エピローグ 白菫の姫君
白い衣を揺らしながら、無心で歩いていた。
道標も何もなかったが、どちらに目指せばよいかだけはゼルダにも分かっていた。目的地はまだ遠いが、いずれは誰もがすべからく辿り着く場所だ。女神の御元へ、ゼルダはくじけそうになる足を叱咤して歩き続けていた。
ところが目の前の野に忽然と現れたのは、女神ではなく母だった。
亡くなった母が懐かしそうに微笑んで、でも悲しそうに首を横に振っている。それを見たとき、ゼルダは自分がまだ引き返せるのだと悟った。
もちろん亡き母の手に縋りたい思いもあったが、でも今はまだ。
あの人が悲しむから。
「お母様、いずれ参ります。ですからシレネをお願いします!」
母は何と答えたのか、そもそも声が届いたかどうかも分からない。しかしゼルダは返事を待たずに踵を返し、猛然と来た道を駆け戻り始めた。まだ戻れるのならば、戻る。
そして重たい瞼を持ち上げた。
部屋中に満ちた歓喜の声に意識が引っ張られ、急激に周囲の情景が鮮明になっていく。
インパや父王や、駆けつけた聖堂の神官たちが、口々に女神ハイリアにお礼を言っている。しかし何よりもゼルダが釘付けになっていたのは、目の前にいたリンクだった。
「ゼルダ様!」
名を呼ぶ彼の青い瞳が、どうしててらてらと光を放っているのか不思議だった。それが涙の反射によるもので、つまりリンクが人目もはばからずに目を潤ませているのだと気が付いた時、ゼルダはまなじりが裂けるほど目を見開いた。
何にも揺れない高潔な青がくすんで項垂れて、なんとも可哀そうに見えた。同時にゼルダは、声をかけてあげたいのに上手く唇を動かすことが出来ず、涙を拭ってあげたいのに頬まで腕が持ち上がらないことにも気付く。
全身が重だるく痺れ、瞬き以上は上手く体を動かすことができなかった。
「……り、ん…………く……?」
「はいはい、剣士クンそこまでー。感動の再会が済んだなら、少しどいてちょうだーい!」
ぐいとリンクは退かされて、替わってプルアの赤い瞳がゼルダを覗き込む。
脈をとったり瞳に光を当てたり。肩の傷口は痛みがあったが、致命傷になるほどの深さは無い。問題だったのは恐らく毒の方で、一通り身体を診察したのち、彼女は「ヨシ」と頷いた。
「うんうん、どうやら大丈夫みたいネ。そろそろ痺れも取れてきたんじゃない? ひめさまどう? 喋れる?」
「わたし、は……」
「毒剣で斬られたのにどーして生きてるのか、だって? それはもちろん、この天才プルア様のおかげなんだから。んもーホント、感謝してよネ~!」
まだ呆然とするゼルダの眼前に、満面の笑みのプルアが突き出したのは透明な液体の入った小瓶だった。まるで水みたいな、それは一体何と問おうとして心当たりを思い出し、ゼルダは目も口も丸くして声を上げようと思った。だが驚きの声が上がることは無く、無声で喉がひゅうと音を立てる。
その拍子にケホケホと咽ると、リンクが先ほどのお返しとばかりにプルアを退かして心配そうに手を握りしめてくれた。それでもプルアはお構いなしに、得意げに歯を見せて笑う。
「そう、これは何を隠そう、姫様と陛下に毎朝摂取してもらっている薬! これこそが解毒剤! ……で・は・な・く~、実はこれはものすごく薄めた毒を何種類も混ぜたものなのヨ!」
誰よりも悲鳴を上げたのはインパだった。
「どどど毒?! プルア、あなた王族に毒を飲ませていたのですか?! 死刑ですよ?! まって、まってまって、シーカー族から追放していいですか?!」
「まぁまぁ落ち着いて! 毒と言っても人体に影響がないぐらいうっすーーーいやつだから安心して。少量ずつ毒を摂取していくとあら不思議、体の方が毒に慣れて毒を盛られても大丈夫になるってワケ!」
「は?! なに?! えぇぇっ?」
「まさに人体の不思議ィ~って感じ!」
ゼルダの頭の中も、インパと同じく「なんですって?!」状態だった。
インパの話によるとあの薬は確か、ガッツニンジンやビリビリフルーツの種、あとはモルドラジークの肝だったはずだ。それなのにまさか毒だったとは、寝耳に水とはまさにこのこと。
確かに毎朝ショットグラスに出されるプルア特性の薬は、以前から侍医から出されていた薬よりも数倍ピリピリと舌を刺激するものにある時から変わった。お世辞にも体に良い雰囲気はない。
ぴっと一本指を立てて胸を張るプルアの手から、ロームが興味深そうに小瓶を受け取る。矯めつ眇めつ、白いひげを扱き、ふむと小瓶の中身を揺らした。
「儂も幼い頃より体のためだから飲むようにと言われ、意味も分からずに飲んできた薬にそんな意味があったとはな」
「元はと言えばハイラル王家の秘伝の薬ですヨ。王族たる者、いつどこで毒を盛られるか分からないですから、毒に体を慣らす目的の薬だったみたい。とはいえアタシが毒の種類を増やして、さらに強力に改造しておきましたケド~♪」
ケラケラと笑うプルアと、薬とはいえ毒を服用させていたことに真っ青になるインパ、それから泰然とした父王と。ああ、いつもの光景が戻ってきたとホッとしながら、ゼルダは冷える指先を動かした。ゆっくりと、まだ不安そうに曇る人影の方へ手を伸ばす。
「リンク」
「はい、ここに」
今までどんなことでも眉ひとつ動かさず、弱音も吐いたことがない彼が、ゼルダが傷つくだけでこんなにも脆いとは。たぶんこの場の誰もが知らなかった。
でも本当はゼルダだけは知っていなければならなかったことだ。
どれだけ大切に思われているかを、彼女だけは知っていなければならなかった。
「ごめんなさい」
むせび泣くリンクに手を握られながら、ゼルダは白い大理石の天井を見た。
母の姿を見た野は、歩いて行ったらあの世へ続いていたはずだ。いずれは誰もがたどり着く場所だとしても、ゼルダのその時は今ではない。
リンクを置いて向かうところではなかった。
「ゼルダ様がご無事で、本当によかった」
絞り出されたかすれ声に、ゼルダは自分の心が凪いでいくのを感じていた。もう大丈夫、と彼の手を握り返す。そうして再び、穏やかな眠りについた。