不可知の獣 - 5/14

2*味覚・背徳の果実

 鹿狩りの催しがなされるという知らせがある貴族から届いた。丁寧な封蝋の書簡に、断りの余地のないことは明らか。場所はリバーサイド馬宿の南、モルセ湖周辺の森。秋の深まったこの時期ならば、ヤマシカも丸々と肥えているだろう。

珍しく御父様に気晴らしにでも行って来るようにと言われた。他所からの誘いであれば私が遊んでいるようには見られず、また貴族たちとの交流もある程度は必要だということだろう。

 だが、そもそも私はあまり鹿狩りが好きではない。

 食べ物として狩るというのは分かるし、革も角も道具になるのだからそれは良い。何が嫌かと言えば、乙女はただ座って殿方が鹿を狩る姿を見ているだけだと言うことに尽きる。

しかも立派な角の雄鹿を仕留めた者を褒めねばならない。きゃあきゃあと黄色い声で、あまりよく知らない者を誉めそやすのは、どうにも性に合わなかった。

「王家の姫として弓の手ほどきは私だって受けているのです。どうして殿方しか鹿狩りをやってはいけないのか不思議でなりません」

 行きの馬車の中で口を尖らせると、付き添う若い侍女は非常識を見るような目をしていた。

 女性で獣を狩るのは、それを生業としている人だけ。一般的にはあまり身分の高い者ではなく、穢れの多い職業として社会の中では底辺に近いとされている。

 一方で、貴族や軍人たちが狩りをしても何とも言われないのは、狩りが軍事訓練の側面を持つからだった。弓や剣の取り扱い、食糧の確保、革は武具の材料にもなる。

「でも今回はリンク様がいらっしゃいますから、圧倒的ですよね」

 侍女はにっこりとしていたが、狩場のモルセ湖についてもリンクは弓を取らなかった。

 若い貴族の男たちがどれだけ持ち上げても、いくらけしかけても「警護の任がありますので」の1点張りで私の傍から離れようとしない。ついには私の方に「ゼルダ姫様からもどうか言ってください」と要望が殺到する始末。

「行ってきても良いのですよ?」

「ご命令とあらば行きますが、出来ればあまりお傍を離れることは控えさせていただければと思います」

「鹿狩りが嫌いですか」

「好き嫌いではありません。職務中ですのでご容赦ください」

 取り付く島もない。

 主催の青年貴族はもちろんのこと、招待されていた他の貴族たちも、特に見物の女性たちの落胆ぶりはすさまじいものだった。何せ日ごろは王城で私に付き従っている退魔の騎士殿の勇姿を一目見られると、期待に胸を膨らませていたのだ。

 でも正直なことを言うと、私も少し残念だった。

 つまらない鹿狩りだったが、リンクが若い貴族の男たちに目に物見せてくれるのならば、少しは楽しいかと思っていたのに。結局私は、あまり顔もよく知らない貴族たちが大勢の勢子と犬をけしかけて、ヤマシカやモリイノシシ、ヘイゲンギツネなどを狩るのを待っているだけ。安全な場所に張られた天幕で、令嬢たちと他愛のない話をして、お茶とお菓子で待つ。

令嬢たちはと言えば、あの方の見目が良いだとか、あの方の弓の扱いはお上手だったとか、そんなことばかり。令嬢たちとの会話が必要なのは理解できるが、こちらもやはり好きではない。当然のことながら、そんな会話をしながら頂くお茶もお菓子も、さして美味しいとは思えなかった。

 一通り挨拶をしてしまえば令嬢同士も打ち解けて、互いに気の合う方とお話を始める。そうなってようやく私は義務である口を閉じた。だが押し黙った私をほっといてくれない方々がいた。

「あの、ゼルダ姫様、お伺いしたいことがあるのですが、よろしいですか?」

「なんでしょう」

 数人の令嬢が徒党を成して私を取り囲む。いずれも、一目見て可愛らしい方だと思った。そうなるべくご本人も努力をされているのだと分かるほど磨かれている。今日のためにあつらえたのか、少し丈の短いドレスが風にくるくると波打っていた。

「姫様付きの騎士殿には、どなたか好い方がいらっしゃるのですか」

「退魔の騎士様のことです」

「遠目からお顔を拝見して気になりまして」

 輝かんばかりの期待に満ち溢れた瞳が六つ。それがどのような心理状態を指し示すのかは、私にも分かって心にちくりと棘が刺さる。

 風の噂では、侍女たちの間でもリンクがそれなりに人気なのは知っていた。私付きの騎士に任じられた当初は小柄だから微妙だと言っていたくせに、そのうちに『あの無口なところがいい』だの『稲穂色の髪が素敵』だのと、しきりとさえずり始めるのだから不思議だ。数か月前の自分の言葉など覚えてもいない様子に悟られないように笑った。

そんな侍女たちが、リンクに取り入れたかどうかは知らない。よしんばそういう事態になっていたとしても私は何を言う立場でもないし、そんな話はそも聞いたことがない。

「そのようなことは聞いたことがありません」

「そうなのですね! ありがとうございます!」

「ではお声がけしてもよろしいですか?」

「ええ、構いませんが」

 彼女たちはお互いに顔を見合わせて頬を赤らめる。いいな、とほんのり口を尖らせた。

そうやって普通の女の子として振舞える同じ年頃の娘たちを、どこか羨ましいと思って見送る。もちろん彼女らは、天幕から距離を置いていたリンクのところへ行って、にべもなく断られていた。あの堅物はたやすくは動かないだろう。それぐらい色恋を封じて修行に専念している私にだって分かっていた。

 でも、ああやって自分の望みに対して素直に動けるのは羨ましい。

「色よい返事をあげないのですか、貴族のご令嬢方ですよ」

 彼女たちが意気消沈して去ったあと、私はひっそりとリンクに近づく。

「職務中です」

「融通が利かない堅物だと噂を立てられてしまいますよ?」

「その通りなので構いません」

「だとしたら、私のお願いも駄目なのかしら」

「……事と次第によります」

 今日は私も野外用の丈の短いドレスを着ている。本当なら野外調査と同じパンツスタイルがいいのだが、さすがに止められてしまった。王家の威厳を損ねてはいけないのだとか。

 だから、せめてこの動きにくい恰好で、ギリギリの我儘を申し立ててみる。

「少し湖畔を歩いて来ても良いですか」

 外れた矢がどちらの方向から飛んで来るかもわからない森の中、不用意に動くのは実はあまり褒められたことではない。だがこの場でじっと待つのはもう飽きた。退屈な時間とおしゃべりをする令嬢たちに面白みがない。

 こんなことならばどこかの泉で修業をしていた方がよっぽど有意義なのではと思ってしまうぐらい。

「もちろん目に付きやすい安全な場所にしますから」

「お供いたします」

 日傘で表情を隠して、ぺちゃくちゃとお喋りに夢中な天幕からそっと離れた。薄暗い木々の間を抜け、遠くにハイリア犬たちの吼え声を聞き、森の中を追い立てられる獣たちの気配を聞く。

足元にはいろんな種類のキノコが顔を覗かせ、コツンと音がして振り返ると上からどんぐりが落ちてきていた。恵みの秋ですね、と見上げた先にはオタテリスが木の実を咥えて走っていく。

「気持ちの良い場所です」

 湖面を滑る風に吹かれてようやく深呼吸をした。人の集まりから十分に遠ざかってから、詰まった息を吐き出してたっぷりと肺に空気を送り込む。

 背後のリンクはほとんど気配が消して、できる限り一人にしてくれているようだった。その心遣いが有難い。瞼を閉じ、天を伺う。自然と祈りをささげる姿になった。

 ところが足元の草がヒョンっと跳ねてかすめ、くすぐった感触が足元を通る。

「あら?」

「そこに」

 ガンバリバッタかカエルの類の仕業かしらと目を凝らしたのだが姿が見えない。だが、明らかにリンクは何かを目で追っていた。姿勢はそのままだがいささか緊張した面持ちで、しかし険しい雰囲気ではない。

 私にはそれが見えていない。つまり何か精霊の類。

「なにか、いるのですか……?」

 囁くように問うと、彼はわずかに首肯した。

 静かに私の足元から二歩右に離れた場所辺りを指さす。

「そこに、青く光るウサギが」

「光る、ウサギ……?」

 目玉だけ、首すら動かさないようにして必死に覗き込んでみた。でも草が揺れているだけで、何の姿も見いだせない。わずかに草の揺れ方が風に揺れているのとは違う気もするが、気のせいか、それとも。

 考えているうちにリンクが突然緊張を解いたので、それはいずこかへと走り去ってしまったのだと分かった。途端に肩から力が抜ける。止めていた息を大きく吐き出した。

今、私の足元を走り去っていった何か、いつか見てみたいものだ。それにしてもリンクは目ざとい。

「やはりリンクには狩人の素質があるのではないですか? おそらくこの場で、最も稀な獣を見つけることができるのはあなたでしょう」

「この間のユニコーンとかいう獣のお話ですか」

「あれは空想上の生き物ですが、そうですね。もし現れたとしても見えないのなら、やはりリンクに捕らえてもらうしかないのかも」

 どうにかして私がユニコーンをおびき出せたとしても、その稀な獣が見えないのでは捕らえようがない。なるほど狩人が乙女よりも優秀でなければならないのは道理かしら。

だとしたら私の近衛騎士はとても優秀だから撃ち漏らすことは万が一にもない、安心だ。

「その時はお願いできますか」

「はい」

 迷いなく頷くので確信する、彼は追う側の者だ。追われる獣などではない。

 必要であればすべからくそのようにする、最初に感じた時の印象は間違いではなかった。ただ私が少し歩み寄って知ろうと思ったから、時に苦慮していることも、天才ゆえの悩みもあることを知っているだけ。気質としては戦士そのもの。

だが、彼はわずかに言葉を続けた。

「でもできれば、殺したくはありません」

「それは、なぜ?」

 すると少し視線が揺らいだ。

「姫様が気に入っている獣を殺したくはありません」

 人並み以上に優しい横顔、しかも私がユニコーンを好きだと言ったのはたった一回なのに覚えていてくれた。こんな顔もするのかと、今日一番の発見をして心が華やいだ。

 リンクのことを遠巻きにしている人達は「冷たそう」「お堅い」「仕事ばかり」「血も涙もない」などと口をそろえて酷いことを言う。私も元々そう思っていたから人のことは言えない。でもちゃんと見ていれば、人間らしいどころか随分と心根の優しい人なのだと感じ取れる。

「そうですね。私としては、もしユニコーンが現れたらぜひとも観察してみたいので、殺すのは少し待っていただけると嬉しいです」

「かしこまりました」

 そんな他愛のない空想話。こんな話を笑わずに大真面目な顔で取り合ってくれるのは彼ぐらいなものだ。その誠実さが今の私にはありがたく、つい他愛のない話まで振ってしまう。

ところが私の安堵する空気は、突然の大声に遮られてしまった。

「ゼルダ姫様、こちらにおられたのですね」

 声の主は鹿狩りに招待してくれた青年貴族だった。見事な栗毛の馬にゆったりと揺られて湖畔をこちらへ向かってくる。

 背後に目を凝らすと彼の勢子たちが捕らえた雄鹿を運んでいるらしく、猟犬たちが嬉しそうに尻尾を振りながらあたりをぴょこぴょこしていた。

「こちらからなら、鹿狩りをされているところが見えるかと思いまして」

 咄嗟にちゃんと気品と言葉を選ぶことができた。でも青年貴族はわずかに見下すような含み笑いをして馬から降りる。

「獣を狩るところは少々残酷ですから、姫君はあまりご覧にならない方がよろしいのじゃありませんか」

「ありがとうございます。でもそのような気遣いは無用です」

 いつもこう。

 穢れの多いことに姫君は近づいてはなりませんと口をそろえて言う。お淑やかになさいませ、残酷なことからは目を背けた方がよろしいですよと。その割にいずれは厄災と戦えと言う。同じ口で、都合の良いことを別々の機会に言うのだ。

 人間というのは、相当に忘れっぽい生き物なのではないだろうか。

「それにしても、退魔の騎士殿の腕前をこの目で見られると思ったのですが、今からでもやはり駄目ですか」

 視線の先が、私の背後に控えていたリンクの方に飛んだ。湖畔に居た私に近づいた目的は、元より退魔の騎士の方だったらしい。

「そう無理強いしないでくださいませ。彼は王命で私を警護の任に当たっています。無理を言えばやってくれるでしょうが、何かあったときに陛下から叱責を受けるのは彼です」

「ふむ。しかし、もしや騎士殿はあまり狩りがお好きではないのですかな?」

 青年貴族の口元が意地悪く笑った。

 とはいえ確かに、リンクが弓を使ったところはあまり見たことがない。戦場ではいざ知らず、護衛はもっぱら背負うただその一振りで職務に当たっている。

 でも彼に限って苦手な獲物があるとも思えなかった。訓練を見学したとき、片手剣はもちろんのこと、両手剣でも槍でも斧でも、何でも嫌わずに扱っていた。そのことで誰かに引けを取っている姿を見たことがない。

 弓はどうなのだろうと背後を伺うと、いつもの表情のない顔をして特に答える気は無さそうだった。それがこの青年貴族の嫉妬心に火を付けてしまったのだろう。ざくっと湖畔に一歩足音が響く。

「あるいは弓が苦手でしたかな?」

「嗜む程度です」

「ならばその腕前見せてくれればよいものを、やはり剣技ほどではないということかな?」

 何を言われても最低限のことしか答えず、言ってしまえば愛想がない。およそ自分のことに関しては、何を言われても平然としているのが常なのだ。ところが貴族の方は面子があって引き下がることができない。

 問答が続かなくなり、そのうちに苛立った矛先がつるりと私へ向いた。

「姫様の騎士殿は己の技を見せたくないようですが、どうしてなのでしょうなぁ」

「武術は誰かに見せびらかすものではない、ということだと理解しております」

 剣術に関しては見せれば嫉妬に繋がるほど技量なのだから当たり前だ。ただの兵士たちですら、彼の才能をねたみ、あることないこと吹聴する。それが気位の高い貴族ともなれば、どうなるかは火を見るよりも明らかだ。

「いや、むしろ姫様が彼の不出来を庇っていらっしゃるのかな……?」

 いいえと言ったけれど、あまり効果は無さそう。それどころかリンクはぎろりと睨みつけ、殺気にも似た空気に犬たちが驚いて吠えたてた。

風向きがあまりよろしくない。どう収拾をつけようか思案顔をしていると、輪をかけて温度が無くなったリンクの声が響いた。

「ゼルダ様がお命じになるのなら、やぶさかではございません」

 魅せる技術は嫉妬に繋がる。でもこうもこじれてしまうと頼むしかない。

「ならば私からお願いします」

「御意」

 鼻息を荒くする青年貴族から弓を借り受ける。騎士の弓に似ていたが、装飾が違うのでおそらく個人の一点もの。何度か弦をつま弾いてから、リンクは一本だけ矢を受け取った。

「姫様に、あれを」

 指し示す先、遥か遠くにあるりんごの木があった。私の目から見ても赤いりんごが二つ付いているのがようやく見えるぐらいの距離。試しに一矢撃つには小さすぎる的だった。

「木に当てればよいのでなないぞ、りんごを落とさなければ言いふらしてやる」

「ご随意に」

 爵位を持たない近衛騎士が楯突くには、この青年貴族は少々厄介な相手だった。だからと言って、自分の騎士が笑いものにされるのも嫌。どちらに心が傾くかと言えば、くれぐれも外さないでと思わず胸の前できつく手を結ぶ。

 でもリンクの横顔は飄々として変わらず、あまり時間をかけずに矢が放たれた。青年貴族の後ろでおどおどしていた勢子が矢と同時に走って行って、木の根元で変な声を上げる。過たずに手に赤いものを持って走って帰ってきた。まごうことなき、それはりんごだった。

「当たったのですね?」

「矢が、刺さっておりません……」

 差し出されたりんごには傷一つなかった。

 途端、青年貴族の高笑いが響き渡る。してやったりと言わんばかりに、引き笑いを呈した。

「大口を叩いておいてこれか! 大方、梢を掠めた反動で落ちたのだろうよ!」

 勢子の手からりんごを奪い取って、目を細める。だが次の瞬間、ハッと目を見開いて手の中から獲物を取り落とした。

 それをリンクが下でとらえて、私に恭しく差し出す。

「じくを射抜きました。姫様のお口に入るものに、獣を狩る矢じりが当たっては不衛生ですので」

 よく見れば、リンゴの実自体には傷一つない。じくが途中からすっぱりと切れていた。

どこが嗜む程度ですか。

剣技に関して彼の右に出る者は居ない。でも弓に関してもハイラル一ではないかしらと思ってから、リーバルの苛立たし気な顔が思い浮かんで笑みが漏れた。それが勝負の決した合図になった。

「ありがとうございます。今日は良い狩り日和でした」

 私は狩られた獣の一切を受け取らず、ただ一つ赤いりんごを獲物として選んだ。どんな雄鹿よりも価値のある一つ

 令嬢たちは殿方からキツネの毛皮であったり、ヤマシカの角であったり、そういった戦利品を送られる約束を貰っていた。若い貴族たちの一種の贈り物攻勢であり、縁を繋ぐ絶好の機会。本来であれば立場ある身として、主催の貴族から何か送られるはずだったのだろうが、機嫌を損ねた青年貴族は早々に姿を消してしまっていた。どうやら先ほどの騒ぎが、勢子から広まったらしい。

 それでも私へ、毛皮でも肉でも角でも、何でも送りましょうと言う人はたくさんいた。でもこれがありますとピカピカに磨いたりんごを見せると皆押し黙った。

 満面の笑みでりんごを抱いて帰途に就く。城に帰ってすぐ、大事な戦利品を切り分けてもらい、最大の功労者にまずはひと切れ差し出した。

「こんなに胸のすく思いは久々でした。褒美を取らせます」

「ありがたく頂戴いたします」

 彼は頭を垂れてフォークに刺さったりんごを受け取りながら苦い顔を作った。

「しかし、あまり良いやり方ではありませんでした。申し訳ありません」

「いいのです、許したのは私ですから」

 私も一切れ齧り、目を丸くした。こんなに美味しいりんごは食べたことがない。二人で顔を見合わせる。夕食の前だというのに、あっという間に一つ分食べてしまった。

その夜、甘い余韻を残したまま床に就くと夢を見た。

 私は夢の中で、それが夢であることが分かる人だった。これを明晰夢という。

 落ち着いて見回すと場面はお母様の昔の居室で、お母様は窓辺の安楽椅子にゆったりと腰かけられていた。まだお元気そうな頃の匂いがした。

ただ正確なことを言うと、私がお母様だと思っている人物は、正確には目鼻立ちのはっきりしない人の影だった。金色の長い髪と青い瞳以外はぼやけた印象しかないが、妙にそれがお母様であるという確信があった。

はっきりと顔が見えないのはもう忘れかけているからだと思う。肖像画を見ても、頭の中にある印象とはかけ離れていて、上手く思い出すことができない。特徴的な部位だけで、その人影がお母様であると判じている。

そのお母様だと思っている人の隣に座って視線の先を追う。

鮮やかな緑の中に馬を駆るリンクの姿が見えた。いつも世話をしている軍馬ではなく、野生馬に鞍もなく跨って鬣を掴んで操っている。服もなんだかぼろぼろで丈も足りないのが、屈託のない笑顔に妙に似合っていた。

おそらく私がそうあって欲しいと望んだから見えている表情。現実では決して見られないであろう彼の姿。

窓から飛び降りて駆け寄りたい衝動があったが、明晰夢とはいえ流石に窓の外へは出られなかった。

「貴女もようやく一つ、階を上り始めましたね」

「ひとつ? 階?」

 落ち着いたお母様の声色に私は首をかしげて、室内に目を戻す。お母様の膝の上に、一本角の白い獣が頭を乗せていた。

これがユニコーンかと直感した。

 馬に似た体躯だが二回りほど小さい。全身まばゆいばかりに白く輝いて、お母様のたおやかな手が黄金の鬣を梳かれていた。想像通り、いや想像していた以上に美しい獣だった。

 なんて綺麗なんだろうと手を伸ばそうとしたら、ユニコーンは頭を持ち上げてきつく睨んできた。私には触れる資格がないと言外の拒絶を受ける。肩を落とすと、お母様はゆるりと首を横に振った。

「貴女にもユニコーンが居るでしょう?」

「いいえ、私の元にはまだ現れません」

 これは夢だから。多分、深層心理がお母様の膝の上に具現化している。私はこんな風に唐突に、封印の力が自分の目の前に現れて欲しいと願っている。

 でもお母様はまるで「分かっていない」というように苦笑した。

「大丈夫ですよゼルダ、まだ貴女が気付いていないだけ。すでに彼が貴女の手を取って導いてくれています」

「それはどういう意味ですか? 私の元に力が訪うには、姫巫女の対である退魔の騎士の助けが必要ということですか!?」

 これは夢。

でも夢でもいいから縋りたい。何か手がかりが欲しい。どうかお母様、私に教えてください。お母様は何を犠牲にしてそのお力を得たのですか。

聞きたい気持ちが湯水のように湧く。夢でもいいから教えてほしい、どうやったら私は力が得られるのか、この苦しみから救われるのか!

でもその人影はふわりと空気のように笑って、私の聞きたいことには一切答えてはくれなかった。

「りんごはどうでした?」

「とても、甘くて美味しかったです」

「いつもよりも?」

「はい、いつもより。とてもとても美味しかった……」

「それはなぜかしら」

「りんごが良いものだったからでは?」

「本当に?」

 それは、本当に、どうなのだろう。

 美味しいという感覚はある意味、相対的なものでもある。ロマーニのりんごの森のものは甘みが強く、サトリ山の麓のりんごは酸味が強い。でもりんごが一種類しかなければ、甘味も酸味も比較することがない。

 今日食べたりんごは今までになく美味しく感じた。その理由、何と比べて美味しいと感じたのか、戸惑いで心がぐらついた。

「心は感じたいように物事を感じる。貴女が甘くあって欲しいと望んだから、あのりんごは甘かったの」

 お母様の言葉は的確に心を射抜く。当たり前だ、これは夢だから、私の思っていることなど筒抜け。

でもだからこそ。

「「どうして美味しいりんごが良かったの?」」

 母と娘、二人分の声がぴったりと重なった。

 美味しくあって欲しかった。何よりも尊い獲物で然るべきものだった。

 どうして?

 リンクが私のために獲ってくれたものだから。だからこれまでになく美味しいりんごであって欲しいと願った。

 そう言葉にできなくても、お母様は分かっている様子で穏やかにユニコーンの鬣を梳く。親しい人と食べると食事が美味しいというのは、あながち間違いではないのだろう。私は彼の射抜いたりんごを、一緒に食べるにあたって特別に美味しいと思いたかったのだ。

 だとすると、なんて背徳的な味なのかと頬に朱に染まりそうになる。でもあれは実に美味であった。

「1つ階を登りましたね。残りは4つ」

 お母様の指先が私の唇に優しく触れた。甘いりんごの余韻が消えていく。

「悦びを通して世界を知りなさい、ゼルダ」

淡く光りながらお母様の姿が消えていく。もちろん部屋も、外の新緑の中を駆け巡るリンクの姿も消えていく。夢が終わる。

唐突に、貴女は女神様ですかと問おうとして、でも喉が詰まって声が出ず、そこで目が覚めた。

大事に喉の奥に記憶を残した甘みは、もう感じられなくなっていた。