3*聴覚・想いの速度
リトの村を訪れ、リーバルとヴァ・メドーとの同調の様子を見た帰り道のこと。北回りでタバンタ雪原を通るか、南回りでタバンタ大橋を渡るかどちらが良いかとリンクに聞かれた。旅程には十分なゆとりがあり、まだ雪が本格的ではない時期でもあったので好きにして良いという。
特にどちらを通りたい理由もなかったので、引き連れた兵士たちの疲労も考えて短距離で雪のない南回りを選ぼうと思った。だが差し出された地図に目を落とし、あることを思い出して声を小さくする。
「以前、ククジャ谷で火を噴きながら空を飛ぶ大蛇を見たという、あれはどのあたりですか?」
子供向けの『世界の幻獣』という本に描かれていた幻想上の動物のうち、リンクがその目で見たというドラゴン。空を飛びながら火を噴く巨大な蛇の姿を、彼が見たというのは確かククジャ谷だったはずだ。
「マリッタ馬宿の北のあたりです」
「でしたら北回りでもいいですか? そのドラゴンとやらを私も見られるものならば見てみたいのです」
力に目覚めない今の私では、おそらく精霊の類を認識することはできない。でももし声だけでも、気配だけでも、吹き上げる炎の熱さだけでも感じ取れるならば、それを心の支えにしたい。
内々に告げた妄想じみた希望を、ありがたいことにリンクは兵士の誰にも話さないでいてくれた。そんな巨大な生き物がいるとはまるで信じていない他の兵士たちが知れば、無才の姫がまた空想に逃げ込んで寄り道をしていると呆れられてしまう。
でも唯一、彼だけが私の妄言を笑わずにいてくれる。何より、実際に見たことがあるのだから心強い。
「そういえば他の国ではドラゴンと呼ばれているその精霊ですが、ハイラルではオルドラという名前で呼ばれている精霊だと思います」
「名前は聞いたことがあります」
「炎を吐くということですから、きっとディンの加護篤きオルディン地方から名を取られたのではないでしょうか」
他にネールの名を冠するネルドラ、フロルの名を冠するフロドラの言い伝えがあるようだが、見たという者にはついぞ会ったことがない。もしそれらの強大な精霊が居たとしても、大抵の人は気が付かずに素通りしているかもしれない。
もしかして、世界の裏側に通じるカーテンの端のようなものが、どこかにあるんじゃないのかしらと思う。その端を見つけて裏返すと見えなかった世界に行けるような、そんな空想だけは逞しい。思いもよらない場所に、裏側へ続くカーテンの端とやらがないだろうかと馬上で空を引っかいてみたけれど、当然のことながら何もなかった。
右手にククジャ谷を眺めながら、厳寒期でないにもかかわらずうっすらと白く化粧した南タバンタ雪原を超えていく。
オルドラが通ったというククジャ谷は、北は迷いの森北西のウォルナー山の麓から、南はゲルド砂漠の北辺を支えるゲルド山の麓まで続いていた。底までの深さはようとして知れず、絶壁が人の立ち入るを拒む。
峡谷の北端で街道が折り返しになり、今度は谷の深みを右手にして南下する。いつ見ても、お腹のあたりがそわそわする深さだ。
「もしかして、オルドラの通り道だからこんなに深いかしら」
巨大な精霊が何十年、何百年かけて作った通り道だとしたら。それはとてもロマンがある。
ああ、本当に見てみたい。声を聴いてみたい。
わずかにでも、リンクが感じている世界の端っこに触れられたらいいのに。
そんなことをふわふわ考えていたら、夕方辺りには針葉樹の合間にマリッタ馬宿の灯りが見えてきていた。木立に囲まれた馬宿から外に出て、そろりと北の空を見上げた。気が急くのをこらえられず何度も振り向くと、気が付いたリンクが手早く荷解きをしてきてくれた。
「あちらですよね」
「はい。でも前に見たのは明け方です」
「だとしたら今夜は早く寝なければなりませんね!」
年甲斐もなくワクワクしていた。
早めに寝床に入って寝られるか心配だったが、一日中馬の背で揺られたせいもあって、ひと瞬きしたらもう明け方だった。ゆっくり腕を揺すぶられ、ようやくその時が来たのだと分かって飛び起きる。
「お静かに、皆まだ寝ています」
手早く準備をして上着を羽織って外に出ると、空にはまだ星のきらめきが残っていた。
それにしても日の出前のこの時間帯はさすがに寒い。白い息を吐きながら小走りになるぐらいが丁度良く、先を行くリンクを追いかける。その背には珍しく、マスターソードの他に騎士の弓を担いでいた。
「現れなかったらすいません」
「それはリンクのせいではありません。それに本当に現れたとしても、私には見えるかどうかも分からないのですし」
見られればいい、見られなくても馬宿を抜け出すというのが、実はこの上なく楽しい。幼いころに花園の奥に潜り込んだ時みたいな、うわずった気分。少し我儘を言った甲斐があったと思っていることは、私だけの秘密にしておいた。
馬宿の北側、赤茶けた崖の端に立つと、冷たい風が横から吹きつけていた。
「確かこのあたりだったかと」
足を止めたのはククジャ谷の絶壁間際。谷の対岸、見上げた随分と高いところにタバンタ側の谷の壁面が見えた。ククジャ谷は段差があったのかとこの時知った。谷を挟んで全く違う風土の土地が並んでいる、こうして見てみるとなかなか不思議な光景。
持ってきた薪に火を付けてたき火の傍に並んで暖を取る。それからしばらく、お互いに黙ってそれを待った。峡谷を抜けていく風音が少し不気味で落ち着かない。それでなくとも気もそぞろになる。
何か話でもと思って様子をうかがうも、真面目な顔は一心に空を見上げていて話しかけられる雰囲気ではない。どうしましょう、と不安に負けて胸の前で手を組んだ時、空気が変わった。
「来ました」
それが私にも分かって顔を上げた。
ずっと吹いていた横からの風が凪いで、どこからともなく温かい風が舞い上がってくる。
「あそこに。火を撒いて、吼えながら飛んでいます」
彼の指さす先に、でも私の目には何も映らなかった。
ただむなしく虚空を風が吹き飛んで行くのみ、声も聞こえない。
ああ、やっぱり同じものを見ることができない、声も聴くことが許されていない。温かい風だけが、今の私に許された世界の限界のようだ。
「やはり私には見えないようです……」
「そう、ですか。ならば」
残念そうな顔をしたリンクだったが、次の瞬間にはぱっと顔を上げていた。
「ここで待っていていただけますか、すぐに戻ります」
「はい?」
首をかしげていると、目の前でパラセールを開いて、舞い上がる風に乗ってふわりと体を宙へ浮かす。あっという間に遥か高いところまで飛んで行ってしまった。見える範囲とはいえ、私の傍から離れるのは珍しい。いったい何をするのかと思って固唾を飲んで見守っていると、急にリンクは空中でパラセールを閉じた。
「?!」
声にならない叫び声を上げた。
いったい何を、空中でパラセールを閉じるなんて自殺行為だ。無論、すぐに自重で体が落下し始める。いかに身体能力に優れていたとしても、あれほどの高所から落ちれば骨が折れるぐらいでは済まない。思わず私は両手で顔を覆った。
だが弓弦の弾かれる高い音が一つ。
指の隙間から恐る恐る見上げると、彼は背負った弓をすでに放った後。器用に空中で再度パラセールを開いて体勢を整えていた。
ゆっくりと降りて来ながら、視線が何かを追っている。顔を覆っていた手を退かして、私もそれを見た。金の尾を引く彗星のような何かが、何もない虚空から立っている崖の端の方へ落ちてくる。
彼が降り立ったところへ駆け寄ると、足元から光り輝くものを拾い上げていた。人の手に収まっても光り続けるそれは、大きな鱗に見えた。
「鱗だけですね。射抜いたら全部見えるようになるかと思ったんですが、上手くいきませんでした」
どうぞと差し出され、受け取ったそれは只ならない熱を帯びていた。白い鱗の縁辺に、デスマウンテンの溶岩を思い出させるような赤い色。これまで見たどんな生き物の鱗とも、似ても似つかない。
こんなものを全身にまとった生き物が、つい先ほどまで、まさにこの上を飛んでいた。確かに飛んでいたのだ。
いつの間にか、私にも感じられていた温かな空気は薄れ、一帯には朝へと続く静寂が戻ってきている。もう巨大な精霊はここにはいない。今いないということは、少し前までは居たということ。私はそれを認識していた。
嬉しかった。
無才の私にもわずかに感じとれた証拠。鱗に耳に当ててみると、遠く、火山の胎動する音が聞こえるようだった。
「ありがとうございます……あっでも!」
ようやく我に返る。
「あんな危ないこと、もうやめてください! 空中でパラセールを閉じるなんて自殺行為ですよ!」
「駄目ですか」
「あなたが落ちるんじゃないかと思って、もう冷や冷やしたんですから!」
申し訳なさそうに頭を掻いて、彼はすいませんと俯く。当人にとってはなんてことないことで、戦場ではもっと危ないこともあるのかもしれない。でも見ているこちらは本当に生きた心地がしなかった。
もちろんリンクに限っては、ただ落下して怪我をすることはないとは思う。でも心配しないのとは別問題。あまり堪えた様子がないので、さらに言い募ろうかと口を開いた。
が、その口をぱっと押えられる。
「お静かに」
そのまま手を引かれて岩陰に入る。ピリピリとした緊張が走り、何かが当たったり擦れたりする音が聞こえた。カラカラと、これはまるで骨のような。
「魔物が」
こっそり岩陰から顔を出してみると、モリブリンの真っ白な骨格標本が三匹歩いていた。ご丁寧に武器まで持っている。
「私が、声を荒げたから……?」
「かもしれませんが、そうでなくても出てくるヤツらです。あまりお気になさらず」
声が終わらないうちに小柄な影は岩陰から飛び出していった。夜明け前の陰影に青白い刃が閃く。
まずは一匹、頸椎のあたりを後ろから薙ぐと、軽く跳躍して頭蓋骨を谷底に蹴り落とした。
遅ればせながら襲撃者の存在に遅気が付いた二匹目が大きなこん棒型の武器を振るうと、それを寸でのところで避けて懐に飛び込み、あばら骨の隙間に剣をねじ込んで斬り上げた。ガラガラと音を立てて崩れていく骨の中から、的確に頭蓋骨を刺し貫いて砕く。
そのまま流れるような動作で、少し離れたところから三匹目が放った矢を素手でとらえ、マスターソードから弓に持ち替えると、即座に撃ち返して頭蓋骨を弾き飛ばした。
あっという間に三匹のスタルモリブリンが解体。残ったのはわずかにカタカタと音がする数本の骨ばかり。
武術の心得の無い私は呆けて見守るだけだった。動きに一切の無駄がない、手順の決まった舞踏を演じているかのような軽やかさ。
それを息一つ乱さずにやってのけたのは、やはり見事というに尽きる。
「リンク」
もう大丈夫だろうと、岩陰から走り寄ろうかと思った。ところが、俄かに彼の顔が険しくなり、駆け寄る私の手を乱暴に引く。
「姫様っ」
ガツンと頭の後ろで音がして、まだ鞘に戻っていなかったマスターソードと、もう一匹いたスタルモリブリンが振り上げた棍棒がかみ合っていた。相手の武器を力任せに押し返し、私を背後に隠す形であたりを牽制する。気づけば周囲は骨だらけ。後から後から肉のない魔物が湧いてきていた。
「ここ湧きやすい場所だったんですね」
「迂闊でした」
数があまりにも多い。左右に視線を走らせたリンクは、私の手を掴んで包囲網の間隙を縫って走り出た。だが方向が悪い、馬宿とは真逆だった。
手を引かれ、ただひたすらに走る。どこへと問う暇はなく、ただ追ってくる爪先にかからぬように必死で前を見た。
でも私の足元にカツンと音を立てて木の矢が突き刺さる。恐怖で捩った体が均衡を崩し、あえなく体勢が崩れていく。ゆっくり体が左に傾いて谷側に体重がかかる。
これは落ちる、と体が強張った瞬間、リンクが相当に慌てた顔をして私の体を掴んだ。
次の瞬間、何が起こったのか理解しないまま、私たちの体はわずかな岩棚の上に落ちていた。
「危ないところでした……」
長く息を吐き出して、狭い岩棚の上にへたり込む。声を上げることすらできなかった。
「ゼルダ様、お怪我は」
「大丈夫です、あなたこそ大丈夫ですか」
「問題ありません。それより申し訳ありません、私が余計なことを言い出したばかりに」
「見たいと言ったのは私です、リンクに何の非はありませんよ」
彼は何も悪くない。それどころか、オルドラの鱗のような素晴らしいものまで手に入れてくれたのだから、余計なことなんてとんでもない。
それよりも今は、際限なく湧き出ていた骨の魔物たちからどう逃れるかだ。間の悪いことに、岩棚の直上に奴らが陣取っている音がした。私たちが這い上がってくるのを今か今かと待ち構えている。
骨になってしまった魔物たちは自分が死んだことを忘れているので、亡霊のようにまとわりついて非常にしつこい。それにいくらバラしても根本的には死んでいるので意味がない。リンクが頭蓋骨を真っ先に潰したのは、そうでもしないと延々と動き続けるから。非常に厄介な相手。でも無敵ではない、弱点はちゃんとある。
「朝日が出るのを待つのはどうでしょう。そうすれば自然に土に還ります、それまでここで息をひそめているというのは」
我ながらいい案だと思った。どうせ日の出まではあとわずか。
待っているだけで倒せるのなら、無駄にリンクを危険にさらすことも無いし、私が足手まといになることも無い。日の出のあとすぐに戻れば、他の兵たちに見咎められることも無いだろう。いまだ頭の上に骨がカラカラ歩く音が続いていて、時折ビュンと矢が下に向けて撃たれている。
「わかり、ました……」
少し歯切れが悪そうに言うので、やはり全部倒しておきたいのだろうなと思った。でも渋々でも従ってくれたので良かった、と胸をなでおろす。彼が強いのは分かっている、でも率先して危ない目に合って欲しいわけではない。それが伝わればいい。
そう思って、しばらくしてから、なぜリンクの歯切れが悪いのか別の理由にたどり着いた。
狭い岩棚の上で、リンクの腕が私の背に回されていて、私の顔の前には彼の英傑の青い色があった。落ちるまさにその瞬間に、見事に抱き込まれる形になっていた。
なんて、なんて体勢で、なんてことを言ったのだろう。ようやく顔から火が噴き出始める。
かといって撤回する良い口実も思い浮かばない。辛うじて口に出せたのは。
「あの、なんか、ごめんなさい」
「問題ありません」
そう言ったっきり、崖の上に気を配り始めたリンクの顔はいつもの固い表情になっていた。照れるのがこちらばかりとは、やるせない。
もう少し距離が取れないかしらと身じろぎをしてみたら、もっとくっついてしまって、ああもう!と唇を噛む。
でもその時、トクトクと音が聞こえた。
随分と速い回転数の心臓の音。あら、とわずかに首をかしげる。
息一つ乱さないであれだけの魔物を倒す彼が、どうして身動きしていないのに心拍数が高いのかしら。空の高いところでパラセールを手放すぐらいだから、狭い岩棚が怖いだなんてことはあるまい。
考えている間にトクトクと声高に主張する音は絶え間なく続き、青い服越しに私の耳にとどろく。体調が悪いのかと秘かに顔色を窺っても、目に映るのはいつもと同じ張り詰めた横顔だけ。別段、変わったところはない。
しばらく、腕の中に大事な鱗を抱え、私はリンクの心臓の音を聞き続けた。やけに心地の良い音だった。
心音の理由を考えようとしても、なぜだか上手く頭が回らなかった。いや、理由が分からないわけではなかったが、分からない振りを続けた。
だって私がリンクの心臓の音が聞こえているのなら、それは私の心臓の音も彼に伝わっているのかもしれないということ。その理由を彼が問わないのなら、こちらからも問うてはならないはず。
だから私の心臓の音がどうか聞こえていませんようにと目を閉じて祈った。
僅かな時間、私たちは互いに鼓動が聞こえる距離にいた。離れたいのに離れがたい、煩わしい思いをひた隠しにする。
ようやく日が出て骨たちが土に還る音がして、崖の上に戻れるようになると彼は心底ほっとした顔をしていた。日が上がり切る前に馬宿に戻り、何事も無かったかのように城へ帰った。
すでに彼の鼓動は遠くに離れてしまい、どれだけ耳を澄ましても聞き取ることができない。もう一度手を伸ばそうにも、鼓動の聞こえる距離に足を踏み入れる機会は訪れない。
だからなのか、あの日のことはとても鮮明に覚えている。
私は強大な精霊の息吹を浴びてその存在を確信した。目に見えずとも、確実にあの場には何かが存在していた。力に目覚めていない私にも、その片鱗が掴めた喜びはひとしおであった。
でもその喜びが吹き飛ぶぐらい、彼の心臓の音が耳について離れなかった。