朽ちて動かないガーディアンの上で胡坐をかき、草地を歩き回る一頭の馬を見ていた。黒味がかった赤褐色、黒鹿毛というやつだ。
シーカーストーンによると、ここはクロチェリー平原という場所らしい。ガーディアンの残骸が大量にあるということは、ここも百年前に激しい戦いがあった場所なんだろう。
そうとは思えない朗らかな春を迎えた草原に、記憶のない俺は特に何の感慨もない。それでただ、馬を眺め続けていた。
「暇だなぁ……」
目が覚めて、よく分からないおじいさんにお姫様を助けてくれと言われ、台地から降りた。それが数日前のこと。
すっかり記憶の抜け落ちた俺は、始まり台地の外は人っ子一人いないマモノの世界かと覚悟していた。なのにあっさり生きた人に出会えた時には逆にこっちが腰を抜かした。なんだよ、滅びたなんて嘘じゃんって。それどころか寸足らずの服の俺よりも、みんなずっと上等なものを着ている。最後の希望だとか煽てられて意気込んでいたのに、まるで田舎から出てきたお上りさんみたいでちょっと恥ずかしくなった。
でもひとまずは、おじいさんもとい、王様に言われた通り東へ東へ、カカリコ村というところへ行くつもりだった。双子山という真っ二つに割れた山の間を通った先に、白い煙を吐き出す馬の頭の形をした建物があって、何だろうと覗き込んだのがつい一時間ぐらい前だ。
双子馬宿という場所だった。
「馬、ねぇ……」
乗れるのならば、単純に楽ができるなと思った。でも俺は馬に乗れるのだろうか? 騎士だったというなら乗馬の技術ぐらいはありそうだが、それこそ記憶にございません、だ。剣と同じで勝手に体が動いてくれればいいんだけど、こればかりはやってみなければ分からない。
でも馬宿の人たちはさも当たり前のように野生馬の捕まえ方や、登録方法を教えてくれた。そもそも馬の乗り方を知らない人だったらどうすんだ。蹴られたら一大事だろ……。
そんなみみっちい不満と不安を抱えながら、近くの平原に野生馬の群れを見に来た。今日は馬宿で一泊しようと寝床の予約はすでにしたので、日が暮れる前に戻るつもりだ。
それで今は、目に留まった黒鹿毛の馬を眺めている。
正確には一頭だけ群れから離れた馬が、夕暮れに染まる春の草地を落ち着きなく歩き回っているのが気になって目が離せないでいた。
馬のことはよく分からない。自分のことも覚えていないのだから、当然馬のことも覚えていない。
だが他の馬たちが群れているのに一頭だけ別の場所にいて、草を食べるでもなくうろうろ歩き回り、前脚で何度も地面をひっかいている。そういう周囲とは違う行動が、記憶と一緒に知識まですっぽりと抜け落ちた今の俺にも、おかしいと分かった。
「あの子どうしたんだろう」
もし具合が悪いのなら、何か助けてやった方がいいのかな。でも相手は野生の動物だから、病気でも怪我でも、本当はそのままにしておくのが道理だ。きっと馬宿の人に話をしたって、誰かの所有馬じゃないなら取り合ってもらえない。どんなに可哀そうでも、飼われていない動物ってのはそういうもんだ。
そのうちその黒鹿毛の馬は草地に転がったり、立ち上がったりを繰り返すようになった。日は沈み、暗がりに馬の影が動いているのだけが見えている。手助けもできず、かといって去ることもできず、俺はガーディアンの上で手をこまねいていた。
するとあるところで、バシャーっと大きな水音がした。
少しして風向きが変わると、かすかにすっぱくて生臭い匂いがする。それで、ああと膝を打った。
「……お産だったのか」
よくよく思い返すと、確かにお腹が大きかった。
だとしたら悪いことをした。母馬は当然俺なんか視野に入っていただろうが、再度お産に良い場所を探すこともできなかったのだろう。ならばそのままお産に付き合おう。人の気配が狼などの肉食獣避けになるだろうし、狼を追い払うぐらいなら手出ししても許されるんじゃないだろうか。俺が近くにいても良いと思ってくれたのなら、それぐらいはしようと思った。
寝転んだ母馬は息を荒くして何度もいきむ。こっちが苦しくなるほどの息が何度も聞こえてきた。
しばらくしてずるりと何かがお尻のあたりに出てきて、ほわほわと湯気が立ち昇った。ああ生まれたな、と思った。少しの間くったりと動かなかった母子だが、さほどの間も置かず仔馬は頭を持ち上げた。
更けゆく夜の暗さの中に、鼻梁の白い模様が輝いて見えた。
「額にきれいな流星か。……がんばったな」
知らず知らずのうちに握り込んでいた拳を開く。別に縁のある馬でもないのに、お産というのは緊張する。無数の星が輝く夜空に向けて、詰めていた息を吐き出した。
もしかしたら俺は昔、馬を飼っていたのかもしれない。
一時間もたたないうちに立ち上がった仔馬が母馬の乳首に吸い付くのを確認すると、音をたてないように立ち上がった。母馬がピクリと動いてこちらに耳を向ける。
母も子もそこまで一度も鳴かなかった。
「邪魔してごめんな」
小声で謝ってから馬宿に戻ると、オーナーのタレッサンさんが舟を漕いでいた。俺以外の泊り客はすでにカーテンで仕切られた寝台に収まっていて、どうやら俺の帰りを待っていたらしい。こちらにも申し訳ないことをした。
「すいません、遅くなって」
「いやいや。気に入った馬でもいましたか?」
宿泊台帳に記名しながら、晴れやかな気分で首を横に振る。
「いえ、ちょうど馬のお産に出くわしたので立ち会ってました」
「ああ、時期ですからねぇ」
そうだ、馬のお産は冬の終わりから春にかけての今頃だ。そう思い出せる何かが俺の過去にはあるらしい。記憶のない不安のなかに、わずかでも昔のことを見つけられたようで嬉しかった。
そのせいでわずかに口元が緩んでいたのか、タレッサンさんは俺が使う寝台へと案内しながら言葉を続ける。
「もし今日生まれた仔馬が気に入ったのなら、目星をつけておくといいですよ」
「目星?」
「もう少し経って自分で草が食めるようになったら、母馬から仔馬を貰うんです。駒から人に慣らすのは時間がかかりますが、そりゃあいい馬になります」
「あ、ああー……」
貰うとは綺麗な言い方をするが、要は母馬から仔馬を引っぺがして自分の馬にするということだ。母馬からしてみたら誘拐みたいなもんだろう。
でもそうやって駒から人の手で育てた馬は、成馬になってから慣らした馬とは全然違う。想像するまでもなく、その通りだ。
ただやはり、あの母馬から仔馬を攫うのは、裏切りのような気がした。お産と知らなかったとはいえ、俺が見ていることを許してくれた母馬にだまし討ちのようなことはできない。
「んー、いいです。そのうち気に入った馬がいたら慣らしてみます」
「それがいい。きっと縁のある馬に出会えますよ」
縁ねぇ、と首を傾げる。もし本当に縁で結ばれた馬がいるのなら、探すまでもなく向こうから来てくれるだろう。だったらなおさら仔馬に目星なんかつけなくていい。
翌朝早く、俺は双子馬宿を発ち、そのままカカリコ村に向かった。遠目に野生馬の群れがのんびり草を食んでいて、群れの中に小さいのが何頭か混じっているのが見えた。でもどれが昨日生まれたあの子かは、遠すぎてよく分からなかった。
*
あれからカカリコ村に行ってインパというお婆ちゃんに会い、ウツシエというものを頼りに記憶を探していた。一つ記憶を思い出すたびに何とも言えない気分になる。
これが本当に俺なのか、俺という人物を注入されているだけなのか、よく分からない。結局フワフワしたまま、ハイラル中を駆けずり回っていた。
「お! お久しぶりです。あれから馬はどうしました?」
「……あ、そういえば」
「なんだ、ずっと徒歩じゃ大変でしょうに」
久々に寄った双子馬宿でタレッサンさんに笑われて、俺は泥まみれの足元を見た。徒歩なのがバレバレだった。
でも長距離移動はシーカーストーンに任せればいいし、崖を上ったり川を泳いだりで騎乗では難しい場所も多い。正直全然困っていないので、所有馬のことなどすっかり忘れていた。
「珍しくお産に立ち会った例の子、目星をつけておけばよかったのに。あれからだいぶ経ってますから、もうどの子か分からないですよ」
「あれは、いいんですよ。縁が無かったと思えば」
季節は夏を過ぎ、秋に差し掛かっていた。生まれたときは人の背丈より小さかった仔馬も、今や俺の背も追い越しているだろう。今は楽しい盛りで、子供同士でかけっこしているに違いない。それぐらい馬のことは、ぼんやりと思い出せるようになっていた。
いくつか思い出した記憶によると俺は百年前、馬に乗っていた。さらには主君である姫様に馬の色々を教えたこともあったらしい。つまり相応に乗馬の技術はあるはずだ。
「見に行ってみるか」
翌日、俺はまたクロチェリー平原に野生馬の群れを見に行った。子供のいない牝馬か群れから外れた若い牡馬で、良さそうなのがいれば試しに慣らしてみようか。お産に立ち会ったあの時よりもずっと体力が戻っていたし、今なら暴れ馬だって宥められる気がする。
そう思って行ったはずなのに仔馬の群れを見た瞬間、例の仔馬が一発で分かってしまった。思わず笑ってしまう。
「あの時の、お前だな?」
思った通り、かけっこをする仔馬の一団がいた。不審者を見つけた途端に彼らは立ち止まってこちらに耳を向ける。その鼻面には色々な形の白い模様が入っているのだが、あの夜に見た輝くような流星模様は一頭だけ。見間違うはずもなかった。
「しかも栗毛の、尾花じゃないか。珍しい」
馬にも色々な毛色がいるが、特に黄褐色の体に淡い金色の鬣と尻尾を持つものは尾花栗毛と言って珍しい。母親は黒鹿毛だったので、もしかしたら父親が栗毛だったのかもしれない。
しばらくすると仔馬たちは俺に飽いて、またかけっこを再開した。母馬たちも近くにいて、草を食んでいると見せかけて油断なくこちらを伺っている。耳を見ればそれがすぐに分かった。
「分かったよ、何もしないよ」
牝馬の群れに忍び込むのは難しく、周囲にはぐれた若い牡馬もおらずで、またすっかり馬を馴らす気が失せてしまった。まぁいないならいないでいいんだ、困ってないし。
姫様のために本当は急がなければならなかったが、どうしてかその日はずっと仔馬たちを見てのんびりとしてしまった。こんな一日があっても許してくださいと、遠くハイラル城の方へ謝罪する。
馬宿に戻ると、タレッサンさんにまた手ぶらを笑われた。
「もし野生馬を馴らすのが怖いのなら、少々ルピーはかかりますが買うという手もありますよ」
「馬を売ってくれる人がいるんですか」
「そりゃ家畜ですからね」
それもそうか。馬は人が乗る以外にも、馬車を引かせたり、田畑を耕す手伝いをさせたりする。牛やコッコだって売り買いするんだから、馬だって売り買いして当然だ。忘れていた。
「もし希望されるんなら、ちょうど調教が終わったのがいますよ。見てみますか」
馬宿では馬装具はもちろん、馬自体も取引しているそうだ。しかも調教済みとは、旅急ぐ身としては願ったり叶ったりではないか。
どんな子なのか見せてもらいに馬房へ行くと、双子のシーバとダートに毛並みを梳いてもらっているところだった。白地に斑の、可愛い顔をした牝馬だ。
「ね、かわいいでしょう。いい子ですよ、こいつは。子供にも優しいし聞き分けもいい」
言葉通り、初対面の俺にもすぐ甘噛みをしてくるほどの愛嬌の良さだ。こいつがいたら旅が楽しくなりそうだ。
「一晩考えてもいいですか?」
「ええもちろんですとも。何ならおやつでもあげてやってください、飛び切りの食いしん坊ですよ」
俺と一緒だなと、ポーチから林檎を出した。目の色を変え、俺の手から林檎をもぎ取る。シャクシャクといい音をさせて林檎を美味しそうに食べてくれた。
その夜はなんとなく眠れなかった。年甲斐もなく心が躍ってしまったせいかもしれない。寝ているのか起きているのか、自分でもよく分からないまどろみが長く続く。
気付くと俺は夢の中で、厳しい声に曝されていた。
「騎士になるために必要なものはなんだ。答えよ」
低い、大人の男性の声だった。
俺はだいぶ低い位置からそれを聞いて、緊張気味に答える。
「はい。剣、鎧、馬です」
「よろしい。剣と鎧はいずれ私の物を譲ろう。しかし馬だけは、自分で自分の馬を見つけねばならん」
顔は見えなかったが、父の声だな、と思った。
騎士は叙任までに自前で武具を用意しなければならない。騎士にとっての武具とは、つまり剣と鎧と馬である。しかし叙任までは従士、従騎士として正騎士に無給で仕えるので、金を稼ぐ暇は無い。結局のところ、正騎士に叙任されるまでに武具を準備できるのは、裕福な家門の子弟だけだ。
どうやら俺の父は平民だが同じく近衛騎士だったので、最低限の剣と鎧は家財として譲れる物があったのだろう。しかし馬だけは自分で捕まえるよう幼い俺に言った。駒を買うほどの財が無かったのかもしれないが、父の真意はそこではない。
「駒を金で贖うことはできる。だがそういう馬はお前を侮る」
そう言い聞かされて育った俺は、何歳のころだったか、駒を一頭自分で捕まえた。鳴き叫ぶ母馬から引き離した幼い駒を、我が物として大事に育てた。
鹿毛の牡馬で、鬣は黒、四脚全て足先が白い奴だった。
愛嬌がなく物静かで、時々頑固だったけど、いざ走ればどの騎士の愛馬よりも速く、賢かった。馬のくせにニンジンよりもバナナの方が好きで、林檎もカボチャも好きという甘党だった。
磨き上げられた鎧を着飾る若い従騎士たちに並ぶと、いくら磨いても照り返らない俺の古い鎧は笑いものだった。でも馬に乗れば誰にも負けなかった。
「あいつは、本当にいい奴だったんだ……」
翌朝早く、睫毛の冷たさで目が覚める。
なんで今まで思い出せなかったんだろう。百年前、ずっとあいつは一緒にいてくれたのに。どうして俺は今まで忘れていたんだろう。
ただそこまで思い出せても悔しいことに、俺はあいつの名前も、最期も、よく思い出せなかった。
「すいません、あの子買うの止めます……」
「おや、いいんですか?」
「……お金で買うのは、なんか違うなって」
ごめんなぁと斑の子の首を撫でる。その子は俺の手を何度か舐めると、何事も無かったかのように飼葉を食べ始めた。
これもまた一つの縁の形だなと思った。
*
十二枚全てのウツシエの場所を探し出し、ほとんどの記憶が揃ったのは冬のさなかだった。
十二の記憶から組みあがった俺を、俺自身は何とも言い難い都合の良い騎士に感じていた。都合がいいというのは、綺麗すぎるという意味だ。思い出が美化されるのに似ている。
突き放した言い方をすれば、姫様から見た百年前の俺の姿がああいう風であった、というだけの話だ。記憶自体は嘘ではない。受け入れなければならない。
でも自分ではまだ、本当にこれが自分なのかという懐疑の心が消せなかった。今の自分と完全な地続きとは感じられず、少し歪んだ鏡に映る誰かを見ているような気分だった。
「で、十三枚目ってのは、ここか……」
インパに探すように言われた十三枚目のウツシエの場所は、クロチェリー平原の真ん中、タモ池の周りだった。
周囲には相変わらず苔むしたガーディアンの残骸がたくさん転がっている。でも最初にここへ来たときはよく分からなかったガーディアンの残骸の意味が、ここまで得られた様々な情報と照らし合わせると、今はちゃんと理解することができた。
ハテノ砦の奇跡、俺の負傷と百年の眠り、ガーディアンの壊れ方、厄災の目覚め、姫様のこと。
色々な情報から推測すれば、たぶん俺はここで一回死んだ。
そんなときの記憶を思い出すのは嫌だなと思った。
記憶を思い出すとき、当時の心の機微はもちろんのこと、熱さや冷たさ、風の匂いや皮膚の痛み、五感の全てが津波のように押し寄せてくる。死んだときの記憶なんか思い出してみろ、もう一度回生の祠行きになるかもしれない。
「でも思い出さなきゃ、駄目ですよね」
と空に向かって聞いても、姫様は答えてくれず。
一度大きく息を吸って、吐いて、おもむろに目を閉じる。どれだけ怖くても、こればかりは向き合わなければならない。
瞼の裏に浮かんだ光景は、凄惨なものだった。
血みどろの自分と泥まみれの姫様が、雨の中を逃げている。いくら斬ってもガーディアンが現れて、剣も体も限界だった。四肢がちぎれ飛ぶんじゃないかと思うぐらい痛い。
でも意外にも、死への恐れが強かった。
もちろん自分が死んだら姫様がどうなるかという直感に由来する恐れだが、こいつも死が怖かったらしい。そんな感覚がちゃんとあったんだなぁと、逆に安心した。
それまでの記憶は、現実離れした完璧な自分を後ろから背後霊よろしく見ている感覚で、どうしても馴染めないでいた。でも抜き差しならないほどの傷を負ってようやく、昔の自分の本心を感じることができる。我ながら難儀な奴だ。
それどころか力尽きて倒れた俺は、力を得た姫様に抱き起されながら夢見心地に酔っていた。安堵と無念に紛れ込むように、かすかな情が燃えていた。
「百年前の俺もそれなりに、思うところがあったってわけか」
情けなく瞼を持ち上げ、何一つ伝えずに死んでいった俺自身に向かって、ちくしょうめ、と罵倒する。景色が歪んで見えた。
「お前、やっぱ俺じゃん」
姫様に導かれたのが都合の良い騎士なのではと、一時でも疑ったのが馬鹿みたいだ。どんなに気持ちを隠しても押さえても、俺はやっぱり俺でしかなかった。
やっと今と昔の重なるところを見つけて、持て余していたものを胸の内にしまう。目覚めて以来ずっと地に足のつかなかった不安が、やっとのことで着地した。
と、ひと心地ついたとき、甲高い馬の嘶きが聞こえた。
慌てて目尻を擦り上げ、声の方を見る。小柄な馬が前脚で地面を掻きながら、何度も何度も高く嘶いていた。
「なんだ……?」
淡い栗毛色に、金の鬣と尻尾が風になびくのが見える。未だ大人になり切れておらず、他の馬に比べてまだ一回り体躯が小さい。
「あの子だ」
尾花栗毛の仔馬が半狂乱で、何かに鼻面を押し付けていた。その何かは微動だにしない母馬だった。
「……死んだのか」
病か怪我か。いずれにしろ草地に横倒しになった巨体は、すでに息をしていない。
俺が近づくと他の馬たちは逃げたが、その子だけは母の傍から離れようとはしなかった。尻尾を高く上げて、いつでも蹴ってやるぞと、黒い大きな目でこちらを睨んでくる。頑固そうなその顔が、名も思い出せない昔のあいつを思い出させた。
「ごめんな」
別に母馬を殺したのは俺じゃない。でももしも本当に縁というものがあるのなら、この子の母を殺したのは俺という縁なのかもしれないと思った。そんな馬鹿な話は無いと頭で分かっていても、俺はこの子に謝らねばならぬ気がした。
近くのガーディアンの残骸に腰かけ、その子の気が済むまで見守った。母の周りの草地を掻いて、抑えきれずに何度も鳴く。動かない母を甘噛みしては、鼻先で押して起こそうとしていた。
健気なその子を見守りながら、百年前に死んだあいつに思いを馳せる。厄災が溢れたあの日、ラネール山へ向かう姫様についてカカリコ村まではあいつの背に揺られていたが、カカリコ村に預け、そこから先は英傑たちと合流して徒歩だった。だからその後はカカリコ村で終生面倒を見てもらえたか、主のいない馬として売られたか、はたまた肉にされたか。あるいはどさくさに紛れてこのクロチェリー平原にでも逃げたか。
「そういえばお前も足元が全部白いね。あいつと一緒だ」
毛足の長い白い毛に包まれたその子の四肢を見る。太くてがっしりとしたいい脚だ。まだ大人ではないが、むっちりとしなやかな体躯には期待が持てる。
ガーディアンから飛び降り、手を差し伸べる。おいでと声をかけると、その子は初めて死んだ母に背を向けた。重たい足取りで俺の方へ来て、濡れた鼻先を腹に押し付けて臭いを嗅いだ。
まだ母に甘えたい盛りの、可愛い子だった。
「いい子だ。……一緒に行こう」
首を叩き促し、ゆっくりと夕焼けのクロチェリー平原を双子馬宿まで歩いた。その子は振り向かず、ひと鳴きもしなかった。
成馬より一回り小さいその子を見て、タレッサンさんはニッカリと笑った。
「お、ようやく縁のある子に出会えましたか」
「実は前から会ってはいたんですが……」
まさかあの日、お産に立ち会った馬だと言っても信じてはもらえまい。何と答えたものかなぁと考えていると、タレッサンさんは奥から帳簿を持ってきて馬の特徴を書き始めた。
「流星鼻梁白の尾花栗毛っと、珠目は上だね。前から出会っていたのなら、あなたの方が吟味されたのかもしれませんな」
「俺が? この子に?」
「人が馬を選ぶんじゃない、馬が人を選ぶんですよ」
なるほどなと思ってその子の方を振り向くと、ついさっきまで威嚇していたのが嘘みたいに甘えて頭を擦りつけられた。
乗れないことはないがまだ少し小さくて、これから色々なことを教えねばならない。そういう、仔馬に手間暇を掛けるだけの余裕が、いままでは俺の方になかった。でも昔の自分を受け入れられたことで、ようやくこの子を迎え入れる準備が整ったのかもしれない。だとしたらタレッサンさんが言った縁という言葉にも納得できた。
「かもしれないですね」
「牡牝どっちです?」
「ええっと、ちょっとごめんよ」
断りを入れつつ、まだふんわりと短い尻尾の毛を持ち上げ、股を覗き込む。
「牝です」
「牝馬、と。名前はどうします?」
「そうだなぁ」
昔のあいつの名前を憶えていないのは、たぶんあいつを生粋の軍馬として育てたからだ。呼び名ぐらいはあったかもしれないが、それを名前として認識した途端、剣や鎧と同じには扱えなくなる。だからわざと俺はあいつのことをあいつとしか呼ばなかった。
でも今の俺は騎士であって、生粋の騎士とも少々違う。今ならこの子に名をつけても良い気がした。
くりくりととした大きな黒目を覗き込み、ふむと頷く。
「エポナだ。エポナにしよう」
「はいはい、エポナね。登録者の名前は?」
「リンクで」
「はいよ、リンクさん。これでエポナはあなたの馬だ」
その日はお願いして馬房に泊まらせてもらった。しばらくは一緒に旅をして、人間のことを覚えさせなければならない。銜や鐙のことも教えてやらねばならない。もう一回り体を大きくさせるためにも、美味いものをたくさん食べさせて運動させてやらなきゃならない。
そのためには相応の時間が必要になる。でもこれが姫様を救うために、俺がすべき最後の準備のような気がした。
「すいません姫様、もう少しだけ待っててください」
あの斑の牝馬はすでに誰かに買われていなくなっていた。代わりに大きなセン馬二頭に挟まれてエポナと一緒に眠る。寝藁のいい匂いに包まれながら、彼女の鼻先を撫でた。
了