表裏なす赤の秘密 - 20/24

 

 初夏の日差しがふと陰り、インパが見上げると太陽に雲がかかったところだった。青々と茂る森林公園の木々の枝を見上げてゆっくりと歩いていた彼女は、すぐまた顔を出した太陽に目を細める。

 シーカー族には、一族の者にしか分からない符牒がある。それは枝葉の折れ方、弦の巻き方縛り方、あるいは弦の隙間に挟んだ草の種類等、一見すると普通の人には何とは分からない。

 隠密たちは時に、顔や名前や年齢性別を偽って市井に溶け込んで情報を得る。連絡を取り合おうにも顔を突き合わせることすら難しい場合も多いため、こうして符牒を残しておく。そういった場所がハイラルにはいくつもあって、特に中央ハイラルではこの森林公園が符牒の集積地として利用されていた。

 

「お目当てはあったかい?」

「残念ながら無いですね」

 

 同じくカスイも梢を見上げて、公園に散歩をしに来た人を装いながら、誰かが何か残していないか見ていた。その横顔を眺めつつ、インパは周囲の気配を探る。

 国を挙げての結婚式を明日に控え、森林公園へ遊びに来ている者はいつもより少ない。その人出は公園の端へ近づくにつれてさらにまばらになり、ある所まで来ると二人以外は人の気配が無くなった。

 聞こえるのは葉先が風に揺られてこすれる音と、鳥や虫の鳴き声ばかり。もう少し西へ行けば、ぐるりと城を囲む外堀が見え、水の音も聞こえてくる。

 再び日が陰る。今度こそ分厚い雲の向こう側に太陽が隠れてしまったところで、インパはゆっくりと森林浴でもするように大きく息を吸って、吐いた。

 

「どうして盗んだりしたんですか」

 

 問いと呼ぶのは難しいほど断定的な口調で、インパは隣の人物の顔を見ることもなく言い放った。

 問われたカスイはふむと独り言ちたあと、彼女と同じように一度深呼吸をした。

 

「なんのことだろう、と答えるのはちょっと不誠実かな」

 

 その言葉をきっかけに二人はようやく目を合わせ、互いにどういう顔をしているのかを知る。

 インパは赤い瞳を苦々しく歪め、カスイは申し訳なさそうに苦笑していた。

 

「胡麻化さなくても結構です。だってカスイ、あなたが宝石を見たのは陛下と共に宝物庫から図書室の書斎へパリュールの箱を移したあの一回だけのはず。しかしあの時、姫様のパリュールは燭台の火のもとで赤く輝いていました。それを瑞々しい・・・・とは言わないでしょう」

 

 つい先ほど、ゼルダから件の宝石が割れて見つかったという知らせを聞いた時、インパは代わりの宝石の有無ついて口走った。あんなに立派なパリュールは他にはない。それと遜色のない装飾品があるのかどうか、と。

 するとカスイは『あんな瑞々しい色の石が二つあるとは思えない』と言ったのだ。

 『綺麗な宝石』ならば何も思わなかっただろうが、さすがに赤い宝石を瑞々しいとは表現することはない。

 ただし例のパリュールに使われている宝石には、ある状況下でだけ瑞々しく見える瞬間があった。

 

「あの宝石が瑞々しく輝くのは日の光に当たった時だけ。つまりあなたは、日の光の下であの宝石を見たことがある、ってことでしょう」

「そうだった。うっかりしてたなぁ」

 

 カスイは少し遅刻した時とさして変わらない軽薄そうな顔をして、カリカリと頭を掻く。その口から否定の言葉が発されることはなかった。「犯人ではないよ」の一言が欲しいインパの希望的観測は、ことごとく打ち砕かれた。

 ざぁっと、一陣の風が二人の間を駆け抜けていく。とても生ぬるく、雨を呼び込むような風だった。

 

「自首してください。姫様ならきっと許してくださいます!」

 

 それで首を縦に振るのなら、今すぐ取って返して、共に頭を下げる。

 そのつもりで言ったインパの目には、無情にも首を横に振るカスイの姿が映っていた。

 

「申し訳ないけど君の姫様が僕を許しても、僕は絶対に許せないから、それはお断りだ

「どうしてですか!」

 

 食らいつくように踏みこむインパから、カスイは音もなく二歩遠ざかる。

 彼はいつも通りの穏やかな口調で、一見すると普段と変わらない柔和な顔をしていた。だがまるで笑っていない目に、インパは悔しそうに拳を握る。

 

「王家があの宝石を手に入れるために、父に何人暗殺させたと思う? 百歩譲って罪のなき者の暗殺が隠密の仕事だったとしても、命じた王家の人間は父が病に倒れても何の手も差し伸べずに見殺しだよ。ひどいと思わないかい」

「でもそれはあの姫様ではないでしょう! ただの八つ当たりではありませんか!」

「そう、これは王家へ八つ当たりだ。王家を代表してお優しいゼルダ姫に、僕の八つ当たりを受け止めてもらおうということなんだ」

 

 カスイが屈託のない笑みを見せる。その笑みがインパには手遅れに見えた。

 掛ける言葉を見失い、わなわなと震える手を止めることが出来ない。そんなインパを寂しそうに一笑すると、カスイはぷいと顔をそむけた。

 

「本当は王家なんか転覆させてしまいたかったんだけどね。厄災との戦を経て、封印の姫巫女の価値がずいぶんと変わってしまって、それも難しくなってしまった」

 

 はぁ~と仕事疲れのようなため息を吐きながら、すっかり曇天になった空模様をカスイは見上げる。残念そうに言い放ったそれは一年前、まさにゼルダが連続殺人事件に巻き込まれた際に、多大な影響を及ぼした新たなハイラルの秩序だった。

 ハイラルの歴史とは厄災との戦いの歴史。

 人の手ではどうにもならない厄災を封じられるのは、封印の姫巫女と退魔の騎士をおいて他にはない。――だからハイラル王家を存続させねばならない。姫巫女の血筋を絶やしたら、危うくなるのは自分たちの子孫だからだ。

 利害にうるさい貴族から民の末端に至るまで、その不文律は無意識のうちに広く浸透していった。

 

「だから姫様お一人が苦しむ八つ当たりにしたということですか……?」

「王家を断絶させて後世の人々に恨まれるのは、さすがに嫌だよ」

 

 王家には復讐したいと言いながら、大勢の人が苦しむのが嫌という。その支離滅裂な感覚がまるで理解できず、インパは戦いなどとは別種の恐怖を覚えていた。

 人の言葉を話してはいるものの、話が通じるようには思えない。しかもついさっきまで最も信頼できる味方の一人だと思っていた人物なのだから、恐怖もひとしおだ。

 そんな思いを知ってか知らずか、なおもカスイは鋭い言葉を続ける。

 

「姫巫女の殺害は駄目、したがって王家の転覆は不可能だ。政略結婚で苦しんでくれればまだ溜飲が下がったのに、蓋を開けてみたらどうだい。論功行賞とは名ばかりの恋愛結婚だろう? どうして僕らシーカー族は王家に仕えて辛酸を嘗めさせられているのに、当の王家の姫が幸せになれるんだろうと不思議に思うのは罪だろうか?」

「カスイ、いい加減にしてください!」

「ねぇインパ。あいつらは、僕たちシーカー族の献身の上に胡坐をかいているとは思わないかい。君の知り合いだって今まで幾人犠牲になった? 君はそれでも諸手を挙げてあの姫を祝福するのかい?」

 

 決して誰かを責めたり、押しつけるような感情的な言葉ではない。言葉の端々にはどこか悲しい響きがあって、彼自身も心底不思議に思っているのが手に取るように分かった。

 そしてなによりインパには、カスイの言葉を否定する材料がとっさに思い浮かばなかった。

 代わりに頭に浮かんだのは、隠密という立場上、人知れずその命を散らした面々だ。最近では非道な命令が発されることは無かったが、半世紀も遡れば容易に王家による暴虐の痕跡を見つけることができる。シーカー族を同じ人と考えることもなく、ただ王家につき従う使い勝手の良い道具として扱われてきた時代があった。口には出さずともシーカー族なら誰でも知っていることだ。

 その疑問をついに言葉にし、行動に起こしてしまったのがカスイだったというだけの話。

 ところが思ったよりもその疑問は、醜悪で攻撃的な形を成してインパの鼓膜を揺らす。

 

「王家を途絶えさせることが出来ないのなら、せめて最も苦しむことが何か考えるしかない。だったらどんな煮え湯を飲んでもらおうか、とびっきり趣向を凝らすぐらいしか僕に出来ることはないと思ったんだ」

「その趣向を凝らした結果が宝石の窃盗ですか!」

「違うよ。本当はリンク様に死んでもらうのが一番よかったんだ」

 

 唐突に出てきた人名と、あまりにも直截な表現に息を飲む。

 カスイはあえて続きを言わずに口を閉じ、ちらとインパの顔色を窺った。その顔には「君ならこの意味、十分に分かるだろう」と書かれていた。

 ゼルダと同じく、大事な人を持つ身として、その人の死がどれほどの影響力を持つのかインパは今では十分に理解できてしまう。奇しくもいま目の前のその人が、ゼルダにとってのリンクと同様の人だった。

 

「だが退魔の騎士相手に暗殺は事実上不可能に近い。毒殺も君のお姉さんのおかげで相当難しくなってしまったしねぇ」

 

 あっけらかんと話をしてはいたが、真面目に方法を検討したのは一度や二度ではないのだろう。うーんと首をかしげているあたり、もし可能な手段を見つけしたら今からでも行動を起こすような気配すらあった。

 だが現実問題として、いまや正々堂々の勝負でリンクを負かせる相手はいない。加えて普通の人には見えぬ精霊たちも味方して、不意打ちもとても難易度が高い。さらには昨年の連続殺人事件で毒が使われたことを重く見たロームが、プルアに解毒剤や毒慣らしの薬のさらなる改造を命じたところだ。

 退魔の騎士と封印の姫巫女を害することは、いまだかつてないほど難しくなっている。

 だとしたらあとは心を殺すしかない。

 

「リンクを殺すことで姫様を苦しめられないから、宝石を盗んだ……?」

 

 信じられない顔でインパが絞り出した解答に、カスイは穏やかに首肯した。

 

「積極的に担保のパリュールをせしめようと、ボレッセン子爵がゼルダ姫の収入源であるチョコレート店の妨害をしている情報は僕のところで止めておいたんだ。その状態で担保の損失という追い打ちをかければ、姫君が政治的な苦杯を喫するのは想像に難くないからね」

「担保の不備による子爵への返済のために姫様が別の方から更なる借財をし、その見返りに王家への介入を許さざるを得ない状況を作るため?」

「愛している人が目の前にいるのに他の人間を受け入れねばならないとなった時、高潔な姫君の顔がどう歪むのか見たかった、というところかな。分不相応な恋愛結婚を望む姫君に、政略的な男妾なんてまさにぴったりじゃないか」

 

 まるで法外な幸せを望んだゼルダが悪いとでも言いたげに彼は肩をすくめる。

 瞬間、インパは小太刀の柄に手をかけた。幼い頃から仕込まれた通り、滑らかに鞘から刃を抜き放つ。本当は抜くと同時に切りかかろうとしていた。

 だが動けなかった。

 抜いた小太刀は体の正面で低く構え、カタカタと震えるだけ。これではカスイを捕らえることはおろか、脅すことすらままならない。辛うじて身を守るための威嚇にしかならなかった。

 そんな様子を気にすることもなく、今度は彼の方が腕を開いてインパに一歩近づく。その頬にぽつりと最初の雨粒が当たって弾けた。

 

「さて、手の内はこれでだいたい明かしたよ。だからインパ、僕と一緒に来てくれないかい」

 

 何を言っているのか、言葉が理解に至る前に滑って消えた。ぱらぱらと木の葉を打ち始めた軽やかな雨音が、まさか聞き間違いをさせるわけもない。

 我が耳を疑うようにインパは目を見開く。

 

「何を、言って……?」

「一緒に逃げてくれないかい。確かに僕はイーガ団だったこともあるし、今だって王家を欺いて暗躍していた嘘だらけの人間だ。でもインパを思う気持ちまで嘘とは言わない。……君は僕の大事な人だ」

 

 だから言い繕うこともなく話をしたのかと、今更気づいて背が粟立つ。

 観念したから話をしたのではない。話をしたのだから手を取れという。

 見逃すでもなく、命のやり取りをするでもなく、仲間になれとはこれ如何に。ふざけるなと怒鳴る声は、残念ながら空回りしてうまく言葉にならなかった。

 断ったらどうなるのかは分からなかったが、少なくとも取り付く島もない相手とは思われていないのが悔しい。その的確な信頼がインパの心を削り、答えに窮したまま硬直する。

 そこへまた一歩、カスイは歩み寄りながら、「それに」と付け加える。

 

「もしインパが一緒に逃げてくれたら、今の・・ゼルダ姫を標的にするのはやめるよ」

 

 それはあまりにも致命的な追い打ちであった。

 その言葉の意味するところを理解しても、オウム返しに聞いてしまう。

 

「私があなたと一緒に行けば、姫様からは手を引いてくれるのですか……?」

「苦しむ顔が見られるのなら、正直王家の誰だっていいんだ。幸いにして僕たちシーカー族の命はハイリア人のそれよりもずいぶんと長い。機会はこののち、いくらでもあるだろうからね」

 

 『ゼルダ』は王家の慣習に従って付けられる名前のため、ハイラル王国にはゼルダと名の付く姫が過去にも大勢いた。そして王家が続く限り、これからもゼルダという姫は数多生まれてくることだろう。

 裏を返せば、いかに王家に仕えるインパでも、全てのゼルダ姫に同等の思い入れがあるわけではない。敬愛するのはあのゼルダ姫ただ一人。標的が彼女であるのだからこれほどに苦しい思いをするのであって、顔も知らぬ王家の何某の苦しむ姿は、想像は出来ても苦しみは比較できないほどに小さい。

 目の前の彼の手を取ることで、ゼルダもカスイも両方とも守れるのなら。

 あるいはこれが、今のインパにできる最上の奉公の形だとしたら。

 

「その約束、本当に守ってくれますか」

 

 だめ、とゼルダならば当然叫ぶであろう。

 だがそのゼルダを守るためと自分に言い聞かせれば、勇気を出すことはやぶさかではなかった。

 

「ほかならぬインパの願いなら」

 

 淀みない答えを得て、インパは雨に濡れた指を伸ばす。

 彼の手を取れば、ゼルダとは今生の別れとなるだろう。裏切り者と添い遂げる選択をすれば、王女の近くに侍ることなど許されない。

 唯一の主と認めた翡翠の瞳を思い出し、インパは申し訳ありませんと心の中で何度も唱える。

 

 その触れる寸前の指と指、紙一重の隙間を青い刃が切り裂いた。