不可知の獣 - 10/14

7*第六感・悦びの半分

 希代の悪女になろうと祈りを捧げてから、感覚の全てを研ぎ澄ませるようにした。

 味、匂い、音、光、それから触れるものすべて。様々に導かれた五感の解放は私に悦びをもたらした。

 感覚が鋭敏になるにつれて、思っていたよりも世界は美しいところで、悦びで満ち溢れているのだと知る。私がずっと愛している振りをしていたハイラルは、確かに女神に言祝がれた大地だった。

 それを知っても、まだ悪夢は続き、頻度も増えた。

 夢の中のお母様はきれいさっぱり消え失せ、あれから私はずっと醜い私と向き合っている。

「今日もまた触れたのね」

「ええ、だから早く力を顕現させる方法を教えて」

「でも残念、まだ足りない」

 いつもこの繰り返し。醜く顔を歪めて笑う夢の中の私は、まだ足りない、もっと触れ合えと現実の私をせっつく。

 これが本当に力に目覚める予兆なのか、ただの妄執からくる悪夢なのか、次第に夢と現実の堺が無くなっていく。しかしながら他に縋るものもなく、予兆と呼べるようなものも現われなかったので、やはりこの夢には何らかの意味があるのだろうと考えていた。

 起きては、悦びを差し出す代わりに、どうか封印の力を授けてくださいと女神に祈る。寝ては、悪夢の中で自分に力を寄越せと叫び罵る。悪女とばれないように姫巫女を演じ続けるのはなかなかに忙しい。

「何が足りないの? もう何度も触れているのに」

「ねぇ、触れるって気持ちがいいことよね」

 いくら要求に応えても芳しい結果が得られず、仕方がないのでさらに強い感覚を体に刻み込んだ。人目のない研究室で、人知れず野外調査の先で、夜陰に紛れた園の奥で、あれから何度もリンクに触れるように催促した。

 するとどうしたことか、口付けそのものが互いに上達していていった。口付けに上手い下手がるとは思ってもみなかったので、こればかりは驚いた。

 上手く舌が絡められるようになり、互いの息の長さを察し、息を継ぐタイミングも分かってくる。首の角度、手の添え方、求めるときと求められる時のせめぎ合い。全てが二人のものだった。

 でも次第に激しさを増すそれに、私からは声が漏れ出るようになった。鼻から抜けるような吐息に体が一瞬揺れ、そのあとに続く重たい呼吸音。それを見守るリンクもまた、同時に息を整えて儚げに待っている。

 口付けだけで体の芯のあたりがじゅんと潤む瞬間を知って、彼も快感を逃がしているのだと分かった。言ってしまえば互いの口をなぶるだけの行為に、彼も息をつめて色情を必死で隠す。でも隠し切れずにいるのが堪らなく甘美な瞬間に映る。

 これが力を招く正しい方法かは分からないように、祈りだって本当に正しいのか分からない。もうこの世に正解を知っている人はいないのだし、私の思う通りにやっても結局バレやしないのだ。

 だからリンクが苦しく悩まし気な息を吐く間、首筋を噛んで跡をつけることもあった。本当は吸い跡が良かったのだけれど、上手くできなくて歯を立てるとリンクはびくりと体を震わせた。

「……ッ、ひめさま」

「隠れる場所です。明日は英傑の服を、着る予定はないでしょう」

 いずれ手放すのだから、今だけでも自分のものだと証を残しておきたい。随分と見下げた根性だ。普通は男性が残すものよね、と思いながら、もう一度彼の唇の隙間に舌を差し込んだ。

 女性は体が多少潤んだとしても我慢ができる。でも男性は女性よりもそれが難しいと聞くから、随分と生殺しなことをしている自覚はあった。

 それでもリンクは私に付き合って、むしろ自ら進んで私と触れ合うようになった。彼にしてみれば、本来は許されない想いが私に受け入れられたと思ったに違いない。

 そうやって勘違いを否定せず、悪女の私は着実にリンクの心を踏み台にしていった。

 一方で姫巫女の私は祈りを捧げて、ひたすら女神に首を垂れ続けた。

 どちらも正しく私の本心であり、二つの相反する憤りを抱えた心はどんどん疲弊していった。

「明日、私は17になります。あの山へ、行ってみたいと思います」

 姫巫女としてラネール山の知恵の泉に行くことに決めた理由の一つは、もう悪夢から解放されたいというのも大きかった。比類なき厳しい寒さに体を晒せば、さしもの悪女も鳴りを潜めるのじゃないかしらと少し期待した。

 でも吹きすさぶ雪のなか、知恵の泉に立ち尽くす。

 どれだけ体を痛めつけても、逆に欲望が燃え滾る。

 不思議と凍らぬ零下の水に浸かってから、どれほどの時間が経ったのか、そろそろ体が限界に達しようとしていた。日の光は雪で遮られ、溶けた記憶のない参道に立つリンクの気配を察することも難しくなる。どれだけ薬で耐えようとしても体から震えは無くならない。刻一刻と過ぎる時の流れに裏切られ続ける。

 でも諦めたら、もう後がない。

 正当な方法での力の覚醒に、悩ましいほど捧げて来た時間を思い出す。努力が実を結ばないとき、それは何か根本から間違っている時だ。17歳。賢しらな知恵のついた私はどこかで勘づいていたのだろう。

 ある瞬間「もういいか」と十年来の緊張の糸が切れると、途端、暗闇に意識が沈んでいった。

 気が付くと、天幕の中だった。

「お気を確かに」

 苦し気な表情のリンクを見つけて、駄目だったんだと分かった。

 知恵の泉ですら、女神は私に力を与えてくれはしなかった。それどころか私は自分で諦めてしまった。こんなことは初めてだった。厳重に毛布をかけられたまま、腕で顔を覆った。雪が周りの音を遮って、耳がきんと痛む。

 長時間の祈りのせいで、巫女服は胸元までしっとりと水を吸って重たい。さすがのリンクも天幕の中に連れ帰るのみで、意識のない私から衣を剥ぐような真似はできなかったらしい。でも早く温まりたくて、体を起こすと天幕の隅に押しやってせがんだ。

「寒いです、温めてください」

 もう正当な方法では埒が明かない。だとしたら邪道でもいい、私は力が欲しい。

 本当なら濡れた服を脱いだ方が良いのだろうけれど、それすら億劫でリンクにしなだれかかった。

 どうせこんなさびれた場所、人間は誰ひとりとして訪れはしない。逢瀬を覗く不埒者などいないのに、彼は私の身体を支えたまま渋い顔をした。

「ここでですか?」

 さすがに女神の御前では気が引けるのか、喉仏を一回大きく上下させて目をそらした。

 でもここは天幕の中だし、泉の水が流れる音もするし、雪が全ての音を吸い取ってくれる。よしんば女神が覗き見をしていたとしても、どうせその女神にすべてを捧げるのだから、覗かれようと私は一向に気にしない。

「寒いのです」

 畳みかけると渋々、腕が回されて額がこつんと当たった。

「御心のままに」

 ようやく冷えた体に熱が押し当てられ、ぬくもりが体を満たし始める。止めるものの無い私たちはすぐさま舌を絡めて互いを刺激し合った。誰もいないのが分かっていて、私もあまり声を我慢しなかった。

「……んんっ……ふっ………んぁ……」

 熱い舌が歯列を丁寧になぞり、舌先で口内をまさぐり、舌を吸う。上あごを撫で、唾液も吐息も混ざりながら飲み込みたいのに思わず声が漏れた。自分の耳には気持ち悪い声が、でもそれに聞き入るリンクは目を細めて青い瞳をとろかしている。なんでそんな顔をするのと聞きたいぐらいの綺麗な色でうっとりとしている。

 目には青が、耳には感じ入る彼の吐息が、送られる唾液が甘くて、ふわりと香る汗のぬくもりさえ芳しい。全身に感じるリンクが、私の芯を熱く溶かしていく。触れるというのはとても気持ちの良いこと。

 責め立てて吸い付く舌が徐々に強くなり、彼の腕にも力が入る。逆に私の方は腰砕けにやがて体に力が入らなくなっていく。こうなるといつもならリンクは私の身体を壁際に押しやって、私はその首に縋るようする。

「……ッ。すいません、障りが」

 でも今日は狭い天幕の中、私を腕に抱え込んだままわずかに体の位置をずらす。肩を震わせて長い息を吐き出して息を整えていた。切なそうに我慢して快楽の波を逃がす。私も随分と舌だけで彼を導くのが上手くなったのだと思ったけれど、そうして離れているわずかな間が寂しくなって体を寄せた。

 でも、どっと後悔の念が押し寄せた。

 勘違いのしようもないほど、彼の雄が熱く立ち上がっている。それに触れてしまった。

 いつもなら私を壁際にやってリンクは人知れず腰を引いて、それが私の身体の触れるところにないようにしてくれていた。でもいつもと違う体勢のおかげで、ついに彼の思いの丈を知る。

 私が気付いた、そのことに彼も気が付く。

 その瞬間に眼差しが鋭くなり、唐突に手首を取られた。くるりと体の位置が入れ替わり、暗い天井が見え、背中には柔らかな敷布を感じる。気づけば肩で息をする逞しい身体が私の上に覆いかぶさっていた。

 そうまでして乞い願うように低く「姫様」と呼んで、口付けをする意味が分からないはずがない。手首を放して私の握られた手を押し開き、指の間に固い指が入り込んでくる。

 目の前には初めて見る懇願の色。

「許して、いただけますか」

 ただの男女であれば一も二もなく、必死の掠れ声を聞き入れていた。心の素直な声に従うのなら私もそうしたいと叫んでいる。鳩尾のあたりから全身が粟立って、体の奥がきゅうと締まって『欲しい』と鳴く。

 でもこればかりは、どれほど悪女になろうとも駄目だと脳が冷えた。

 純潔の有無が力の顕現を左右することがないのは知っていた。でもそうではなく、私は彼の想いを踏みにじっても力を得なければ、姫巫女としての私は価値がなくなる方が恐ろしい。力を得なければ私はハイラルに見限られてしまう。

 それに、これ以上リンクを受け入れてしまったら、私はきっと棄てられなくなる。

 だから両手を振り払って思い切り突き飛ばした。

「いやぁっ」

 あれほど強靭な肉体を持つはずの彼の身体は、いとも簡単に私の上から退く。

 どさりと不様に尻餅をつく音がした。逃げられた、よかったと胸の前で手を握って、肩を震わせた。が、違う。

 彼が自分から退いてくれただけだった。

「ごめんなさい……」

 はらはらと涙が頬を伝う。

 リンクはこれまでにないぐらい動揺して、失望か、悲愴か、本人ですら理解の及ばない感情に振り回されていた。あれほど鉄面皮と呼ばれた人が、見開いた目に何も捕らえることもできず、わなわなと体を震わせていた。

 本当なら、私はここで高笑いの一つでもして彼を追い出すべきなのだ。勘違いも甚だしいものですよと見下して突き放す。それが彼の気持ちを踏みにじると覚悟を決め、いずれ棄てるために想いを温め続けた約束だった。

 ところが私は震えて何も言えず、他方リンクは息を十もする頃には、まとめて苦くて辛いものを飲み込んで顔を伏せる。歯を食いしばり、でもどこまで行っても私を責める気配はない。それが逆につらい。

「ぜんぶ、俺の……驕り、でしたか」

 ようやく聞き取れるぐらいの小さな声が耳に突き刺さった。

「ちがう、ちがうの」

「……いえ、取り返しのつかない過ちを犯しました。戻り次第ご処分を、お願いいたします」

 歪む声でどうにか騎士に戻る。顔を伏せたまま私の膝にずりおちた毛布を掛け、申し訳ありませんと呟いて背を向ける。拳が一打ち、彼の太もものあたりに怒りをぶつけた。

 わずかに見せたそれだけが唯一の感情の表れで、それもおそらく私に対してではない。自分に対して。

 そのまま寒い外へ、天幕の外へ手を掛けた。

「いや……」

 なんて人に、私はなんてことをしでかしたんだろう。

 ずっと私を信じて寄り添っていてくれた人に、どれほど酷い仕打ちをしたんだろう。一気に血の気が失せていく。

「まって、だめ」

 リンクをずたぼろに切り裂いてまで私が選んだのは、ユニコーンから始まった私の妄想と悪夢だ。たかだか子供用の本に書かれた文言一つに、彼を傷つけてまで信じるほど価値はない。今なら分かるのに、むしろ今まで私は何も見ていなかった。

「いや、行かないで」

 どの口で何を喚くのかと悪夢の嘲笑が聞こえたが、構わずその背中に追いすがった。辛うじて爪がかかった。

「これ以上惨めな思いはさせないでください」

「いや! やっぱり私、あなたを棄てることなんて出来ません……」

「後生ですから、もう」

 乾いた涙声が狭い中に反射する。こうまでしても怒ることなく、ただ力なく垂れた腕で私を引きはがそうとする。優しいにもほどがある。でもそれが好き。

「ちがうの、ごめんなさい。でも本当に違うの……」

 でも私はリンクを後ろから抱きしめて、背中にしがみついて泣き叫んだ。

「あなたと一緒に居ると全てが楽しくて嬉しいの。静かに風の音を聞きながら寝ころんでいたいし、美しい夜空を見上げていたい、一緒に食べるご飯は美味しいし、あなたの腕の中にいると落ち着くの。もっと触れてほしい、でもそうやってあなたにうつつを抜かしている自分が許せない、大嫌いなの」

 自分が嫌い。世界が嫌い。全てが憎い。

 それでも諦めることを許されない昏い生に差し込んだ光が、これほど熱いものだとは思わなかった。いくら振り払おうとしてもまとわりつき、絶え間なく喜びを与えてくれる。

 女神に棄てよと言われても、嫌だと叫び続ける。

「わたしは、あなたと喜びを分かち合ってはいけない、喜んではいけない。そんなものを全部棄てて祈りを捧げないと力は得られないと、女神が。だからせめてあなたの気持ちを手玉に取る悪女になろうって……」

 そう、心に決めたのに。

 緩んだ私の腕を外し、ようやくリンクはこちらを向いた。

 憔悴した顔をしていたがいくらか落ち着きが戻り、足取りもしっかりしている。わずかにためらうようにしてから、口付けをするときとは違って腕を大きく回して体を抱きしめられた。肩口に顔を埋め、温かい腕に包まれてむせび泣いた。

「ゼルダ様に悪女は似合いません」

 悔しいけれど、言う通り。私に悪女は無理だった。

 それどころか賢い乙女を演じるのすら難しい。ただ好きな人と、好きなように生きたいだけの愚かな小娘にしかなれない。まして姫巫女などとんでもない。

「本当に全てを捨てよと、女神がおっしゃったのですか」

「分かりません。でも夢に人が現れて、全ての悦びを捧げるようと脅すのです。それが女神からの啓示なのか、私の妄想の続きなのか、それすら分からない。でも他に縋るものがなにもなくて……!」

 事情を知らない人が聞いたら鼻で笑うような言い草だった。偶然手にした子供の頃の絵物語に、記憶の奥深いところから様々なものが引きずり出された、ただの世迷いごと。でも藁にもすがる思いの私には、悪夢ですら希望に見間違えてしまうぐらい必死だった。

 でも悪夢は悪夢のまま。ユニコーンなど所詮、空想上の動物に過ぎない。高貴な一本角はお母様の命を救わない偽物だったことすら忘れていた。

 こんなの全部嘘だ。

 でもリンクは今もまだ、私ことをあざ笑わない人だった。責めもしないし、嘘だとも罵らない。最初に本を見つけた時から、ずっと私の言うことを信じてくれていた。絶対に彼は変わらなかったというのに、歪んだのは私ばかり。

 そんな愚かな私を抱く腕に力が入って、さらにぎゅっと肩を抱かれた。

「もし本当に女神が全てを差し出せと仰せならば、代わりに俺の目玉を片方差し上げます」

 顔を上げると、優しい青い瞳が覗き込んでいた。私にはもったいないほどに透き通った青い瞳。こんな上等なものは貰えないと首を横に振る。

「耳も、鼻も、皮も半分差し上げます。舌は一つしかないから持って行ってください、俺はあまり喋りませんから」

「そんなことをしたらリンクが死んでしまいます」

「案外、人間は死にません。片腕を失っても死なない兵士はたくさんいます。それに貴女と喜びを分かち合えるならば、それは俺にとってこの上ないことです」

 でも、とリンクは眉間にしわを刻んで、方向を定めて睨みつける。それは天幕の向こう側、泉に立つ女神像の方。

「それでも女神が許されないのなら、俺は女神を許さない」

 目を抉られれば痛い、耳をそがれても痛い。心無い言葉が刺されば心だって痛い。それは女神が相手でも同じこと。

 そうだ、自分を傷つけてまで力を得ようとするのはもうやめよう。でないと私の大事な人が私のために身を削り始めてしまう、それは私も嫌だ。

 贄になるのは嫌、痛いのだって嫌いと言ってもいいのだ。女神だろうと厄災だろうと、御父様だろうと民だろうと、誰にも血の一滴だって差し出しはしない。私の身体は私のもの。

 でも唯一くれてやるのならば、この身は彼に捧げよう。

「ありがとうリンク、ごめんなさい」

 もう一度こつんと額を摺り寄せた。

「俺の方こそ、許していただけるのですか」

 青い瞳が切なく問いかけるので、答えの代わりに口付けを返した。