ひとまず滞在の部屋へ。
凍り付いた空気を溶かしたのは、ほかならぬゼルダの一声だった。その一言に救われて、リンクも体から緊張を解く。気取られぬように細く長く息を吐くと、意外にもサイランの方も同じように静かに呼吸を整えていた。
堪えたのは怒りだろうか、憎しみだろうか。
人生の大半を王の近衛として生きてきた老騎士が、そう簡単に感情をあらわにすることもない。そんなことでは近衛騎士が務まらないのは周知の事実だ。
――難しい……。
老夫妻が滞在する部屋に着くまで大きな背をちらちらと伺っていたが、老騎士の胸の内を想像するには、残念ながらリンクには経験があまりにも足りていなかった。
「あらまぁこのお菓子美味しいわ! これゼルダ姫様がお作りになったお菓子でしょ?」
「ご存知でしたか。チョコレートと言います」
「中央ハイラルへ来たら絶対に食べたいと思っていたんですよ。さっそく夢が一つ叶ってしまったわ!」
などと、もっぱら話をするのはゼルダとチガヤばかり。
同席しているはずなのに、リンクはまるで自分が彫像にでもなったような面持ちでいた。いつもは茶菓子などぺろりと食べてしまうのだが、サイランが全く手を出さないのでリンクもうかつに手が出せない。
遠くからティントが、茶菓子に熱い視線を送っているのは分かっていたので、「これはこれでいいか」と、またわずかにお茶を口に含んだ。ティントによると、ゲルドの街にこんな甘いものはないのだそうだ。残ればきっとティントのおやつになる。
「そういえば、陛下にご挨拶した後のことなんだけれど」
ぱちんと小さく手を打って、チガヤの視線がリンクの方へ向いた。
「午後から建設途中の学校の視察に行くつもりなのだけれど、ゼルダ姫様とリンク殿もいかが?」
「学校、ですか?」
前触れなく話を振られ、リンクは目を瞬いた。
厄災との戦いからすでに二年が経つ。だがたった二年とも言える。未だ全てが復興したわけではなく、城下町でも城から遠い場所では手の付けられていない土地も多くあった。
また、当たり前だが生活に必須の施設ほど先に復興が着手され、それ以外は後回しになる。その最たる例が教育だ。親たちも労働力としての子供を手放したくないため、平民たちの教育にはまだまだ手が回っていない状況だった。
「ほら、私たち夫婦は二人とも亡くなったら財も土地も国庫に返納でしょう? だったら生きているうちにぱーっと使ってしまおうと思ってね。旦那様と相談して、城下町の一角にいま学校を建設しているのよ」
「それは素晴らしいことです! ぜひ私もご一緒させてください。リンクはどうします?」
王族の前でそれを言うチガヤもチガヤだが、ゼルダもまるで気にした様子は無かった。彼女の性格を考えれば、資金は有意義に使うべし、と言ったところだろう。
一拍おいて、リンクも硬くうなずく。
「ご一緒させてください」
「そう! それはよかった。リンク殿も一緒に行ってくれるそうですよ、旦那様」
と、チガヤはサイランの方を振り返る。あまりにも不意打ちだった。
今のいままで会話を聞いているのか聞いていないのか、ティーカップの上げ下げ以外にサイランに動きの無かった。だからまさか一緒に行くとは思ってもみなかったのだ。
しかし考えても見れば、婦人一人で行くとも思えない。だからと言って、やっぱり行きませんとはリンクの立場では言えない。
何か用でも入っていないだろうかと、戸口に近いところに立つカスイに視線を走らせたが、生憎と彼はニッコリ笑って小さく手を振るだけだった。いってらっしゃいませ、とのことだ。
この重苦しい空気が午後まで続くことにリンクが愕然としたのもつかの間、サイランが重い口を開く。
「殿下、そろそろ陛下にご挨拶申し上げてもよろしいでしょうか」
「あら、もうそんな時間。では参りましょう」
ゼルダが立ち上がるのに合わせ、リンクもその手を取る。まだしも動いている方が良い。動いていればサイランと顔を突き合わせなくて済む。
一方のチガヤはリンクとサイランが残したチョコレートをじっと見て、おもむろに侍女二人を手招きした。
「申し訳ないのだけれど、残ったお菓子は取っておいていただけるかしら。とっても美味しかったから、後で頂きたいの」
こういうところが、チガヤの不思議なところだった。何となれば新しい物を所望することも出来る。それが気取らずに侍女にお願いするあたりに、気位の高い貴族の女性らしさがない。
おかげでリンクはチガヤに対しては苦手意識を持たずに済んでいたが、その彼女が由緒ある貴族然したサイランと夫婦なのが妙な釣り合いに見えた。
「かしこまりました」
「お手間かけさせてごめんなさいね」
表情一つ変えずに返事をしたのはヤツリ、さすがにゼルダの侍女を務めて十年以上になるベテランだ。一方まだ侍女に上がって間もないティントは、顔に「がーん」と書いてあった。残ったら食べようと思っていたのだろうが、かわいそうだがこればかりは仕方がない。ティントも後を追うように「かしこまりました」と小さく呟いた。
旧知の仲ということで、挨拶に向かったのは謁見の間ではなく、ロームが個人的な客をもてなす来客用の部屋だった。会うなりロームは破顔する。サイランもまた緊張を緩め、長らく仕えた主君と固い握手を交わしていた。その様子をリンクは、ただ横で見ていた。
先ほどとは打って変わり、ロームとサイランの話は弾む。
「そうじゃ、今夜一杯どうじゃろうか」
「ご酒など、よろしいのですか陛下」
「久々の再会じゃ、一晩ぐらいよかろう。のうホルトウ、よいであろう?」
柄にもなくワクワクした様子のロームが、背後に控える侍従長のホルトウを見やる。
大柄な体躯ながらも巌のように静かな侍従長は、この日初めて声を発した。
「ご用意いたします」
「よし! では今夜、儂の部屋で積もる話でもしようではないか!」
「侍従長どのが良いとおっしゃるのであれば」
そこからもあれこれと話に花が咲いたが、リンクはその様子を傍らで黙って見ていた。仏頂面のサイランと顔を合わせているよりもずっと楽ではあった。ただ、楽しそうに話をするロームが少しだけ羨ましくもあった。
ではまた夜に、と四人は連れ立って部屋を後にする。その間際、ゼルダが静かにホルトウの方へと寄り、小声で何かを聞いていた。
「侍従長殿がどうかされたのですか」
サイランとチガヤを滞在の部屋へ送り届けた帰り道、今度はゼルダを彼女の部屋へと送り届ける段になって、リンクはようやく聞いた。するとゼルダは少し肩をすくめて苦笑した。
「実は先週、ホルトウと銀食器の確認をしていたら、ぎっくり腰になってしまったのです。重たかったのでしょうね」
「それはお気の毒に」
「でももう大丈夫とのことですよ。さすがにこの時期に侍従長が不在は事ですからね」
銀食器磨き自体は他の侍従にやらせるのだろうが、事前の確認は本人がやりたかったのだろう。職務に実直なホルトウらしいと思いつつ、リンクは彼の体格を思い出す。確かにあの体格では腰への負担は大きい。階段の上り下りも最近は大変そうに見えていた。
そんな話をしながらゼルダの部屋に帰りつくと、ダルケルから預かった白い石がすでに届けられていた。ゼルダは興味深そうに小さな石を摘み上げ、明るい窓辺へ持って行った。角度を変え、三つとも検分する。
「恐らくこれは、白土だと思います」
「白土?」
聞きなれない単語をリンクが発音しなおすと、ゼルダは記憶を引き出しているのかしばらく間があった。
「……ガラス質を多く含んだ石、と言ったところでしょうか。利用価値はもちろんあります。が、実際に使える質かどうかは、専門の方に見てみないことにはなんとも」
「ダルケルがもう少し持ってきてくれることになっています」
「ならばそれを見てもらうのが良いかと思いますよ」
そう言って、ゼルダはリンクの手の中に白い石を返す。幸いにも懸案が一つ進みそうだ。小さな石を握り込み、彼は肩から力を抜いた。
その傷だらけの大きな手が、ゼルダのほっそりした指が包み込まれる。
明るい窓際だが、温かいのは決して日差しのせいだけではない。いつの間にか緊張で硬く冷え切っていたリンクの手が、温かくほぐされていくようだった。
「リンク」
「はい」
「サイラン様が気がかりですか?」
リンクの方も、ゼルダにバレていないとはまさか思ってはいない。
ただ、心配だけはかけまいと黙っていた。
何か困ったことがあればゼルダに相談する、そのように約束したのはおよそ一年前のこと。婚約式の直前、公爵令嬢シレネによる殺人未遂事件の時のことだ。
あの時、リンクは自らに送り付けられる差出人不明の恋文に悩まされ、それをゼルダに隠して自分だけで解決しようとしていた。おかげで事件がややこしくなったわけだが、今回の憂いはそれとは少し種類が違う。
何をどう言葉にしたらよいのか、しばし考えたのち、彼はゼルダにだけ聞こえるように言葉を紡いだ。
「認められたいなどと、おこがましいことは言いません……でも、遠いのです」
他者を羨むなどと、まさかそんな感情が自分の中に在ったことの方に、リンクは最初驚いたくらいだった。羨望より努力を、意識せずともやってきたことでは全く効果のない現状に、ほとほと困り果てている。努力ではどうにもならないものに、途方に暮れていると言ってもいい。
同時にそれは、ゼルダに話をしても解決しないと理解はしていた。だからこれは、彼にしては珍しい弱音だ。
「申し訳ありません。聞き流してください」
漏れ出る情けなさを自嘲で隠し、彼は姫君の手を包み込み返す。
ところがゼルダは、もの言いたげな顔をしていた。
「ねぇリンク。話してみなければ分からないことって、案外多いものですよ?」
つまり、腹を割って話し合えと言うことだろうか。
それは酷く難しいことだ。しかしゼルダの言は至極尤もで、リンクも同意せざるを得ない。
結局のところ、サイランが何を考えてリンクを邪険にしているのか、どうすれば良いのかはサイラン自身に聞かなければならない。黙っていても教えてくれる御仁ではないのだから、リンクの方から聞かねばならないのだ。
頭では分かっている。だが本気で拒絶されたらと思うと、覚悟がまだ全く足らない。
「……はい、いずれ」
「貴方なら大丈夫です。だって私の夫になる人ですもの」
ぱっと花が咲いたようにゼルダが笑う。釣られて目を細めそうになったが、果たして自分はそこまで信に足る人物だろうかと、リンクは曖昧にうなずくにとどめた。