エピローグ 表裏なす赤の秘密
すっかり午餐の準備が整った中庭に、昨日の嵐が吹き飛ぶような日差しが降り注ぐ。
ゼルダたっての希望で、本来は室内で執り行われる午餐は、城の中庭での立食式となっている。今回限りの異例の計らいだった。
先ほど式を挙げたばかりの王女夫妻には、ハイリア人貴族よりも中央ハイラル外からの招待客の方が多い。ハイリア人のしきたり雁字搦めの午餐より、気楽な方がよいだろうとの配慮だった。
結婚式自体は正午にハイラル大聖堂の方でつつがなく終え、会場となる中庭にちらほらと人が入ってきている。ゼルダはその様子を中庭近くの一室で、カーテンの隙間からそっと見守っていた。
「どうやら料理長は上手くやってくれたようですね」
「見えるのですか?」
「お料理までは見えませんが、反応が違いますもの!」
ゼルダが窓辺にかじりついているせいで、リンクには全く外が見えない。代わりに嬉しそうな後姿を見て、ハッとしてからスッと視線を逸らす。ただ次の瞬間にはやはり後ろ姿に目が行ってしまい、ムッとしながら親指で眉間をぐりぐりと押す……というのを何度も繰り返していた。
挙式の時のゼルダは、王家を象徴するロイヤルブルーのドレスに、無数のダイヤモンドを配したティアラという伝統的な出で立ちだった。全て古くから王家に伝わるものだという。
だが今は一転、薄絹を幾重にも重ねた純白のドレスを身にまとっており、裾には野の花々が金糸で縫い取られていた。まるで黄金の花畑だ。そこに金と赤のジュエリーが光る。
――確かに、合う。
今朝方ようやくティントが完成させたジュエリーは、式典用の重厚な白色金のティアラとは対照的で、金を主体とするとても繊細な意匠だった。それが羽のようなドレスの金刺繍と相まって、とても美しく見える。きっと中庭では強い日差しを受けてなお一層輝くことだろう。
通りでゼルダがこのパリュールを選んだわけだとリンクは納得しかけ、違うなと考えを新たにした。
――たぶん逆だ。お母上のパリュールを着けるために、このドレスをあつらえたのか。それは、その気持ちはよく分かるけど……。
似合うとは思いつつも、大きく背中が開いたドレスに年甲斐もなくあたふたする。自然とまっさらな背中を見てしまう自分に気が付いて、情けなさに天を仰いだ。
普段は一寸の隙も無く肌の見えないドレスが多いのに、なかなかどうして目のやり場に困る。露わになった背中を見て、目をそらし、また見て、そらしてを繰り返していた。
ところが当人は花婿の葛藤などつゆ知らず、結婚式当日の花嫁とは思えぬ野心に満ちた笑顔できゅっと拳を握りしめていた。
「ふふふ、目論見通りです。みんな白いチョコレートに釘付けになっていますよ!」
「白いチョコレート? 脱色でもしたのですか」
「いいえ、実はカカオの油分は他の油と同様、固まると白くなるのです!」
初夏の日差しにも負けないキラキラとした瞳が振り返った。挙式の時の緊張感はすでに欠片もなく、どちらかと言うと今は実験が成功した時の雰囲気に似ている。
ゼルダはようやく窓辺から離れて、天鵞絨のソファーに腰を落ち着けた。昨日の反動で筋肉痛らしい太ももを拳で軽く叩いてから、サイドテーブルのカップを一つリンクに差し出す。自分の分は手に取らず、今度は痛そうに顔をしかめながら二の腕をもみほぐし始めた。
「これは?」
「内緒。まずは味わってみてください」
渡されたカップの中身は、初めて見る飲み物だった。
とろりと茶色の飲み物で、匂いですぐにチョコレートの類であることは分かる。だが味わおうにもいかんせんまだ熱すぎて、リンクはふうふうと息を吹きかけた。飲む前から寒い季節の方が美味しく頂けそうだと、彼は濃い茶色の水面が揺れるのを見ていた。
「以前にもお話しましたが、チョコレートは簡単に言えば焙煎したカカオ豆をどろどろに潰したものに砂糖混ぜて固めたお菓子です。ただし単純に潰して固めればいいというわけではなく、カカオ豆の油分のみを後から添加させなければ本当に美味しくはなりません」
「その油分を別の安い油に置き換えたのが、ボレッセン子爵のお店の安いチョコレートでしたっけ」
「置き換えたというよりも、恐らくボレッセン殿はティントを通して得た情報からは、何の油を足すのか分からなかったのだと思います。そもそも彼はカカオの油分とそれ以外の成分を、分離する方法を知らなかったのではないでしょうか」
ボレッセンにチョコレートの製法を教えてしまったティントは、新しいネックレスの試着を見届けるや否や、倒れ込むように眠ってしまった。無事に大仕事を終え、今はウルボザが逗留する部屋でぐっすりと夢の中だ。
そのティントがお菓子に釣られ、知らず知らずボレッセンに漏洩していたチョコレートの製法は、いわば不完全なものだった。だが不完全ゆえに安く生産することを可能にしてしまい、競合どころか完全に客を奪うに至ったわけだ。
「つまり向こうにとっても予想外のラッキーだったと……」
「逆に私は、圧搾によって油分とそれ以外の物を分離できると気付いたので、カカオ油だけの白いチョコレートを作ることができました。これでボレッセン子爵のお店から客を取り返せること間違いなしです!」
チョコレートの茶色は、それはそれで可愛らしいものだ。だが案外お菓子としては扱いが難しく、例えば色を付けようとしても上手くいかない。何もかもがチョコレート色になってしまう。
しかし白いチョコレートならば、赤でも青でも黄色でも、どんな色でも付けることができよう。しかも黒っぽい茶よりも白の方が、令嬢たちには格段にウケがいい。
それをこの午餐で初めて世に出すことで、再びゼルダのチョコレート店は脚光を浴びるはずだ。ボレッセンへの返済に保険はあると言っていた言葉を思い出し、リンクは胸をなでおろす。
だた、この期に及んで生来の平民の性分が、ひょっこりと顔をのぞかせた。白いチョコレートを作るにあたって分離された油以外の成分の行方が、どうにも気にしてしまう。
「白いチョコレートを作ったあとの、油以外の成分はどうするんですか?」
まさか捨ててしまうのだろうか、それはちょっともったいないような。何かに使えないのだろうかと思いつつ、庶民のもったいない精神がゼルダの起死回生の一手を封じてしまうのもまた心苦しい。
そういった葛藤で考え込んでいると、ゼルダは見透かしたようにリンクの持っていた熱いカップを指さした。
「分離した他の成分で作った飲み物がこれです」
「これが?」
「ココアっていうんですって」
だいぶ冷めたそれに口をつけると、なるほど確かにチョコレート風ではあるが、チョコレートをそのまま溶かしたのとは少し違う風味がする。飲み物として売り出すとなればまた別の客層が付くことだろう。
ふんふんと感心しながらココアを飲んでいると、ゼルダは抑えるように笑って席を立つ。戻ってきた手に持っていたのは手鏡だ。鏡面をこちらに向けてくるので覗き込むと、口の周りには見事な茶色い髭ができていた。
「髭はまだちょっと……」
「要検討ですね。さてそろそろ参りましょうか」
ちゃんと口の周りを綺麗にしてから、連れ立って部屋を出る。光の射しこむ廊下を歩きながら、リンクは横目にゼルダの胸元を飾る宝石を見た。
今の今まで頑なに日の光を当てたところを見せてもらえなかった赤い宝石が、ゆっくりと表情を変えようとしている。恐らくリンクもよく知る色へ、あるいは彼女が最も愛する色へと変わる予感がした。
「これはアレキサンドライトと言う宝石で、蝋燭やランプの明かりのもとでは赤に、日の光のもとでは青や緑に輝く不思議な石なのですよ」
シークのものとはまるで違うゼルダのほっそりとした指先が、胸元を飾る赤い宝玉に触れる。次の瞬間、扉が開け放たれて真昼の光が差し込んだ。
赤が裏返るように、青に染まる。
それはまるで、金の枝茎に支えられた青い花だった。
「……姫しずかだ」
「これを見せたかったんです。随分遠回りになってしまいましたけど」
赤も十分に美しかったが、高い空のような色彩がゼルダにはよく似合う。
この色を自分より先にあのカスイが見たことは苦々しく思ったが、彼がうっかり『瑞々しい』と言ってしまった理由が分かるような気がした。これは確かに別格の美しさだった。
ところがゼルダはきゅっと目元を引き締めて、改めて青く輝く石を撫でた。
「それに赤と青の二色を持つこの石は、私は王家とシーカー族のように思えてならないのです。赤い瞳のシーカー族と、青い瞳の王家と、私たちはどちらも欠けてはならない裏表なのではないかと……。だからリンク、これから彼らを守っていくために力を貸してください」
あれからインパは少し眠ったあと、何事もなかったかのようにふるまった。目元が赤く腫れあがって声もかすれ、明らかな空元気だった。
それでもゼルダは何も言わずに彼女の手を取った。それがゼルダなりの答えなのだろう。彼女にとってインパはただのシーカー族ではなく、何にも代えがたい存在なのだ。
遠からずシーカー族が王家に使われるだけの時代は、緩やかに終わりを告げる。ゼルダが彼らに新しい生き方を与える時代が来る。それを受け入れられないカスイのような者が現れた時、盾となるべきは自分なのだと改めてリンクは昨日のことに思いを馳せた。
「もちろん、喜んで」
「ありがとう、頼りにしています」
「姫様」とユースラの声がかかった。まずはブーケを、招待客の女性に向けてトスするのだと聞いている。組んでいた腕を名残惜しくも解いて、リンクは彼女を送り出した。
ところがゼルダは並みいる女性たちを素通りして、端っこで小さくなっていた人の元へと駆け寄る。
「これは貴女に差し上げたいのですが、受け取ってもらえますか?」
白を基調とするブーケを、投げることもなくゼルダはインパに向かって差し出した。 会場からは羨望にも似た黄色い声が沸き上がる。花嫁の投げたブーケを取った女性は、次に結婚できるという謂れがあったからだ。
しかし驚いて目を見張った後、インパは弱弱しく頭を振った。
「私はもう、結婚なんて……」
事情を知らない者たちは、どうしてインパがブーケを受け取らないのか不思議そうに見つめている。一方で事情を知らされていたプルアやロベリーは、じっと二人のやりとりを見守っていた。
インパが逃げ出してしまうのではないかと、はらはらしながらリンクも見守る。すると業を煮やしたゼルダが「そういう意味ではありません」と叫んで、インパの両手にブーケを押し込んだ。
「彼はあんなことを言ったけれど、誰にだって幸せになる権利はあるはずです。私にも、インパにも。だから受け取ってほしいのです」
インパがハッと顔を上げた。赤い瞳にはまた涙が浮かんでいて、言葉が声にならなかった。
と、隣ですでにシャンパングラスを片手に持っていたプルアが、妹の脇腹めがけて容赦のない肘鉄砲を繰り出す。ゴフッとむせながらインパは一度うつむくと、青空に向かって高らかとブーケを掲げた。
「後悔しないでくださいよ、もしかしたら姫様より幸せになっちゃいますから!」
「あら、負けませんよインパ」
歓声と拍手とが初夏の日差しに沸き立つ。
手を取り合う主従の方へ、花嫁を迎えにリンクはゆっくりと一歩踏み出した。
了