傍らの青の一途 - 12/13

 大聖堂での事件から数日、ゼルダは安静を余儀なくされた。

 あとから分かったことだが、シレネが使ったのは小指の爪ほど舐めればシツゲンスイギュウですら即死するという猛毒だった。しかも時の神殿で保管していた毒の小瓶が丸々一つなくなっていたというのだから、とんでもない量の毒をシレネが使った計算になる。

 耐性ができていたとはいえ一時は心肺停止までになり、回復が見込めると分かっていプルアですら青ざめていたらしい。

 無事に動けるようになってからも父王が逐一ゼルダの様子を見に来る過保護ぶりで、「逆に姫様がお疲れになる」と侍女長が怒ったとか。しばらくは仕事を全て取り上げられて、晴れて無罪を証明した姫君はのんびりと平安を享受していた。

 表向きは。

 ゼルダには何も知らされず、裏では事件に係わった者たちへの処分が粛々を行われていた。彼女によって犯人たちにこれ以上の手心を加える機会を、ロームは許さなかった。

 あずかり知らぬところで全てが滞りなく済んだあと、その報告だけがゼルダの元へ届けられた。

「こうなることとは分かっていましたが、臥せっている間に全てが終わってしまったなんて……何と言えばいいのか。少し悔しいです」

 明るい温室の最奥、赤紫色のクレマチスはまだたくさんの花で白い東屋を飾っていた。今日は白菫色のドレスに身を包んだゼルダはゆったりと椅子に腰かけて、濃い緑の木々の間を駆けまわるコログたちを眺める。

 リンクの求めに応じたコログたちが、いつもは怖がって近寄らない温室に集まっていた。

 最初はハイラル外の見知らぬ植物を怖がっていたが、少し経つと慣れて大きな木から垂れ下がる弦にぶら下がって大騒ぎになる。『もじゃもじゃ!』『じゃも?』とハイラル以外の植物に興味津々だ。

「身近な者を処断なさるのは辛いだろうと、陛下が心配されていました」

「御父様も随分と私に甘くなったものですね」

 木々の隙間を駆けまわるコログたちを見守るリンクは、今日は珍しく白い礼装用の軍服を着ていた。緊張気味に背筋を伸ばしていたが、ゼルダの幾重にも重なった薄いドレスの裾をめくろうとするコログを慌てて摘まみ上げる。

「こら、姫様のドレスで遊ぶな!」

「構いませんよ、少しぐらい」

「俺が構います」

 細長いお面のコログを茂みの向こうへ放り投げ、リンクはわざとらしく咳ばらいをする。それからためらいがちに、処分された者たちの近況を語りだした。

 まずリラ。彼女はハイラル大聖堂での王女襲撃事件の責任を取って、近衛騎士団から不名誉除隊となった。

 往々にして使われる手ではあるが、心身の不調で病気療養の名目で故郷のアッカレへ返されたらしい。その後、故郷での彼女の立場がどうなったのかは、中央ハイラルへは届いていない。

 一方のラディは、アッカレ砦で戦死した者たちの冥福を祈るため、自ら望んで修道女として神殿入りしたという話になっていた。だが当然のようにリラとは接触できないように、フィローネ地方の神殿へ送られたらしい。

 あれほど仲が良かった二人だが、生きて再び会えることは難しいだろう。ゼルダがひっそりと恩赦を出せば叶う見込みもあったが、だとしてもそれは遠きいつかの慶事になる。今現在の状況では見込みが立つはずもなかった。

「でもリンクがレクソン殿との取引を、結局飲むとは思いませんでしたよ?」

「本当は嫌だったのですが……」

「断れなかったんですね」

 実に渋い顔をしてリンクは頷いた。

 ハイラルの法に照らし合わせれば、彼女たちがしたことは本来もっと厳しい刑が言い渡される。だが蓋を開けてみれば二人は厳罰に処されていないどころか、罪名すら明らかにされずに放逐されただけだった。

 その彼女たちへの処分そのものには全く興味を示さなかったゼルダだが、首無し遺体の事件の顛末を聞いたときにはリンクを真顔で三度見した。まさかあの実直が服を着て歩いているような彼が犯人の隠蔽を飲んだというのだから、ゼルダの驚きようは尋常ではなかった。

「清濁併せ呑む、というのをいずれは身につけねばとずっと考えていたんです。でもさすがに殺人犯を許すことはできませんでした」

「ところが殺人が勘違いだったと分かったあとすぐ、レクソン殿に二人の処分をやはり任せてもらえないかと頼まれて?」

「……不思議なことに、断るのが非常に心苦しくなりました」

 まるで己が心の弱さとでも言いたげな顔をするリンクを見上げ、ゼルダは思わず苦笑する。やはり人が良い彼は何をされたのか分かっていない。

「レクソン殿にしてやられましたね」

「え?」

「難しいお願いを断られた直後に、簡単なお願いをする。すると一度断っているために、二度目は自然と断りづらくなるのが人の心理というものなのです」

「そう、なのですか?」

「交渉ごとの際によく使われる手です。……かくいう私も少々」

 ゼルダが言葉尻を濁すと、リンクは絶句してしまった。

 決してレクソンの側にも積極的に騙したい意図があったわけではないだろう。彼もずっと妹のラディが罪を犯したと勘違いをしていたのだから、恐らくは偶然が作り出した状況だ。

 しかしながら状況を利用したことは紛れもない事実。

 退魔の騎士殿は清廉潔白、聞こえは良いが裏を返せば融通の利かない男だと噂されていた。それでも彼本人もゼルダも噂は全く気にしていなかったし、厄災との戦い以前はどちらかと言えば美徳としての側面の方が強かった。

 だが人ならぬ相手との戦いが終わり、如何に退魔の騎士と言っても王女の傍らで今度は同じ人相手取らなければならなくなる。その時、実直であるばかりでは難しいことに気が付いた彼は、不得手ながらもどうにかしなければと考えたのだ。

 そんな折に行き当たったのが今回の始末。

 見事に出し抜かれたことに今更気が付いたリンクは、不機嫌そうに顔をしかめた。

「この件については稽古だったとでも思っておきます。相手がレクソン殿で、まだしもよかったのかもしれません」

「そうですね。彼は曲がりなりにも騎士ですから、生粋の貴族よりは優しかったと思います。むしろ貴方にそのような稽古を必要とさせているのは私の我儘です。許してください」

「いいえ、俺が好きで勝手にやっていることですから」

 打って変わって涼しい顔をして答えたリンクを見ながら、ゼルダは彼の故郷を思い出した。故郷であるハイラルの東の辺境は、空も水も随分と清らかだと聞く。故郷に比べたら中央ハイラルは比較にならないほど息苦しいだろう。

 申し訳なく彼を見上げたゼルダだったが、これ以上は押し問答になるのが目に見えていたので口を噤んだ。

「それから」

 リンクの唇が重く動く。

 ゼルダが大いに気にしながらも、最も聞きたくない話だとはすぐに分かった。

「シレネ様のご遺体は、公爵家への引き渡しもなりませんでした」

「……そう、ですか」

「王族に刃を向けたことは、どうにもすることができませんでした」

 シレネがゼルダを襲った事件は、隠す暇もなく瞬く間に国中に広まってしまった。貴族どころか、今や下町の子供たちまで知っている大事件だった。

 その一方で公爵家令嬢が王女を襲った理由は公にはされず、『ゼルダ姫への嫉妬』という噂話がもっぱら支持されることになった。人々にとってはその方が面白おかしかったのだろうし、ラディの神殿行きへの関心が逸らされる結果になったので、事実を知る関係者は誰も噂話を否定しなかった。

 おそらくシレネだけは怒っているだろう。彼女が愛した相手は姫君の方で、騎士は憎しみの対象だったのだから。怒り狂って化けて出てくるのではと試しにゼルダは祈ってみたが、残念ながら彼女は夢の中にも現れなかった。

「公爵様は事件の顛末を聞いてから容体がさらに悪くなったとか。致し方ないこととはいえ、心が痛みます」

「アモネが悲しみますね……」

 大好きだった姉が大事件を起こした末に自害をし、アモネに残されたのは余命いくばくもない父公爵と血の繋がらない継母だ。わずか十歳の彼女は未だに部屋から出てこないらしい。

 だが少女の心など顧みられることもなく、今後世間は公爵家を放っておかなくなる。

 跡継ぎが十の子供でその後見が貴族の世知に疎いあのロメリアでは、コッコがハイラル米とフライパンを持っているようなものだ。簡単に目玉焼きライスにされてしまう。

 シレネに殺されかけたゼルダだったが、未だに彼女のことはもちろん、妹のアモネに至っては憎むどころか本物の妹のようにかわいく思っていた。そのアモネが今後立たされる苦境を考えると自然と眉間に力が入り、カサリと草を掻き分けた音で顔を上げる。

「アモネにどう思われようとも、私もあの子を守ります。そのお話をしようと思って、貴女をお呼びしました、ロメリア夫人」

 いつの間にか、温室の小道に黒いドレス姿のロメリアが立っていた。

 夜より暗い漆黒色は喪に服していること表わす。その姿で彼女はハイラル城の中を歩いてきたわけだ。王族を貶めようとした罪人の喪に服すとは、何とも向う見ずなことをする。

 当然、何も考えていないわけではないだろうが、ロメリアの静かな表情からはあまり感情が読み取れなかった。

「お話とは、あの……」

 戸惑う素振りをするロメリアに対し、ゼルダは立ち上がり指をつと前に出す。喪服の裾に縋り付く丸いお面のコログを指さした。

「貴女は全て、そのコログを通して知っていたのですよね」

 無表情だったロメリアの顔に驚愕の色が広がる。

 わなわなと唇を震わせて、靴が後ろへコツリと音を立てた。

「ゼルダ姫様にもコログが見えるのですか……? リンク様も……?」

 緑色の丸いお面のコログが、おどおどしながらゼルダとリンクの顔を交互に見上げていた。周りで遊んでいたコログたちも次々と寄って行って、ロメリアの周りで好き勝手に周りで遊び始める。

 傍若無人な他のコログにびっくりして、ロメリアのコログは彼女の脚に縋り付いていた。

「女神のお告げだなんて真っ赤な嘘。貴女はコログから真実を聞かされていたから、全て知っていただけなのですよね。『ルテラ女王の祟り』の犯人も、殺人事件の犯人も、貴女は全部知っていた」

「どうして、それを……?」

「最初に温室でシレネとアモネに会った時、貴女は城に不慣れなはずなのに迷いなく温室にアモネを迎えに来ました。でもこのハイラル城でシレネと対等にかくれんぼを出来るのは私ぐらいなのです。何かからくりがあると考えるのは当然ですよ」

 シレネとアモネがチャードから隠れ潜んでいたあの日、温室には珍しく丸いお面のコログがいた。温室にコログは近寄りたがらないのは、当のコログたちによるとハイラル外の植物があるからだとは後から聞いた話だが、あのコログは全く意に介した様子なく温室を歩き回っていた。

 今、周囲で遊びまわっているコログを見る限り、見知らぬ植物に怖がっていただけで慣れてしまえば怖くはないらしい。だとすれば簡単な理屈で、あの丸いお面のコログは海外の植物を知っていただけ。

 王家の温室並みに珍しい植物が揃っている場所は、ハイラル広しといえども公爵家の薬草園ぐらいしかなかった。

「お告げ以外にも、お茶を出すタイミングや失せ物探し、あとはラネール湾の祈祷も同じことでしょうか。シレネは貴女が魔法でも使っているかのようだと言っていましたが、教えてくれていたのは他人には見えないコログだったというわけです」

 見知らぬ植物を恐れない代わりに、その丸いお面のコログは他のコログたちと遊ぶことには慣れていない様子だった。人見知りをする小さな子供みたいにロメリアあの足にぴったりとくっ付いて、頭を撫でてもらいながらじっと周りを観察している。

「おっしゃる通りです。神殿の毒を持ち出したり、夜にシレネさんが一人で裏口から出て行って血塗れで帰ってきたりしているのをこのコログから聞けば、彼女が何を考えているかは分からなくとも何をしているのかは容易に想像がつきました。でも、わたし……ッ」

 ロメリアは声を詰まらせて口元を抑える。

 なぜ真実を知りながら誰にも何も言わなかったのか、ゼルダに問い詰める気持ちはなくとも不思議ではあった。最初に会った時に話をしてくれていれば、あるいはハイラル大聖堂で出会ったときに『お告げ』などとあいまいな言葉で濁さなければ、はたまた怯えて茶会を欠席などしなければ。いくつもあったはずの機会をふいにしてきたのはロメリアだ。

 むせぶ彼女を前にして、ゼルダは何度も「なぜ」と言う言葉を発しようとしては飲み込む。その葛藤に終止符を打ったのは他ならぬリンクだった。

「姫様、他人に見えない物を説明するのはひどく難しく、とても勇気のいることなのです」

 振り返ると、彼の目にはわずかに諦めにも似た色が浮かんでいた。

「俺にも覚えがあります。子供の頃、近所のやつらに『コログなんていない』と言われて大喧嘩して、嘘つきだからと仲間外れにされたりもしました。子供ならまだその程度で済みます。でも大人はもっと酷い、違いますか」

 ぼろぼろと零れ落ちるロメリアの涙が丸いお面に当たって弾ける。コログは心配そうにロメリアの脚をさすって、きゅるんと彼女を見上げていた。

「私も幼い頃から人には見えぬものが見える子でした。そのせいで親の手に余るとして幼くして神殿にやられ、そこでも私と同じように精霊の類が見える者はおらず……信じてくださったのは公爵様が初めてでした」

「つまり公爵は、特別な目を持つ貴女をあえて後妻になさったのですか?」

「公爵家にも王家の血が流れておりますので、時に人ならざる者を見る子が生まれることがあるのだそうです。どうやらアモネもうっすらと見えているらしく、力の扱い方を教えてあげて欲しいと公爵様から後妻に望まれました」

 ようやくこの不可思議な女神官が、公爵家の後妻に収まったことの顛末が明らかになった。

 社交界にもほとんど顔を出さず、公爵とは親子ほども年の離れたロメリアは貴族たちの噂の的だった。どんな手を使って公爵に取り入ったのかと口さがない貴族たちは酒の肴の噂話にしていたが、取り入ったのはロメリアではない。公爵の方だ。

 だが当のロメリアは身を固くして、乱暴に頭を振る。

「でも私にはこの力をどう扱うかなんて分かりません。誰に何をお話しても気が触れているのを疑われ、親ですらただ黙るようにと叩くだけでした。だからがもう、全てが恐ろしくて……」

 只人に見えない物を同じように見えないからと無才をやり玉に挙げられた王家の姫がいる一方で、普通の人とは違うものが見えることで虐げられた平民の子もいたという話だ。 打ち震えながら言葉を連ねるロメリアを見るリンクの目には、厳しいながらも一種の同情を含まれていた。それ見つけてゼルダは唇を噛む。

 ずっと欲しかった他者とは違う特別だった二人の境遇を、ゼルダには理解はできても共感には少し遠いところに立っていた。羨ましいと思いながらも彼女の言葉を黙って聞いていられたのは、辛うじて今同じものを目に出来ているからにすぎない。

「ずっとシレネさんが可笑しいことには気が付いていたんです。いきなり髪を染めたり、先代の王妃様の好みを調べたり、かと思えば毒を盗み出したり……。でも私が気狂いだと誰に罵られようとも、ちゃんとお話していればこんなことにはなりませんでした!」

 その通りだ、という言葉をゼルダは危なく飲み込む。

 ロメリアが勇気さえ持っていれば、シレネが自決せずとも事を収めることもできただろう。もしかしたら一人の死者も出さずに済むことも可能だったかもしれない。それだけのことを彼女は見て見ぬ振りをしてきた。

 たくさんの罪を犯したロメリアはしゃくりあげるほど泣きながら跪く。まるで女神に祈りを捧げるように両手を組んで差し出した。

「ゼルダ姫様、お願いでございます。シレネさんの体をお返しいただけませんか。アモネが泣くのです、お姉さまに会いたいとずっと泣いているのです。償いは私の命で致します、どうかお慈悲を承りたくお願い申し上げます!」

 赦しを請うロメリアの姿は、間違いなくあの姉妹の家族であることを物語っていた。華奢な背中は明らかに瘦せ、しばらく食事もまともに喉を通らないのだろう。

 周囲の人間が何を言おうとも、あるいは姉妹が継母のことをどう考えていたとしても、彼女にとって二人は大事な娘だった。

 だから望みを叶えてあげられない己に、ゼルダは肩を落とすしかない。

「それは私にもできないことです」

「どうしてもでございますか」

「御父様のお決めになったご沙汰は、私にも覆すことができません」

 分かっていた返事だったとしても、やはりロメリアは泣き崩れた。

 如何にゼルダが許すと言っても、情で法が捻じ曲げられる前例を作るわけにはいかない。それにシレネが遠縁の姫君で仲が良かったとはいえ、情を突き通してよい場面ではなかった。

 それに、とゼルダは続ける。

「夫人がすべきなのは命で償いをすることではなく、アモネの良いお母様として傍にいることです。私も陰ながらお手伝いします、どうかあの子の傍で支えてあげてください」

 手を取り、立たせたロメリアからは、涙の合間に小さくはいと返事があった。

 そこへリンクが一歩踏み出し、懐から白い布にくるまれた何かを差し出す。開いた中身は金の髪がひと房切り取られたものだった。

「ご遺体の引き渡しは叶いませんでしたが、捕吏隊の隊長殿が直前に御髪を切り取っておいてくれました。どうかお持ちになってください」

 元は白銀に輝いていたはずの髪は、温室の天井から降り注ぐ陽光を受けてキラキラと金に輝く。包み直した遺髪を額に擦りつけ、ロメリアはまたしばらく涙を流していた。

 その裾のところで不安そうにする丸いお面のコログを、ゼルダはよいしょと抱っこする。意外にもコログは大きいものだ。手足をパタパタさせて、お面の向こうで慌てるコログの顔が見えた気がした。

「あとこのコログを少しお借りできますか? 実は手伝って欲しいことがあるのです」

「それはもちろん、構いませんが……?」

「えっとそれでは…………あら、もう来てしまいましたね。二人とも東屋の向こうに隠れますよ、ここから先のことは何もかも見て見ぬふりです!」

 慌てて抱っこしていたコログを下ろし、他のコログたちにも目配せをする。急いでロメリアの背を押して、ゼルダとリンクはクレマチスの東屋の陰に身を潜めた。

 以前シレネとアモネがチャードから逃げて隠れた場所で、さすがに大人が三人も隠れ潜むのにはぎりぎりだ。

 しかしゼルダに呼び出された人物たちは挙動不審で、隠れ潜む人影に気が付く様子は全く無かった。

「あれはウトノフ男爵と、奥様のサワビ夫人ですか?」

「『ルテラ女王の祟り』の犯人にも、ちゃんと痛い目にあっていただきましょう」

 意気込んだゼルダの背後で、リンクがコログたちに合図を送る。

 途端、コログたちは辺りからポイポイと木の実やら枝やらを、男爵夫妻に向かって投げつけた。

「ひえぇっなんだ、なんだこれは!!」

「あああ、あなた、一体何の騒ぎですか?! 王女殿下に呼ばれたのではなくて?!」

「知らんッ、私は何も知らない!」

 軽い物ばかりなので怪我をすることは無いだろうが、中には人の手のひらよりも大きな実を投げるコログもいてそれなりに痛そうだ。

 極めつけは水。

 コログたちはカラコロ笑いながら、頭上に張り巡らされたつる草の上でドングリの壺をひっくり返す。ばしゃーんっと派手な水音がして、二人は瞬く間にずぶ濡れになった。

 コログたちの動きが見えているゼルダとリンクとロメリアにとっては、何の恐怖も無い茶番劇だ。しかしコログの存在すら知らないウトノフとサワビにとっては、完全に心霊現象だった。

 終いには石畳に這いつくばって両手を組んで、自ら罪状を叫びながら女神と亡きルテラ女王に許しを乞う。そこへ折よく現れたのは、赤いひれを優雅な銀の装飾で飾り立てたミファーだった。

「そう、あなたたちが私のご先祖様を騙っていたのね?」

「ひいぃぃっ、ミファー様……!」

 柔らかく口角を上げたミファーだったが、金の瞳は全くと言っていいほど笑っていない。

 癒しの力を持つ慈愛に溢れたゾーラの姫が、これほど怖い顔をするのも珍しいことだ。ミファーの怒りの矛先がこちらへ向かなくてよかったとホッとしながら、ゼルダは怯えるウトノフとサワビの観察を続ける。

「おおおおゆるしくださいミファー様!」

「大丈夫よ、このことはちゃんとゾーラ王家のお墓にご報告するから。これでルテラ様もようやく安心してくださると思うわ。それじゃあね」

 しゃらりと装飾の触れ合う綺麗な音を立てて、ミファーは温室から出て行く。ウトノフとサワビは、彼女の後ろをほうほうの体で追いかけていった。あとはもうゾーラ族の威信にかけてミファーが煮るなり焼くなり好きにするはずだ。

 無様な後ろ姿がすっかり見えなくなってから、三人は東屋の陰から這い出す。コログたちは皆胸を張って「どんなもんだい」と言わんばかりにカラカラコロコロ音を立てた。辺りには木の枝や木の実や花がたくさん転がっていて、後で庭師が悲鳴を上げる羽目になりそうだった。

 その落ちているなかからゼルダは黄色い楕円形の実を拾い上げた。

「あの二人はチョコレートが食べたいばかりに荷抜きをしていたようですが、そのチョコレートの材料が自分たちの近くにあったなんて、全く気が付いていなかったようですね」

 ゼルダはあくまで研究目的と称して、ウトノフとサワビに色々なフィローネの植物を届けてもらっていた。だが研究と言えば万人のためだと、一体誰が決めたのだろう。

 ゼルダが持ち上げたその実は、彼らが名も知らずにフィローネから持ってきた樹木からコログが捥ぎ取ったもの。その大ぶりで楕円形をした黄色い木の実こそが、チョコレートを作る材料のカカオだった。

「それが本当にあのチョコレートになるのですか?」

「鞘から中身を出して、焙煎したりすり潰したりしないといけませんけどね。本当にフィローネに生えているとは思いませんでしたが、でもこれで本気で城下町にチョコレートの専門店を開くことができます!」

 コログに混ざって胸を張ったゼルダの前で、ぐうとリンクのお腹が文句を言う。慌ててお腹を押さえるも、照れながら一言「あまりにも美味しかったのを思い出して」と頬を赤らめた。コログたちも美味しい物には興味があるようで、カカオの実を順番に見て回っていた。

 その中から丸いお面のコログを呼び、ロメリアの元に返す。

「落ち着いたらチョコレートを持ってアモネに会いに行きます。夫人もどうかお身体に気を付けて」

「お待ちしております。精一杯、あの子の母として生きてまいります」

 そうして彼女は頭を下げて温室から去っていった。

 黒い喪服の裾が見えなくなってから、ふぅとゼルダは息を吐き出しながら伸びをする。細い方にのしかかっていた重荷が、ようやく全て無くなった瞬間だった。

「これで全部片付いたでしょうか」

 見上げた温室の天井からは何事も無かったかのように明るい光が降り注いで、シレネと再会したあの日と何も変わっていなかった。久しぶりに会えたことが嬉しかっただけなのに、どこをどう間違えたのかシレネはもうどこにもいない。

 ゼルダ自身も命を狙われたが、心の底に残ったのは怒りや悲しみとは少し違っていた。未だに憎み切れない彼女を思い出し、どんな想いで地面にゼルダの名を刻んだのか思いを馳せる。

 だがいくら考えてもゼルダには、シレネの気持ちを推測はできても理解はできなかった。

 と、急に「そうです」と呟いて、傍らのリンクを振り返る。

「ひとつだけ、リンクに聞きたいことがありました」

 それぞれお気に入りの場所に戻っていくコログたちを見送っていたリンクが、ふと手を止める。

 賢い姫君が何から何まですっかり事件は解決したはずなのだ。

 『ルテラ女王の祟り』も、騎士への恋文ストーカーの犯人も、王女廃嫡を狙う殺人犯の正体も、ほぼ独力でゼルダが推理してしまった。リンクとインパは簡単な指示を与えられて動いたに過ぎない。

 これ以上に解決されていない謎は無いはずだが、ゼルダの表情は至って真剣だった。

「チャード殿の遺体を見つけた夜、リンクは何を使って地面に自分の名前を掘り込んだのですか? あそこの土は踏み固められていて指で掘れるような硬さでもないし、辺りにはちょうどいい石も枝も転がっていませんでした。取り上げられた荷物の中にそれらしいものはありませんでしたよね?」

「ああ、それのことですか」

「一体何を使ったのです? あれだけがずっと分からないんです」

 ゼルダは細い顎に指をやって、リンクに詰め寄った。問い詰められたリンクは途端に大きく言い淀み、残っていたコログを慌てて温室から追い出しにかかる。

 すべてのコログがいなくなったのを厳重に二度も確認して、それから肩で大きく深呼吸をした。

「あれを書いたのは、これです」

 懐から小さな革のきんちゃくを取り出す。

 中から顔をのぞかせた銀の鎖を引き出すと、それはネックレスだった。小さいながらも剣と花の意匠がついていて、温室に降り注ぐ光でキラキラと弾いて輝く。

「まぁかわいい」

「実はゼルダ様にお渡ししてよいのかずっと迷って渡しそびれていたこれが、折よくポケットにあったので」

「なるほど。でもどうして迷う必要が? リンクからの贈り物のなら、私は何でも嬉しいですよ」

 光に透かすと五弁の花の中央で青い石が光った。さほど大きい訳ではないが中心までよく透き通ったサファイアが光を湛えていて、安い物の玩具でないのは明らかだ。

 とはいえもちろん王女を飾るのはもっと大粒のダイヤモンドをあしらった装飾品たちで、ゲルド族の職人の手による最上品と比べてしまうとさすがに見劣りする。しかも本日はティアラ、ネックレス、イヤリング、指輪の全てがセットになっているので、代わりに着けるわけにもいかない。

 リンクは曖昧に笑って、ためらいながらもゼルダの手首にネックレスを巻いた。

「本来でしたらゼルダ様へ贈る物は全て自分の懐から賄わなければなりませんが、俺は平民で、王女殿下の品位に適う品を贖うほどの財を持ち合わせが無いんです。だから今後俺の名で贈る物は全て、他の方や国庫から援助していただいくことになります。でも本当は、己の力に見合うものを差し上げたかった、その精一杯がこれです」

「それで剣と姫しずかなんですね」

 薄いグローブ越しに、ゼルダは剣と花の意匠の凹凸をなぞる。

 ほとんど見えなくなっていたが、一か所だけ金属を継いだ跡があった。何か強い力で折れたか、あるいは割れたか。しかし意匠は白金でできていて、硬さは十分なはずだ。

 不思議に思って青い瞳を覗き込むと、リンクは何が後ろめたいのかカリカリと頭を掻いた。

「でもあの夜、名前を彫ったら隙間に土が入り込んで取れなくて、でも先輩のところに駆け込むのに洗う暇もないし、だからと言って堀に捨てることもできず、……しょうがないので鞘の中に匿ってもらいました」

「ええっ、退魔の剣の、鞘に入れたんですか?!」

「元から鞘の中って剣が触れないように隙間があるし、この剣なら俺以外は引き抜けないのでバレないかなーって。でもやっぱり剣の方が強すぎて」

「折れてしまったと?!」

「……折れたと言いうより、断ち切れました」

 捕吏隊にリンクが捕まったとき、取り上げられた荷物には不審なものは何一つなかった。油の残りが少ないカンテラ、空の薬瓶、地理の教書に私室の鍵と飾緒、それから当然ながら退魔の剣。ゼルダはあの時、教書のページの隙間から空き瓶の底まで徹底的に確認した。

 だが唯一、姫巫女と言えども退魔の剣だけは引き抜くことができなかった。これだけは正真正銘、退魔の騎士以外にはどうにもならないものだ。

 常識外れの隠し場所に、ゼルダは青い鞘とネックレスとを見比べる。あまりに何度も見比べるので、リンクはばつが悪そうにしていた。

「剣もちょっと申し訳なさそうにしてました。まぁ突っ込んだの俺だからしょうがないんですけど」

「ちょ、ちょっと待ってください。もしかしてラディ殿とリラを見逃す代わりに、レクソン殿に出した条件って」

「お抱えの彫金師に直してもらったんです。随分と甘いと笑っておられました」

 罪状を明らかにされて世間の嘲笑を浴びながら刑罰を受けることになったであろう二人を、ただの追放だけにとどめたのは何とネックレスの修理一つ。甘い程度の話ではない。

 だがゼルダには、取引を持ち掛けられた彼の頭に、他に妙案が浮かばなかったであろうことも容易に想像ができた。もしくは真面目腐った顔で『一介の近衛騎士には判断できかねる』などと言いかねない。

 期待に違わぬ善人ぶりに、ゼルダは半分呆れながらリンクに詰め寄った。

「前言撤回です。レクソン殿にはいずれ利子をつけて、倍の忠誠で返してもらいましょう」

「やっぱり甘すぎましたか?」

「ヘブラのイチゴにきび砂糖にハチミツを掛けたほどに甘いです!」

 んもうっとふくれっ面をしながら、ゼルダは彼の大きな手に指を絡める。随分と久しく二人きりになることが無かったので、コログすら見ていないのをよいことに一段高いところにある肩にぽんと頭を乗せた。

 ゆっくりと腰に手が回されて、彼女の耳元に熱い吐息がかかった。

 こそばゆく、ゼルダが思わず体をよじろうかとした瞬間、ぐいと引き寄せられて身じろぎすらできなくなる。気が付いた時には、もうどこにもいけないようにと抱きしめられていた。

「ゼルダ様、俺は確かに平民出で貴族の何たるかはやはりよくは分かりません。でももうお一人で危ないことはなさらないでください。力不足かもしれませんが俺がいます。それに俺も困ったことがあったらちゃんと相談しますから、どうかお願いです」

「はい」

「本当に生きた心地がしなかったんですから」

 厄災を前にしても事も無く剣を構えていた騎士が姫の死を前にして、どれほど取り乱したのか本当のところを誰もゼルダには話そうとしなかった。あのプルアですら笑い話にならないとはぐらかして逃げだすのだ、相当酷い何かがあったらしい。

 だがゼルダの記憶にあるのは、彼が呼び捨てた自分の名前だけ。互いの心を確かめ合って、付き合うと決めた時でも様付けから崩れることが無かった彼が、あれほど必死に名を呼ぶのは初めてのことだった。

「私と貴方は対ですものね。ちゃんと頼るようにします」

「約束ですよ」

「はい、約束です。でもだとしたらそろそろ、二人きりの時ぐらい名前を呼び捨ててもらえたら嬉しいのですが」

 緩んだ腕の隙間から顔を覗くと、彼は随分と困り顔をしていた。

「ええっとそれは、その、いずれで許していただけ、ますか……」

「まだ難しいのですか?」

「正直こうしているのも、本当は、その……」

 伏し目がちで語尾が曖昧になる。先ほどまできつく腕の中に閉じ込めていたのは誰だとゼルダが問い詰めたら、案外リンクは裸足で逃げ出してしまうかもしれない。

 だからその前に姫君は、騎士の頬を両手で勢いよく捕まえた。

「ではいずれ、絶対ですよ。でもこれからは、もう必要以上にコソコソする必要もありませんからね」

 返事を待たずにゼルダが唇に吸い付くと、一瞬だけびっくりした腕に再び力が入る。随分と久々で、しかも明るい時間にこうして口付けをするのは初めてのことだった。

 日向で見るリンクは耳の先まで赤く染めて、薄く開いた瞼の奥で青い瞳が動揺に揺らいでいる。唇が離れてからもしばらくは手の甲で口を覆って所在なさげにしているので、さすがのゼルダも首を傾げた。

 するとリンクの声が震える。

「あの婚前の口付けって、本当はダメなんですよね……?」

 生真面目すぎる彼に思わず釘付けになった。

 そんな教義を律儀に守っているのは神官か、教えを守っている振りをして相手の男を拒絶している令嬢ぐらいなものだ。

 思わずゼルダは腕の中で笑った。

「もう婚約式なのですから、いいってことにしません?」

「本当に、よろしいのですか?」

「姫巫女の私がいいと言っているんですよ」

 この佳き日、執り行われるのは二人がいずれ婚姻することを世に知らしめるための儀式だ。名のある貴族、あるいは種族の各代表が、見届け人として各地から城に集まってきている。

 二人はこれから、大勢の人を前にしていずれ夫婦になることを契約するのだ。

 もう何をためらうことも、隠し立てすることも必要が無くなる。

「ゼルダ様がそうおっしゃるのなら」

 はにかみながら騎士は姫君の手を引く。

 いずれ並び立つ彼女の横顔を、青い瞳が一途に見つめていた。

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