「……リンク!」
少しでも狙いが狂えば、どちらかの指が落ちていた。しかしながら退魔の剣の主は、躊躇なく二人の人の間に剣もろ共に割って入った。
遠くに雷が落ちる音がして、雨は本降りになっていた。
「無事か」
手を引っ込めた反動で尻餅をついたインパを背後に庇い、リンクは見慣れた自分の執政補佐官を正面に見る。カスイは目を丸くして、辛うじて切り裂かれなかった自分の指を大事そうに撫でた。
「まさかご本人がいらっしゃるとは思わなかったなぁ」
剣を構えなおしたリンクに、カスイは武者震いを隠すように口元を手で覆う。指の隙間から見えた口元は、愉快そうに上がっていた。
突然のことに瞬きも忘れて座り込んでいたインパは、肩を持たれてハッと振り向く。見慣れぬ金髪のシーカー族に支えられていることに一瞬だけ驚き、すぐさまそれが誰なのかを理解した。必死の声でその人にすがる。
「姫様ぁ!」
「大丈夫ですかインパ」
長らく連れ添った主従だ。その二言だけで互いに状況を理解する。
ゼルダははらませた怒気を隠すことなく、リンクの肩越しに裏切り者を睨みつけた。その無言の圧力を面白がるようにカスイは小さく声を上げて笑ったが、多勢に無勢を認めて小太刀の鯉口を切る。ゆるりと斜に構えた。対峙するリンクに対しても背後のゼルダに対しても、寸分の隙も無い構えだった。
「ゼルダ姫様直々に裏切り者の粛清ですか。それとも今はシークとお呼びした方が?」
「お好きになさい。ですがインパは返して頂きますよ」
「やれやれ……他の男にとられまいと思ったことはあったけど、まさか女にとられるとは思わなかったな」
いつの間にかインパは雨でも分かるほど涙を流していて、カスイの手を取ろうとしていた手はシークの口から胸元を隠す白い布を握りしめていた。ゼルダもまた見せつけるようにインパの肩を抱き寄せると、輪をかけて剣呑な声を出す。
「カスイ、いえ、シチホと呼んだ方がよろしいでしょうか」
「それこそどちらでも」
「……どうして、シレネをそそのかしたのですか」
カスイはひくりと眉を動かす。ゼルダの問いが意外過ぎたのか、もしくは問われるまですっかりと忘れていたのか、どちらにしても意表を突いたことだけは確かだ。
ただ、その一瞬に取り押さえようかとリンクが踏み込む軸足に力を入れた途端、音を立てて小太刀の角度を変わった。その刹那のやり取りで彼の力量を知る。武芸に精通する相手ならば立ち居振る舞いを見ておおよその力量を推し量ることは、リンクにとってはそう難しいことではない。
だから彼の挙動に非常に驚いていた。カスイがこれほど手練れとは全く知らなかった。シーカー族の隠密の技能があることも知っていたし、彼を毎日見てきたにもかかわらずだ。
――技量すら隠していたのか。
日ごろの彼の姿は、本来の実力を十分の一も見せていなかった演技であることが分かり、本物の変装とはこういう事なのだろうと臍を噛む。真の変装は姿形よりも、もっと人の本質まで偽装できてしまうらしい。
ゼルダに頼まれた生け捕りは相当難しいことを察して、リンクは二人の会話を遮らぬように息を殺した。命の保証ができないなら、生きているうちにしゃべらせねばならない。
遠くで雷の落ちる音がして、はたと思い出したようにカスイは口を開いた。
「シレネ様とは互いに利害が一致しただけです」
「利害の一致?」
「僕は王家の誰かが苦しむ姿が見られればよかった。シレネ様はどんな手を使ってもゼルダ姫の純潔を守りたかった。目的は違えど利害は一致しておりました」
叩きつけるほど強くなった雨にも揺れることのないカスイの視線を認め、その言葉に偽りはないだろうとリンクは判じた。ただし、まったき正解でもないだろうと構えた剣はそのまま、睨みを利かせる。
ゼルダの静かな怒りはさらに膨れあがっていくのを、背中でひしひしと感じていた。
「だからシレネを煽ったのですか」
「少々手助けをしただけですよ。なんの鍛錬もしていないご令嬢が毒を盗み出したり、血まみれで誰にも見とがめられずに無事帰宅できるわけがありませんからねぇ。しかしまぁ、結局シレネ様もあなたと同じ一族の血だった」
「……と、言うと?」
「最後まで僕を、命令をよくきく人形と信じて疑いませんでした。口ではどう言おうとあなたもどうせ五十歩百歩。ならばインパは、同族として僕がもらい受けたい」
憐れみと、憎しみとがない交ぜになった笑みをカスイが浮かべた途端、インパがはじけ飛ぶよう駆けた。
先ほどまで泣き震えていた人とは思えない速さで小太刀の切っ先が翻り、反りのある刃が真正面からカスイを狙う。
「お断りです!」
言葉の通り、その一撃はあまりにも怒りに正直で、直線的な軌道が最初から透けて見えていた。ふっとカスイが鼻で笑ったのを見逃さなかったリンクは、慌てて左手で突進するインパを抱えるように止め、振りかぶったカスイの小太刀を右手の退魔の剣で受け止める。
雨に濡れた金属の刃同士が嫌な音を立てて嚙み合った。
「インパ、やめろ」
「止めないでくださいリンク! シーカー族の始末はシーカー族がつけねばなりません!!」
叫び声に呼ばれるように、先ほどよりも近くに落雷があった。容赦のない雷がダァンと地面を揺らし、一拍おいて樹が倒れる音がする。雨脚は一層強くなり、ただ愚直に前に突出しようとするインパの抑える手が滑る。左腕ではインパを抑え、右手一本でカスイの小太刀を受け続けるのは、さすがに無理があった。
足払いをかけ、宙に浮いたインパを背後に蹴る。そのまま前に向き直ると、上背のある体躯で押し切ろうとするカスイとようやく面と向かって、鍔迫り合いに持ち込んだ。背後を見る余裕はなく、カスイと向き合ったまま背後のインパに向けて怒鳴った。
「この件でゼルダ様が何よりも心配されたのは、インパが手を汚すことだ!」
ドっとぶつかる音と、シークの声色で何かに耐えるような声がした。おそらく蹴り飛ばしたインパを、ゼルダが抱き留めたのだろう。
申し訳ないとは思いつつ、リンクは雷雨にも負けぬ声で立て続けに言葉を放った。
「自分の主がどういう人か、一番よく知っているのはインパだろ!」
言ってからリンクは、自分の言葉にかすかな嫉妬が乗っていることに気づいて、心の内で舌打ちをした。
彼は誰よりもよくゼルダのことを知りたいと思っていたし、それが許される立場になることも約束されていた。それでもインパには、時間という意味では勝ち目がない。彼女はゼルダが幼い頃から仕え、苦楽を共にし、あの戦を戦い抜いたのだから当然と言えば当然。厄災との戦いの初めに出会ったリンクとは、付き合いの年数からしてまったく勝負にならない。
だからゼルダが何よりもインパのことを大事に思っていることをインパ自身が理解していないことに、これほどまでに腹が立つ。ゼルダがシーカー族の面々に対して心を砕いている理由を、怒りで忘れかけているインパに怒りさえ覚える。
何のために若いシーカー族の娘にわざわざ読み書きを教えて店番を任せたのか。何のために老シーカー族に司書の仕事を斡旋したのか。分からぬインパではないはずだ。
ふっと熱くなった腹から息を吐きだし、一思いに剣を押し返す。たたらを踏んだカスイを睨みつけると、彼は憐れみを含んだ何とも言えない表情でこちらを見ていた。
「一族内での粛清は常なるものです。リンク様、あなたのその人の好さは、王家とは相容れないと思いますよ」
だから何だと問う前に、流れるようにクナイが二本飛んできた。
軌道は鋭いがあまり殺意のない飛び道具の攻撃。難なくそれらを剣で弾くと、間髪入れずにリンクは地面を蹴る。カスイの左脇腹目掛けて打ち込んだ。
「俺のことはいまだに様と呼ぶのですね。カスイさんは」
剣は小太刀に阻まれて、身体にかすりもしない。それでもいいと高をくくりながら、リンクは流れるように剣を振い続けた。
カスイはすでに宝石を割り、そのことを喧伝するための噂話まで流している。そのうえでインパから同意も得られず、犯人だとばれてしまった以上、彼にはもはや逃走以外の選択肢はない。
だから逃げ足を封じるために、慣れない口を動かしながら間断なく剣を繰り出す。
「リンク様のことは案外気に入っているんです。それに個人的には何の恨みもありませんしね」
「そうは言うが、あなたは欲をかいた」
こういうやり取りはいまだ慣れない。しかしこうして話を長引かせ、逃げる隙を与えないように刃で逃げ道を封じていれば、異変に気付いた騎士たちが捕縛に駆けつけてくれるはず。
そのことに一縷の望みを賭けながら、ここへ至るきっかけとなった真っ赤な宝石の無残に割られた姿を思い出していた。
「俺が宝石を割ったと嘘の噂をばらまいたでしょう。あれが無ければ、ゼルダ様だって推理の足がかりにはならなかったのに」
「ああ、確かにそうかもしれませんねぇ」
カスイの方もリンクに殺意がないことを分かっているのか、渋く笑って応じながら剣をいなしていた。互いに決め手を欠いた剣戟が何合も続く。
逃げに転じようとすれば足を叩き折るほどの斬撃でそれを阻み、しかし殺さぬように身の際を削ぐような一撃を繰り出す。かと思えばカスイの方も死角から的確に喉笛を狙ってクナイを放ち、逃げる隙を作ろうと様子を見ている。
一進一退の攻防というより、まるで曲芸のようだ。顔をしかめながら二人は豪雨にけぶる森林公園を縦横無尽に駆けた。
「どうしてそんな悪手を働いたのです?」
「うーん、結婚当初から姫のご夫君に窃盗の疑いなどかかれば、貴族たちには良い笑いものになるでしょう? しかし本当はあの老騎士に言い触らしてもらうつもりだったのですがだんまりで……しびれを切らして自分で噂を流してしまいましたねぇ」
「なるほど、それで洗濯女たちの噂が矛盾していたと」
「サイラン様はあれほどリンク様を嫌っておいでなのに、いやはや予想外でした」
じくり、と胸に差し込むような痛みがあった。サイランのことだけは突かれると胸が痛むのだ。どうしてなかなか、猶父サイランとの関係だけは上手くいかない。どれほど努力しても認めてもらえない。
それが狙いだったのかと気づいた時には半歩足がもつれ、カスイはそれを見逃さずに体を翻したところだった。
逃げられる。
ここまでつなぎ止めたのに、ゼルダの苦々しい顔を見たいだけの厄介な復讐者が逃げてしまう。自分の心が制御できないばっかりに。
無理にでも体を前に押し出して、逃げに転じたカスイに追いつこうとした。いっそ生け捕りを諦めようかと、柄を握る手に力を込めた時だ。
「カスイ、やはり貴方は人を見ていない」
ともすれば冷徹にも聞こえたその言葉に、今まさに逃げようとしていた彼の脚が止まった。
雨と泥にまみれたゼルダが、インパの手首を握りしめ、挑むように立っていた。
「なんだって?」
「お相手のことを人としては認識しているのでしょう。しかし貴方は、その個人がどういう方であるかを理解しようとしているわけではない、例えるのなら人形のように見ているのではありませんか」
「は……?」
「そうでもなければ、今の言葉は出てこないはずです」
どういう意味なのか、リンクは図りかねた。ゼルダの言わんとしていることの半分しか分からない。
分からなかったが、その言葉はカスイには覿面だった。
どこまでも冷静を保っていた仮面がついに剥がれ落ちる。カスイは怒りに口を歪めて、猛然とゼルダに向かって吠えた。
「王家の者がそれを言うか!」
その叫びが天を突いた瞬間、爆音とともにあたりが真昼のように白く光った。
とっさにリンクはゼルダとインパを抱えて地に伏せる。それからインパの小太刀を遠くに投げ捨て、退魔の剣を背の鞘に戻した。
落雷だ。
光と音と衝撃とが同時に襲い来る。雷を呼び寄せたのは、皮肉にもカスイの小太刀だった。
「カスイは!?」
濡れた石畳に這いつくばったインパが、悲鳴にも似た声を上げる。
だが目の前に彼の姿はなく、あったのは雷が穿った大きな穴だった。
「なん、だ……この、穴は……!」
落雷の寸前に自分の小太刀を放り出したのか、カスイ自身は無事だった。しかし雷が地面を叩いた地面は大きく砕け、大穴が空いている。その縁に指先をかけ、彼はぶらりと宙に浮いていた。どうやら地面の下に空洞があって、落雷でその天井部分が砕け落ちたようだった。
とはいえ、さっさと上がってくればよいものを、カスイは唸るだけで一向に這い上がろうとしない。それどころか手に力が入らないのか、ずるりと落ちそうになっていた。
これならば一人でも捕縛できようかとリンクは大穴に近づいて、ところがその穴から噴き出る赤黒いものを見て腕で顔を覆った。同じく駆け寄ったゼルダも穴から湧き上がる気配に、二年前に対峙した者を思い出したようで胸元を掻き寄せる。
「瘴気が……!」
穴は優に馬が一頭丸々入るほどの直径があり、底まで見通せないほど暗くて深い。何よりも凶悪な赤黒い瘴気がもうもうと湧きあがり、その穴の縁に手をかけたカスイの体を容赦なく蝕んでいた。
見た目にも肌が黒くただれ始め、早く手当をしなければ手遅れになるのは明らかだ。
その彼の目の前にゼルダが立つ。
右の手の甲には黄金に輝く聖三角形があった。
「私は全ての民に慕われようなどとおこがましいことは思いません。そして王家が貴方たちシーカー族にこれまで報いてこなかったことも、私は認めます。でも私が全ての民のために執政を行うのは嘘偽りではありません、……そして貴方もまた民の一人です」
差し伸べられた右手は、瘴気を吹き飛ばすように柔らかく輝く。
「私は貴方を許します。だからカスイ、貴方にも人として償いをして欲しいと願います」
都合が悪くなれば切り捨てられる隠密ではなく、まっとうな一人の人間として。良いことも悪いことも全て抱えて生きてほしい。インパとともに生きてほしい。
言外に滲む慈愛に気づかない方が難しい。姫巫女の手は癒しの手であり、同時に救いの手でもあった。取りさえすえればカスイは助かる。
ところが彼は、ハッとあざけるような笑いを吐き出した。
「ならば苦しみながら王族としての生を全うしてくれ。僕の幸福はそういうことだから」
穴の縁に辛うじてかかっていた手を彼は自ら離した。決してずり落ちたのではない。
ゼルダの救いも許しも癒しもすべてを断って、彼は進んで怨念沸き立つ大穴で落ちていった。
インパが力なくその場に崩れ落ちる。
「ハイラル王家の姫が、幸せになれると思うなよ」
吹き上がる怨念に乗って、暗い穴の奥深くから声が響いた。
割れた宝石は直らない。もはや全てが後の祭り。それが分かっているからこそ、彼は自ら落ちたのだろう。
弱くなる兆しの見えない雷雨を見上げ、リンクは苦々しく顔を歪めた。