表裏なす赤の秘密 - 3/24

 

1 気鬱の正体

 

 のっしのっしと背後に重たい足音が迫ってくる。

 だが後ろを見向きもせず、リンクはオルディンの赤い岩肌に照り返す朝日を見ていた。久々に気楽な服に袖を通し、肩から力を抜いてゆるりと立つ。ややあってから、くぁっと欠伸を噛み殺した。

 

「珍しいな相棒、寝不足か?」

 

 先ほど顔を出したばかりの日の光に目を細めつつ、指先で涙を拭う。

 振り向くと、ダルケルが白い眉毛を申し訳なさそうに八の字に下げていた。

 

「ちょっと眠い」

「まぁ、忙しい時期だもんなぁ。こんな時に呼び出してすまねぇ」

 

 ダルケルは大きな体でしゅんと肩を落とし、がりがりと右手で頭を掻く。左手には見慣れぬ白い石がいくつか握られていた。

 赤い大地に浮くほどの白い石、これが今回、忙しいながらもリンクが呼ばれた理由だった。早朝のまだ清々しい風に麦わら色の髪を泳がせ、ダルケルの大きな手から白い石の欠片をいくつか受け取り、日の光に透かした。

 

「構わないよ、ゴロン族の窓口になることが俺の仕事だから。……これが例の石?」

「ダルニア湖の北側で見つかった。この白い石の周りでは水晶なんかも出るんで、ゲルド族は掘ってくれって言うんだが、石自体はとにかく不味い」

「そんなに?」

「舌がザリザリする! 硝子でも食ってるみてぇだった」

 

 うえーっと舌を出したダルケルに、リンクは肩をすくめて笑う。

 ハイリア人は石に対しては、石材になるかならないか、あるいは貴石や金属が出るかどうかの判断基準しかない。だがゴロン族の判断基準はまず美味しいか美味しくないか。存外その感覚が普通のハイリア人にとっては理解が難しい。

 しかしゴロン族との取引は非常に重要で、おろそかには出来ない。最上位の武具を作るにはデスマウンテンの溶岩の熱が必要で、ひいては軍務にも非常にかかわりがあるからだ。

 ハイリア人以外に対して差別意識が無く、変な先入観もなく、元より付き合いがあり、さらには武具についての知識がある。そういう諸所の事情がぴったりと当てはまったことで、ゴロン族との窓口になることが、王家への婿入り前のリンクに宛がわれた最初の仕事であった。

 

「その石はゴロン族にとっては掘れば金にはなるが、食えないボタ山も増える厄介な代物でな。何か活用方法がないか、姫さんに聞いてもらいてぇんだ」

「なるほど、分かった。お聞きしてみるが、俺よりもゼルダ様の方がお忙しいからすぐに返事があるかは分からない。それだけは心得ておいてくれ」

「もちろんだ、そいつは構わねぇさ。それよりすまねぇなぁ、五日後に結婚式の相棒を呼び付けちまってよ」

 

 確かにその通りだ、とはリンクは言わなかった。ただ、そんなことはないと、気休めも言わなかった。

 普通、結婚式五日前にゴロンシティならまだしも、ダルニア湖の北側に呼び出されるとは思わないだろう。もちろんシーカーストーンがあるのでさほど移動時間を気にすることはないが、それでもハイリア人の感覚からすれば非常識すれすれだ。

 でも今のリンクには、その遠慮のなさが心地よかった。

 あるいは気のいいゴロン族の中でも、さらに親交の深いダルケルなら権謀術数の心配もないだろうと、仕事を任せてくれたゼルダの思惑もわずかに透けて見える。どちらにしろ今の状況は、宮中の酸いも甘いも心得た彼女の思惑通りであるのは間違いない。おかげで楽な服を着て、息抜きが出来る。

 ただ、さすがに早朝は辛い。本当は昼間でいいとダルケルは言ったのだが、リンクの方に暇が無かった。もちろん理由はそればかりではないのだが、もう一度欠伸を噛み殺す。

 

「しかし相棒が寝不足なんざ、珍しいじゃねか」

 

 言いながら、ダルケルはどっかりとその場に胡坐をかく。それに倣ってリンクも隣に座った。

 遠慮はないが、気遣いが無いわけでもない。ハイリア人ではないダルケルにならば、少しばかり口を開こうかとも思えるのだから不思議だ。ダルケルの不器用な優しさが、リンクにはちょうどよかった。

 

「心配事が、ちょっと」

 

 手の中に収めた先ほどの白い石を転がす。キラキラとした粉のようなものが削れて手について、どことなく白粉のようにも見えた。石材にするには随分と柔らかい石のようだ。

 じっと粉が付いた手を見つめていると、ダルケルは分かったような顔をして腕組みをした。

 

「まぁなぁ。ハイリア人みたいな結婚をしねぇゴロン族の俺でも、相棒の結婚が普通じゃねぇってのは分かる。なんたってハイラル王家の姫さんだからなぁ、心配もあるだろうよ」

「……実は、そっちはあんまり心配じゃない」

「おお、大した自信だな?」

「我ながら、そこは図太いぐらいに」

 

 実際のところ、すでに一年前から貴族教育を施されたリンクにとっては、五日後の結婚式は節目ではあっても激変ではなかった。確かに正式にゼルダの夫としての生活が始まれば、相応なことが色々あるのは分かっている。

 だが平民で一介の騎士でしかなかった彼が、王城に専用の部屋と使用人を宛がわれた時に比べたら、その差は大きくはない。覚悟をする余裕も十分にあった。

 今、リンクの心に重くのしかかるのは、それではなかった。

 

「……今日、猶父ゆうふ殿が城にいらっしゃる」

 

 声に出してから、小さくため息を吐く。

 珍しく情けなさそうに丸まった小さな背を見て、ダルケルは小難しい顔をしながら顎髭を扱いた。

 

「猶父殿っつーとあれか、相棒の後見人についてくれたってぇ元近衛騎士の御仁か」

 

 リンクは無言で首肯した。

 彼はそもそも平民であった。平民は、貴族とはおろか、一国の王女と結婚することは叶わない。ただ、長い歴史において身分を越えた結婚の事例が一つもなかったわけではないし、「ならば諦めましょう」と素直に引き下がる人たちばかりでもなかった。

 その身分差を越えた結婚の抜け道として使われたのが猶子ゆうし縁組であった。単純に言えば相応の身分を与えるため養子縁組である。

 普通は女性側の身分が低い場合が多いので、貴族の養女となって「〇〇家の娘」を名乗り、身分のある男性へと輿入れをする。だがリンクの場合には男女が逆、それで身分はあるが影響力が少ない貴族出の元近衛騎士に、相続権のない猶子縁組をお願いしたのが実情だ。

 

「猶父殿、サイラン殿は長らく陛下の近衛騎士を務められた方で、陛下の剣の師でもあったすごい方なんだ。ハイラル平原の戦いの折に負傷されて引退されるまでは常勝無敗、王国騎士たちの憧れだった」

「相棒でもか?」

「もちろん」

 

 そのサイランがモリブリン相手に不覚をとったと聞いたのはハイラル平原の戦いが終わった後、リンクが不規則に動き回るテラコに手を焼いていた最中だった。まさかと思って同輩たちの話を聞こうとしたのに、ロームから突如出現したシーカータワーの警備とテラコの解明という辞令が届いて有耶無耶になってしまった。

 何があったのか全てを知ったのはかなり後になってから。脚を負傷したサイランが王陛下に引退を申し出て、すでに城にいないと聞いた時には唖然としたものだ。

 

「って言ったってよぉ、相棒だってハイラルを救った、すげぇ騎士だろう?」

「俺はただ単に剣に選ばれただけ、サイラン殿は自らの力で道を切り開かれた。あの方は特別だ」

 

 あの平原での掃討戦が、リンクにとっては事の始まりだった。テラコを見つけ、インパを助けようとしたらシーカータワーが出現した。テラコを連れてゼルダ姫の護衛を務め、気付いたら退魔の剣を抜いていた。そこからはまさしく坂道をかけ下るがごとく、当たり前のことを当たり前にやっていたら今だ。

 五日後の結婚式は、一応表向きは論功行賞ということになっているが、実は恋愛結婚だと多くの人に知られている。だが内実はどうあれ一国の姫を娶るまさかの事実に、未だ目が覚めたら一般兵卒四人部屋の硬い寝台の上にいるのではと思うこともしばしばだ。

 ところが自分の栄達の陰で、まさか憧れだった騎士が人知れず城を去っていたとは露知らず。

 

――俺だって、あの方に教えを乞いたかった。

 

 そうやってリンクが唇を噛む傍らで、彼の武勇に心躍らせて剣を握る少年たちのなんと多いことか。もちろん誰にだってそのことは包み隠さずに話をしてきた。

 ところが嘘偽りのない彼の言葉を、人々は意味そのままにとは容易に受け取ってくれない。ただの謙遜だと笑う。彼の胸の内を知らない他人は、リンクのことを剣の天才、天賦の才、戦いの申し子だのと気安く言って、評価は変わらなかった。

 その点ダルケルは、もしくはリーバルやウルボザ、ミファーなどは過大評価をしない。特にダルケルは見たまま、感じたままで接してくれるので、だからリンクの方もうっかり気が緩んで、つい口走ってしまう。

 

「だから俺、猶父殿に嫌われたらと思うと……」

「嫌われてんのか」

「……たぶん」

 

 認めてもらわずとも良いが、嫌われるのがこれほど堪えるとは。しかしリンクの方にも思い当たる節があって、サイランのことを嫌いになることもできない。

 誇り高き近衛騎士が、自分が負傷して引退するに至った戦いで功績を上げてあっという間に立身出世してしまった若い騎士を、よく思わないのは当たり前だ。たとえ接点が無かったとしても、調べればそれぐらいのことはすぐに分かる。因果は無くとも遺憾は生まれる。

 事実、これまで何度か顔を合わせた際にも、サイランはリンクと目を合わせようとはしなかった。

 

「そう言っても、来るもんは来るんだろ? 形式上とは言えオヤジさんなんだ。元気出せとは言わねぇが、気張れ!」

「……だな。ありがとうダルケル」

「明後日ぐらいには俺様が特上の贈り物を持って、城に駆けつけてやるからよ!」

 

 ダルケルはニカっと大きく笑ってみせたが、リンクは苦笑いを返す。

 本当は今一緒にシーカーストーンでハイラル城まで連れて行ってもいいのだ。せっかく会うのだから一緒に行こうと、実は言った。ところがダルケルは、大荷物があるから後から行くと言って同行を固辞していた。

 その大荷物が贈り物のことで、しかも「特上の」と言っている辺りでロース岩だと予想が付いたリンクは目が泳がせる。さすがに今回の結婚式の午餐と晩餐は、全てゼルダが采配をしていた。持ち込まれた特大のロース岩に困り顔をする様子がすぐに思い至ったが、ダルケルの善意を踏みにじることも出来ずに曖昧に返事をして立ち上がる。

 気のいいゴロン族相手とはいえ、取引と言うのはやはり難しいものだ。

 さて、と背伸びをして、手の中の白い石をポーチの中にしまい込む。本当はもっと持って持ち帰れれば良いのだが、生憎と置く場所もないので今は小ぶりな石を三つまでにしておいた。

 

「この石だけじゃ分からないかもしれないから、来るときにもう少し持ってきてもらってもいいか?」

「おう、任せておけ。じゃあ気張れよ、相棒」

「ありがとう、また明後日」

 

 普段はゼルダの元にあるシーカーストーンを起動した。すっかり昇った朝日を受け、リンクは青い光に包まれてハイラル城へと飛ぶ。ひとつ瞬きをする間に、自室のベッドサイドに設置したワープマーカーにふわりと降り立つと、間髪入れずに動き出した。

 まずは腹ごしらえ。今朝は悠長に食事をしている暇がないのは分かっていたので、前もって頼んでおいたサンドウィッチにかぶりついた。ただパンだけあればいいと言ったら、さすがに「今の貴方に白パン一個は無理です」と料理長が直々に準備してくれた。

 人目が無いのをよいことに大口を開け、サンドウィッチを数口で頬張りながらポーチに手を突っ込む。ダルケルから渡された白い石を取り出して机の上に出すと、食べきった指を行儀悪く舐めながらワードローブを足で開けた。随分と大きいものを与えられた割に、中身は相も変わらず少ない。迷わずに軍服を出す。

 急いで気楽なシャツを脱ぎ、慣れた手つきで着替えようとしたところで、冷めた声が背後から突き刺さった。

 

「リンク様」

「……っ」

 

 のろのろと振り返ろうとするが、それよりも早く声の主はつかつかと近づいてきて介添えを始める。リンクの方が言葉を詰まらせた。

 

「リード、……これは、ええっと」

「リンク様は私から仕事を取り上げて解雇なさるおつもりですか」

 

 はぁ、と常人ならばため息でも吐きそうな口調だが、生憎と彼、リードという若い侍従は顔色一つ変えなかった。

 

「決してそういうわけでは」

「ならばお支度の際には私をお呼びくださいといつも申し上げております」

「……はい」

 

 練習の一環として、半年ほど前からリンクは身の回りの世話を、このリードという青年侍従に任せることになっている。……任せようとはしたいのだが、いかんせん、しみついた癖が抜けない。本来は侍従がする仕事、例えば着替えなどを、リンクはつい自分でやってしまう。

 だがリードは、勝手に身支度をしてしまう主人をたしなめるところまでが自分の仕事だと言わんばかりに、まるで嫌な素振りは見せなかった。逆に笑顔を見せることも無かったが。

 

「オルディンはいかがでしたか」

「気持ちの良い朝日でした」

「それはようございました」

 

 持ってもらった服に袖を通すなんて子供じゃないんだから、と最初は拒否感が勝った。だがそのために彼がいることを思えば、むやみに仕事を奪うこともできない。しかし何から何まですまし顔で手伝ってもらうのもむず痒い。

 

――だったらリードが来ないうち自分で着替えてしまおう。

 

 リンクが逃げ道を見つけたその日から、リードとのいたちごっこが続いている。

 リンクが一人で身支度を整えるのが先か、身支度が終わる前にリードが部屋をノックするのが先か。今のところ勝率はリンクが四割と言ったところ、非常に手強い。

 

「リードさん、まーた怒ってるんですかぁ」

 

 戸口にもう一人、呑気そうな声が顔をのぞかせた。白い長い髪を頭の高いところで括ったシーカー族の男だ。

 その言葉を聞くや否や、リードは彼に顔を向ける。分かりやすく眉をひそめて声を落とした。

 

「失礼な、怒ってなどおりません。それよりカスイ様こそ、あるじのお部屋にノックも無しとは非常識でしょう。執政補佐官殿ならば、もう少しちゃんとしてくださいませ」

「あー、すいませんすいません」

 

 へらっと笑いながら、カスイは開けっ放しの扉を今さらノックした。

 手には今日の予定を書きこんだ紙の束を抱え、すでにインクの香りを漂わせている。一仕事終えて、定例の朝の挨拶にでも来たのだろう。のんびりと人当たりの良さそうな顔からは想像もできないが、こう見えて彼は優秀な人材らしい。元はロームの執政の補佐をしていた時期もあったと言う。

 このように最近のリンクは、リードに身支度を整えられながらカスイの話を聞くというのが恒例行事になっていた。

 だが、これがどうにも居心地が悪い。なるべくカスイの方を見るように、リンクは首をめいっぱい戸口の方へとひねる。

 

「カスイさん、朝早くからすいません」

「僕は大丈夫ですよ、急を要する用件はありませんから。ああでも、ダルケル様からの相談事ってのはお伺いしておきたいですねぇ。何だったんです?」

「俺もその件でお願いしたいことがあって」

 

 と言いながら、机の上に置いた白い石を指そうとしたが、危なく腕がリードにぶつかりそうになる。慌てて手を引っ込めると、リードの冷静な鳶色の瞳がすっと背後へと回った。

 

「すいません」

「そのままお続けください」

 

 声色の変わらないリードが背後から飾緒を直す。

 軍服というのは小物が多い。それでなくともこの後すぐに元近衛騎士である猶父サイランの出迎えがあるためか、リードの身支度はいつにも増して執拗だった。

 申し訳なく思いながら、リンクは机の上に置いた石を視線で指し示す。

 

「ダルケルからは、その白い石に何か使い道がないか、ゼルダ様にお伺いして欲しいとのことだったんです。でもこちらでも一応調べたいので鉱物、……いや、岩石か何かの本を見繕ってもらえませんか」

「ゴロン族も分からない石ですかぁ? へぇ~こいつが」

 

 白い石を摘み上げ、カスイは窓から入ってくる日の光に透かした。彼も見たことがないのか、指についた粉を見て「白墨チョークみたいだー」とつぶやく。

 

「わーっかりました、では司書の方に本を見繕うように伝えておきます。リンク様はお仕度整いましたら、姫様と一緒に正面玄関までおいでください。私は先触れを確認しに、一足先に玄関まで出ておりますのでー」

 

 では~、と独特に間延びした礼して、カスイはのんびりと去っていった。

 ほどなくしてリードも満足いく支度が出来たのか、距離を置く。大きな姿見に映った自分を見て、リンクはハァとため息を吐きたくなるのを我慢した。

 長らく着慣れていた軍服が、リードに身支度をされると不思議と形が綺麗に見える。それはいい、身分相応に着こなせと言うのはもっともなことだから。

 ただ、服に着られているような感覚になるのが、なんともいたたまれなかった。偉い人というのは意外と大変なのだ。

 

――そりゃあ無様なところは見せられないが。

 

 無駄に背筋を伸ばし、リードを伴って廊下を急ぐ。東の一室を与えられたリンクに対し、ゼルダの部屋は相変わらず西側の一角にあった。

 そこに至るまでの長い道のりで、ほとんどの人はリンクの姿を見れば黙って道を譲る。いきなり貴族に叙された彼と対等に言葉を交わせる人物が少ないからだ。そんななか、数少ない言葉を交わす人物とゼルダの部屋の前で出会った。

 背の高い老齢の女性が、ちょうど部屋の扉を閉じてこちらを向いたところだった。

 

「あらリンク様」

 

 彼女は臙脂色の目を少し見開いて、ゆったりとお辞儀をする。城内の女性たち統轄する侍女長のユースラだった。

 

「おはようございます、侍女長殿」

「おはようございます。どうぞ、姫様がお待ちでございますよ」

 

 それだけの会話だった。

 日々多忙なユースラは踵を返して行ってしまう。生来は鴉の濡れ羽色であろう髪が灰色になるほど長い年月を侍女として勤める彼女は、今日も背に針金でも入っているかのように真っすぐな後ろ姿だった。

 しかし心なしか後ろ姿が嬉しそうにるんるんと揺れている気がして、リンクは彼女の後ろ姿を食い入るように見た。

 能面顔のリードよりかはまだ表情があるものの、侍女長のユースラもなかなかの仕事の鬼として知られていたので珍しい。何かいいことでもあったのだろうかと、リンクは飾り気のないシニヨンが曲がり角に消えるまで見ていた。

 

「リンク?」

「あ、ゼルダ様」

「どうかしました?」

 

 気付けばひょっこりと樫の扉から翡翠色の瞳がこちらを見ていた。

 今日は青いドレスをまとい、ティアラに加えて胸元には青い宝石の光るブローチもつけている。ところが腕の中には重たそうな数冊の本を抱え、なんともちぐはぐな印象が否めない。しかしそれが、ゼルダらしいと言えば非常にらしい。

 らしいのだが、一応大荷物を持たせてよい人物でもない。リンクは無言でゼルダの腕の中から本を取り上げて、今しがたユースラが曲がった廊下の辺りへまた視線を向けた。

 

「侍女長殿がちょっと嬉しそうに見えた気がしたのですが」

「あら、リンクもそう思います? だからでしょうか」

 

 リンクが抱えた本の中から、ゼルダは一冊抜き出して見せた。タイトルは『ゴングル山冒険譚』。ゼルダは小説の類を好まないわけではなかったが、進んで読みそうなタイトルではない。浮いている。

 受け取りながら表紙と裏表紙を交互に見ていると、彼女は口元を押さえて軽やかに笑った。

 

「あのユースラが間違えて、図書室に戻す本を持ったまま、私のところへ持ってきてしまったんですよ。しっかり者の侍女長にしては珍しく抜けていると、みんなで笑ったところだったのですよ」

 

 ね、とゼルダが振り向くと、そこにはまた別の本を持った二人の侍女がいた。

 片方は栗色の髪のハイリア人女性、もう一人は浅黒い肌に赤髪のゲルド族の少女だった。彼女たち二人もゼルダほどではないが本を持っていて、特に小柄な少女の方は今にも指が滑りそうになっている。

 

「ティントの分も持つよ、貸して」

「り、リンク様、申し訳ありませんっ」

 

 一番分厚い図鑑を持ってもらい大きな息をついたティントは、ウルボザから行儀見習いに預けられているゲルド族の少女だった。

 ゲルドのしきたりでは、この歳の少女はゲルドの街の中で暮らす。ところがウルボザは「しきたりを守ることにばかり固執していたら、文化は滅びるもの」と言って、直々に選んだティントを侍女見習いに送ってきた。言わば遊学のようなものだ。砂漠から遠い中央ハイラルで慣れないことも多いなかで頑張っている彼女を、リンクも目をかけていた。

 さらにそのティントの後ろに控えているのが、ゼルダの侍女の中でも古株のヤツリ。彼女はリードの姉で、一卵性双生児かと思うほど弟とそっくりの顔をしている。彼女が笑うところはリードと同じく想像も出来ないが、ゼルダが言うのならばそうなのだろう。

 ただし、侍女長ユースラが図書室に寄るのも忘れるほど嬉しいこととは一体何なのか。リンクには全く想像がつかなかった。

 

「侍女長殿も意外な側面があるんですね。……ところでゼルダ様、この本は図書室へ返すものですか?」

 

 今さらながら、ゼルダの持っていた本を見る。

 植物学の図鑑に経営理論の書籍、最新の病理学の報告書に海事に関する法律書など。特に図鑑と法律書は鈍器になるほどの厚さと重さを兼ね備え、常人なら軽い訓練と勘違いする程度には重たい。

 ええ、と返事をしながらゼルダが歩き始めるので、リンクもそれに従った。

 

「ご到着の先触れが遅れているので、図書室に本を返す暇があるかしらと思って。寄って行ってもいいですか?」

「分かりました」

 

 彼女と横並びになるようにと歩調を合わせようと大きく足を踏み出す。そこへ横からリードの手が伸びてきた。

 

「人をお呼びしましょうか」

 

 確かに、リンクはすでに姫君の荷物持ちなどをする身分ではなかった。人を呼んで、代わりに図書室へ本を返してもらうのは、当然のことだ。

 しかし誰かにこの本を預けたとしよう。すると手は軽くなるが、ゼルダと共に図書室へ行く口実はなくなる。そして正面口へ直行だ。

 その二つを天秤にかけ、リンクは瞬時に遠回りをして図書室に寄ってから正面口へと向かう方を選んだ。

 

「いや、少しゼルダ様とお話をしたい。リードはお姉さんの分を持ってあげてください」

 

 言ってから、無意識にこの後の気重を先延ばししてしまった自分に気付いた。

 ダルケルに気張れと言われたのは小一時間前。それなのに、気張るどころか隙あらば逃げ出そうとしてしまうとは。

 

――くそ、情けない。

 

 内心で自分に悪態を吐く。もちろん表には出さない。出さないが、かすかに眉間に力が入った。

 その瞬間、リードの口角がわずかに上がるのが見えた。

 ヤツリとリードは、並べば誰でも必ず分かると言われるほどそっくりの姉弟だ。その姉の方がゼルダ姫の侍女、弟の方がリンクの侍従となったわけで、生真面目でピクリともしない能面顔が二つ並ぶのは最近ではよくあることだった。

 だが、リードが微笑むのは初めてのことだ。

 

「何か?」

 

 気付いた時にはもういつもの真顔に戻っていた。見間違いだったのではないかと思うぐらい、ごく小さな出来事だった。

 

「いや、なんでも」

 

 平静を装い、では一体何がリードを微笑ませたのかとリンクは思案顔になる。半年しかない付き合いからでは、彼がどういう人物なのか判じられる要素は多くない。

 押し黙り、再び廊下を東側の図書室の方へと辿る。城内の配置は体が覚えていたので、考えごとをしながらでも支障はない。ただしゼルダが不思議そうに顔を覗き込むまで、いくらも時間はかからなかった。

 

「考えごとですか?」

「申し訳ありません」

「いいえ、リンクにもお仕事をお任せしてしまっていますから、何か困ったことがあったら相談に乗りますよ」

 

 その言葉で、リンクは別のことを思い出す。どうにも最近、煩雑なことが多くて困る。大抵のことはリードかカスイが把握していたが、これは手帳などで管理する必要がありそうだ、などとまた思考が横ズレを起こす。

 図書室の入り口に立つ兵士に扉を開けてもらい、二人は侍女二人、侍従一人を伴って図書室に入った。昼でも薄暗い図書室の奥から司書がすっ飛んできて、山盛りの本を受け取ってくれる。本来であれば図書室の入退室名簿に記名が必要なところだが、少々ですから今回は構いませんよと司書はすぐに奥へ引っ込んでいった。

 ようやく空いた手をリンクは開いたり閉じたりしながら、すかさず書棚に近づこうとするゼルダに声をかける。

 

「実はダルケルからゼルダ様に、とある白い石について使い道があったら教えて欲しいと聞かれました」

「白い石? ですか?」

 

 聞きなれない言葉にゼルダは足を止めた。よし、とリンクは気付かれぬ程度に大股で彼女に近寄り、すでに書棚へと伸ばされていた手を横からすくいとった。

 ここで本の虫であるゼルダが書棚に張り付いてしまうと、出迎えに送れてしまうかもしれない。そのまま成り行きを装って図書室の出入り口の方へと誘導を始める。

 

「白い石の周囲では水晶が採れるらしいのですが、石自体はゴロン族の口には合わないらしくて、あのダルケルが不味いと言っていました」

「ゴロン族が食べないという点では宝石を思い出しますね。でも白い石にも様々な種類があるので、見て見ないことには何とも言えませんが……」

 

 小首をかしげたゼルダの頭の中には、白い鉱物が瞬時に何種類も思い浮かんだのだろう。自然と棚から引き離されていることに気付いた様子はなく、扉の外へと出ていた。

 ハッと振り返るも後の祭り、ゼルダは兵士が背後で閉めた扉の音で自らの居場所に気付いて足を止める。その場で「ああもう!」と小さく地団太を踏み、申し訳なさそうに苦笑いをするリンクを少し下からツンと睨んだ。

 

「してやられました……、読みたい本があったのに!」

「申し訳ありません、ですが遅れてしまうのでお許しを。白い石はダルケルから預かっています。後ほど見ていただけますか」

「もう、仕方がないですね。では部屋に届けてください」

 

 後でゼルダのところに例の石を届けて欲しいとリードに頼んで、リンクはゼルダと連れ立って正面口へと向かう廊下を行った。

 猶予の時はすでに終わった。気重はどう足掻いても来る。ならば腹をくくるしかあるまい、と息を整える。

 すでに正面玄関の扉は開け放たれて、先に行っていたカスイがインパと楽しそうに話をしていた。遠くからでも上ずるインパの声が聞こえてくる。

 

「……なので、城下町にできたお店に一緒に行ってみませんか? 今度の休みの日にでもどうでしょう?」

「いいよ、インパが行きたいなら行こうか」

「ほ、本当ですか!? 絶対、約束ですよ! 仕事と私なら私の方を優先してください!」

 

 どうやらインパの方が次の休みにカスイを城下に誘っている様子だが、当のカスイが「でも次の休みっていつだっけ」ととぼけた返事をしていた。その二人の様子を遠くから見て、ゼルダは「またやってる」と小さく微笑む。

 三か月ほど前だったか。ある日「朗報です!」と飛び込んできたインパが「彼氏が出来ました!」と報告したのは記憶に新しい。まさか、とリンクは相手にしていなかったが、続いて「どうも、彼氏です~」と自分の執政補佐官がひょっこり顔を出した時にはお茶を吹き出した。新手の漫才を疑ったほどだ。

 以来、リンクとゼルダ双方の補佐官同士、顔を合わせるたびにインパの顔がゆるむ。それが可笑しくて、こっちが笑いを堪えている始末だ。

 そのインパが気配を察して振り向く。大きく手を振ってニッコリと笑っていた。

 

「あ、姫様、リンク! 丁度良かった。もういらっしゃいますよ!」

 

 それからいくらも間を置かず、規則正しい蹄鉄の音が石畳の向こうから聞こえた。四頭立ての馬車が城門を抜けて入ってくる。

 自然と顔が強張るリンクの横で、止まった馬車にゼルダが歩み寄る。生唾を飲み込んで、その後ろに続いた。

 

――サイラン殿はローム陛下に頼まれて、猶子縁組を断れなかっただけだ。あの方に非はない。原因あるとしたら俺がたぶん、不甲斐ないだけだ。

 

 事実、リンクの猶子縁組は難航した。

 地位が低くとも貴族ならばまだどうにかなったのに、彼は後ろ盾も何もない平民だ。下手な貴族と縁組しては、王家の外戚をうたって政治に口出しするとも限らない。

 地位も身分もあり、忠誠心に厚く、しかし王家に介入をするような親類縁者もいない。そんな人物として唯一候補に挙がったのがサイランだった。

 彼は王家に長く近衛騎士として仕え、優れた剣の使い手としてロームの師でもある。妻との間に子はなく、相続人もおらず、二人が亡くなったら領地は王家直轄へ編入される予定になっていた。リンクの猶父に慣れるのは彼以外にいないとロームが頼み込めば、さすがの老騎士も断れなかったのだろう。

 その紋章付きの馬車の扉が開かれ、まず先に老夫人が姿を現した。馬車の乗り降りは主人が先だが、サイランが怪我して以来、この老夫妻は婦人の方が先を行く。

 ゼルダも分かっていて、ステップを降りて来る夫人に先に声をかけた。

 

「お久しぶりです、チガヤ様」

 

 よいしょっと声でもかけるように、小柄な老夫人が降りたった。人懐っこそうな笑みを浮かべ、チガヤはカーテシーもそこそこにゼルダの手を取った。

 

「まぁまぁ、ゼルダ姫様直々のお出迎え痛み入ります」

「遠路はるばるようこそいらっしゃいました」

「またお綺麗になられたかしら。お会い出来て嬉しいわ」

 

 ころころと鈴を転がすように笑うチガヤには、貴族女性特有のつんとした冷たい印象がない。リンクも彼女に対しては、一度会っただけで全く苦手意識は無くなっていた。

 延べられた手の甲に構えることなくキスをして、にこやかなチガヤに笑みを返すだけの余裕がある。

 

「ご無沙汰しております」

「リンク殿も一層立派になられて。五日後が楽しみだわ。ね、旦那様」

 

 と、チガヤが背後を振り仰ぐ。

 馬車のステップに足をかけ、一人の老人が降りて来るところだった。見た限りではかくしゃくとした様子だが、左の脚は動いていない。にもかかわらず、馬車の扉を開けた使用人の介添えをサイランは振り払った。

 その不安定な体勢のままステップを降りようとするも、身体が左に傾く。

 あっと、声が出る前にリンクは体が動く。

 一番近くにいた下男より早く走り込んで、半ば宙に浮いたサイランの身体に手を伸ばす。どっと音がして次の瞬間、なんとか転倒を免れたサイランが、リンクに寄りかかるようにして立っていた。

 

「大丈夫ですか」

 

 聞いてから、しまった、とリンクは奥歯を噛み締めた。

 自分が助けては、サイランの矜持を折ることになる。

 しかしながらリンク以外に、大柄なサイランを支えられる者はこの場にはいなかった。見かけは枯れ木のようだが、未だに鍛えているのか布越しに支えた右腕にはしっかりと筋肉の盛り上がりがあった。ただしステップから落ちようものなら、どんな怪我をするとも分からない。

 

――サイラン殿が怪我をされなかったからいいじゃないか。

 

 至極真っ当な感想を胸に抱きながら、しかし立ち上がったサイランを見ると苦々しい思いは消えない。

 

「……大事ない。すまぬ」

「こちらこそ差し出がましい真似をいたしました」

 

 引退したとはいえ、未だに圧迫感で息をするのも辛い。歴戦の騎士だけが纏う張り詰めた空気を、サイランは隠そうともしなかった。

 幾多の戦場を駆けた緋色の瞳が、遥か高見からリンクをねめつけていた。