怨念か祟りか、少なくとも人知を超えた何かだと信じていた。当のゼルダが女神の血を引く封印の姫巫女ゆえに、その的外れな噂話には手を焼いている。

 カツカツと声高にヒールで文句を言いながら、ゼルダはなおも続けた

「湾と川を繋いで、ラネール湿原のコポンガ村周辺に船着き場を作る。そうしたらアッカレやフィローネを迂回せずとも、海外から中央ハイラルまで大型船が直接入って来られるのです。とてもとても画期的な治水工事なのに……!」

 度重なる『ルテラ女王の祟り』は何らかの利権絡みでの嫌がらせだろうと、インパとゼルダの意見は一致している。だが相手がなかなか尻尾を掴ませないので、未だに誰がやっているのか分からない。

 しかも間の悪いことに、『ルテラ女王の祟り』の噂はゾーラの里にまで拡大していた。実際に河川工事をお願いすることになるゾーラ族の一部から、不安視する声が上がっているとミファーから手紙が届いたばかり。単なる噂に過ぎないと手紙をしたためたが、未だに返事はなかった。

 厄災を封じて平和になった途端、貴族同士の派閥争いが復活し、最近のゼルダは気の休まる暇が無い。それでも何とか執務を続けられたのにはちゃんと訳があった。

 ようやく辿り着いた目的の部屋、図書室に近い一室をノックする。中からは初老の男性の声で静かに「どうぞ」と入室を促された。

 くるりと背を向けて壁際にリラが立ったのを確認し、ゼルダは静かに扉を開く。教師役のハイリア人神官が目礼をし、その向かいで一心不乱に机に向かっていた麦藁色の頭が跳ね上がった。

「リンク、いま大丈夫ですか?」

「あ、姫様」

 机の上には大量の書物、神官は傍らに付き添っていちいち指示を与えていた。だがゼルダが来ると、神官は苦笑いをして傍を離れる。

「リンク殿、少し休憩にいたしましょう」

 神官は書物を閉じ、一礼して部屋から立ち去る。

 対するリンクは名残惜しそうにペンを置き、ふうと軽く一つ息を吐いて立ち上がった。時計を見て、青い瞳が丸くなる。

「まだ始めたばかりと思ったのに、もうこんな時間……」

「集中すると周りが見えなくなるのは姫様もリンクも同じですねぇ。教師殿にも椅子があった方がよさそうです」

 インパに指摘されて面目なさそうに笑うリンクが、部屋に一脚しかない椅子をゼルダにどうぞと明け渡す。代わりに机の隣に立ったリンクは、近衛の制服姿のままぐるぐると腕を回した。

「勉強熱心なのは良いことですが、やり過ぎは禁物ですよリンク」

「午後の訓練までにやらねばと思って。覚えなければならないことが、まだたくさんあることですし」

 彼が渋い顔で振り返った書棚には、これでもかというぐらいの書物が詰め込まれていた。ハイラルの歴史から算術書、果ては古代文字の教書まで。ありとあらゆる教養の本が所狭しと詰め込まれ、いったい何の受験生か勘違いされそうな状態だ。

 それでも姫付きの騎士を外れて勉強を始めた当初より、はるかに本の種類が高度になっている。背表紙を見渡してそのことを把握したゼルダは、かつての対だった騎士の成長に心を躍らせていた。

「では勉強を頑張るリンクにご褒美です。今日はあるお菓子の試作品ですよ。頭を使った後は甘いもので休憩するのが一番ですから」

 どうぞと抱えた黒い紙の箱を開くと、中にはつるりと丸い茶色い塊がいくつも並んでいた。仄かに甘い香りが漂う。

 生来の食いしん坊であるリンクは、思わず首を伸ばして箱を覗き込んだ。

「これは何ですか? 初めて見るお菓子です」

「チョコレートといいます。海外のお菓子なのですが、作り方を記した書物が手に入ったのでインパと作ってみたんです」

「作るの大変だったんですよ、もう腕が筋肉痛で痛くて痛くて。でも味の保証はします!」

 どや顔で語るインパには目もくれず、健啖家の手は一つ摘まんでぽいと口に放り込む。ぽりぽりと齧る音がするのと同時に青い目が輝いた。

「甘い、すごく甘いです」

「よかった。このチョコレートの専門店を城下町に出して、いずれ王室財政の足しに出来れば……なんて考えているのですが、リンクはどう思いますか?」

 言われた途端に真面目な顔になり、リンクは小さなひとかけらを入念に味わう。

「俺は好きです、飴みたいだから子供も好きかなと思います。美味しいし……あの、もう一つ頂いても?」

「どうぞ、貴方のために作ってきたんですから」

 もう一つ口に放り込み、リンクは「イチゴが入ってる」と口角を上げる。ぽりぽりと音を立ててかみ砕く姿に、ゼルダは思わずクククと声を上げて笑った。釣られてインパも笑っていた。

 何か粗相でもあったかと彼だけが不思議そうな顔をしていた。

「いえ、そういえばリンクは飴玉も噛んでしまう人だったなと思って」

「このお菓子は噛んで食べるものではないのですか?」

「食べ方は自由だと思いますが、私やインパは舐めて食べていました」

 はぁ、と分からない顔をするリンクの横で、ゼルダは机の上に散らばった紙に指を這わせていた。彼の性格を表すかのように少し角ばった丁寧な文字が、律儀に等間隔水平に並ぶ。ところどころに右向きにインクが擦れたが跡があった。見ればリンクの手は小指から手首にかけて真っ黒になっていた。

 随分と根を詰めて勉強している様子が頼もしくもあり、すぐそばに居てくれない寂しさもある。それでも彼女は黙してほほ笑む。これが『ルテラ女王の祟り』騒ぎで騒然とするハイラル城内でも、ゼルダが心穏やかにやっていける公然の秘密だった。

 ホッと一息つきたければ、こうしてお菓子を持ってリンクのところまで行く。インパも分かっていて、疲れが溜まった頃合いを見てはよく誘ってくれた。あるいは当人も羽を伸ばしたいのかもしれない。

「ちょっとリンク! さすがに食べ過ぎですよ」

「食べ過ぎると何か問題があるお菓子なのですか?」

「鼻血が出やすくなるそうです。媚薬の一種ではないかと、今プルアに調べてもらっているところなんです! なかなか返事がありませんけど……」

「それたぶん、プルアさんが食べてますよ」

「ええい、私にもチョコレートを寄越しなさい!」

「じゃあ私も一粒頂きますね」

 持ってきた十粒あまりのチョコレートは、あっという間に三人の胃袋に収まってしまった。こうして毎回、ひそやかな休憩は終わる。

 食べ終わったあと、リンクは物言いたげにチョコレートの入っていた箱を眺めていた。捨ててしまうには少しもったいないぐらいに綺麗な化粧箱だ。細工も悪くない。

「その箱は、リンクの方で処理してもらってもいいですか?」

「畏まりました」

 箱を閉じて机の引き出しへ、そのままリンクの手は滑るようにゼルダの手を取った。やんわりと時間を気にしながら、制帽を取ったままの近衛兵が小さな部屋の扉まで導く。

 扉を開けたそこにはリラが背筋を伸ばしていて、ようやく中から出てきた三人を見てホッとした顔をする。

「リラ、姫様をよろしくお願いいたします」

「お任せくださいリンク様」

「では姫様もお気をつけて」

「また来ますね、リンク」

 名残惜しく閉じられる扉に背を向け、ゼルダは城内をまた歩き出す。

 春、リンゴの花が甘く香る季節。貴族たちがそれぞれの領地から、この城下町にある屋敷に来る季節だ。リンゴの花は社交シーズンの始まりを知らせる便りでもあった。

 おかげ様で今、ハイラル城内には毎日のように会議に参加する貴族たちが顔を出し、同伴の夫人や令嬢たちが世間話と称して腹の探り合いをしている。城の至る所で権謀術数が蠢いていた。

 その只中をゼルダは前を見据える。

「温室へ参ります。インパは先に戻っていてもらえますか?」

「そういえばフィローネから取り寄せた植物が届いたんでしたっけ。構いませんけど、くれぐれもこの後のお仕事を忘れないでくださいね?」

「大丈夫です、まだ目を通していない書類が山積しているのはちゃんと分かっていますから」

 すぐ戻るつもりで意気揚々と歩き始めたものの、ゼルダはなかなか温室へはたどり着けなかった。

 何しろ下の階へ行くほどに遭遇する貴族の数が増えていく。国で現在最も位の高い女性であるゼルダの方から声掛けをしない限り向こうから声掛けをすることはできないが、しかし全てを無視することもまた難しい。

 たまたま出会ったゾーラ族と交流の深い貴族に「治水の案件は」と話をすれば、次に出会ったほぼ同格の全く無関係な貴族に声掛けをしないと逆に問題にもなる。『王女殿下が一部の者をご贔屓になさる』などと言われないよう、ゼルダの意識は張り詰めていた。

「時の神殿との交渉はこちらで行います。問題ありませんよ」

「王女殿下にそう言っていただけると心強うございます。城下の者も喜びましょう」

「では治癒院の補助員の選定はお任せします。何かあればすぐに執政補佐官を通して私の方へ」

「畏まりました」

 また深々と一礼をする貴族を前に、ゼルダは先を急ぐ。

 だが曲がり角で、はたと立ち止まり息を飲んだ。後ろからついてきていたリラが急ブレーキをかけていぶかしむ。

「いかがなさいましたか?」

「いえ……あの、ダリア夫人が」

「……あ」

 ゼルダの視線の先には、大ぶりの扇で口元を覆った貴婦人がちょうど部屋から出てきたところだった。その姿を見止めて、リラも口を真一文字に噤む。

「ごきげんよう、ダリア夫人」

「ご機嫌麗しゅう、姫殿下」

 優雅にカーテシーするダリアは、特段に美しい顔立ちというわけではない。ハイリア人としては平均的な栗色の髪に濃紺の瞳、歳もすでに40を超えている。ただ見る者を引き付けるのは彼女のドレスの品の良さだ。

 厄災との戦いで疲弊したハイラル王家は目下、財政の引き締めで質素倹約を旨としている。一方のダリアの領地はタバンタ地方でククジャ谷を挟んだ向こう側。ガーディアンの侵攻も少なく、ゲルド地方に次いで被害が少なかった地域でもあった。最近はリト族から様々に布を仕入れて、金持ち相手の仕立て屋を城下に営んでいると侍女たちのうわさ話にもある。

 その彼女のドレスだ、一見楚々と品が良くまとまっていても、どれほど値が張る物かは計り知れない。

 底知れないダリアの赤い唇が艶やかに笑った。

「いえ、失礼いたしました。あまり麗しいというお顔ではございませんね。また『ルテラ女王の祟り』が出たと噂を耳にいたしましたし」

 ゼルダは表情にはこれっぽっちも出さないが、内心では額に青筋を浮かべていた。

 貴族の夫人や令嬢たちはとてつもなく耳が早い。つい先ほど起こったばかりの廊下水浸し事件を、どこの誰から聞いたのかダリアはもう知っていた。

 さらに厄介なことに彼女は、ある別の公共事業においてゼルダと意見を違えている急先鋒でもある。簡単に言えば、ことごとく馬が合わない政敵と言っていい。

「祟りではなく、祟りに見せかけた何者かの仕業であると考えています」

「ですが急く船ほど向かい風も強いと申します。ルテラ女王の祟りが何者かの仕業だとおっしゃるのなら、もう少し周りの者たちに耳を傾け、握った手綱を緩めてはいかがでございますか」

 嫌らしい笑みをほんのりと湛え、しかしダリアの言葉は明確な攻撃はしてこない。大樹に付くつる草のごとく、巻き付いた相手をゆっくりと締め上げるのだ。

 それが分かっていても、巻き付かれたゼルダは目を伏せるしかない。つる草は先端を多少噛みついたぐらいではほどけず、根っこから立ち切らねばならない。しかもダリアはタバンタ地方の有力貴族でもある。やすやすと振り払えるほど容易な相手ではなかった。

 さてどう返そうかとゼルダが一呼吸整える間に、眉間にしわを寄せたリラの軍靴がカツンと音を立てる。

「夫人は姫様に手を抜いて仕事をせよとおっしゃるのですか?」

「リラ、やめてください。夫人のおっしゃることもまた一つの考え方です」

「でも……」

「いいから控えてください、リラ」

 いつもは穏やかなゼルダの唇が鋭い言葉をぴしゃりと言い放てば、さすがのリラも口を噤んだ。シュンと項垂れて、まるで口輪をつけられた犬のよう。

 それを満足そうにダリアは眺めてほほ笑む。

「手を抜けだなどとは申しておりませんよ、近衛騎士殿。ただ姫殿下は成人なさったとはいえまだ十八、もっと花の季節を楽しまれても良いお年頃だと、老婆心ながらに申し上げているだけでございます」

 では、とダリアはまた優雅にお辞儀をして、廊下の向こう側へ歩いて行く。

 その美しい後ろ姿を視界の外に逃がし、ゼルダは背筋を伸ばして歩き出した。後ろからしょぼくれたリラがついて来る。

「噛みついてはいけませんよ、リラ」

「申し訳ありません……でも私、ダリア夫人苦手です。姫様に嫌味ばっかり言うじゃありませんか。いい加減に腹が立ちます」

 貶められた当のゼルダより、リラの方が輪をかけて不機嫌だった。窓から差し込む明るい日の光に反射して、見事な赤毛がまるで怒りに燃える。

 実は彼女はまだ成人したばかりで、しかも中央ハイラルからは程遠いアッカレの下級貴族の娘だった。宮廷の嫌味の応酬には慣れていない。

 それが分かっていてゼルダは彼女を振り返り、不機嫌そうに顔をしかめていた彼女の手を取って軽く叩いた。リラは表情を曇らせ、去ったばかりの敵に向かってガンを飛ばす。

「私がもう少し位の高い貴族の家の出だったら、真正面から『姫様の邪魔するな!』って文句言ってやるところですよ」

「リラの優しいところは好きです。でも貴女の立場が悪くなっては事ですから、我慢も覚えてくださいね」

「はい、申し訳ありません」

 リラはまだ姫付きの騎士になってからも日が浅い。いずれ忍耐力と折り合いのつけ方を覚えるだろうとはゼルダも考えていたが、今はその素直な気性の味方が一人でも居てくれることがありがたいとも考えていた。

 鬱屈した気持ちを廊下に置き捨てて、また目的の温室に向かって歩を進める。一定のリズムを刻みながら、ゼルダは「そういえば」と背後を伺った。

「リラは確か、アッカレの貴族の出でしたよね」

「貴族と言っても郷士で、地位としてはぎりぎり準男爵位と言ったところです。だから生活は農民とあんまり変わりませんでしたし、兄たちと一緒に剣の代わりにずっとクワを振るっているだけでるだけでした」

 コロコロと表情の変わるリラは、今度は向日葵のように笑って見せる。

 今では彼女は見事に近衛の紺色の制服を着こなしているが、一年と少し前まではアッカレ砦奪還戦に参加する義勇兵の一人に過ぎなかった。女性にしては大柄な彼女は大剣の扱いを得意とし、ヒノックスからの一撃でさえ真正面から受け止めてしまう。男の騎士たちも目を剥く猛々しさだった。

 その活躍がインパの目に留まり、女性ということもあってゼルダの近くに置くことになったのだ。そこからはトントン拍子で、現在は数人しかいない女性の近衛として王女の身辺警護を一手に引き受けていた。

「でも、だからと言いますか。お恥ずかしながら、貴族の方々の顔を覚えるのはまだ苦手です。真っ先に覚えるのはダリア夫人みたいな、いろんな意味で特徴ある人ですし」

「リンクと同じですね。彼も東の端にあるハテノ村の出身で、私の騎士になった当初は苦労したそうですよ」

「そうなんですか? リンク様って何でもできる印象あるから意外です」

 退魔の騎士も同じ人なのですねぇなどと、本人が聞いたら苦笑するようなことを感心した顔でリラは呟く。そのままゼルダの前に回り込み、温室がある中庭へ出る扉を押し開けた。

 たった三段の階段を前にして彼女はゼルダに手を差し伸べる。すっかり堂に入った身振りだが、まだ少しこそばゆそうにリラは笑っていた。

 そこへふらりと人影が立つ。

「なんだ、どこの木偶の坊が姫君の介添えをしているかと思えば、アッカレカエデの大木ではないか」

 あからさまに人を小馬鹿にする口調に、リラがまなじりをつり上げて振り返る。立っていたのは若い貴族の男だ。

 デスマウンテンの山肌のような赤錆た髪を後ろで一つにくくり、騎士らしくない華美な剣を佩いていた。服装もどこかけばけばしくて品のない。帯剣を許されているので軍閥貴族らしいのだが、纏う空気は軍人らしからぬ男だった。

 その鼻持ちならない表情に、ゼルダは名前が出て来ず眉をひそめる。胸にとても嫌な気持ちが這い上がり、思わず言葉に窮した。

 そんなゼルダよりも先にリラの方が、憮然としながら若い貴族の男の名を呼ぶ。

「チャード様」

 その名前を聞いた瞬間、ゼルダは生唾を飲んだ。

 ガーディアンに包囲されたアッカレ砦を救いに行った際にその顔を見たことを思い出し、同時に心の中にじくじくとした嫌な記憶が蘇る。彼はアッカレ砦を守護する伯爵家の次男だったが、当時まだ封印の力を得ていなかったゼルダのことをひどく見下していたのだ。

 ところが当時とは打って変わった様子でその貴族の男、チャードは恭しく中庭の石畳に跪く。

「殿下、ご尊顔を拝し恐悦至極にございます」

「面を上げてくださいチャード殿。アッカレ砦の戦い以来でしょうか」

 起立を許されたチャードは、大柄なリラと並ぶほど堂々たる体躯をしていた。以前はこの大きな体を威嚇するがごとく揺すって、ゼルダを無才の姫だと蔑んでいたのだ。

 それが今は手のひらを返したように微笑みかけ、丁重に腰を折るとゼルダの手を取って右手の甲に口付けをする。ゼルダは困惑を通り越して迷惑を顔に張り付け、リラとチャードの双方を交互に見る。するとチャードの方がニヤリと口を歪めた。

「リラの家は我が伯爵家の郷士でしてね。兄たちも我が家に騎士として仕えているのです」

「それで面識があったのですね」

 左様ですと答えたチャードだが、ゼルダの手を離す素振りがなかった。

 温室へと急ぐゼルダとしては、元々蔑んでいた貴族など放っていきたい。しかしアッカレでも有数の貴族の次男であるチャードの手を振り払えば、あとで何と噂されるか分からない。

 ぐっと我慢して彼の言い草に耳を傾けると、彼は気分を良くして口を滑らかに動かした。

「しかしハイラルの珠玉たるゼルダ姫の警護に、ライネルみたいに大剣を振り回す野蛮極まりない女の騎士は相応しくないのではありませんか? 私であれば姫様をこの剣一振りで、退魔の騎士のごとくお守りいたしますが」

「チャード様!」

「事実だろう、うちの妹を散々外に連れ出した農民の雌犬のくせに。お前が近衛騎士だというのがそもそも何かの間違いではないのか?」

 ギリっと奥歯を噛む音がした。

 リラが眉間にしわを寄せ、今にも吠えそうに睨みつけている。だが実家の主家の次男であるチャードに歯向かうことが何を意味するか、さすがに理解できない彼女ではない。そんなことをすれば、故郷の家族がどんな憂き目にあうとも分からないのだ。

 一体なんでこんな厄介な人物がここに居るのだろうかとゼルダは目を伏せ、強ばる手をどうにか引き戻そうとした。

「チャード、何をしている!」

 声があった途端、チャードは舌打ちをして手を離した。

 どこの誰の助け舟かと辺りを見回すと、チャードと同じ赤錆びた髪を短く刈り上げた、こちらはいかにも軍人風な貴族が足早に向かって来るところだった。慌てて駆け寄ったその人は、チャードを一瞥して深々と頭を下げる。

「弟が無礼を! どうか平にご容赦くださいませ」

「大丈夫ですよレクソン殿、アッカレで共に戦った仲ではありませんか。どうかお気になさらず」

 アッカレの伯爵家の当主、レクソンだった。チャードの兄で、アッカレ砦の守護を司る騎士たちの筆頭でもある。弟と違って人格者であるレクソンが現れたことに、ゼルダは気を落ち着かせながら強く握られていた手をさする。

 そのレクソンが丁重に礼を取るころには、チャードは一歩退いたところに不貞腐れて立っていた。リラもいくらか落ち着きを取り戻す。

「レクソン様、お久しぶりでございます」

「リラか、見違えたな。立派に近衛騎士をやっているようで安心したよ」

 弟のチャードとは確かに兄弟なのだが、兄のレクソンの服装は貴族らしからぬさっぱりとしたものだった。華美で嫌味な弟よりもよほど人好きのする伯爵で、ゼルダを無才の姫とこき下ろす弟を何度も叱りつけていたのもまた兄のレクソンだった。

 嫌な思い出の蓋が開きかけたものの、胸を撫で下ろしながらゼルダは久しぶりのレクソンを見る。

「その後、アッカレ砦の様子はいかがですか」

「外周の修復にだいぶ時間がかかっておりますが、砲台は全て使えるようになりました。力の泉に参拝の折には、ぜひまたリンク殿と一緒にお越しください。ぜひまた手合わせしていただきたいものです」

「ありがとうございます。リンクもレクソン殿の相手と聞けば、きっと喜ぶと思います」

 それから二三、言葉を交わしながら中庭の石畳を少し歩く。

 だがゼルダは、その道の先には温室しかないことを思い出して、緩やかな歩みを止めた。

 レクソンもチャードもあまり花を愛でるような種類の人ではない。温室から出てくる事情に心当たりが見つからず、ゼルダは傍に付き従うレクソンを仰ぎ見た。

「お二人は温室に何かご用事があったのですか?」

「ある方を探していたのですが、どうやら本気で逃げられているようでして」

「ある方、とは」

「公爵家のシレネ様です」

 渋々と言った様子のレクソンからその名前を聞いて、ゼルダは「ああ」と大きく頷いた。実は良く知る名前だった。

「公爵家のシレネ様はチャード殿の婚約者でしたね。来秋にも婿入りされるのでしたか……、でもその婚約者に、逃げられているのですか?」

「結婚の延期を書簡で申し入れたんですが、さすがに悪いと思って直接謝罪してやろうと思いましてね。ところが向こうは居場所すら明らかにしないんですよ。俺が婿入りだからって、全くお高くとまった女だ」

 フンと鼻で文句を言い、後ろからぶらぶらと付いて来るチャードが悪態をつく。「言い方をわきまえろ」と兄に怒られても、チャードは「本当の事でしょう」と態度を改めない。

 今期が遅れるか、婚約を解消されるか、怯えて結婚の延期を嫌がる花嫁は少なくない。しかも公爵家には姉妹しかおらず、仕方がなく入り婿を容認した形だ。婿のチャードに逃げられたら堪ったものではないことは、社交界では周知の事実だ

 一方でアッカレの伯爵家とハイラル唯一の公爵家の婚姻ともなれば、相応の理由なく結婚の延期など認められるはずもない。ゼルダは分からない程度に首を傾げた。

「しかし、いったいなぜ結婚の延期を?」

「お恥ずかしながら、新しく立ち上げた事業が妖精の手も借りたいほど大忙しでして。我が家に仕える騎士たちにも給金を出さねばならず、軍閥貴族と言えども、もはや剣のみで食べていくことは難しい状態なのです」

 憂いに空を見上げたレクソンは、まだ三十だと言うのに随分と苦労のにじむ顔をしていた。

 被害の大小はあれど、厄災は国中の人々を傷つけていった。そのせいで今はどの貴族も家門の立て直しに余念がなく、新しい事業を始める貴族が後を絶たない。そんなご時世なので金がかかる貴族の結婚式などは、あれこれ理由をつけて後回しにされてしまうというわけだ。

 もちろんゼルダも財政に悩む一人だ。先ほどお腹に収めたチョコレートを思い出して、こっそり胃のあたりを抑える。

「どこも大変ですからね。ちなみに新しい事業って何をなさっているんですか?」

「ゾーラから技師を招いて彫金などを扱っております。金属の扱いについては武器に通ずるところもありますし、幸いゴロンシティにも近いので輸送費が安く済みます。ゲルド族の宝飾品にはまだ足元にも及びませんが、いずれはアッカレの名産品にするつもりです」

 その言葉にゼルダはチャードの佩いた剣の鞘を盗み見た。実戦用の剣にしては騒々しい装飾だが、これが女性の装飾品だと考えるならば納得がいく出来栄えだ。もしかしたらそのうち、宝石のゲルド、彫金のアッカレと呼ばれる時が来るのかもしれない。

 思いがけず良い話を聞けたことにゼルダは心躍らせたが、一方では結婚を延期されてしまった令嬢シレネのこともまた気がかりだった。

「レクソン殿、チャード殿」

「はい」

「なんでしょうか」

 ゆっくりとだが確実に温室へ向かっていた足を止め、振り向いて大柄な二人を真正面に捉えた。冷ややかと言うわけではないが、なるべく冴えた瞳で、特にチャードの方に向かってゼルダは視線を投げかける。

「公爵家はハイラル王家の遠縁にあたりますし、シレネ様とは幼少の頃より懇意にしていただいております。ですからお二人にはなるべく、るび・・していただければと思います」

 失礼しますねと声を掛け、今度こそゼルダは温室へ向かって歩き出した。

 背後でチャードが舌打ちをする音とレクソンが青ざめる気配がしたが、一切を無視してもう振り返らない。

「よくして欲しいだなんて、私も言うようになったと自分でも驚いてしまいますね」

 遠く離れてもう声が聞こえなくなるや否や、ゼルダは苦笑した。だがリラも大きな笑顔になっている。

「ちょっと胸がすっとしました」

「貴女のことをアッカレカエデの大木だの、雌犬だの、失礼にもほどがあります。それにシレネは私の大切な友人です。あの言い方は許せませんでした」

「私もチャード様は、妹のラディ様にものすごくきつく当たるので、昔から大嫌いだったんです」

 少し曇ったリラの表情に、ゼルダは記憶を遡る。

 厄災との戦いにおいてアッカレ砦は非常に重要な拠点だったため、ゼルダは何度も訪れていた。そのたびにレクソンには会っており、チャードは見下した姫巫女の前にはあまり顔は出さなかったが、存在だけはもちろん知っていた。

 ところが二人の妹にあたる人物については、あまり記憶に無い。

 リラの口調からすれば、すでに夜会に出てきてもおかしくない歳だと思われるが、顔が全く思い出せない。ゼルダ自身は王家の姫として、高位貴族の令嬢とは少なからず手紙のやり取りはしているので名前ぐらいは憶えがあったが、『ラディ』という令嬢についてはほとんど記憶になかった。

「アッカレの伯爵家には末姫はどのような方なのですか? お会いした覚えが無いのですが」

「あ、ええっと……、ラディ様はアッカレ砦が包囲されたときに顔にお怪我をして、以来人前にはお出ましになりません。それでなくとも母親が違うラディ様のことをチャード様がいじめるから、お屋敷から連れ出して遊ぶのが私の仕事だったぐらいで……」

 いつもははきはきと喋るリラが言葉を濁す。それ以上のことは、おしゃべりな彼女ですら口を噤んでしまった。

 兄があの様子では、きっとひどい目にたくさんあっているのであろう。『無才の姫』と陰口を言われ、針の筵だった少し前までの心境を反芻すると、ゼルダの口の中にも未だに苦い物が広がる。会ったこともない令嬢に思いを馳せながらもそれ以上の詮索は止め、リラが押し開けた温室の扉を潜り抜けた。

 中は温かく湿った緑の濃厚な香りが溢れ、一瞬だけ呼吸が苦しくなる。少し我慢をして深呼吸をすると肺は慣れて、フィローネのような空気が柔らかく頬を撫でた。

 ガラス張りのドーム温室には、海外から取り寄せた草花や、熱帯の樹木が密に植えてある。天井から垂れたつる草の先端には、オレンジ色の大ぶりな花がしっとりと咲いていた。

 大半はゼルダが集めたもので、多くの人がここを訪れては『姫君の園』と呼ぶ。その当人が中に足を踏み入れると、どこからともなくカサコソと草の擦れる音がした。

 コロリ。

 生る木もないのに転がってきたドングリを拾い、ゼルダは目を丸くする。

「珍しい先客がいるようです」

「ドングリ? コログですか?」

 辺りを伺うと白く咲きこぼれたランの向こう側から、コログこちらを覗き見ていた。コログ本人は隠れているつもりらしいが、丸いお面は葉っぱからはみ出て丸見え。

 ゼルダと目が合ったコログは少し伸びあがり、赤い実のついた枝を一生懸命にフリフリしていた。

「ここでコログを見かけるのは珍しいですね。新しい植物が気になったのかしら」

 コログに小さく手を振って、ゼルダは温室の奥へと続く小道を急いだ。温室の奥は小さな広場になっており、見事な赤紫のクレマチスに彩られた東屋がある。その東屋の周囲にはフィローネの植物の植木鉢がたくさん並んでいた。今日のゼルダのお目当ての植物たちだった。

 濃い緑のつるりとした葉っぱと、合間から顔を覗かせる鮮やかな花や実の数々。まるでフィローネの樹海を切り取ってきたかのようだ。

 その小さな樹海の間を、落ち着かない様子で歩きまわる小太りな男爵があった。

 勢いよく禿げあがった頭には大粒の汗が浮き出て、せわしなくハンカチで汗をぬぐっている。いくらかでも足を止めればよいのに、全く落ち着く気配なくずっとオロオロとしていた。

 その傍らには男爵によく似たふくよかな初老の夫人が、同じく所在無げに立ち尽くしていた。夫に声を掛けようかと顔を上げ、いやしかしと首を振って辺りを見回すのをずっと繰り返している。

 ゼルダは一目見てこの二人が夫妻だと分かった。長年連れ添った夫妻は、顔や雰囲気まで似るのだとこっそり驚く。

「ウトノフ殿、サワビ殿。お待たせしました」

「ひぇっ! 王女殿下っ、ご機嫌麗しゅう……!」

「ご、ご、ご機嫌麗しゅう……」

 ゼルダの姿を見るなり、ウトノフは地面から数センチ飛び上がり直立不動に、妻のサワビもぷるぷる震えながらカーテシーをする。その人柄のにじみ出た姿勢に、ゼルダは苦笑して「お楽に」と声をかけた。

「たくさんのフィローネの植物をありがとうございます。本当に助かりました、これで研究も進みます」

 フィローネの樹海から多種多様な草花が運び込まれたのは、温室を豊かにするためだけではない。ゼルダの個人的な研究にも大いに役立っていた。

 白く甘い香りのする花もあれば、真っ赤な穂のような花とも草ともつかないものもある。もちろん花だけではなく、てっぺんに真っ赤な実がたくさんついた草もあるし、幹から楕円の黄色い実が生っている木もあった。

 博識なゼルダですら見たことが無いような植物ばかりで、図書室で調べなければ植物の名前も分からない。ほうと濃い桃色の花に見とれるゼルダの横で、ウトノフとサワビは緊張と温室の湿度でさらに汗だくになっていた。

「いえっ! ゼルダ様のご命令とあらばこのウトノフ、いつどこへなりとも植物ぐらいお届けいたします!!」

「お気遣いありがとうございます。でもウトノフ殿の本来の管轄はハイリア大橋ですから、これ以上職務外のことをお願いしては私が御父様に怒られてしまいます」

「は、はいっ! 仰せの通りに!」

 少し離れたところでリラが笑いを堪えている。それぐらい、ウトノフ夫妻は緊張でコチコチだ。

 というのも、ウトノフ夫妻は確かに貴族ではあるが、王女と個人的な面識を得るほどの高位貴族ではない。官僚として貴族の地位を賜っているだけの法服貴族に過ぎず、しかもいわば地方勤務。慣れていないのは当たり前だった。

 だからと言って、ハイラルを救う戦いで兵士たちと同じ鍋で食事をしていたゼルダとしては、その程度でとやかく言うつもりもない。

 しかしこれ以上話をするのも難しいぐらい、夫妻の緊張はすさまじいものだった。二人して色素の薄い目に涙を浮かべ、このままでは感涙にむせぶことになりかねない。

「では確かに受け取りました。あとは庭師にお願いしますので、もう大丈夫ですよ」

「はっ! ありがたき幸せ!」

 何度もぺこぺこと頭を下げながら温室から出て行く丸い人影を見送って、ゼルダは必死で堪えていた余所行きの顔を崩した。

「すごいですね、あのお二人」

「ウトノフ殿もサワビ殿も、ウオトリー村出身であまり宮廷の作法には慣れていないのです。でも、リラもハイラル城へ来た当初は似たようなものでしたよ?」

「そ、それは忘れてください……」

 頬をわずかに赤らめる騎士を横目に、ゼルダはドレスの裾を気にしながらその場にしゃがみこんだ。普通の令嬢であれば汚れを気にして、植木鉢に不用意に手など出さない。

 しかしゼルダは白いグローブのまま、目の前の分厚い常緑樹の葉を裏返したり、幹に鋭いとげのある瓶のような樹木の木肌を撫でたりし始める。誰も止めなければ彼女は、こうして植物の観察だけで一日が終わってしまうこともあった。

 リラがしっかりと懐中時計で時間を見ているので、ゼルダは安心して観察をしていられる。時機に執務室へ戻らなければならない、だから可能な限り今のうちに。

 真剣な瞳が大きな黄色い実に映った時だ、温室の奥の方で声が上がった。

「お姉さま? あ、やっぱりゼルダお姉さま!」

 クレマチスの東屋の向こう側から十歳ぐらいの少女が顔を覗かせていた。

 白く輝くプラチナブロンドの髪を振り乱し、まだ丈の短い子供用のドレスをはためかせながら、ものすごい勢いで走ってくる。

 慌てたリラが「失礼します」と叫び、少女とゼルダの間に入り込んだ。少女はリラの腹のあたりにドスンとぶつかって止まる。むぐっと唸るように堪えたリラに対し、顔を上げた少女は「まぁ!」と酷く心外そうな声を上げた。

「ちょっと! あなたどうしてアモネの邪魔をするの?」

「っつつ……、恐れながらこちらの方はハイラル王家の王女殿下でして……」

「そんなこと分かってるわよ! そっちこそ、アモネとゼルダお姉さまの間に入るなんて無礼よ?」

 苛烈な青い瞳が大柄な女性騎士を見上げてねめつける。穏やかな温室に、バチバチと火花が飛んだ。

 方や白銀の蝶とも見紛うばかりの可憐な少女、方や男と見間違えられかねない赤毛の女騎士。だが騎士の方が圧倒的に劣勢だ。少女は腰に手を当てて、ずいと一歩ゼルダの方へ。植物から目を離して苦笑するゼルダの前に立ちふさがった。

「ゼルダお姉さまの騎士はリンク様しか存じ上げません。私とお姉さまの間に入らないでいただける?」

 ところが当のゼルダは苦笑して、ポンと少女の頭に手を乗せた。

「アモネ、そのような言い方はリラに失礼です。リラは私の現在の警護を担う近衛騎士で間違いありませんよ」

「え、そうなのですか?」

 振り向いた少女、アモネはゼルダの青いドレスに縋りながら口を尖らせる。小さな頭を撫でながら、未だ動揺収まらないリラに苦笑しながらゼルダは目配せをした。

「こちらはハイラル王家の遠縁にあたる公爵家のご息女、アモネです。私と姉と慕っているだけなの、許してあげてください」

「いえ、公爵家のご令嬢とは知らず、ご無礼をいたしました」

 なるほどと口の中で納得しながらリラはひざを折る。小さな令嬢の目線の高さに合わせて礼を取ると、アモネはふふんと胸を張った。

「分かればよろしいの!」

「アモネ」

「だってゼルダお姉さまに会えたの、一年ぶりよ? 本当はリンク様にだって邪魔されたくないわ」

 さすがに一国の王女の腕の中に飛び込む子供は、ハイラル広しといえどもなかなか居ない。始めて見る珍しい光景に、リラは目を白黒させていた。

 一方のアモネは、そんなリラの様子に全く構うことがない。

「でもびっくりです。温室の奥に隠れていたらゼルダお姉さまが来るんですもの! 本当はかくれんぼなんて嫌だったけど、やっててよかった」

「かくれんぼしていたのですか?」

「シレネお姉さまと一緒に、嫌なヤツからかくれんぼしてたんです!」

 ね、と振り向くアモネに釣られてゼルダが東屋の方を見ると、金の長い髪が零しながら辺りを伺う人影があった。

 その人物を見て、驚くのはゼルダの方だ。

「シレネではありませんか!」

「え、さっきレクソン様とチャード様が探していた、婚約者のご令嬢様?!」

 跪いていたままのリラがびっくりして顔を上げると、シレネは辺りを用心深く見回し、ホッとした様子で東屋の影から出てきた。

 レクソンとチャードは、温室にシレネは居なかったと言って、引き返したところでゼルダと出会ったはず。一体どこに隠れる隙間などあったのか、彼女の薄い浅葱色のドレスには葉っぱ一枚擦れた跡もない。

「お久しぶりですゼルダお姉さま」

「貴女とハイラル城で本気のかくれんぼなんて。鬼が務まるのは私ぐらいですよ、シレネ」

「兄のレクソン殿はできた方ですが、我が婿殿は相当な色狂いの俗物ですよ? 少しぐらい困らせてやっても罰は当たりません」

 かくれんぼを見事に制したシレネは、クスクス笑いながら小さくペッと舌を出す。次いで彼女の視線はゼルダの隣に跪く女騎士に向いた。

「初めまして、貴女がゼルダお姉さまの新しい騎士殿ですね。私は公爵家の長女のシレネと申します。お姉さまの遠縁にあたる時の神殿守の一族ですわ」

「はっ、お初にお目にかかります。リラと申します」

 慌てて頭を垂れるリラに対し、シレネは優雅な指を出してリラの顎を持ち上げた。興味深そうに左右から覗き見る。何事かと固まるリラに構わず手を引いて立たせると、その大きな体躯と背負った大剣を興味深そうに眺め、感心した様子で頷いた。

「さすがゼルダお姉さま。素晴らしい方を騎士に召し上げられましたね」

「ヒノックスを一騎打ちで召しとれる女騎士は、リラしか私も知りません」

「ハイラルの宝である姫巫女の身辺回りです。彼女のような女性の騎士がもっといてもよいと思うぐらいですよ」

 そのままシレネはゼルダを誘い、クレマチスの東屋に向かった。足元を仔猫がじゃれるようにアモネもくっついていき、躊躇なくゼルダの手を握る。

 ゼルダを挟んでアモネとシレネが立つと、後ろ姿だけならば双子の姉と妹のようにも見えた。もちろん顔立ちが違うので前から見ればそれと分かるが、珠玉が三つ並ぶ。ウトノフなどが見れば卒倒しかねない光景だったが、幸いにも温室には他に人の姿は無かった。

「でも婚約者のシレネが本気で逃げ隠れするなんて。チャード殿は騎士として力量のある方だとは知っていましたが、何というか、ですね」

「最初は私にあれこれと美辞麗句を並べたてておりましたけど、靡かぬ女はお嫌いなのだそうです。婚約前を理由に口付けを拒否したら、口から飛び出てきたのは罵詈雑言でした」

 アモネもゼルダに縋り付いたまま「アモネもきらーい」と隠そうともしない。妹の力強い賛同に、つんと澄ましたシレネの顔が崩れ、小さいながらもつい声を立てて笑う。

 その様子にゼルダは肩をすくめた。

 チャードは余程嫌われているのだろう、これでは結婚しても生活が上手く続くとも思えない。だが往々にして貴族の政略結婚とはそういう事情がある。子供さえできてしまえば、あとは互いに大手を振って恋人を作っている夫妻などどこにでもいた。ウトノフ夫妻のように長年の生活で雰囲気が似るほど仲睦まじい方が少ないのだ。

 いずれ招待されるであろうシレネとチャードの結婚式に、一体どんな顔をして行ったらよいのやらとゼルダは秘かに困りながら東屋の椅子に腰かける。

 そこへ当然の顔をしたアモネが、ゼルダの膝の上に登ろうとしたときだ。

「アモネさんはこちらへいらっしゃいませ」

 静かだが、凛と響く声があった。

 別段冷たいとは思わないが、不思議と胸を刺す声。その声を聴いた途端アモネの表情が曇り、ゼルダの膝の上からずるりと降りて俯く。

「お義母かあさま……」

 まだ若い女性、といっても三十路にかかるか、かからないか。忽然と広場の影から現れた女性は濡羽色の髪をきっちりと結い上げ、お世辞にも華々しい印象はない。色白のほっそりとした指には金の指輪が光り、誰かの妻であることを示していた。

 ほとんどの貴族の顔と名前を把握しているゼルダでも、名は知っていても顔を会わせるのは初めて。シレネとアモネの義理の母で、公爵の後添えとなった夫人だった。

「お初にお目にかかりますゼルダ姫様。ロメリアと申します」

「初めまして公爵夫人」

 それ以上の言葉を、ゼルダは迷って口を閉ざした。

 決して冷たい印象ではないのだが、どことなく気配が希薄な人だった。最初にアモネを呼ぶ声があった時、ゼルダはもちろん驚いて振り向いたが、なんとリラまでもがロメリアに気が付かずにいた。ロメリアの存在に一番驚いていたのはおそらくリラだ。

 ロメリアは驚くリラの横を素通りし、ゼルダの膝に縋り付くアモネに向かって手を差し伸べる。真っ白でか細い手だった。

「シレネさんはゼルダ姫様と積もるお話があるはずです。アモネさんは私と温室をお散歩していましょう?」

「そんなぁ。アモネもゼルダお姉さまとお話したいです」

「アモネさん」

 重ねて言われるとそれまで必死にゼルダのドレスを掴んでいたアモネの手が離れる。俯いたアモネは手を引かれ、丁重にお辞儀をするロメリアに連れられて緑のカーテンの向こうへ消えた。

 合わせてリラも立ち位置を変え、緑の中の東屋にはゼルダとシレネの二人きりになる。ゼルダ以外の人の姿がすっかり見えなくなってから、ようやくシレネは肩の力を抜いた。

「義理とはいえ母と娘なのに、私が次期公爵だからととても気を使われているんです」

「よいお義母様ではありませんか」

「本当に、私にはもったいないほどよい母です。でも亡くなった実母よりも年が近いのだし、もっと親しくしたいのですけれど、……やっぱり気兼ねなくとはなかなか難しいですね」

 レクソンとはまた違った苦渋が、シレネの横顔には溢れていた。

 彼女とゼルダは年もさることながら、置かれた境遇も非常によく似ていた。

 高位の貴族の長女に生まれ、おさなくして母を亡くした。家門を守り継ぐことを第一とし、いつ誰からも見られても良いように振舞う緊張を強いられる生活。

 唯一違ったのはゼルダには厄災封印という責務が課せられたのに対し、シレネに課せられたのは時の神殿の維持管理という神官としての役割だった。

 そのシレネが声に出して笑うのは家族かゼルダの前でだけ。湿った温室の空気を胸いっぱいに吸い込んだ彼女は、大げさなほど長い息を吐き出した。

「なんだかお姉さまにお会いしたら、少し気持ちが楽になりました」

 互いに成人しているとはいえ十八と十七の少女でしかない。そのシレネの横顔に、ふと影のようなものが差した。

「陛下にもお伝えせねばと思っていたのですが、……父が、もう長くないとお医者様に言われました。この夏、越すのは難しいだろうと」

「公爵様が……」

 ゆるゆると頭を振るシレネの瞳には光るものこそないが、長い銀の睫毛が暗い影を落とす。ゼルダは先を言い淀み、言葉を探して膝の上の手を固く握った。

 しばし重たい沈黙の末、先に切り出したのはゼルダの方。

「はじまりの台地にもっと早く私が救援に行っていれば、公爵様がお怪我をすることもありませんでした。私の力が目覚めるのが遅かったばかりに……」

 ゼルダの左手が、無意識に自らの右手の甲に食い込もうとする。

 そこに手を伸ばしたのはシレネだった。

 彼女はゼルダの右手を大事そうに持ち上げて両手で包み込む。白いグローブに包まれて見えない右手の甲には、燦然と輝く正三角形が三つ連なっていた。

「ローム陛下を時の神殿に匿う際、私たち公爵家はアモネに至るまで全員、王家のために命を賭す覚悟を決めました。ですから父の負傷はお姉さまのせいではありません。もう気にしないとお約束ください」

「シレネ……」

 本当ならばごめんなさいと言うべきところを、シレネの気迫に負けてゼルダは言葉を飲んだ。

 シレネとアモネの父、公爵家の現当主は、厄災に落ちたハイラル城から辛くも逃げおおせたハイラル王ロームを、決死の覚悟で始まりの大地に迎え入れたのだ。余程のことが無ければ参道の門扉を閉じて籠城できたはずなのに、公爵家は私兵の末端に至るまで王の盾となった。

 その際に負傷した公爵家の当主は領地からもう動くこともままならず、大事な仕事はすべて娘のシレネが取り仕切っている。

 当のシレネが許してくれていると頭では分かっても、ゼルダにはなかなか踏ん切りがつかない。俯きかけた顔をどうにか上げるので精一杯だった。

 そんなゼルダの顔を、シレネは意地悪な笑みで覗き込む。

「それよりもお姉さま、私を見て何か言うことはないのですか?」

「そうです! シレネ、その髪はどうしたのです?」

「んもう、遅いですよ」

 年相応に笑って見せたシレネと一つ年上のゼルダは、テーブルを挟んでまるで線対称だ。腰までの豊かな金の髪、柔和な表情、洗練された所作、唯一違うとすれば瞳の色だけ。

 ゼルダが翡翠だとすれば、シレネはラピスラズリ。どちらの宝玉も見事に輝いて、夜会では甲乙無しの珠玉と称えられている。

 もちろんシレネの金の髪は似合っていないわけではない、もちろん誰もが目を引く美しさだ。

 だが彼女の本来の髪の色は、妹のアモネと同じプラチナブロンドだった。

「染めたの、ですよね?」

「はい。姫巫女であらせられるお姉さまに憧れて染めてしまいました。……似合いませんか?」

 緩く波打つ金の髪をひと房摘まみとり、シレネは頬まで持ち上げた。ガラスの天井を通った日の光を浴びて、彼女は目を細める。

 その表情を見て、ゼルダは思い当たるものを見つけて手を打った。

「そうです、私の母に似ているんです!」

「先代の姫巫女様に? それは光栄です」

「私たちは高祖母が同じ姫巫女ですから、似ているのも当たり前なのかもしれませんけれど」

「いいえ、とても嬉しいです!」

 余程同じ髪色が気に入ったのか、シレネは興奮気味に髪を梳く。その右手に光っていたのは見事な細工の指輪だった。チャードから送られた婚約指輪であろう。石は深い色のサファイアで、見事に瞳の色と合致している。

 ゼルダは彼女の指輪を少し羨ましく眺めた。対するハイラルの王女の指には未だ光るものはない。軽い手は気楽に動かせるのが良い、だが年頃になればそれもまた寂しいものだ。

「早くご結婚出来るといいですね」

「父を安心させてあげたいのは山々ですが、でも私には他にもたくさんのお仕事がありますからまだ独身でも一向に構いませんよ。つい先日だって、お姉さまから依頼された治癒院へ薬の扱いが出来る神官を派遣するお話を通したばっかりですし」

「本当ですか?」

「ご要望通り、時の神殿から二名ほど派遣できるかと思います」

 再び、東屋が賑やかになる。今度はゼルダの方が興奮して喋り出す番だった。

「これで治癒院自体を稼働する目途が立ちました。よかった、薬の扱いが出来る神官がいなければ、誰を癒すこともできませんから。本当によかった!」

 安堵の息を漏らすゼルダには、自身が中心となって進めている政策が二つあった。

 一つはラネール湾とルテラー川を繋いで、海外と中央ハイラルの流通を増やす治水政策。 もう一つは、城下町に貧しい平民でも通える無料の治癒院を創設することだった。

「平和にはなりましたが、多くの民が傷ついたままなのです。未だ傷が癒えず、風邪ひとつで命が危うい民が城下にも多くいます」

 厄災との戦には勝ったが、だからと言って兵士たちの千切れた腕や足が戻ってくるわけではない。そういった者たちは生き残っても退役せざるを得ず、その先の仕事のめども立たないものが多い。兵士でなくとも仕事や家族を失った者は数多いて、その日を生きるので精一杯で病気がそのまま死に直結することが少なくない。

 さらには恩給を貰って退役した兵でも、かさむ治療費が払えなくなる者も少なくなかった。

 国を守った勇敢な兵が路傍に捨て置かれ、誰にも顧みられずに亡くなっていく。

 元々一兵卒だったリンクを通してこの事実を知った時、彼らを救うのは自分の義務だとゼルダは決意したのだ。

「雇用と保障、二つを同時に行わなければ、厄災で疲弊したハイラルを立て直すことはできません。治水で雇用を、治癒院で保障をどちらも欠いてはならない国の歯車と考えています。シレネ、どうか力を貸してください」

 華奢な両手をぎゅっと握り込み、鼻息荒くゼルダは喋る。するとシレネはふふふと笑った。

 まるで小さな演説。

 遅れて気が付いたゼルダが頬を赤らめながら握り拳を解くも、シレネは心得たように頷き返した。

「そのご立腹なご様子では、もしや『ルテラ女王の祟り』か、治癒院反対派に出くわしましたか?」

「お見通しですね、どちらもです。祟りはともかく、ダリア夫人が私の治癒院創設案に反対されているのは、噂によればご自身の手がけるお店の近くが治癒院予定地だからだとか……。貧乏人が近寄るというのは、そんなに許せないものでしょうか」

「貴族としてはまっとうな価値観ですね、正しいかどうかはさておき」

「そう、ですよね」

 シレネの言葉に正しさは感じなくても、同じくゼルダも肯定してしまった。こめかみを抑え、日差しに目を細める。

 方や『ルテラ女王の祟り』、方や有力貴族の強固な反対。うら若き王女が現在抱えている政策は、二つとも暗礁に乗り上げていた。

 どちらも封印の力でどうにかできる相手ではない。悪しき物を滅する力が効く相手の方が余程やりやすかったと、口には出さなくてもゼルダは内心は何度も考えてしまう。

 少しずつ味方を増やし、心の許せる人と話して心を落ち着け、そうしてゼルダはここまで漕ぎつけた。それでも立ちはだかる壁は大きい。

「でも治癒院に時の神殿の神官が来るのはとても大きいことです。民も安心して治癒院を利用できることでしょう。ありがとう、シレネ」

「ただ大変申し訳ないのですが、薬の提供はもう少し待っていただけますか。薬草園の世話をする者が足りなくて、まだ十分な薬が準備できないのです……」

 難しい顔をするシレネに、やはり公爵家の方でも一筋縄では話が通らなかった様子が伺えた。

 時の神殿はハイリア信仰の要、城下町のハイラル大聖堂と並んで高位の神官たちが詰める聖なる場所でもある。そこから城下町の平民相手の治癒院に派遣ともなれば、左遷と勘違いする神官も居るだろう。

 それらにかかりきりの間、ガーディアンたちに荒らされた薬草園はおそらく手付かずだったはず。時の神殿の南にある広大な薬草園や、野草の取れる精霊の森も魔物に蹂躙されていたのを思い出し、あの広さを管理するのは大変だろうとゼルダも俯く。

 余程体力がある者でなければ難しいだろう、そう例えば軍人のような――と考えたところで「そうです」とゼルダは顔を上げた。

「傷痍軍人を雇い入れるのは可能ですか? 怪我で退役していても、女子供よりは力はあります」

「なるほど、その手がありましたか。あまり豊富な給金を出せませんが、それは妙案かもしれません」

「では身元の明らかな者を見繕って、すぐにでも名簿を送りましょう」

 希望が少しずつ形になっていくのが嬉しくて、ゼルダは居ても経ってもいられずに立ちあがる。このままではすぐにでも執務室に戻り、傷痍軍人の名簿に目を通して気が付いたら夜、などと言うのはざらだ。

 事実、姫巫女として修行に明け暮れて寝られない日々を送っていたのが過去だとすれば、執務に精を出し過ぎて寝ない日々を送っているのが現在だ。あまり健全とは言えないその生活に、侍女たちからは口をそろえて「おやすみください」と説教されている。

 シレネも分かっていて、ゼルダのドレスの袖口をちょいちょいと引っ張る。

「もう、ゼルダお姉さまはすぐに前のめりになるんですから。もう少し休んでいかれません? それともすぐにお仕事ですか?」

「書類の山がゲルド高地のような有様なのです」

「なるほど、ではお引止めはこの辺りにいたしましょう」

 寂しそうに笑うシレネの見送りを受け、ゼルダはリラを伴って温室を出た。

 そこで一度足を止め、ゼルダは天を伺う。時間さえ許されるのならば遠乗りにでも出かけたいような陽気だ。だがシレネへの件もあるし、他にもやらねばならないことは山積していた。立ち止まってなど居られない。

「姫様?」

「いえ、大変ではありますが、充実してもいるのだなと思って」

 再び中庭を歩き出したゼルダの足は軽やかだった。リラに手を引かれ、また城内への階段に足を掛ける。今度は誰に呼び止められることもなく執務室まですんなりと戻りたい。

 が、もちろんそうは問屋が卸さない。城の中へ入ろうとするゼルダの背を叩いたのは幼い声だった。

「ゼルダお姉さま!」

「まぁアモネ、どうしました?」

 息を切らして走ってきたのは、義母のロメリアに連れていかれたはずのアモネだった。後ろから慌てた様子のロメリアが来て、手を引いて「行きましょう」と促す。しかしアモネはイヤイヤと首を横に振った。

「少しだけお聞きしたいことがあるんです。お話、よろしいですか?」

 胸の前で小さな手を組んで、見上げた少女の瞳は真剣そのものだった。その表情には幼いころにとても覚えのあるもので、ゼルダはにっこり微笑む。

「構いませんよ」

「じゃあ二人っきりで、お義母さまもリラもちょっと離れてください!」

「ええ、私もですか?」

「誰も聞いちゃだめ!」

 ゼルダのぐいぐいと手を引っ張って、アモネは中庭の端の方へ歩いて行った。壁際ギリギリまで来てゼルダと向かい合うと、胸に手を当ててスーハースーハーと何度も深呼吸をする。そうまでしても、しばらくはぎゅっと口を噤み、アモネは一生懸命言葉を選んでいた。

 あどけない少女をゼルダは微笑ましく、辛抱強く待っていた。

 実のところ、ゼルダは彼女ぐらいの歳にはすでに封印の力が目覚めないことに悩んでいたので、これぐらいの歳の子の興味が何にあるのかよく分からない。いったいどんな重大な話を切り出されるのか、ゼルダの方がドキドキしていた。

「あの、絶対に誰にも内緒にしておいて欲しいんですけど」

「約束します」

「……年の近い継母ってどう思われますか?」

 少し潤む瑠璃色の瞳の向こう側に、少女は必死の決意が見えた。

 アモネの生みの母親である前公爵夫人は、彼女が生まれた時に亡くなった。あとから人づてに聞いた話では、肥立ちが悪かったそうだ。ゼルダが八歳、シレネが七歳の時だった。

 それから九年、後妻の話が一切ないまま公爵は戦傷で伏せっきりになった。ところが厄災との戦が終わった直後、いきなり後添えになったのがあのロメリア公爵夫人だ。

 シレネの方はロメリアに対しては悪い印象ではないようだし、折り合いもつけている様子だった。しかし全く母を知らずに育ったアモネにとっては、いきなりできた年若い母親にどう接してよいのかも苦悩することもあるのだろう。

 これは難しい質問が来た、とゼルダは思わず瞼を閉じる。するとアモネは慌てた様子で言葉を重ねた。

「あ、じゃあ年齢にかかわらず、でいいです。新しいお母様が出来たら、ゼルダお姉さまはどう思いますか?」

「私がアモネの立場だったら、ということですよね」

 今度は白いひげをたっぷり蓄えた父の顔を思い浮かべた。

 ゼルダの父、ローム・ボスフォレームス・ハイラルも、十二年前に王妃を亡くした。言わずもがな、王妃が無くなってから現在に至るまで、ハイラル王にも後妻の話は後を絶たない。

 それはたった一人しかいない王女が無才の姫と言われたゼルダだったことが一番の要因だが、王に世継ぎのほか子供が居ないことへの警戒もあった。王が後妻を迎えて、ゼルダ以外の子女をもうけるのは王家としては尤もな話だ。嫡子であるゼルダに何かがあってからでは遅い。

 しかしロームは後妻の話があるごとにどうにか抑え込み、未だに後添えたる王妃は居ない。だからもし今からロームが後妻を迎えるのだとすれば、それはきっと子供のためではない。ゼルダにはそんな気がした。

「もし今、新しいお母様が出来るとすれば、それはおそらくお父様の愛した方だと思います。お父様の愛された方であれば、私も愛せると思います」

「ゼルダお姉さまでもそう思われますか?」

 「はい」と即答するのは、さすがのゼルダでも難しかった。

 もしそんな事態になれば、一体どんな手練手管で老いた王に取り入ったのかと陰口を叩く者が後を絶たなくなるだろう。あるいは王の寵愛を後ろ盾にする王妃派と、嫡子である王女派に宮廷が派閥で割れて争うことにもなりかねない。

 だとしても多感な時期のアモネに対しての自分の回答は、恐らくこれが限界であるとゼルダは自分に言い聞かせた。

 政略結婚ばかりの貴族の中に在るアモネも、いずれはどこかの誰かと難しい結婚をすることになる。少女には酷な話だが、形が先に出来て後から中身が伴う関係もあることを、それとなく仄めかすにはよい機会のようにも思えた。

 無言で小さく頷くゼルダに、アモネの表情はパッと明るくなる。

「ゼルダお姉さまがそうおっしゃるのならば、私も大丈夫です」

「ならばよかった」

「でも内緒にしておいてくださいね?」

「はい、アモネと私の二人の秘密です」

 指きりげんまんをしたアモネと別れ、ゼルダは足早に執務室に戻った。幸いなことに、そこから先はあまり人に捉まることは無かった。

 すでに限界まで積み上げられた書類の向こう側で悲鳴を上げるインパを救い出し、さぁと腕まくりをして仕事に取り掛かる。夕食も手早く済ませ、休む間もなくまた仕事に取り掛かる。

 こうして夜も更けたころにようやくその日の仕事のめどが立ち、ゼルダは固まった体を伸ばした。座り仕事ばかりで、歳に似合わずパキパキと体が鳴る。

 だがそれで一日が終わったわけではない。

 小瓶に入った濃い紫色の薬を一気に飲み干すと、おもむろに書棚の前に立った。分厚い本に似せた突起を押せば、書棚が引っ込んで隠し通路への入り口が音もなく開く。

「ではインパ、少しお願いします」

「はーい。でも気を付けてくださいね」

「大丈夫です、シーカーストーンは持っていますし。それにある意味一番安全なところへ行くのです」

「違いますよ、バレないでくださいって意味です! バレたら監督不行き届きで私の首が危ないんですから」

「ちゃんとしのび薬も飲みました」

「んもう分かりましたから! 早く行って、早く帰ってきてください!」

 毎度の分かり切った会話をし、ゼルダは隠し通路の闇に姿を溶かす。真っ暗な通路を抜け出た先は、すっかり静まり返った王城の裏手だ。そこからはカンテラに小さな灯りをつけてひた走った。

 もちろん警護のリラもすでにその日の仕事を終えて下がっている。全くの一人。

 だがゼルダの歩みに迷いはなく、慣れた様子で夜警の騎士の目も掻い潜る。人目のない茂みの中を歩き、ある場所で灯りを吹き消した。

 そこからは背を低くし、息を止めて忍び寄る。

 馬二頭分ほどの距離のところに、近衛の制服を着たままのリンクが背を向けて立っていた。ポケットから何かを出して、少し悩むように俯いている。

 だが次の瞬間、ゼルダは勢いつけて駆け込むのと同時に、野生動物よりも勘のいい彼は燕のように振り向いた。

 ぼすっと軽い音がして、ゼルダの体はすっぽりとリンクの腕の中に納まる。

「ゼルダ様」

「もう、どうしてバレてしまうんでしょう! ちゃんとしのび薬飲んでいるのに」

 そのままゼルダが腕を伸ばして首に絡めると、苦笑しながら傾いたリンクの顔がゆっくりと近づいてくる。ゼルダが瞼を閉じると、抵抗なく唇に柔らかい物が当たった。

 何度も確かめるように唇を啄み、小さく開いた唇の隙間に舌を這わせる。ゼルダがおずおずと舌を出せば、その先を突いて甘く鳴きそうになる様子に目を細めた。

「音は消せても、気配は消せておりませんでした」

「いつかリンクの背後に立とうと思っているんですけど、難しそうですね」

「そんなことをされたら、俺は騎士を返上してもう一度修行し直さねばなりません」

「それは困ります。だってこれ以上会えなくなるのは辛いですから」

 ゼルダがゆっくりと体を押し当てると、リンクの腕も察してぐいと体を引き寄せる。春の夜の空気はまだ冷たい。ゼルダの冷えた体に熱を移すように口付けを再開する。

 頬に、首筋に、跡だけは残さないようにと気を付けている様子だが、逆に見えない印でもつけているかのようだった。ゼルダの方も分かっていて、大人しく彼の熱い吐息を頬に感じる。

 最後に額に一つ口付けをされて、ゼルダは青い瞳を見上げた。

 厄災を共に討伐した頃には同じぐらいだった背が、もう見上げるほど高くなっている。あどけなさが無くなり、彼女の騎士は輪をかけて精悍な顔立ちになっていた。

「寂しいのはお互い様ですね?」

「そう思ってくださるのならば俺は嬉しいです」

 昼間、会おうと思えば姫と騎士の立場だ、会えないことはない。

 だがゼルダとリンクがこうして逢引きをしていることは、インパを含めて数人しか知らないことだった。今頃王女の寝室では、侍女たちがインパの変装にまるで気が付かずに、よく眠れる香を焚いていることだろう。

「チョコレートの箱は?」

「燃やしておきました。立派な箱だったので少しもったいなかったですけど」

「箱だけまたあげましょうか?」

「いえ、そういうんじゃないんです。なんかこう、綺麗なお菓子の箱ってとっておきたくありません?」

 よく分からないわと思いながら、こういう庶民の感覚がそのままの恋人の姿にゼルダは不思議と心が躍る。少し前は目を盗んで城下町をデートなどしたものだが、今は互いに仕事は忙しいし、そのうえ二人とも有名になっておいそれと出歩くことも難しい。

 おかげで二人きり会えるのは二週に一度あればいい方で、連絡はゼルダの方からひっそりと場所と時刻を指定することしかできない。それもゼルダの方で急用が入れば、リンクは待ちぼうけの末に寮へ戻る。

 互いに限界時間は深夜の十二時と決めてあった。

「本当はもっと一緒に居られたらいいんですけど……」

 未練がましく見上げた半月はそろそろ中天に差し掛かる。もう部屋に戻る時間になっていた。

 名残惜しくリンクの顔の輪郭をなぞり、おもむろに目を閉じる。するとまた口付けがあった。今度は唇に触れるだけの、柔らかなもの。

「あの、ゼルダ様。次は」

「次はたぶん、一週間後ぐらいにならば時間が取れると思います」

「一週間……、分かりました」

 切なく絡めた指にも口付けが落とされたが、リンクの表情はいつになく真剣だった。

「大丈夫ですよリンク。もうすぐですから」

「……はい。ゼルダ様どうか帰り道もお気をつけて」

「リンクも。ではまた明日」

「おやすみなさいませ」

 わずかばかりの時間、互いに触れ合うだけの関係。

 それが今は何よりもゼルダの活力になった。リンクに会えると思えば、面倒な貴族との対面も、あるいは処理の難しい話し合いも、手続きが面倒な書類も頑張ることが出来る。

 次の朝、インパに「遅かった」と少し文句を言われるのだけは難だが、何にも代えがたいひと時だった。

「もー少し早く帰ってきてくださると助かるんですけど!」

「その分、夜のハーブティーをインパが飲んでいるではありませんか。それで今日の予定は?」

 スタスタと朝食の準備されたテーブルに向かって歩きながら、ゼルダは背後のインパを見た。彼女の手には分厚い紙の束。今日の予定も、なかなか甘くはなさそうだ。

「っと、まずは治水の件でゾーラからの使者と面会してください」

「分かりました。場所は」

「第三会議室を抑えてあります」

 朝食の小麦パンは二つ。今日はイチゴジャムとクロテッドクリームを塗る。温められた器にはハイラル草と各種ハーブのスープ、今日の朝食の肉料理は、最近家畜化に成功したばかりのヤマシカの肉から作ったソーセージだった。

「そのあとは?」

「財務の方から書類が上がってくると思われますので、それの処理。ただしご昼食は陛下が共にと申し入れがありましたので、恐らく途中で切り上げることになると思います」

「御父様ったら、寂しいのかしら。財務官の方には書類が遅れる旨、通達しておいてください」

 となると、恐らくお昼はまたロームの好む少しピリ辛の料理となる場合が多い。それを見据えて、胃の調子を整えるため、紅茶にはフレッシュミルクときび砂糖を入れた。

 それからゆで卵を一つ、エッグスタンドに立てておく。

「午後からは引き続いて大聖堂への参拝がございます」

「あ、今日でしたっけ」

「そうですよ、巫女服にもお着替えもありますから、手早くお願いします。夕方までに参拝後は城下の視察、その後はもう残りの書類作業って感じですね」

 インパの話を聞きながら手と口と頭をせわしなく動かし、ゼルダは順を追って今日の予定を思い浮かべる。こんな様子が毎日続くのだから、リンクに会えるのが週に一度でもあればまだよい方なのだ。

 幸いなことに修行に悩んでいた頃よりは随分と心は前向きで、食べることにも抵抗がなくなっている。むしろしっかり食べなければ倒れるほどの激務で、いくら食べても太る気配すらなかった。

「今日のおやつはなんでしょうね」

「姫様おやつ好きですね」

「甘いものが無いとやっていられません」

 不満げに口を尖らせながらも、パンにスープにソーセージに卵と全てを食べ終わり、残すは紅茶ばかり。と、その前に少し離れた位置にあった小さなショットグラスを手に取る。

 グラスの中身は透明な液体で、指の腹一本分にも満たない量だがゼルダは真剣にそれに向き合う。呼吸を止めて一気に煽ると、間髪入れずに甘い紅茶を口に含んだ。

「プルアの薬も無事に飲んでいただけて何よりです」

「これ、本当に不味いんですよ。舌がぴりぴりします」

「でも姫様のためですから」

 ニヤリとするインパを横目に、紅茶を再び口にした時だ。

 扉が揺れるほどノックされた。

 驚いて侍女に目配せする。侍女がいぶかしみながら扉を開けるとそこには、リラに付き添われた見慣れない騎士がいた。息を弾ませながら跪く。

「何事ですか、殿下はまだご朝食中ですよ!?」

「申し訳ありません! 非常時ゆえお許しください」

 王女であるゼルダの朝食中に、警護でもない騎士が訪ねてくるのは尋常ではなかった。外に立っていたリラですら怪訝な顔をしている。

 それもそのはずで、騎士が付けていたサーコートの縁取りの色は捕吏ほりの部隊を示す黒。捕吏は事件が起こった際に犯人を捕縛したり、ハイラル城内外の様々なこと取り締まりを行う物々しい部隊だ。決して朝からゼルダの元へ来るような部隊の騎士ではない。

 ならば何が起こったのか、ゼルダは思わずティースプーンを握りしめたまま席を立った。

「恐れながら、退魔の騎士リンク様はこちらに来ておられませんでしょうか」

 ゼルダの背筋にひやりと冷たい物が這う。

 確かに昨晩会ったが、しかし別れてから先は分からない。あの後ゼルダは私室に戻り、インパと交代してから朝までぐっすり眠っていた。

 声が上ずらないように喉に力を籠め、捕吏の騎士を見る。

「いいえ、今朝はまだ会っておりません。……彼に、何かあったのですか」

 人知れず、ゼルダは生唾を飲み込んだ。とてつもなく嫌な予感がする。

 でも聞くまでは何が起こったのかは分からない。

 震える手を隠し、騎士の言葉を待った。

「早朝に城の裏手で伯爵家のチャード様のご遺体が見つかり、現在、リンク様を容疑者として捜索中でございます」

 カシャンとティースプーンが滑り落ちた音がする。

 気が付くとゼルダは、瞬きも忘れて椅子に崩れるように座り込んでいた。