「一緒にアップルパイ食べますか?」
ゼルダは自分でも驚くほど不調法なことをしていた。
ハイラル大聖堂の会衆席の最前列で、巨大な女神像を見上げながらアップルパイを頬張る。フォークもなく、手掴みで。
姫巫女の祈りは一人で行われるため、侍女の代わりを務めた老婆も、警護についた捕吏の騎士も聖堂の中へは入って来ていない。だが人目が無いとはいえ、手掴みで物を食べるなど到底王女のすることではない。
こうして食べることを教えてくれたのはリンクだ。
「平民は晴れた日に野原に敷物を敷いて、こうやってみんなで色々なものを手づかみで食べるんだそうですよ」
「わざわざ平民の真似事ですか」
「いつか晴れた日に、アモネやリンクや御父様や貴女と、みんなでアップルパイが食べたかったのです」
もう一切れのアップルパイを簡素な木の皿に乗せ、ゼルダはシレネに手渡した。
以前は聖堂の中で物を食べることなど言語道断、姫巫女失格だと言っただろう。ところが今のゼルダは、アップルパイを食べてもきっと女神はお叱りにはならないと何となく勘が働いていた。
なぜなら、そのアップルパイはリンクに作ってもらったもので、コログに手紙をお願いしてまで急いで差し入れてもらったものだから。
あまり猶予が無かったはずなのに、見事な編み目模様に美味しそうな焼き色が付いている。女神ハイリアの一番の加護を受ける勇者の作った料理を、当のハイリアが嫌がるはずもない。むしろ一口食べさせてほしいとニッコリ手を伸ばすはずだ。
だが皿を受け取ったシレネは凍り付いた表情のまま皿をひっくり返すと、落ちたアップルパイにヒールを突き立てた。
「お姉さま、酷いです。私がこの世で最も嫌悪しているものをくださるなんて酷いです」
ぐちゃぐちゃと、アップルパイが踏みつぶされる音が高い天井に響いた。
シレネは執拗までに踏みつぶし、原型を留めなくなったアップルパイにまで睨みを利かせる。それはまるで、本当に踏みつぶしたい何者かの代わりにでもしているかのようだった。
「信じたくはありませんでした。でも貴女がここに現れたということは、つまりチャード殿とダリア夫人を殺したのは、シレネなのですね」
アップルパイの包みを仕舞い、ゼルダは席から立ち上がって白い衣を翻す。
夜の宝石のような青いドレスを身に着けたシレネは女神像の奥から現れた。ごく一握りの神官しか知らされていない秘密の抜け道が女神像の裏にあったとしても、公爵家の娘で時の神殿の神官でもある彼女が把握しているのは何ら可笑しくはない。
王家の青に似せた色をあえて身に着け、それでも負けないだけの意志の強い青い瞳。美しいラピスラズリは、アップルパイに向けていた冷たくとがった視線をころりと変えて、ゼルダには微笑みかけていた。
「まんまとおびき出されたようですが、まずはお姉さまの推理とやらを拝聴いたします」
「貴女は、自分の婚約者のチャード殿やダリア夫人を殺した罪を私に擦り付け、私を失脚させてどこか辺境の神殿に幽閉しようと考えた。婚約者であれば、騎士の首に毒の刃を突き立てる距離に近づくことも可能でしょうから」
実際のところ、チャードをただ殺すだけは案外誰でもできたことだ。
だがあの夜は王との晩餐で酔っていたとはいえ、チャードはれっきとした騎士だ。その首元に刃を突き立てて殺すには、懐に入り込むだけの工夫が必要になる。
色目を使った侍女ならばそれも可能だが、さらに簡単なのは元から手に入る予定の女が態度を軟化させることだ。
例えば婚前の口付けを拒否した高嶺の花。
「あの男、口付けを許してあげると言ったら、いとも簡単に私を懐に招き入れました。女たらしが女に殺される顔と言ったら、本当に見ものでしたよ」
シレネは口元を抑えて懐かしそう目を細め、コロコロと鈴を転がすように笑った。喜劇でも見た後のように機嫌のよい笑い方だった。
その様子に、ゼルダは思わず言葉を失う。
今の言葉が本当ならば、シレネはあの細く白い手で実際に人を殺めたということだ。厄災との戦いの最中に、先頭に立って負傷兵の手当てをしていたシレネが、その手で人を殺める。
しかもそれをさも愉快だと話す姿が、ゼルダの知るどの彼女とも合致しない。「全て冗談ですよ」と脅かすためにやっているのではと勘繰りたくなるも、シレネは綺麗な青い目でゼルダの顔を覗き込んで続きを促した。
「しかし茶会はどのように、とお聞きしてもよいでしょうか。どうやって私がダリア夫人を狙って毒を盛ったとおっしゃるのです? 私は夫人の斜め向かいの位置に座っていましたし、姉さまの目の前にいたことは当然ご存じのはずです」
決して追い詰められているのはゼルダではない、罪を暴かれる側のシレネの方だ。しかしどう見ても彼女はこの状況すら楽しんでいる風だった。ゼルダの推理の披露を、寝物語の続きを急かす子供みたいに待っている。
一言でいえば異常。
それでも事件の全てを白日の下に晒す勇気が欲しいと願ったゼルダには、真実を明らかにする以外に道は無い。見て見ぬふりをすることはもうできない。推理の細かな部分が間違っていても当たっていても、未だにシレネから一言の否定も無いのが何よりも事態を雄弁に物語っていた。
ごくりと喉を上下させ、ニコニコと待つシレネを睨む。
「貴女はそもそも、ダリア夫人を狙ってなどいませんでした」
「まぁ」
「高位の貴族であれば、犠牲者は誰でもよかったんです」
意外そうな口ぶりをするくせに表情は喜色のまま、シレネはパチンと両手を合わせて目を輝かせた。わざとらしくも愛らしい仕草のシレネと、まったく歯車がかみ合う様子がない。
ゼルダは軽く咳ばらいをして、深く息を吸い込んだ。
「犠牲になったのがダリア夫人だったことがあまりにも出来過ぎていて、私も少し混乱しました。でもよく考えると、私の廃嫡が目的なら、私が殺したように見えれば犠牲者は誰でもよかったんです。茶菓子を一つ取って毒を含ませ、もう一つ取る振りをして毒入りをお皿に戻す、それを運悪く食べた誰かが死亡する。万が一私が毒入りを食べた時には、解毒剤でも飲ませる準備をしていたのではないでしょうか」
「ちなみにその茶菓子とは?」
「確信はありませんが、たぶんチョコレート。ハイラルではまだ知られていないチョコレートの食べ方をご婦人方に見せるために私が最初に皿に取ることや、位の高い自分自身が二番目にサーブを受けるものならば、私に間違って毒を盛る確率は限りなく低くなります。事前に特別なお菓子があることを知っていた貴女なら、自分と私の安全のためにチョコレートを選ぶのではないかと考えました」
吸い込んだ空気はあっという間にしぼんでいく。全てを吐き出し終わって肩を落とすと、ぱちぱちと拍手が聞こえた。
シレネが満面の笑みで手を叩いていた。
「お見事ですお姉さま、感服いたしました。ちなみにどのあたりで私が犯人とお気づきになりました?」
「最初に違和感があったのは、近くで倒れたダリア夫人の手当てを貴女が全くしなかったことです。神官として医薬の心得があって、体調の悪いメイドの脈をとってあげるような貴女なら、毒を吐かせるなり何なりできたはず。なのに駆け寄る素振りすらなかったのは明らかにおかしいと思いました」
「なるほど、言われてみると確かに不自然でしたね。でもあの時はダリア夫人が早く息絶えてくれないかと、私も必死だったんですよ」
はぁと感嘆の息を吐きながら、シレネは胸に手をやった。全く悪びれたところはなく、むしろ罪を暴かれたことに喜びさえ感じている。うっとりとまるで夢見心地でいる彼女を見ているのが辛くなり、ゼルダは思わず顔をそむけた。
「あとは、アモネに若い継母について聞かれたので」
「あの子ったら、そんなことをお姉さまに?」
「最初はロメリア夫人との関係で相談に来たのかと思ったのです。でもあれは、貴女が私の父の後妻になろうとしていることについて私への意思確認だったのではないか、と思うようになりました。貴女が見事な白銀の髪を金に染めた理由が私に似せるためではなく、もしや御父様が愛した私の母に似せたのではと……。最初の犠牲者に自分の婚約者を選んだのも、王家への輿入れの障害排除と考えれば辻褄があいましたし」
「まさにその通りです。年若く婚約者のいない公爵家の娘が、ローム陛下が愛された亡き王妃様に似ていれば、大臣方は陛下の後添えに推すことを即断するはず。厄災の脅威を目の当たりにした人々にお姉さまの流刑を躊躇させないためにも、候補は事前に存在した方が良いと考えました」
例えば今回の事件の一切がゼルダの犯行と認められたとしても、今後シレネの人生には『婚約者が殺された』という汚点がずっと付いて回る。それは彼女の人格や品性などとは全く別のところで、いわゆる縁起を気にする人々からの噂話のようなものだ。
そういった汚点のある令嬢は、あまり良い縁談が回ってこない。何かあれば「あの令嬢はお相手がすでに一人死んでいるから」と言う風に言われてしまう。
だがもしゼルダを廃嫡したハイラル王家にとってならば、亡き王妃に似たシレネには別の価値が発生する。しかも嫁の貰い手のない令嬢ならば、無理矢理に老王の後添えにしても批判が少ない。
理論上はそういうこと。でも、とゼルダは汗の吹き出る拳を握りしめる。
「そこまでは分かっているのです、でも理由は理解ができない。いいえ、分かりたくないだけなのかもしれませんが、……でも」
「お姉さまはやっぱりお優しいのね。ならばちゃんと私から申し上げましょうか」
女神像の前で、二人の娘が向き合った。
方や白い衣を纏った姫巫女だった。彼女は右手の甲に隠しもせずに聖三角を宿し、この国では女神の器として崇拝されている。
その光を眩しそうに見る娘は、青い衣を纏ったもう一人の姫だった。わずかに歪んだ一途な眼差しは、炯々たる狂気を灯している。
その白い手がもう相対したもう一人の姫に向かって差し伸べられた。
「私が愛したのはゼルダお姉さま、あなたです。唯一無二のハイラルの姫巫女であらせられるお姉さまのことを、誰よりもお慕い申し上げております」
親愛と言えば聞こえはいい。だが青い瞳の奥に宿す異様なほどのぎらつきに、ゼルダはおののいて半歩下がる。
『お慕い申し上げております』という言葉を、ゼルダはこれまでその身に無数に浴びながら生きてきた。時に王配の座を狙う貴族の令息から、時に孤児院の子供から、時に熱心な女神信奉者から、あるいは共に手を携えた退魔の騎士から。いずれの『慕う』にも温度差があって、彼らが言葉を発する意図を理解してゼルダは「ありがとう」と答えて相応の態度を返してきた。
が、同じ言葉のはずなのに、これほど痛みを感じたことは初めてだった。シレネの『慕う』だけは、どう解釈しても礼を言って受け取ることができない。
胸の前でぎゅっと手を組んで口を真一文字に結んだゼルダに対し、シレネはふと視線を女神像の方へ向けた。
「もはや全て殺されつくされる運命にあった時の神殿にお姉さまが現れたとき、私は本気で女神が降臨なさったのだと思いました。お姉さまが光り輝く御手を振るわれるだけで、真っ黒に押し寄せた魔物たちが吹き飛んでいくのです。ローム陛下をお守りし、もはや撤退の余地がない私たちの前に現れた救世主、あの時のお姉さまはその背に翼を蓄えた女神だった」
思い出にうっとりと心を奪われ、問わず語りしていたシレネが言葉を区切る。
その刹那、魔物と見紛うばかりの皺が眉間に刻まれた。
「なのに、あの男が!」
ガンッと石床をまたヒールが叩く音がした。。
「あの男は、ただ伝説だか何だか剣を抜いたぐらいでお姉さまの横に立ち居並んで、それどころかお姉さまのお心の最も深いところに居座って! 私からお姉さまを、女神様を奪おうとする! なぜ、なぜそんなことが!」
悲鳴にも似たシレネの声が、広い聖堂内に反響する。
「許せるはずがないッ、私の女神を、あの男が! あの田舎者の騎士風情がお姉さま手籠めにしようとして! 女神を人の身に堕としてよい道理などこの世には存在しない!」
「だから私を神殿に一生軟禁して、貴女は御父様の後妻になろうと?」
「お姉さまの純潔を守るためならば、私の体など安い物です。だってお姉さまは女神なのですよ、汚らわしい人の手で貶めて良い方ではない。退魔の騎士だろうと誰であろうとも、お姉さまに触れる者は何人たりとも許しません!」
叫んだシレネの濁った瞳に、ゼルダは光り輝く女神のように映っているのかもしれない。だがゼルダ自身は今も昔も変わらず、ずっと人間のままだった。
訪わない力に悩み、人々の辛辣な陰口に苛まれ、心折れる日々を過ごしてきた。封印の力を得てからも手遅れで救えなかった者たちへの懺悔と後悔に袖を濡らし、城を取り巻く黒い闇に怯える自分を鼓舞して立ち向かってきた。
もし女神であったなら、こうも苦しい思いはしなかったはず。
しかし人の身なればこそ、一人の人間を愛しもする。
「私は人です。どんな力を振るおうとも、決して女神そのものにはなれません」
力を込めた拳に輝くのは聖三角だ。
この力が生まれたころから女神のように振るえたら、どれほど楽に物事が進んだことだろうと考えなかったわけではない。一方で神の力を一部とはいえ宿したその身は今、ただの人として生きるには難しいこともあった。
だから女神そのものでは、人と共に生きることなど到底できない。それに、同じ時を歩みたい相手を見つけていたゼルダにとって、人としての生はすでに何にも代えがたいものになっていた。
もうゼルダは女神になりたいとは願っていない。人として生きていくことを、とうの昔に決めている。
ところがシレネは「ならば」と笑った。
「もし自らが人だとおっしゃるのなら、私と一緒に死んでくださいませ。人ならば死ぬこともできますでしょう?」
言葉と共に抜き身の短剣が白い弧を描いた。
ハッと短い息を吐き出したゼルダが飛び退るも、ぱらぱらと金の毛が数本切れて落ちる。シレネの手の中で針のように鋭い短剣が夕日を反射して、チャードの首を貫いたであろう鋭利な切っ先がまっすぐにゼルダを捉えていた。
「シレネ!」
「ああ、でもお姉さま、愚かな私にひとつ教えてください。お姉さまの推理は残念ながら全て根拠がない想像なのです。なのにどうして私が犯人だと確信して、こんな手紙を送ったのですか?」
剣を持った手とは逆の左手で、四つ折りにされた紙を開く。そこにはインパの字で『本当は犯人になるべきだった者が逃走しようとしている。止めたいのならば来い』と脅し文句が書かれていた。
これもリンクにアップルパイを頼んだのと同じく、コログに頼んだ手紙の指示通り。インパはちゃんと言われた通りの文言で、シレネに手紙を送っていた。
不思議そうに手紙を眺める彼女に対し、ゼルダはじりじりと距離を取る。
「同じ内容の手紙を、あなた以外の茶会出席者全員にも送っているのですよ」
「なんですって……?」
「でも『本当は犯人になるべきだった者』、つまりチャード殿の遺体の傍に本当は誰の名前が書かれていたかは、上書きしたリンクと真犯人しか知らない情報です。加えて姫巫女がハイラル大聖堂に参拝したいと願い出た噂が城内に流れれば、真犯人は『ゼルダ姫が大聖堂の参拝時に逃げ出そうとしている』という予想を立てることができます」
もちろんその推論に従って真犯人が動くかどうかは分からない。だがゼルダは、真犯人の動機がリンクに対する愛憎ではなく、自分に対する愛憎だと感づいて罠を張った。
殺人の容疑で軟禁されているゼルダがハイラル大聖堂の参拝を願い出たという話は、文字通り風のような速さで城内を駆け巡る。そのことに姫巫女に愛着する犯人が気付かないわけがなく、憎らしい退魔の騎士の手引きで逃げ出すことを予想すれば姿を現す公算は決して低くない。
なによりも事実、目の前にシレネが現れた。
「この大聖堂に現れたそのこと自体、シレネ、貴女が犯人である何よりもの証拠なのです」
チャードの傍に掘られた名前が誰だったのか、真に知るのは犯人とリンクだけ。
そして犯人は大きく口を開けて哄笑した。
「やっぱりお姉さまはお美しいうえにお知恵も確かだわ! 確かにこの手紙を受け取ったとき、お姉さまがあの男と駆け落ちなさるつもりだと思って頭が沸騰しそうになりました。本当に、これは本当にしてやられました、完敗です」
ひらりと投げられた手紙が宙に浮いた瞬間、細身の短剣が斜めに一閃し、手紙は真っ二つに切られた。はらはらと舞い落ちた手紙を踏み越えて、シレネは自分の女神にまた一歩歩み寄る。
「だからこそ非常に残念です。賢くてお美しいお姉さまがあの男に汚されないために、永遠の女神になっていただくしかないなんて!」
言うや否や、ヒールのある靴を脱ぎ捨て、シレネの素足が石床に小気味良い音を立てた。金の髪が大きく揺らしながら低い姿勢で飛び出すと、軽やかに短剣を左右に振るう。まるで手の先に短剣がくっついているかのような、無駄のない攻め。
蝶かと思えば実は蜂だったとはまさにこのことで、笑いながら短剣を振り抜いたと思えば、途端に角度を変えて鋭い切っ先を押し立てて突っ込んでくる。舞踏会を一人で踊るかのような美しさだった。
「止めてくださいシレネ、今ならまだ貴女の身を軟禁程度で済ませられる道もあります!」
「大丈夫ですよお姉さま。お肌に大きな傷を残さぬよう、たっぷりと毒を塗っておきました。指先に少し傷が入るだけでも、息の根が止まるようにしてあります。どうかご安心なさって」
「シレネ、話を聞いて!」
大きな声を出せば外の騎士たちに気付かれて、言い訳にならない現場で取り押さえられてすべてが終わる。そうはさせたくないから一人で会える場におびき出したと言うのに、丸腰のゼルダに対する彼女の攻撃は手加減が無かった。
「ねえやめて、もうやめてくださいシレネ!」
「だったらあの男と金輪際会わないとお約束いただけますか? 私と時の神殿で一生暮らしてくださいます?」
「それは……ッ」
「できないでしょう? 分かってます、お姉さまのお心がもはやあの男でいっぱいの薄汚い女になってることなんて、分かってるから私がこうして女神に戻して差し上げようというの!」
幾度目かの絶叫と、硬い石に響いた短剣の音。
同時に聖堂の大扉が開かれた。
「姫様!」
「リンク!」
一瞬の隙。
ゼルダはその時、助けが来たことに明らかに気を取られた。リンクならば、ゼルダの望みを全て飲んで、シレネを抑えて事を荒立てずにどうにかしてくれるはず。
思わず助けに手を伸ばし、足がもつれる。
その瞬間を見逃さず、剥き出しの肩に冷たく熱い刃が通り過ぎて行った。
「え……っ」
「姫様!」
すうっとゼルダの顔から血の気が引いた。
肩で息をしたリンクが駆け寄るよりも早く、華奢な体がその場に崩れ落ちつる。すぐさま指先が白く冷たく震え始める。
「姫様、ひめ、ゼルダ様……?!」
慌ててリンクに抱き起された体はガタガタと震えていた。翡翠色の瞳孔が黒く開き、唇が青くなっていく。見る間に体の自由が奪われて視界には靄が、呼吸は浅く切れ切れになっていく。ゼルダはそれをまるで他人事のように感じていた。
厄災と戦ってからこっち、初めて触れる死の感覚。
合わせて感じていたのは腕の温かみだ。温かいリンクの腕の中で、ゼルダの体だけがどんどん冷えてゆく。
「しぬ、……の?」
少し離れた会衆席に寄りかかるシレネはぜいぜいと胸が粗い音を立てて、それでも短剣を取り落さずに姫を抱えた騎士を嗤っていた。
「あははっ! ははははは……、遅かったわねぇ退魔の騎士! お前にお姉さまは渡さない!」
「貴様!」
ぐったりとしたゼルダの体を片手に抱いたリンクが剣の柄に手をやる。どんな騎士でもたじろぐ視線を受けて、だがひるむことなくシレネは短剣を逆手に持った。
「?!」
逡巡する間もなく、短剣の切っ先がシレネ自身の胸を突く。
大きくたたらを踏みながら、彼女は口から血飛沫を上げて高らかに叫んだ。
「お姉さまは私と一緒にハイリア様の元で幸せに暮らすの! お前はそこで指をくわえて見ていなさい!!」
青いドレスに黒い物が噴き出して、それはまるであの日厄災から溢れ出た怨念のようにも見えた。赤黒いそれはただの血のはずだが、清廉な青だったシレネを染める赤は打つ手のないほど汚れて歪んでいた。
霞む視界の片隅で、ゼルダはシレネを捉えた。会衆席に寄りかかりながら崩れ落ちていく彼女に向かって右手を伸ばす。
「シれ、ネ。だめよ」
貴族に限らず、人は腹を割って見なければ何が詰まっているのか分からない。
あるいは人に通った血が、人を狂わせる怨念にもなりうる。
だからゼルダは、同じ苦境を生きてきた遠縁の姫に輝く右手を差し伸べた。
「ゼルダ様!」
大聖堂の中が一瞬だけ昼間のように照らされた。
温かな光にシレネがほほ笑んだように見えたのはゼルダの錯覚だったのかもしれない。しかし重たい音と共に体を横たえた彼女の表情からは、苦しみの一切が消えていた。
寸でのところで救えたのかどうか、それはたぶん女神の御元へ行けば分かる。最後に一人救えたかしらと問おうとしたが、ゼルダの首はがっくりと後ろにのけぞった。
「待って、待ってくださいゼルダ様!」
それよりも今は、ゼルダを抱えて心乱れた騎士の方が問題だった。
こんなことならばもっと触れておけばよかったと思うのに、全身が痺れて口を動かすことさえままならない。
「俺はあなたに大事なことを、まだ……!」
ゼルダを腕に抱えたリンクは、見たこともない蒼白な顔で体を揺さぶる。
ヒノックスだろうとライネルだろうと厄災だろうと、愛娘との交際をかたくなに認めようとしなかったあのハイラル王の前ですら揺らがない湖面のようだったリンクが、狼狽に荒々しく波立っていた。
「リン、ク……ごめ、ん…………な、さ」
「だめ、死なないで、ゼルダ……ッ!」
いつになく慌てたリンクの声。彼でもこんなに平静を失うことがあるのだと、ゼルダは逆に愛おしくなる。
現世からの旅立ちに姫巫女が心の中にしまい込んだ宝物は、初めて騎士が呼び捨てた自分の名前だった。